人間の情感について
 
「早田武作品集 1」(P. 28〜31)  『高校生への手紙』より
            『高校生への手紙』は同人誌「無帽」に掲載(1987.08〜1994.12)
 
 八月十三日、Mが死んだ。
 Mのことを、君は覚えているだろうか。四年前の秋、わたしがまだ教職に在った時代、学校の創設記念日にMを招いて生徒たちに話をしてもらったことがありました。そのあと、Mを家に招いて久しぶりに歓談の機会をもちましたが、たまたま家に遊びに来ていた君は、たった一度ですがMにあったはずです。君はまだ小学生でしたから、一度顔を合わせたぐらいのことであまり印象には残っていないかもしれません。
 そんなMのことを君に話す気持ちをもったのは、彼の思想、とくに科学者として彼が人間をどのように考えていたかを、君にも知ってもらいたいと思ったからです。Mは中学以来の友人です。彼が考えてきたことを君に話すことが、友人の死に対する最高の供養ではないかと考えました。
 Mは医学部を出ましたが、医者にはならずに学問を一生の仕事に選びました。専攻は解剖学、とくに関心をもったのは、受精から出産までの胎児の形態の変化を調べることでした。胎児の時代に母親の胎内で経験したことが、その個体に特有の本能や感受性をつくりだしているのではないかとMは考えたのです。
 動物のもつ本能や感受性のことを、Mは「生命記憶」と呼んでおりました。遠い祖先が経験したことが、生きてわれわれの細胞内に記憶されている、それが「生命記憶」であり、本能を形づくるものだというのです。
 本能というのは、考えてみればふしぎなものですが、一体どのようにしてそれぞれのからだの内に記憶されていくのだろうか。
 専門的なことはよくわかりませんが、Mはそのことに強い関心をもって、胎児の世界を解剖学の立場から解き明かしていこうと考えました。
 Mの研究にどれだけの価値があり、学問の世界でどのような評価を得ているのかは知りませんが、わたしは人間のことを深い愛情でもって考えてきた彼の学問への姿勢を、いつも尊敬の気持ちで見てまいりました。
 四年前の講演の演題は、「生命の誕生」、スライドを使いながらたっぷり二時間、全精力を使いきるような話ぶりでした。
 人間の胎児は、受精以来母親の胎内で二百数十日を過ごしますが、その二百数十日の間に、はじめて地球上に生命がつくりだされてから人類の誕生に到る三十億年の進化の歴史を経験する。この母胎での経験が「生命記憶」としてからだの内にしまいこまれ、人間特有の感情をつくりだしているのだという、それは壮大な話でした。
 母親の胎内に在る二百数十日の間に、胎児は三十億年の歴史を経験すると聞かされても、あまりにも悠遠な話なので、ただちにそれを信じる気持ちにはならないと思います。
 君も知ってのとおり、地球上の動物は、円口類から魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類、霊長類を経て人類へと進化したといわれております。一方受精によって生命が与えられたヒトという個体は、出産という過程を経て、数十年で成熟した人間に成長します。
 この生物の進化と、人間の個体の成熟という二つの流れは、完全に対応させることができるものではないか。このような問題意識をもって、Mは胎児の観察を始めました。
 やがてMは、受精後三十日から四十日の間には、胎児の形態から考えて、魚類から爬虫類に到る時代を経験するという確信をもつようになりました。いわゆる生命の上陸という時代、今を去る四億年の昔を経験するのです。また、出産して一年あまりの間には、二つの足で立つという人類進化最大のドラマを、幼児自ら演じているではないか。そしてヒトが一個の人間として成熟するまでの間には、進化のすべての段階を経験するのではないかと、Mは考えたのです。
 人間のもつ「生命記憶」を明らかにしていくことは、人間そのものを解き明かしていくことです。Mは動物と人間とのちがいに目を向けていきました。
 動物と人間とのちがいをいうとき、ふつう理性ということばを思い浮かべます。理性のあるなしが、動物と人間とを分ける最も根本的なものだと考えるのです。しかし、理性のあるなしは頭の世界からみたちがいです。頭の世界からみたちがいよりも心の世界からみたちがいを考えるのが、動物と人間とを分けるより重要で本質的なものではないか。Mはそう考えました。
 それでは、心の世界からみた動物と人間とのちがいとは一体なにか。
 あこがれの気持ちをもつこと、夢見ていたいという願望、懐かしく想うこと、これは「現在のこの地点」に「過去のあの地点」を結びつけようとする心のはたらきです。これこそ、人間だけがもつ情感ではないか。
 このような情感は、われわれの遠い祖先が生きて感じとったものが、われわれの本能をつかさどる部分にしまいこまれていて、ふとした機会にわたしどもの心としてよみがえってくる、つまり「生命記憶」のもたらすものなのです。
 海辺に立って聞く潮騒の音が、心の中になぜか懐かしさを生むという経験は、君にも覚えがあるのではなかろうか。その懐かしさは、われわれの遠い祖先が海で生まれ、海で生息したことによるのか。それとも潮騒の音に、胎児のときに聞いた母親の血液の流れの音を感じとるためなのか。人間の心の世界というのは、意識下にある遠い遠い時代の経験がよみがえる、そういう世界のことです。
 このような情感をもつことが、人間を動物から截然と区別するものです。また、人間らしさの根底を形づくるものなのです。
 Mは「内臓の感受性」ということを言います。頭は誰もが大切に考えるが、内臓のほうにもっと強い関心を向けなければならない。内臓を大切にすることが心を大切にすることなのだ。強いことばでMはそう申します。
 人のからだを解剖学の立場に立って見ると、体壁系と内臓系に分けられます。
 体壁系は、外皮系、神経系、筋肉系の三つから成り、それぞれ感覚、伝達、運動の機能を営みます。体壁系は訓練によってその機能を高めることができるものです。野球の名選手には、打とうとするボールが止まって見えるという話を聞きますが、それは、ボールと同じ速さで目を動かせるまでに訓練したという意味です。それをつかさどる中枢が脳つまり頭です。
 一方内臓系は、腸管系、血管系、腎臓系の三つに分かれ、呼吸、循環、排出の機能を営みます。体壁系が元来獲物を捕らえるための器官で、「近」を近くするのに対し、内臓系は「遠」と共振することによって、あるときは食の相をもち、あるときは性の相をもつのだと、Mは説明してくれました。
 この内臓系の「遠」との共振のことを内臓波動と呼んでおります。内臓波動によって、四季折り節のものに心が共鳴する。これが「心で感じとる」ということです。これを「内臓の感受性」と呼んでいるのです。「内臓の感受性」が鈍いと心のこもった絵はかけませんし、歌もうたえません。また、創造的な仕事もできません。
 Mは、生涯をかけて人間の情感ということを考えてきた人です。それが人間に対するMのやさしさを形づくってきたのだと思います。
 わたしたち人間だけが、自然の森羅万象に対して、あるときは限りないおそれと、またあるときは限りない親しみを覚える。これはすべてわれわれの過去の記憶の再燃によるのです。これがMの思想の中核ですが、このような心の世界のこと、君にも理解してもらえるだろうか。
 終わりに、美しい文章を一つ紹介しよう。
 「夕方になると、島の頂きを降り、好んで湖の岸辺に出て、砂地のどこか隠れた休み場所に行って坐る。そこでは、波の響きと揺れ動く水面がわたしの官能をとらえ、心から他のいっさいの動揺を追いはらって、甘美な夢想にひきいれ、しばしば夜がやってくるのも気がつかないでいる。寄せては返す水面の波、単調な、しかし時をおいて大きくなるその響きは、休みなくわたしの耳と目にふれて、夢想に消えた内面の運動にかわり、考える努力をしないで十分にわたしというものの存在を喜ばしく感じさせてくれる」
 これは、ジャン・ジャック・ルソーが、ある年の秋滞在したサン・ピエール島の追憶を語った文章の一節です。Mの思想に立って読めば、この美しい文章のもつ情感が、よく伝わってくるのではないかと思います。
 ルソーは、十八世紀フランスの思想家、近代がつくられるのに大きな影響力をもちました。「エミール」という、教育にも深いかかわりのある本も書いた人です。ルソーについては、いつか君にもっとくわしく紹介もしたいと思います。


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