この度10月29日〜11月6日の日程でシュミットさんご夫妻が日本でのドイツ兵俘虜地跡を訪ねる旅で日本にいらっしゃいました。同行いたしました私の目から見たシュミットさんを別角度からお伝えいたします。
シュミットさんのドイツ兵俘虜地跡を訪ねる旅
東京 篠田和絵
第1日目 10月29日(土) 成田
午後15:20成田空港国際線の到着ロビーです。俘虜研究会のドイツの仲間、ハンス・ヨハヒム・シュミットさん、そして奥様がまもなく成田の到着ロビーに現れます。昨年は迎えていただく側に。今年は迎える側に。再会が実現する瞬間がやってきました。ドキドキです。シュミットさんは、日本の俘虜研究会の仲間たちに会うため、俘虜収容所跡を巡るため、そして日本の文化に触れるため、まもなく到着ロビーに現れるのです。
お迎えは、ファン・デァ・ラーンさんと習志野から超忙しい仕事を中断して駆けつけてきて下さった星さんと篠田夫婦の4人。出ていらっしゃいました。この瞬間に旅はスタートいたしました。Herzlich Willkommen!(ようこそいらっしゃいました。)
シュミット夫妻成田に着
最初に訪れた収容所跡地は、星さんの案内で東京に向かう高速から途中習志野方面に折れ、既に真っ暗になった住宅街に出現した東習志野地区の収容所跡です。それを告げる看板。生憎の雨模様、暗闇の中で、看板に大接近して確認しました。習志野には多くの俘虜関連地があるのですが、殺人的に忙しい星さんは仕事に戻らねばならず、残念ながらここでお別れです。シュミットさんと星さんは、熱くて固い握手を交わしました。
東習志野収容所跡の看板
左から、星さん、シュミット夫妻、ラーンさん
空港から3時間、やっと着いた東京赤坂のホテルにて、ラーンさん、我らの息子、飛び込みの日本テレワーク、ディレクター淺川氏を交えて談笑しながら夕食会。シュミットさんご夫妻の初めて見る東京は、地上40階の窓からは、雨にくもってかすんで見えました。明日は、7:20にホテルを出て、徳島へ。
第2日目 10月30日(日) 鳴門ドイツ館
予定通り、10:00に徳島空港着。徳島市内に向い、鳴門ドイツ館へは2時ごろを目指しましたが、道草が原因で、着いたのは3時半ごろ。遅刻してしまいました。その道草ですが、ひとつは徳島収容所跡である県庁に隣接する徳島プリンスホテルのランチに向かったのでした。何故か?入手した情報では、ドイツフェアが催されていて、写真展や当時のドイツ兵がその時食べたメニューを再現、アレンジした食事を提供しているイベントを見つけたからです。そのランチを食べてみることにしました。因みにメニューはポテトスープ、ポークソテー、ドイツパン、サラダ、ドイツ菓子にコーヒで1500円。味よし、値段よし。当時の豚もこんな風においしかったかもしれません。まさかケーキは付かなかったと思いますが。
徳島プリンスホテルの写真展
その後、鳴門ドイツ館のすぐ近くということで、油断して「藍の館」に立ち寄ったのも遅刻の原因です。ここでは、シュミットさんは、日本の家屋とインディゴに関心を寄せました。それ以上に関心を示したのは江戸時代の商人をかたどった人形のちょんまげでした。「すもう」と発音し、なんと”アサショウリュウ”も”コトオウシュウ”も良くご存知でした。そしてドイツでは、「子連れ狼」がテレビ放映されており、大人気だそう。シュミットさんから「大五郎をどう思うか?」と聞かれて、真剣に考え、お答えしました。そんなこんなで大あわてでドイツ館に到着。
その日のドイツ館はドイチェスフェストの最終日。家族連れのにぎわいに出会い、楽しい気分に満たされました。残念だったのは遅刻のために、好評のドイツソーセージを食べ損なったことです。その後は瀬戸先生の板東訪問記に詳細に書かれておりますので、ワープいたします。ただ、鳴門の史跡は、バラッケの基礎部分であるレンガの土台がしっかり残っており、ドイツ兵がいた頃からの木々は大木に、小さくなったとはいえ、池もそのまま、まるでドイツ兵がそこにいるかのように私には思えました。最初の日の夜の歓迎会には予想もしていなかったそうで、丁寧な日本の歓待に感激していらっしゃいました。
慰霊碑の前で田村館長、シュミット さん、瀬戸先生シュミット夫人
新しい慰霊碑
当時の慰霊碑
(編集者注: 瀬戸先生の「シュミット氏の板東訪問報告記」)
第3日目 10月31日(月) 丸亀・琴平
シュミット夫妻のお疲れを気遣い、ゆっくりした時間帯で丸亀に向かいました。
12:24分丸亀着。小阪先生、松尾先生のお迎え。小阪先生の案内で、さぬきうどん屋さんへ直行。このうどんが曲者で、お二人の苦戦振りはおかしいやら、お気の毒やら。長いうどんは挟めても口には持っていけず、うどんの途中を箸で切るテクニックは初心者のシュミット夫妻には出来ません。奥様は戦闘意欲を失くし、表情はくもりがち。シュミットさんは、箸にうどんを巻き付けて何とか食べようと努力しますが、うまくいかず。周りのお客様たちの笑いの的になってしまいました。丸亀の史跡収容所跡の視察は、小阪先生が「丸亀のシュミットさん一行」で十分に述べられており、再びワープします。ただ、丸亀の研究会の皆様のチームワークの良さと情熱を強く感じたことをお伝えします。
高松に着いたシュミットさんと篠田公次
テンメの墓
うどんに大苦戦
俘虜たちがしばしば散歩した中津万象園で歓迎会
女同士、言葉は通じませんが、奥様を誘って丸亀万象園をゆっくり歩きました。手入れの行き届いた、素晴らしい日本庭園は、日本の文化そのもので、心が洗われるようでした。奥様が大きく深呼吸をし、シュミット邸では、何よりも良い空気が好きで、冬でも窓を開けて暮らすのだとその時、話されました。(なんとかわかりました。)窓を開けて暮らすというイメージが、私の中で大きく広がりました。
丸亀の予定も大幅に遅れまして、金毘羅さんに上った時は、両側のお店は殆ど閉まりました。
私は、220段という文字を横目で見て、降参。何とも情けないのですが、いつか昼間に再挑戦をしたいと思います。明日は、広島。瀬戸内海を南風4号で渡ります。シュミットさん夫妻は、海がとても好きです。私もわくわくしています。
(編集者注: 編集者の「丸亀のシュミット氏一行」)
第4日目 11月1日(火) 広島・似島
琴平発8:34岡山行き南風4号に乗っております。快適です。両側は海です。岡山まで海の上を走っていることがうれしくてなりません。島が点々と見えて、予想通り素晴らしい景色です。ここだけ写真がありません。撮るのを忘れました。さて、岡山からシュミットさん希望の新幹線に乗り換え広島へ来ました。広島駅では、瀬戸先生ご紹介の似島在住の郷土史家宮崎佳都夫氏が迎えて下さり、まずは広島原爆ドーム、平和資料館へと向かいました。ここでは、英語を話すボランティアの女性(広島に住む主婦の方のようです。)を手配して下さっていて、詳細な説明を受けました。シュミットさんは彼女の話を実に熱心に聞いておられ、進行を気にする夫をやきもきさせたほどです。
原爆ドームを出た我々は昼食に名物の広島焼きに挑戦後、次の目的地、似島へ。
途中、宮崎氏の案内により、比治山にある第一次世界大戦の俘虜の中で似島で亡くなったとされる9名のうちの一人オットー・パーペの墓に詣でました。日露戦争時の軍人墓地、それも原爆のダメージにより、元の地より移動を余儀なくされた墓所ということでしたが、異様なのは、墓がオットーを除いてすべて、くっ付いております。夫の下手な通訳でも、シュミットさん、戦争時の広島の混乱の仕業をご理解されたようでした。尚、他のドイツ兵の墓は今もって行方不明とのこと。
宇品港に着きました。ここから臨む似島は安芸小富士と呼ばれる通り、その姿は海に浮かぶ美しい小さな富士そのもので、島は手を伸ばせばすぐにでも届きそうでした。周りに小さな島がいくつもあり、そして左前方奥には、呉、江田島が見えます。宮崎氏は以前、似島と江田島間の海を5台の潜水艦が連なって大洋に向けて、進行するのを目の前で目撃して、感動したことを話されました。すかさず、シュミットさんが、自分は日本の戦艦は名前も種類も船の構造なども殆どわかるとおっしゃって、シキシマ、ヤマト、ムサシ、オオスミなどなど・・眼前の海を見つめ興奮気味で名前を挙げていきました。最後に「トクシマ」があったはずだけれど?の質問がありましたが、どなたかご存知ですか?ちなみに先般イラクに機雷の除去に向かった海上自衛隊の掃海艇のひとつはニノシマというのだそう。
フェリーで20分、似島に着きました。車で15分ほど走り目的地に着きました。ドイツ兵の収容所跡です。ここはもと似島第2検疫所が置かれていた場所でもあり、今は市民に開放されて、キャンプ場があり、グランドや自然の木々が整えられた広大な敷地の美しい似島臨海少年自然の家になっております。折りしも、秋の陽射しがふりそそぎ、私たちは、黄色くなりかけた森の中を歩いて当時のドイツ兵が使用した井戸の跡地まで行きました。柵に囲まれ保存されたその古い井戸には、今も水があるそうです。その後ろの小高い森を指差して、宮崎氏が、当時ドイツ兵はあのあたりを開拓して畑を作り農作物を収穫していたと。似島は日本の軍港に近いため表側は高い柵が作られ、軍港が見えないよう厳しい環境が施されていたが、何のことはない、奥の小高くなった畑からは周囲が良く見えたそうです。その話は、何となくおかしみがあり、ホットする話でした。そういう間も、さかんに鳥が鳴き、飛び交って、似島は日本の戦争と常に関わってきた極めて特異な島と理解していた私は、いつの間にか美しい平和な似島だけを感じておりました。祖父が当時もこのような自然の中にいたかも知れないと思うと、決して私の想像した哀しい島流しのお話ではないという思いがして、人知らず、しばし感傷に耽りました。真実は森に隠されていてわかりませんが、その森の中で癒されている自分を感じておりました。
少年自然の家センターの後ろに独日文化交流育英会名誉会長(デュッセルドルフの日本企業で組織)の有川陽(あきら)氏の寄贈で、2003年ドイツ俘虜地跡に相当数送られてきた菩提樹を見ました。
他の俘虜地跡にも寄贈があったそうで、有川氏とドイツ兵俘虜はどんな関係なのか気になりました。宮崎氏は何本かの菩提樹を前述のオットー・パーペの眠る軍人墓地に移植したいのだと話しました。いい話です。陽が落ちてきました。みんなで記念写真を撮ることにしました。そこへ宮崎さんの奥様がご自分の農園で収穫した採れたてのみかんを持って登場。ご一緒にパチリ。
広島市内に戻り、夕食は(本当は牡蠣と思ったのですが奥様が苦手なので)宮崎氏、少年の家所長谷氏とともに広島牛を食べました。シュミットさんご夫妻、お箸の使い方も上手になりました。宮崎氏らとお別れして、私たちは、気分転換に街を歩き、夫の発案でパチンコ店に行くことにしました。広島の街は結構パチンコ店があり、そのたびにシュミットさんがパチンコと読み上げるので、これは希望していると判断したのです・・。もちろん笑みを浮かべて入店しましたが結果はあっけなく終わりました。シュミットさんは、歩きながら、街に流れていた歌に足を止めて「これはだれだ?」とおっしゃいました。それはさだまさしの「無縁坂」でした。しみとおるような彼の声はその日は特にきれいでした。
似島臨海少年の家
似島
原爆ドームを後ろに
ドイツ兵の作った井戸
谷所長、シュミットさん、夫人、篠 田和絵、公次、宮崎氏の夫人、宮崎氏
第5日目 11月2日(水) 姫路・京都
広島発8:45ひかり446にて姫路に向かいました。9:49着。岸本先生と先生ご紹介の藤原龍雄先生とお嬢様である大阪外大院生の早穂さんの同行願って、収容所跡地、本徳寺、景福寺、名古山陸軍墓地をめぐりました。姫路の郷土史に詳しい藤原先生の説明とそれをドイツ語で通訳される早穂さん親子の呼吸はピッタリ。シュミットさんも若い女性の通訳でさぞご満足ではなかったかと。姫路の経過は169号マガジンに岸本先生が報告済みなので、それ以外のお話を。岸本先生のご手配で、シュミットさん夫妻の長女のハナさんのペンフレンドである加藤有香さんが姫路城庭園・好古園の中にある日本レストランで、我々と合流しました。
奥様は満面の笑みを浮かべて、有香さんとご対面。お土産話が出来たことでしょう。
姫路城もさることながら好古園の美しさにも驚かされました。奥様は植物がお好きで、日本庭園では、丸く刈り込んだ松に興味を持って盛んに写真を撮っていらっしゃいました。池の鯉が大変美しく、松・池・鯉を眺めて年のせいか、とても落ち着きました。ちょっと残念だったのは時間が少なく、姫路城の姿を外から眺めるだけで、シュミットさん夫妻に城に上っていただくことができなかったことです。14:32発新快速長浜行きに乗って京都へ早めに行きました。車中は混んでおり、様々な人びとの乗り降りをご覧になったはずです。(一興かと)
京都で始めて、私たちとシュミット夫妻はお別れしました。シュミットさんたちは大正初め創業で当時の佇まいを残し、100年続いている典型的な「京都の旅館」に、私たちは勝手なところへ。
姫路城にて 岸本先生、藤原早穂さん、加藤有香さん、私、シュミッ トさん、夫人、藤原先生
姫路本徳寺にてシュミットさん、通訳の藤原先生
名古山陸軍墓地の墓3体
俘虜がサッカーをしたといわれる景福寺
第6日目 11月3日 (木) 京都・神戸・三宮・小野・青野ヶ原
京都の旅館の感想はお風呂が大きかったとしか聞くことは出来ませんでした。策におぼれた感あり。さて、本日は盛り沢山なメニューをこなします。
10:00に三宮のフロインドリーブカフェ、通称チャーチカフェ(阪神大震災で壊れかけた神戸ユニオン教会を購入してカフェに模様替えする)で、待ち合せ。メンバーは我々4人と岸本先生にハイデルベルグ、ベルリンに留学体験をお持ちの阪大院生の高松みどりさん。今日も若い女性が通訳について下さり、我々はエンジョイ組みに廻りました。
(編集者注: Freundlieb はドイツ語では「フロイントリープ」と発音されますが、会社名としては篠田さんの原文のごとく「フロインドリーブ」として通っているようです。以下、発音に関して原文のまま)
待ち合わせたカフェの説明を少し。名前が示すとおり、カフェの女性社長、ヘラー・フロインドリーブさんは名古屋の俘虜であった、ハインリッヒ・フロインドリーブさんのお孫さん。
ここに行きたかったのは、私です。ふとしたことで、お電話で話す機会があり、お店の存在を知りました。岸本先生に計画の中に入れていただいて実現しました。ヘラーさんは、初代のお祖父様の写真やご両親、生田にあった最初の店、そして元ユニオン教会の写真など用意して待っていて下さいました。シュミットさんにとって驚きの出会いだったかもしれません。ご夫妻とヘラーさんの会話は、弾んでおりましたが、私には全く分からず、分かるのは、岸本先生、高松みどりさん。ケーキはとにかくおいしかったです。
中央はヘラー・フロインドリーブさん 隣は通訳の高松みどりさん
10:30小野市好古館俘虜展覧会へと出発いたしました。岸本先生の報告にない話をすると、好古館の茶室でお茶体験をすることが出来ました。日本文化の格式高い雰囲気は、独特であり、なかなかいいものでした。ただ、シュミットさんは畳に座れませんので、やや苦しい体験でもあったでしょう。ちなみに奥様はジーパンで、胡坐スタイルで臨まれました。
お茶席で座れないシュミットさん
お茶席で座れなくて大苦戦のご夫婦
青野ヶ原から三宮にもどり、岸本先生が用意してくださった夕食会に行きました。南京町を通り、途中でユーハイムの店を見つけて、シュミットさんは「オー、ユーハイム」を繰り返し、自ら、写真に納まりました。そして目的のドイツレストランGGCへ。メンバーは我々6人と既に店にはOAG神戸ニッツ先生、大津留厚先生、森博文先生がいらっしゃっており、賑やかな会になりました。シュミット夫妻は日本食の続いた後に、タイミグよく出されたドイツ料理にほっとされたと思います。ここでのシュミットさんと皆様の談笑も言葉の壁から私には、殆ど分かりませんでした。ご機嫌だったことをご報告いたします。ただ、個人的に感動したことがひとつ。私の前の席に大津留厚先生がいらっしゃいました。旅行中、たまたま持ち歩いていた読みかけの本の著者であることを発見。ちなみに本は「ハプスブルクの実験」です。本にサインを頂きました。とてもうれしい出来事でした。もちろん2時間の間、話に花が咲き、終わりにするのが惜しまれましたが、明日を考えて、19:39の電車で京都に戻りました。
小野好古館俘虜展示会場で
青野ヶ原に残る当時の井戸
(編集者注: 岸本先生の「関西のSchmidt夫妻」)
(編集者注: 大津留厚先生の「ハプスブルクの実験」の紹介)
第7日目 11月4日 (金) 京都見物
今日は、たのしい京都見物です。学術的な事柄が初めて何もない日です。
岸本先生が3日連続で、お付き合いしてくださり、森博文先生もご一緒です。
おのぼりさんの仁義にならって、初めに行ったのはやはり清水寺です。天候も良く、紅葉には今ひとつなのが残念ですが、木の柱で支える寺はさすがに風格がありました。次は平安神宮、実に明るくて形の美しい神社です。緑とオレンンジ色で塗り分けた神社の装いにシュミット夫妻は見とれていらっしゃいました。パチリ、パチリと写真を撮りました。七五三を祝う子供の着物姿を見つけ、にこにこと見入っていらっしゃいました。昼食をと、祇園に向かいました。昼間ですから舞妓さんの姿を見ることは諦めておりました。と、角から突然3人の可愛い舞妓さんが笑顔で話しながら現れました。とっさのことなので皆、「あつ!」とだけ。まだお化粧前の舞妓さんで多分髪結いが終わってこれからお化粧に向かうのでしょ。あでやかな姿に気をとられ、そのことに気づくのに少し時間が必要でした。シュミットさんのために目の前に現れてくれたかのようでした。
町家風の場所で気持ちのよい食事を終え、金閣寺、竜安寺をめぐりました。どちらも違う意味で個性的な寺ですから、興味深く見ることが出来たと思います。京都見物をのんびり終えて、東京に戻りました。この日の夜は、シュミットさんご夫妻を赤坂のホテルに置き去りにして、我々は、帰宅しました。
京都の町の中
京都を案内して下さった森博文先生と
金閣寺の庭にて私たち、岸本先生、 シュミット夫妻
平安神宮で
第8日目 11月5日 (土) 東京見物
今日はシュミットさんの「日本の旅」の最後の日、東京見物の日です。目的地へ向かうためお二人と、毎朝ロビーで待ち合わせるのも今日で終わりです。
10:00に東京OAGに向かいました。会場で待ち合わせたOAGのロンベルグさんと彫刻家のご主人にお会いしました。今日一日付いて通訳をしてくださるロンベルグさんは若いお母さんです。(3ケ月の赤ちゃんを抱っこしていらっしゃいました。)OAG の展示会は俘虜ドイツ兵のすべてがわかるという努力の結果を感じさせるものでした。これを見ることが、シュミットさんの目的のひとつでもありました。その後ジャンボタクシーに乗り込んで、皇居の周囲(プリンセス愛子はどこに住んでいるのか?という質問がありました。)、首相官邸、東京駅、丸の内などを走り、秋葉原にやってきました。つくばエクスプレスと繋げて完成したばかりのヨドバシカメラマルチメディア館に入りました。10階建て、60万アイテムの品揃えという宣伝文句につられたのは私。家族連れの多い8階のレストランでは、土曜日とあって、待ち席で座るはめに。ドイツでは見られない光景ではと思い敢行。昼食後、浅草へ。大きな雷門、売り声が響き渡る仲見世通りは京都とは一味違い、奥様は、積極的にショッピング。そういえば、スケジュールをこなすあまり、京都でお嬢様のために赤い番傘を買った意外は自由なショッピングはしていらっしゃいませんでした。浅草寺境内は小春日和の陽射しと線香の煙に包まれ、とても暖かい雰囲気でした。浅草寺を後にして、浅草から出る水上バスに乗船、「隅田川めぐりを楽しむ30分の船の旅」で浜離宮までやって来ました。途中、川沿いに建つ超高層モダンビル群の眺めも東京のひとつの顔であったはずです。地下鉄に乗って、銀座に行きました。銀座は歩行者天国で歩きやすく、我々がカフェで休んでいる間、赤ちゃんを抱っこにもかかわらずフットワーク快調のロンベルグさんと奥様は松屋デパートにお買い物。エキサイティングデーパトメントであると満足顔でした。最後の夕食もお客様がご一緒なので、遅れないようホテルへ。以前、星さんから紹介され、ミュンヘンにお住まいで、代表作「クーデンホーフ光子の手記」の著者でいらっしゃるシュミット村木眞寿美さん夫妻が折り良く東京に着くという情報を得、今夜お招きしています。現在は、ローマイヤーについて調査中とのことです。
この日、シュミットさんは赤い蝶ネクタイ、奥様はうんとおめかしをして輝いていました。
こうした夕食会も今夜で終わりです。あっという間にお別れの日が来ました。
浅草にて ロンルベルグさん、シュミット夫妻、篠田公次
浅草にて
東京最後の日 村木夫妻
東京最後の夕食会
第9日目 11月6日 (日) 帰国
ホテルに8:20にお迎え。東京駅9:00発の成田エクスプレスにてフランクフルトに向けて成田空港へ。私たちは、東京駅でシュミットご夫妻とお別れです。自由な時間が少なかったので、心配ですが、その分、当初の目的は果たすことが出来たのではと今更ながら、熱心な研究会の皆様のお顔が目に浮かびました。エクスプレスが動き出しました。奥様がティッシュペーパで涙を拭くまねをして、それをハンカチ代わりに振ってくださいました。
Auf Wiedersehen!!