「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」
瀬 戸 武 彦
本誌43号に、神品芳夫氏の「第一次世界大戦ドイツ人俘虜収容所のこと」という文章が掲載された。このことと関連して、一文を草する次第である。第一次世界大戦時、日本はドイツに宣戦布告して、当時ドイツの租借地だった山東半島の膠州湾口の町青島(チンタオ)を攻略した。その結果4697名のドイツ人(オーストリア人等を含む)将兵が、日本各地計16ヵ所の収容所に5年余収容された。今日では忘却の淵に埋もれた事柄であろう。
筆者は二年前に、「独軍俘虜概要」と称するささやかな俘虜研究を発表した。4715名(上記の収容俘虜数とは異なる)の俘虜の内904名について、その事跡・足跡等を記した資料である。俘虜の中には、ドイツ菓子店「ユーハイム」の創業者カール・ユッフハイム、ワンダーフォーゲル運動の確立者カール・フィッシャー、銀座でレストラン「ケテル」を興したヘルムート・ケーテル、大正初期に隅田川河畔で開かれた「パンの会」に出没して、鴎外、白秋、杢太郎等と交流した美術史家フリッツ・ルンプ、東京帝国大学で経済学を講じたジークフリート・ベルリーナー、大阪外国語大学教授となったヘルマン・ボーナーや甲南大学教授等を歴任したヨハネス・ユーバシャールがいた。更には日本のゴム産業、ソーセージ製造、ワイン醸造や製パンに大きな功績を残した人物など、実に多種多様な人々が俘虜として日本で暮らした。
90年も昔のことである。俘虜の多くは2、30歳代の若者だったが、今や一人として存命ではないだろう。俘虜の子供達でさえ7、80歳代になっている。俘虜たちが本国に帰還する際に持ち帰った種々の資料、帰国後著した回想記や日記も散逸の危機に陥っている。鳴門市ドイツ館に寄贈されるケースもままあるが、それもいつまで続くか甚だ心もとない。近年、ドイツと日本で時をほぼ同じくして俘虜研究が活発になった背景は、こうした事情と無縁ではないかもしれない。
本稿の表題は、俘虜研究に関わる人々を結ぶホームページの名称である。このホームページは、小阪清行氏(四国学院大非常勤)と赤垣洋氏(香川県大手前高校教諭)の尽力で開設され、その後もお二人によって管理、運営されている。またホームページの立ち上げには、いわゆる「ヴァーチャル学会」の設立を説いておられた星昌幸氏(習志野市教育委員会)の助力もあった。《研究会》の名は付いているが、既成の研究会と異なって会長は存在しない。至って自由な研究と情報交換の組織である。
メニューを見ると「研究者・関係者」の項があり、40名程の名が記されている。独文学会会員が三割を占めているが、ドイツ哲学、ドイツ史、経済史、体育学、日本近代史、郷土史等を専門とする方や、教育委員会等の機関に勤めている方もおられるし、ドイツ、オーストリアの研究者の名も見ることができる。
他のメニューを紹介すると、「16の収容所」、「俘虜名簿」、「論文・記事など」、「メール会報」の項がある。論文の項では、高橋輝和岡山大教授の丸亀収容所に関する論文四編、志村恵金沢大助教授による青島鹵獲(ろかく)書籍についての論文、松尾展成岡山大名誉教授(ザクセン農業経済史)の丸亀・板東の楽団指揮者パウル・エンゲルに関する論考等がアップロードされている。記事の項では、森孝明愛媛大教授等による各種新聞への寄稿が転載され、「メール会報」は発足約1年半で70号に達している。なお拙稿「独軍俘虜概要」は「俘虜名簿」として掲載されている。
大方の読者には馴染みがないと思われるが、ドイツが築造した巨大な占領記念碑が、かつて青島の一画にあった。その行方をめぐって、ドイツ、中国、日本を駆け巡っての活発な見解や推論がこのホームページ上を飛び交ったことがある。また、ある日本女性から祖父探しの依頼が舞い込んできたこともあった。僅かな手がかりを基にドイツの研究者とも連携して、かつて俘虜だった祖父を見事に特定できたことは実に感慨深いことだった。インターネット時代をまざまざと体験する出来事でもあった。ともあれ一度、「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」のホームページを開いて頂ければと考える。 アドレス:http://homepage3.nifty.com/akagaki/
(高知大学教授)