*** 中国・四国エスペラント大会の歩み ***
 
(編集者注: 以下の文章はROの2003年8月号に「中国・四国エスペラント連盟」というタイトルで掲載されたものです。執筆者の原田英樹さんとRO編集長・堀泰雄さんの承諾を得て、ここに転載いたしました。)
 
 
原田英樹(岡山エスペラント会)
 
 中国、四国地域のエスペランチストが集まってみようという気運が盛り上がったのは、やはり東京世界大会を前にした60年代のはじめの頃であった。
 T・セケリ氏の地方巡回などあって、八木日出雄博士(岡山)、磯谷昭一教授(広島)、木下忠三氏(広島)、川村信一郎教授(香川)、貝沼愛三氏(尾道)、吉田肇夫氏(呉)らの尽力で、第1回「中国・四国エスペランチストの集い」が63年6月1日に広島市薬業会館でおこなわれ、参加者が70名以上をかぞえた。その前夜の討議で「中国・四国エスペラント連盟」の結成が確認されている。
 第2回「中国・四国エスペラント連盟総会」は64年6月21日、岡山市岡山市民会館で故八木日出雄博士の追悼をかねておこなわれた。第3回「中国・四国エスペラント連盟総会」は65年6月、高松市高松市民会館。第4回「中国・四国エスペラント大会」は66年、尾道市と続いたが、以後の大会の開催は立ち消えになった。当時は山陽新幹線の開業(1975)、車社会の到来(1980)、瀬戸大橋線の開通(1988)などの前であり、中国、四国地域が一つにまとまって活動していくには、アクセス面での条件がまだ成熟していなかった時期のため、大会の継続は荷が重かったものと考えられる。形式的ではあるが、「中国・四国エスペラント連盟」は、その後も存続し、KLEGと連携し、「La Movado」を連盟の機関誌とするといった決議などがおこなわれている。
 その後、70年代の初め、80年代の初めに中国・四国大会の再興が試みられたが長続きしなかった。87年のエスペラント百周年ワルシャワ世界大会を契機として中国、四国地方でもエスペラント運動の気勢が高まり、96年に広島市、97年には徳島県池田町で日本エスペラント大会が開催された。そのころ、四国では各地方エスペラント会の持ち回りで92年から毎年、四国エスペラント大会が開催されていた。
 この二つの日本大会の開催を機会に中国・四国合同での地方大会を再興しようとの意見が出てきた。
 一方、岡山エスペラント会は80年頃から、ときどき夏休みの時期に避暑を兼ねた家族連れの集まりを岡山県の北部、真庭郡八束村のおかやま山陽高校の研修所でおこなっていた。97年にこの集まりに参加した広島の忍岡氏から、この会合を5月の連休におこない中国、四国のエスペランチストに参加を呼びかけようと提案があり、翌年の98年、5月に第1回蒜山合宿(Hiruzen Renkontigxo)がおこなわれた。
 その席で中国・四国エスペラント大会の再再興が討議され、これを再興第1回中国・四国エスペラント大会とした。以後、第2回高知市(99年)、第3回松山市(00年)、第4回広島市(01年)、第5回岡山・鴨方町(02年)、第6回徳島市(03年)と現在にいたっている。
 それに、中国・四国地域のエスペランチストを結び付ける媒体として、メールマガジン「中四国便り(Bulteno de Tyu^goku kaj Sikoku)」の存在を忘れてはいけない。これは香川の小阪清行先生の尽力で99年3月に創刊され、毎号、3〜4の記事からなり、本年6月末現在で235号。受信者は150名を超え、中国・四国地域ばかりでなく、全国、海外に拡がっている。
 なお蒜山合宿は5月連休に親睦を主体とした恒例の集まりとして続いており、好天に恵まれると高原の春が満喫でき、ほかの地方からの参加も多くて好評です。 以上、中国・四国地方のエスペラントの活動を地方大会を主体として概観したが、これはあくまで筆者の記憶と見解によるもので、間違いや欠落(とくにRH関係、学生の活動、山陰・山口地方)が多いと思います。ご容赦お願いします。