いと聖らかな嵐のなかに
小阪 清行
 
 
第一部 捕虜 フランツ・トルナウ
 
青島から丸亀へ
 
 目指す堡塁が暗闇の中にうっすら見えていた。
 突然、弾丸がフランツの耳元をかすめ、悪魔が吠えるような音に戦慄が全身を貫いた。
 目的地を目前にして脚がひるんだ。伝令である自分の知らせに多くの戦友たちの生死がかかっているのだ、そう自分を鼓舞しても足が全く前に進まなくなった。
 ドイツ青島守備軍を数倍する兵力で日本軍が総攻撃をかけてきたのは、ヨーロッパで戦争が勃発してから約三ヶ月後、一九一四年十月末日の早朝だった。その日から一週間に亘って攻撃が繰り返され、日本軍はフランツが配置されていた中央堡塁の百メートル手前まで迫っていた。同堡塁の守備隊は一週間後の真夜中に猛攻にあって、ついに白旗を揚げた。
 降伏直前に伝令としての特殊任務を帯びたフランツ・トルナウ伍長は、中央堡塁を抜け出していた。最大堡塁である小湛山堡塁の背後に回り込んで、「無益な戦死者を出さぬよう即刻降伏すべし」との軍令を伝えるためである。日本軍の重砲による集中砲撃の中、兵が跳ばされ血みどろになり阿鼻地獄が出現していた。フランツが左脚に砲弾の破片を受けたのは、彼が小湛山堡塁まであと数百メートルに迫ったときだった。
 全く歩けないほどの重傷ではなかったが、今しがた頭をかすめた銃弾で身がすくみ完全に歩行不能に陥ってしまった。
 小湛山堡塁には戦友のカールがいる。青島でパン職人をやっていた年下の部下で、マイセンから青島に一年の予定で働きに来ていて召集された。結婚を控えて、その資金を得るため極東まで出稼ぎにやってきていたのだ。疑うことを知らない素直で陽気な性格。あまり外向的でないフランツによく懐いていた。カールの存在だけが、恋人から引き離されて悶々としていたフランツの心を明るくしていた。
 カールのためにも死を顧みず突進したいのに、身体が思うように動かない。歯軋りしながら彼は自分の左脚を銃床で強打した。そして意識を失ってその場に倒れ伏した。
 
 ドイツ守備軍の全面降伏後、杖にすがったフランツは足を引きずりながらカールの安否確認に赴いた。鮪のように並べられた戦死者の中に、女物のハンカチを握りしめたカールがいた。港に見送りに来た婚約者が涙を拭いているのを見て別れ際に貰ったものだと話していた、あの赤いハンカチ ― 。
 誰ともなくバッハの賛美歌「血潮したたる主の御頭」を歌いだした。フランツも歌おうとしたが、喉が締め付けられて声にならなかった。
 青島陥落後、捕虜となった約四千七百名のドイツ軍将兵は山の麓に集合させられ、そこで野営した。晩秋の青島は夜になるとひどく底冷えがした。
 絶望感に苛まれていたフランツは、岡山に残してきた幸(さち)の体を求めている自分に気づいた。それは決して肉欲からではなく、自分を呑み込んで反芻しようとする虚無から遁れんがためだった。幸の優しさに包まれていたかった。逃げ場はそこにしかないような気がしていた。
 六日後、フランツの中隊は小さな老朽船に乗せられて東シナ海を渡った。
 朝日を浴びた瀬戸の島々の間を縫うように航行して、多度津港に着岸したのは十一月十六日の午前十時前であった。甲板から港の奥に小高い丘が見えた。その紅葉の優しい彩りが限りなくフランツの心を和ませた。港にはおおかたが物見遊山であろうが、多くの日本人が出迎えている。一人の精悍な顔をした将校が木箱の上から捕虜たちに向かって号令をかけ、流暢なドイツ語で指示を与えた。ポツダム陸軍士官学校への留学経験を持つ田川中尉であった。続いて丸亀収容所長が訓示を垂れ田川中尉がそれを通訳した。収容所内ではドイツ軍の兵舎にいたときと同様に振る舞ってよい等々の内容であった。
 将校とその従卒達十数名は徒歩で十分ほど離れた別施設に収容されたが、フランツたち下士卒三百十余名が収容されたのは本願寺塩屋別院というかなり大きな寺だった。
 
 
黒い森(シユヴァルツヴァルト)の復活祭
 
 フランツ・トルナウは一八八四年に西南ドイツの小都市フロイデンシュタットに生まれた。「歓びの町」を意味するこの町は、昔から「黒い森」にある保養地として知られ、ヨーロッパの貴族やアメリカの大富豪をも惹きつけるほど、空気が澄み緑が美しかった。
 この地方はドイツでも敬虔主義の最も盛んな土地柄であり、フランツは幼少の頃より二歳年下の妹と一緒に両親に連れられて、日曜日の礼拝をほとんど欠かしたことがなかった。パイプオルガン職人のマイスターであった父も、小学校教師の母も、敬虔なクリスチャンとして周囲から敬意を払われていた。
 フランツにはアニー・シュルツという許嫁がいた。トルナウ家とシュルツ家は同じ教会に属しており、もともと父親同士が友人であった。若い二人は互いに深く敬愛しあい、周囲の誰もが似合いの婚約者と見なしていた。ギムナジウムを終えた年、フランツは地元のテュービンゲン大学に進んで文学・古典文献学を学んで教師を目指すことになった。在学中に二年間兵役に就いた期間を除いて、ほとんど週末毎に彼は実家に帰り、アニーと一緒の甘美な時の流れを楽しんだ。
 アニーの家族は両親と弟二人の五人。皆それぞれに強い個性を見せながら、シュヴァーベン人らしい純朴さと人懐こさは共通していた。シュヴァーベン ― それはシラー、ヘルダーリン、メーリケなど数多くの詩人を育んだ土地である。アニーの父親シュルツ氏はゲーテをこよなく愛する鉄道技師だった。
 「グロテスクな鉄の塊が、地を揺らしながら轟音とともに美しい森に煤煙をまき散らす。これは醜悪以外の何物でもない。君のお父さんのように、教会に美しいオルガンの音(ね)を響かせる仕事とは違い、因果な稼業ですよ、こっちは」
 言葉に深い陰がありながら、シュルツ氏の声には同時に朗らかさが感じられた。
 「アニー、明日は天気もよさそうよ。フランツと一緒に森を散策してはどう」と夕食後シュルツ夫人が言った。
 「そいつはいい考えだ。復活祭のシュヴァルツヴァルトを散策するのは、王侯貴族並みの楽しみだよ」
 フランツはアニーの両親の提案に素直に従って、翌朝バイアースブロン村まで散策することにした。復活祭が近づくと草木は芽吹き、淡い緑が百花繚乱の春が近いことを予感させる。日の光はすでに明るく温く、樹木の新緑が心地よい。「黒い森」には樅の木が多い。そのため遠くから見ると黒っぽく見えるのでそう呼ばれているが、実際は名前から連想される陰鬱さは全くない。
 アニーは足下に菫や水仙を見つけては、しゃがみ込んで嬉しそうに草花を眺めたり、「春への憧れ」を口ずさんだりした。二人で森の中を歩きながら、アニーの一つひとつの言葉がフランツの耳に天来の音楽のように甘く響いていた。
 数時間歩いて二人は滝に出くわした。小さな滝だったが、深閑とした森の中で近寄ると大瀑布の轟音のような神秘な音となって彼らの耳を打った。川を少し下り川原でアニーが作ったサンドイッチを食べて、草地に寝ころがった。長閑な光を身に受けながら二人で長く甘い沈黙を楽しんでいた。はるかな滝の音、小川のせせらぎ、小鳥の囀り、樅の梢をわたる風のそよぎ・・・フランツが目をあけると、抜けるような青空から日の光がヒラヒラと花びらのように舞い落ちてきた。
 その瞬間、《洗礼(バプテスマ)を受けよ!》という声を聞いた気がした。
 彼は一人そっと立って、片手で冷たい川の水をすくい額を濡らした。アニーは目を閉じたままだった。彼は微かな憂いを浮かべたアニーの美しい顔に口を近づけ、そっと額に接吻した。アニーは目を開いて、透き通るように清らかな微笑を返した。
 
 復活祭の休暇も終わり、フランツはテュービンゲンの下宿に戻った。下宿の女主人と簡単な挨拶を交わしていたとき、一人の東洋人が二階から降りてきた。昨夜日本から着いた生駒さんだと、夫人が紹介した。
 「ちょうど良かった。トルナウさん、生駒さんにベンゲルハウスまでの道を教えてあげてもらえないかしら。私の説明ではどうも・・・」
 夫人はきついシュヴァーベン方言を喋る。ドイツに来て間もない外国人に、彼女の方言が十分に理解できる道理がなかった。
 「分かりました。ちょうど後でその方角に行くつもりでしたから、二・三分待ってもらえるなら、僕が案内しましょう」とフランツは夫人に方言で答え、生駒には標準語で言い直した。
 生駒のドイツ語は少しぎこちなかった。また使う単語や言い回しが大時代的だった。しかし文法的には正確無比で語彙が豊富。ゲーテやシラーの文章を相当量暗記したのではないか、と思わせるほど文体が格調高かった。
 「日本の方がベンゲルハウスにどんなご用なのですか」
 「日本人の知人が住んでいるんですよ」
 「その人はクリスチャンなのですか」
 ベンゲルはドイツ敬虔主義の代表的神学者であり、ベンゲルハウスは神学生などクリスチャンのための寮なのである。
 「ええ。日本に内村鑑三というクリスチャンがいますが、彼はその弟子なんです。『余は如何にして基督信徒となりし乎』という内村の本は、ドイツ語にも翻訳されていますよ」
 「その本なら礼拝の折に牧師が引用するのを聞いたことがあります。あなたもクリスチャンなのですか」
 「いえ、私は仏教系の大学でドイツ語教師をしています」
 「それなのにクリスチャンの方と仲がいいのですか」
 「ええ、おかしいですか」
 「啓蒙主義のレッシングのような考えもありますが、ドイツでは異教への寛容さはやはり稀ですよ。特にルター派の正統派勢力が強いこの地方ではね」
 仏教では、頂上すなわち覚りに至る道は無数に存在すると考え、その道の如何を問わない傾向が強いこと、また釈迦の「筏の譬え」を例に挙げて、教義へのこだわりが希薄であることなどについて、生駒は詳しく説明した。
 キリスト教のみが世界を救うと説く正統キリスト教に違和感を覚え始めていたフランツは、生駒の話を興味深く聞いた。
 仏教系大学の教師だというので、フランツは当然生駒が仏教徒であるとの前提で話をしていると、生駒は、実は「わたしが信ずる宗教はあれでも無ければこれでも無い」のですとシラーを引用した。
 すかさずフランツが「して、無いと云うそのわけは?」と訊き返すと、間髪を入れず「宗教心があるが故に」と答えた。
 目が合って、二人は大笑した。
 
 翌日フランツは生駒を昼食に誘い、テュービンゲンの街を案内した。
 街の中心部をラインの支流ネッカー川が流れている。ネッカー橋の中央から川中島に降りる階段がある。フランツと生駒は島に降りて、プラタナスの並木道を散歩した。右岸には柳の樹に囲まれた「ヘルダーリンの塔」が立ち、これが町のシンボルになっている。「ディオティーマ」と呼ばれた人妻との限りなく純粋な関係を引き裂かれ、放浪を続けていた詩人はフランスから帰郷の途次、突如アポロに撃たれた。精神の闇に包まれたまま、人生の残り半分をこの塔で過ごしたのである。
 川中島の対岸に渡り、塔の裏道を百メートルほど西に行くと、ヘルダーリン、ヘーゲル、シェリングが共に学んだ神学寮がある。神学寮の脇にある石段を上って東に向うとシュティフト教会が聳える。教会の斜向かいにある小さな書店の前でフランツは立ち止まった。
 「ヘルマン・ヘッセという若い作家はご存じないでしょうね」
 「ええ」
 「数年前まで見習い店員としてこの本屋で働いていたそうで、そこに積んである『ペーター・カーメンツィント』という本は彼の小説です。彼のお祖父さんはインドで長く宣教師をやっていてインド学者としても有名ですが、この辺りでは『聖書のグンデルト』と呼ばれています。先日言及された内村の本を訳したのは、実はグンデルトの孫、つまりヘッセの従兄弟なんです」
 「ああ、そのグンデルト君のことなら昨日、ベンゲルハウスの知人から聞いたところです。入寮に際して、今日本にいるグンデルト君に色々世話になったそうですよ」
 「まさに『世界は村の如し』ですね。ところでヘッセはボヘミアン的雰囲気を漂わせているので、キリスト教の側からの受けはよくありません。僕の父などは『黒い羊』と呼んでいます。異端者という意味ですが」
 「なおさら興味をそそられます。記念に一冊買って行きましょう」
 「そこに四階建ての建物が見えるでしょ。あれはコッタハウスと言って、初めてゲーテ全集を出版したコッタの屋敷です。ゲーテもしばらく滞在したことがあります」
 時間のズレはあっても、半径百メートルそこそこの圏内に、文学・思想の巨星たちが同じ石畳の上を歩いていた。
 しばらく二人は言葉を交わさなかった。沈黙の歩みが互いに心地よかった。
 
 フランツと生駒は下宿が同じであるうえに同じ学部でもあったので、講義室や学部図書室などでよく一緒になりそしてよく話した。いつしか互いに「あなた(ズィー)」ではなく「君(ドゥー)」で話しかけていた。
 仏教に興味を持ち始めたフランツは生駒に質問することが多くなり、幅広い見識をもった生駒の考えに徐々に惹かれていった。田舎の小さな町で敬虔主義の家庭に生まれ、時代の流れから縁遠い環境で育ったフランツは、生駒の言葉に目の鱗が落ちていくのを感じていた。
 「君と話していると、桃源郷(アルカディア)の住人と話しているような気がすることがある」
 生駒がやや皮肉っぽく言った。
 「今も、敬虔主義が誕生した十七世紀の世界に生きているという感じが拭いきれない。それはそれで素晴らしいことだろうが、普遍性がないかもしれない。つまり、君がもし都会や外国で生活するようになったと仮定してみる。そのとき君は矛盾に直面して、今の君の考え方や思想は変容せざるを得ないのではないか、そんな風に僕には思える。ヘッセがドイツ社会に感じている違和感も、恐らくそんなところにあるんじゃないかな」
 
 その年のクリスマスにフランツは生駒を実家に招待した。クリスマス・イヴの夕食にはアニーも招かれていた。
 「生駒さん、われわれの教会の牧師が、内村や新渡戸などをよく説教に引用します。日本にもキリスト教徒は多いのですか」。フランツの父親が訊いた。
 「明治維新後、内村やその友人の新渡戸など西洋文化の影響を受けたインテリの間にキリスト教が広く受け入れられていることは事実です。インテリ層に浸透すれば確かに社会的影響は大きいですが、数はそれほど多いとは言えないと思います」
 「われわれの教会の牧師などは、殉教をものともしなかった数百年前の切支丹の信仰が今また日本で甦りつつある、そういう見方をしているようですが」
 「さあ、それはどうでしょうか。そもそもキリスト教が日本人の心性にしっくりくるものかどうか、私にはよく分かりません。千五百年の受容史を持つ仏教や儒教などの東洋思想も決して侮れないと私は思っています。ご存じのように新渡戸の『武士道』は深く禅仏教に根ざしておりますし、内村の信仰も武士道や儒教と決して無関係ではありません。内村は、武士道という台木にキリスト教を接ぎ木すべし、とさえ言っているのですから」
 「でもそれでは諸教混淆(シンクレティズム)ではありませんか」
 「実は日本人はシンクレティズムが好きでしてね。『神仏習合』と言いまして、日本では古くから仏教と神道が混淆しています。キリスト教も同じような運命を辿っても不思議ではないと思います。切支丹の時代にも、信者たちは聖母マリアを拝みながら、その崇拝の対象は実は阿弥陀仏に近い存在だったのではないかという見方もあるのです」
 「でもそれじゃあ、もはや本当のキリスト教とは言えないじゃありませんか」
 「ヨーロッパのキリスト教も、飽くまでヨーロッパ化されたキリスト教であって、イエス自身の教えとはかなり違うという印象を私は持っていますが」
 トルナウ氏はムッとして顔をしかめた。
 「生駒さんはもうご家族がおありですの」
 気まずくなったその場を取り繕うため、アニーが訊いた。
 「ええ、子供も二人おります」
 その後アニーのピアノ、フランツのヴァイオリンでスプリングソナタを演奏して、その夜は更けた。
 クリスマス休暇が終わってテュービンゲンに帰ろうとしていたとき、トルナウ氏は息子にそっと囁いた。
 「フランツ、変な思想を持った人間と付き合っていると碌な事にならんぞ。最近はおまえ、あまり礼拝にも出ようとしないじゃないか」
 
 
黒い羊
 
 それからほぼ一年半後に生駒はドイツを去った。
 フランツの心に穴が開いたような空虚感が広がった。兵役で無機的な兵舎生活を強いられた二年間でさえ、彼はそれほどの空しさを感じたことがなかった。二四歳になった彼はミュンヒェン大学に移ることにした。都会の大学を選んだについては間違いなく「桃源郷(アルカディア)の住人」から脱しようという気持ちが働いていた。
 大都市ミュンヒェンはフランツが知っていた田舎町とはやはり違っていた。すえた臭いを発する空き家、灰色の高い壁、緑の少ない公園、それらすべてが突き放す力として彼に迫ってきた。そこは表層性が支配し、過剰な事象が生起する不気味な空間だった。
 大学のレベルはテュービンゲンと大差ないが、思想を玩具のように振り回す学生が多いという印象をフランツは持った。ある夕方、ゲーロというゼミ生に、彼の行きつけの酒場へ連れて行かれた。「白馬亭」はシュヴァービングにあった。「ミュンヒェンのカルチエラタン」と呼ばれる一角である。客は学生のほかに画家、文士、ジャーナリストなども交じり、ボヘミアンの溜まり場的様相を呈していた。
 ある日フランツは「白馬亭」でゲーロからクララ・フォン・フェーリングという三十代の女性を紹介された。彼女から離れたとき、声をひそめてゲーロが言った。
 「野性味のある南欧的な女でね、まさに自由奔放。若い頃、北ドイツの堅苦しい実家を嫌って出奔して来たらしい。名前の通り貴族さ。物腰になんとなく気品があるだろ。言葉遣いも優雅だし。小説も書くんだぜ。ところがニンフォマニア的傾向があってさ、体を売っているという噂さえあるから、気をつけた方がいいぜ。もっとも君は堅すぎるから、ちょっと揉んでもらった方がいいかもな」
 そう言ってゲーロは下品な笑みを浮かべた。
 クララの美しい容貌と豊満な身体からは蒸せるようなエロスが発散されていた。
 激しい驟雨に襲われた夜のことだった。ゲーロとゼミ発表の打ち合わせのため「白馬亭」に入ろうとしたとき、店を出ようとしているクララに出くわした。
 「あッ」と無意識にフランツが言葉を漏らした。「傘は?」
 「いいのよ、これしきの雨」
 「よかったらこの傘を。僕はゲーロと一緒に帰りますから」
 「あら、優しいのね、坊や」と甘い声で言った。彼女はしたたかに酔っていた。
 「どうせなら部屋まで送ってくださらない。すぐそこだから」
 「待ち合わせの約束が・・・」と言う前に、彼女はもうフランツの肩に腕を絡ませて雨の中へ踏み出していた。
 一本の傘の中でクララの大きな胸がフランツの腕に押しつれられていた。
 「気にしなくていいのよ、坊や」
 体を強ばらせたフランツにクララは愉快そうに笑いながら言った。彼には心を読まれていることが不快だった。
 玄関前で別れようとすると、「いいから、お入りなさいな。お茶でもお入れするわ」
 部屋に入るや暗闇の中でクララは突然彼に抱きついて接吻した。
 雷に打たれたように硬直したフランツは、思わず手荒く彼女を突き放してドアに向かった。
 「臆病なのね」、クララは嘲るように言った。「女性に恥をかかせるものじゃあありませんよ。あなた、騎士道精神ってものをご存じないの」
 そう言って再び唇を吸ってフランツの右手を胸に導いた。
 「ほら、随分堅くなってるじゃありませんの」
 股間を撫でながら彼女がそう言ったとき、フランツは軽い目眩を覚えていた。愛欲の嵐に彼の身体はわなわなと震えだした。後はなされるがまま、激情の赴くままだった。
 行為の後クララは「ひょっとして坊や、初めてだったの」と訊いた。
 顔を背けたまま軽く頷いたフランツに、「あらあら、お礼を言ってもらおうかしら。私の身体は実はそうお安くはないのよ。でも可愛い坊やには特別ね。純情なところがとても気に入ったわ。来たいときには、いつでもいらっしゃい」
 
 フランツの生活は一変した。飲めなかったアルコールに浸り、喫煙も始めた。カードにさえ手を染めた。負けが込んでくると、胸に締め付けられるような痛みを覚えながら「地獄に落ちろ」と自分に囁きながら悪魔的に負けを喜んでいた。借金返済のため、親に嘘をついて仕送りの増額を頼むこともふえた。
 講義には滅多に出なくなり思想を振り回す学生たちとの交りを深めた。彼等を軽蔑していることに変わりはなかったが、それ以上に自分自身を蔑んでいた。
 二週間ほど経ったある日、フランツは自分の欲望に圧倒されて、夜再びクララの部屋に行った。部屋に満ちる甘く淫靡な香りに理性の制御が完全に奪われた。自分が乞食よりも、男娼よりも憐れな存在に感じられた。性的な刺激で体を満たしながら、底の無い虚しさだけを持って自分の部屋に帰ってきた。そして自分への絶望感から一晩身悶えして明かした。二度と行くまいと思いながら、抑えよう抑えようと思いつつ堪えきれずまたも彼女の部屋の前に立った夜、中から絶叫に近いクララの喘ぎ声が聞こえてきた。屈辱感と羞恥心に満たされて下宿に帰ってきた彼は、血が出るまで壁に頭を打ち付けた。そしてベッドに倒れ込んだ。
 シュヴァルツヴァルトでの復活祭の思い出が蘇った。
 「アニー!」
 
 ミュンヒェンでの生活が耐えがたくなったフランツはテュービンゲンに戻った。心はぼろぼろだったが、取りあえず国家試験に備えなければとの理性はまだ残っていた。試験準備を理由にほとんど帰省しなくなった。アニーに会えば彼女を穢しそうに思われたからである。
 国家試験に合格したとき、フランツは二六歳になっていた。親からは早く職についてアニーと結婚するよう迫られていた。そのことがまた求職活動に身が入らない原因ともなっていた。そんな息子を見て父親は毎日のように小言を言った。
 「あの日本人にすっかり魂を抜かれてしまったよ、おまえは」
 家を出ようにも今や仕送りは期待できなかった。美しく平和な町の清々しい季節に暗雲が立ちこめていた。
 京都の生駒から手紙が届いたのはそんなある日のことだった。
親愛なるフランツ
 僕の勤める大学でドイツ人教師を募集することになりました。学部長にはすでに君のことを話して内諾を得ています。差し当たり三年契約の非常勤だけれど、京都とその近辺には他にいくつも大学があり、当座は掛け持ちで十分な収入を確保できると信じます。日本の大学事情を考えれば、数年後には専任の口が見つかることはほぼ間違いないと思っている。実は色々心当たりを探ってみて、いい感触を得ています。
 妻千枝も君に会えるのをとても楽しみにしている。
 気になるのはアニーのことだが、君がこちらで落ち着いてから呼び寄せるということにしてはどうだろう。良い返事を待っています。
 君の 生駒敏
 
 父親はもちろん大反対だった。
 「教会で世話になっているオルガン職人の息子が仏教大学の教師だ?人が聞けば嘲笑(わら)うぞ。それにあいつは虫が好かん。第一、アニーのことはどうするんだ。婚約しているんだぞ」
 「アニーとは結婚できない事情が生じました」
 意図していなかった言葉が咄嗟に飛び出して、フランツの心は一瞬凍り付いた。
 反射的に父親は息子の顔面を強打した。
 「あんな魂(こころ)の美しい娘(こ)はいないのに」。母親は泣き叫んだ。
 「おまえなんぞは出て行け!二度と帰ってくるな」
 
 気がつくとフランツはフランクフルトで医者をやっている友人の下宿に転がり込んでいた。翻訳、通訳、校正、夜警、ウェイターなど、渡航までの半年間、彼は何でもやって口を糊して過ごした。
 一九一〇年の暮れ。神戸行きの船が出る直前に、彼は妹イングリットに宛てた手紙を投函した。
愛するイングリット
 間もなくここハンブルクから日本に出発します。お父さん、お母さんとあんな別れ方をして、自責の念に身悶えしている。
 それよりも何よりも、アニーのことを思うと心臓が張り裂けそうになる。こんなにも彼女を愛し、彼女の高貴な魂を仰ぎ見ながら、置き去りにしてしまう自分に限りない愚かさを感じている。この罪深い自分の体に鉄の塊を縛り付けて、海の底に沈めてしまいたいくらいだ。
 アニーには何度も手紙を書いた。書いてはその都度破り捨てた。何を書いても言い訳になり、嘘になり、侮辱になってしまうような気がした。
 僕が今もどんなに彼女を愛してるか、おまえにだけは分かっていて欲しい。
 愚かで罪深い兄だけれども、おまえを愛することでは世界の誰にも引けを取らないつもりだ。
 後のこと、本当に心苦しいけれど、よろしく頼む。
 おまえの フランツ
 
 
神の魚
 
 神戸港には生駒が迎えに来ていた。二人は抱き合って再会を喜んだ。
 生駒は数日間フランツの下宿の面倒をみたり、古都を案内したりした。
 フランツはミュンヒェンでの荒れた生活やアニーとの関係についてありのまま語った。生駒は黙って聞いていた。すべての苦悩を引き受けるようにただ静かに聞いていた。
 やがて何の脈絡もなくポツリと言った。
 「劇薬でなければ治らない病もあるさ」
 
 生駒はもともと京都の出身であるが、京都での事業に失敗した両親と長男一家は、十年ほど前に開拓で活気に溢れている北海道に移住していた。
 生駒は夏休みが終わりに近づいた九月のある日、フランツを連れて久しぶりに両親の住む札幌を訪問することにした。
 札幌でのある日、生駒はおもしろいものが見られるかもしれないとだけ告げて、フランツを遠出に誘った。
 列車とバスを乗り継いで辿り着いたところは、石狩川水系千歳川上流の河畔だった。何百何千尾という鮭が、浅瀬を腹ばい鱗を剥がしながら憑かれたように遡上していた。岩や滝に頭をぶっつけ、肉を裂き、血を垂らしながら上流の産卵場所へと突き進んでいる。
 「清流の湧水の傍に生を受け、川を下って、アリューシャンの海原やベーリング海の流氷の下を何年も漂う。それがだよ、数年経つと必ず自分たちが生まれた川に還ってくるんだ。不思議だよなあ。アイヌたちはこの神秘の魚を『神の魚(カムイチェプ)』と呼んで崇めている」
 「ドイツでは絶対に見られない光景だ」。興奮を抑えながらフランツは言った。
 「大海原を回遊するうちに、雄は吻が突き出て精悍に曲がり、雌の腹腔(はら)は子種ではち切れんばかりになる。そのとき鮭の脳天は、あたかも銛で刺し貫かれたように、未知の力で満たされるんだ、きっと。河川のほんの微かな匂いに魅せられるのか、あるいは地球の磁気のようなものを感知するのか、あるいはまた幾百億光年彼方の遙かな星の光に導かれるのか。いずれにせよ神秘な記憶に導かれてここに命を捨てにやってくるんだ。新しい命を得るために」
 
 京都でのフランツの日々は充実していた。生駒との友情は生産的だった。
 しかし、三年後に転機が訪れた。生駒の尽力にで、専任教員として岡山医専に赴任することになったのである。もちろん生駒自身もフランツが近くにいることを望んでいたが、友を何時までも非常勤という不安定な立場に置いておくことはできなかった。
 岡山は昔から医学の盛んな土地である。特に津山藩の宇田川家、箕作家は多くの秀でた医学者を輩出しており、また緒方洪庵も備中の出であった。岡山医専は岡山城からさほど遠くない場所に位置していたが、そこは彼の同国人フォン・シーボルト縁の地でもあった。彼の弟子石井宗謙がすぐ近所で開業していたのである。宗謙はここでシーボルトの娘イネに七年に渡って産科学を教え、そして恩師の娘を孕ませた ― 妻子ある身でありながら。
 フランツが岡山に移ったのは一九一四年三月のことであった。
 数ヶ月後のある夕方、星尾幸(さち)という医専の若い事務員が書類を携えて、彼の下宿を訪ねてきた。昼間不注意から間違った書類を渡してしまったと言って直謝りに謝った。確かに重要な書類ではあったが、間違いと分かれば手続きを踏んで訂正すれば済むことだった。そんなに謝ることはないと繰り返し言っても、よほど上司から詰られたのか今にも泣き出さんばかりであった。
 フランツは彼女を可愛そうに思った。そして、ふと愛おしく感じた。その愛おしさは彼女を見かけるたびに膨らんでいった。
 一ヶ月後に彼等は小さな借家で一緒に住み始めた。備前の農家出身で二十歳の幸はぽっちゃりした体つきで、こぼれるような笑顔が美しかった。賢くてよく気が利いた。夜の営みを愛し喜ぶ純朴で屈託のない女でもあった。クララの性的奔放さと違って、幸には病的なところがなく健康そのものだった。彼は路傍で見つけた可憐な釣鐘草のように幸を愛おしんだ。心の傷が徐々に癒やされていくのを感じていた。
 
 しかし平和な日々は長くは続かなかった。
 ヨーロッパでは列強の欲望と欲望が激突し、権謀術数が蠢いていた。世界は二つの陣営に割れて帝国主義国同士の狂った死闘が繰り広げられ、いつ導火線に引火しても不思議でない状況に置かれていた。
 イギリスによる香港租借地化の半世紀後、ドイツも中国人による宣教師殺害の賠償として膠州湾一帯の九九年間の租借、鉄道敷設権、鉱山採掘権などを取得した。そして、かつては小さな漁村に過ぎなかった青島をドイツ風の美しい近代都市に生まれ変わらせていた。
 幸と住み始めて三ヶ月後、フランツはヨーロッパで戦争が勃発したとの知らせに接した。
 予備役であるフランツの元に青島の総督府から召集令状が届いたのは、八月初旬のことだった。愛する幸や生駒が住む国、日本と戦う可能性が高まっていた。
 八月中旬に門司から出航。東シナ海を三日ほど航行し山東半島の膠州湾に突き出ている青島港に着いた。高台に立つ幾つもの砲台から、大砲が海行く船を脅かしている。その不気味な姿が血腥い戦を予感させていた。
 八月二三日、日本はドイツに対して宣戦を布告し、翌月三日には山東半島の青島から反対側に位置する港町龍口に上陸した。日本軍は軽便鉄道の敷設などにより、ドイツ軍を背後の山側から攻めたてようと着々と戦闘準備を整えていた。戦略立案の中心にあったのは、皮肉にもかつてドイツの陸軍士官学校で学んだ将官たちであった。
 
 
 
第二部 捕虜研究者 藤野伸彦
 
件名: トルナウ日記
 
 坂出の瀬戸内国際女子短大でドイツ語を教えている藤野伸彦が、県立鳴門大学の世良辰雄教授から「トルナウ日記」の件名でメールを受け取ったのは、「ドイツ兵俘虜研究会」に入会して約二年後のことだった。
 かつて伸彦は独文学会の宴会の席で、塩屋別院内にあった付属幼稚園に通っていたことや、祖母が子供時代にドイツ人を見たことがあるという話を何気なく世良教授に漏らしたことがあった。日露戦争の年に生まれた彼の祖母は当時まだ十歳の少女だったが、若いドイツ人女性が家の前を通るのを目撃していたのである。
 「それは君、アンナ・ベルリーナーだよ」
 伸彦のグラスにビールを注ぎながら、教授は興奮気味に言った。
 教授によれば、アンナの夫ジークフリート・ベルリーナーはユダヤ人で、アインシュタインとも交流のあった元東京帝国大学教授であった。当時二七歳の妻アンナは東京から女中を連れて伸彦の家の近くに引っ越してきて、月に数回許された夫との面会に収容所を訪れていたのである。
 「丸亀収容所の近くで生まれ育って、ましてそんな縁まであるのなら、俘虜研究会に入って手伝ってもらえないだろうか」
 世良教授から誘われるままに入会はしたものの、精力的に研究に取り組む内的動機が欠如していた ― 世良教授からメールを受け取るまでは。
藤野伸彦様
 丸亀収容所の捕虜だったフランツ・トルナウの日記が見つかったことはご存じかと思います。マイヤー博士の超人的努力によって、この度ドイツ語訳が完成しました。
 パラパラめくってみたところ、貴兄のお祖母様が見たアンナ・ベルリーナーも登場します。彼女の夫ベルリーナーとトルナウは収容所内で親交があり、しかもトルナウはかつて貴兄が学んだテュービンゲン大学の先輩にあたるようです。
 これはどうしても貴兄に翻訳をお願いしなければ、と思った次第です。
 板東収容所の部分は私が訳すことにして、貴兄には前半の丸亀収容所の部分を引き受けてもらえないだろうか、と思っております。もちろん援助は惜しみません。
 トルナウの日記の他に、同棲していた星尾幸や友人生駒敏などから彼が受け取った手紙のコピー等も添付ファイルとして送ります。
 なお、トルナウには幸との間に息子が一人いたことが確認されています。トルナウの息子はすでに死亡していますが、孫が岡山に在住しています。プライバシーに触れる事柄なので公表はしておりませんが。
 敬白 世良辰雄
 
 トルナウ日記はところどころドイツ語が混じっているものの、地の文はラテン語で、しかも速記で書かれていた。収容所という狭い環境の中にあって盗み読み防止対策であったと推察される。
 そのため解読と翻訳は、歴史研究で博士号を取得した捕虜研究家マイヤー氏の粉骨砕身の精進なしには絶対に不可能であった。州立図書館館長として定年を迎えたマイヤー博士は、退職を機にミュンヒェン郊外に家を買って引っ越した。その家の屋根裏部屋に、かつて日本で捕虜生活を送った兵士の手紙や写真など大量の資料が詰まった木箱を発見したのである。歴史学のプロである彼は青島戦の捕虜の研究にのめり込み、「ドイツ的徹底性」をもって青島駐留の将兵および非戦闘員などほぼすべてのドイツ人について調べあげた。そしてコンピュータの知識を駆使して膨大なホームページを作成し、研究の成果を発表していったのである。
 彼のホームページにフランツの姪の息子 ― すなわち妹イングリットの孫 ― からアクセスがあった。「自分の家に、かつて青島戦に参戦し、日本で五年間の収容所生活を送った大伯父の日記のようなものが存在する」と。マイヤー博士は自宅からフロイデンシュタットまで車を飛ばした。日記のコピーをとらせてもらい、じっくり時間をかけてそれを解読・入力・翻訳したのだった。
 
 
トルナウ日記 抜粋
 
 翻訳を終えた伸彦は、お節介と思いつつ星尾幸の孫を探し出して日記を渡したいと思った。もし誤解があるのであれば解けるのではと考えたからである。そのまま渡したのでは素人には読みづらいだろうと思い、訳注をつけ、無関係の部分を削除した抜粋版を作った。
 
一九一四年十一月二十日 金曜日 晴 夕刻より雨
 十六日にここに収容されて今日で五日。
 昨日の煙草・ビールの販売に続き、今日午前、酒保で文具の販売があった。ノート、鉛筆、便箋、封筒を買ってきた。
 まず幸と敏に手紙を。明日はイングリットに書くつもり。
 
一九一四年十一月二四日 火曜日 晴
 午後、寺の裏の日溜まりでゲーテ詩集を読んでいると怒鳴り声が聞こえた。
 「ともかくおまえらはいけ好かねえんだ。いいとこ取りばっかりしやがってよ」
 「そうよ、働かねえで利子だけで喰ってやがる」
 一人のいかにも人懐っこい顔をした男が、三人の男に囲まれて脅されていた。
 「僕は金融とは何の関係ないですから」
 怒鳴られた男は温和しそうに言った。
 「うるせえ。今度の戦争でもおまえらはガッポガッポ儲けてるって言うじゃねえか」
 「ケッ。死の商人って奴かよ」
 「ッたく、世界支配のためなら何をやらかすか分かんねえ恐ろしい連中よ」
 「ともかく、僕とは関係のない話です。他に用事がなければ失礼します」、そう言って去ろうとする男の道を二人が塞いで、もう一人のソバカス顔が「生意気だなぁ、この野郎」と言いながら殴りかかろうとした。
 「私刑は軍紀違反だぞ」の一言に、「チェッ」と言って三人はこそこそと消えていった。ドスの利いた自分の声に我ながら驚いた。
 残された男は礼を言ってベンヤミン・ベッテルハイムと名乗った。顔に見覚えはあったが、言葉を交わしたのは今日が初めて。
 囚われの身であることでストレスが溜まり、ある者たちは苛め行為に捌け口を求めている。ヨーロッパ社会では、伝染病や敗戦などの不幸が生じるごとにユダヤ人をスケープゴートにしてきた。今日の出来事も底に流れるのは同じ心理構造。
 明らかに二つのドイツが存在する。一つは人道的哲学、民族性を越えた世界文学、崇高な音楽の国ドイツ。もう一つは上官面して威張りちらし、侵略的かつ差別的で、因襲から一歩も出ることのない俗物根性のドイツ。
 
一九一四年十一月二五日 水曜日 晴
 悪夢から覚めると背中が濡れていた。カールの顔は、元気だった頃と同じ微笑を湛えていた。それが自分にとって唯一の救い。
 
一九一四年十二月十日 木曜日 晴
 いつぞやの出来事をきっかけに、しばしばベンヤミンと話すようになった。
 人懐っこくて疑うことを知らないところはカールにそっくり。
 
一九一四年十二月十九日 土曜日 晴 強風
 幸への手紙が転居先不明で戻ってきた。不安。医専に問い合わせの手紙を書く。
 
一九一四年十二月二三日 水曜日 晴 強風
 ベンヤミンと一緒にいることが多い。彼が側にいない収容所生活はどれほど潤いのないものだろう。夢にうなされることもほとんどなくなった。
 
一九一五年二月八日 月曜日 晴
 医専から返事なし。
 ときに沸々と沸き上がる訳の分からない憤り。
 一人あたり筵一枚の空間で眠る。寝相の悪い者がいて、腹の上に脚を乗せたり、ときに顔を蹴飛ばす。しかも外とは障子紙一枚で隔てられているだけ。すきま風が入ってくる。暖房はなく毛布は薄い。寒い。睡眠不足。
 みんなちょっとしたことに苛々する。癇癪が溜まっている。
 そんな中、平然としているのがジークフリート・ベルリーナー。ザクセン人の特徴「沈着無口、沈思、独立心、自由への愛」、これを絵に描いたような元帝国大学経営学教授。
 数日前のこと。盗癖のある兵士がとっ捕まえられた。盗品の中にベルリーナーの品物も含まれていたため、営倉に送られる前にベルリーナーの前で跪かされた。
 「なぁに、原始共産制の時代にはそもそも私有なんてこと自体、有りはしなかったんだ。君にはその大昔の貴いなごりが盲腸のように残っているだけの話さ」
 そう言って一切咎め立てしなかった。
 ユダヤ人経営学者としてひたすら儲けの計算ばかりしていると思っていた連中は、赤面させられたことだろう。
 
一九一五年二月十五日 月曜日 晴
 さすがのベルリーナーも喜びを隠しきれない様子。東京にいた夫人が近くに引越してきて、ほぼ半年ぶりの再会だとか。
 医専より幸の転居先不明との知らせが届く。敏に調べてくれるよう依頼。
 
一九一五年三月二九日 月曜日 曇のち雨
 イングリットから手紙。自分への殺意
[訳注]
 以下は、この日トルナウが受け取ったと思われるイングリットの手紙(トルナウの遺品より)。宛先は京都の住所。収容所の彼の手元に届くまでに半年以上経過しているのは、岡山への引越、召集、収容などにより、宙に浮いた状態が長く続いたためと推察される。
愛するフランツ兄さん
 今日はとても悲しい知らせがあります。ナーゴルト川でアニーの水死体が発見されました。アニーのお母様の号泣は、喉を突き破らんばかりであったと伝え聞きました。
 兄さんに心配をかけまいと、こちらの事情は極力ぼかして知らせてきましたが、もう洗い浚い書いた方がよいと思うようになりました。
 兄さんが去ってから、我が家とシュルツ家はとても険悪な関係になってしまいました。シュルツ氏の円満な人柄は筋金入り。でもアニーのお母様にはもともと神経質なところがあり、精神的に困憊を極めヒステリックな行動を取るようになりました。礼拝の席で家のお母さんを詰ったことさえあるのです。シュルツ氏とお父さんが中に入って収めましたが、お母さんは二度と礼拝には出なくなりました。礼拝に出ない人間に対する仕打ちはとても悲惨で、背教徒でもないのにトルナウ家は村八分のような状況です。
 アニーとは隠れるように会っていましたが、徐々に彼女の精神に変調を感じるようになりました。最初は健気に笑顔を見せたり、あまり気にしないでねとか言って、私に気遣いさえしてくれていたのです。でもだんだんそんな余裕もなくなって、美しかった顔はやつれ、声に張りがなくなっていきました。ぼさぼさのブルネット髪に白いものを何本も見つけたときの驚き。それよりも何よりも、アニーの目。あんな生気のない目は今まで見たことがありません。最後に会った日など目の動きが異常で、完全に狂ってしまったのではと思って全身に震えを覚えました。兄さんへの愛がどんなに深かったか、両家の仲違いがどんなに彼女の心を苛んでいたか ― 私の予想を遙かに超えていました。
 アニーが行方不明になったのは一週間ほど前のことでした。シュルツ氏が真っ青な顔をして深夜私のところにやって来て、アニーが家に戻らないが、どこへ行ったか知らないか、と訊くのです。悪い予感がして、その夜は私、一睡もできませんでした。
 遺書はなかったそうです。
 家のお父さん、お母さんもこの事件で心を痛め、特にお母さんは最近床に伏しがちです。お父さんも仕事がほとんど来なくなりました。じっと嵐の過ぎ去るのを待つばかりです。ご免なさい、こんな残酷なことを書いて。
 この知らせが兄さんを深く傷つけることにならなければと、それだけが気がかりです。でも書かない訳にはいきませんでした。書きながら涙が止まりません。
 いつまでも兄さんの イングリット
 
一九一五年四月四日 復活祭 日曜日 晴
 午前十時半より復活祭礼拝。
 
一九一五年四月五日 月曜日 晴
 昨夜、アニーとバイアースブロン村まで散策した夢。
 骨を削られるような痛み
 
一九一五年四月十九日 月曜日 雨
 幸が面会にきた。面会を拒絶。夜、本堂の裏で酒
[訳注]
 以下は遺品の中にあった星尾幸の手紙。イングリットの手に渡った幾通もの幸の手紙の一つである。検閲のためすべて開封されてはいるものの、トルナウは幸の手紙を読まなかったのではないか、従ってトルナウは彼女の妊娠を知らなかったのではないかと推察できる。恐らく彼は、幸への自分の思いを殺すため、彼女の手紙を読まず、それ故返事も出さなかったのではなかろうか。幸の手紙について日記に一切触れていない事実に、痛々しいトルナウの心境が読み取れる。
フランツ様
 先日は大変悲しゅうございました。色々手を尽して調べても分からず、やっと生駒先生への問い合わせによって居場所を知り、取るものも取り敢えず連絡船に飛び乗って丸亀まで参りましたのに。一体何があったのでしょうか。戦争で日本だけでなく、私のことまで嫌いになってしまわれたのかしら。いえ、そんな筈はない。一体戦争でどんな凄まじい体験をなされたのかしら。帰りの船と列車の中でそんなことばかり考えておりました。
 せっかく収容所まで参りましたのに、一番お伝えしたかったこと、私たちに子供が授かったことをお知らせすることができませんでした。もうすぐ八ヶ月になります。医専の方は数ヶ月前に退職いたしました。その後一時友人の下宿に身を寄せておりましたが、今は備前の実家に戻っております。
 両親には毎日のように誰の子供か問い詰められておりますが、まだ言えないでいます。いずれ分かることではあっても、田舎のことでもあり、言いそびれております。
 戦争さえなければ一緒に子供の誕生を喜び、一緒に育て、幸せな生活を送ることができたでしょうに。残念でなりません。でも愛する貴方の子供、何があっても立派に育てるつもりです。
 早く戦争が終わり、また一緒に生活できることを夢見ております。一日も早くお会いしたい、そればかり念じております。
 お返事をお待ちいたしております。
 かしこ 幸
 
一九一五年四月三十日 金曜日 晴
 十日間の重営倉から解放された。
 幸との面会を拒否したことはその日のうちに他の捕虜たちに知れわたっていた。
 「いやはや結構なご身分ですなぁ」
 消灯後こそこそ話している者たちがいた。例のソバカス顔を頭とする連中だ。
 「わざわざ会いに来たのに会ってやりゃあいいものを。もったいねぇ」
 「なんでも、えらい別嬪さんだったって話よ」
 「ぽっちゃりしてよ、ひょっとすると腹に子供でもいたんじゃねぇか。ヘッヘッヘ」
 「うっへぇ〜、そそられる〜」
 無意識のうちに飛びかかっていた。ベンヤミンも止めに入って巻き添えを喰らい、五日間の重営倉。
 筵三枚の板張り拘禁部屋は、小さな窓が一つしかなく暗い。真ん中に置いてある便器から四六時中悪臭。食事を持ってくる衛兵と言葉を一言二言交わす以外、一日中何も話さず何もしない。ただ頭の中で想念が空回りしているだけ。
 思いはしばしばアニーへ、そして幸へ。心臓は引き裂かれ、心と肉が軋む。
 営倉-収容所-現し世。三重の獄舎の壁。三重どころか、十重二十重。現世こそが最も苛烈な懲罰営倉、シジフォスの苦役ではないのか。真綿で締め付けるようなこの現世という牢獄の重圧。
  ― わが獄舎(ひとや)の壁は崩れ落ちよ!
 
一九一五年六月十二日 土曜日 曇
 戦争の恐怖で精神を病んだ者が少なからずいる。トマス・ゲーゼがその一人だ。自分と同じ部隊で、集中砲撃の最中に精神に異常を来した。もともと神経質な人間ではあった。
 視線が常に遙か彼方に向けられている。落ち着いているようでいて変にソワソワした雰囲気を漂わせ、ブツブツ訳の分からぬことをつぶやいている。その彼が今朝点呼の際に姿を見せなかった。田川中尉が庫裏の屋根の上に座っているトマスを発見したのは昼食後のこと。手に竹竿を持ちその先に古い靴をぶらさげていた。
 その姿に多くの者が笑い転げていたが、自分は笑えないどころか世界の軋みすら感じた。
  壁は立つ
  言葉なく冷ややかに
  風は風見を軋ませる
 詩人は、常人が毫も感じない極微の揺れを、精巧な地震計のごとく敏感に感じ取るとか。
 
一九一五年七月十日 土曜日 晴
 今朝海水浴。寺の裏が塩田になっておりその先が海である。
 沖へ出た。しばらく泳いでいると魚に戻ったような錯覚に陥る。本来の自分に戻ったような感覚、太古の記憶が蘇ったような快感。
 波打ち際で横になった。心臓の鼓動が波のリズムと重なり合う。
 詩人生物学者ミヒェル教授の講義を思い出した ― 人類の身体は大宇宙を映す小宇宙であって、人間もその存在の最も深いところに大自然そのものに感応し共振する能力、すなわち三十億年前からの生命記憶を宿している。
 そんなことを考えながら浜辺に寝転がっていると田川中尉が話しかけてきた。ドイツ留学時代が懐かしいらしく、年齢も近い自分にちょくちょく話かけてくる。軍人として私情に左右されてはならぬはずだが、中尉にはそんな些事を意に介さぬ太っ腹のところがあって嬉しい。
 「楽しいかい」
 「ああ、魚だった頃の自分に返った気がしたよ」
 「ほお、禅坊主のようなことを言うじゃないか」
 「禅はそんなことを言うのかい」
 「父母未生以前の本来の自己を見いだすべし、なんてね」
 「禅に詳しいんだ、中尉は」
 「軍人は死ぬために存在しているようなもんでね。殺すか殺されるかという世界で生きていれば、生死について多少考えるようになるのも道理じゃないか」
 「で、考えてみて結局何か発見できたのかい」
 「この世界は、喰らいつつ喰らわれつつ調和している ― これを達観できる世界観に到達しなきゃいけないんだってところまで、頭では分かってきたがね。だが身体で分からんことにはどうにもならんよ」
 もっと聞きたい気がしたが、周囲のはしゃいだ雰囲気の中でそれ以上深刻な話はできそうになかった。
 
一九一五年八月二二日 日曜日 晴
 ベルリーナー夫人、当地を引き上げアメリカへ。
 
一九一五年十一月十六日 火曜日 晴
 ここに収容されて今日でまる一年。みんなストレスが溜まっている。狭い空間、単調な生活、将来への不安・・・有刺鉄線病。
 入院したトマス・ゲーゼならずとも、多くの捕虜たちが濃淡の差はあっても何らかの精神的障害を煩っている。変態性が昂じて蛇を飼う者がいる。その餌に鼠や蛙も飼育している。蛇に喰われるのを見て、快感を覚えているのか。
 ほとんど若い兵士ばかりの収容所で、性的な欲求不満は夜爆発する。
 
一九一五年十二月二四日 金曜日 晴
 午前、中津公園で運動。午後は食堂などでクリスマスの飾りつけ。
 敏から手紙。何度も読み返す。
[訳注]
 このときの生駒の手紙と思われるものを以下に挙げておく。
親愛なるフランツ
 手紙、ありがとう。
 先日の君の宗教に関する難しい質問。うまく答える自信がありません。文学や宗教を勉強しても僕には分からないことだらけ。勉強すればするほど分からなくなってくる気さえする。
 「絶えず努力し弛まざる者を、われら救うこと能う」 。 この「努力する(シユトレーベン)」という動詞は、ゲーテの時代には、倫理・道徳的な価値観とは無関係で「方向性も分からず、ともかく前に進もうと藻掻く」という意味だった ― 最近読んだ本にそう書いてあった。「藻掻く」というのは日本語では、沼の藻に足を絡まれた人間が七転八倒するイメージがある。
 君の手紙に「得体の知れないどす黒いもの」とあったが、もちろん僕の中にも同じものが厳然と居座っているさ。恐ろしく不気味でドロドロした存在。だから僕も藻掻いている。性的なものかもしれない。あるいは「生」的?つまり生そのものの中に身の毛のよだつほど怖ろしいものが潜んでいるような気もする。
 江戸時代に一茶という俳人がいて、彼が日記を残している。五四歳のときのある日の記述に、妻と「夜五交合」とある。その後一週間にわたり、ほぼ毎日「四交」あるいは「三交」。
 カマキリはドイツ語では、「神を拝む女性(ゴツテス・アンベーテリン)」を意味する美しい言葉だけれども、知っての通り、雌は交尾の最中に雄を頭からバリバリ食べ始める。そしてその栄養が雌の卵の養分になる。
 一茶よりも前の時代に其角という俳人がいてね、「蟷螂(とうろう)の尋常に死ぬ枯野かな(カマキリが秋の枯れ野で普通の死に方をした)」という句を残している。そこには、自然の営みを、それが如何に怖ろしい営みであろうとも、「自然」だと見る視点がある。この醜悪で残酷な自然を、美しく優しい自然と共に併せ呑むこと、それこそがわれわれに必要なこと ― 其角は恐らくそう言いたかったのだと思う。
 君の 生駒敏
追伸
 告白すると実は僕は今、同僚の妹M子と恋愛関係にある。もちろん妻への愛に変わりはない。以前同様、いや、いままで以上に千枝を愛おしく思っている。しかしM子とも同じように強く惹かれあっている。千枝に告白したら思いっきり僕の頬を打った。そして抱きついて激しく口を吸った。その夜僕たちは夫婦だった。彼女は翌日自殺を計った。この先どうなるのかすべては闇の中。どん詰まり状態。もちろん壁の中はきついだろうが、外もなかなか自由ではないよ。
 
一九一六年一月七日 金曜日 晴
 早朝の点呼の後、田川中尉が話しかけてきた。熊本のグンデルトという宣教師が今日午前十時頃慰問のため収容所を訪問するが、経歴を見ると、君と同郷で大学の先輩でもあるようだから接待の担当にしておいたとのこと。
 あの「聖書のグンデルト」の孫。視野が広く思想的核が強固な好人物。従兄弟のヘッセは反戦思想のためドイツでは非国民の扱いを受け随分苦労しているようで、今はスイスに移り住んでいる等々の話を聞いた。
 「キリスト教は『有』に偏り、仏教は『無』に偏り過ぎている」という言葉が印象的だった。久しぶりに方言で喋る快感。爽やかな高潔漢が相手だと、またひとしお。
 
一九一六年六月二四日 土曜日 晴
 午前、中津庭園を散歩。クチナシの白い花が蒸せるほど甘い。かつて幸と旭川沿いを散歩していたときも匂ってきた強い芳香。その匂いに誘われて雑草の生い茂った庭園を歩いていて、蛇を踏みつけた。凍り付くような戦慄。今もあの時の感覚が足の裏に残る。
 国民学校時代、夜中に目覚めて手洗いに行こうとしたとき、両親の部屋から、喘ぎ、悶え、叫びのような声が聞こえてきた。母の声がまるで魔物の声のように感じられ、心が凍てついた。足の裏の感覚にあの日の記憶が蘇る。
 少年の調和の世界は引き裂かれ、この日を境に心と体の分裂始まる。
 
一九一七年二月二七日 火曜日 晴
 英字新聞の一面トップに、福岡収容所に収容されているフォン・ザルデルン大尉の妻イルマ夫人が何者かに殺害されたとの記事。葬儀はグンデルト牧師が熊本から駆けつけ執り行ったとのこと。
 大尉とは数回事務的な遣り取りがあっただけだが、気骨ある人物との印象。
[訳注]
 当時の新聞記事によれば、事件の概要はほぼ以下の通りである。
 フォン・ザルデルン海軍大尉の妻イルマ男爵夫人は、時の海軍大臣フォン・カペレ大将の娘。彼女は上海から息子を連れて夫が収容された福岡に移り住んでいた。二月二五日夜、強盗が侵入し夫人のみを刺殺。その惨状は誰もが目を覆いたくなるほど酷いものだった。急報に接し駆けつけたザルデルン大尉は愛妻の無惨な死に泣き崩れた。
 
一九一七年三月二日 金曜日 晴
 田川中尉が珍しく慌ててやって来て英字新聞を見せた。一面の見出し、「ザルデルン大尉、収容所内で自殺 強盗に刺殺された妻の後を追う」。
 この記事は早速ドイツ語に訳され情報コーナーに掲示された。ここ丸亀にも大尉の直属の部下が何人かいる。夕食時の食堂でも、その後居間でも、ザルデルン事件の話で持ちきりだった。収容所全体を異様に重苦しい空気が覆っている。
 「幼い子供を一人だけ異国に残して、無責任だよ。しかもドイツにもう一人幼い子供がいると言うじゃないか」
 「どのみち大尉殿は収容所から出られなかったんだからなあ」
 「でも、いつかは自由の身になれるんだ。子供たちに両親がいないというのは悲惨じゃないか」
 「岳父カペレ大将に対して申し訳ないという気持ちの現れじゃあないか」
 「だから馬鹿だってんだよ、おまえらは。愛の本質ってものが全然分かっちゃいない。真に愛し合う夫婦は一心同体なんだ。体を半分にぶっち切られた人間が生きていけないのと同じことよ」
 数人がゲラゲラと下品に笑った。
 歌神オルフォイス・・・。彼は妻を失ったのち、ただ悲しみの歌をうたうばかりで、他の女たちを一切かえりみなかった。そのため侮蔑されたと感じたバッカスの巫女たちに襲われ、その身体は千々に引き裂かれた。それによって歌神の歌が万象に宿り、世界は永遠に音楽で満たされることになった。
 オルフォイスの歌は大尉の体にも宿っていたか。
 アニーを死なせてなお生き続けるこの自分は、一体どういう存在なのか。
 
一九一七年四月七日 土曜日 雨
 船中にて。
 雨の中三三三名を乗せた船が午後多度津港を出航。徳島に向かいつつある。引率の田川中尉によれば小松島港から新築なった板東収容所まで徒歩行進とのこと。
 
[訳注]
 これ以降は板東収容所時代の日記となる。参考のため、以下にベンヤミン・ベッテルハイムの日記より、トルナウの最期に関する部分を引用しておく。なお、トルナウは、一九一九年のクリスマスに板東俘虜収容所から解放され、帰還船でドイツに向かう途中であった。
 
一九二〇年一月十四日
 一昨日の夜、フランツの病状が急変。一週間ほど前に風邪を引き、こじらせて悪性の肺炎に移行した模様。激しい発熱で意識混濁。ときどき譫言に人名のような言葉を何度か発したが機関音のためよく聞き取れない。
 「フランツ、僕の声が聞こえるか」と訊いてみたが反応がない。
 今、深夜二時。徹夜の看病になりそう。
 今日のうちにシンガポール入港予定。
 早く医者に診せたい。船があまりにものろい。速く!ただそれだけを念じている。
 
一九二〇年一月十五日
 フランツが息を引き取った。今朝明け方、シンガポール入港直前のことだった。
 風邪を引いて以来、生への執着がほとんどなくなっていた。顔からは険しい表情が消え、高熱にうなされながらも穏やかさだけが感じられた。
 一切の苦悩から解放された透明感さえ感じさせる柔和な死に顔。
 胸に刺し込んでくる痛みを感じながら、氷のように冷たくなったフランツの顔に、頬を擦りつけていつまでも泣いた。
 ほんの数時間早く入港していればと思うと無念でならない。
 当然シンガポールに埋葬されるものと思っていたが、イギリス側の許可が下りず仕方なく海に葬った。遺体を二四時間以上船上に留めておくことは許されなかったからである。遺体は帆布に包まれて海中に投げ入れられた。添える花束さえ僕は持たなかった。
 最初、僕はイギリスの仕打ちに憤ったが、冷静になった今、思う。フランツはむしろ水葬を喜んでいるだろう。「母たちの大海原」 ― 彼がよく使っていた言葉だ。
 南国の海底で、骨は珊瑚となれ、眼は真珠となれ。魂は「神の魚」となれ。
 
 
備前の里
 
 世良教授から、トルナウの孫は備前市で陶芸家をやっている可能性が高いとの情報を得ていた。それだけ分かれば後は簡単だろうと考え、伸彦は春休みのある日、瀬戸大橋を車で渡って備前市に赴いた。備前でドイツ人の血の入った陶芸家はそう多くなかろう、と高を括っていたのだが、事はそう容易ではなかった。まず星尾という姓はこの近辺ではありきたりの名前だった。インターネットで予め調べておいたところ、陶芸家の多くは市の中心部に近い伊部地区に住んでいるようであった。しかし星尾家の住まいはそこからかなり離れており、閑谷学校に近い里山の麓にあった。しかも幸の孫の勝は農業で生計を立てており、陶芸は「趣味的」にやっているに過ぎなかった。
 ここまで突き止めたときにはすでに日が暮れかかっていた。
 「ほぼ探し当てたけど、もうちょっと時間がかかりそうやから、今日は備前のホテルに泊まることにする」
 そう妻に電話すると、「なんであんたがそこまでせんといかんのよ」と突っ慳貪な返事が返ってきた。
 伸彦は自分でも同じことを思っていたので、言葉を濁して「明日は早めに帰るから」と言って携帯を切った。
 訊ね歩いて分かったことは、幸とフランツの子供の名前は京蔵。あの時代にこの田舎で父無し子、しかも顔立ちなどで目立った可能性が高く、母子は相当苦労したに違いなかった。その息子が星尾勝と言って現在七十前後の老人らしいが、近所では変り者で通っていた。
 伸彦がその家の前に立ったとき玄関に現れたのは勝の妻、彩子だった。名刺を渡して用向きを告げていると、後ろから長身でいかにも無愛想な百姓男が現れた。
 「私とは何の関係もない話です。お引き取りください」
 呆気にとられた伸彦はしばらく呆然と立ち尽くした。
 「貴方のお祖父様の日記を訳しましたのでお届けに参りました。ここに置いて帰りますが、読む気がなければ捨ててくださって結構ですから」
 そう言って軽く頭を下げて引き下がったものの、玄関払いの屈辱に怒りが体の底から湧き上がってきた。相手に対してよりもむしろ自分自身のお節介に腹が立った。エンジンをかけて発車させようとしていたとき、彩子が車に駈け寄ってきた。
 「すみません。家の人は偏屈だもので。なんとか説得してみますので、申し訳ありませんがしばらくお待ちいただけませんか。本当にすみません」
 伸彦はよほど振り切って立ち去ろうかと思ったが、十分ほど近くを散歩して車に戻る、と無愛想に言ってエンジンを切った。
 車に帰ると彩子が待っていた。
 「失礼いたしました。ともかく中にお入りください」
 座敷には百姓家に不釣り合いな垢抜けした陶芸品や絵画が飾られていた。
 「ご想像していただけるとは思うのですが主人の親も、主人本人も、それに私たちの子供までが、そのドイツ人のために煮え湯を飲ませられてきた経緯があるものですから。私自身もそう感じています。特に一人娘が自殺してからは」
 岡山の田舎の人間にしては、夫婦揃って言葉になまりがなかった。眉間に皺を寄せて黙りこんだ主人の横で、彩子は自分たちの家の歴史を語って聞かせた。
 幸が備前の実家に帰って産んだ赤子には、見紛うことなく白人の血が流れていた。幸は村人から「らしゃめん」だの「唐人お幸」だのと陰口をたたかれ蔑まれた。
 京蔵は近所の子供たちからの苛めにも健気に耐えて成人した。幸の愛が彼を支えていた。彼は母親と一緒に先祖の田畑を耕して生活を立てていたが、二六で結婚して、翌年身重の妻をおいて兵隊にとられた。その風貌のためであろう、戦地で上官などから惨いしごきをうけ、ついに発狂してしまった。京蔵の嫁スミヱは一児を抱いて変わり果てた夫を迎えた。幸は心臓を患い、息子や孫勝の行く末を案じながら五十前に死んでいった。
 勝ち気なスミヱは、廃人となった夫と息子の勝を養うために何でもやった。新聞配達を終えると、養鶏と畑仕事、出来た野菜の行商。幸い先祖から受け継いだ田畑は一町歩ほどあり体も丈夫であった。
 勝はそんな母親を見て育った。もちろん彼は狂った父親しか知らない。その父京蔵は彼が小学生のとき池に入って溺れ死んだ。京蔵が死んだあとも、スミヱと勝が村人達から刺すような目で見られることに変わりはなかった。
 勝への苛めの現場を何度も目撃したスミヱは、横浜に嫁いでいる妹に息子を預けてその教育を任せた。都会なら差別や苛めもさほどきつくはなかろうとの親心だった。彼は美大を出るまで横浜の叔母のもとで育った。そして美大で彩子と出会って結婚したのだった。しかし、スミヱの親心が裏目に出た。勝は、叔母に大切に育てられたものの、幼くして母親と引き離された欠乏感によって心が歪められた。勝の人間不信はそこに根ざしていた。そのような偏屈な人間を雇う企業があろうはずもなく、かといって芸だけで身を立てるほどの才能もなかった。結局彼は郷里に帰り百姓として生きていくことになったのである。
 平和な年月が続くかと思われた頃、一人娘の恋愛が破局にいたった。相手の親が聞き合わせに際して祖父京蔵の狂気と死因を知り、結婚を許さなかったのである。「分裂症」は遺伝すると信じられていた時代である。悲恋に娘は押し潰され、かつ自分の体に流れる血に怯え戦き、自ら命を絶った。一家のすべての不幸の元凶が、幸を棄てたフランツの身勝手にあると勝は考えている。
 そんなことを、ほとんど彩子が一人でぼそぼそと語って聞かせた。
 「はっきり申しておきますが、研究対象にされるのはお断りです」
 そう言って勝は突然その場を離れた。手洗いに立ったようだった。
 残された二人の間に気まずい空気が流れた。
 「あの棚の作品は全部ご主人が作られたものですか」
 彩子は頷いた。
 陶芸に疎い伸彦ではあったが、認められようとか売ろうという気持ちが作品に一切感じられない。伸彦の心はいつしか和んでいた。
 「ともかく、お祖父様の日記を読んでみてください。お気持ちは分からないではありませんが、読めば考え方が少しは変わるかもしれません」
 そう言って、テーブルの上に日記の入った紙袋を置いて立ち上がった。
 「屁理屈をこねていれば事足りる大学の先生に、一体何が分かるんですか」
 勝に言われた荒々しい言葉が、ハンドルを握る伸彦の頭を繰り返し襲った。不思議と不快感を感じなかった。
 
 
嘆きの天
 
 伸彦がヨーロッパ旅行を思い立ったのは、その年の夏のことだった。それまでに彼の家庭に二つの大きな出来事があった。
 京都の美大に行っている息子の陽一郎が、自殺を図った。
 連絡が入ったのは彼の五十歳の誕生日のことだった。授業開始直前に、妻の裕子から携帯に電話があり、陽一郎が救急車で病院に運ばれたから、ともかく至急京都に行ってくれという。裕子は大きな事件が起こると慌てふためいて何の役にも立たない。彼は電話を切るとすぐに息子のマンションの家主に電話して事情を訊いた。しかし、とても電話で話せる内容ではないのでともかく至急来ていただきたい、としか言わない。
 急遽授業を休講にして、彼は宇多津駅から特急に飛び乗った。
 「電話で話せない内容?」
 不安を掻き立てられるばかりであった。
 岡山駅の雑踏の中を新幹線ホームに急ぐ彼の頭の中に、何の脈絡もなく息子の好きなジョン・レノンの『マザー』が聞こえてきた。繰り返し繰り返し同じ曲が脳裏に響き、その曲に引き出されるように涙が止めどなく流れた。エスカレーターに乗っている間も、ホームを移動している間も、座席についてからも。
 
 伸彦はその日の早朝、携帯の着信履歴に気づいた。陽一郎からで発信時刻は夜中の二時半だった。すぐに息子に電話した。何度呼び出しても返事がなかった。不吉な予感がして、短大に出かける前にマンションの家主に、息子の様子がちょっとおかしいので声をかけてみてもらえないだろうか、と頼んでおいた。家主が電話してきたのにはそういう背景があった。
 北白川のマンションに着くと、家主から病院の住所・電話番号のメモと一緒に茶封筒を渡された。鉛筆で薄く細く「遺書」と書かれていた。中の便箋にはただ一行、「先にいく不孝を許してください」とだけ書かれていた。生きる意志がほとんど感じられない異様に弱い筆跡だった。
 伸彦は妻以上に慌てふためいて病院にたどり着いた。
 病室の前に陽一郎が立っていた。立ったまま看護師と何か話していた。意識の有無さえ案じていた伸彦は呆気にとられた。
 「あぁ、父さん、わざわざ来てくれたんや」
 伸彦は拍子抜けした。
 ナースステーションの奥の部屋に招かれて医師から鬱病の気があると言われた。
 「発見が早かったのと睡眠薬の量がそれほど多くなかったのが幸いして、今回は大事に至りませんでしたが、ともかく一人にはできません。すぐ実家に連れて帰って静養させることです」
 失恋か何かが引き金になったのだろうが、その辺の事情は一切分からなかった。陽一郎に訊くことも憚られた。
 帰省して数日は全く何ということも無く過ぎ去った。しかしその後凄まじい嵐がやってきた。
 家族全員を奈落の底に引きずり込むほど激しく落ち込むこともあれば、数日後には何食わぬ顔をして朝食の席に現れる。その波が和らいだと思うや、以前の数倍の勢いで怒濤のごとく鬱が迫ってきた。リストカットで布団は赤く染まった。来る日も来る日もその繰り返しで、伸彦夫婦にとって生きた心地のしない日々の連続であった。
 兄の行動は自ずから妹怜の心にも深い影を落とさずにはいなかった。兄妹でありながら恋人同士のように仲のいい二人だった。怜の存在だけがかろうじて陽一郎をこちら側に引きとどめていることを、伸彦も裕子も知っていた。
 そんな毎日に疲れた伸彦はある秋の日の夕方、丸亀城に登った。高校時代から考え事をするときには城内を散策するのが一種の儀式になっていた。石垣と高さを競う大木を見上げたりしながら、本丸まで登り、展望台から夕陽を眺めた。ちょうど太陽が志々島辺りで海に沈まんとするところで、塩飽の島々が金色の雲に縁取られていた。手前に塩屋別院本堂の甍が見えた。その上を鴉の群れがカーカー鳴きながら、残酷なほど美しい真っ赤な日輪の中に消えていった。
 
 数ヶ月後、陽一郎が少しだけ落ち着きをみせ始めた矢先、怜が骨肉腫だと言って裕子が喚き立てた。
 中学でバレーボール部に入っている怜が練習中に打撲したのか、脛の骨の痛みがとれないという。整形外科で診てもらってきた裕子の顔つきが尋常でなかった。
 「骨肉腫かもしれん」
 伸彦を奥の座敷に引っぱっていって裕子が言った。
 「いや、絶対にそうにちがいないわ。あわててレントゲンを撮ってフイルムを見たとき、先生の顔色がサッと変わったもの。そりゃあ、先生ははっきりとそうだとは断言せんかったけど。でも、しつこいくらい詳しく怜と私に色々なことを訊くんよ。怜を診察室の外に行かせて、私が『ひょっとして骨肉腫なんですか』って訊いたら、『それを心配しとるんや。普通、ちょっと打ったくらいで骨があんなに膨むことはまず考えられへん。念のため血液検査やっとくけんな』って」
 そう言った裕子の目から、急に涙が零れた。
 「だけど、血液検査の結果を待ってみんことには、まだほんまに骨肉腫かどうか分からんやないか。そう先々心配してもはじまらん。すべては検査の結果がでてからの話や」
 「あんたは恐ろしさを知らんからそんな呑気なこと言うとれるんよ」
 楽天的な夫を蔑むような言葉を吐いて、裕子は泣き崩れた。彼女の親友が、結婚式を二週間前にして骨肉腫と診断され、腕や脚をつぎつぎと切断されながら死んでいった話を、伸彦は何度も聞かされていた。
 「ともかく手術は絶対に受けさせませんから。体を切り刻んで惨い目にあわせるだけ。そうなる前に一緒に死んでやります」
 「馬鹿言え。まだそうだと決まった訳でもないのに」
 「怜が死ぬんだったら ― 」
 座敷の鴨居の下に陽一郎が立っていた。四時を告げる鳩時計が鳴った。
 「怜が死ぬんだったら、俺が一緒に死んでやるよ。どっちみち俺は長生きしようって気が無いんだから。母さんは父さんの面倒をみてやれよ」
 そう言った次の瞬間もう居なくなったが、伸彦には息子の目に一瞬涙が光ったように思われた。
 
 裕子がヒステリックなのは今に始まったことではない、と伸彦は高を括っていた。しかし裕子はそれから二晩、一睡もしなかった。朝は健気に元気よく怜を学校に送り出したがそれからあとは泣きずくめだった。
 連休をはさんでいたため検査結果が出るのが数日遅れた。結果が出る前日、裕子は大量の睡眠薬を買いこんできた。
 「やっぱり間違いないわ。図書館へ行って色々な医学書を調べてみたけど、完全に症状が一致してるもの。二人でこれ使って楽に往くから、あとは頼むけんね。そうや、痛みがひどくなる前にいっぺん怜にヨーロッパを見せてやって」
 一縷の望みに縋り付こうとしていた伸彦の心の中で、この瞬間すべてが音をたてて崩れていった。妻と抱き合って泣き続けた。時間は消えていた。
 「俺も一緒に死んでもいい・・・」
 そう思ったとき、意外にも彼の心は冴えわたっていた。リルケの詩の一節を思い起こす余裕さえあった。死んだ妻オイリュディケを連れ戻すため、冥界まで追って行ったオルフォイス ―
 
あのように愛された彼女。そのために琴(リラ)から、
葬いの泣女の嘆きとは
比較にならぬ嘆きが生まれた彼女。
嘆きから一つの世界が生まれ、その世界には、
一切のものがそっくりまた存在した ― 森や谷、
道や村落や、畑や川や獣など。
そしてこの嘆きの世界をめぐって、
ふしぎな形をした星々の輝く嘆きの天があった。
 
 嘆きの世界。伸彦は自分もまたその世界に迷い込んだ気がした。現し世のすべての思い煩いが不思議なほど完全に消え去って、今彼が見ているのは澄み切った美の世界だった。
 死の恐怖も不安もほとんど感じない。あるのはむしろ時の流れからの解放感。「永遠」が彼に近かった。
 預金をすべて下ろし財産もすべて処分する。一家四人揃ってヨーロッパへ渡り、ドイツでレンタカーを借りる。色々な国を巡り、怜の脚の痛みが酷くなり始めるか、あるいは持ち金が底をついたとき、スペインあたりの崖から四人揃って車ごと地中海に突っ込む・・・。伸彦は一人でそんな計画を立てていた。
 
 看護師から血液検査の結果が知らされる瞬間、受話器を握る伸彦の手が微かに震えた。
 「マイナスでした」
 「はあ?」
 「異常ありません」
 「・・・すみませんが先生とかわってもらえませんか」
 「いやあ、どうもない。大丈夫やった。心配させて悪い悪い」
 伸彦は受話器を置いて、「阿呆!」と怒鳴るなり、したたか裕子の頭に拳骨を喰らわせ、二人で抱き合っておいおい泣いた。
 「よっし、お祝いに怜をヨーロッパに連れて行ってやろう!」
 
 
墓碑銘
 
 現実がこうなってみると、鬱病の陽一郎にもいい機会だからと定期預金や保険を解約してでも連れていくことにしたものの、さすが家屋敷を売り払う訳にはいかなかった。結局費用や留守番の関係で裕子だけが日本に残ることになった。
 伸彦にとってほぼ二十年振りのヨーロッパだった。
 世良教授からはマイヤー博士との細かい情報交換を託された。また、イングリットの娘ギーゼラから、トルナウ日記公表の許可を得る交渉も託された。
 血の繋がった親戚が日本にいることをギーゼラ、ディーター母子は喜んでいるようであったが、伸彦はその複雑な事情をまだはっきり伝えないでいた。その経緯を詳しく彼らに説明することも旅の目的の一つとなった。
 
 伸彦、陽一郎、怜の三人を乗せたマレーシア航空機は、八月一日に関空を飛び立ちクアラルンプール経由でウィーンに着いた。これを機会にドイツ以外にもできるだけ多くの国々を訪問しようとハンガリー、リヒテンシュタイン、スイス、イタリアなどを回って、パリに着いのは八月十一日だった。
 翌日から陽一郎の調子が崩れ始めた。人格が変わったようにウィスキーやジンをストレートでがぶ飲みした。それまで仲良く無駄口を叩き合っていた怜ともほとんど話さなくなり、外にも出たがらなくなった。その日は陽一郎が楽しみにしていたルーブル美術館に行く予定だったが、ルーブルの名前を出してもベッドに横たわったまま「ごめん。今日は行きたくない」としか返事しなかった。
 パリ到着後三日目にやっと陽一郎はルーブルに行く気になった。三人の興味と歩く速度が違うため、落ち合う時間と場所を決めておいた。しかし約束の時間を三十分過ぎても陽一郎は現れなかった。怜をその場に残し、汗だくになって走り回って、やっとのことで北方絵画部門の広間で発見したとき、陽一郎は中央の長いすに腰掛けて頭を両手で抱え込んでいた。
 「陽一郎、大丈夫か」と話しかけると、「ゴッホが一枚もない」と一言だけ答えた。
 
 アムステルダム駅に着いたのは、八月十五日の午後六時過ぎで、ヴァカンス時期の週末のせいもあってアムステルダムのホテルは全て満室だった。探し回った挙げ句、結局シャーヘンという町に行けばホテルがあるはずとの情報を得て、夜の下り電車に乗った。
 シャーヘンは小さな町だった。駅を降り、町の中心はあっちだという駅員の言葉に従って、荷物をガラガラ引きずって歩くものの、ホテルが存在するような気配がしない。伸彦はだんだん心細くなった。しばらく歩くと仄明るい一角が見えて、教会の方角に賑やかそうな雰囲気が感じられる。訊いてみると、真っ直ぐ行くとホテルがあるという。ふと伸彦が振り返ると子供達がいない。彼は暗い通りをまたバッグを引きずりながら引き返し、ちゃんと付いて来るようにきつく言いつけた。夜が更けてきて彼に焦りが生じていた。教会の近くに確かにホテルがあったが満室。道を挟んだ向こう側にももう一つあると聞いてそちらにも行ったが、これもやはり満室だった。
 教会を見上げるとその上に綺麗な星空があった。
 ゴッホの晩年の作品に「オーヴェルの教会」という絵がある。あの絵はこの教会を描いているんじゃないか、そう思ったほど似ていた。やはり晩年の「星月夜」という作品では、歪んだ糸杉が天にそびえ、真っ青な空が渦巻き、月と星々が妖しく悩ましい光を発している。伸彦は一瞬、ゴッホのこの二枚の絵が重なったような錯覚に襲われて、星空を戴いたシャーヘンの教会も歪んで見えた。
 近くでたむろしているタクシーの運転手たちに相談してみると、終着駅ヘルダーまで行けば可能性はあるという。すでに遅いのでタクシーにのってシャーヘンの駅まで戻ろうと言ったが、陽一郎がどうしてもタクシーに乗ろうとしない。「ここに一人残るんか」と伸彦は思わず怒鳴った。あたかも教会を包む妖気に取り憑かれたかのように、息子は「残る」と言ったまま、何時までも頑として動こうとしなかった。陽一郎は座り込んで、ジッと教会とその周辺を見詰めていた。伸彦も怜もその姿に近寄り難いものを感じていた。
 が、しばらくして、焦燥感を募らせた伸彦は陽一郎のリュックサックをタクシーのトランクに押し込み、無理矢理息子の腕を引っ張って後ろ座席の怜の隣に座らせた。
 最終電車に間に合うかどうか微妙だったため、伸彦はシャーヘン駅に着くや地下通路を駈けてホームに急いだが、また二人が付いて来ていなかった。引き返すと、怜が「お兄ちゃんが怒っとる」と言う。かなりの量のジンを一気飲みしたのか、ぐでんぐでんに酔っぱらっていた。時間がないので、抱きかかえてホームに急ごうとしたが、陽一郎は持っていたジンの瓶を通路のコンクリート壁に投げつけた。ガラスの破片が一面に飛び散って、周囲はアルコール臭で充満した。ガラスの破片が散らばる通路に倒れ込んで、今にも嘔吐しそうである。伸彦は陽一郎をあとから連れに来ることにして、取りあえず荷物をホームの待合室に運んだ。そうこうするうちに電車が到着して、沢山の乗客が降りてきた。全員が通路に寝転がっている東洋人を蔑むようにじろじろ眺めながら通りすぎて行った。
 伸彦は汗をかきながら、息子を抱えてやっとのことでホームにたどり着いたが、最終電車はすでに出発してしまっていた。怜に陽一郎を見させておいて、彼はジンの臭いにむせながらガラスの破片を拾い集めた。
 野宿するほかなかった。
 真夏だというのに、オランダの夜は恐ろしく冷えた。
 「寒い」
 めぼしい衣類をすべて子供たちに与えてしまった伸彦は思わず呟いた。
 キャリーバッグの中にある下着の類からパンフレットまですべて取り出して体に貼り付けたが、それでも凍えた。
 シャーヘン駅で寒い朝を迎えた三人は、始発電車でアムステルダムに戻り、駅で朝食をとった後、路面電車でゴッホ美術館へ向かった。陽一郎はそれまでのゴッホに対する情熱はどこへ行ったのかと思わせるほど、冷たい視線をゴッホの絵に向けるだけだった。シャーヘンの教会で、ゴッホの魂を吸収し尽くしてしまったのだろうか、とさえ思われた。
 怜と一緒に手洗いに行っている間に、またも陽一郎の姿が見えなくなった。二人で手分けして探して「カラスの群れ飛ぶ麦畑」を見詰める陽一郎を見つけたとき、伸彦は恐怖を覚えた。死霊に取り憑かれた人間の後ろ姿に見えた。
 
 ドイツに向かう列車の中で伸彦は息子に言った。
 「今は不安定な時期なんだから、あまり病的なものに近づかない方がいいんじゃないのか」
 息子は憐れむような視線を父親に向けて言った。
 「父さん、文学が全然分かってないんじゃないの」
 伸彦は自分の内面を覗かれたような気がした。彼はもともと文学研究を志しながら、いつしか語学や文化論の方に軸足を移していた。詩を読んでも感激を覚えることが無くなって久しかった。
 確かに、霧が晴れたように「美」が見える瞬間もあった。だがそれはほんの一瞬の出来事だった。陽一郎はと言えば、澄み切った世界の住人として、常時美だけを見ているように思われた。
 「真珠って、病から生まれるんだ」
 しばらくして、陽一郎が唐突に言った。
 「?」
 「病める貝からしか真珠って生まれないんだよ」
 
 陽一郎は昔から人の何十倍も感じやすい子供だった。生まれた時から、いや胎内にいるうちから「難しい」子供だった。裕子がミルクを口に入れるタイミングをほんの数秒逸すると、いつまでも泣いてもはやミルクを飲もうとしなかった。一事が万事この通りで、裕子は生まれたときから陽一郎の子育てには七転八倒の思いをしてきた。
 結婚当初から裕子は姑との相性が悪く、何かにつけて互いにいがみ合った。裕子の妊娠中は特にイライラが続き、母親の心理的不調は胎児にも影響を与えないではいなかったであろう。陽一郎の精神の不安定さはその辺に起因しているに違いない。その証拠に、姑の死後生まれた怜には不安定なところが全くないではないか。が、誰に責任があるとは決して言えない。姑も嫁も息子も、己がじし生活史を担っている。「業」を背負っている。伸彦はそう思っていた。
 
 列車を乗り継いでフロイデンシュタットに着いてホテルで夕食をとると、すでに九時を過ぎていた。伸彦はディーターに電話して、翌日の午前中に訪問する旨伝えた。
 翌朝、精神の不安定な陽一郎を怜と一緒に長時間ホテルに置いて行くことに多少の不安を感じながら、伸彦は美しいフロイデンシュタットの街並みを歩いていた。
 ギーゼラはすでに九十歳で施設に入っているが、その日は外国の客を迎えるために帰宅していた。息子のディーターもすでに年金生活に入っている。ギーゼラは頭の回転が速く記憶も確かだったが、耳が少し遠く訛もあるためときどきディーターの通訳を必要とした。
 ディーターは戦友ベンヤミンがもたらした資料を居間の客人の前に大切そうに運んできた。日記は何冊ものノートに綴られている。伸彦はゆっくりと丁寧にページをめくった。日記のあちこちにトルナウの手の汗が染み込んでいる。彼の魂が立ち上がってくるように思われた。
 母子が特に知りたがったのは幸の書いた手紙の内容だった。
 和紙に丁寧に毛筆で書かれた字の一つひとつから、幸の愛が感じられた。返事を寄越さないトルナウに対しても、ただ優しさと悲しさがあるだけで、憾む気持ちを微塵も感じさせない。その内容をドイツ語に移しながら、彼は目頭が熱くなるのを覚えた。
 ディーターは、せっかく日本に親戚がいることが分かったので是非一度彼らを訪問してみたい、とすでにメールで書いてきていたことを繰り返した。
 勝とその一家についての悲劇的な経緯について伸彦が語ると、二人は顔を曇らせた。
 「ひょっとするとそんなこともあろうかと想像しないではありませんでした。でも、そこまで悲惨だとは思ってもみませんでした。どう言っていいか今は言葉が見つかりません」
 彼らの言葉の響きに嘘がなかった。フランツの縁者の苦難もまた並大抵ではなかったであろうことを伸彦は想像した。
 「勝さんにはお二人の気持ちを伝えておきましょう。彼の心の和む日がいつか来るかもしれません」
 
 その夜、伸彦たち親子三人はテュービンゲンに泊まった。ホテルはネッカー川の畔にあった。
 翌朝ホテルの窓を開けると、プラタナスの並木の向こうに柳の樹に囲まれた「ヘルダーリンの塔」が見えた。ネッカー川には朝日を浴びた小舟が数隻浮かんでいる。
 朝食の後、伸彦は二人を連れて懐かしい文学部棟の前を歩いていた。歴史ある大学町は昔と変わらぬ詩情を漂わせている。本部棟裏の通りを横切ると、そこはもう墓地だった。ヘルダーリンの墓は門からさほど遠くないところにあった。側面に彼の詩「運命」の一節が刻まれている。
 
いと聖らかな嵐のなかに
わが獄舎(ひとや)の壁は崩れ落ちよ
今こそ わが霊魂(こころ)
より美しく より自由に
未知の世界(くに)へとさまよい行け
 
 陽一郎はヘルダーリンの墓には興味を示さず、木立の下でタバコをふかしていた。怜はあたりに咲いた美しい花々を楽しんでいた。
 「お兄ちゃん、来て!こっちのお墓、すっごく綺麗だよ。昼顔やクレマチスがいっぱい」
 怜が無邪気に言った。怜の言葉に陽一郎の顔にも明るい笑顔が戻っていた。
 
 
 
 
【付記】
 この作品はフィクションですが、一部実在の人物(ベルリーナー、ザルデルン、グンデルトなど)も登場します。これらの人物に関してはできるだけ実像に近づけたものの、創作した場面もあることをお断りしておきます。ドイツ兵捕虜周辺の歴史的事実関係の確認に際しては、高知大学名誉教授の瀬戸武彦先生に大変お世話になりました。
 
 主な参考文献
○ 「日誌 丸亀俘虜収容所」
○ 「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」のホームページ
 
 主な引用
○ 「オルフォイス、オイリュディケ、ヘルメス」 (高安国世 訳 リルケ全集2 詩集U『新詩集』 彌生書房 1973年)
○ 二つのヘルダーリンの詩は、複数の既存訳をベースに筆者が改訳。