※ 三木成夫が墨書した「早船の記」の訳・注などを以下に記しておきます。以下の目次の一から三までは、ほぼすべて匿名希望のある方のご教示によるものです(四はあるホームページから)。なお、一部分サイト管理人自身が訳したところもありますので、もし誤訳等に気付かれましたら、連絡をいただけましたら幸甚に存じます。
 
 
目次
一、 三木が墨書した其角の「早船の記」をデジタル化してカナを振ったもの
二、 現代語訳
三、 注
四、 其角について
 
 
一、 三木が墨書した其角の「早船の記」をデジタル化してカナを振ったもの
 
蕉尾琴(しょうびきん) 頌の巻
 
   早(はや) 船(ぶね) の 記(き)
 
一日琴風亭にあそんで、二挺(にちょう)こぐ船の時となく行(ゆき)かへるを見るに、まことに観念のたよりなきにしもあらず。古人の意氣をかすめては、徒(いたず)らに楊墨(ようぼく)がともからに落(おち)、安楽の果に乗じては、閑(しず)かに長明が方丈をうらやむ。人生の限りあるをや。心をし志に屈せるものヽくるしみ也。爰(ここ)に南、大橋をへて、上まつち山のふもと、今戸の橋にこぎ入る。一瞬の間に万里の思ひをめぐらし、箭(や)よりもとく、翅(はね)よりもかろく、いさみある聲を帆にあげて、数十艘こぎつれたるに遠(とおき)かたも有(あり) 笹の葉を打ちらしたるに似たりとかや。誠に似たり。船ごとに火縄をゆらして、後(アト)さきの見ゆるこそいみじけれ。
 
・・・・かの四大種の苦シみのみ恐れて、分別の栖(すみか)をしむるとも、それ幾とせならず。一己無心にして此舟にのるべし。煩悩に漂泊してのり得(うる)人はあらじと、一瞬の櫓(ろ)をおさへて生路を勘破(かんぱ)ス。
              晋子醉書  成夫
 
 
二、 現在語訳
 
蕉尾琴(しょうびきん)(*1) 頌の巻
 
(はや) 船(ぶね) の 記(き)
                      
 一日琴風亭(*2)にゆったり時を過ごしつつ、二挺櫓(*3)で盛んに行きつ戻りつする、あたかも人生を思わせるような舟々を眺め遣って思ったことである。仏教的な深い洞察や観想が人生に無力という訳ではないのである。そうではなく古の賢人の心意気を騙(かた)って、不心得にも楊朱や墨鋤の説になじんで外道にも走ってしまう(*4)。その挙句、安逸を貪る果てに鴨長明の方丈での逸民の気ままな生活をうらやむような次第となってしまう。限りある人生であるのに虚しく時を送ることになる。こうなってしまうのも中国古代の尸子(しし)などと言う雑書・雑家に心を寄せたからで(*5)、本道を外した事からくる苦しみなのである。 今ここに南の大橋を経て、上待乳(まつち)山(*6)のふもとのにある今戸橋(*7)に漕ぎ入っていく。一瞬の間に万里の彼方に思いを巡らし、矢よりも速く、羽よりも軽く、元気ある声を帆に向かってあげて、数十艘のをあとに従えていると、遅れて遠くに見える舟もある。水面に笹の葉をうち散らしたのに似ていると言えようか。誠にそれに似ている。舟ごとに火縄を揺らせながら、前や後ろに見えるのもおもしろいことである。
 
 生老病死の人生の四大苦だけを徒に恐れて、世俗的な小賢しい分別の世界に時を送った所で、もとより無常迅速の人生である。そんなことより己を虚しくして無我を感得し、解脱と救いの渡し「舟」に乗り移るべきである。仏教的な救済、象徴的に言えばこの舟へは、煩悩に漂っている人間で乗り得る者は居ないであろう。救済の舟に乗り、仏道無我の機微に触れれば一瞬にして人生の何たるかを喝破できるのである。
晋子醉書(*8)  成夫
 
 
三、 注
 
(*1) 「蕉尾琴」 → 其角の著書 3冊  榎本其角編 萬屋清兵衛板 元禄14年(1701)刊
(*2) 「琴風亭」 → 琴風の屋敷の意。琴風は柳川氏。初め不卜の門、のち其角門の俳人。
(*3) 「二挺櫓」 → 二本の櫓で漕ぐ舟
(*4) 「楊墨」 → 諸子百家のうちの楊朱と墨子。その学説を奉ずる楊家と墨家。前者は利己、後者は兼愛を主張。左右の両極端として儒家から排撃された。
(*5) 孟子は墨鋤・楊朱の末輩が世に蔓延るのを嘆いていたが、尸子(しし)はこの楊朱に近い戦国時代の雑家である。
  下線部の別解
   別解 その1 → 四事、すなわち世俗の衣食住などに心をかまけたからで
   別解 その2 → 自恣、すなわち心の欲しい侭に従ってしまったからで
(*6) 「まつち山」 → 新吉原の近くにある 以下のホームページ参照
(*7) 「今戸の橋」 → 新吉原の近くにある 以下のホームページ参照
   http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/taitou-imamukasi/imadobasi.html
(*8) 「晋子醉書」 → 「晋子」は其角の号。「晋子が醉って書いた文章」の意
 
 
四、 其角について
 
其角 (1661〜1707)履歴 
 寛文元年江戸堀江町に生る、父は竹下東順、近江堅田の人、医を業とした、榎本は母方の姓なりと、或は云く、幼時父に従うて江戸へ来て神田於玉が池に住んだと、十四、五歳の頃、芭蕉の門に入り、俳諧を学んで号を螺舎と云ひ、間もなく其角と改名した。十六歳までは家業の医を草刈三越に学んで、医名を順哲と言ったが、十六歳から漢学を服部寛齊に学び、詩と易とを鎌倉円覚寺の大嶺和尚に学び、又画を英一蝶に、書を佐々木玄龍に学び、多技の人であった、後米元章の書法を模して一風を現はすに至った、初め本町、茅場町等に居り、貞享年中照降町に移った、嵐雪と同居し遊蕩に耽ったのも此頃だといふ、元禄の初め芝の神明町に移った。号を宝晋齊と称し、(猶多くの号がある)画名を薯子と云った、冠里公から「半面美人」の印を賜はって之を点印にした、性極めて豪放、闊達で又剛直、奇警を好んだ、句作は技巧を弄し、新奇を衒(てら)ひ、洒落を交へたものが多かったが、雄渾なのも少くなかった、故に必ずしも師芭蕉の幽玄の流れにのみ止らず、自然江戸子膚を露して居たので、後世其角の流派を江戸風といひ、其座を江戸座と言った、芭蕉在世中より蕉門第一と称せられ、又江戸座の祖と仰がれた、宝永四年二月三十日歿す、年四十七、二本榎上行寺に葬った。
 
世に知られた句
 
    越後屋に衣さく音や衣更
    すむ月や髭をたてたる蛬(きりぎりす)
    からびたる三井の仁王や冬木立
    鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春
 
著書頗る多く、就中(なかんずく)次に掲げたものが著名だ。
 
雑談集   句兄弟   枯尾花   俳諧錦繍緞
類柑子(るいこうじ。其角の遺稿を貴志沾洲が補修したもの。宝永4年<1707年>刊)
蕉尾琴   華摘(花摘)  いつお昔  五元集