板東俘虜収容所のドイツ語学・文学・文化論
高橋 輝和
(岡山大学)
板東俘虜収容所における文化・教養・娯楽活動としては,まず第1にべートーヴェンの「第9交響曲」の日本初演(1918年6月1日)を始めとする多数の演奏会・音楽会が有名であるが,文学作品の演劇もかなり頻繁に開催されている。収容所新聞Die Baracke. Zeitung für das Kriegsgefangenenlager Bando, Japan『ディ・バラッケ』(注1)所収の「収容所日誌」等から上演記録を抜き出すと次の通りである。 この中にはカルデロン(スペイン),シェークスピア(イギリス),イプセン(ノルウェー)のようなドイツ語圏外の劇作家の作品も含まれている。
1917年6月3日:ヘルマン・ズーダーマン作 『名誉』(1890年)のホルトカンプ組
(海軍砲兵大隊)による初演,後日再演
7月10日:シラー作 『群盗』(1781年)の第6中隊による野外公演
8月25日:ルートヴィヒ・アンツェングルーバー作 『良心の呵責』(喜劇1874
年)のブランダウ組(海軍砲兵大隊)による初演,後日2回上演
10月17日:グスタフ・フライターク作 『新聞記者』(喜劇1854年)のヴェ
ルター組による初演,後日3回上演
11月6日:レッシング作『ミンナ・ フォン・バルンヘルム』(喜劇1767年)
のバルクホールン=ピーツカー組(第6中隊)による初演,後日3
回上演
11月18日:シラー作詩(1799年),ロンベルク作曲 『鐘の歌』のヤンセン伍
長指揮合唱団による公演
12月12日:カルル・ラウフス作 『民宿シェラー』(笑劇1890年)のホルト
カンプ組による初演,後日3回上演
12月27日:ハンス・ザックス(『悪い煙』1551年,『阿呆の切開手術』1536
年)の夕べ
12月29日:ゲーテ作『ゲッツ・フォン・ベルヒリンゲン』(1773年)の夕べ
(数場面のみ)
1918年1月12日:フェルディナント・ボン作『シャーロック・ホームズ』(喜劇1906
年)の初演,後日3回上演
2月16日:エルンスト・フォン・ヴィルデンブルッフ作 『ラーベンシュタイ
ンの女』(1907年)のゴルトシュミット予備役副曹長演出による
初演,後日3回上演
2月23日:アンドレーアス・グリューフィウス作『ペーター・スクヴェンツ』
(喜劇1648年頃)の夕べ,後日2回上演
4月4日:クライスト作 『こわれ甕』(喜劇1811年)のブランダウ海軍主計
少尉補演出による初演,後日2回上演
4月22日:フランツ・フォン・ポッチ作『野蛮人の中のカスペルル』(喜劇
1909年)とハンス・ザックス作『悪魔が老婆を妻にした』(1557
年)のレッチュ2等海兵演出による人形劇,後日3回上演
5月4日:シラー作 『ヴァレンンシュタインの陣営』(1793年)の第5中隊
と海軍工兵中隊による初演,後日2回上演
5月22日:カルデロン作 『人生は夢』(1636年)の第 6中隊演劇組による
初演,後日3回上演
6月25日:シェークスピア作 『じゃじゃ馬ならし』(喜劇1594年)のヤー
コプ2等海兵演出(第2中隊と第4中隊)による初演,後日2回
上演
10月23日:ヴィルヘルム・マイヤー=フェルスター作『アルトハイデルベルク』
(1903年)のヴンダーリヒ副曹長演出による初演,後日4回上演
12月19日:ハンス・ザックス(『熱い鉄』1551年,『オイレンシュピーゲル
と盲人達』1553年)の夕べの第6中隊による初演,後日再演
1919年1月5日:カルル・レスラー作『2頭のアザラシ』(喜劇1917年)のゴルトシ
ュミット副曹長演出による初演,後日2回上演
2月18日:ゲーテ作『エグモント』(悲劇1788年)のピーツカー2等海兵演出
による初演,後日3回上演
3月18日:オスカル・ブルーメンタール/グスタフ・カーデルブルク作『白馬
亭にて』(喜劇1898年)のシュテーン伍長演出による初演,後日3
回上演
5月20日:人形劇『ファウスト博士』(17世紀)のレッチュとゲシュケ演出に
よる初演,後日複数回上演
6月28日:イプセン作『社会の支柱』(1877年)のゴルトシュミット副曹長演
出による初演,後日3回上演
12月22日:カルル・ベーア作 『第6中隊の過ぎ去りし日々の影絵もしくは不治
の鉄条網病患者の頭の閃き』を第3海兵大隊第6中隊のお別れ会に
おいて公演
最後に挙げたカルル・ベーアは板東に収容されていた俘虜であり,彼の脚本は故冨田弘氏の和訳原稿と共に鳴門市ドイツ館に残されている。彼は,懸賞作文に入賞したり,詩作品を残したりしている(後述)ことから分かるように,文才・詩才に恵まれていたようである。
上述の各種公演に際しては『ディ・バラッケ』に解説や批評が掲載されている。
1巻2号(1917年10月7日)『新聞記者』の公演に寄せて(筆者S.)
4号(10月21日)グスタフ・フライターク作『新聞記者』(筆者P. Sq.=ボー
ナー)
8号(11月18日)『ミンナ・フォン・バルンヘルム』の公演に寄せて(筆者
A.T.B.)
13号(12月23日)『民宿シェラー』(筆者n.n.)
16号(1918年1月13日)17年12月27日のハンス・ザックスの夕べと17年12
月29日の『ゲッツ・ヴォン・ベルヒリンゲン』の夕べ(筆
者H.W.)
17号(1月20日)『シュロームズ』(=『シャーロック・ホームズ』)(筆者
H.E.)
22号(2月24日)『ラーベンシュタインの女』(筆者S.)
23号(3月18日)『ペーター・スクヴェンツ』(筆者A.T.B.)
2巻1号(3月31日)『こわれ甕』(筆者A.T.B.)
2号(4月7日)『こわれ甕』の公演に寄せて(筆者M.)
4号(4月21日)人形劇場(筆者Ldt.)
5号(4月28日)板東人形劇(筆者M.)
6号(5月5日)『ヴァレンシュタインの陣営』(筆者A.T.B.)
7号(5月12日)『ヴァレンシュタインの陣営』の公演に寄せるプロローグ(筆
者P. Squ.)
8号(5月19日)カルデロン作『人生は夢』(筆者P. Squ.=ボーナー)
9号(5月26日)カルデロン作『人生は夢』の公演に寄せて(筆者g.)
14号(6月30日)シェークスピア作『じゃじゃ馬ならし』の公演に寄せて(筆者
A.T.B.)
3巻4号(1918年10月27日)『アルトハイデルベルク』の公演に寄せて(筆者g.)
12号(12月22日)ハンス・ザックスの夕べの公演に寄せて(筆者z.)
15号(1919年1月12日)『2頭のアザラシ』公演に寄せて(筆者k.)
19号(2月9日)『エグモント』の近日公演に寄せて(筆者A.T.B.)
21号(2月23日)『エグモント』の公演に寄せて(筆者M.)
25号(3月23日)『白馬亭にて』の公演に寄せて(筆者H.E.)
4巻5月号(1919年)人形劇『ファウスト博士』(筆者S.)
7月号(1919年)『社会の支柱』の公演に寄せて(筆者S.)
筆者のS.とは予備役少尉のフリードリヒ・ゾルガーであると思われる。『板東俘虜収容所案内書』(1918年)の中の演劇の項目には「上演,公演計画はすべて(ゾルガー)少尉に申し入れること」とある(冨田1991, 31ページ)。
演劇と並行して,ドイツ文学とドイツ文化に関する講演会も開催されている。1917年12月1日から始まったヘルマン・ボーナー2等海兵(後に大阪外国語大学教授)による連続講演「ドイツの歴史と芸術」の内でドイツ文学・文化史に関するものを挙げると次のようであるが,1918年5月1日と5月18日の講演以外は内容が不明である。
1917年11月10日:『鐘の歌』について(連続講演の先駆け)
12月27日:ハンス・ザックスの夕べ
12月29日:『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の数場面
1918年2月23日:『ペーター・スクヴェンツ』の夕べ
3月2日:愚者文芸,1525年(農民戦争)
3月9日:宮廷的学識時代の詩と反証
3月13日:デ・コスター,ウーレンシュピーゲル(1)
3月16日:デ・コスター,ウーレンシュピーゲル(2)
3月27日:諸芸術における輪郭
3月30日:バッハ,ヘンデル
4月10日:啓蒙主義の考察
4月13日:シェークスピアについて(1)
4月17日:J. S. バッハのブランデンブルク協奏曲第3番ト短調
4月20日:シェークスピアについて(2)
4月27日:シェークスピアについて(3)
5月1日:『ヴァレンシュタインの陣営』の公演に寄せるプロローグ
5月8日:シェークスピアについて(4)
5月11日:シェークスピアについて(5)
5月18日:カルデロン作『人生は夢』について
シェークスピアについては5回も講演されているが,もちろん彼の作品はドイツ文学ではない。またカルデロンもドイツの劇作家ではなく,スペイン人である。しかし両者は19世紀初頭から優れたドイツ語訳によってドイツの文学作品のように親しまれていたものであった。
さらにドイツ文学・文化史に関する講演は1918年1月6日から始まった,既述のフリードリヒ・ゾルガー少尉(元北京帝国大学教授,後にベルリーン大学教授)(注2)による連続講演「郷土研究」の中でも行われているが,これも内容は不明である。
1919年4月6日:ニーベルンゲンからファウストへ
5月11日:コペルニクスからカントまで
7月13日:祖国についてのフィヒテの教説
7月20日:フィヒテからニーチェへ
8月10日:ロマン主義から自然主義へ
創作活動としては,ゾルガーもその一員であった『ディ・バラッケ』の編集部が1917年のクリスマス用に「故郷」というテーマで懸賞作文の募集を行っている。これには12編の応募があり,次のように表彰された6編の内の5編が『ディ・バラッケ』に掲載されている。この中の2編は低地ドイツ語の作品である。
1等賞:ベーア2等海兵
Onkel Gustav「グスタフ叔父さん」(1巻13号)
Was mein einst war「かつて僕のものだった故郷」(1巻14号)
2等賞:オイヒラー予備副曹長
Spätherbst「晩秋」(1巻13号)
3等賞:ハーゲマン工兵中隊伍長
Min irst Reis’ nah Kolldörp「コルドルフへの僕のはじめての旅」(1巻14
号)
佳作:クノープ1等海砲兵
Die Heimat「故郷」(1巻13号)
ルートマン予備副曹長
Krieg in Fredenstiden「平和な時代の戦争」
1918年の4月に「北と南」というテーマで募集した方言の懸賞作文には16編の応募があり,その内の5編は低地ドイツ語,3編はザクセン方言,1編は上部バイエルン方言,4編はシュレージエン方言,1編は西プロイセン方言,1編はバーデン方言,1編はケルン方言で書かれているとある。入賞作品と掲載号は以下の通りである。
1等賞:ルートマン予備副曹長
Scheeper Ast「羊飼いアスト」(2巻9号)
De irste Schoolgang「最初の通学」
2等賞: ベーア2等海兵
D’n kleen’ Richtor seine Fingstbardieh「チビのリヒターの降臨祭遠足」(2
巻8号)
3等賞:ドイチュマン築城少尉
Uff Urlaub「休暇中」(2巻10号)
佳作:オーレン1等海兵
Bookenbrenn「火柱祭」(2巻13号)
グラーディンガー2等海兵
Uß minere Buewezitt「僕の少年時代から」(2巻22号)
シェーファー1等海兵
Alaaf Colonia「ケルン万歳」(2巻17号)
文学作品の刊行物としては童話集1点,詩画集2点と詩集1点が収容所内の印刷所から出版されている。
“Drei Märchen” von E. Behr, 初版1917年,再版1918年
和訳『三つの童話』冨田弘(訳),徳島出版1984年
4 1/2 Jahre hinter’m Stacheldraht. Skizzen-Sammlung von Willy Muttelsee mit
Reimen von Karl Bähr, 1919年
Nachtrag zu 4 1/2 Jahre hinterm Stacheldraht. Skizzen von Willy Muttelsee mit
Reimen von Karl Bähr, 1919年
上記2点の合刷和訳『鉄条網の中の四年半――板東俘虜収容所詩画集――』林啓介
(訳),扶川茂(訳詩推敲),南海ブックス1979年
“Ernste und heitere Gedichte aus der Kriegsgefangenschaft” von H. Hess『俘虜生活
からの真面目な詩,陽気な詩』1919年
『三つの童話』の原作者エルンスト・ベーアは神戸在住の貿易商で,売り上げ金でもって日本各地に収容されていた俘虜を救援するために出版させたと言われ,版を重ねた本書は1,550部印刷されたとのことである。
ドイツ語学に関係するものとしては,まず前述のボーナー2等海兵が板東に収容されていたドイツ兵達の名前の語源を考察して『ディ・バラッケ』第2巻25号(1918年9月15日),26号(9月21日),27号(9月29日),第3巻1号(10月6日)にP. Sq.のペ
ンネームで「我々の名前が教えてくれること」を連載している。
さらにゾルガー少尉の連続講演「郷土研究」の中でもドイツ語学に関係するテーマが3回取り上げられている。
1918年10月12日:インド・ゲルマン語からドイツ語へ
11月3日:ドーナルとザクスノート
1919年2月23日:ドイツ語の方言
この3回の講演の内容は幸いなことに,ゾルガー自身の著書Heimaterde und Ahnenblut『故国の地と父祖の血』(注3)から知ることができる。この本は彼が1919年の6月まで全部で58回行った連続講演「郷土研究」をまとめて,ドイツ文字のガリ版で収容所内の印刷所から出版したものである。3部643ページからなり,212点の図(大抵は色刷り)を含んでいるこの大著の目次は以下の通りである。
第1部:地質時代史入門
1)生命の母胎としての地表
2)大地の原状
3)3循環
a)大気の循環
b)水の循環
c)岩石の循環
4)永続する地質学的事象
5)中断する出来事
6)大地と生命の歴史の主要な特徴
第2部:生命の発展
1)基礎概念
a)エネルギーの保存
b)原子と細胞
c)生命の諸法則
2)植物界の発展
3)動物界の発展
4)生命史における心の意味
a)脳の系統
b)子供における脳と心
5)発展の目標
附録:メンデルの法則
第3部:ドイツ人への育成
第1章:舞台の発展
1)第3紀以前の大地
2)第3紀におけるヨーロッパの形成
a)旧褶曲
b)グリーンランド褶曲
3)氷河時代
a)気候の変動
b)氷河期の植物界と動物界
第2章:人間の始原
1)ネアンデルタール人種とその先駆者
2)クロマニョン人種
3)人類の起源の問題
4)現代人種の系図
第3章:石器時代の大地
1)北海とバルト海の成立
2)氷河期以後のドイツの風土
3)ドイツへの定住
4)インド・ゲルマン人
第4章:ゲルマン人とその隣人達
1)インド・ゲルマン語からドイツ語へ
2)ドーナル,ザクスノート,ヴォーダン
3)古代地中海文化
4)歴史的移動
a)アルプス人種のヨーロッパ移住
b)スウェーブ人の時代
c)東ゲルマン人の民族大移動
d)フランク人の時代
5)今日のドイツ人
ゾルガーが行った連続講演の目的は,地質学,地理学,気象学,生物学,人類学,民族学,考古学,言語学,宗教学,文学,哲学を駆使して,ドイツとドイツ人の歴史を俘虜として苦難の状況下にある同胞達に伝えることにより彼らを鼓舞して,自信と誇りを高めることにあった。ただしゾルガー自身は序文の中で次のように強気の発言をしている。
今日ドイツ人の生命が途方もなく力を発揮していることに対する反対像として,我
々の力の基になっている民族の土台がいかに深く先史時代の中に根拠づけられている
のかということが聴衆に意識されるならば,講演の目的は達成されているであろう。
この気宇壮大な試みはまさしく,100年ほど前にナポレオン戦争に敗れたドイツで,自らの父祖の言語・文学・文化の再評価に取り組んだドイツ・ロマン主義運動の板東版であったと言えよう。 ただし講演の際に取り上げられていたドイツ文学・哲学関係の事柄は著書では省略されている。 そして連続講演をまとめて収容所の印刷所から出版したのは「我々自身にとっては苦痛であるが,しかしわが民族にとっては運命の究極的な一切の皮肉にもかかわらず,かくも類いなく誇り高いこの戦争の時代の途方もない歴史的背景を一緒に眺めた時間を聴衆に想起してもらう」ためであったと言う。
ドイツ語学に関するゾルガーの講演の中の「インド・ゲルマン語からドイツ語へ」は後で詳しく検討するが,1918年11月3日の「ドーナルとザクスノート」という講演は著書の第4章「ゲルマン人とその隣人達」の2)「ドーナル,ザクスノート,ヴォーダン」に対応している。これは,著書の中では原文の引用がないが,「ザクセン語の受洗の誓い」(原文作成は800年頃。高橋2003, 50−53, 348ページ; 2004, 90ページ参照)の中で悪魔視されているゲルマンの神々:ズネル(=ドーナル),ウォーデン(=ヴォーダン),サクスノート(=ザクスノート)に関する宗教学・神話学的考察である。 1919年2月23日に行われた講演「ドイツ語の方言」は著書の最後,5)「今日のドイツ人」の中の328ページから332ページのドイツ語方言の解説と図125のドイツ語方言地図に対応すると思われる。
1918年10月12日にゾルガーが行った「インド・ゲルマン語からドイツ語へ」という講演がどのような内容と程度であったのかを知るために,まず彼の著書の該当部分(201−215ページ)を以下に和訳して示す。
インド・ゲルマン語からドイツ語へ
「民族の心はその言語の中に生きている」
(F. ダーン)
「インド・ゲルマン」「ゲルマン」「ドイツ」という概念は全て言語の領域から採られている。それ故に種々の歴史的な力による我々の民族性への影響を論じる前に,我々の言語の歴史を簡単に概観しておくことは適切であろう。その際,私は形態論は度外視して,音形成と語形成に限定する。この点において民族の肉体的な特性との関係がより明白に認識できる。
最初の表(図83)は種々のインド・ゲルマン語における2・3の単語,並びに言語研究に基づきインド・ゲルマン祖語において同一語に帰される必要があると考えられる語形をその下に再現している。リトアニア語のketuri「4」とドイツ語のvier「4」が同一語であると言われても,確かに直ぐには理解できず,ロシア語のsto「100」(古スラブ語のsuto)とドイツ語のhundert「100」との同一視はもっと理解できないかも知れない。それにもかかわらず表の中で一列にまとめられた単語は,対応するインド・ゲルマン祖語の単語から個々の音の規則的な変化,いわゆる「子音推移」によって今日の発音が形成された単語であるに過ぎない。
このことをより分かりやすくするために,次の表(図84)では,子音推移の極めて重要な法則を最も簡単に示すことのできる子音の一覧表を示してある。右から左への配列は,閉鎖がなされる口内の位置に対応していて,閉鎖によって先行音節の母音が終わるか,あるいはその中止によって次音節の母音が始められる。pではこの閉鎖は完全に前方の唇の所でなされ(唇音),tでは舌が上歯根と共に閉鎖をなし(歯音),kでは舌根を口蓋につけることによって閉鎖が生じる(口蓋音)。もしも閉鎖を喉のさらに奥で行うならば(喉音),これを達成し得るために,口腔がついには丸められなければならず,その際,唇はほとんど自ら再び閉じてしまう。そうして最終的には,先に述べた唇音への移行をなすqu音(訳注:[kw])が生じる。このことを大まかに示すために,唇音の列を左側にもう1度,繰り返してある。
こうして音を発生位置に従って配列してあるが,同一位置で形成される音をさらに産出方法に従って区分する必要がある。もしも私が気流を放出しつつ両唇を突然開くと,p音が発生する。喉頭が生み出す声音を用いなくても明白にp音を聞くことができる。これを無声閉鎖音と呼ぶ。これに対してbを発音しようとすれば,幾分なりとも聞こえるためには,ここで声音の助けを借りなければならない。それ故に有声閉鎖音と言われ,これにはさらにdとgも属する。
しかし閉鎖を全くのところ突然には生じさせず,それが続いている間に引き続き空気を両唇の間で通過させると,摩擦音のwが発生する(英語での発音。我々のドイツ語のw −以下ではvで表示する− は上歯と下唇で形成される摩擦音である)。このwは有声であり,該当する無声音はドイツ語にはない。vには無声音のfが属する。同様にk音には摩擦音のch(訳注:[x])が,歯音には英語のthと歯擦音のsが属する。このsから我々は軟らかい,つまり有声のsをzという表記によって区別する。
そうすると後に残るのは2群の子音で,それらは本来はもはや純然たる子音ではなくて,さらなる母音の追加がなくても音節を形成することができる。鼻音と流音である。例えば私がドイツ語でgegenという単語を発音する時,大抵二つ目のeは母音としては全く聞こえない。実際,私はgeg’nと発音する。このnだけでまさしく1音節を形成し得る。nが鼻音である。もし我々が鼻をふさぐと,この音を発音することは不可能であるが,これまで論じてきた全ての音はそれに影響されない。鼻音m,n,n(g) はその形成位置で,唇音,歯音,口蓋音に対応する。
流音をふるえ音のrとlと解する。両者とも二つの異なった方法で形成できる。我々の普通のlでは舌の前部が歯の少し後ろについている(図85)。ロシア人のいわゆる硬いlは,これに対して舌がそり返ることによって形成される(図86)。この姿勢で舌端をうならせると,舌のrが発生する。この音はロシアと一部のドイツで発音されているが,大部分のドイツは口蓋垂のrしか知らない。この際に閉鎖は口蓋の奥端で舌と口蓋垂,つまり軟口蓋の舌様付属肢(訳注:喉彦)との間で形成される(図87)。その際にうなるのは口蓋垂で,舌はじっとしたままである。
ケントゥム諸語にとっては口蓋垂のrが,サテム諸語にとっては舌のrが本来的であったと思われる。舌のrのみがlと混同され得る。これらの両音の交換は,それ故に西部のインド・ゲルマン諸語には無縁であるが,これに対してインド語には見られる(「都市」:ギリシャ語polis,サンスクリットpura)。これは周知の通り再び東アジアでも見られ,日本人は舌のrを中国語のlの代わりにしている。従ってこの点でも上述(191ページ)した東アジアの言語発展とサテム諸語の成立との類似性が再び現われて,共通するアルタイ民族的特徴が原因であるとする推測を強化する。私はまた,舌のrが東ドイツに浸透しているのは東ヨーロッパのサテム諸民族からのかすかな影響によるということを可能であると考える。私はまた,ゲルマン語において現われるsからrへの移行(was→war)をも同一の現象群の中へ入れたいと思う。このような移行の際,このrは当初は舌のrであった。
ゲルマン諸語が初めて記録に現われる時点では,インド・ゲルマン祖語に対して,閉鎖音が摩擦音に代えられるという子音推移が生じていた。同時に,祖語においては任意の各音節に置かれ得たアクセントは第1音節に移されている。インド・ゲルマン語のpitár(訳注:今日では*pH2tê´r。H2は喉音の一種)からこのようにしてVaterが生じた。口蓋音では摩擦音に代わって近縁の気音hが現われる。従ってquからはhwが生じなければならない。 この中では次第にhが消失する(スカンディナビア諸語では綴りにおいてはまだ保たれている:was「何」−デンマーク語hvad,ラテン語quod。訳注:英語whatも)。
残っているのは一つの唇的摩擦音のみで,後にある種の条件下では有声(v),他の条件下では無声(f)となる。例えば数詞の「4」の場合がそうである。インド・ゲルマン語からゴート語への移行(図83)はこの場合,quからfが生じ,アクセントは第1音節に移された結果,語末音節の退縮を伴なった点にあるに過ぎない。ゴート語のfidworから古高ドイツ語のviorへの移行は,語中の幾分厄介になった2重子音の脱落にその実態があるに過ぎない。(厳密に言えば,ドイツ語はゴート語から発展したのではないが,ここで述べる点でゴート語に似ていたと考えられるドイツ語の前段階の記録文書を我々は欠いている。)「100」の場合は,kmtómのkから気音のhが生じ,音節を形成するmはアクセントの前進によりアクセントを得て,今やunという音に拡大されるという事情である。本来アクセントのあった音節のomはこれに対して,アクセントを失った後に次第に消失した。こうしてゴート語の語形hunt(訳注:正しくはhund)が生じる。後にこれに「数える」を意味する語幹からrad(訳注:ただしくはraþ)という音節を追加した。この追加により多分,数詞のhunt(訳注:正しくはhund)を動物名(訳注:ゴート語hund-s,ドイツ語Hund「犬」)から区別したのであろう。huntrad(訳注:正しくは*hundraþ)から次に我々の単語hundertが生じた。
このいわゆるゲルマン語の子音推移は,ゲルマン人が歴史の光の中に現われる以前に生じていた。図88ではその最も重要な特徴がまとめられていて,サテム語の例が示すスラブ語の子音推移と比較されている。ゲルマン語の子音推移では音の形成位置は保たれていて,ただ閉鎖の方法が変えられる,厳密に言えば,弱められることが分かる。これに対してサテム語では全ての口蓋音が前方へ推移した。この子音推移も有史以前のことである。
歴史的にドイツ語の中で追跡できる最初の変化は,ガリアとローマ帝国との接触の結果としてケルト語とラテン語からの借用語を受け入れたことである。これらの単語は後に,その起源が忘れられてしまった後で,ドイツ語の単語のように見なされ,ドイツ語のさらなる変化に参加した(Pflanze「植物」は高地ドイツ語の子音推移によりラテン語のplantaから)。
さらなる変化の中で最も重要なのはいわゆる高地ドイツ語の子音推移であるが,これは民族大移動の結果として生じ,その結果は紀元後650年頃から認められ得る。これは幾多の点で第1次子音推移に似ている。 pからは確かに以前のようにfではなくて,移行音pf(いわゆる破擦音)が生じるに過ぎない。同様にtからz(訳注:[ts])が,時にはkからch(訳注:[kx])が発生する。この推移に中部山地の北に住むドイツ民族の部分は参加しなかった。その言語は後世,低地ドイツ語(低部フランク語とザクセン語)として推移に従った高地ドイツ語から区別されることになる。高地ドイツ語の中では南部においては北部におけるよりも推移が強く果たされている。それ故に高地ドイツ語の内部で南の上部ドイツ語方言(アレマン語とバイエルン語)が北の中部ドイツ語方言(中部フランク語,東フランク語とテューリンゲン語)から区別される。
民族大移動に続くのが中世である。教会語と公文書語にラテン語を用いたこと,並びに宮廷語が多方面でフランス語に傾いたことがその後,いわゆる教養階級が民衆語に対して自らの話を外国語の断片でもって飾り立てるのを好むという方向で全体としては不都合な発展を招いてしまった。これは言うまでもなく周知の通り今日でも無縁ではない悪習である。
その後,ドイツ語の歴史における重要な段階を意味するのは,1521年−34年におけるルターの聖書翻訳である。それは中部ドイツ語,主として(テューリンゲン語に算入され得る)マイセン官庁の方言で著わされていて,その一般的な普及によりこの中部ドイツ語方言が一般的な新高ドイツ語の文章語の基礎となった。印刷術の導入の結果,聞いた言葉よりも読んだ言葉の方が益々力を持つことになり,そうして総じて文章語の意義が増大することになった。16世紀には新高ドイツ語の文章語は文章語としての低地ドイツ語を排除してしまった。公文書にはこれはオランダ以外ではもはや1600年以後はほとんど使われていない。
我々はドイツ語の成育のための新しい1章を19世紀から始めてもよいと思う。ここではグリム兄弟と彼らに続いてカルル・ミュレンホーフが言語の科学的な掘り下げを始めた結果,豊かな実りをもたらした。全ドイツ語協会が行ったような努力は外国語常用癖が品位を欠くという意識をともかく既に比較的広い範囲に広め,我々の公用語は著しく浄化されたのであるが,我々の新聞のドイツ語だけは依然として改善の余地を多く残していて,いずれにせよ目下は我々の言語にとって最悪の危険をなしている。
図89は原初のインド・ゲルマン語からのドイツ語の発展に関する包括的な概観を与える。この図はサテム諸語がドイツ語圏の東部境界にまで迫っていることと,ラテン語圏がガリアを通ってドイツ語の西部境界にまで進出していることを示す。こうして我々は西部でも東部でも,ドイツ語よりも比較にならないほど深い変化をこうむった言語の民族に取り囲まれている。東部のスラブ人はサテム推移により強くアジア的影響を示しており,フランスのケルト・ゲルマン的な民衆は自らの生来の言語を総じて完全にラテン語のために放棄してしまった。もっとも彼らはラテン語を独自の方法でさらに発展させている。スラブ人とロマン人の間に押し込まれてドイツ人は確かに自らの言語を両民族から影響されないようにしてきた訳では決してないが,しかしそれでも中核においてはドイツ語の生来の性格を保ってきた。インド・ゲルマン語から今日のドイツ語に至る発展の主要部分は言語の発展の中に反映されている:民族大移動の終わりに至るまで外来のものに対して与しなかったことと,近世において内的な統一に移行したことであり,これには新高ドイツ語の文章語の統一性が本質的に関与しているのである。
このドイツ語史の説明は極めて簡潔ではあるが,要領よくまとめられていて,一般のドイツ人に対する教養講座的な講演としてはこれで十分であると言える。ゾルガーはドイツ語学の専門家ではなかったにもかかわらず,その当時までのドイツ語学とインド・ゲルマン(印欧)語学の成果をよく理解してはいたが,不正確な点や間違いがない訳ではなく,またドイツ語学の専門家ではないが故にこそなし得た大胆な解釈も見られる。
qu音(=[kw])を喉音Kehllautと呼んでいるが,これは唇軟口蓋音Labiovelarと呼ぶのが正しく,[h] が喉(頭)音である。
英語の[w]に対応する音は現在のドイツ語にはないが,この無声音はドイツ語のみならず,標準的な英語にも存在しない。
ケントゥム諸語とは,数詞の「100」の場合にラテン語のcentum [kentum]のように[k]を用いる諸語のことで,ラテン語の属するイタリック語派,ギリシャ語派,ケルト語派,トカラ語,ヒッタイト語(ただしゾルガーの著書には,1915年から17年にかけてインド・ゲルマン語の一員であることが発表されたヒッタイト語はまだ取り上げられていない),並びに[k]を[h]に変化させたゲルマン語派をまとめて言う。これに対してサテム諸語は数詞の「100」に,アヴェスタ語のsatemのように [s]またはこれに近い音を用いる諸語で,アヴェスタ語の属するイラン語派,インド語派,スラブ語派,バルト語派,アルバニア語,アルメニア語の総称である。インド・ゲルマン語学では,サテム諸語の子音推移は内的な発展と考えられているが,ゾルガーは,中央アジアでのアルタイ語族との接触が原因であろうと大胆な推測を行っている。インド・ゲルマン語学者は一般的に他の語族との影響関係よりも先に自発的・内発的な発展を考えるので,ゾルガーのような広い視野の学者の見解は無視できない。ただしゾルガー自身は著書の序文で「特に言語と信仰の領域では私は言わば創作(dichten)せざるを得なかった」と述べているので,彼の言説は慎重に取り扱う必要があるのも事実である。
「ケントゥム諸語にとっては口蓋垂のrが,サテム諸語にとっては舌のrが本来的であったと思われる」という考えは卓見である。インド・ゲルマン祖語由来のrがゲルマン祖語では口蓋垂音であったことの確証が存在する(高橋1981, 34ページ;1999,31ページ参照)。ただし「ゲルマン語において現われるsからrへの移行(was→war)をも同一の現象群の中へ入れたいと思う」というのは疑問であるし,was→warという例示も正確ではない。ゲルマン語における動詞「ある,いる」の1人称・叙実法・過去の単数形と複数形の発展は以下のように説明できる。
1. *H2wósH2e —*H2wêsmé (インド・ゲルマン祖語)
2. *wósa —*wêsm´ (前ゲルマン祖語。m´はアクセントのある音節形成音)
3. *wása — *wêsúm (ゲルマン祖語)
4. *wása — *wêzúm (ヴェルネルの法則)
5. *wása — *wê´zum (ヴェルネルの法則後)
6. *wása — *wê´rum (北西ゲルマン語)
7. was — wârum (古高ドイツ語)
wæs — wæron (古英語。複数形のæは長音)
8. war — waren (現代ドイツ語)
was — were (現代英語)
最初期の段階(1)−(3)の単数形では語幹に,しかし複数形では語尾にアクセントが置かれていた。このため後にヴェルネルの法則が働いて複数形の[s] は有声音の[z]に変化した(4)。現代英語で類例を挙げるとpóssible [s]— posséss [z]の場合である。その後,複数形のアクセントは語幹に移された(5)。ゴート人がゲルマーニアから離れて南東ヨーロッパに移動して行った後に,残りの北西ゲルマン語において[z]のr音化が発生した(6)。従ってこの現象にはゴート語は関与していない。その後の英語における発展は北西ゲルマン語からの自然な発展であるが,ドイツ語の場合は極めて人為的な変更が加えられている。 古高ドイツ語とそれに続く中高ドイツ語で用いられていた疑問詞のwaz [was]「何」が初期新高ドイツ語の時代になってwasに変化した結果,これと同形になるのを避けるために,複数形のwarenから複数語尾を切り取って作られたwarが新しく単数形になったというのが事実経過である。
[z]から生じたr音はゾルガーの言うように舌先震音であったことは間違いないが,その後しばらくは新しい舌のr音と古い口蓋垂のr音とが区別されていたこと,s→z→rの変化はラテン語にも見られることから,北西ゲルマン語におけるz→rを東欧のサテム諸語,つまりスラブ語やバルト語からの影響と考えるゾルガー説は疑問である。
インド・ゲルマン祖語のpitár(今日では*pH2tê´r)からドイツ語のVaterへの発展を正確に示すと次の通りである。
1. *pH2tê´r (インド・ゲルマン祖語)
2. *patê´r (前ゲルマン祖語)
3. *faþê´r (ゲルマン祖語)
4. *faðê´r (ヴェルネルの法則)
5. *fáðar (ヴェルネルの法則後)
6. fadar (ゴート語)
7. fater (古高ドイツ語)
8. Vater (現代ドイツ語)
数詞の「4」の場合は,インド・ゲルマン祖語のqu [kw]から直接fに変化したのではなく,中間段階としてpを想定する必要がある。
1. *kwetwô´r (インド・ゲルマン祖語)
2. *petwô´r (前ゲルマン祖語)
3. *fiþwô´r (ゲルマン祖語)
4. *fiðwô´r (ヴェルネルの法則)
5. *fíðwôr (ヴェルネルの法則後)
6. fidwor (ゴート語)
7. fior (古高ドイツ語)
8. vier (現代ドイツ語)
現代ドイツ語のhundert「100」(英語hundred)に関してゾルガーが,「数える」を
意味する語幹のrad(正しくはraþ)がゴート語以外のゲルマン語において添加されたのは「犬」Hund(英語hound猟犬)と区別するためであると解釈しているのは,今日の語源辞典には見られない卓見であると思う。
なお「犬」を表わすゲルマン祖語の*hun-ða-zの-ða-の由来は不明であるが,*hun-本体はインド・ゲルマン祖語の*kwon-/*kwôn-/*kun- にまで遡ることができる。しかしこの*kwon-/*kwôn-/*kun-の語源は不明である。ゾルガーは図83で中国語のtchüan(=quanチュアン)「犬」を参照せよと指示している。藤堂明保編『学研・漢和大字典』によれば「犬」の上古音(周・秦代)はk’uên,中古音(隋・唐代)はk’uen(k’は有気音)であったと考えられていて,「ケンという音はクエンクエンという鳴き声をまねた擬声語」とされているので,インド・ゲルマン祖語の*kwon-/*kwôn-/*kun-も擬声語かも知れない。両者が擬声語であるならば,借用関係の可能性は低くなる。
ルター訳の聖書がマイセン(ザクセン)官庁の方言で著わされているというゾルガーの説明は正確ではない。「ルターのドイツ語をこのマイセンの官庁用語と同一視するのは,まったくの見当はずれである。・・・彼は,生き生きした民衆語と,東中部ドイツの教養階級が書き言葉として使っていた通用語との両者に通じており,これら両者の特色の多くを自分のドイツ語に取り入れたばかりではなく,単語の創造者としても活躍したのであって,彼のドイツ語の生き生きした構文は,マイセンの官庁が使っていた法律家ふうのドイツ語とは根本的に違っている」(モーザー1967, 146ページ)。
ゾルガーは終わりの方で「フランスのケルト・ゲルマン的な民衆は自らの生来の言語を総じて完全にラテン語のために放棄してしまった」と述べ,それに対してドイツ人は「中核においてはドイツ語の生来の性格を保ってきた」とまとめているが,このまとめは著書の最後(337, 338ページ)において説いているフランス人とドイツ人の発展の相違に対応している。図127はフランス人の発展図で,原ケルト人の上にアルプス人種が,その上にローマ人が,その上にゲルマン人(ゴート人,フランク人等)が重なって発展したことを示し,「アルプス人種の移入,ローマの支配,西ゴート人,ブルグンド人,フランク人による征服,これらの出来事のどれもがフランス人の性格をかなり変えてしまった」と説く。
一方,図128はドイツ人の発展図で,北ドイツの前ゲルマン人にカルパチア・ダーキア人(=インド・ゲルマン人)が合流して原ゲルマン人となり,その後スウェーブ人(=アレマン人)やバイエルン人が,次にフランク人が,最後にプロイセン人が分かれて行ったが,北ドイツに留まっているザクセン人は原ゲルマン人の直系の子孫であることを示し,「最初にカルパチア・ダーキア人が衝突して以来,大きな民族移動はドイツには向かっていなくて,ドイツから発して,その周辺に向かっている」ことと,「ドイツ民族の新しい方の3世代,つまりスウェーブ人,フランク人,プロイセン人は他民族からの影響を一歩一歩消化してきた」ことを意味する。
このようにゾルガーはフランス人・フランス語の歴史をドイツ人・ドイツ語の歴史に対比させてそれぞれの特色を際立たせようとしているが,しかしそれでもって彼はドイツ人・ドイツ語とフランス人・フランス語との優劣を論じている訳ではない。彼が自らの講演と著書の中で最も強調したかったのは,当時のドイツにおいて外国文化,とりわけイギリスの文化と言葉が過度に受容されることによって,一極重層型のフランス文化とは根本的に異なる多極単層型のドイツの文化が画一化されることと,ドイツ語が英語に強く影響されることに対する憂慮であり,外国文化への学習志向(Lerngedanke)に対して郷土志向(Heimatgedanke)を意識的に対立させて,過度の外国文化の流入を阻止し,ドイツの多様な郷土文化を護持すべきであるという考えであった。彼は帰国後,ドイツ国粋主義教員連盟(Bund völkischer Lehrer Deutschlands)においても活躍することになるが(Grüttner 2004, 162ページ),在日俘虜時代に既にその片鱗をうかがうことができると言える。
注記
1)第1巻はNeu transkribierte Jubiläumsausgabe zum 50jährigen Bestehen der Stadt
NARUTOとして日本語訳『ディ・バラッケ』と共に1998年に鳴門市より,第2巻は
Neu transkribierte Ausgabeとして日本語訳と共に2001年に鳴門市より刊行されてい
る。転写版未刊の第3巻と第4巻については徳島大学の川上三郎教授のご高配により
故大和啓祐高知大学名誉教授作成の電子化資料を利用させていただいた。川上教授に
深甚の謝意を表したい。
2)本人の学位論文Die Ammonitenfauna der Mungokalke in Kamerun und das geologi-
sche Alter der letzteren (Giessen 1902)末のLebenslauf; Degeners Wer ist’s? (1935);
Kürschners Deutscher Gelehrten-Kalender(1935, 1970); Michael Grüttner: Biogra-
phisches Lexikon zur nationalsozialistischen Wissenschaftspolitik (2004)によれば経
歴は次の通りである。氏名はFriedrich Ernst Adalbert Solger, 1877年10月8日ベル
リーンで枢密衛生顧問官の息子として生まれ,ベルリーンのレッシング・ギムナージウ
ムを卒業後,1894/95年の冬学期はベルリーンのプロイセン王立フリードリヒ・ヴィル
ヘルム大学(ベルリーン大学)で勉学,1896年から99年までブレスラウ上級鉱山監督
局で鉱山学を実習,その後再びベルリーンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学と王立鉱
山大学で勉学,1899年から1903年までフリードリヒ・ヴィルヘルム大学の地質学・
古生物学研究所助手,1902年にフリードリヒ・ヴィルヘルム大学で哲学博士の学位取
得,1903年から09年までベルリーンのマルクブランデンブルク博物館勤務,1907年
フリードリヒ・ヴィルヘルム大学で地質学と古生物学の教授資格取得,同大学講師,
1909年ロシア・トゥルケスタンへ旅行,1910から13年まで北京帝国大学教授,1913・
14年北京で中国地質図の作成を指揮,1914年8月から11月まで青島で軍務,1914年
11月から20年1月まで在日俘虜,1920年4月よりフリードリヒ・ヴィルヘルム大学
員外教授,1925年よりドイツ国粋主義教員連盟会員,1930年から同理事長,1927年
から1933年までドイツ大学協会理事,1946年より東ドイツ・ベルリーンのフンボル
ト大学(フリードリヒ・ヴィルヘルム大学改称)教授,1953年退官,1965年11月29
日東ベルリーンで死去。
上記履歴の一部確認についてはStudienwerk Deutsches Leben in Ostasien e. V.
(StuDeO) のFrau Renate Jährling並びにFrau Dr. Irene WegnerとTechnische Uni-
versität BerlinのProf. Dr. Michael Grüttnerに感謝している。
3)鳴門市ドイツ館の所蔵本の閲覧については田村一郎館長に,東京のドイツ−日本研究
所の所蔵本(端本)の複写については堀越葉子氏に,ベルリーン国立図書館の所蔵本の
一部複写については鴻森大介氏に感謝したい。
鳴門市ドイツ館の所蔵本にはゾルガー自身の書き込みとサインがあるが,彼の筆記
体はラテン文字であって,本文や『ディ・バラッケ』ようなドイツ文字ではない。
参考文献
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展開−「板東俘虜収容所」を中心として−』2003年
鳴門市ドイツ館史料研究会『 どこにいようと,そこがドイツだ−”Hie gut Deutschland
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C.バーディック/U.メースナー/林啓介『板東ドイツ人俘虜物語』海鳴社1982年
林 啓介『「第九」の里 ドイツ村−板東俘虜収容所』井上書房1993年
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高橋輝和:『古期ドイツ語文法』大学書林1994年
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高橋輝和:『古期ドイツ語作品集成』渓水社2003年
高橋輝和:「古期ドイツ語の呪文における異教の共生と融合」岡山大学大学院文化科学研
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マルティネ,アンドレ:『「印欧人」のことば誌−比較言語学概説−』(神山孝夫訳)ひ
つじ書房2003年
モーザー,フーゴ:『ドイツ語の歴史』(国松孝二/浜川祥枝/千石喬/三城満禧訳)白
水社1967年
Beekes, Robert S. P.: Comparative Indo-European Linguistics. An Introduction. Amster-
dam/Philadelphia 1995年
Szemerényi, Oswald: Einführung in die vergleichende Sprachwissenshcaft. Darmstadt
1989年
Grüttner, Michael: Biographisches Lexikon zur nationalsozialistischen Wissenschafts-
politik. Heidelberg 2004年
図版83. インド・ゲルマン諸語の語形対照表
図版84. 子音一覧表
図版85. 軟らかいl
図版86. 硬いlと舌のr
図版87. 口蓋垂のr
図版88. ゲルマン語とスラブ語の子音推移
図版89. ドイツ語の発展
図版127. フランス人の発展図
図版128. ドイツ人の発展図