新聞集成大正編年史

 

大正5年2月23日 報知

春の大雪

 殆ど全国に及ぶ/東京で7寸3分

  雨気を含んだ霙のような雪は軈て繭玉程のぼたぼた雪となり、遂に21日の徹宵降り

 に降って、22日朝は満都皚々たる銀世界と化した。

  中央気象台の岡田博士は語るよう「21日支那大陸から襲来した低気圧は、同夜紀州

 沖を掠めて一気に驀進し、今や八丈島の東方洋上に低徊して居る。其の結果は、是れま

 で非常に暖かかった瀬戸内海から関東一帯に大雪を見るに至ったのである。

  東京は21日の午後4時15分頃から降出したが、鳥渡小歇みになって、夜に入ると

 共に再び激しくなり、終夜繽紛として鵞羽を飛ばし、今朝7時10分までに7寸3分の

 積雪を見た。併し、低気圧は八丈島から小笠原島の南に外れる筈だから、今日の昼過に

 は東京の空は豁然と霽れ渡って好い天気になるであろう。

  今度の雪はなかなかの大雪で、去年2月9日に降った5寸9分に比べても遥に多く、

 近頃での記録破りである。其れに範囲も大きく、九州・四国から関東に渉り、20日の

 夜だけでも、東は水戸、西は岐阜に及び、南は従来殆んど雪を見ない伊豆・房州にまで

 満遍なく降り積った。

  尤も、低気圧の東上するに随って、今朝は九州、四国とも雪霽れ、碧空を仰ぎ見る晴

 天となり、又奥羽方面は此の低気圧の圏外にあるお蔭で、近来稀らしき快晴である」と。

 

大正5年8月15日 大阪朝日

鄭家屯で日華両軍衝突

 −支那兵の暴挙− 我軍隊を包囲、我死傷19名

  鄭家屯に在る日本守備隊1箇中隊は、13日午後、馮麟閣の第28師団第55旅団の

 若干部隊より突然包囲攻撃を受け、互に多数の死傷を出せり。事態重大なり。

  原因は、第28師団兵が邦人数名を殴打侮辱したるに在り、之が交渉に向いたる我河

 瀬巡査は支那兵の射撃を受けて即死を遂げ、満鉄出張員1名負傷し、尋で大部隊の兵一

 斉に我守備隊を包囲攻撃し、松尾中尉以下17名の死傷者を出したるが、守備隊は之に

 屈せず、満鉄出張所員及在住民一同と協力奮闘中。

 

大正5年10月23日 時事新報

俘虜が習志野へ

  福岡の収容所から千葉県の習志野へ転送される事になった独逸俘虜フリーゼック以下

 68名の兵士は、21日の午前7時10分着列車で東京駅へ到着した。

  紺色の軍服姿は却々堂々たる風采であったが、鞄や行李や、中には薬缶などをブラ下

 げた奇抜な先生もあって、居合せた旅客の眼を瞠らせた。一行は鈴木少尉指揮の護衛兵

 8名に警戒されて、歩廊を二列縦隊で構外へぞろぞろ出たが、其処から更に24名の憲

 兵に護衛されながら、足を傷めて電車へ乗せられたスペアリンクの外は一同徒歩で両国

 へ向い、午前9時30分同駅発、同10時30分幕張駅着列車で、温順しく習志野へ送

 られた。

 

大正5年11月4日 大阪朝日

立太子礼

  詔書 朕祖宗ノ違範ニ遵ヒ裕仁親王ノ為ニ立太子ノ礼ヲ行ヒ茲ニ之ヲ宣布ス

    御名御璽 大正5年11月3日

             宮内大臣男爵   波多野敬直

             内閣総理大臣伯爵 寺内 正毅

三殿に奉告

  立儲の御儀に先ず行わせらるべき賢所皇霊殿、神殿奉告の御儀は3日午前6時30分

 東京宮城の奥深く宮居を列ぬる三殿の広前に執行せられぬ。式部の諸員は、御壁代御敷

 妙なぞ殿の内外の装飾を奉仕し、定刻用意万端終りを告ぐれば、大礼服の宮内高等官、

 松井・伊達両式部官、東郷元帥、大迫大将、山川総長等20余名参列し、茲に東園掌典

 次長は昇殿、神楽歌奏裡に御扉を開き、天皇陛下御代拝清水谷侍従、衣冠単を正して神

 前に進み拝礼を行い、続いて参列諸員亦拝礼し、後撤饌、閉扉、神楽歌奏裡に諸員退下

 す。時に7時15分、御儀を終らせらる。

 

大正7年6月13日( )読売

●俘虜生活

 ◇所長会議の対象

 ◇我が学ぶべき点

  俘虜収容所長会議は、既報の通り12日から開催されたが、この機会に俘虜の近情を

 知るのも、徒爾ではあるまい。

  現在日本に収容している敵国俘虜は4628人で、習志野、静岡、名古屋、青野原(姫

 路の北方)、似の島(広島の南方)、板東(徳島市の北方)、大分、久留米の8箇所に分

 割収容されている。建物は、大抵そこの赤十字支部又は陸軍野営廠舎を充て、将校と下

 士以下は別室で、将校には従卒が附けられている。食物は我が軍人と略同様で、酒保も

 あり、浴室、遊戯場、娯楽室、医務室、休養室等もあって、設備は完全であるから、彼

 等は何れも血色よく肥っている。これは、彼等の平均体重が19貫余あるのを見ても解

 るが、決してブラブラさせてはいない。彼等の特種な技能を利用している。

  第一習志野では、彼等の食用の麺麭は、皆彼等自身が製造する。そして、自然最も念

 を入れるから、頗る優良なるものが出来る。又、石鹸製造の技師が居るが、非常にいい

 ものなので、農商務省からは、わざわざその研究に技師を派遣し、すっかりその製造方

 法を会得した実例もある。豚の腸詰なども、附近の住民に迄大歓迎を受け、石鹸も、最

 近3000個騎兵連隊から注文があった。犢、羊、豚等の飼育も、頗る好成績である。

  次に名古屋では、諸機械、発動機、自転車及び陶器などを製造させて居るが、某鉄工

 場で使用して居る俘虜などは最も優秀なもので、日本の技師以上の成績を上げて居る。

  青野原では、発動機を製作させ、似ノ島では、彼の有名な広島針を製作させて居るが、

 広島市の製針組合では、多大の資金を投じて彼等のために工場を設けた。

  板東には又、林学博士の一俘虜が居るので、大々的な殖林事業を試み、成績もいい。

 板東は最も多士済々で、右の博士の外に畜牛技師、工業及醸造技師等が幾人も居る。現

 に、畜牛技師の言を採用して、徳島と大阪の某大資本家は、5000円を投じて純独逸

 式の搾乳所を設立した。醸造技師は、世界の誇りたる独逸のウヰスキーを製造して居る。

 手芸加工品も頗る巧で、一切の家具、玩具、彫刻、鋳造、編物、造花等、実に驚嘆に値

 するものが尠くない。過日、板東町に俘虜の製作品展覧会を開いたが、入場者実に5万

 人、町に落ちた金ばかりでも2万円以上であった。その製作品は、廃物利用的の物が多

 い。そして、彼等の起床、食事、就床等は軍隊的に厳格だが、その他は頗る自由である。

 然し、個々規則的に読書、運動等整然なもので、娯楽としては俘虜新聞、楽器、運動器

 具等の製作に慰安を求めている。

  最後に、彼等の生活中注目すべき現象は、大戦も4年越しになって、独逸本国の経済

 状態は非常に危険だと伝えられているに拘らず、彼等に宛てて送って寄来した救恤金が

 実に1000万円の巨額に達し、その他の物品も、従って夥しいものであることと、彼

 等の間に東洋的、特に日本語、支那語の学習熱の盛んなことで、ここに彼等の将来に対

 する抱負もうかがわれるであろう。

 

大正9年1月27日(火)読売

習志野の月を見捨てて

 独逸俘虜は故国へ

  98名昨日収容所を開放

  ワ総督は両三日横浜滞在

 習志野俘虜収容所に最後迄取残されたワルデック総督外98名の俘虜連は、愈々26日午前7時収容所前で開放された。そして津田沼駅発10時20分と零時6分の両列車に分乗して故国に向って出発する事となって、一先ず引取りに出張したチェック公使館員に引渡され、岩崎歩兵中尉附添で喜びの色を湛え、黒山の如く集まった観衆に目を配りながら車中の人となった。カルトナー中佐外49名は、27日神戸港解纜のハドソン丸に便乗帰国の途に就く筈で、ワ総督外40名は横浜の独逸海軍病院に両三日滞在し、便船を待って帰国する予定である。汽車の人となった一俘虜は残り惜げに日本の感想に就て語る。「永々御世話様になりましたが、帰国となると、5年間も住み馴れた丈あって何となく懐かしい。機会があったら再び日本の人となりたいと思って居ます。西伯利に流転して居る同胞の悲惨な情報を聞くにつけ、日本に捕われた此の身の幸福を感じます。貴紙を通じて日本国民に今迄の御同情に感謝致します」と。(千葉電話)

       写真:「最後の握手」 ワルデック総督は5年振の解放を喜び、情報局長

                  竹上少将と最後の握手を交換す。

                 〔写真右より〕竹上少将、カルトナー中佐、ワルデ

                        ック総督(26日習志野にて)

名古屋独逸俘虜も26日放釈

  シッシンゲル中佐以下124名

 名古屋俘虜収容所シッシンゲル中佐外124名は26日午後5時57分発にて中島所長清屋清家通訳附添いにて神戸に向えり。右の外13名は日本に滞留、愛知産業会社外各所に雇われ名古屋に残る筈なるが、之れにて全部放釈となれり。収容所は4月31日閉鎖する由。(名古屋特電)