忙しいことは悪なのです
 
「早田武作品集 1」(P. 32〜35)  『高校生への手紙』より
            『高校生への手紙』は同人誌「無帽」に掲載(1987.08〜1994.12)
 
 Mのことについて書いたこの前の手紙、わたしだけの感傷になっていやしないかと危惧しておりましたが、君からすばらしい感想が寄せられて本当に嬉しかった。
 動物と人間とのちがいを、頭の世界から見ていくのではなく、心の世界から見ていくということに、君はたいへん興味をもったようだ。さらに、心の世界というのは、内臓のもつ感受性によって開かれるというMの考えに、これまで雲を掴むようにしかとらえられていなかった心の所在が明らかにされたように思うと言って、君は共感をしめしてくれました。
 懐かしさ、あこがれ、希望、このような心の動きこそ人間だけがもつ情感だという話、たいへんよくわかるような気がすると書いていたが、同時に、動物には人間がもつような心はないのだろうかという疑問を、君はちょっぴり漏らしてもおりました。お伽話やファンタジーの世界では、動物も人間も同じように考え、同じように行動してきたのですから、そのような世界に親しんできた君が、そういう疑問をもつのは当然です。
 君が送ってくれた感想をMが読んだらどんなに喜ぶことだろうか。Mは科学者ですが、ファンタジーの世界にも高い価値を置く人です。彼のことだから、君の肩を抱くようにして、君の疑問にとことん答えてくれるだろうと思います。そんなMの姿が想像できるように思います。
 前の便りで、ヒトの子は、産まれてからおよそ一年ばかりの間に、母胎内での壮大な経験に続いて、今度は二つの足で立つという人類進化最大のドラマを自ら演じるのだと書きました。Mは、ヒトが二つの足で立つようになったことを非常に厳粛に受け止めておりました。それはこういう意味からです。
 懐かしさ、あこがれ、そして夢見ること、これは人間だけがもつ情感ですが、その情感はやがて遠くを見たいという願望に発展します。この「遠」に対するあこがれと好奇心から、ヒトは頭を持ち上げ、上体を反らし、やがて二つの後足で立つという人類進化の道を歩むようになったのです。つまり、二つの足で立ったのは、ヒトのもつ心のなせる業だというのです。
 Mは、生まれてから立ちあがるまでの幼児を観察しました。生後一年、初めての誕生日を迎えるころ、「指差し」というしぐさが始まります。この動作こそ、好奇心のあらわれであり、人間としての心の目覚めの最初の標識です。人間を動物から厳然と区別するものです。
 そして幼児の「立ち上がり」は、幼児自身のもつ遠くを眺めたいという願望、「遠」に対する強いあこがれが産みだしたものなのです。つまり、この幼児の「立ち上がり」の行為こそ、人間進化のドラマそのものではないかと、Mは考えたのです。
 山頂を極め、にわかに視界が開けたときの爽快感は、山を登ったことのある誰もが味わう経験です。この爽快感は、遠い祖先から引き継いでもつ「遠」に対する願望が充足されたことによると考えることはできないだろうか。また、一歩一歩山道を踏み締めていくあの苦しい行程の中に、ヒトが二つの足で立とうとする進化の姿を汲みとることはできないだろうか。
 ヒトが二つの足で立つようになったのは、「遠」に対する強烈なあこがれにようるものです。もしも、人間のような心の働きをする動物がほかにいたら、人間と同じように二つの足で立とうとする進化の道を歩むにちがいない。現に二つの足で立った動物はいないのですから、人間と同じ心をもつ動物はいないと考えるべきではないか。
 君の疑問にMならもっといい解答ができたと思います。不十分なものですが、動物には人間のような心はないのかという君の疑問に対する、これがわたしの解答です。
 人の心の働きで最も本質的なものは、「過去のあの地点」を「現在のこの地点」に結びつけようという願望です。このような心の働きによって、人間は、単にいまの時間を生きるだけでなく、過ぎ去った時を現在によみがえらせて生きることができるようになりました。こうして人間は、お伽話やファンタジーの世界をつくり、文学や芸術を生みだす能力をもつようになったのです。
 過去への思いを持つようになれば、反対に未来に思いをはせるのは簡単です。未来のことを思いえがくことによって、希望という情感が生まれました。さらに、過去を思い、未来をえがくという意識から、時間という感覚がうまれ、やがて時間を量として測る能力を身につけました。そこから科学技術発展への道が開かれ、進歩、そして能率という意識を、人々はもつようになったのです。
 こうしてみれば、科学も芸術も、われわれが祖先から引き継いできた「生命記憶」の所産であることがわかります。このようにしてつくりだされた科学と芸術、これを車の両輪としてわれわれは生きていかなければなりませんが、科学も芸術も、心の所産であることを忘れてしまうと、われわれは人間らしさから遠ざかっていくという結果になるのではないか。このことは、君にも頭にとめておいて欲しいと思います。
 わたしは子供のときから、時間を無駄にするなと教えられてきました。君も同じだと思います。これがまちがった教えであるとは思いません。多くの人たちが、この教えを忠実に守ってきたおかげで、科学技術は進歩し、産業は発展し、かつてない豊かな社会を実現することができたのですから。
 われわれは長い間、豊かな社会をつくることを最大の目標とし、進歩、発展そして能率ということに最高の価値を置いて、人生を走り続けてきました。しかし、目標が実現されてくるにつれて、人々はなお満たされないなにかを感じはじめるようになりました。そして、いま、改めて人生を問い直そうとしはじめたように見えます。
 「忙しいということは悪なのです」
 これは、アンナ・エレノア・ルーズベルトのことばです。彼女は、第二次大戦の時代のアメリカ大統領であったフランクリン・ルーズベルトの夫人です。
 ずっと昔のことですが、英語の試験の監督をしておりましたときに、出題の英文の中にこのルーズベルト夫人のことばがありました。人間はどんなときにも、いつも他人に対して心が開かれていなければなりませんが、忙しさは、他人に対して心を閉ざし、人生をうつろなものにする。夫人はそのような意味で忙しさは悪だと言ったのです。
 このような思想は、当時のわたしにたいへん新鮮に感じられました。わが国はまだ戦後の荒廃から立ち直れずに、すべての面で貧しい時代でした。廃墟から国を復興させること、仕事の能率を上げること、そして国を発展させること、これが最大の目標とされておりました。それをやり遂げていくために、忙しく働くことは最高の徳であったのです。
 忙という文字は、心と亡との組み合わせ、これは心をうしなうという意味だと思います。忙しいことは、わが国でも元来望ましい姿とは考えられていなかったのではないかと思います。
 われわれは、いま時間に対してどのような態度をもつべきなのだろうか。忙しく働くことを無条件に善だと考えた時代のことをお話しましたが、君は、それとはちがった態度で時間を処理する技術をもたなければならないと思う。時間をどう処理するかは、現代に生きる人たちの最も重要な課題です。
 時間というのは、われわれみんなに平等に与えられております。そして、それじたいはただ単調に流れていきます。単調にながれていく時間の上にどういう刻印を残していくか。どのようにして自分の時間にしていくか、いかにして時に心を刻むか。これがわれわれのいま課題としなければならないことがらなのです。
 時間をどう処理するかは、人間の自由ともかかわって、現実にはたいへんむずかしい問題です。しかしこういう問題こそ、青年期において、一度自分の理想を追ってみなければならないことがらです。君のために、一冊の本を推薦しておきます。
 ミヒァエル・エンデという人が書いた「モモ」という題名のお伽話です。「モモ」という題名の前には「時間どろぼうと ぬすまれた時間をとりかえしてくれた女の子の不思議な物語」という説明がついております。モモはその女の子の名前です。この物語は子供のためのお伽話という形式をとっておりますが、現代という時代に対する作者の深い洞察が感じられて、大人が読んでもおもしろい本です。「モモ」に登場するマイスター・ホラという時間の国の主は、時間について次のように説明しております。
 「光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのと同じように、時間を感じるために心がある。もし心が時間を感じられないときには、その時間はないのも同じである」
 心に感じる時間というのは、自分が生きていることを実感することができる時間であることは申すまでもありません。生きるというのは、なにかをしているその時間を心に感じながら生きることなのでしょうね。
 また心の話になりました。こんなことを書いていると、Mの思想を思い出します。「モモ」は君にぜひ読んでもらいたい本なので、これ以上内容を説明することは差し控えます。
 二学期が始まりました。君が一段と充実した生活を送ることを願っておりますが、本当の充実は、君自身の時間に対する態度を確立することによって実現しなければならないものであることは申すまでもありません。
 


(戻る)