* 訳注 (瀬戸、俘虜名簿より): Hack(ハック),Dr. Friedrich(1887-1949):総督府参謀本部通訳・予備陸軍中尉。法学博士。父ハインリヒは医学の大学教授で、母ヘンリエッテは児童文学者であったと言われる。1912年から大戦勃発まで、南満州鉄道東京支社の調査部に勤務し、総裁の後藤新平の秘書を勤めていた。福岡俘虜収容所では通訳を務めた。1916年1月19日の軍事法廷で、捕虜4名の逃亡を助けたかどで懲役1年6月の判決を受けた。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。大戦終結して解放後は一時日本に残留したが、やがてドイツに帰国して、クルップ社の駐日代表だったアードルフ・シンチンガーと「シンチンガー・ハック社」を設立し、軍需品ブローカーとして日本海軍ベルリン事務所と密接な関係を持ち、1936年の日独防共協定締結に際しては重要な役割を果たした。(1154:福岡→習志野)
 
   ** 訳注 (瀬戸、俘虜群像より): ヨハネス・ユーバーシャール(Prof.Dr.Johannes Überschaar;1885-1965):ライプツィヒ大学で法律を学んだ。1911年日本国憲法の研究により学位を取得して来日した。やがて大阪医学専門学校でドイツ語、ラテン語を教えたが、大戦が勃発すると、戦時通訳として応召した。青島が陥落した11月7日、モルトケ兵営で行われた青島開城交渉では通訳の任に当たった。解放後、1919年から1930年まで再び大阪医学専門学校に勤めたがその後ドイツに戻り、1932年から1937年ライプツィヒ大学日本学教授となり、日本文化研究所を設立して初代所長となった。1937年再度来日し、第二次大戦後は甲南大学等で教授を務め、日本に永住した。神戸・再度山に墓がある。(東京→習志野)