「内臓の感受性」ということ
 
 
「早田武作品集 1」(P. 132〜135)  『高校生への手紙』より
            『高校生への手紙』は同人誌「無帽」に掲載(1987.08〜1994.12)
 
 
 カタルシスというのは、わたしの大好きなことばのひとつです。もともと、浄化、洗浄、排泄といった意味のギリシア語ですが、アリストテレスが「詩学」の中で、悲劇が人間に与える浄化作用のことをカタルシスと呼んだところから、そのような意味に使われることが多くなりました。「悲劇とは、それ自体で完結した高貴な行為のミーメーシスである。……そのミーメーシスは、朗詠によってではなく、役者の演技によってなされ、あわれみとおそれを惹き起こしながら情緒のカタルシスをなしとげる」
 少しむずかしい表現ですが、「詩学」にはカタルシスのことをこう書いてあります。解りにくいと思われる部分を説明しておきましょう。
 「ミーメーシス」には、ふつう「模倣」ということばが当てられますが、模倣といったのでは、真似て写し取ることになって、それでは意味を正確に伝えることにならないので、ミーメーシスと、もとのことばのままにしてあります。芸術を定義するのに「自然や宇宙の本質をミーメーシスする」という言い方をすることがありますが、このあたりからミーメーシスの意味を汲みとってください。
 「高貴な行為のミーメーシス」も説明が要りそうですね。「詩学」は、叙事詩や悲劇の構造を分析した演劇論ですが、アリストテレスは悲劇と喜劇のちがいを次のように言っております。
 「喜劇が、わたしたちの周囲の、より劣った人間をミーメーシスするのに対し、悲劇はより優れた人間をミーメーシスしようとする」
 悲劇や喜劇を、人間を基に定義しているところがおもしろいですね。悲劇は、高貴な人間の、高貴な行為がつくりだすドラマだというのです。みずから自信と信念に満ちた行動を起こし、その結果、まさにドラマチックな運命の転変に出会って必然的に陥る不幸、それが悲劇です。それを写し取ることを「高貴な行為のミーメーシス」と言っているのです。
 悲劇を観て、劇中の人物に自分を重ね合わせて涙を流す。流した涙によって、しこりが除かれ、心が浄められた感じになる。「情緒のカタルシスをなしとげる」というのはそういうことです。
 そんな経験、君にもあると思います。何も悲劇を観て、ということではないのです。……本を読んでいて、本の世界に引き込まれていって、えがかれているものや人間が自分と分かちがたいものに思われてくる。絵画でも、音楽でも、見たり聴いたりしているうちに、自分を忘れ、感動し、心が締めつけられるようになる。それがカタルシスです。そうした感動は、書物やドラマでなくても、現実に、人の高邁な行為に触れても起こることです。……たったひとつの経験から、昨日までとちがった、別の自分になったような気持ちになる。それをカタルシスと呼んでいるのです。
 むかし、欲望について考えたことがありました。欲望は人が生きていくエネルギーの源泉だと思いますが、欲望には際限がなくて、現れ方によっては悪にもなります。禁欲主義というのがありますね。生涯それで貫ける人がいたら立派だと思いますが、わたしには、欲望は、捨て去ることも、抑えることもできそうにありません。欲望について、割り切った考えなどもてそうにありませんでした。別に深刻に考えたわけではありませんが、なんとなくもやもやした気分でいたのです。
 そんなとき、ふとこんなことばが浮かんできました。「欲望は押さえてかかるべきものではないだろう。ただ、浄化を心がけなければならない」
 たいした思いつきではないのですが、「浄化」ということばを見つけたことが嬉しくて、すっかりいい気分になってしまいました。まさにカタルシスです。こんなことがあって、カタルシスということばが好きになったのです。
 これは情緒の問題です。前回「内臓の感受性」という耳馴れないことばを使いましたが、今日は、カタルシスが内臓の感受性に基づくものであることをお話して、情緒のことを、もっとよく理解してもらいたいと思います。
 解剖学を専攻する友人から、以前、人のからだについて話を聞いたことがありました。「内臓の感受性」は、その友人の話に出てきたことばですが、独創的で、おもしろい考え方なので、君にも聞いてもらいたいと思います。
 おなかが空くと機嫌が悪くなる。いらいらしたり、なんでもないのに人に絡んでみたり、突っかかったりする。そうかと思うと、悲劇的になってしょげかえる。それが一杯の熱い紅茶で、いらいらから解放される。……空腹や睡眠不足など、生理的に満たされない不快のことを「内臓系の切迫」と言うのだそうですが、その切迫が除かれるのがカタルシスです。切迫感は、内臓とは無関係に見える、不機嫌や妄想といった意識になって現れてくるのですね。
 内臓系の本来の姿は、鮭の回游によく表れております。故郷の川で孵化した鮭の稚魚は、春から夏のはじめに川を下り、太平洋を東上し、父祖伝来の餌場に辿り着いて、そこで何年かを過ごします。この間、内臓は、すべてが「消化管」で占められている。そして成魚になると、今度は太平洋を西下し、秋から冬、故郷の川を溯って、性の営みをします。このとき鮭の内臓は、はち切れそうな卵巣・精巣の「生殖器」で占められ、「消化管」は、肝臓だけを残して姿を消している。産卵を終えた鮭は、精力を使い果たして死んでいきます。すべて、内臓の導きによるのです。
 孵化したばかりの稚魚が父祖伝来の餌場に向かい、産卵の成魚が故郷の川に帰るのは、どのような機能によるのか。わたしたちは、理性という「あたま」の世界で考えて、それを超能力と賛美することがありますが、それは、「あたま」ではなく、「こころ」と呼ばれている「内臓感覚」でとらえなければならないことです。
 そこで、「こころ」と「あたま」が、解剖学ではどのように考えられているのか、そのことを見ていきたいと思います。
 人のからだを「内臓系」と「体壁系」とに分けて考えるのは、常識的に見て無理のないところだと思います。おなかの部分に集まっている内臓系を、それを包むような形で体壁系が保護している、という構造です。
 内臓系は、鮭の話にあるように、「食」と「性」の二相を持っています。人も同じです。このうち「食」の相についてみますと、肝臓で体内に栄養を取り込み、腎臓を通して排泄する。その両方の交流を取りもつのが循環系で、中心部に動力源として心臓がつくられている。これが「食」の相の構造です。
 体壁系のほうには、目や耳にあたる感覚系と、手や足に当たる運動系とが、双璧の器官として存在する。両者の仲をとりもつのが神経系で、その中枢に脳がある。つまり、脳で、感覚系・運動系の全体を統御するというのが、体壁系の構造です。
 体壁系の中の感覚器官は、触れる、嗅ぐ、見る、聞くといった働きを通して、身のまわりのことをとらえます。それを脳に集めて、個体としての目標を設定し、運動器官である手足に指示して、目標の達成に向かわせる。触れる、見る、聞くという感覚器官は、生活空間の「近」と結びついております。
 これに対して内臓系のほうは、天体の運行のリズムと共振しながら機能を営みます。つまり、体壁系が生活空間の「近」と結びつくのに対し、内臓系は、宇宙空間の「遠」と共振を続けているのです。
 春、緑が萌え出す苗床と、秋、黄金色に波打つ稲穂は、植物界における「食」と「性」の二相交代を表すものにほかなりませんが、この植物の営みが、四季の移り変わりという天体運行のリズムを、植物の「こころ」がとらえたものであるのは明らかです。植物の「こころ」は、宇宙空間の「遠」と共振しているのです。そしてまた、鮭の回遊も、鳥の渡りも、動物たちの内臓に秘められた「こころ」が、悠久の進化の流れの中で、「遠」と共振を保ちながらの行動なのです。
 それでは人間はどうか。……植物や動物と同じように、わたしたちの内臓も、宇宙空間の「遠」と共振を保ちながら営まれております。それが内臓系本来の姿だと考えてください。
 体壁系を代表するものは、脳すなわち「あたま」、そして内臓系を代表するのが心臓すなわち「こころ」です。理性という、考える世界を形づくっている「あたま」には、冷たさや、切れることがもとめられますが、感性を形づくる「こころ」には、第一に、あたたかさが求められるのだろうと思います。
 考える世界と感じる世界、人の生は、ふたつの調和を意図したものでなければなりませんが、考える世界と感じる世界とは、いま、必ずしも平和のうちに共存を果たしているとはいえないようです。
 脳は異常に発達しました。発達した脳は、絶え間のない目先の刺激―栄誉、富、文明といったものです―に振り回され、それら俗世界での一喜一憂が、「こころ」で感得していかなければならない宇宙の映像をどこかへ押しやってしまった。これが人間界の現状だといえそうです。
 「内臓の感受性」を取り戻さなければなりません。豊かな「情緒」を、ということです。絶対的な方法は分かりませんが、まず、内臓の波動に「こころ」を向けていくことです。それは、もっと自然界に目を移していくということであり、美への関心を深めていくということであり、そしてまた、ちょっと奇異に聞こえるかもしれませんが、君の話す「ことば」に目を向けていくことだと考えております。


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