“Tokushima Anzeiger”『徳島新報』の概略とその意義

川上 三郎(徳島大学)


 これは2005年10月1日開催「全国フォーラム 『ドイツ兵俘虜収容所』を考える」での講演用の下書きとその際に提示した画像を元に、Web用に編集しなおしたものです。講演の内容に省略と追加を少々加え、画像も少し減らしていることをお断りしておきます。

目次

0.はじめに
1."Tokushima Anzeiger"(『徳島新報』)とは
2.内容について
2.1 記事の概略
2.2 日本についての記事
2.3 収容所でのできごとなどを伝える記事
3.まとめ

 

0.はじめに

 この新聞の話をする前に、徳島俘虜収容所の簡単な紹介をしておきます。
所長は後の板東俘虜収容所の所長と同じ松江豊寿中佐(後に大佐)です。 その場所ですが、次の図をご覧下さい。これは、『ディ・バラッケ』第4巻8月号に 掲載されている当時の徳島市の地図の一部です。

徳島市街図

 上図の赤い丸で囲んだところですが、北側で船舶の往来の激しい新町川に面し、西側とおそらく南側には民家が立ち並ぶが、少し離れたところを鉄道(現在の牟岐線)が通り、東側には徳島中学という学校があるという所で、商業活動の中心からは少し外れるものの、徳島の町中にありました。
 収容所は、現在の徳島県庁付近にあった公会堂という建物を中心に、その敷地内に何棟かのバラックを建てて作られていたようです。『徳島新報』には収容所の絵が掲載されていますので、そこから何枚か取り出して、お見せしましょう。写真としては、俘虜が残したアルバムなどにあるのですが、残念ながら今は用意しておりませんので、代わりに俘虜到着を伝える当時の新聞(『徳嶋毎日新聞』大正3年(1914年)12月18日)に掲載の写真をお見せします。

俘虜来県画報

 

 次の絵は収容所内から正門を眺めたものです。
Lagerbild 5

 

 次の絵の左は、おそらく宿舎用のバラック。中央の高い木の根元に菰(こも)のように見えるのは、おそらく背後のごく小さな小屋(「別荘」)の出入り口ではないかと思われます。
Lagerbild 6

 

 次の絵は収容所内から西側を眺めたものです。道路を隔てて民家、背景には眉山が見えます。
Lagerbild 9

 

 この絵にある建物はおそらく風呂場かと思われます。入り口の前には桶がいくつか見えます。俘虜たちは天秤棒を担いで、井戸から炊事や風呂用の水を汲んできていました。
Lagerbild 7
 

1."Tokushima Anzeiger"(『徳島新報』)とは

 さて "Tokushima Anzeiger"(トクシマ・アンツァイガー)(日本語では『徳島新報』と訳されるのが通例 なので、以降これを使う)は、徳島俘虜収容所収容のドイツ兵俘虜によって発行されていた新聞で、3巻からなっており、最初の2巻がそれぞれ25号、最後の第3巻が17号までと、全部で67号あります。第1号の発刊は1915年(大正4年)4月5日で、この日だけが月曜日(復活祭の月曜日)、以降最後の号まで日曜日の発行となっておりまして、日曜日に発行されていたという点は板東俘虜収容所の新聞『ディ・バラッケ』と同様であります。

 発刊は徳島到着後、3ヶ月余り後のことでありますが、この点は『ディ・バラッケ』の発刊が1917年9月30日と、板東到着後5ヶ月以上も後であることや、松山収容所の新聞の『ラーガー・フォイアー』の発刊が1年以上後のこと(1916年1月27日)と比較すると、かなり早い時期の発刊であります。

 次に最終号についてであります。現在発見されている範囲では、第3巻第17号なのですが、発行日は1916年9月17日でありまして、これは板東に移る7ヶ月近くも以前のことなのです。そこで、実際にはこの後にも発行されていたが、現資料に欠落しているだけなのか、それとも何らかの理由でそこで発行されなくなってしまったのか、どちらとも分からないのです。現在のところの最終号やそれ以前に、廃刊の予告は見あたらないし、シリーズで掲載されている記事の最終号のところには「続く」とあるのです。

 今度はスライドを使って、新聞がどのようなものかをお見せすることにしましょう。まず記念すべき第1号の最初のページであります。上3分の1ほどにはタイトルとタイトル画がありますが、特別な場合を除き、最終号までこのパターンが踏襲されていきます。
 
TA1-01-1

 タイトル画の中央の建物は収容所のメインの建物で、徳島県の公会堂です。そしてタイトルや発行地、発行日などが記載されていることがお分かりいただけると思います。お気づきのことと思いますが、印刷は謄写版を使っております。その印刷の様子は『徳島新報』の挿絵に描かれておりますので、それもお見せしましょう。
謄写版

 絵の下にある説明がちょっと面白いものでして、日本語に訳すと「高速輪転孔版印刷機(堀井式)」となります。

 この謄写版印刷は、後の『ディ・バラッケ』に引き継がれて、さらに洗練されていくこととなったようです(『ディ・バラッケ』第4巻4月号「われらの印刷手法」)。徳島でも、新聞の印刷だけでなく、プログラムや学習講座の教材の印刷などいろいろと使われていたようです。
 

2.内容について

 それでは、1年半ほどにわたって発刊され続けたこの新聞には、どんな内容の記事があるのか、そのお話をしましょう。

2.1 記事の概略

 記事や雑文の総数は長短、硬軟とりまぜて620ほどになります。長いものでは7、8ページ、短いものでは半ページにも満たないものがあります。"Der Spiegel" (鏡)と題するユーモア欄(通常4ページ構成)は、その中に複数の笑い話や詩などを含むことが多いのですが、さしあたり、今回の分析では「鏡」そのものを一つのコラムとしています。ただし、これは再考を要するでしょう。

 記事にはオリジナルなものだけではなく、収容所に届けられるさまざまな新聞(特にドイツ系)からの転載・引用も多いのです。これは明白に転載・引用と断っている場合もあれば、論評中に織り込まれてしまって、はっきりしない場合もあります。こういったものは、ドイツ語による情報の乏しい中、できるだけ多くの人に情報(特に戦況や故国の状況)をもたらすことを念頭に執筆されたのでしょう。これについては、表題的にいくつか例にあげるにとどめておきたいと思います。

 たとえば、「東部戦線」、「ヴェルダン攻防戦」、「Uボートの活躍」といった戦況報告的なものや、「戦争と科学技術」、「英国が戦争をする理由と準備」といった論評的なもの、「チンタオでのつらい日々から」のような青島での体験談、など数量的に全体の3分の1を戦争に関連した記事が占めています。

2.2 日本についての記事

 一方では、収容所の内外での行事や出来事、日々の暮らしを伝える記事が多く見られます。これらは俘虜たち自身にかかわるものと、彼らが暮らすことを余儀なくされた日本に関する記事が見られます。特に彼らが肌で感じる徳島に関する記事は、なかなかに興味深いものがあります。

 日本関係の記事には、「桜」のように日本の自然美を素直に感嘆するものもあれば、彼らの感覚にはどうにも耐えられない様子を述べた記事もあります。第1巻第2号に「なぜなのだ」と言うタイトルの詩がありますが、その大意は、「どれほど徳島の町を故郷の町と同じぐらいに知るようになって、今は不思議に思うことも理解できるようになっても、鉄道と舟がしょっちゅう、けたたましく汽笛を鳴らすのはどうにも我慢ができない」というものです。第3巻第15号には、同様のことを述べた後、さらに盆踊りの三味線、太鼓、拍手などの騒音に悩まされて、東アジア人が無神経なのはこんな点からも分かる、と嘆きます。

 一方で、「天神祭」という記事では、舟渡御と川面に映える小舟や家々の提灯の明かりや花火など、まさに日本的風景で、両岸の見物人、音楽、笑い声など、単調な収容所生活にとって歓迎すべき気分転換であったと述べていますので、単純に喧噪を嫌っていただけと言ってしまうことはできないようです。

 次の図は七福神を解説する記事の中にあるものですが、その記事では弁天、大黒、寿老人、福禄寿、恵比寿、毘沙門、布袋を絵とともにそれぞれの神々の由来や特質の紹介がなされております。
 
七福神


 さらにお盆に関連して、「元来は亡くなった祖先を敬う記念祭であったものが、変質した。朝の7時から夜の12時まで、踊り、音楽をすることが許されている。娘や子供たちがきれいな着物を着、奇妙なかぶり物や仮面を付け、三味線に合わせて歌い、踊りながら通りを進んでゆく。徳島では特に阿呆踊りを踊るが、これらの踊りはもはや本来の盆の祭り(盂蘭盆)とは関係のないものだ」などと現在の阿波踊りにつながる盆踊りを解説しています。

 秋について、春の桜をのぞけば、秋は日本で最も快適で、美しい季節だと言い、帰国がままならない状況では、この自然美を楽しもうではないかと仲間に呼びかけています。その他、新年の風習、端午の節句から農業や相撲、刀剣、歴史などさまざまな面からの紹介がなされています。

2.3 収容所でのできごとなどを伝える記事

 次に、収容所内での暮らしや行事、娯楽などに関係する記事について見ていきたいと思います。実は、私が初めて『徳島新報』の存在を知ったとき、もっとも知りたかった部分であります。単純に記事の数だけで言うと、半数近くがこの部類に入ります。
 収容所内の暮らしとは言っても、町中の収容所であるので、そこから徳島の市民の生活や活動を直接見聞きできますし、散歩やスポーツのために外出していますので、決してそこだけで孤立していたわけではなく、いわば徳島の空気を吸いながら暮らしていたことは、上節で述べたことから分かると思います。その他にも、たとえば「スポーツ関係」の記事には、俘虜自身のスポーツではなく、収容所前の川で繰り広げられる隣接の徳島中学のボート大会の様子の記述があって、彼らが好んで外部の世界の様子を眺めていたことが知られのです。

 それはさておくとして、収容所関係でめぼしいものをリスト形式で並べると次のようになります。

○ 暮らしの中のエピソード:「収容所の物見から」に多数記述されています。そのひとつだけ紹介しますと、俘虜たちは夏の暑さを解消するべく水泳を熱望しますが、初年度は許可されず、2年目は許可が下りたものの、コレラ流行のため1日で中止の憂き目に会っています。

○ 散歩、遠足: 一番遠いところでは、中津峰山の中腹の如意輪寺(市内から往復20km以上かと思われる)へ。

○ 種々の講座: 各種言語講座もさかんだったらしく、ユーモア欄には英語、スペイン語、フランス語、イタリア語、オランダ語、中国語、日本語、エスペラント語という言語が挙がっています。これに関連して、別の号のユーモア欄にある次のような風刺画をご紹介しましょう。
 
英語の勉強??
絵の右下には「おい、ロイターのやつ、どこに行ったんだ」「ああ、あいつは英語の勉強をしてるよ」というやりとりが書かれていて、この主人公は本を手に英語の勉強をしているらしいのです。しかしそれは口実で、心はどうやら生け垣の向こうの民家の女性の姿にあるという、何とも俘虜の身の上に同情を禁じ得ないものです。注目したいのは、このような戯画の素材となるぐらい外国語の勉強が盛んであったということです。

○ 肉の調達:ニワトリとアヒルの飼育や養豚がなされている様子を示す記事のほかに、肉屋(屠殺とソーセージ、ハム製作)の広告がのっています。

○ 展覧会(1916年4月、復活祭に開催):さまざまな展示物、絵、模型、金属製品(銅、真鍮、錫、鉄)、靴、ケーキなどがあったそうです。日本人では収容所所員のみならず、実業学校(おそらく徳島工業学校)の教師や職人も見物に来たと記載されています。

○ 図書室:入って来る書籍・雑誌の具体的な名前が逐次書かれていって、拡充していく様子がわかります。

○ 宗教行事:ミサ、礼拝、クリスマス。司祭や牧師(板東時代と共通の名前が見いだされる)が来たときの様子などが分かります。
 徳島カトリック伝道教会のアルバレス神父の依頼で、オーケストラと合唱団が教会の献堂式(新築祝い)で演奏を披露(「初めての収容所外演奏旅行」)をしたりもしています。

○ チェスとトランプ:チェスコーナーが最後の数号を除いて、毎回ありました。そしてトランプ大会、具体的にはブリッジとスカート(ドイツ独特のトランプゲーム)の競技会も開催され、優勝したものには賞状の他、景品があたったが、その景品は生きた鶏とアヒルだったと書いてあります。

○ スポーツ関係:サッカー、ファウストバル、陸上競技(六種競技)、ドイツ式体操、シュラークバルに言及があります。テニスについては「鏡」の中にカリカチュアと詩がありますが、具体的には分かりません。
 サッカーなどをする広場のコンディションが悪く、負傷するものが出たりしたので、整地を申し出たものの市当局に拒否されたと書かれています。サッカーとファウストバルの競技会も開催されていました。
 このうちファウストバルのルールについては、余り知られていないからと、説明の記事が掲載されていて、当時のドイツでもマイナーな競技であったらしいことが、ここから知られます。

○ 演劇:10回ほどの演劇の上演があったようです。演目は日本人には馴染みのないものばかりなので、詳細は省略します。

 15年5月9日の記事によると、軍部より演劇上演の禁令があったとあります。しかし、この日の上演が、せっかく今まで準備してきたものだからと、最後のものとして特別に許可されています(おそらくは松江所長の独自の判断ではないかと思われます)。ちなみに、半年後の10月31日の記事にようやく、収容所長より演劇上演の許可が出たとあります。

○ 音楽:このように、演劇は一時、禁止されてしまいますが、音楽会の方ではそれはありませんでした。ただし、拍手は禁止となりました。音楽関係は『徳島新報』の中でも突出して記事の多いものであって、私が最初から注目していたものです。記録にあるだけで、1916年9月までで50回のコンサートを開いており、最初の数回をのぞき、すべてのプログラムの内容が記載されています。それらの詳しい内容は別の機会にゆずるとして、簡単な紹介だけをしておきましょう。新聞の第1号にその当日、4月5日開催のコンサートだけでなく、楽団の由来を述べた記事に始まり、第3巻第15号には総勢30名からなる楽団の団員と担当楽器の紹介がありまして、その間さまざまな音楽関係の記事があります。
 次の写真は徳島に来てから半年後(写真の下に1915年6月16日撮影と記されている)のオーケストラを撮ったものです。  

徳島オーケストラ

  総勢20名程ですが、全体で206人の収容者の中で、これほど早い時期に、これだけの人数で楽団が形成されているのは驚きです。中央でバイオリンを手にしているのは、後に板東でベートーベンの「第9交響曲」の日本初演を行ったヘルマン・ハンゼンです。『徳島新報』ではじめて判明したことは、彼が徳島では指揮者としてだけではなく、コンチェルトのバイオリン独奏までしていることです。

 さてその演奏曲目ですが、全体としては行進曲とか、歌劇のメドレーだとか、ワルツとかいった軽い曲が多いのですが、シンフォニーコンサートをも4回開催し、そこではハイドンの交響曲「驚愕」と「太鼓連打」、ベートーベンのヴァイオリン協奏曲の全曲演奏も行っています。
 

3.まとめ

 『徳島新報』の持つ意義は、何よりも当時の俘虜たちの生活や活動、心情といったものが直接彼等の口から伝えられることです。日本側の史料が伝えることがらも大いに参照すべきものですが、通常あくまでも管理者として記録すべきものしか残されていないのではないでしょうか。それに対し、俘虜発行の新聞では、彼等がどう感じ、考え、思ったかということが直接伝わりますし、俘虜たち自身が記録すべきと思ったことがらが残ります(事実、『徳島新報』の編集者は記録という側面をこの新聞の役割のひとつとしているのです)。今のところまだ手を付けていませんが、『徳島新報』の記事をもとに徳島での活動が板東での活動とどうつながっていくのかを調べることも興味ある課題ではないかと考えています。