シェークスピアハムレットについて 
                  ──特に主人公ハムレットの正義感について
 
          英米文学科英米文学コース一年  小阪森人
 
 この小説の主人公は、言うまでもなくハムレットである。主人公というものは、概して、作者の意図を反映したもの、若しくは、作者の問題としているものであることが多い。では、この小説もその例に漏れないものとしたとき、この小説の主人公ハムレットは、一体作者の何を反映しているのか。
 僕の考えるに、それは正義感ではなかろうか。冒頭から結末まで、ハムレットを支配しているものは、先王ハムレットのためのクローディアスへの復讐心である。復讐心というものは、その原因が己と関わるときには正義でも何でもない。しかし、それが他人と関わるものであるとき、それは正義感に由来するものである。シェークスピアは、この小説の中で、彼を正義感の権化として描き、それに対立するものとして、悪の権化クローディアスを置いたのであろう。
 小説なるもの、これだけの技量で書かれると、そのテーマのみで十分名著として君臨するであろう。しかし、この小説には、他にも多くの複雑な要素が絡み合っている。それは、例えば先王ハムレットの霊(これはおそらく、ハムレットの心の奥底にある正義感の声を体現したものではなかろうかと僕は推測する)であり、オフィーリア(彼女は、この小説の中で一際異質のものとして描かれているように思う。これについて論ずるには、また別のサブタイトルを付けて、その機会に述べねばならない)であり、ガートルード(彼女は悪に立ち向かうことの出来ない、心の弱さを象徴している。ハムレットは彼女をクローディアスに次ぐものとして批判している)であり、墓堀りの道化であり、独白めく際のハムレット(これら二者も、シェークスピアのよく使う、読者には理解に苦しむナンセンスと辛辣な社会批判を幾分含んだ、大体において難解な言葉で書かれる、異質な役割を担うものであろう)である。一つの小説に、これだけの要素が含まれていて、その各々が作者の深い思想を反映し、しかもそれが非凡な文章の巧みさによって描かれている。このことこそ、この小説が世界の名著中の名著と呼ばれる所以であろう。
 ここで再び本題に戻って、ハムレットの正義感について再度述べる。
 ハムレットは作者シェークスピアの正義感の現れ、若しくは、作者の正義感の理想像であろう。それは、どんなものにも屈することがない。嘗ての学友の諭しや、愛するものの誘惑や、クローディアスの陰謀という過程を経ても、それは決して屈することがない。だからこそ、ハムレットは正義感の権化として描かれ得り、また抽象概念としての絶対的正義感を体現出来るのである。
 また、彼は、彼の目的の遂行にとって邪魔となる、あらゆるものを撥ね除ける。嘗ての学友、クローディアス、母ガートルード、そして愛するものでさえも。そこに、シェークスピアの絶対的な正義への強い意志、若しくは、強い憧憬が窺える。これは悲劇である以上、ハムレットは最後には死に追いやられるが、それは決して正義の敗北を意味しない。彼の死が持つ役割は、世界の悪の醜さの強調である。正義が悪によって頽廃させられていることの痛烈な批判である。そして、ハムレットはその世界の醜悪の犠牲者である。
 この小説は、非常に多くの要素が絡まり合っているので、原稿用紙数枚という枠組みの中では、全てを論じきることは到底出来ない。縦しそれが出来たとしたところで、それの価値はこの小説自体の価値の千に一にも及ばないであろう。論ずることは、あくまで、自分の中で原典をよりよく理解するための一契機に過ぎない。また、非常に優れた論文でさえ、それを読むものに、原典をより理解し易くするための道具として役立つどころか、原典を無機的なものにしてしまって、逆にそれの価値を下げてしまうことも少なからずある。よって、僕がこの論文を書いた有意義性は、その前者においてのみ存し、またそれのみで、僕にとっては充分余りあるものである。