俘虜群像(2

 

1)     ハインリヒ・アールHeinrich Ahl?-?):第3海兵大隊第5中隊(騎兵中隊)・1等兵。1914923日、青島北方の流亭で捕虜となった。日独戦争での最初のドイツ兵捕虜として、日本軍の傷病兵と一緒に病院船博愛丸で930日に門司に到着した。更に鉄道で久留米に移送されたが、負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された。(久留米)

2)     レオンハルト・アーラース(K.Chr.Leonhard Ahlers1869-1941):第3海兵大隊参謀本部先任参謀・退役陸軍大尉。1889年ヴュルテンベルク公国徒歩砲兵第13大隊に入隊し、第2少尉、第1少尉を経て、1902年砲兵中尉で退役した。クルップ社に入社後に退役陸軍大尉となり、クルップ砲の売り込み等のために中国へ派遣された。191411日、クルップ社北京支店顧問になった。日本語にも通じていた。大戦終結してドイツに帰国後再びクルップ社に復帰した。192012月陸軍少佐、1929111日、クルップ社取締役就任、1934年に年金生活に入った。(名古屋)

3)     ヴァルデマール・アーペルA.Waldemar Apel?-?海軍第2工機団第2中隊・予備1等焚火兵。似島時代の1919126日、広島高等師範学校の運動場において、高等師範学校、県師範学校、高等師範付属中、第一中の生徒と似島収容所の俘虜とのサッカー交歓試合が行われた。付属中の生徒でサッカーに出場した茂森薫の次の証言が残されている。「アッペルという常駐通訳官が居た。或る日彼の素性を聞いたところ、横浜で生まれ、三十年前(大正三年)の第一次欧州大戦のとき召集され、青島で日本軍と戦ったが俘虜となり、広島の似島に収容されたという。そして曰く、当時最も楽しかったことはコウシ[高師]のグランドでやる蹴球だったという」。解放後は広島電気機械会社に雇用された。(大阪似島)

4)     オットー・ベッカー(Dr.Otto Becker1885-1955):海軍膠州砲兵大隊第5中隊・予備兵曹。1912年、岡山の第六高等学校講師として招聘されて来日した。大戦勃発により応召して青島に赴いた。大戦終結してドイツに帰国後、1924年にベルリン大学で教授資格を得て、1927年から1931年までハレ大学、1931年から1953年まではキール大学近代史の正教授を務めた。1954116日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。(熊本久留米)

5)     アルトゥール・ビアルハ(Arthur Bialucha1880-1947):海軍膠州砲兵大隊第4中隊・後備1等砲兵。『青島住民名簿』には1907年の項にその氏名が記載されている。1907年から1908年にかけて煙突掃除職マイスターのマイヤーとともに、ハンブルク街とベルリン街の角で運送業を営んだ。1910年から1911年にかけてはある商会で左官頭として働いた。その後中国の他の都市に赴いたと思われるが、大戦勃発で青島に戻った。解放後は、青島での就職既定者として日本国内で解放されたがドイツに帰国した。やがて1926年に青島に再び戻り、建築の仕事に従事した。スタイル派の伝道会のための印刷所、陰島や台東鎮の教会を2棟設計した。その後も台西鎮のスタイル派教会の建築に従事した。(福岡大分習志野)

6)     フリッツ・ビーバー(Fritz Biber1875-1969):所属部隊不明・副曹長。石工マイスターを父にカールスルーエで生まれた。190011日中国に渡った。1902109日、青島で第4代膠州総督オスカル・フォン・トゥルッペル家の養育係りヘレーネと結婚した。青島時代当初は病院通、やがて市内中心のフリードリヒ街やブレーメン街に住んだが、1911年には河南街と大沽街の角、1912年には再びフリードリヒ街の269番地に住んだ。似島時代の19193月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催には額縁を出品した。1920年、アメリカのシカゴを経由して帰国した。93歳でランダウに没した。(大阪似島)

7)     カール・ブライトハルト(Karl Breithardt1891-1948):測量艦プラーネット乗員・2等水兵。商人として修業の後の19121213日に海軍に入り、河用砲艦チンタオの水兵となった。19141010日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となり日本へ移送されたが、111日宣誓解放された。その後中国に赴いた。191743日、北京で日本軍により中国管轄の海淀俘虜収容所へ送られた。19201月帰国船ハドソン丸でドイツに帰還した。電気会社で簿記係として勤務し、192164日に結婚して息子一人をもうけた。(なし;{海淀}

8)     ゴットフリート・デヒオGottfried E.Dehio1885-1954):海軍東アジア分遣隊第3中隊・副曹長。父親は著名な美術史家にして、シュトラースブルク大学教授だったゲオルク・デヒオ、また兄のルートヴィヒも歴史学教授であった。1904年、ベルリン大学東アジア研究所で中国学を学んだ。やがて中国へ渡り税関所に勤務した。大戦終結して解放後は一旦ドイツに帰国したが、その後オランダ領東インド(蘭領印度)のジャワに渡った。1926年時点ではバンドンに住み、やがてオランダの官吏になった。第二次大戦中の1942年から1945年まで、日本軍の捕虜収容所に収容された。第二次大戦終結後、看護婦をしていたオランダ人女性と結婚し、晩年はデン・ハーグで過ごした。(「熊本→」大分習志野)

9)     ラインホルト・エンゲル(Reinhold Engel1894-1942):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。191887日久留米から板東へ収容所換えになった。解放後の1920年、オランダ領東インドに渡った。オランダ人農園主の娘と結婚して子ども数人をもうけた。19405月オランダ軍の捕虜収容所に収容された。1942118日、478名のドイツ人市民捕虜を乗せたオランダ船ヴァン・イムホフ号でイギリス領インドへ移送されたが、翌19日スマトラ島沿岸で日本軍戦闘機の爆撃を受けて船は沈没した。オランダ側はドイツ人たちの救助を拒んだために400人以上の死者が出て、その中にラインホルト・エンゲルも含まれていた。郷里ボルステルの両親の家はエンゲル未亡人によって戦後売却された。(熊本久留米板東) 

10)  カール・ファーベル(Karl Fabel1887-?):第3海兵大隊第5中隊・1等蹄鉄工長。1914117日の降伏申し入れの際は、軍使カイザー少佐の旗手として白旗を掲げて先導した。松山時代、市内の大林寺で蹄鉄の講習を行った。また山越の弘願寺で開催された美術展覧会では、手工芸品中心の第6部門でコントラバスを出品して第二位を獲得した。19198月、名古屋収容所のカルクブレンナーによって作成された『獨逸人北海道移住ニ関スル趣意書』には、ファーベルに関する次の記述がある。「本職ハ馬蹄鉄匠及車輌匠多年同職に従事ス1907年ニ乗馬隊ニ入リ1910年春鍛冶工ニ命セラレ1910年ヨリ1911年迄ハノーヴェルノ陸軍蹄鉄学舎ニ入学ス、後ベルリン陸軍蹄鉄学校ノ六ヶ月実地講習ノ蹄鉄試験ニ合格シ青島ニテ蹄鉄工長タリ 鍛冶、獣医薬、馬畜及農用諸機械修繕ヲ特技トス」。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。(松山板東)

11)  カール・ガウル(Karl Gaul?-?:第3海兵大隊・陸軍歩兵中尉。元来は陸軍歩兵第35連隊附歩兵中尉だった。陸軍大学を卒業し参謀本部附となって日本に留学した。奈良の歩兵第53連隊附の時に日独国交断絶となり、奈良、大阪、神戸を情勢偵察して青島に赴き、青島ドイツ軍に加わった。熊本時代の1915111日、妻シャルロッテが陸軍大臣の許可を得て面会に訪れた。以後、毎週月曜午前9時に面会に来た。531日、第五高等学校ドイツ人教師ビュットナー嬢が、ガウル中尉等6名の面会に訪れて約1時間半面談した。ビュットナー嬢は将校夫人達の熊本到着から、家屋の借り入れ、日用品の購入等の手助けをしていた。1954116日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。(熊本久留米板東)

12)  オットー・ハンナスキー(Otto Hannasky1889-1949:海軍膠州砲兵大隊第3中隊・予備2等砲兵。1914年に膠州砲兵大隊に召集されるまで、ナイセ川東岸地区のグーベンで肉屋を営んでいた。徳島時代、収容所新聞『トクシマ・アンツァイガー』に肉屋の広告を絵入りで載せた。「ソーセージの製造を引き受ける決心をいたしました。おすすめは次の通りです。ウインナー17銭 豚足塩漬け115銭等」。板東時代は収容所内の食肉加工係を務めた。また、富田久三郎の経営になる牧舎に雇用され、ドイツ式の食肉加工や酪農の技術指導をした。解放後、1922年からはベルリンに住み、アレクサンダー広場にあるヘルティ百貨店内で肉屋を開業した。(「大阪」徳島板東)

13)  ヨーハン・ハッセルバッハ(Johann G. Hasselbach1891-1968):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。『獨逸人北海道移住ニ関スル趣意書』は、北海道にドイツ人による科学的な欧州農場を開く提案であった。『趣意書』の中でハッセルバッハに関しては次のように記述されている。「14歳にしてシュインスベルヒ小学校を卒業し三ヶ年煉瓦職を学ぶ、1912101日入隊迄父の農業に従事し凡ての方面を実地に修得せり、土木業(煉瓦業、建築業、パンストーブ、煉瓦製造業等)耕地羊豚畜業を特技とす」。カルクブレンナーをリーダーとする7名は、朝鮮蘭谷面で「機械農場」と称するドイツ式大農場(約千町歩)の経営を始めた。やがて他のドイツ人が朝鮮を離れた後もハッセルバッハは農場に留まった。白系ロシア人の妻との間にもうけた息子、及び義父は蘭谷で死亡した。1932331日、ハッセルバッハも農場を去った。(福岡名古屋)

14)  ヨーゼフ・ヴァン・ホーテンJosef van Hauten1879-1963):第3海兵大隊第6中隊・後備伍長。海軍歩兵大隊に志願したヴァン・ホーテンは、1900925日に上海に赴いた。第一次大戦が終結して解放後、明治屋に高給で迎えられた。やがて菓子職人ユーハイムを製菓主任、ヴォルシュケをソーセージ製造主任、ヴァン・ホーテンを喫茶部主任兼支配人とする「カフェー・ユーロップ」が銀座に開店した。19205月中旬、日本でトーニと結婚したが、192391日に起こった関東大震災でトーニは死亡した。19246月、山東省の省都済南でマリアンネと再婚した。1950年代には中国産品の貿易に携わった。ロストックに所有していた土地は、東ドイツ政府によって没収された。(「熊本」大分習志野)

15)  ヴィルヘルム・ヘルゲン(Wilhelm Helgen1895-1961:砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。東カロリン群島のポナペ島原住民で、技術習得のために青島の造船所に派遣された。日独戦争勃発とともに砲艦ヤーグアルに乗り組んだが、海戦で海に転落した。ドイツの艦船が逃走する中、日本の軍艦に救助されて俘虜になった。大戦終結後、ポナペ島で実業家として成功し、第二次大戦では日本軍に多額の献金をした2005年夏、ヘルゲンの息子から大使館を通じて、かつて救助してくれた日本軍艦の艦長や習志野俘虜収容所長への感謝を表すべく墓参の意向が習志野市教育委員会へもたらされた。同教育委員会の星昌幸氏の仲介等により、その年に山崎友造元所長の孫川村千鶴子氏がポナペ島を訪問して、ヘルゲンの息子と対面した。(東京習志野) 

16)  ヴィルヘルム・ヘルム(Wilhelm Helm1891-1951:第3海兵大隊・予備伍長。横浜に生まれ神戸で育った。母親は日本人で、12歳の時死別した。父ユリウスは1869年に来日し、紀伊徳川藩の兵学指南を務めた。廃藩置県後、神戸でヘルム兄弟商会を興し、東京、大阪、京都にも支店を置いた。ヴィルヘルムは19148月神戸から青島に応召した。日本語の方がドイツ語よりも達者で、収容所では通訳を務めた。熊本時代、父ユリウスが息子の面会に訪れ、その折りに炊事場の改良費として50円を寄贈した。解放後は横浜に住んだが、第二次大戦後の1947年、家族とともにドイツへ強制送還された。1951年ヴィースバーデンで没したが、翌年本人の遺志に添って遺骨は横浜の外人墓地に移された。(熊本久留米青野原)

17)  ヴァレンティン・イワノフ(Valentin D. Ivanoff1891-?:国民軍・卒。191654日、ウラヂスラフ・コフラーという名のオーストリア人と称して青島に流れてきた。ロシア語以外ほとんど理解しなかったとある資料には記されている。しかし別の資料に拠れば、191653日、長崎に着いた汽船の乗客に言動の怪しい人物がいることが判明し、5日に門司に入港した時点で取調べを行った。大阪収容所に収容後の取調べでは、時々刻々申し立てを変更した。やがて移された似島収容所における供述では、東部戦線で負傷し、ウラジオストックに戻ってペンザ号に乗り組んだがやがて脱走したのは、日本に収容されることを意図してのことであった、と記されている。『獨逸及墺洪國俘虜名簿』(日本帝国俘虜情報局作成)で唯一「釈放」と記載されている人物である。(大阪似島)

18)  カール・ヤーン(Karl Jahn1890-1959:海軍砲兵中隊・1等水兵。習志野時代、4名のソーセージ職人と、千葉市に新設された農商務省畜産試験場の飯田吉英技師の求めに応じてソーセージ造りの秘伝を教えた。この技術は農商務省の講習会を通じて全国の食肉加工業者に伝わり、習志野は日本におけるソーセージ製造の発祥の地となった。当初彼は伝授を躊躇ったが、西郷寅太郎所長の熱心な要請に応じて公開した。その後も指導の労役に赴いた。「海軍一等水兵カール・ヤーン。労役ノ種類 腸詰製造作業。場所 千葉県東葛飾郡船橋屠殺場構内。時間 自午前八時至午後四時(日曜日祭日ヲ除ク)。賃金 日給壱円」と、ある資料に記述されている。解放後は東京市神田区三崎町の東京牛乳株式会社に、腸詰製造技師として就職した。(東京習志野)

19)  カール・カップラー(Karl Kappler1890-1945):国民軍・卒。父親は1898年頃に青島でレンガ製造会社を設立した。1905年ごろに父親は青島を去り、やがてカールが会社を経営した。1916410日青島からただ一人、憲兵に付き添われて大阪俘虜収容所に移送された。解放後は青島に戻り、マルタ・ヴァルターと結婚した。マルタは1900年からずっと青島で過ごしていた。父フーゴー・ヴァルターと弟フーゴーは、ともに俘虜として日本の収容所に収容されていた。婚姻届は1920329日に青島の日本の役所に提出され、515日にフランツ・オスター(後出)の家で結婚式が執り行われた。やがて山東省の省都済南で貿易商社を興して輸入業を営んだ。第二次大戦終結の年の1945年、東部戦線で戦死した。(青島大阪似島)

20)  ゲオルク・カイパー(Georg Keiper1877-1951):3海兵大隊第7中隊・予備副曹長。ベルリンで鉱山学を学び、ドイツ博物館の前身である「自然科学・技術傑作博物館」の研究者になった。1906年始めに北京に赴き、やがて190910月、青島に設立された徳華高等学堂の講師に就任した。1914110日、シュトラースブルクで結婚したが、大戦が勃発すると妻はドイツへ帰国した。負傷したカイパーは衛戍病院に収容され、1915年初めに大阪俘虜収容所へ移送された。解放後は、南満州鉄道系列の鞍山鉄鋼所に勤めた。一時期ドイツに帰国したが、192410月から1927年まで奉天の北東大学講師として勤めた。1927年にドイツに帰国し、蒋介石の国民党政府が南京に樹立されると、中国に赴いて学術・技術顧問になった。1935年郷里のミュンヘンに戻り、その地で没した。(大阪似島)

21)  パウル・クラウトケ(Pau l Klautke?-?:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。青島食肉加工場の検査官をしていた松山時代、公会堂の講習会で物理学の講師を務めた。収容所新聞『ラーガーフォイアー』第133号に、「松山の動物と植物」の記事を寄稿した。板東時代は収容所で食肉の検査をした。工芸品展には付属品付きの養蜂箱を制作・出品した。時に板西農養蚕学校に出張して、植物標本の作製方法を指導した。1919124日には、「米と茶の栽培及び養蚕」の写真展を開いた。解放に際しては板東小学校に植物標本を寄贈した。解放後は上海に渡り、1922年まで上海の同済大学に勤務した。その後帰国してハノーファーの出版社から、『中国の有用植物と有用動物』を出版した。(松山板東)

22)  ランベルト・コッホ(Lambert Koch1888-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。ルクセンブルク王国人だった。アルジェーやモロッコの外人部隊を渡り歩いたが、素行不良でフランス領インド(仏領インドシナ)に送られた。老開の国境守備軍に配属されたが脱走し、上海等転々としてドイツ軍に義勇兵として雇われた。青島陥落で俘虜として日本に送られると、フランス大使館に欧州戦争への従軍を願い出るが却下された。松山時代の191632日、「夜陰ニ乗ジテ共謀脱柵シ酒楼ニ登リシ科」で重営倉30日に処せられ、また同年48日には、「歩哨ノ制止ニ対シ速ニ服従セサリシ科」で重営倉20日に処せられた。板東時代にも19194月、「佛国旗ヲ製シテ振リ回シ独逸俘虜ニ喧騒ヲ来サシメ我ガ官憲ヲ煩シタル科」で重営倉15日に処せられた。習志野へ移送されて宣誓解放された。(松山板東習志野)

23)  ゲオルク・キュールボルン(Georg Kühlborn1888-1969:第3海兵大隊第7中隊・予備陸軍少尉。大戦勃発時は北京大使館で通訳官として勤務していた。大戦終結して解放後は北京に戻り、北京大使館秘書官に就いた。1930年奉天領事になったが、1945年の日本の敗戦以後にソ連軍によってシベリアの強制収容所に送られた。1953年にソ連から解放されて郷里カッセルに帰還した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。(丸亀大分習志野)

24)  グスタフ・マタイス(Gustav MathaisMatheisとも);1895-1915):海軍膠州砲兵大隊第2中隊・2等砲兵。1915413日静岡で死亡し、静岡県安倍郡千代田村沓谷(当時)の陸軍埋葬地に埋葬された。この埋葬地には、日独戦争における戦病死下士卒の慰霊碑「大正三、四年戦役戦没戦病死下士卒碑」が建立されている。題字は青島攻囲軍司令官神尾光臣中将の書になる。埋葬地(約2200坪)は、現在も旧陸軍墓地として護られている。墓石は大正7年頃建設された。高さ二尺六寸、幅二尺四寸五分、奥行き九寸の馬蹄型の墓碑には、「祖国の英雄として没した2等砲兵グスタフ・マタイスここに永眠する」の銘文が刻まれている。(静岡)

25)  カール・メルク(Dr.Karl Merck1886-1968):3海兵大隊機関銃隊・予備陸軍少尉。ダルムシュタットにある医薬・工業薬品会社メルク社の社長の息子であった。熊本時代の19141214日、薬学博士田中秀介(東京市本郷区)が衛戍司令官の許可を得て面会に訪れ、煙草、茶、新聞を差し入れた。これが熊本収容所における最初の俘虜面会であった。久留米時代、ニューヨーク市のメルク商会から頻繁に送金があった。大正8年頃、名古屋の落合化学で共同研究をしていたエンゲルホルンの推薦で、その後任として久留米収容所から招かれた。メルクとエンゲルホルンは大学時代からの友人だった。1954116日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席して寄付をした。また19595月にククスハーフェンで開催された「戦友会」では、「わが東アジア旅行」と題して講演した。(熊本久留米→名古屋)

26)  フリードリヒ・ミュラースコフスキー(Friedrich Müllerskowski1886-?:第3海兵大隊飛行部隊・陸軍少尉。19073月陸軍に入隊し、19069月少尉、19148月第3海兵大隊飛行部隊所属となる。俘虜として日本へ移送された後の19141128日、陸軍中尉に昇進した。青島独軍保有の飛行機二機の内、「E1号(旧式ル式)」を操縦したが、191482日、墜落して重傷を負い、青島陥落まで総督府衛戍病院に入院していた。『大阪時事新報』(大正31116日付け)は、ミュラースコフスキーは飛行服を身につけて門司港に着いて異彩を放ったと報じている。(熊本久留米)

27)  フランツ・オスター(Franz Oster1869-1933):第3海兵大隊飛行部隊・飛行士。小学校卒業後、機械工になるために親方の元で修業し、機械学校にも通った。その後5年間ドイツ、スイス各地とウィーンに遍歴修業に出た。やがて軍隊勤務の時期が訪れると海軍に入った。乗り組んだ巡洋艦の艦長は皇帝の弟ハインリヒ皇子で、その目に留まったオスターは、青島の建設に寄与するよう勧められた。資産家や伝道会の援助を受けて工作所や造船所を建てた。1909年、工作所や機械類を売却してドイツに戻った。飛行機操縦の免許を取得し、飛行機を購入して青島へ運び、191379日に青島での初飛行を行った。所有する飛行機は日独戦争直前に総督府に買上げられた。解放後、青島に戻り工作機械会社を再興し、1933年青島で没した。墓石には錨とプロペラがレリーフされた。熊本大分習志野)

28)  コンラート・パッツィヒ(Conrad Patzig1885-1975:海軍膠州砲兵大隊・海軍中尉。『廣島中國新聞』(大正8120日付け)には次の記述がある。「獨逸俘虜團の運動競技 鮮なる其技倆に觀衆舌を巻く。島縣ヘ育會體育部主催に係る獨逸俘虜團體育競技大會の第二日は雪混じりの吹く風寒き昨十九日午後十時四十分より前日に引續き高等グランドに於て開催された。前日の如くパッチヒ中尉以下五十名の獨逸俘虜團は上田歩兵大尉引率の下に似島より來校して直に競技に移りたるが、雪風寒く肌を劈くが如き有様なるにも拘らず、競技の俘虜團は木綿一枚の上襦袢に薄き白の猿股仕掛と云ふ身軽き運動姿のユニホーム服に、威風堂々と競技塲に現れた」。「チンタオ戦友会」に出席した。(大阪似島)

29)  アルフレート・プラール(Alfred Prahl?-?:第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。久留米時代の演劇活動では、ケルナー作の喜劇『夜番』等6演目に出演した。19193月に発行された『久留米詩文集』に、プラールの抒情詩「クライストの墓にて」等7編と、叙事詩「ハンス・フンデルトゲズィヒトの生活からの夜景」等2編が掲載され、前記2編はそれぞれが抒情詩部門と叙事詩部門の一等賞に輝いた。久留米収容所随一の詩人と目された。1919年にカール・フォークト(Karl Vogt)作曲の『四つの歌』の内の「夕べのヴァイオリン」を歌った。なお、ミュラー2等歩兵のスケッチになる『久留米のぞき眼鏡』の文章を担当した。(久留米)

30)  ヴァルター・プリンツ(Walter Prinz?-?:海軍膠州砲兵大隊第3中隊・砲兵軍曹長。徳島時代、1915125日付けの収容所新聞トクシマ・アンツァイガーによれば、プリンツは1128日に開催されたスポーツ大会の「棒高跳び」で、2.75メートルの成績で1位になった。また「走り幅跳び」でも5.63メートルで1位だった。更に「3段跳び」では、ラグーゼ2等砲兵と1位を分け合い、6種目総合では87点の成績で1位になった。板東時代、収容所体操協会による創立記念体操会の折りには、壮年組の徒手体操とゲームを指導して大会を活気づけた。砲兵大隊スポーツ協会の役員を務めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。(「大阪」徳島板東)

31)  アドルフ・ラーデマッハー(Adolf Rademacher?-?):3海兵大隊7中隊・伍長。丸亀時代、神戸市に住む妻の名倉小松が28回面会に訪れた。1916128日の面会では、故郷の播州へ帰るに際しての告別と今後の処置を日本語で会話した。ラーデマッハーは旅費として30円を妻の小松に渡した。小松はその際に夫と同じく俘虜となっている義弟のグスタフ・ラーデマッハーとも面会した。414日、播州飾磨郡置塩村に移った名倉小松が面会に訪れた。会話の中身は、生活困難を訴えるなどの家庭の現況、友人の状況、及び小松が横浜方面に出稼ぎに出ることへの可否についてであった。(丸亀板東)

32)  フリードリヒ・ラーゼナック(Friedrich W. Rasenack?-1920:第3海兵大隊・予備副曹長。松山時代はシュランメル楽団を設立するなど、ラーゼナックが松山での音楽活動の先鞭をつけた。板東時代、19175月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した。また絵画と工芸品展覧会の肖像画部門に作品を出品して一等賞になった。俘虜送還船豊福丸がシンガポールに着く直前、1920111日午後25分に肺炎のため死亡して水葬に付された。豊福丸船内で発行された新聞『帰国航』第2号は、ラーゼナックの追悼記事を冒頭に掲げた。それによるとラーゼナックは、神戸で乗船した時に既に重い風邪に罹っていた。(松山板東)

33)  オットー・ライマース(Otto Reimers?-?):3海兵大隊参謀本部・予備陸軍少尉。大戦前、横浜の買薬業オットー・ライマース商会を経営していた。名古屋収容所では、カルクブレンナーとともに日本語通の俘虜だった。19189月、「散歩ノ際飲食店ニテ飲食シタル科」で重謹慎5日の処罰を受けた【「俘虜処罰表(大正七年九月中)俘虜情報局」より】。シュリック陸軍中尉とテニスコートのネットを挟んで、にこやかに握手している写真が現存している。横浜に在住していたヴェルナー・ライマースは実弟で、丸亀及び板東に収容されたエルヴィン・フォン・コッホはヴェルナーの義兄に当たる。(名古屋)

34)  カール・ローデ(Carl Rohde1871(?)-1923):所属部隊不明・階級不明。1905年以来、青島にあったジータス=プラムベック商会の共同経営者だった。1915114日に俘虜となって大阪収容所へ送られた。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。青島から商用で日本に来て滞在中の192391日、関東大震災に遭遇して死亡した。(大阪似島)

35)  ヴァルター・ロルハウゼンWalter Rollhausen1887-1967):第3海兵大隊機関銃隊・陸軍少尉。父親は外交官で母親はノルウェー人だった。法律を勉強して外務省に入った。日本語と中国語を含む8ヵ国語を流暢に話す抜群の語学力を買われて、通訳官として東京のドイツ大使館に派遣された。1914112日未明の日本軍の攻撃に際しては塹壕で、機関銃が運び込まれるまでのいっときたった一人で日本軍の攻撃に耐えた。解放後の1920年に再び外務省に勤務した。やがてナチスによって外務省を追放されてからは会社員となり、ナチ抵抗運動に加わった。第二次大戦終了後、外務省への復職を願ったが実現しなかった。(大阪似島)

36)  クルト・ロートケーゲル(Curt Rothkegel1876-1946):3海兵大隊工兵中隊・後備陸軍少尉。建築の修業を積んだ後、1903年に青島に赴いた。1904310日第6工兵大隊予備役少尉となる。1905年青島で建築事務所を開いて独立した。一時期ドイツに戻ったが、1909年に再度中国へ渡り、天津、北京で建築事務所を開いた。ロートケーゲルの設計になる建造物としては、福音派教会堂の他に、オットー・リンケ予備少尉が経営していた「鷲屋薬局」等数棟が2007年時点で現存している。板東時代、収容所新聞『バラッケ』に、ロートケーゲルによる大麻神社境内の祠のスケッチが掲載された。解放後は青島へ赴いた。やがて1923年に満州の奉天で建築事務所を開いたが、1929年にドイツへ帰国した。(熊本久留米板東)

37)  ハンス・サルトリ(Hans Sartori?-?:海軍東アジア分遣隊・1等歩兵。久留米時代は演劇活動で、ルートヴィヒ・トーマ作のバイエルン方言による農民笑劇に出演した。サルトリは山岳ガイドや狩猟の仕事をしていた山育ちの男とのことであったが、捕虜生活がひどく堪えていた。強いホームシックにかかっていて、故郷の方言を耳にしただけで、ドイツ・アルプス最高峰のツークシュピッツの話をしたとのことである。19191221日の久留米恵美須座での幕間演芸で、サルトリは南ドイツの靴踊りを披露して大喝采を博した。こうしたことから、斉藤茂吉の『蕨』に登場する元俘虜はサルトリと考えられる。ガルミッシュ=パルテンキルヒェン出身。(熊本久留米)

38)  ハインリヒ・シュミット(Heinrich Schmidt?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。庭師をしていた北京から応召した。妻は日本人で、名はTsune(ツネ?)だった。丸亀時代、東京市芝区松本町の会社員の妻辻川英が面会に訪れ、シュミットの妻や友人のことなどについてドイツ語で談話して、みかん、鶏卵、菓子を差し入れた。また同じ頃に、観音寺女学校職員織田シカが菓子二箱を差し入れに来た。織田シカは北京に居るシュミットの妻の知人だった。更には、愛媛県新居浜郡西條の織田仁太郎が訪ねてきて日本語で会話した。二人は1908年から1909年にかけて北京で花卉商として従事した当時の思い出などを話し合った。板東時代は郡立農蚕学校等に招かれて講演をした。シュミットによる試作地での野菜栽培は10種に及ぶ。トマト、赤ビート、キャベツ、玉葱はそれまで板東地方にはなかったと言われる。(丸亀板東) 

39)  リヒャルト・シュラム(Richard Schramm1898-1969:海軍第2工機団測量船第3号・2等機関兵曹。19141019日、東カロリン群島のトラック島で捕虜となり久留米俘虜収容所に送られた。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、1919510日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名)、63点を獲得して第7位になった。2006113日、孫娘のエルケ・セペス氏はベースコウにおいて、祖父が遺した二冊の日記を基に、久留米収容所での生活等について、多くの写真やスライドを用いて講演をした。(久留米)

40)  ヴィルヘルム・ゾイフェルト(Dr.Wilhelm D. Seufert1885-1974):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備副曹長。シュトラースブルク及びハイデルベルクで神学を学んだ。1912128日、宣教師にして中国学者リヒャルト・ヴィルヘルムの補佐として青島に着いた。解放後の192041日ドイツに一時帰国して結婚し、1922年に学位を取得すると再び青島に戻り、宣教師としての活動をした。第二次大戦後は共産党治下での布教活動の難しさから、1952330日妻とともに青島を去った。青島陥落50年に当たる1964年のニュルンベルクでの「チンタオ戦友会」に向けて、1920年以降の青島に通じている唯一の元俘虜として、共産党治下の教会の状態や、ドイツ時代の建造物や住居が共産党の施設や要人の別荘に使用されていることを書簡で伝えた。(熊本久留米青野原)

41)  ヴィルヘルム・ジームセン(Wilhelm Siemssen1890-1961:第3海兵大隊第5中隊(騎兵中隊)・戦時志願兵。ジームセン商会を営む父グスタフとその妻(旧姓デン「Deng」;上海生まれの中国人)との間に、14人兄弟の4男として福州に生まれた。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した。また板東公会堂での絵画と工芸品展覧会では、肖像画部門の一等賞を受賞した。解放後はオランダ領東インドに渡ったが、1922年には父祖の地ハンブルクに戻った。やがてケーニヒスベルクで歯学を勉強して、1931年から歯科医として働いた。その後ハンブルクとベルリンで追加の勉強をして、1942年からはハンブルクで医師として働いた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。(松山板東)

42)  ハインリヒ・シュテフェンスHeinrich Steffens1880-?):第3海兵大隊6中隊・予備副曹長。大戦前は東京の独逸学園の教師だった。松山時代、公会堂の収容所講習会で英語の講師を務めた。また、19173月初めの公会堂での最後の演劇、レッシングの『ミンナ・フォン・バルンヘルム』では主役のミンナ演じたが、それは「身振り一つ、まなざし一つ見ても全くのレディー、完璧な貴族の令嬢」であった板東時代、19175月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、ヴィオラを担当し、合唱団にも所属してバスを担当した。解放後は日本に留まり、東京の独逸学園教師に復帰した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席。(松山板東)

43)  ヴァルター・シュトレンペル(Walter Strempel?-?):所属部隊なし・2等掌砲兵曹。元キールの海軍水兵第1大隊所属。1912年アメリカに渡りペンキ屋となったが、1914113日アメリカ軍の歩兵大隊に志願してマニラに赴いた。19152月除隊してサンフランシスコに戻る途中長崎に寄港した。上陸して酒をしこたま飲み日本の官憲に見咎められた。たまたまドイツの新聞を持っていたため逮捕され、久留米俘虜収容所に送られた。当時24歳だった。1916410日ヴィラーバッハと逃亡するが、417日長崎で捕まり、禁錮16ヶ月の刑を受けて福岡監獄に収監された。(久留米)

44)  フランツ・ズーラン(Franz Suran?-1917):海軍砲兵中隊・後備2等兵曹。東京時代の191412月、不服従の行動で重営倉3日に処せられた。更に1915629日には、収容所内の酒保が閉店になってから酒の販売を強請し、空き瓶で酒保監督の軍曹を殴ろうとして重営倉10日の処罰を受けた【『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独國俘虜関係雑纂』21冊の内の第8巻より】。習志野時代の191612日、「逃走ヲ企テタル科」で重営倉20日、714日には「収容所医師ニ対シ不軍紀ノ言動ヲナシタル科」で重営倉20日、入院中の1021日に「脱院シ逃走ヲ企タル證跡顕著ナル科」で重営倉30日、更に1917817日に「逃亡ヲ企テタル科」で重営倉30日に処せられた【「俘虜処罰表(俘虜情報局)より】。1917829日習志野で死亡した。(東京習志野)

45)  パウル・ヴァルター(Paul Walther?-?):3海兵大隊7中隊・2等歩兵。大戦前はジームセン商会青島支店に勤めていた。麦藁帽子の材料である麦稈真田の買い付けのために、青島から丸亀に再三出張で来たことがあった。麦藁の漂白、圧搾、軟靱等の諸工程から帽子の完成に至る技術に習熟していたことから、丸亀市の勧業課と提携して工場建設の話しがもちあがったが、実現はしなかった。191525日には、多度津町の商人大島吉平と斉藤佳都の二名が面会に訪れ、日本語で会話を交わし10円を寄贈した。解放後はオランダ領東インドに渡ったが、ほどなくドイツに帰国した。(丸亀板東

46)  ハッソー・フォン・ヴェーデルHasso von Wedel1868-1933):第3海兵大隊第3中隊長・陸軍少佐。18889月陸軍に入り、1890年歩兵少尉、1898年中尉に昇進した。1905年大尉に昇進するとともに海軍歩兵部隊に移った。19145月少佐に昇進した。習志野時代の191939日のコンサートでは、サラサーテの「チゴイネルワイゼン」及びシューマンの「トロイメライ」をピアノ演奏し、また同年73日の文化・体育祭では第1部の収容所楽団の指揮をした。さらに同年105日、「マルフケ予備伍長への謝恩の夕べ」では、終了の音楽としてヴェーデル作曲の「大分行進曲」がヴォストマン1等軍楽兵曹指揮の収容所楽団によって演奏された。大戦終結して解放後は、シベリア鉄道の陸路でドイツへ帰還した。(「熊本」大分習志野)

47)  カール・ヴァイス(Karl Weis?-?:第3海兵大隊第1中隊・後備伍長。身長195センチの大男だった。久留米時代の1915316日、三井郡役所の書記が筑後川架橋設計図を持参して、架橋技師のカール・ヴァイスに意見を求めに収容所を訪れ、翌日一緒に視察に出掛けた。191751日、名古屋市熱田服部商店の機械工場で労役に就くために、名古屋俘虜収容所へ収容所替えになった。また名古屋市の興和紡績桜田工場に、ドイツのランツ社製のボイラー据付に派遣された。工場と収容所が近かったことから、後に毎日収容所から工場に通って技術指導をした。解放後は神戸市の神戸桟橋株式会社で機械技師として働いた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。(久留米名古屋)