俘 虜 群 像

 

1)      ヨハネス・バールト(Johannes Barth1891-1981):二年間広東で暮らした後、大戦勃発により青島に赴いた。大戦終結して解放後、神戸の貿易商社に勤めたが、やがて東京で貿易商となり、日本女性と結婚した。1941年、商用のためシベリア鉄道でドイツへ向かう途中独ソ戦が勃発して一時捕虜となる。釈放されてドイツに帰還したが、日本には4年間戻れなかった。1945年、日独間を往復していた潜水艦でシンガポールに到着、軍用機で日本に帰還した。終戦後、アメリカ進駐軍により財産没収、ドイツへ強制帰国させられた。5年後再び日本に戻り、以後終生鎌倉に住んだ。『青島日記』、『極東のドイツ人商人』等の著書がある。ドイツ東洋文化研究協会(OAG)の副会長を務めた。(丸亀→板東)

2)      ベヒトルスハイム男爵(W.Frhr.v. Bechtolsheim1881-?):膠州総督府の参謀本部参謀・海軍大尉だった。日独戦争中の19141012日、戦死者埋葬、負傷者救出等の一時休戦では、ドイツ人婦女子避難船のドイツ側指揮官を務めた。なお、日本側の指揮官は山田耕三大尉だった。習志野時代に音楽会の夕べでは、メンデルスゾーンの歌曲、ゲーテの「魔王」、「ドイツ民謡」等、独唱や合唱で活躍した。今日、ベヒトルスハイム男爵家には、習志野収容所で製作された男爵家の居城の木製模型等の遺品が数点遺されている。(福岡→習志野)

3)      ジークフリート・ベルリーナー(Dr.Siegfried Berliner1884-1961):ライプチヒ大学及びゲッティンゲン大学で経済学を学んだ。東京帝国大学農科大学教師を務めている時に予備副曹長で応召し、解放後東大に復職した。アンナ夫人は丸亀に女中連れで家を借り、頻繁に面会に訪れては差し入れをした。また、夫人は収容所の待遇に関する「告発文書」をベルリーナーから手渡されて、アメリカ経由でドイツ本国に持ち帰った。第二次大戦中、ドイツからアメリカに亡命し、やがて大学教授となった。アンナ夫人も心理学の教授を務めた。日本の貿易・経済に関する論文・著作がある。(丸亀→板東)

4)      ヘルマン・ボーナー(Dr.Hermann Bohner1884-1963):ハレ、テュービンゲン等の大学で神学及び哲学を学んだ。宣教師にして中国学者のリヒャルト・ヴィルヘルムを慕って1914年に青島に赴き、やがて応召して俘虜となる。板東時代、数多くの多種多彩な講座の講師を務めなど、最も学識のある知性豊かな俘虜だったと言われている。解放後は大阪外語専門学校講師となり、弟二人も来日して、それぞれ高知高等学校、松山高等学校でドイツ語を教えた。1923年夏、ヴィルヘルム夫人の妹ハンナ・ブルームハルトと結婚し、後に大阪外国語大学教師となり、日本に永住した。神戸・再度山に墓がある。(松山→板東)

5)      マックス・ブンゲMax Bunge1881-1964):ドイツによる青島建設の初期、1898年から青島の第3海兵大隊の一兵卒で軍務に就いた。義和団事件の折の活躍とその著作『一兵卒の回想記―第3海兵大隊の平時と戦時』によって、青島ではその名を知らぬ者がいないほどの有名人だった。丸亀時代、将校7名全員が大分に移送された後は、最古参の曹長として部下兵卒の指揮監督の任に当たった。板東時代は、公会堂で開催された「俘虜展覧会」の会場設営に弟とともに尽力し、自らも油絵「私の両親の家」という丁寧な作品を出品して、三等賞を受賞した。(丸亀→板東)

6)      カール・ビュッティングハウス(Karl Büttinghaus?-1944:大戦終結して解放後、千葉県出身の日本女性と結婚した。1924年、目黒に東京で最初のソーセージ工場を作り店舗も構えた。後に神戸に進出したが、1944年暮れに死去した。1945年の神戸空襲で店舗は焼失し、戦後再建には至らなかった。なお、横浜の本牧で精肉業を営んでいた矢島八郎は、上記目黒の工場に豚肉を納めていたが、やがてビュッティングハウスの指導を受けて自らハム・ソーセージ造りを手がけることになった。今日は三代目の孫が神奈川県茅ヶ崎で、手造りハムの店「ハム工房ジロー」を営んでいる。(福岡→大分→習志野)

7)      フランツ・クラウスニッツァー(Franz Claussnitzer1892-1955):丸亀時代、アルバース、デーゼブロック及びヒンツの四人で、相互扶助を目的とする収容所保険組合を結成した。これが後に松山、徳島の俘虜達と合流した板東俘虜収容所での大規模な健康保険組合のモデルとなった。板東時代、俘虜と地元の大工30人で約5ヶ月を要して完成した富田酪農所(その後船本牧舎と名を変える)の運営に参画し、酪農の技術指導をした。時には牧舎に泊まることもあった。大戦終結してドイツに帰国後も、一貫して酪農・搾乳の仕事に従事した。(丸亀→板東)

8)      パウル・エンゲル(Paul Engel1881-?):丸亀及び板東の俘虜収容所で楽団を結成し、数多くのクラッシク音楽を演奏・指揮した。丸亀時代、学校の音楽担当教師たちに楽器演奏の実演・指導を行った。板東時代には、四国八十八霊場の一番札所霊山寺で、後には徳島市内の立木写真館で楽器演奏の指導も行った。そのエピソードは、NHK朝の連続ドラマ「なっちゃんの写真館」でも取り上げられた。またオペラ『忠臣蔵』(作曲は、俘虜ファン・デア・ラーンの伯父H.ラムゼーガー)の演奏を指揮し、また『青島戦士行進曲』、『シュテッヒャー大尉行進曲』を作曲した。解放後は蘭領印度に渡ったが、1926年以降の消息は杳として不明である。(丸亀→板東)

9)      カール・フィッシャー(Karl Fischer1881-1941):ベルリンのギムナージウム時代、ベルリン大学の学生が指導するハイキンググループに参加し、やがてそのリーダーになり「ワンダーフォーゲル」を創設した。19067月、フィッシャーは「ワンダーフォーゲル」運動から身を引き、同年10月第3海兵大隊に志願した。除隊後、上海のドイツ系新聞社に勤めている時に大戦勃発して応召した。松山俘虜収容所時代は、収容所内のマラソン競技に壮年の部で出場して優勝した。ドイツに帰国してみると、ワンダーフォーゲル運動の中に占める地位も無くなって、晩年は不遇であった。俘虜としては、ドイツの百科事典にその名が事跡とともに記されている、唯一の歴史上の人物である。(松山→板東)

10)   ハインリヒ・フロイントリープ(Heinrich Freundlieb1884-1955):1902年から1912年にかけて海軍で勤務し、1912年青島でパン屋を開業した。名古屋収容所では、日本の将校に反抗して、重営倉7日の処罰を受けたこともあった。大戦終結して解放後、愛知県半田町の敷島製粉(後の敷島製パン)に技師長として迎えられ、製パン技術の指導をした。日本女性と結婚し、やがて神戸北野に自分の店「ジャーマン・ホーム・ベーカリー」を開いた。NHK朝の連続ドラマ「風見鶏」に登場する俘虜のモデルでもある。(名古屋)

11)   オットー・ギュンター(Otto Günther;生没年不詳):枢密参事官にして総督府民政長官だった。年俸は植民地加俸を含めて約13000マルクで、モルトケ山の北西地区(日本統治時代の軽藻町23番地)の自宅は2479u(約700坪)の広大な敷地にあった。日独戦争終結後は青島警察署の監獄に容れられたが、1918526日板東収容所に移送され、やがて126日に青島へ召還された。ゲルトルート夫人は青島に残留した婦人達を指導して、傷病兵看護や炊事等に当たり、青島陥落時には、衛戍病院となっていた建物の中の人々を日本兵から守った。また、日本軍によって包囲された町で、ドイツ人達の要求を果敢にかつ粘り強く勝ち取ったとも言われる。夫人は二人の娘とともに大戦終結まで青島に留まった。(板東)

12)   フリードリヒ・ハックDr. Friedrich Hack1885-1949):1912年から大戦勃発まで、南満州鉄道東京支社調査部に勤務し、後藤新平総裁の秘書を勤めた。福岡時代、4名の将校の逃亡を助けたことから懲役18ヶ月の判決を受けた。日本の地理、習慣、民族性に通じていたことが、逃亡手助けに威力を発揮したと言われる。大戦終結して解放後は一時日本に残留したが、やがてドイツに帰国して、クルップ社の駐日代表だったA.シンチンガーと「シンチンガー・ハック社」を設立し、軍需品ブローカーとして日本の海軍省ベルリン事務所と密接な関係を持った。1936年の日独防共協定締結に際しては重要な役割を果たしたと言われる。1949年スイスに没した。(福岡→習志野)

13)   ハインリヒ・ハム(Heinrich Hamm1883-1954):ワイン醸造マイスターだった。駐独公使青木周蔵の懇請を受けて1912年に来日、山梨県甲府市で葡萄栽培並びにワイン醸造の指導に当った。その頃から俘虜収容所時代に至るまで付けていた克明な日記が遺されている。大戦終結して解放後に帰国した郷里で、1913年に自分が甲府で醸造して送ったワインに出会ったという。晩年は周囲から、「ヤパーナー(日本人の意)」と呼ばれた。1997年、郷里エルスハイムに記念碑が建立された。生家には、習志野収容所で製作した手製のギターが遺品として遺されている。(東京→習志野)

14)   ヘルマン・ハンゼン(Hermann Hansen1886-1927):青島では海軍膠州砲兵隊の軍楽隊に所属していた。板東時代、弦楽オーケストラと吹奏楽団の二つの楽団を率いて、休みない活動を続け、パウル・エンゲルとともに収容所の音楽活動で多大の功績を果たした。1918年(大正7年)61日、板東俘虜収容所内でベートーヴェンの「第九交響曲」が演奏された時(日本国内での初演)の指揮者。北ドイツのシュレースヴィヒ地方の出身で、大戦終結後、デンマークとの帰属をめぐる投票に参加するために、他の俘虜より一足先に帰国した。2001年、フレンスブルクの海軍学校に徳島収容所新聞『徳島新報』が保存されていることが判明した。新聞の隅に「ハンゼン」と書かれていることから、ハンゼンが寄贈したものと思われる。(徳島→板東)

15)   タデウス・ヘルトレ(Thaddaeus Haertle1888-1968):ポーランド人の父親は、村四つ分の地所を所有する大農場主、母親はイギリス人だった。フランスとドイツの大学で農学を学んだ。久留米時代、ドイツ人将校に反抗して3ヶ月の重傷を負った。連合国寄りであったために孤立して、迫害も受けた。丸亀時代には日本人憲兵に反抗して、営倉に閉じ込められた。板東に移される際は、ドイツ人と同じ列車に乗せられることに抵抗し、縛られて荷車で運ばれた。大戦終結して解放後はヨーロッパに帰ったが、やがて日本に戻り、日本人女性と結婚して高松に住んだ。晩年は西宮の大学で英会話の教師を務め、その地で没した。(久留米→丸亀→板東)

16)   カール・ユーハイム(Karl Juchheim1889-1945):菓子職マイスターとして青島で菓子店を営んでいた。19159月、国民軍の軍籍があったことから俘虜として日本に送られた。解放後は「明治屋」の菓子職人として高給(月給300円)で迎えられ、やがて横浜でドイツ菓子店を開いた。関東大震災後は神戸に移ってドイツ菓子店「ユーハイム」を開業、バウムクーヘンで名を知られた。青島で生まれた一人息子は第二次大戦に従軍して、ウィーン郊外で戦死した。194565日の神戸空襲で店は瓦解し、失意の内に814日六甲ホテルで死去した。(大阪→似島)

17)   パウル・カルクブレンナー(Paul Kalkbrenner1876-?):190212月、ハンブルクの貿易会社の社員として日本に赴任した。日本女性との間に子供が三人いた。解放間近の19198月、名古屋俘虜収容所を通じて、『獨逸人北海道移住ニ関スル趣意書』を北海道帝国大学に提出した。解放後は名古屋の日本人企業家の支援を受けて、元俘虜の6名で朝鮮の蘭谷において、ドイツ式大規模農場を建設して酪農事業に従事した。一人は蘭谷で没してその地に埋葬された。カルクブレンナーの朝鮮での消息は不明であるが、その後に加わったドイツ人と元俘虜の一人は昭和73月まで営農した。なお蘭谷は38度線から北に約100キロ、現在は北朝鮮の洗浦(セポ)郡である。(名古屋)

18)   パウル・ケンペ(Paul Kempe1884-?):総督府参謀本部暗号将校で陸軍中尉だった。モルトケ兵営で行われた神尾司令官とマイアー=ヴァルデック総督の会見では、総督の秘書官として列席した。1915年(大正4年)1112日、大正天皇即位大典の日に他の3名と計って逃亡した。逃走5時間後に門司に到着、フェリーで下関に着き、スウェーデン人を装って投宿した。翌13日午後、無線設備が無い老朽船に乗りこんだ。18日上海に到着し、逃亡した4名は上海の地で落ち合った。ケンペは上海でシベリアの収容所を脱走してきた将校とも接触し、やがてシベリア鉄道でドイツに行くルートを選択し、上海を出て18日後にドイツに辿り着いた(福岡)

19)   ヘルムート・ケーテル(Hellmuth Ketel1893-1961):2等巡洋艦エムデンに厨房兵として乗り組み、大戦勃発により青島に赴いた。大戦終結して解放後、会津出身の女性と結婚した。1927年、銀座並木通りにバー「ラインゴールド」を開業し、1930年にはその隣にドイツ・レストラン「ケテル」を開いた。東京で没した。なお2004年夏、「ケテル」は突然にして閉店となった。(東京→習志野)

20)   フーゴー・クライバー(Hugo Klaiber1894-19761919126日、似島の俘虜サッカーチームと広島高等師範等の生徒達との間で、サッカーの交流試合が行われた。俘虜チームイレブンの写真が遺されているが、その11名の写真の裏にはクライバーを含むメンバーの名前が記されている。2005年になって、クライバーはイレブンの写真中左から3人目の人物である事が判明した。ドイツに帰国後の1921年、クライバーはテュービンゲン近郊のヴァンバイルでサッカーチームを結成したが、そのチームは今日なお存続し、会員数は700名に及んでいる。最初の妻が亡くなって、やがて再婚後に生まれた次男は、テュービンゲン近郊の町に住んでいる。(大阪→似島)

21)   パウル・クライ(Paul Kley1894-1992:大戦終結してドイツに帰国後は警察官となったが、第ニ次大戦でソ連の捕虜となり、9年間シベリアの収容所で過ごした。板東収容所で一緒だったライポルト等と「バンドー会」を結成し、フランクフルトで例会を開いた。1970年の大阪万博の折りにライポルトとともに来日し、板東収容所跡を訪れた。ドイツ軍青島戦士の最後の生き残りとも言われたクライは、19925月に97歳で死去した。(丸亀→板東)

22)   パウル・クーロ(Paul Kuhlo1866-?):海軍東アジア分遣隊長で陸軍中佐だった。クーロは長いこと仏教研究に携わり、20年来交友を結んでいる日本人もいた。東京収容所時代、仏教青年会から慰問の手紙が届き、それに対するクーロ中佐の返書が、模範的なドイツ語として、陸軍士官学校でドイツ語の教材に使われた。習志野時代、アメリカ在住のドイツ婦人義捐団体に宛てて書簡を送り、新聞や雑誌、また不足している楽器を送ってくれるよう要請した。クリスマスコンサート等ではピアノを演奏した。(東京→習志野)

23)   ハインリヒ・ファン・デア・ラーン(Heinrich van der Laan1894-1964):神戸で商会を経営していた叔父H.ラムゼーガーの誘いで日本に来た。大戦終結して解放後は一時期ドイツに帰国して、横浜正金銀行ハンブルク支店に勤務した。やがて1921年に日本に戻り、収容所時代に一緒だったマイスナーが経営するライボルト商会に入って貿易関係の仕事をした。関東大震災後に関西に移住した。回想記『チンタオの思い出』を著したが、それは叔父ラムゼーガーの50歳の誕生日を記念して板東収容所で執筆され、自身の手で装丁されたものである。神戸・再度山の墓地に埋葬された。俘虜並びに俘虜収容所の研究家ディルク・ファン・デア・ラーン氏はその子息である。(松山→板東)

24)   オットー・レーマン(Otto Lehmann1892-1971):19104月、ドレスデン王立音楽院に入学してヴァイオリン、指揮法、室内楽、合唱法を学んだ。久留米時代は、「久留米収容所管弦楽団」を率いて数多くのコンサートを開いた。曲目は軽快で大衆的なものが多かったが、『久留米行進曲』等の作曲もした。191898日には、レーマン指揮による「久留米収容所管弦楽団」の第100回日曜コンサートが開かれた。1971年、郷里で遺書を遺すことなく自死した。遺品の中には、『天兵無敵』という軍歌と思われる日本語歌詞とその楽譜が残されていた。(久留米)

25)   アウグスト・ローマイヤー(August Lohmeyer1892-1962):応召前はチンタオで屠畜職マイスターとして働いていた。大戦終結して解放後、東京の帝国ホテルに雇われて、ハム・ソーセージ職人として従事したが、やがて山手線大崎駅の南で「ローマイヤー・ソーセージ製造所」を興し、日本女性と結婚した。後に銀座にレストラン「ローマイヤー」を開いた。「ロースハム」という言葉の考案者とも言われる。横浜の外人墓地に墓がある。(熊本→久留米)

26)   アンドレーアス・マイレンダー(Andreas Mailänder1892-1980):ドイツの俘虜研究家ハンス=ヨアヒム・シュミット氏が購入した住居の屋根裏部屋に、数多くの古い葉書、書類、パンフレット、写真等の入った長持があるのが、ある日シュミット夫人によって発見された。それは元の住人マイレンダーの遺品であった。このことがシュミット氏をして俘虜研究の道に向かわせた。マイレンダーは妻に先立たれ、息子を洪水で亡くすなど、晩年は孤独の内に過ごした。遺された手紙の束からは、昭和40年代に70歳を過ぎたマイレンダーが、名古屋に住む日本の女子高生と文通をしたことを示す手紙も発見された。(福岡大分習志野

27)   クルト・マイスナー(Kurt Meissner1885-1976):父親はハンブルクの出版社主で、マルクスの著書を初めて出版したことで知られた。ハンブルク大学で学んだ後の1906年、ライボルト商会の日本駐在員として来日した。松山収容所時代は日本語が堪能だったことから、収容所講習会で日本語の講師を務めた。板東では本部主計事務室で松江豊寿所長の通訳をした。板東収容所内印刷所から『日本語日常語教科書』、『日本地理』を出した。大戦終結後も日本に滞在し、『日本におけるドイツ人の歴史』等の著作を遺した。1920年から1945年まで25年間、ドイツ東洋文化研究協会(OAG)の指導的な地位にあり、会長も務めた。1963年、郷里ハンブルクに帰った。(松山→板東)

28)   アルフレート・マイアー=ヴァルデック(Alfred Meyer-Waldeck1864-1928):サンクトペテルブルク大学のドイツ文学教授を父にロシアで生れた。ハイデルベルク大学で歴史学を学んだ後海軍に入り、1908年に青島に赴任し、やがて総督府参謀長から膠州総督に就任した。19141114日に日本に移送されたが、その日は奇しくも、ドイツによる青島占領から17年目の日であった。それ以前に三度日本を訪れたことがあった。収容中は俸給として26219銭を支給され、また収容中に少将に昇進した。(福岡→習志野)

29)   ブルーノ・マイアーマンBruno Meyermann1876-1963):1908年から191411月まで青島測候所長を務め、独中・高等学校講師も兼任していたが、大戦勃発により、予備陸軍中尉として応召した。青島時代はホーエンローエ小路(Hohenroheweg)に住んでいた。熊本時代の19141226日、中央気象台長理学博士中村精男、及び熊本測候所長栗山茂太郎が面会に訪れた。19153月、天津から妻マティルデと子供二人の入国申請があり許可された。久留米時代、妻と子供は国分村浦川原の森新別荘に住んだ。191887日、マイアーマンはコップ中尉、ガウル中尉等71名とともに板東に移送されたが、その際妻はコップ夫人、ガウル夫人とともに避暑のために箱根で過ごした。1954116日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。(熊本久留米→板東)

30)   ハンス・ミリエス(Hans Millies1883-1957):海軍膠州砲兵隊の後備2等軍楽手だった。応召前は上海居留地工部局管弦楽団副指揮者を務めていたベルリンでヴァイオリンをヨーゼフ・ヨアヒムに学んだ後、19101020日、前記管弦楽団に加入した。ミリエスが習志野俘虜収容所時代に書き残した「閉じておくれ僕の眼を」の楽譜が、子孫の手で2002年に習志野市に届けられ、市の依頼でソプラノ歌手鮫島有美子による再演が実現した。リサイタルで歌われた後に、CD『祈りアメイジング・グレイス』に収められた。(福岡習志野)

31)   ルードルフ・モーラヴェク(Rudolf Edler v.Morawek1882-?):オーストリア野砲兵第17連隊の陸軍砲兵大尉(卿)だった。シベリアの収容所から脱走して、中国、アメリカを経由して本国に帰ったが、やがて満州のハルピン(哈爾濱)市内を流れる松花江の鉄橋爆破の任務に就き、上海の銀行に工作資金を預けて、19152月横浜港に入ったところで逮捕された。アルテルト、エステラー、シャウムブルクの4人で似島収容所から脱走したが逮捕され、2年半の刑を受けて広島の吉島刑務所に服役した。1920115日、日独講和を受けての特赦で釈放された。(大阪→似島)

32)   ヴィルヘルム・オートマー(Dr. Wilhelm Othmer;生没年不詳)青島時代は独中・高等学校教授(上級教師;中国語学者)だった。大戦勃発により予備陸軍少尉で応召した。大阪収容所に収容されるや、多くの俘虜が途方に暮れている最中、ただちに中国語の研究を続行した。その結果次々に講習会が開催されるようになった。オートマーは学習の手本を示すべく、自らも日本語の勉強に打ち込んだ。小学校の国語読本から平仮名・片仮名を覚え、中国語の素養を生かして漢字を習得、最後は『万葉集』にまで及んだ。大阪収容所とその後継の似島収容所は、青島で商売を営んでいた俘虜が多かったが、ユーハイム等の商人達は折に触れ、オートマーを訪れては種々の助言を仰いだ。妻は息子二人と大戦終結まで青島で暮らした。(大阪→似島)

33)   フリッツ・ルンプ(Fritz Rumpf1888-1949):15歳の時、ポツダムの陸軍士官学校に留学していた山本茂陸軍中尉に、念願の日本語を教わった。ベルリンの王立美術学校に学んだ後、一年志願兵として青島に赴いた。やがて浮世絵の研究のために来日し、明治末期を彩った「パンの会」に出没して、鴎外、白秋、杢太郎、夢二、吉井勇等と交流し、日本の文学にも少なからず影響を与えた。『浮世絵』、『日本の演劇』、『日本の民話』等、日本に関する多数の著作を遺した。解放後は、大戦直前に来日し慌しく帰国した婚約者アリスと結婚して、娘二人をもうけた。198911月、ベルリン日独センターで大規模な「フリッツ・ルンプ展」が開催された。(熊本→大分→習志野)

34)   ジークフリート・フォン・ザルデルン:(Siegfried von Saldern1881-1917):青島の海軍砲兵中隊長で海軍大尉だった。191511月に福岡俘虜収容所で発生した脱走事件の際、子供とともに福岡に住んでいた夫人が取り調べをうけた。1917225日の夜、強盗が侵入して夫人を刺殺し、それを知ったルデルンは絶望のあまりに、31日収容所で自死した。日独戦争が始まると夫妻の間では、どちらか一方が死んだ時には、後を追って自決することを申し合わせていたとも言われる。なお、夫人は時のドイツの海軍大臣フォン・カペレ(Eduard von Capelle)の娘だった。(福岡)

35)   エーミール・スクリバ(Emil Scriba1890-1930):東京帝国大学医学部の基礎を築いたスクリバ博士と、富山県出身の神谷ヤスとの間に次男として東京で生れた。大戦前、来日したばかりのフリッツ・ルンプが、一週間ほどスクリバ邸に投宿した。大戦勃発後、予備陸軍少尉として青島に応召した。兄は欧州大戦に従軍したが負傷し、一時期スイスに暮らした。大戦終結後は日本窒素(株)に入社し、その後もビジネスマンとして活躍した。東京の青山霊園に父、兄及び本人の墓碑がある。(熊本→久留米→習志野)

36)   エルンスト・A.ゾーダン(Ernst A. Sodan1876-?):3海兵大隊工兵中隊長で陸軍工兵大尉だった。1914119日の青島開城交渉では、ドイツ側の実務委員として地雷等の危険物除去に携わった。1114日、日本側開城交渉委員の堀内文次郎少将から絵葉書を贈られた。小柄であったが強靭な肉体と強い精神の持ち主で、部下を始め多くの人から親しみを持たれていた。久留米時代、収容所内での散歩を日課とし、久留米から故郷東プロイセンのケーニヒスベルクまでの距離8500キロを、1年以上の所内の散歩で達成し、収容所の仲間達から大喝采を受けた。収容所仲間からは親しみをこめて「小さな大尉」と呼ばれた。(熊本→久留米)

37)   フリードリヒ・ゾルガーDr. Friedrich Solger1877-1965):ベルリン大学等で地質学を学び、1902年にベルリン大学で学位を取得した。1907年ベルリン大学教授資格を取得して講師となり、1910年から1913年までは北京大学教授を務めた。1913年から翌年にかけては、中国地質図の作成を指揮した。予備陸軍少尉として属した3海兵大隊6中隊は、商人や官吏等の応召兵から成る部隊だった。そこでゾルガーは「勤務能力無し中隊」の戯れ詩や、青島陥落後には、愛惜をこめた「嗚呼、チンタオ」の詩を作った。松山時代は、収容所新聞『陣営の火』の編集に当たった。板東時代は、「中国について」の連続講義を45回に亘って行うなど数多くの多彩な講演を行い、所内最高の知性と謳われた。収容所新聞『バラッケ』の編集にも携わり、演劇の指導も行った。大戦終結して帰国後の19204月にベルリン大学員外教授、1946年からは東ドイツのフンボルト大学教授に就いた。(松山→板東)

38)   アレクサンダー・シュパン(Alexander Spann1890-?):ベルリンとハレの大学で農芸化学を学んだ。191210月、一年志願兵として青島に赴き、ニ年後に青島の独中・高等学校の農林学科助手に就任した。久留米収容所では植物の栽培に励むとともに、収容所雑誌『故国の三角旗』の主筆を務めた。解放後の1920年から九州帝国大学でドイツ語を教え、翌年から五年間、農学部で農業発達史の講義を担当した。この間山口高等学校でも三年間ドイツ語を教えた。日本語は収容所時代に学んだが、1924年に個人で発行したドイツ語雑誌に、夏目漱石『坊ちゃん』、武者小路実篤『その妹』、菊池寛『恩讐の彼方に』等、日本近代文学の翻訳を数多く発表した。一時期、神戸鉄道病院でドイツ語講師を務めたが、1927年再び九州帝国大学講師となった。上海のドイツ語雑誌にも、芥川龍之介『鼻』等の独訳を発表した。19343月に九州帝国大学を退職した後の消息は不明である。(久留米)

39)   ゲーオルク・シュテッヒャー(Georg Stecher1874-1922):父親はザクセン陸軍の軍医監で、若き日の森林太郎(鴎外)はその講演を聴き、夕食会にも招かれた。陸軍少佐久邇宮邦彦親王のプロイセン陸軍への受け入れと交換で、19079月ザクセン陸軍省から派遣されて来日した。東京の近衛野砲兵第14連隊付武官となり、山田耕三大尉と親交を結んだ。日独戦争では敵味方となり、シュテッヒャー大尉の無事を祈る山田大尉の葉書が、日本軍の前線からドイツ軍の前線に投げられた。収容中に少佐に昇進した。鳴門市のドイツ館には、「忍耐 ステッヘル少佐」の書が額に納められ展示されている。(松山→板東)

40)   カール・フォークト(Dr.Karl Vogt1878-1960):ベルリン大学で法律及び日本語、さらには音楽史や対位法を学んだ。大戦前から横浜で弁護士を開業し、日本の民法、商法を独訳して紹介した。19141月に発覚したシーメンス事件では、ドイツ人側の弁護人を務めた。久留米収容所時代は、数々の歌曲を作曲するとともに、演奏・指揮でも活躍した。大戦終結後も日本に留まり、日本におけるドイツ人の権益擁護、またドイツにおける日本の権利仲介に尽力した。神奈川県茅ヶ崎で没した。(熊本→久留米)

41)   ヴァルデマール・フォラートゥン(Waldemar Vollerthun1869-1929):19147月海軍省膠州課長としてドイツ本国から、膠州湾租借地視察のために青島に出張した。帰国の途に就いたところで大戦が勃発し、本省の命を受けて青島に引き返し、総督府参謀本部情報部長に就任した。収容中に大佐から少将に昇進した。習志野収容所で『青島攻防戦』を執筆した。序文には「1919101日習志野にて」と記されている。ドイツ海軍省編纂の海戦史の一章『青島戦史』は、この書物に多くを依拠している。(福岡→習志野)

42)   ヨハネス・ユーバーシャール(Dr.Johannes Überschaar1885-1965):ライプチヒ大学で法律を学んだ。1911年日本国憲法の研究により学位を取得して来日した。やがて大阪医学専門学校でドイツ語、ラテン語を教えたが、大戦が勃発すると、予備陸軍中尉として応召した。青島が陥落した117日、モルトケ兵営で行われた青島開城交渉では通訳の任に当たった。解放後、大阪医学専門学校に復職し、第二次大戦後は甲南大学等で教授を務め、日本に永住した。神戸・再度山に墓がある。(東京→習志野)

43)   ヴィクトール・ヴァルツァー(Viktor Walzer1872-1956):孫娘に当たる篠田和絵氏による祖父ヴァルツァー探しの感動的な一部始終は、「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」のホームページ、及び篠田和絵「メッテンドルフに眠る祖父ヴィクトール・ヴァルツァー」(所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号)に詳述されている。この出来事は、第一次大戦時のドイツ人俘虜問題が、90年前の単なる過去の事柄ではないことを示す好例である。また、篠田夫妻による俘虜研究家シュミット氏の日本招待によって、日独双方の俘虜・俘虜収容所研究家の交流が実現した。(大阪→似島)

44)   オスカル・C.フォン・ヴェークマン(Dr.Oskar C.v.Weegmann1879-1960):ミュンヘン及びハイデルベルクの大学で美術史を学び、1914年日本美術研究のために来日した。鴎外、フリッツ・ルンプと交わったが、3ヶ月後に戦争勃発し、予備海軍中尉として応召した。解放後は松山高等学校でドイツ語を教え、その地の女性と結婚、その後陸軍士官学校、陸軍大学でドイツ語を教えた。「日本の歴史」、「日本の教育」等の著書がある。終生日本で暮らし、1959年勳4等旭日章を受賞した。196059日、ドイツ東洋文化研究協会(OAG)事務所のデスクに向かったままで死去し、多磨霊園に埋葬された。ポツダム市の参事官を勤めていた兄がルンプ家の近くに住んでいたことから、フリッツ・ルンプとは旧知の間柄であった。(東京→習志野)

45)   ハインリヒ・ヴェーデキント(Heinrich Wedekind1889-1971):工業学校を出てドイツ海軍の機械整備係りとして軍艦に乗り込んだ。第一次大戦前に日本に来たことがあった。解放後は、久留米の「つちや足袋合名会社」(現月星ゴム株式会社)に迎えられ、50年余勤務して日本のゴム産業発展に寄与した。晩年は上田金蔵の日本名を名乗り、1963年に封切られた東宝映画『青島要塞爆撃命令』について、ヴェーデキントの感想が談話の形で新聞に掲載されたた。(熊本→久留米)

46)   ヘルマン・ヴォルシュケ(Hermann Friedrich Wolschke1893-1963):似島時代、屠畜職人だったケルン、シュトルの三人で、広島のハム製造会社で技術指導をした。広島県物産陳列館で開催された俘虜作品展示即売会では、バウムクーヘンを出品するようユーハイムを励まし、自身はソーセージを出品した。解放後は、明治屋経営の「カフェー・ユーロップ」のソーセージ製造主任になった。後に軽井沢に自分の店「ヘルマン」を創業し、終生日本で暮らした。「ホットドッグ」を日本に広めたと言われる。東京狛江の泉龍寺に墓がある。墓碑には、「祖国ドイツを誇り、第二の祖国日本を愛したヘルマン・ヴォルシュケここに眠る」と記されている。今日は神奈川県厚木で、息子のヘルマン・ヴォルシュケ氏が後を継いでソーセージ製造に従事している。(大阪似島)

47)   マックス・ツィンマーマンMax Zimmermann;生没年不詳):ロシア領ポーランドのガリチアの出身で、本名はヤン・パホルチックという名のポーランド人だった。22歳の時、ロシア軍のスターコンチノク歩兵第45連隊に入隊したが、一ヶ月後に脱走した。その後パリで約一年間指物師の修業をして、再びロシアに戻り、シベリア、トルキスタン、満州を経て中国を放浪し、1914年夏に青島に辿り着いた。病気と貧困に耐えられず、青島守備軍に国籍、居住地を偽って入隊した。病気のため衛戍病院に送られて後方勤務となるが、青島陥落で俘虜となり大阪収容所に移送された。191610月、反ドイツ感情が強かったことから丸亀に移された。板東では後に、収容所近くの分置所に隔離収容されたが、ポーランド国家の成立により、やがて宣誓解放された。(大阪→丸亀→板東)