語り合う身体 
 
-〈場所論的コミュニケーション〉としてのケア試論 - 
               
                         八 木 洋 一
 
III 生命活動としての〈コミュニケーション〉
 
〈場所論的コミュニケーション〉論の狙いの一つは、言語を操る自我レベルを基本に据えた「コミュニケーション」概念の狭さとそこから来る息苦しさからこの概念を解放することである。そのためにはコミュニケーション概念を生命活動一般というところにまで極端に拡大してしまうことが必要になる。そこで、ここままで述べてきた〈場所論的コミュニケーション〉論の基本になる語り方を簡潔に整理しておきたい。
まず、生命の根源的働き(Act)の〈場〉(Field)がある。その働きは、〈構造化する働き〉として自らを実現する(actualize)力である。つまり、働きは、個々の具体的な生命活動(activities)として構造を実現する(ここに第一義的なコミュニケーションの意味がある)。その働きが構造として実現する現実(actualities)を〈場所〉という。生命の根源的働きは、〈場所〉(構造)として実現するが、それは、根源的働きが、その実現した〈場所〉(構造)のなかで、〈場所〉を通して、また〈場所〉(構造)として〈働く〉ことを意味する。またそのことは同時に根源的な働きの実現として〈場所〉(構造)そのものが、そのようなものとして〈働く〉ことを意味する。その意味で生命の根源的働きは、その実現である〈場所〉が働く(ここに第二義的なコミュニケーションの意味がある)ための内在的・超越的根拠である。〈場所〉は、いわば〈場所のなかの場所〉(〈場所〉が〈場所〉を含む重々無尽のフラクタル構造)として実現し、またその〈場所〉(構造)のために〈働く〉。この構造は〈場所論的〉に普遍的な根本構制であって、何よりもまず身体は、生命の根源的働きの実現としてそのような〈場所〉である。また、言語を媒介にした〈社会〉も根本構制としては生命の根源的働きの実現(コミュニケーション)としての〈場所〉である。この一連の生命活動全体を〈場所論的〉コミュニケーション(communication)と呼ぶことができる。
さて、Communicationという言葉の語源とそこにある原義についてはここで立ち入って述べることはできないが*1)、この言葉は、接頭辞cum(共に)と基礎動詞munioからできている。大変興味のあることは、この動詞munioの意味だ。この動詞には二つの意味系統がある。一つの系統は「壁を築くこと」によって、人や財産をその壁で取り囲み、一つのまとまりとして護り、維持することを意味する。もう一つは、路なきところに「路を拓く」という意味の系統である。つまり、同じ言葉が「閉じる」と「開く」という二つのまったく反対の意味を持っている。
これをどう解釈するかであるが、この解釈に当って考慮すべきことは、古人の持つすぐれた言語感覚ということだろう。すなわち、生の感覚と言語の感覚との未分性とでもいえるところにある言葉だ。その一つの典型を日本語の古語に求めるとすれば、「かげ」(影)という言葉だろう。それは、まず光を意味すると同時に光の中に現われるものの姿(影)であり、更にそのものが背後につくり出す暗い部分としての陰(影)をも意味した。この生の感覚と言語の感覚との未分性を〈場所論的〉だと言い換えることもできるだろ。「川は流れる。この表現はおかしい。川は流れない。流れるのは水だ。」そう言った日本語の先生がいる、と中学に通っていた頃の娘が驚いていた。わたしたちは、生きていく上で決定的な何かを失いつつある。筆者は、〈場所論的〉コミュニケーション論としてわたしたちの生命活動そのものを根本から捉え直す必要を痛感するが、それはこの喪失感だ。
さて、このようにCommunicationの基礎語であるmunioが、「閉じる」という意味と「開く」という矛盾する二つのことを意味するのだが、問題はこれをどう捉えたらいいのかということになる。筆者は、これを生命の根源的働きの内容そのものの〈場所論的〉言い表わしだと理解したい。すなわち、生命の根源的働きとは、「閉じるに即して開く、開くに即して閉じる」働きだということになる。したがって、生命の根源的働きの実現である〈場所〉は、「閉じるに即して開く、開くに即して閉じる」、ないし「開くために閉じる、閉じるために開く」働きと構造として現成・実現する。〈場所論的〉コミュニケーション論は、生命の根源的働きと実現をコミュニケーションとして捉えようとするのであるから、この内容は生命活動としてのコミュニケーションの内容そのものでもあるといえる。すなわち、〈場所論的〉にコミュニケーションとは何かといえば、それは、「閉じるに即して開く、開く即して閉じる」、ないし「開くために閉じる、閉じるために開く」働きとその実現(構造化)だといえる*1)。〈場所論的コミュニケーション〉論では、この働きの内容とその実現としての構造を〈開閉相即〉の働きと構造と呼ぶことにする。
 これについて少しコメントしておきたい。
 この〈開閉相即〉と呼ばれる事態を理解するためにできるだけ単純なイメージ図のようなものが欲しいのだが、幸いうってつけの図が手許にあるので紹介し、それを手がかりに、基本的なことを確認しておきたい。まず、この図をよくご覧頂きたい。これは、植物と動物のからだの発生最初期の姿を示すために、解剖学者の三木成夫がその名著『胎児の世界』(中公新書)に載せている図である*2)。因に、「閉鎖と開放 ナメクジウオとエゾヤハズ発生(猪野俊平)」と題されている。まず注目すべきことは、この図を三木は「閉鎖と開放」として観ているということだ。三木は、この同じ図を『海・呼吸・古代形象』にも解説をつけて採用している*3)。ここでは左側の動物のからだに注目してみたい。三木はこう解説している。
 
 動物の細胞は、これに(植物の細胞)に対し、まったく対照的な増殖のか            たちをとる。そこでは、壁を持たぬ軟らかな細胞が、三次元の方向に分裂を重ねて、まず風船のような「胞胚」を造る。内に小さな胞胚腔を閉じ込めた、この中空の球は、やがて中の空気が抜けるように将来の植物器官の母胎をなす、底面の植物極が凹み上って、上面の、動物器官に分化する動物極の裏側にくっつき、こうして内外二葉の細胞層-内胚葉と外胚葉-で出来た「腸胚」のベレー帽が形成される。その入口が原口、内腔が原腸腔と呼ばれるように、この原始の腸腔はしだいに奥深く、横に倒れながら、やがてその底が抜けて一方交通の腸管となる。こうして内外の両胚葉は腸管の筒と表皮の筒を造り、それぞれ内海と外海に対して界面を定めることになるが、以後、すべての器官形成は、この二葉の筒-inner tubeouter tube-の間隙、いうなれば“葉間域”を場として、とり行なわれる。すなわち両葉の細胞がこの間隙に向かって、あるときはなだれ込み、ある時はくびれ込んでそこに、あらゆる器官系をつめ込むかたちをとる。
 
 まず卵細胞は分裂を重ね、「風船のような『胞胚』を造る。」(4)胞胚はまだ身体であるとはいえないであろうが、しかしこの姿は、身体が個体としてはどこまでも〈閉じた系〉であるという側面をはっきり示しているようにみえる。身体が個別的なものとして、つまり代替不可能なものとして成り立つ身体的根拠が、ここにあるあるはずだ。身体の〈自性〉性とでもいえる面だ。
(5)は、この〈閉じた系〉自体が、いわば〈外〉を〈内〉にするしかたで、全体が同時に〈開いた系〉でもあるような構造に形態を変えはじめるが、その形態転換(メタモルフォーゼ)の動きとその容態を見事に示している。つまり、「胞胚」の低部にあたる、植物極を形づくる細胞層の〈外〉面が、凹んで〈内〉側に入り込む。「原口」の出現である。それは、胞胚から身体へのメタモルフォーゼの開始を意味する。メタモルフォーゼのこの動きはさらに進み、細胞層の〈外〉面は、「原腸腔」の壁面に造りかえることによって身体の〈内〉側に完全に取り入れらるのだが、図の(6)において、その様子が実によく示されている。身体としてのメタモルフォーゼは、このように「原口」の出現をもってはじまるが、その「原口」は、「原腸腔」の先端でまさに〈開閉〉の機能(働き)を司る器官として構造化する。まさに、「原口」には、〈開閉〉機能を司る双面神、ヤヌスが宿るのである。
このように身体は、まず胞胚から「原口」(口腔)を器官として分化し、いわば自己組織化するのであるが、その最初の器官が、身体の出入り口として〈開閉〉の働きを担う「原口」(構造)であるということは、身体を生命の根源的働き(=〈開閉相即〉の働き)の実現(Communication)として捉えようとする〈場所論的コミュニケーション〉論にとってはとても象徴的なことのようにおもえる。それは、身体全体がこの口腔部の形成を原型に〈開閉相即〉の働きと構造として自らを組織化するということを意味するであろう。
 身体の口腔部位にはじまる自己組織化は、動物の身体の植物性器官としてやがて、消化-呼吸系(吸収系)、血液-脈管系(循環系)、泌尿-生殖系(排出系)へと高度に分化するが、その発端にあるのが〈開閉〉の機能を司る器官としての口腔なのだ。身体ははじめに〈口〉ありきである。このことは、〈開閉〉の機能と構造が身体にとっていかに本質的なことであるかということを示唆している。なぜなら、〈場所論的コミュニケーション〉論の観点からいえば、身体とは、生命の根源的働き(=〈開閉相即〉)の実現として、すなわち〈場所〉として、全体が〈開閉〉の働き(機能)と構造そのものとして成り立つ〈場所〉だからである。身体は〈開閉〉機能と構造の集積だといえば、粘膜をはじめ神経組織を含む〈弁〉機能と構造が身体全体にたいしてもつ意味がいかにエッセンシャルであるかがうなずける。その意味で、「原口」と「原腸腔」の組織化は、身体としての原組織化であるともいえる。
 生命の根源的働きが実現すること(第一義的な意味でのコミュニケーション)、その働きの内容を〈開閉相即〉というのだが、それは、〈開〉に即して〈閉〉、〈閉〉に即して〈開〉ということである。それを〈外〉と〈内〉ということでいえば、〈開〉とは、〈閉〉を〈開く〉ことによって〈外〉を〈内〉に、〈内〉を〈外〉に構造化することである。言い換えれば、〈外〉と〈内〉とが通じて〈一〉が成り立つことだ。〈閉〉とは何かといえば、〈開〉を〈閉じる〉ことによって〈外〉を〈外〉として、〈内〉を〈内〉として構造化することである。つまり、〈外〉と〈内〉とが疎(分)かれて〈二〉が成り立つことだ。生命の根源的働きは、この〈開〉と〈閉〉の矛盾が相即する構造を実現する働きと力である。身体は、生命の根源的働きとその実現として、〈開〉と〈閉〉の相即を自己として構造化(自己組織化)する。〈開閉〉の機能を司る「原口」を先端に「原腸腔」が「外」を「内」に形態転換することによって形成される、それはまさに生命の根源的働きの実現として、すなわち〈開閉相即〉働きの実現として〈コミュニケーション〉と呼ぶに相応しい。また、その働きの実現は、全体として身体という〈場所〉(厳密には〈場所〉のなかの〈場所〉)として実現するから(身体は〈場所〉である)、〈場所論的〉であるというのである。
〈開閉相即〉の働きが実現し、開閉機能を担う「原口」部位を先端に「原腸腔」ができあがるが、できあがった構造(身体)は、〈開閉相即〉が成り立つように〈働く〉。すなわち、「原口」の開閉の働きによって、「原腸腔」(内胚葉)の壁面は、〈外〉と〈内〉を構造として交互に転換する。つまり、「原口」が開けば、「原腸腔」の壁は構造上身体の〈外〉になるし、〈閉じ〉れば〈内〉になる。そのように「原口」は〈働く〉。身体は、「原口」のこの機能と構造によって、身体の〈外〉にあって、しかも身体に必要な、水、食物、空気を摂取し、自らに同化する(assimilate)ことができる。あるいは逆に、身体が産出する不必要なものを異化し(dissimilate)、排出することができる。組織化された「原口」が、このように〈開閉相即〉を実現するように働くこと、ここを捉えて第二義的な意味でのコミュニケーションという。身体が呼吸をし、食物を食べ、老廃物を排出する、これはこの意味でのコミュニケーションだといえる。
ここで、〈場所論的コミュニケーション〉論で語られるコミュニケーションの第一義と第二義の意味の区別と関係について、人間の手を例にはっきりさせておきたい。手は自ずから五本の指を分化し、開閉の機能を備えた肢体として実現する。第一義のコミュニケーションである。開閉の機能を実現した手は、〈閉〉に即して握り、〈開〉に即して放つように〈働く〉。手を延ばして木からりんごをもぎり、口に運び、愛する者の手を握り、幼子を抱く。手は人のために〈働く〉ことも、また「スリ」を〈働く〉こともできる。ここに人間の手の難しさがあるのだが、いずれにしても、手はこのように〈働く〉。これを第一義のコミュニケーションの上に成り立つ、第二義のコミュニケーションとして区別する。

*1 )この点については、 拙稿「コミュニケーションの語源とその原像」『四国学院大学論集』第99号(四国学院文化学会 1999)参照。
*1 M.モースにはじまる、いわゆる「贈与論」は、〈場所論的コミュニケーション〉論の観点からも重要な主題である。M.ゴドリエは、贈与論からみた社会をこう定式化している。「社会は、・・・与えるために保持しかつ保持するために与える、与え(う)るために保持し、保持する(しうる)ために与える。」邦訳『贈与の謎』52頁以下(法政大学出版局 2000)。邦訳ではここに込められた謎めいた真意をうっかり読み過しそうになるが、今村仁司『交易する人間』233頁(講談社選書メチエ 2000)によると、原文ではこの部分だけは英語で次のようになっているようだ。“keeping-for-giving-and-giving-for-keeping” 。この言い方を借りて筆者がここで与えようとしている〈コミュニケーション〉の働きの内容を言い表わせばこうなる。”closing-for-opening-and-opening-for-closing”.また、この働きの内容は、「フロント構造」を実現する。八木誠一『フロント構造の哲学』(法蔵館 1988)参照。
*2 )同書193頁 
*3 )『海・呼吸・古代形象』212頁以下。図は72頁にも掲載されている。(うぶすな書院 1999)