『うはぎ 後記集』より
 
「早田武作品集 2」(P. 337)  
『うはぎ(坂出野草の会) 後記集(No.39〜No.92)』より 
 
平成五年四月
 
 生涯解剖学という地味な研究をしてきた友人が、あるときこんな話をしてくれた。私たちはふとした折に「懐かしい」という感情に浸ることがあるが、これこそ人間のもつ根源的な感性である。彼の理論はこうである。ヒトは、受胎から出産までの二百数十日の間に、生物が地球上に誕生してヒトになるまでの三十億年の進化の過程を母親の胎内で経験する。とりわけ、水棲の段階から陸に上がって陸棲段階へと変身を遂げる最大のドラマが演じられるのが、受胎32日目から一週間のあいだで、この時期に母親は悪阻(つわり)になったりしてその劇的な状態を体験する。この母体内の進化の経験が「生命記憶」として私たちに残っていて、それが懐かしさの感情を喚び起こすと彼はいうのである。この雄大な理論の真偽を確かめる手だてはないが、これを受け入れると、人間のことが一層よく分かるような気がする。


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