追記

 本稿について掲載後、岡山大学名誉教授・松尾展成先生からいくつかのご指摘をいただ

いた。全面的に改稿する暇がないので、取り急ぎ松尾先生のご指摘を摘記して、後日を期すこととしたい。

 1)“国民突撃隊”に関して

    筆者はLandsturm(国民軍)について、第二次大戦の戦記物では「国民突撃隊」

などという訳例も見受けられる、とした。ナチス末期、ベルリン陥落を前に少年や

老人など、動ける男を根こそぎかき集め、押し寄せるソ連軍の矢面に立たせたあの

部隊である。

    これについて松尾先生は、あの部隊はVolkssturm「民族突撃隊」であって、

Landsturmではない旨、ご指摘くださった。なお、松尾先生によれば、久留米収容

所楽団の指揮者だったオットー・レーマンは、敗戦の年1945年の初めに、この

民族突撃隊員として応召しているそうである。

 おそらく1945年の場合、国民兵役どころか少年や老人など、およそ兵役に縁

のないような者までかき集めたため、従来のLandsturmではなく、この場合特に

Volks-を名乗ったのではないだろうか。

    いずれにしても、兵役など関係ないように日常生活を送っている者でも、いった

ん緊急事態ということになれば、後備兵役、国民兵役として召集されることはあり

得るのである。既に青島でパン屋を営んでいたカール・ユーハイムが、軍務を手伝

っただけなのに捕虜にされて、日本に強制連行された、と記されている場合がある

が、日本側の俘虜名簿は彼(俘虜番号4683)を「LandsturmGemeiner」と

記している。国民兵役などという意識のほとんどなかったユーハイムとしては不本

意なことだっただろうが、彼もまた法的には軍人だったのである。

 2)Oberartilleristenmaat

整理番号149・150のOberartilleristenmaatを「砲兵軍曹」としたことにつ

いて、松尾先生は他のOber-maatが「一等…兵曹」「一等…手」であることとの

整合性も考える必要を指摘された。

 「官階表」の公定訳はMarineartilerie-Abteilung海軍砲兵隊を、むしろ陸軍に準

拠させ、あえて他のOber-maatとの整合は問わなかったものと見える。

 3)軍楽隊関係

    筆者は整理番号73Hoboistenmaatを二等軍楽兵曹と、また整理番号166Ober-

   hoboistenmaatを一等軍楽手と訳した。また、整理番号72Hoboistを二等軍楽手と

訳した。その結果、軍楽隊の下士官は、一等軍楽手−二等軍楽兵曹−二等軍楽手と

なってしまい、奇異ではないかというのが松尾先生のご指摘である。

    これは、「官階表」が二等軍楽手(二等兵曹相当)と軍楽生(兵卒階級)の2箇所

に、共にHoboistと記していることに、筆者が引きずられた結果である。筆者は現

在、二等軍楽手の欄に記されたHoboistHoboistenmaatの誤記だろうと推測して

いる。すなわち、一等軍楽手OberhoboistenmaatDivisiontambour、二等軍楽手

HoboistenmaatAbteilungstambour、軍楽生Hoboistという順番なのだろうと思

うのである。

 故に、整理番号73は二等軍楽手と、また整理番号72は「軍楽生/海軍歩兵隊

卒」と訂正しなければならない。特に後者では、元の形「二等軍楽手/海軍歩兵隊

卒」では、軍楽隊員としては二等兵曹だが海軍歩兵隊としては卒だという矛盾をは

らんでいたことになり、松尾先生のご指摘でこれを訂正し得たことになる。

 なお、松尾先生は整理番号74Hoboisten-Unteroffizierについても、海軍歩兵の

Unteroffizier(この場合は下士官全体のことではなく「伍長」のこと)に相当する軍

楽下士官、つまり二等軍楽手Hoboistenmaatのことではないかという示唆を与えて

下さった。

 松尾先生はまた、整理番号72のOtto Lehmann、整理番号74のRichard

Nitschke、整理番号243のWilhelm Pretzschについて、日本の俘虜名簿では、そ

れぞれ単にSeesoldatUnteroffizierSergeantとあるのみであることを指摘され

た。Hoboistと付加したのはシュミット氏であるが、これがシュミット氏の独自の調

査によるものか、Lehmannなど後日、収容所オーケストラで活躍したことから当然

Hoboistでもあったろうと推測したものか、シュミット氏に確認してみたいと思って

いる。

    また整理番号243Pretzschについては、「SergeantHoboist)」を「軍曹(軍楽

手)」と訳したが、軍曹相当の軍楽隊員ならばOberhoboistenmaat(一等軍楽手)で

なければおかしいであろう(上掲の整理番号72の訂正を参照)。同様に、整理番号

74「Hoboisten-Unteroffizier」も、陸軍(または海軍歩兵)の「伍長」にして軍楽

隊員でもある、という意味であれば、伍長相当の軍楽隊員すなわちHoboistenmaat

(二等軍楽手)ということになるかも知れない。

なお、「青島駐屯軍軍楽隊」といった軍楽専門の部隊は存在しなかったのであろう

か。軍楽隊が必要なときはその都度、各部隊内に散在している軍楽要員を集合させ

たのであろうか。松尾先生の「久留米『収容所楽団』指揮者オットー・レーマンの

生涯と音楽活動」(「日本=ザクセン文化交流史研究」所収171頁、レーマン履歴

書)には、第3海兵大隊軍楽隊が存在したが、青島攻防戦を前に軍楽隊は廃止され、

軍楽隊長ヴィレらは天津に脱出した。ヴィレらは1916年7月にはアメリカで演

奏していた、という事情が語られている。俘虜名簿の所属に軍楽隊がなく、軍楽兵

OberhoboistenmaatWostmannHansenHoboistenmaatMilliesの3人

しか出てこないのは、そのためであろう。以上、松尾先生にご指摘いただかなけれ

ば、考えてもみなかったことである。

*あるホームページ(「ドイツ陸軍の研究」と題するサイトの「軍楽隊(概説

1)」)(http://www5e.biglobe.ne.jp/~reserch/Truppen/musikkorps01-1.htm

は、陸軍についてこう述べる。「大日本帝国陸軍には軍楽科は兵科として独立

していた。一方、ドイツ陸軍では少々特殊な扱いになっていた。ドイツ陸軍

では連隊や大隊を中心に軍楽隊が存在していた。ここに属する将兵は音楽に

関する特殊技能を持った将兵であり、それを示す徽章や装飾具を用いたがあ

くまで所属する部隊に属する将兵であった。」。つまり、軍楽兵はあくまでも

連隊や大隊の一員であり、軍楽兵の徽章(軍服の両肩に“つばめの巣”

Schwalbennesterという半球型の飾りをつける)ものの、それは各自の技能

章であり、演奏する以外は、通常の兵隊と変わらない勤務をするのである。

この事情は、青島の海軍でも同じであったろうと思われる。

 4)資料3に関して

    資料3の所属部隊名の試案について、松尾先生から「1. Matrosen-Division」など

頭に数詞のあるものは、数詞を名詞の後ろに動かし「M」で表中の然るべき場所に掲

げた方が検索に適するとのご指導をいただいた。このホームページ版ではそのよう

に手直しさせていただいた。

以上、ご多忙のところ拙稿を仔細にご検討・ご指導いただいた松尾先生に、改めて御礼申し上げたいと思う。

 

整理番号190「陸軍後備役一等水兵」などの、陸軍と海軍が入り混じってしまう問題は、筆者にとってもいまだに釈然としない箇所である。俘虜名簿には確かにそう記されているのだが、日本側の誤植、あるいは本人の申告書を誤読した可能性(d.Sw.d.Lw.と)も否定できない。また、もう一つの可能性として、ドイツ兵のジョークである場合、つまり、日本側をからかってやろうと「MatroseだがLandwehrだ」と申告したら、日本の係官が真に受けてしまった、という場面もあるかも知れない。太平洋戦争では、米軍の捕虜になった日本兵は本名を名乗るのを嫌い、「長谷川一夫」だの「大河内伝次郎」などと申告したため、1つの捕虜キャンプに長谷川一夫が5人いた、などという珍談がある。日本兵の場合、捕虜のなるのを極度に嫌った事情があるとはいえ、捕虜名簿というものにはいつの時代も、ある程度のいい加減さはつきまとうものなのではないかとも思われるのである。

ところで、鳴門市ドイツ館で行われたフォーラム(平成17年10月1日)では、やはり「Seesoldatは“海兵”か“海軍歩兵”か」が一つの焦点になった。その帰途、丸亀の皆さんの招きで丸亀収容所跡に足を伸ばし、同地の陸軍墓地に残るドイツ兵テンメの墓に詣でたところ、墓石に「独逸海軍歩兵卒」と刻まれているのにはからずも対面した。現代の論考に用いるのに“海兵”がよいか“海軍歩兵”がよいか、という問題とは別に、当時日本側はこのSeesoldatという兵種を「海軍歩兵卒」(またGefreilterを「海軍歩兵上等兵」)と訳したということ自体は、どこかに記録しておく必要があるであろう。