丸中・六高時代の三木
 
(上のタイトルは編集者。三木に直接関係ない箇所も、三木の中学・高校時代の雰囲気が分かるかと思い、転載いたしました。)
 
「早田武作品集 1」(P. 172〜176)  『西洋音楽と私』より
            『西洋音楽と私』は同人誌「無帽」に掲載(1990.09〜1996.10)
 
…(前略)…
 
 中学三年になったとき、ミキと同じクラスになった。彼とはそれまで話をしたことがなかったのだが、ミキは入学のとき代表で宣誓をしたのでよく覚えていた。 教室の座席は遠く離れていたのだが、教練の時間はいつも並んでいた。そのとき二人でよく話をしていて、一緒に何度も叱られた。そんなことで彼とは急速に親しくなった。学校の帰り道、しばしば彼の家に立ち寄った。父は医者をしていた。産婦人科の医者だというので、始めて行ったときは胸がドキドキした。新築したばかりの洋風の建物だった。中に入ると、わたしの家よりはずっと文化程度の高い生活をしているのがわかった。彼は絵が得意で、よく賞をもらっていた。写真をもとにしてかいたというベートーベンとトスカニーニの肖像画を見せてくれた。クラシック音楽にも深い関心をもっていたのである。彼から音楽のことをたくさん教わった。トスカニーニの指揮でベートーベンの「運命」や「英雄」を演奏したのがすばらしいのだということも、ヨハン・シュトラウスがウィーンでワルツ王と呼ばれ、「美しく青きドナウ」のほかたくさんのワルツを作曲していることも、そのころ彼から聞いたことである。
 ミキは、ひとりの姉と四人兄弟の末っ子だった。長兄は三高から京大の医学部に進んでいた。長兄のスナップ写真のアルバムを見せてくれた。三高の時代は野球部の選手だった。毎年、一高との間で定期戦があって、このときは、のぼりを押し立てて、大太鼓を持ち出しての派手な応援合戦が行われた。アルバムにその写真が載っていた。わたしは高校生たちの姿に強い羨望の気持ちをもった。ミキのことすべてがうらやましかった。
 これは劣等感というものだったと思う。家にあった十二枚のあの洋楽のレコードの目録を学校に持っていってミキに見せたことがあった。クラシック音楽にわたしも関心があることを汲みとって欲しいと思ったのである。彼はそれをちらっと見ただけでまったく関心を示さなかった。悔しい感じがした。世の中には、自分の手の届かないハイクラスの文化というものがあって、わたしもやがてそういうものがわかるようにならなければならないのだと思った。
 ミキの強い影響を受けて、溜めてあったこづかいでクラシックのレコードを買うことを思い立った。ひとりで駅前の楽器店に入っていった。奥の棚に、何枚組にもなった交響曲の美しいレコードケースがいくつも並んでいた。ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」を買った。十二インチの大盤一枚である。二円八十銭。こづかいで買えるこれがせい一杯のところであった。
 
…(中略)…
 
 …新しい学級は三年のときとはすっかり様子が変わっていた。ミキと同じクラスにはならなかった。今度のクラスは、ミキと一緒だった時代のおおらかさがなく、上級学校への進学のことやその準備のことに全体の関心が向いていた。教室は、本館に二階にある旧講堂を二つに仕切ったところで、学校の中でそこだけが二階造りだった。普通の教室の倍以上の広さがあって見はらしがよく、ほかの教室と離れていて別天地だった。窓から職員室の入口が正面に見下ろせた。誰かが担任の先生に「消防ポンプ」というあだ名をつけた。始業の鐘が鳴ると一番に職員室を飛び出してくるからである。
 四年生の学級編成はそれまでとちがっていた。受験を目当てにしない学級を一つ抜き出して、あとの三つは時間割も受験用にできていた。四年が終わると、高等学校や師範学校、それに陸軍士官学校や海軍兵学校などが受験できた。その対応を考えたのである。教室では進学のことが話題になっていた。先生の話も受験のことが多くなった。英語、代数、幾何の受験参考書が学校から推薦されていた。その勉強がだいぶ進んでいる友人もいた。間なしに学校の模擬試験があった。五年生と四年生が一緒に受験した。何の準備もないまま初めて受けた模擬試験の結果は散々だった。もう遊んでばかりはいられなかった。わたしも本格的に受験勉強を始めなければならないと思った。
 その年の十二月、アメリカ、イギリス、そのほか世界の国々を相手にした戦争が始まった。「帝国陸海軍は、本八日未明、西太平洋において英米軍と戦闘状態に入れり」十二月八日朝のラジオ放送は、アナウンサーの声の響きまでいまでもよく覚えている。すぐには信じられなかった。政府がアメリカとの間でむずかしい交渉を進めていることは知っていたが、まさかアメリカやイギリスと戦争になるなどとは思いもよらないことであった。たいへんなことになったと思った。
 その日の夜は同級生で誘い合って八幡神社に戦勝祈願に行った。町は真っ暗だった。どの家も、いまにも空襲が始まるかのように、電灯に覆いをつけて光が外に漏れないように警戒していた。町全体が緊張していた。師走の冷たい空気の中を、人々の上気した気持ちが伝わってきた。もう受験どころではないと思った。しかし、そうした極度の緊張は数日の間に薄らいでいった。戦争が始まるとすぐ、華々しい戦果が次々に報道されたのである。勝ち戦が続いた。日本軍は南へ南へと進攻していった。アメリカやイギリスといった大国を相手にしても、日本政府には成算があるのだと思った。わたしは間近に迫った高校受験の勉強にまた専念した。
 幸運にも高校に合格した。長い間あこがれてきた高校である。誇らしい気分だった。新入生はみんな寮に入った。寮歌があり、ストームがあった。いろいろな県からいろいろな生徒が来ていた。急に大人っぽい世界に入り込んだような気持ちだった。すべてが物珍しく、新しい経験にわたしは夢中になっていた。その高校時代はずっと戦争だった。戦況が日増しに悪くなる戦争だった。入学して間なしに、高校は二年半に短縮された。
 
…(中略)…
 
 戦時下にあったことは学校でも人々の服装に表れていた。国民服と呼ばれていた服に戦闘帽を被った教官がおおぜいいた。生徒の服装も、普通の学生服に混じってカーキ色の戦時服が目についた。食べ物も乏しかった。そんな中で、寮の記念祭が行われ、寮生大会が開かれていた。しかし、以前ミキのアルバムで見た一高、三高の野球部の定期戦のような華やかな自由はなかった。学校には、激しい運動部の練習はあっても、本格的な文化活動はどこにもなかった。街の映画館で上映される「未完成交響曲」「希望音楽会」といったドイツの音楽映画や、「白鳥の死」といったフランス映画に、わたしたちはえらく感動した。木下恵介、黒沢明という新進の映画監督が現れて「花咲く港」「姿三四郎」といった楽しい映画を作っていた。
 中学時代の友人ミキも、同じ高校に進学していて水泳部に入っていたのだが、もう彼から音楽の話を聞くことも、作曲家や指揮者について聞くこともなかった。かつてわたしの中に芽生えかけていた西洋音楽へのあこがれは、遠い世界のことになってしまった。
 高校二年になって間なしに、山本五十六元帥が戦死した。元帥の乗っていた飛行機が撃墜されたのである。そのあと、アッツ島の守備隊が全員玉砕した。日本軍の前線基地が次々に攻め落とされ、そのつど守備隊の玉砕があった。七月、インターハイが開始の直前になって中止された。戦局はどんどん悪くなっていった。秋には、文科の生徒の徴兵猶予が停止され、多くの生徒が学校から戦場に発っていった。学徒出陣である。翌春には、今年大学入試が行われないことが決まった。入試をしないかわりに、高校生も軍需工場に出て働けというのである。三年生になると学校を離れて工場に出ていった。食料はますます乏しくなった。工場でも食事の量が減って、米に多くの混ざりものが入っていた。
 
…(後略)…


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