「やさしさに充ちた病院」より 
            遠藤周作のエッセイ
 
 私は自分の後半生の仕事の一つとして「やさしさに充ちた病院」をつくる運動をしたいと夢みている。
 小説家である私が畑ちがいなこんな考えをもったことに、おどろく方がおられるかもしれない。
 だが、あまり丈夫でない私は、今までいろいろな病気を患ってきたし、入院や手術の経験もある。患者の寂しい、孤独な気持ちも、たっぷり味わってきたつもりだ。そんな一人として私は、私の知らぬ多くの病人やその家族のために「やさしさに充ちた病院」を願っているのである。
 幾度かの病院生活で、日本の大病院や大学病院が病気をなおす機関ではあるけれども、病人を癒す場所ではないということを知るにいたった。現代医学の進歩はめざましいものだが、しかし、それは病気を診断することに重点がかけられていて、病人の孤独や死に対しては、何ら手をさしのべられないことがよくわかった。
 私の知人が死んだ時、その担当医がこう言った。
 「患部はなおったんですがね。解剖してみると……」
 患部をなおしても、人間が死ねば何もならないことは当然なのに、この医師は患部にしか興味がなかったようにみえる。
 
 病院とは、多くの人にとっては、病気をなおす所だろう。しかし、ある患者にとっては、そこは死んでいく場所なのでもある。死の恐怖を味わい、孤独をかみしめねばならない場所でもあるのだ。だが、こうした病人に医師も看護婦も何らなすべき手段がないのが現状である。それならそれで、これらの病人に対し、病院がせめて何らかの慰めを与える機関を用意しているかといえば、そんなものはありはしない。もはや不治とわかっていながら、病院ではさまざまな検査をつづけ、絶望的な延命策を施したのちに、その死を待つだけだ。日本のいかなる大病院、大学病院が、これらの病人の切なる歎きに、応えてやる精神的な場所があるだろうか。それは一人一人の医者の罪ではない。一人一人の看護婦の罪でもない。医師や看護婦が努力しても、どうにもならぬ機構や組織が、わが国の大病院から人間のあたたかさを消しているのだ、と私は思う。
 
 病院というのは、病気を治療するだけの場所ではない。それは医学を通して、人間と人間が交流うる場所だと私は思うようになった。
 なぜなら、あなたが軽い病気ならとも角、重い病気にかかって、医者に診てもらうとする。その時、医者はあなたの病気しか関心がないかもしれないが、しかしあなたのほうは病気だけではなく、病気によって生じた生活の支障、家族の不安、あなた自身の将来への憂い、そういったすべてのものを背中に背負って診察室に入るのである。
 「一年ぐらい入院していただきましょう」
 病気しかみない医者は事もなげにそうすすめる。だが半年、一年間、入院を命ぜられた患者は、その間の生活をどうしたらいいのか、家族や仕事の始末をどうつければいいのか、考えこまざるをえないのである。その時、医者は一人の病気と向き合っているのではなく、病気になった人間の人生と向き合っているのである。
 つまりこの時、医者は自分の医学的知識と共に、彼の人間としてのやさしさ、あたたかさ、他人に対する思いやり ― そういった彼の人格によって患者に接せざるをえなくなってくる。
 「そんなことをやっていては身がもたんよ。毎日、数十人の患者を診なくてはならなぬ我々にとっては」
 とある医者は私に言った。この医者の言うのはもっともだと思う。しかし、その時、彼は医者としての技術の半分を既に失っているのである。なぜなら、我々はよく経験するのだが、医者の心のこもった、思いやりに充ちた言葉が、いかなる薬よりも患者の自然治癒力をひき出すからである。
 経験をつんだ臨床医師は、病気の恢復というのは、薬によるのではなく、患者の自然治癒力のおかげだと知っている。注射も薬も、その自然治癒力をひき出すきっかけにすぎない。それならば、医者のやさしい一言も、その自然治癒力をひき出す大きな力になる筈だ。
 今の医学ではどうにもならぬ病気は多い。それは医者自身がよく知っている筈だ。そうした難病や癌に苦しむ患者には、診断のための診断だけをする大病院が、どれくらい患者に意味があるだろうか ― それを私は時々、疑問に思う。
 もはや絶望的ということがわかっている患者に苦痛な検査を行うのはデータを集めるだけだと言ったら医者たちは腹をたてるかもしれない。しかし、心ある医者は学問のためのデータの必要性と、患者にとっては無意味な苦痛の板ばさみになって、どうしていいかわからない筈である。
 軽症患者はとも角、重症患者にとって、日本の大きな病院は、率直に言って、時には荒涼たる砂漠のようなものだ。そこは、彼がひょっとして死んでいく場所かも知れないのに、心の慰めになるものは、ほとんどみつけられない。自分の病気を訴える医者はいるが、病気によって生じた心の悩みや人生の傷をきいてくれる相手はいない。それを処理するための知恵を貸してくれる機関もない。すがろうとしてもすがりたい神父や僧侶の溜り場所もない。せめてそれならば音楽や本によって、何らかの活路を見出そうとしても、病院には音楽室や重病人のための、カセットさえ用意されていないのだ。
 そして共に暮らした家族が来てくれるのも、面会時間だけである。私は、あの三時から五時までという面会時間が軽症患者にも重症患者にも一律であることがふしぎでならない。
 重症患者にとって一番苦しいのは夜だというのに、その夜の間、彼は一人ぽっちなのだ(余程のことでないと看護婦たちは部屋に来てくれない)。
 こうした患者心理、患者の願いを、あまりに甘ったれているといえるだろうか。病気は肉体的な傷であると同時に心の傷であるから、肉体的な治療と共に心の治療をする機関を病院はもつべきだという考えは、決して甘ったれた考えではない。
 巨大な病院が次から次へと建てられていく。最新の設備が次から次へと整えられていく。そうした巨大な病院をみるたびに、私は、
 (ここも患者にとって砂漠かもしれない)
 とふと思うことがある。人間の死や苦しみが、医学という学問よりも軽視されている場所ではないか、そんな気がする時もある。
 私は今、何人かの医者やソシアルワーカーたちと、ささやかだが、こうした、我々が忘れてしまった「あたたかさ、やさしさ」を病院のなかにつくるために小さな運動をしようと考えている。
 人はいずれ死ぬ。だから死が問題なのではなく、死に方が問題なのである。それを今の医学は忘れている。人々のあたたかさ、やさしさにかこまれながら死んでゆく死に方と、ただ生きつづけるためだけに生きつづけさせられ結局は死んでゆく現代の病院での死に方と、どちらを選ぶかは各人の自由だろう。
 だが人々のやさしさ、あたたかさにかこまれて死んでゆく、そんな病院を夢みる人は多いだろう。そのためには私たちの運動は、多くの人々の協力を得なければならない。医者、看護婦、ボランティア、ほんとうの宗教家たちの。