「九州日日新聞」に掲載された熊本俘虜収容所関係記事

 

 

本資料は、熊本県立図書館所蔵「九州日日新聞」のマイクロフィルムから熊本俘虜収容所に関する記事を抜粋したものです。

不鮮明な箇所についてもできるだけ判読に努めましたが、判読不能な文字は□で示しました。

 

 

<大正3年10月24日/3面>

 熊本にも俘虜が来る  収容期は青島陥落後

膠州湾の陥落近きに在るは疑ひを容れざる所にして陥落の後、独逸兵の幾千が俘虜として我軍に収容さるべきは今より予期せざるを得ず。右に就き我陸軍当局は既に其収容上の準備に対し種々調査中なるが、俘虜は之れを分ちて各師団地に収容さるヽ筈にて熊本にも八九百の俘虜来るべき予定なれば、第六師団当局は過日来其準備の為め種々取調中なるが日露戦争の時の如く渡鹿(とろく)練兵場あたりにバラックを建造して之を収容すれば準備甚だ容易なるも、今回は成るべく経費を掛けざるの方針にて新にバラックを建造せず寺院其他広大の建物を利用すべき筈なれば本妙寺、往生院、武徳殿等を借入るヽ積りにて、目下諸般の調査交渉等を為し居れりと云ふ。

 

<大正3年11月12日/2面>

 青島総督は福岡

ワルデック総督は東京外九ヶ所の捕虜収容所中何れに収容せらるべきかに就きては、坊間種々の風説伝へられたるが、今回の戦役に最も関係深きは久留米師団なれば総督は福岡に収容せらるヽ事に決し、既に準備に着手したりと。

 俘虜収容所長

本日左の通り俘虜収容所長の任命ありたり。

   歩兵第一連隊附

    歩兵中佐侯爵 西郷寅太郎

 東京俘虜収容所長被仰付

   歩兵第三十三連隊附

      歩兵中佐 林田 一郎

 名古屋俘虜収容所長被仰付

   歩兵第二十四連隊附

      歩兵中佐 久山又三郎

 福岡俘虜収容所長被仰付

   歩兵第二十二連隊附

      歩兵中佐 前川 譲吉

 松山俘虜収容所長被仰付

   歩兵第十二連隊附

      歩兵中佐 石井彌四郎

 丸亀俘虜収容所長被仰付

   歩兵第十連隊附

      歩兵中佐 野口猪雄次

 姫路俘虜収容所長被仰付

   歩兵第三十七連隊附

      歩兵中佐 菅 沼 來

 大阪俘虜収容所長被仰付

   歩兵第十三連隊附

      歩兵少佐 松木 直亮

 熊本俘虜収容所長被仰付

 

<大正3年11月12日/3面>

 熊本に収容の俘虜  将校下士卒約九百五十名(写真……俘虜収容所)

 物産館構内と本妙寺其他

青島の独逸俘虜将校下士卒約九百五十名を熊本にも収容することに内定せし旨昨 県庁に通知あり。而して物産館構内なる図書館及び本館を除きたる他の全部を以て将校の収容に宛て、下士卒は本妙寺其他の寺院に収容する由なり。右につき茶業組合、水産組合は水産試験場標本室に移転する事に内定せしが、県農会事務所は或は原□種製造所内に移転するならんか。織物組合、物産館事務所等は何れに移転すべきか未だ決定し居らず。

 

<大正3年11月13日/1面>

 ●俘虜収容割当

青島の俘虜は今十二日より漸次労山湾を発し、内地に輸送せらるるべく。福岡に収容せらるべき敵将ワルデック総督は十四日出発の筈なるが、之等の俘虜は昨日発表されたる各収容所に左の如く割当らるべし。

  久留米  五百名

  福 岡  一千名

  熊 本  一千名

  松 山  五百名

  大 阪  五百名

  東京、名古屋、姫路、丸亀、善通寺各三百乃至四百人

尚既報の如く青島投降兵は予想外に少数なるも、総攻撃に於て捕獲せられし二千三百名の外傷病兵少からず。現に青島病院内に在るもの四五百名を下らず、是等は当分青島病院独逸軍医以下の衛生隊をして加療せしめたる後内地に輸送する筈なり。

 

<大正3年11月13日/1面>

 ●青嶋捕虜到着

ワルデック少将以下将校五十名、下士卒二千名の捕虜は十四日早朝門司入港の筈なるが、右は久留米、熊本、福岡三ヶ所に収容せらるヽ筈にて、ワルデック少将は何れの地に収容さるヽか諸説多きが、他の将校と共に多分福岡に収容さるべく、同地にては赤十字支部の二階を之に宛つる筈にて既に準備中なりと。

 

<大正3年11月14日/2面>

●俘虜大輸送

戦地より門司に到着すべき独逸俘虜を満載したる数雙の御用船は十四日入港の筈なりしも、俘虜搭載上の都合にて一日延期し、来る十五日来着する旨戦地碇泊司令官より門司運輸部出張所に電報到来せり。其入港時間は不明なるも、運輸部と港務部は協議の上、出来るだけ敏速に消毒を行ひ、昼夜の別なく各収容地に向って順次護送する由にて、九管局にては之が為客車に不足を告ぐる場合は貨車に載せて輸送すべき計画を立て居れり。其員数は未だ確定せざるも、十五日福岡に四百名、久留米に四百名乃至五百名、十六日熊本に七百名乃至八百名の大輸送を為すべし。

●降将一行着 降将ワルデック及其幹部は来る十六日入港の第二便船にて門司着、彦島の消毒所にて消毒の上福岡に向ふ筈なり。

●南洋俘虜出発 長崎米国領事館に収容中なる我が南遣艦隊の独人捕虜の内シ−メンス商会技術員オフルヘルマン(廿九)、同ニフレコルツ(二四)の両人は昨夜門司着。シ−メンス門司支店長ブロイケンスタインと共に横浜に向ひ、十五日同地発の丹波丸にて桑港に向け出発すべし。

 

<大正3年11月16日/2面>

 到着俘虜千八百名

十五日門司着の印度丸、福壽丸の両船に搭乗せる俘虜は総計千八百余に(ママ)して、久留米に収容さるべき分は悉く印度丸より、福岡、熊本及松山に収容さるべき分は印度丸及福壽丸に分乗し居りて、之が区分に就いて少からず面倒たりき。(しか)して予定より多少人員を異にし熊本へは将校四十一名、下士卒三百九十五名、久留米には将校十七名、下士卒四百三十名、福岡へは将校十六名、下士卒五百五十一名となりたり。福岡に収容さるべき者は午後二時半上陸少憩、三時半門司発同地に向ひたり。又熊本に収容せらるべき分は午後三時半上陸を開始し、傷病兵休憩の上予定の如く午後七時門司を出発したり。右に付、熊本収容所よりは篠尾高級副官、渡辺歩兵大尉、山口軍医等受領委員として出張し来り。受領の上、之と伴行したり。(門司電話)

 

 △今朝熊本着の俘虜四百人  宿舎の設備其他

熊本に収容すべき俘虜は本日午前五時三十八分特別列車にて熊本駅に到着すべき俘虜は准士官以上三十五名、下士以下四百名なるが、将校三十五名と其従卒とは物産館集議所に容れ、下士以下は市外横手村なる妙永寺、(ママ)正寺、妙立寺、禅定寺、正立寺、長国寺の各寺院に収容し、明十七日到着すべき准士官以上十五名、下士以下百三十五名は横手村に於ける各寺院及び西光寺、阿弥陀寺等に収容する予定なるが、其人員は今朝熊本駅着の上、俘虜将校と収容所員と協議の上割当つる筈なりと。収容所本部たる物産館内には事務所を県農会事務所とし松木少佐以下所員の詰所とし、物産館事務所を俘虜の寝室とし、米穀検査所を従卒の居室とし、茶業組合事務所を被服置場と定め、集議所は娯楽室に充つる事と仮定し蓄音機、玉突などの娯楽を許し、新聞雑誌其他俘虜の慰問としての寄贈品は総て久留米収容所の例に依る事と定められたり。娯楽所たる集議所には□間に百余の電灯を取付け卓上には挿花盆栽を配置さるヽ由なるも、俘虜将校の希望に従ひ多少の設備に変更を加ふべしと。

 

 ▲取締りは厳格  面会は許さず  (写真……俘虜総督ワルデックを収容すべき赤十字社福岡支部と其居室)

収容所員濱田中尉は曰く、俘虜将士の待遇に就ては□重なるべきも極めて厳格なるべく、面会人に対しても露国俘虜収容の際の如く学生語学研究の為めに訪問させしが如き事は断じて許さず、俘虜に対する一般人民も宜しく大国民の襟度を示し、軽侮の挙動等は特に謹まれたし。本収容所の設備に就ては急拵への上に久留米の如き新設部隊に非ざるを以て、調度品も新式のものを選び得ざるは遺憾なるも、寝具も藁布団に雪白(せっぱく)の敷布を与へ赤毛布四枚の割にて支給し、食事は物産館収容に対しては静養軒より調理せしむべく既に出張準備を整へ居れり。十二月十四日は独逸本国に於てはワイナハットと称し、日本の正月の如き日なるを以て、久留米収容所にても俘虜等が此日を待ち居る由にて当地に来るべき俘虜も其日を指折りして待構へ居るべく物産館集議所に於て彼が年中楽き日を送るには設備に於て甚だしき遺憾なかるべきも此祝日に異域遠く俘虜として在る身の感慨真に同情に値するものあり云々と。尚彼等の朝食は午前八時に取るが習慣になるを以て、十六日熊本駅着各収容所に収容せらるヽと共に熊本に於ける最初の食事を取る訳なるが静養軒の調理の到着翌回の献立左の如し。

    ○ 将  校

 ▲朝  パン、バタ、牛乳、紅茶、チイス

 ▲昼  パン、バタ、ソウプ、肉物、ヤサイ、チイス

  三時に紅茶

 ▲晩  パン、バタ、肉物、野菜、チイス

    ○ 下  士

 ▲朝  黒パン、紅茶

 ▲昼  黒パン、ビフシチウ、サカナ、野菜

 ▲晩  黒パン、シチウ

    ○ 兵  卒

 ▲朝  パン、ビフシチウ

 ▲昼  サカナ、シチウ、パン

 ▲晩  パン、ポウクシチウ

 

<大正3年11月17日/2面>

 俘虜来に就て  梅澤第六師団長談

武人として戦に臨み、力尽きて遂に捕れの身となるは誠に同情に堪へない次第である。殊に東洋に孤立せる□爾たる要塞に立籠もり、健闘力戦したる独逸の俘虜に対しては一滴同情の涙を(そそ)いでやらねばならぬ。固より我国の武士道を以て敵人を律することは酷に失するので、独逸の俘虜に敬意を表し同情を寄する所以のものを以て直に移して我国の軍人に許すことは出来ない。俘虜に対する総ての事は所長たる松木少佐が其□に当って居るので、只今は将校以下俘虜四百何十名着したと云ふだけの報告を得たのみ。将校にも下士卒にも海軍もあれば予後備もあると云ふ。到着した計りの俘虜は給与したパンも甘そうに噛ぢり、其居室も居心地□い様な顔付をして居ると云ふことである。待遇に就ては出来るだけ彼等の心を慰めたい積りで細心の注意を払ふけれ共、固より彼等の自由を許すことはならぬ。凡そ日露戦役当時と大差はあるべきでないが、当年は其数に於ても今日とは比較にならぬほど多かったので、其点に於て今回の俘虜は念入に待遇せらるヽの便を得る訳である。解放期の如きは、固より交戦国であるから平和克後の後で無ければ出来ぬ筈である。所長たる松木少佐は長く独逸に留学し、彼国の性情も(くは)しく巧みに独逸語を操るから詳しいことは少佐に聞いて戴きたい云々。

 

<大正3年11月17日/3面>

 俘虜の熊本入り  胡座掻いてパンをかぢる

熊本収容の青島独逸捕虜将校准士官四十名、下士以下三百九十二名は十五日午後七時、熊本師団より出張の篠尾高級副官、渡辺大尉等の俘虜受領委員に引渡されて門司駅を出発し、▲博多駅までは 渡辺大尉、下士以下十六名監督して来り。博多駅よりは第二十三連隊春成中尉受取りて護送し来れり。博多駅は十時頃なりしを以て、捕虜等も元気よく下士以下の列車にては讃美歌又は軍歌を合唱するなど頗る賑やかなりしが、鳥栖久留米と過ぎては深夜と長途の疲労に堪へず、多くは寝に就きたるも大牟田駅にては五十分間余の停車にて二時過ぎのプラットホ−ムの電灯燦たる下に入乱れて散歩し異域の夜を私語するあり。同駅を発して万田、長洲、高瀬を通過する頃は出征者を多く出せる地方の事とて、深夜ながらも子弟の敵たりし青島籠城兵の通過を見んとて停車場に待受けて見物するものありしが、俘虜等は曇りし窓を開きて

▲ニコニコ顔を 見せて愛嬌を振りまくなど如才なき男もあり。午前五時四十分頃列車は徐々と熊本駅に入るや熊本俘虜収容所長松木少佐、濱田足立両中尉、其他係員出迎へ列車内を出づれば停車場前の広場に黒山の如くなりし群集雪崩を打て押寄せんとするを、(かね)て警戒せる熊本春日両署及警察部員等に制止されて漸く押開かるヽ時、先づ俘虜将校十四名を先頭に順次整然と広場に現れ点検を終りて将校は四台の幌馬車に分乗し、従卒は徒歩にて之に従ひ収容所本部たる物産館集議所に入り、他は数組に区別されて所定の各収容寺院に導かれたり。此駅前の群衆中には我子弟の敵たりし人を見むものと態々

▲天草より出掛 けし者などあり。捕虜は漸く明放(あけはな)れたる朝の光に照さるヽ見物人を見ては私語(ささや)くあり笑ふあり。殊に若き女を望み見ては拍手して笑ひ行くなど至って無邪気なものなり。見物人は捕虜等の此挙動を見てまた笑ひ返し□き返す内を、捕虜等は至極元気に笑ひを湛へて過ぎ行きたり。収容所第一出張所たる熊本市内細工町西光寺に至れば出張所長濱田中尉下士卒を指揮して、本堂に収容し准士官二十六名、卒二十六名は規律正く西光寺及び阿弥陀寺とに収容され終りしが、熊本駅より(つけ)来りし群衆又は捕虜来を伝へ聞きて駆け集まるもの夥しく目貫の場所に正門を開き居る事とて西光寺前の

▲混雑は非常な ものにて、警官は声をからす計りなりしが、遂に裏門は板戸を急造して目隠しを施すに至れり。午前八時頃不二屋出張店よりパン、菓子、紅茶など朝食を供すれば、皆々嬉々として奥座敷に入り、准士官は卓に()り、卒は畳の上に胡座してパンを噛じり紅茶牛乳を(すす)り終れり。朝食中、日本語を解する者が使ひ番となりて、紅茶の薬罐(やくぁん)を提げつヽ『マダありませんか』と怪しき日本語もて愛嬌を向くるさま六尺豊の巨漢に不似合なり。朝食半ばならんとする頃一卒の

(やや)日本語を解 するが付剣の衛兵に伴はれて来り。『私は何処です』と西光寺に尋ね来りしも阿弥陀寺に送られ、靴抜捨てヽ漸く安堵の面持するもあり。今回の捕虜中には日本語を解するもの多数あり。収容所第二出張所たる市外横手村の妙永寺、寳正寺、妙立寺、禅定寺、正立寺、長国寺には下士八十六名、卒二百六十六名分宿し、足立中尉以下係員収容及び食事分配に斡旋し、松木少佐も各寺を巡視して何彼の世話に忙はしかりしが、多数収容の事とて第一出張所よりは食事分配も三四十分遅れたり。此処の見物も亦、細工町方面に劣らねど、同所の寺院は入口より本堂まで長距離の事とて、鉄道踏切り沿ひの道路は車など通れぬ位の混雑にて老人あり、若き女あり、小学生の登校を忘れ顔なるなどあり。捕虜見る人のさまざまも又、面白き見物なりき。長国寺より准士官一名、六名の卒を率ゐて妙立寺まで

▲お茶貰ひに行 く捕虜が案内の巡査を捕へて、頻に日本語にて話掛けつヽ行くをソラ来たソラ来たと野次連追掛け、日本語が話せると感じ入る者などありて賑かなり。更に収容所本部に至れば、流石に将校だけありて他の収容所よりは行儀よく、玄関口にてパンの立喰をやる者等なく、服装も整ひ、化粧道具持参の事とて髪も美しく梳り居たり。此外廓たる青竹矢来の外には、乳母車押たる下女を伴へる奥様連や県庁の役人などの見物もあり。広き構内も見物人に満たされたり。

 

 △日本に知人多き陸軍中尉 ケルフマン

昨日収容所本部(物産館)に収容されたる俘虜中に陸軍中尉ケルフマンなる者あり。同人は数年前独逸政府より見学の為め日本に派遣せられ、奈良連隊にありたる由にて、我将校中にも知人少からず。今回俘虜として日本に赴く事となりたる際、大坂に収容所の設けあるを聞き、成可く大阪に収容されん事を希望し居りたるを、熊本と決定せし為め失望し居りしが、将校は各地に転勤を命ぜらるヽ者なれば、熊本に行くも幸ひに知己あるやら知れずと語り居たり。又最近飲食には不自由を感じ居たるが、熊本着後はウイスキ−と麦酒とを思ふ存分飲みたしと之れのみ楽み居れり。又同人は多額の墨西哥銀を所持し居るも両替の途なく、困り居れり。

 

 △俘虜中の花形  小い飛行将校

俘虜中の花形たる独逸の飛行将校フリ−ドクッヒミウレルスポ−キは陸軍中尉にして、俘虜中の最も矮少なる男なり。名刺にも飛行機を印刷し、又上着の両袖にも飛行将校の徽章を付け居れるが、同人は昨日熊本収容所本部に収容されたり。

 

 △敵は英国  俘虜の敵愾心

昨日熊本収容所に到着せる捕虜は陸海軍人相半ばする位たるが、陸兵の多くは開戦当時より第一線に居りて活動せるが如し。一将校は曰く、開戦当初より第一線に勤務せし事とて、度々危険なる事あり。日本軍の砲火の威力は

▲実に戦慄する 程にて、陥落前二三日に初めて市街に入る迄は連日此恐ろしき砲火に見舞はれ、尚勇敢なる日本兵に苦しめられたり。工兵の談によれば、日本の工兵の敏捷なることは到底、我軍の及ぶ所にあらず。同じ目的にて同一地点に向ひ双方より掘り進む塹壕の、今日こそ我軍が先きに掘り進むべしと一同勢込んで昼夜苦心するも、一回も日本兵に及びし事なく、アノ堅き土地をよくも

▲敏捷に掘進む ことよと一同感心し居りたり。多分日本軍には特別の器械あるならんと噂し居りたり。日本が今回我等に対しての開戦は英国に対する義務を履行せしものにて、斯かる勇敢にして義務を重んずる日本兵に敵対するは到底我等の敵すべきに非ざると共に、甚だ心苦しく感じたれど、只如何にも腹立しきは英兵なり。

▲我等生涯の敵 は日本軍にあらず、英兵なり。幸にして日本軍の捕虜となりしは我等の幸福にして、若し英兵の虜とならば如何なる待遇に逢ふやも知れずと、飽までも深く英国を怨み居る事は此一少尉のみならず、各兵皆互に語り合ひ居れり。監督将校として博多まで出張せる春成中尉の談に依れば、久留米収容の捕虜を送致せる鉄道院の人の話にも彼等が門司上陸の際、一英人の見物し居るを見て各兵皆睨み付けて行過ぎたりと云へり。予も亦彼等同志にては英語にて話し居るも自分等より英語にて会話せんとすれば

▲英語は知らず と称して談話を避け、極々の片言にても日本語を操らんとする風あり。以て如何に彼等が英人に対し含む所の多きを察するに足るべし。尚一将校は日本飛行隊の活動と飛行術の巧妙なるを、口を極めて賞賛し居りたり。更に卒らしき一人に就き野菜と飲料水の事を問へば、野菜の事は多く知らねど飲料水は

▲余程欠乏せる らしく、容器に分けて供与されたりと語る。尚春成中尉の談に曰く、露国捕虜は折々抗議らしき事を持込みしと聞きしが、独逸軍人は将校下士の服装も厳格に画然たる区別あるが如く、頗る厳格なる規律の下に教育され居るだけありて態度もよく、命令を遵奉する処は日本軍人も及ばぬ位にて、頗る柔順なるには感心の外なしと。

 

 △総督一行  本日門司上陸

          熊本に二十名

ワルデック総督一行の俘虜は御用船薩摩丸にて門司港外六連島に到着の上、十七日午前に上陸し、同日午後一時五十分門司発列車にて福岡に向ふ事となるべし。而して薩摩丸に搭乗せる俘虜は総数二百七十五名にして、内熊本行は将校十名、下士卒十名、福岡は将校十一名、下士卒二百四十五名なり。尚十八日には病院船博愛丸にて多数の傷病兵到着の筈にして、別に御用船にて俘虜も来着の筈なり。

 

<大正3年11月18日/3面>

 俘虜雑記  熊本の一夜

▲収容所大多忙 十六日早朝熊本に到着せる准士官以上四十名、卒三百九十二名の俘虜は各収容所にて熊本に於ける初めての一夜を明したるが、到着意外に早かりし為め収容所の設備未だ充分ならず。待遇上多少の遺憾ありしを以て、所員は深夜まで執務し、昨日も早朝より完成を急ぎ、所員悉く多忙を極め居れり。

▲将校従卒廿名  昨夜熊本到着

第二回収容の俘虜は昨夜八時四十分熊本駅着列車にて将校十名、従卒十名到着し到着し、悉く物産館に収容されたり。停車場には見物人黒山の如く集まり、沿道に待受けて見物するもの多く、物産館構内も人を以て埋られたるが、此一行はワルデック総督と共に昨日門司に上陸せる新俘虜にして、十四日より俘虜受取りの為め門司に出張中の篠尾高級副官、渡辺大尉等監督して着熊したり。之れにて熊本に収容されたる俘虜総数四百五十二名となれり。

▲書信発送認可 収容所本部にては一昨日俘虜到着後、書信の発送を許せしを以て発信を依頼する者非常に多く、笠井通訳は各収容所を巡視、諸般の斡旋をなしつヽ之等の検閲に忙殺され居れり。

▲給与金と貨幣 俘虜が到着後、第一番に要求せしは石鹸なりしが、本部よりは将校は五人、卒は十五人に一個の割にて洗面器とタオル一筋宛を供与し、尚最も彼等の要求する酒保開設に就き準備中なるが、不日開設さるべきも差当り必要なるは独貨を初め俘虜所持の外国貨幣の兌換法にて独貨下落し、一円銀貨が我八十一二銭の相場となり、銀行等に兌換方交渉中なるが上通町二葉両替店にては昨日来兌換を開始し居れり。俘虜取締法に就ては目下、大体に於て陸軍省規定に随ひ居れるも、規定外の細則に至りては至急制定すべく準備中なり。

 

 △俘虜さまざま

▲将校収容所 熊本での初めての夜を明かした俘虜連は、何れも嬉々として構内を散歩し居れり。物産館に於ける俘虜は到着の後は、支給されたる洗面器に冷水を湛へて汽車中の埃を落し、新しきタオルに身を浄めて心地よげに居室又は娯楽室にて第一に安着の手紙又は電報を認め本部に届け、扨大安心の体にて彼等大好きの骨牌を弄び、巡視し来る笠井通訳を捕へては種々の質問を起しながら、皆満足の笑顔して夕食も済み午後九時半頃には将校連は早くも就寝し、従卒連は将校の服装や靴などの手入れして十時過ぎには残らず就眠し□るが、従卒組は宵の内は讃美歌を合唱するやら軍歌を唱ふるやら又は炊事場を襲うて果物をネダルやらして敵国にあるの模様もなく、楽き一夜を明かしたり。十七日朝は六時に起床したる従卒は士官の調度を整へ終り、八時から八時半頃までに起出でた将校の世話をして、朝食を終れば各自被服の手入や読書又は前夜の残りの手紙など認めるものあり。竹矢来内を随意散歩するあり。或は裏手の樹木に竹を結び付けて器械体操を始むるあり。士官等は集議所入口の空地の樹下に集ひ輪を描いて瓦を拾ひ投輪の遊戯に余念なきあるかと見れば、青島より伴ひし一匹の犬を相手に巫山戯居るもあり。熊本に於ける第二日を楽く可笑しく過し居るを見受けた。飛行将校フリ−ゲル少尉は倭躯特に目立ちて元気なり。又ガウル中尉は我岡澤中将の知己などヽ称し、稍巧なる日本語を操り居れり。

▲兵卒収容所 たる細工町の阿弥陀寺、西光寺、高麗門の長国寺、正立寺、禅定寺、妙立寺、妙永寺、實成寺にも早朝より見物が押掛けて、到る処の門前は見物の山が出来たり崩れたり。歩哨や警官やは制止に忙殺され居れり。先づ正立寺に行って見るに此処の珍客は午前六時に起床して石鹸で極念入りに面を洗ひ、身体を拭き、鏡に対して歯を磨き、髪を梳り、灰殻なはコスメを使ひ香水をなすり、是で初めて戦争以前の面になったと一人で会心の笑をこぼし庭内をアチラコチラの散歩。間にはコツコツ石畳の上に於て正式に何とか言って並足をして居るのもあり。七時になれば飯がくる。分配される。味が気に入ったのか側目も触らず食い入って何とも言はず、お静かな事なり。其れから又散歩をする。間には煙草が欲しいと言って二三人申合はせ、ノソノソ出て来て歩哨に対し外出を請求する。歩哨が出来ぬと頭を振ると、言ふ事が分らぬのからだとモドかしさうに手まね、目ませて懇請する。歩哨が出来ぬと一喝すると大きな兵隊さん、小さな兵隊さんに一目置き笑止な顔して極めて柔順に引返す。丸で小供見たやうだと見物人がヒソヒソと話して眺めて居る処に警官がコラコラと一喝する。今度は見物人が喫驚してド−ッと後へ引返す。却々に面白し。

 

<大正3年11月19日/3面>

 俘虜雑記  第三回明日着

          将校連の祝盃

熊本に於ける第二回目到着の俘虜は既報の如く十七日午後八時四十分、将校十名、下士以下十名熊本駅に到着し、内四名の将校は馬車にて各従卒を随へ物産館に入り、他は全部細工町西光寺に収容されたり。此両収容所にては予て新俘虜到着を通知しありしを以て、俘虜等は今や遅しと到着を待受け、物産館にては俘虜の一行収容所の門を入るや竹矢来の陰に待受けたる将校連は、馬車より降り来るをも待たずヤアヤアと声をかけ、握手しつヽ互に無事を祝し合ひ、軈て一室に入るや先づ珈琲を給し、先着の俘虜はビ−ルを抜きて祝盃を上げ、互に健康を祝し十時過ぎ漸く尽きせぬ物語りを翌日に残して就眠したるが、此物産館に収容せる将校中

▲グ−トマン中尉 といふ長躯の男あり。此男は東京ボ−クック会社といふ工業会社の代表技師にして索道暖房装置の主任技師を勤め、独逸本国にて高等学校を卒業せる人にして多少の教育あり。日本の事情にも通じ居れり。

▲俘虜の入浴 昨日は俘虜は午前中広町の上田湯に入浴を許され、将校は靴擦れにて足を痛め居るビ−バ−中尉の外入浴し、下士以下も正午頃入浴せるが、青島出発以来入浴せし事なきこととて非常に喜び、只石鹸を塗り付けて湯をかぶる位の烏の水あびの如き入浴なれど非常に喜び、小桶を物珍らしきがりてピカピカ光る顔して感謝し居れり。神戸シムメンスシュッケルト電気会社よりは昨日、同会社員にて日本より青島に行き、俘虜として収容されし人はなきやと領事を経て収容所に問合せ来りしが、熊本収容者中に三名ありし由なり。

▲服靴の新調 俘虜に対しては洋服や靴の新調を許されしを以て、昨朝来其の注文続々ありて洋服屋、靴屋等の出入頻繁なりしが、早く新調衣を着用したしとて早く早くと不叶ひなる日本語にて洋服屋に注文し居るなどありたり。

▲通訳増員 熊本に於ける収容所は散在し居り。尚収容者多数なるより笠井通訳の外に尚一名増員に決定し、既に任命されたるを以て一両日中着熊すべしと。

▲第三次到着 第二回目の俘虜は一昨夜熊本に到着したるが、第三回目に到着すべきもの若干名、明日中に着熊する筈にて渡辺大尉監督帰熊する由。

 

 △珍芸百出  収容所雑感

▲第一流の日本通 阿弥陀寺に行って見ると不二屋の番頭君が火鉢の側に座って居る。其横に定価つきの林檎や芭蕉の実を入れた箱や籠が据ゑてある。と奥の方から廊下伝ひて熊本−−正金銀行ありませんかと遣って来る。是れが東京、横浜等に十四年居ったといふ青島の珍客中の第一流の日本通のベンチャア君だ。背は余り大きくないが、身体は余程頑丈な男である。君は右のポケットから日本紙幣の五円札五ン枚を取り出して、番頭君に切って貰ひ廿銭銀貨や十銭銀貨を仲間の君に分けて遣る。記者は君の袖を捉へて色んな問を発すると、君は頗る明瞭な日本語で要領を得た返事をする。「私は三十八」「青島で鉄砲を握った独逸の兵隊は二千五百人」「日本の兵隊三万五千−思った」「飛行機−大砲は恐ろしかった」など最う陳腐に属して居るが、実際鉄砲を握って我軍に対抗した君から聞くと、又別様の感じがする。

▲糞中の八十円 西光寺に行くと平尾一等靴工長が先に立って珍客の居る室を案内する。ドノ室も井然として整って居る。下士の室は又格別で立派な事だ。門を出て群衆の中に立って居ると、阿弥陀寺か西光寺の中に居るのが、銀貨八十円を便所の肥壺の中に落したとて騒ぐので、寺でも厄介だと思ったので届け出たから、人夫を雇って通弁にまで来て貰ひ、肥汲上げて捜して見たが分らないので何れもウソだと思って居ると、大将大きに焦躁って上衣を脱ぎ、自ら肥を掴み分け一時間余りも捜した処から見ると、満更ウソでもなからうが、其れでも金は無かったのでベソを掻いて居たさまは気の毒だったと一警官が話して居た。

▲珍客の飯食振り 妙永寺に行って昼食をするのを見た。食物はバケツ三つに入れてある。其れを杓子で銘々に大きな茶椀に注ぎ分ける。秩序頗る整然で、チッとも混雑しないのは感心だ。注いで了って食ふ段になると、自分の席に着いては居るが腹這って食ふのもあれば、胡座を掻いて食ふのもあるなど頗る雑然たる者だ。間には態々席を離れて階段に腰掛けて食って居る者もある。予て腰掛けて食ふのだから、是が或は此内で一番お行儀の好いかも知れないと言って見て居る見物もあった。食事が済むと一部の者は碗を抱いて便所に行き、帰りに手洗鉢で其碗を洗って居る者もある。見物人はキタナイと顔を□める。其れから井戸端に行って手洗盥で顔を洗ひ、其の水で身体を洗ひ、又其水で碗を洗ふ。一番に碗を洗ったら好さヽうな者だと見て居ると、流石に最後に他の水を掛けて洗った。

▲俘虜の演芸会 熊本に来た初めの夜は流石に安心した者と見えて、何れも楽しい面をして居た。間には焼酎を欲しがったりビ−ルを欲しがったりした者があったが、金が墨西哥銀で、其れを買ひが出来ぬので非常に残念がって居たが、其れでも段々空談に興が乗って、何とも言へぬ可笑しな手つきで揃って独逸の□八拳を打つかと思へば、何うして持って来た者か吹管を取出して吹いて見たり、ヴァイオリンを引出して弾いて歌って舞踊をしたり一曲、一舞踊終る毎に拍手喝采、崩るヽばかり。お寺の和尚さんも小僧さんも吾を忘れて眺めて居た。之を一週間計り雇って何処でか俘虜の演芸会を打ったら屹度当てるに違ひないとは見物の警句。

▲飯の食へぬ花屋 珍客の居る寺院には見物は無論、墓参りをする者も入れない。で態々見事な手作りの菊の花を持って来て空しく家に帰る者は未だしも、家にあっては何にもならぬ厄介な榊や樒の五把も十把も持ち帰るお爺さんやお婆さんも少くない。安立中尉は祖先崇拝は大切と教へて居る一方に、是れは如何にも気の毒だ。何うか仕様はないか知らんと首を撚って、追返される墓参者を眺めて居る。殊に惨めなは妙永寺馬場内の三軒の墓花や蝋燭や線香を売る家で、彼等は之れで僅に糊口をなして居る者であるから、之では飯が食へぬとて狂気の如くになって居る。

▲自ら薬を選択 珍客先生来熊の第一日は全く無病息災で元気旺盛の様であったが、第二日目から大分患者が出来出して、正立寺の療養所には濱高家二等軍医、野田一等看護長が大分持余して居るやうである。患者は多くは外科の患者で、永く沐浴をしないから出来たタヾレや腫物等が多い。此等の患者は患部を見せて長々と能弁に容態を語った上ワセリンを呉れの、湿布をして呉れのと軍医の捲内に立入って自から薬を選択居るのであるから凄じいが、腫物を少々深くツヤされて痛さに堪へず顔を□めて何うか少し残して呉れば滑稽だったと中尉は独りで笑って居た。此等の病気の外、乾性下疳が一人に淋病が一人居るが、此等は入院をさしてくれと通って居る。

 

 

<大正3年11月20日/2面>

 昨日到着の新俘虜  熊本、久留米、福岡に収容

俘虜七十三名を乗せたる御用船嘉代丸は予定より少しく遅れて十九日午前十一時、門司に入港したり。歩兵第四十六連隊の田崎中尉以下数名の下士卒に護衛されたる今回の俘虜は、陸兵あり海兵あり、将校待遇を受くるものヽ中には造船所の技師を初め二十三名の官吏あり。純然たる将校は十六名にして、是等は船中に於て軍服を着換へたる由にて、多くは灰色の光沢ある外套を纏ひ、一見甚だしく美麗なりき。然れ共、下士以下に至りては服装、例に依りて区々にして各自沢山の着物を携帯し居れり。七十三名の区分は熊本将校十七名、下士卒二十三名、久留米将校十四名、福岡将校八名、下士卒十一名にして

▲熊本収容所 より出張したる渡辺大尉外久留米、福岡各収容所の受領員に引渡され、午後一時彼等は全く上陸を終りて休憩し、やがてプラットホ−ムに於て収容所毎にそれぞれ整列せしめて乗車、一時五十分門司発列車にて出発したり。又嘉代丸中には戦況を視察したる松井陸軍少将、並に東京毎夕、西肥日報、福岡日々の各従軍記者も便乗し居りたり。▲俘虜の談 熊本に収容さるべき俘虜中に予備陸軍少尉フォ−クトなるものあり。同人は東京並に横浜に住すること十二年の久しきに及び、巧に日本語を操りつヽ記者に語って曰く、予は嘗て独逸大使館に通訳たりし事あり。後辞職して弁護士を開業し、彼の有名なるシ−メンス事件に対しても、弁護士として小林米珂と共に法廷に立ちたる事あり。小林氏はブ−レ−の弁護人としてブ−レ−の利益の為に頻に他の人の悪口を言ひたる位にて、余り善き人にあらずと語り出して、突然気が付きたりと見え、そんな事を新聞に書いてはいけませぬと打笑ひ、彼は尚語を継ぎ、自分は戦闘中左翼の一番端に居り、能く日本軍の戦闘振を見たるが、

▲日本の砲弾 は驚くべき威力を以て、夥しく我軍の陣地に落下したり。されば、自分等は壕の中に隠れ、時としては壕外にて士卒を指揮したるが、日本軍の砲弾はウナリを生じて来るが故に、巧みに之を避くるを得べく、一度此ウナリを聞くや直に壕内に潜伏したり。日本砲兵の射撃は甚だ巧にして、総てのものを破壊されたるには驚きたるが、青島の兵は総数三千五百に足らず。而も千余名は予後備にして現役兵は少し。且つ、大砲も旧式のもの多く、日本軍の三万に対して能くも総攻撃

▲八日間を保ち 得たるものと思ふ。独軍人の有せし光弾は最新式のものにして、能く数百米突の間を照し、其色にも白青緑の三種あり。一たび之にて照し、若し日本軍を発見せば直に砲撃を加へたるなりと。此時熊本収容所より出張せし渡辺大佐に対し、海泊河の前線に於て負傷したりと自ら称し居りたる陸軍大尉デルントが通り掛れるより、記者はフォ−クトに対し彼れは何人なりやと問へば答へて曰く、彼れの負傷は十一月七日朝、我が独逸軍が白旗を掲げし際、突撃し来りたる日本の一将校あり。デルント大尉を見て、直に剣を渡せと云ふ。軍人が剣を渡すは不名誉なれば之を拒みたるに、双方とも言語通ぜず、抵抗するものと誤解せしと見えて、日本の将校は早速斬付けたるなりと。戦争の場合、皆元気旺盛の時なれば致方なしなど

▲愛嬌を振蒔き 又曰く。予は開城に関する彼我軍使の会見の際も亦、モルトケバラックに於ける神尾閣下とワ総督の会見の際にも通訳の為に列席し、山梨少将にも面会するを得たり。当時、神尾閣下はワ総督に対し、俘虜将校には天皇陛下の思召しに依りて特に佩剣を許す旨を述べられ、且俘虜となりて気の毒なるも暫く不自由を忍ばれたしとの挨拶ありたり云々と語り、今度は先方より熊本の収容所は兵営なりやと問ふに、否

▲下士以下は寺院 なりと答ふれば、彼れは驚きつヽ熊本にはそんな多人数を容れる沢山の寺ありや、又食物は矢張り日本食なりや。予は日本食を好めども、他の者は閉口すべし。我等の荷物の多きは食糧品を携へたる為なり。而して最も好む所は芋にして、パンと肉と野菜とは是非供給して貰ひたし抔語り、熊本に於て散歩を許さるヽ事とならば、九州日々新聞社を訪問すべし抔、盛んに気焔を吐き居たり。(門司特派員電話)

 

 <大正3年11月20日/3面>

 俘虜雑記  収容所の様々

          新俘虜昨夜着

▲陳列場観覧 物産館に於ける俘虜将校は昨日、松木所長の許可を得て物産館陳列場を縦覧せしむる事となりしが、俘虜なりとて独逸帝国の将校なれば兵卒の衛兵を付せらるヽは迷惑なれば、独逸帝国軍人の面目を保ち、決して違犯の行為又は不穏の事なきを誓ふを以て随意、通訳官の案内にて参観せしめられたしとの希望を容れ、午後二時頃より同館内を縦覧せしめたり。

 △初外出の将校  日本女に「今日は」

着熊以来数日間、埒外に一歩も出ざりし事とて、何れも籠を出し鳥の心地やしけん。嬉々として打語らひ陳列館に入り、館内を左往右往に駆け巡り、物珍らしげに打眺めしが、通訳を通じて正宗の瓶詰を三十七銭で買取り、小脇に挟んだのもあれば竹の柄杓を打振り乍ら行くもあるが、十枚四十五銭の皿を唯の一枚だけ取って平気で行き過ぎるのもあり。女看視人がお辞儀をしたら回らぬ舌で「今日は−」と挨拶した日本語通の将校もあり。一応陳列館を見終って県会議事堂の前を通り武徳殿の東方白川端に出で、此処で暫く水の流れを眺めたるが囚虜の身には、無心の水にも多少の感がありしならん。

▲酒保と通貨 収容所に於ける酒保は殆んど全部許可済となり、各収容所ごとに開店し居れるが、未だ兌換率決定せざる為め頗る不便を感じ居れり。昨日は神戸より両替店員来り兌換等に就き交渉中なるが、収容所にては徳華銀行に照会中なりと。彼等の所持金は徳華銀行発行の紙幣、銀貨又は英貨□□□なるも、紙幣は目下不換紙幣となり居れり。

▲俘虜の通信 笠井通訳官外一名の通訳官任命の筈なりしが、柳井氏一昨朝着任し、昨日より登庁執務し居れり。俘虜の通信は料紙を支給し、而かも無料なるを以て発信者頗る多く係官は多忙を極め居れるが、電報は総て独文を許さず英文のみに限定し発信を許し居れり。

▲新俘虜昨夜着 第三回目の俘虜四十名は昨夜八時四十分着の列車にて着熊し、物産館及び各収容所に収容せられたり。

▲将校の悦び 物産館に収容されたる将校連は昨日は庭内の樹間にハンモックを釣りて揺られながら読書し居るあり。又友人等に庭が良い、居室は広いと云うてやったなど語り居るもありしが、日本通のグ−トマン中尉は青島戦に於て日本軍は約八千戦死せりと信ず。自分は常に第一戦線にありて、双方の死傷者を目撃したり。現に流亭にて日本の大尉一名と外八名戦死せるを見たり。俘虜三万余の兵を率ゐて三千余の我軍を襲ひたる日本軍は戦勝せるも結局、多数の兵を殺したり。青島の各堡塁を日本兵は要塞といふも、独逸より見れば要塞にあらず。僅かに七ヶ月にて築造せる堡塁にて、独逸の真の砲台要塞にあらずと大いに気炎を吐きたり。

 △寺の内外  兵卒収容所雑観

▲俘虜の食物取 昨日は日本晴の好天気で俘虜君大喜び。見物は相変らず朝ッ腹から押しかける。朝飯の受取りにバケツを提げて食物取りに出て行く処や帰る処を道筋に待ち受けて能く見て遣らうの作戦だ。君等は此機を利用して道筋の店に寄って煙草や林檎や芭蕉やビ−ルを買っては、ニコニコして帰って行く。見物は黒山の如く立切り、穴の明く如くに眺める。此の眺められるの幕が済んで、朝飯が済んで了ふと日向に出て思ひ思ひに散歩する。高麗門の長国寺は板の塀や石の塀などが無く、ゲズ垣一重に過ぬので、君等も其処迄出張って来睨んで見せたり、笑って見せたり、間には踊って見せたりする。見物も大喜び、何時迄経ても帰らない。

▲珍妙な入浴 高麗門の各寺では、まだ入浴の設備が出来ない為めに、一昨日は新三丁目の常盤湯に入浴させた。一組は六十人、例の規律ある二列縦隊で繰込んだが、湯の中に手を入れてアッとか何んとか言ってる。ウメ水がザアと出ると俘虜先生大喜び、ザブザブと湯をかぶっては石鹸で綺麗に磨くが、何れも湯桶を使用する事を知らぬ。一人の日本通の俘虜が使用方を教へると、是は調法と言はぬばかり争うて湯桶を取ったが、チッとも混雑などはせぬ。一人は試しに湯の中に飛込んで、又忽ち飛び上がり目を丸くして「熱い熱い」。入浴後、卓子と腰掛が送って来たので君等は其れを運搬する。却々以て力が強いと見物が感服して居る。

▲俘虜と大工の相撲 昨日の好晴に正立寺の俘虜先生、御堂の縁の階段に大きいの小さいの取交ぜて総て七名、腰掛けて何だかペチャペチャ饒舌って居たが、其れは相撲の申合せだったと見えて頓て御堂の真ん中で相撲を始めた。双方から右の手で首ネッコを抱締て、顔を真ッ赤に力を入れてグルリグルリ回って居ると、一方がドタリと倒れて勝負がつくを見て居た此方浴場建築中の一人の大工は、鋸投棄てヽ飛入って、大きな男の股倉に首突ッ込んでバッタリ後に返したが、其れと見た大将は今度は殊更に股倉を大工に与へて、ウンと押潰して了った。大工先生口惜しいと今度は不意に飛びついてカマズを掛けたが、力が足りず捻倒された。見物はさも残念さうに、力は何うも強いやうだと深く考え込んで居た。

▲藝妓の見物 昨日午後、西熊両券の信心芸妓の跡に踉いて珍客の見物旁々高麗門の六角堂に参詣したが、信心芸妓は帰っても其余のは恐いの可笑しいのと饒舌り合っては眺めて居ると、妙永寺の珍客先生其れと見て六七人集り来り。何だか饒舌ってニコニコしながら、物でも言ひかけさうである。と、熊券芸妓の一人が何と見たのか顎をシャクって手招きすると、奴さん一斉に何だか声高く叫んだと見た警官は、這は一大事と佩剣がガヤガヤと駆けて来たところに、喜楽のお花が女将其他と香華を持って是れも見物旁々晩秋の晴日の暖かい空気の内に白い顔を俘べて来る。

▲警官とキ印の立廻 細工町西光寺、阿弥陀寺前には相変らず通行人が立切って、立番の警官が弱って居る。十九日の午前中、五十ばかりの気疎い親爺が目籠を下ろして見て居ると、警官が叱り飛ばして退去を命ずる。親爺、是れは面白いと食って懸って抵抗する。果ては矢釜しう言ふならムカレと立合って腕力で抵抗するので、仕方がなく門内に引張り込んで調べて見ると此親爺はキ印で、華族の娘でなければ嬶には持たぬなど途方途徹もない事を饒舌べり、籠の荷ひ棒には笑はずには居られない事などを書いて居るので警官も□□ず噴飯す。

 

▲俘虜宇品入港 青島俘虜将校四十三名、下士卒九百名を載せたる御用船欧羅巴丸は十八日午前五時宇品に入港したるが、之等俘虜は十九日夕刻より上陸を始め、何れも汽車にて姫路、名古屋、東京の俘虜収容所に発送せられたり。(宇品電報)

 

<大正3年11月21日/3面>

 俘虜雑記  近日再び外出

熊本俘虜収容所長松木少佐は既報の如く一昨日、初めて物産館収容の将校俘虜に外出を許し、物産館陳列場より武徳殿付近を散歩させしが、尚今後彼等の無聊を慰むると共に、日本特有の□物を示し、熊本付近紹介を兼ね花岡山に伴ひ、櫨の紅葉と山上より見る美しき景色を見せ、水前寺にては日本の庭造りと清らかなる水とを見せ、途中菊花などを示さんものと計画中なるが、尚肥後相撲館に於ける菊花大会と菊人形をも縦覧せしめたしと目下交渉中なりと。又横手より細工町方面にては

▲果物等を密売 するものあり。墨銀一弗を以て売買し居る由なるが、警察に対し取締方を依頼し置きたり。同銀貨は逓信省指定価格にて七十七銭なるも、両替店にては七十銭位にて兌換し居れり。而して同銀貨には偽造貨多きを以て、暴利を貪りつヽ却て偽造貨にて一文にもならぬ等の事あり。却つ商人の不利益となるを以て、特に注意を要す。十八日より収容所各一ヶ所に酒保を設け、飲食物及び日用品を販売せしめ居れるが、販売時刻、価格表又は日本貨にて現金支払の事等四ヶ条の酒保規定を定め、収容俘虜に周知せしめしが販売物品は総て

▲日本兵営内にて 販売すると同一品質のものと限定したり。尚俘虜面会に就て問合せ来る向あるも、面会希望者が外国人なれば陸軍大臣の許可、内国人ならば衛戍司令官、即ち熊本にては梅澤師団長の許可を得るを要するを以の面会希望者は其手続きを以て出頭すべし。当収容所は開始以来、未万端の設備整はざるを以て

▲俘虜の日課 決定に至らざりしも、不日制定、起床就服等の時間を定むる筈なり。尚十六日以来収容せし将校名左の如し。

 海軍歩兵大尉エ−リッヒ・ベルシュマン、墺国海軍大尉ヴィクトル・フォン・グロブガ −、海軍大尉ハンス・アンドレ−、予備中尉ロ−タ−ル・ハヰンツエ、□歩兵中尉カ−ル・ガウル、海軍中尉マックス・ガルス□ル、予備中尉マンファ−ド・チンメルマン、同ル−ドヴィッヒ・シュルツ、予備少尉ドクトル・アルツ−ル・ビ−バ−、海軍少尉フリ−ドリッヒ・ミュラコブスキ−、予備少尉ハインリッヒ・リムマ−、同ウィルヘルム・スタイツ、同カ−ル・メルク、同エ−ベルルハルト・ラドケ(以上十六日収容)、中尉ロバ−ト・ベ−ゼ、同パウル・フロリアン、予備少尉エルンスト・ゲ−トイン、同フリック・ルイケン(十七日収容)、海軍建築顧問少佐相当ウィルヘルム・ランゲンバッハ、海軍造船技師少佐相当アドルフ・ペ−タ−ス、獣医正大尉相当ハインリッヒ・モ−リッツ、フランソ・ダイファ−、大尉エルンスト・アルフレッド・□ソグン、海軍大主計フリ−ドリッヒ・フォン・セイフェル、総督府通訳官ワルタ−・ドリッテル、予備少尉アルフレッド・ホップ、予備少尉ハンス・コルスタ−、フリ−ドリッヒ・ウィルヘルム・モ−ル、同エドワ−ド・ウィル、後備少尉クルド、ロ−トケ−ゲル、少尉ヘルマン・ク−ン、予備少尉法学士カ−ル・フォ−クト、同ロバ−ト・プレッテルニッツ、同アルベルト・オ−デルマン、海軍建築技師少尉相当フリ−ドリッヒ・クレ−マン、同エミ−ル・クライン

因に、前記人名中海軍中尉ミュラコブスキ−は飛行将校なり。

▲墓原で商売 十九日正午頃、高麗門正立寺の垣を乗り越え墓原に俘虜を引っ込み、懐中から林檎や蜜柑を取出して林檎一個を三十銭、蜜柑一個を二十銭□売らんとして居った処を、警戒中の春日署の高木巡査に引張られたのは熊本市内辛嶋町の野田仙太郎(五一)といふ男。

 

<大正3年11月22日/3面>

 俘虜雑記  昨日の町見物

▲将校の市中散歩

熊本物産館に収容中の俘虜は午前九時より着熊以来第二回目の入浴を許され、広町上田湯に入浴したが、予て供与されたる花王石鹸に浄めたる身体に何やらの化粧水を塗り、髪には入念にブラシを掛けて、顔にも香水やうのものを塗り、ピカピカ光る顔を昨朝の寒風に吹かせて襟章美しき外套に包まりて、広町より上通町を手取本町に出で水道町を経て収容所に帰りたるが、従卒連は之れと入違ひに入浴し、将校の目を遠く離れしこととて覗き見を厳禁されたる浴槽に烏の水あびして入念な化粧中、呑気に歌など歌ひ嬉々として帰所したり。此頃になりてはモ−大概に捕虜を見飽きたものと見え、見物人も余程減じたるが、捕虜連は相変らず元気にて竹矢来の内を散歩し居れり。

▲内藤正義氏曰く 俘虜は囚人では無いから相当の待遇は与へなくてはならぬ。夫れかと云うて厚遇する必要は全然ない。寛恕する処は寛恕し、厳格にする処は何処迄も厳格にし、寛厳宜敷を得ねばならぬと思ふ。 △彼等とても祖国の為めに働いて遂に俘虜となった者であるで、大和魂よりする俘虜論の如何を問はず、其心事を買ってやって宜しく大国民の襟度を示し、軽侮するか如き挙動があってはならぬ。 △俘虜の見物に就ては、独逸の軍人は如何なる者かと云ふ事を観察する為めに見物する事は決して悪い事では無い。そんな事は万々無いか、若しあるとして日本人が独逸の俘虜となった場合を考へても、彼等は必ず見物するであらう。相当の態度と心事とを以て見物する事は決して侮蔑にはならぬ。

▲各自に制裁 熊本収容俘虜には未だ収容所より処罰したるものなきも、彼等は各自の制裁厳重にして各収容所付下士は違反者に対し夫々処分し居るを以て、取締も余程励行され居れり。彼等の制裁は減食等あり。珈琲一杯の減食にても彼等は余程苦痛を感ずるものと見え、至って静粛なりと。

 

<大正3年11月24日/3面>

 俘虜雑記  奇抜な製作品

熊本に収容されたる俘虜も収容所の生活に慣れ、荷物などの取形付けが澄んだ此頃にては一日を暮し兼ぬる者多く、携帯の書籍も読破したので

 ▲新聞雑誌購読

を希望するもの多く、一昨日より神戸ジャパンクロニクル新聞の購読を許したが、尚独逸語の本を貸す処はなきかと係員に問合するもの多く、収容所にても独逸語又は英語の書籍、雑誌の寄贈を希望し居れり。将校中には日本語の研究を申出づると共に独和、和独の辞書を買ひたしと願出るものあり。毎日無聊に苦しむ彼等は靴を脱いで廊下を歩くのが此の寒空に腹まで泌むと見えて、靴足袋の上に毛布で足袋やうの物を拵へ、又は

 ▲日本の足袋を

穿ちてハイカルもあり。最も奇抜なのは板の中央に緒を立てヽ、草履とも下駄ともスリッパとも付かぬものを拵へて穿つがあり。中々に奇抜なものが現はれたり。俘虜中には表具屋、大工、鉄工、車工、床屋、電気職工、煙筒掃除人、仕立屋、靴屋など種々な職工あるだけ、却々器用に種々な品物を拵へ居れり。松木所長は此奇抜なる彼等の製作品を蒐集して小博物館を造らると話してゐた。近来見物人も減じたが五高、医専の生徒が会話の稽古に垣覗きをやるので警官は追のけに忙しいが、俘虜には所員外との会話を厳禁し、若し犯す者は

 ▲陸軍法規で処罰

すると共に、相手の人をも処罰することになってゐるので五高、医専の校長に対し警告方を依頼したといふ。例の阿弥陀寺の俘虜ベンケイを初め四五の者に細君其他から贈物が到着し、皆々独逸の香のある品物で嬉し嬉しと悦んでゐる。一昨夜第四回目として到着せし俘虜将校は予備少尉ハインリッヒ・シュタインプリユックと後備少尉ウイルヘム・ピ−スタ−の二人で、九十三名は病名不明の病気で、細工町の隔離病舎に収容され、門司上陸の際墜落負傷した一人は直に衛戍病院に入院されたり。昨日は俘虜将校ペリシュマン大尉の誕生日なので松木所長は

 ▲菊の鉢植を贈 ったが、大悦び部屋中を見せビラかして、今日は私の誕生日だと俘虜の身を忘れて大ニコニコなり。

 

<大正3年11月24日/3面>

●見物に出て悪事 熊本県天草郡志垣村山下儀三郎(二八)は俘虜見物の為め十八日夜熊本に来り。市外春日町字久末木賃宿角屋に投宿し、翌日夕刻四十五銭の宿銭を支払ふため一円札を渡すと、宿の老婆が此れは五円札ですなアと云ひつヽ受取り、四円五十銭の剰余銭を出したるを、儀三郎は一時の迷ひ心より、ウム五円札だと答へつヽそれを受取り、其足にて二本木遊廓東洋楼に揚がり、濱子を買ひ三円余を費消したること露見し、春日署の檻房に捕虜となれり。

 

<大正3年11月25日/3面>

 俘虜雑記  誕生日の祝ひ

▲俘虜の誕生日 熊本俘虜収容所では一昨夜、収容将校中の古参大尉ペリシュマンの誕生日なので、所長松木少佐寄贈の菊花の鉢を中央の卓上に置いて、将校三十五名がペ大尉を取巻いて彼方此方から祝辞の雨をあびせた。将校連が思ひ思ひに何か知ら一品宛を贈って彼の健康を祝する。卓上には缶詰や果物やが並んで、麦酒の瓶がズラリと空になった八時頃から話の花が満開となり、互に嬉々として一夜を過ごし、彼等娯楽の唯一たるトランプも始まり物産館の一夜は収容後初めて華やかであった。

▲将校の俸給 俘虜将校には其階級に応じて月給を支給することになってゐるが、来月初旬日本将校の給料額に依って支給する手筈である。而し同じ大尉にしても日本では四給に区分してあるが、之れは陸軍の規則に依り俘虜大尉には最下級たる四給俸に依て支給される事になってゐるが、下士以下には給料は渡らない。而し彼等は相応に小使銭を持ってゐるから鐚一文もないものは極少数である相だが、下士以下には不日新らしい仕立卸しの襟衣からズボン下、靴、足袋などを支給するから別に彼等も大した不自由はなからふ。

▲書信は知己だけ 彼等が日毎に差出す書信は電報は随分沢山あるが、悉く妻女か肉親か又は友人抔に宛たものヽみで、又来信のものも此種のが多く神戸にあるシ−メンス会社からも少しは来るといふ。而し福岡に来てゐるワ総督に対しても、ワ総督からも更に音信がない。日本人の考へではワ総督は俘虜に対して何とか訓令めいたものでも寄越しさうであり、又俘虜連中も総督に御機嫌伺ひ位はしさうだが、夫等の事もなければ独逸政府などに安着を打電する者もない。日本人に較べると此点は余程不思議だと収容所員は語ってゐた。

 

<大正3年11月26日/3面>

 俘虜雑記  肥後相撲館の菊人形を見物す

▲俘虜来らず 廿五日着熊の筈なりし第五回熊本収容の俘虜は、都合により来熊延期となりしため、受領将校も昨日門司より引返せり。次回到着期は不明なり。

▲各地より電報 着熊以来本国或は神戸、横浜等より将校連に打電するもの頗る多く、一昨日一日にて坪井局に納入せし電報料のみにて三百二円あり。グロ−カ−が恋女房に打電した米国経由の電報など二十一文字で五十二円を払ひ、返事は何時来ますと考へ込んだなどもあれど、郵便局や収容所にては百円札などをドシドシ出されるので取扱ひに閉口してる由なり。

▲見舞金七千円 一昨日シ−メンスシュッケルト会社支配人ドレンクハ−ン氏より俘虜一同に金七千円を送り越し、其分配法まで規定して松木所長に依頼し来りし由にて、不日各収容所を調査して分配に着手する筈。

▲将校連の満足 俘虜将校連中は物産館で日本の諸商品を見物し、武徳殿裏白河の眺めに飽き昨日は又、菊見物から市内の見物に回り優遇に大満足だが、只日本煙草が柔らかくて飽足らぬ。独逸煙草が喫いたいとホロホロ贅を並べ、酒保を困らせ初めたり。

▲日本菊日本菊  相撲館の菊見物

熊本収容の俘虜は昨日、肥後相撲館の菊人形見物に出掛けたり。午前九時より下士以下百六十七名、午後二時より将校三十六名とが日本菊日本菊と大喜びに半日を消したり。同館玄関の大鉢に咲きこぼるヽ大輪に先づ驚き、菊人形牛に牽かれて善光寺詣りを見ては、判ったやうな判らぬやうな首を傾けて通訳の話を聞き、花は美しい、人形はよいと却々にお世辞沢山なり。加藤清正虎退治に日本古代の武器を驚き、日本に虎が居るかと奇問を発し、最終五段返し花の段となり、岐阜提灯に桜花が頭上に降り、百花爛漫電燈飾の元禄踊りとなるや珍客一同拍手喝采。中には長崎の遊廓を私語き吉原吉原とつぶやくもあり。得も云へぬ嬉さの笑を湛へ居たり。同館を出でし下士以下は世界館をキネマトグラフと聞き、欧州戦乱の絵看板を指し頻に喋り立て廿三連隊前を過ぎ桜町を経て横手方面に帰る途中、熊本城を指してはキヨマサと叫び、監督将校より清正は鬼将軍といひ日本にては其名を聞いても泣児が泣き止むと聞き、独逸にもソンな巨人が居た。二千年計りも以前の人で、チフリ−といふ将軍だったなどと語り居りたり。

 ▲花岡山に登る

肥後相撲館を見物した下士以下百六十七名の俘虜は横手村の第二収容所に帰らんとせしが、一同花岡山の美しき山容を見て是非連れて行って呉れとセガミ出し、引率将校足立中尉も遂に花岡山見物を許し地獄坂より登り、櫨紅葉や蜜柑に喜び官軍墓地を見ては忠君愛国の大和魂を不思議がり、頂上鐘掛松が加藤清正に因縁ありと聞き、アノ熊本城を築いた日本のチスリ−将軍かと反問し、有明海が山間に光り、熊本市よりスット開けし一帯の展望、さては阿蘇の煙を見て阿蘇山阿蘇山と連呼しつヽ観光団ともいひ相に喜々として午後一時頃横手の収容所に帰り行けり。

 

<大正3年11月26日/6面>

 俘虜を慕ふ家族  来月初旬来熊

北京天津に在住せる独逸人中、同棲を許されし俘虜の家族十数名は十二月二日太沽発淡路丸にて来朝する由なるが、其中にはワルデック総督夫人も加はり居れる由にて長崎着は同五日、門司六日、神戸七日の予定なるが俘虜は熊本、久留米、福岡、東京、名古屋、大阪等に分れて収容され居る事とて、是等家族の上陸地も一定せざるべく、ワルデック総督夫人は長崎より上陸し陸路、福岡に収容中なる総督の許に到るべしといふ。尚上海、天津其他に在留せる独逸人は仮令一兵卒たりとも俘虜の氏名を知らん事を望んで巳まず。一人の氏名を知らんために、上海より米国の大使館へ数回電報を往復せしものさへありと。

 

<大正3年11月27日/3面>

 俘虜雑記  金銭に不自由

▲最上官は少佐 十五日より二十日迄熊本収容所に収容せる俘虜は総計四百九十二名にて、将校中の最上官は海軍少佐相当官二名あり。文官としては総督府通訳官一名あるのみにて、其階級別人員は一昨日陸軍省に報告せりと。

▲七千円と貸付 ベリシュマン宛シ−メンス会社よりの送金七千円分配に就ては将校には同会社より指定しあるも、其以外の人に対しては随時貸与されたしとありしを以てベリシュマン大尉は昨日、渡辺大尉其他俘虜将校四五と共に第一、第二両派出所を巡り、下士以下には十円乃至五十円を貸与すべく希望人員を調査したり。

▲妻女同棲希望 将校中には妻女と同棲を希望するもの一二あり。昨日も松木所長に同棲し得るものなりや否やを尋ね来りしものあるも、同棲許可の件は所長の権限にあらず、陸軍大臣の認可を得ざるべからざるを以て許否は不明なるも、熊本収容俘虜より正式に出願せるものなしと。

▲寄贈金品多し 寄贈品及び妻女等よりの送金は日に増し増加し、シ−メンス会社より古雑誌二箱を寄贈し来り。又アンドレ−宛書籍と雑誌とを送り来れるあり。横浜ラングフェルト商会より黒パンを送付し来る等寄贈品多し。

▲無一文の俘虜 下士以下にては一銭の所持金もなく日用品等に困り居るものあり。幸にシ−メンス会社より送金ありしを以て、当分は不自由なかるべきも遠からず困窮するに至るべく、俘虜労役規定によりて彼等の希望に依り、労役に服せしむる方法あるも、言語の通ぜざると労銀の懸隔とありて露国俘虜の労役にも失敗せし事あるを以て、将来如何にすべきかと某氏は語り居れり。

 

<大正3年11月28日/3面>

 俘虜雑記  酒保俄に繁盛

▲高麗門の俘虜 高麗門俘虜収容所の酒保にては開業以来、一日の売上高五十円乃至六十円に及んで居たるが、此頃滅切り減少し僅かに三十円内外に過ぎず、坐ろに俘虜の懐中の寒さを偲ばしめたるが、一昨日は例のシ−メンス会社よりの寄贈金の分配ありしより奴さん達大喜びにてパンを買ふやら林檎を買ふやら、間には好きのビ−ルを買ふやら酒保は忽ち大景気を呈し、売上高百五十円余に及びしが夜は其の元気にて夜会を催し、バイオリンを弾き箱を敲いて舞踏をなし更深くる迄賑合ひたり。

▲牛乳の密売 熊本市外横手村字寺領の牛乳屋は雇人をして牛乳瓶を袋に入れ、高麗門の俘虜に対し密売せしめ居たる処を春日警察署の警官に認められ大目玉の上、告発せらる。

 

<大正3年12月1日/3面>

 俘虜の太平楽  ソロソロ贅沢の虫が動き出す

熊本に収容された俘虜中先着連は既に半月を経過し、各収容所の模様も分り何れも大安心の体で落付き払ひ、日々シ−メンス会社等より寄贈さるヽ食料、書籍又は金銭にて物憂かるべき俘虜生活も半を観光団といふ調子にて日を送ってゐる。将校連には之等の贈物が更に多いので今迄堅く封じ込んでゐた贅沢の虫が鳴き出し、日本製パンは堅くて不味くて食へず、シ−メンスから送って呉れる黒パンは香料や味料が入ってゐるので、迚も比較にならぬ。日本人に少し食はせて見たいものだと太平楽を並べてゐる矢先、シ−メンスの支配人ハンス・ドレンクハ−ンからハンス・アンドレ−海軍大尉宛に将校下士用として毎日パンは送ってやる。十二月からは毎週、各種の牛酪扨は食用、料理用のマルガリンや牛酪を送るが、之れは日本及支那在住の独逸人の寄贈として差上げる。殊に将校には葉巻煙草、珈琲、茶、ハム、葡萄酒、ラム酒、火酒を送る。之れ丈は平和克服後に代金を頂戴したい。書籍も送る、金も要求次第貸しますなど、頗る沢山な棚ボタの通知があったので一層贅沢に傾き初めて、松木所長は火酒は許可せぬと達したが而も其他の総てが彼等の大好物とあるのでホクホクして待焦れてゐる。コウなったので彼等も気強くなったと見えて、従来支給された六十銭の料理はマヅくて食へぬから一日一円の賄にして呉れ。金に糸目はないとせがみ出し、細君呼寄せは何時から許可するか。金は沢山あるから五千円位な処なら一軒借りても新築してもよい。早く細君呼寄せを許して呉れ。細君が来て同棲したら、我々が逃走せぬといふ堅い証拠となるではないかと、俘虜の身を忘れて呑気な理屈を云うてゐる。此贅沢も穴勝無理でもなからう。東亜コカイン会社の支配人もあれば、シ−メンス事件の弁護士フォ−クトも居る。其他目下俘虜中の会計一切を握ってゐるビ−バ−中尉などは漢堡のコ−ヒ−一手販売店主で、家には巨万の富を有し彼の新婚旅行は日本にした。アノ時は愉快でした。横浜東京日光から箱根の湯治は勿論、京都奈良広島なんど日本の風景は一つ残さず見て回ったと、先づ冒頭してボツボツ細君の恍惚を初むる事猛烈なのもある。

 ▲混血児ヘルムの愛人  青柳久子の手紙

寺に収容されてゐる下士で混血児のウイルヘルム・ヘルム(一七)といふ先生は母が日本人で、十二歳の時に死別れたとあって日本語の方が独語よりも達者である。従って収容所では非常に調法がられてゐるが、此先生は夢現も忘られぬといふ愛人がある。名は青柳久子といひ、根気よく激しく手紙を寄越す。而かも水茎の跡麗はしい英字の手紙である。貴方が俘虜となられたのを聞いて一度は悲しんだが、御無事であると判っては飛立つ程嬉しく、遥に神戸の空より天帝に貴方に代って感謝の祈を捧げました。貴方はいづれ神戸か大阪、扨は東京辺に収容される事と思って妾は一心に貴方に御目にかヽる時機を覗ってゐました。夫れも水の泡に帰し、海山遠き熊本に……テナ検閲官を凹ませる文句が多い。其文句なり美事な筆跡などから見ると、孰れ高等女学校卒業位な妙齢だらうといふ。尚此のヘルム君は西光寺に収容さるヽと忽ち、ア此処で芸者を上げて騒いだら面白からうと日本通を振舞ひたといふ。金はあるなり、暇ではあり、毎日コウ云ふ手紙の着発で係員は夜も十時より早く帰った事はない相だ。

 ▲金には困らぬ将校連  百円札をポンポン投げ出す

シ−メンス会社から送って来た七千円の金は二三日前、襯衣三百五十、クリ−ム六十、靴足袋幾何なんどに沢山な買物をしたので総計三千五百円は収容所内の酒保で忽ち費消され、又下士以下にも百円札などが渡されたので酒保では百円札の札攻めに逢ひ両替すべき資金がない。只塩山小間物店のみが機敏に小銭を銀行から引出したので、同店のみが俘虜クンに満足させた。此日俘虜先生にコンミッション事件が起った。と云ふのは百円札を振回しても酒保で受切れないから、待焦れた品物を片手にチ−チ−パア−パア−をやって見ても我物とされないモドかしさは百円札の両替が初まった。而し利に敏い彼等は、ウン好し好しとスグ札と銀貨を交換しない。オイ一円寄越せ、一円五十銭の両替料を出せと遂に、此両替のコンミッションが百円に対し二円とまで糶上げられた。昨今俘虜連への送金は一日五百円以上に達してゐるから、俘虜連の大部分は福々としてゐる。従って金使の荒い例の弁護士法学士フォ−クト君などは非常な日本通だけに、塩山呉服店に絹の綿入寝巻と日本式の蒲団とを注文した。先日物産館陳列場見物の時、藁蒲団はガサガサ音がして寝心地が悪いからとて坐蒲団を買込んで寝台の上に敷いてゐる。コレが絹の座蒲団だったら…と残念がってゐる。□して彼等は、日本の衣服は寝巻としては世界中無比のものだ。朝起きると化粧するのに頗る便利で、寝心地もよいと大ホメでゐる。殊に昨今の寒気で彼等はスト−ブを欲がって頻りに請求する相だが、之れも物産館陳列場見物の際買入れた紫檀や桐の上等火鉢を居室に持込み、灰も入れず□銅の上から火を容れて平気で居るのもあったが、上等の花魁火鉢=我々だったら艶布巾で拭上げるやうな火鉢を靴の儘ガツンと踏付けて日本火鉢暖い暖いと澄ましてゐる。而し此為めに係員が大いに困るのは彼等は自宅でも兵営でも石造か煉瓦造で陶器の床であるから、火の用心といふ観念は皆無といふ位であるが収容所は茣蓙敷か畳敷だから就眠前、火鉢を廊下に放り出すとか煙草を畳の上に捨てヽ火を何とも思ってゐない事だといふ。何せ、近来の俘虜君は贅沢に傾いて来たといふ。

 

<大正3年12月1日/3面>

 俘虜雑記  約二百名到着

▲九州各地満員 福岡、久留米の両収容所は既に満員とありしが、昨夜到着の分にて既に総員七百八十六名となり、指定人員将校五十、下士卒六百を超過すること百三十六人となり満員以上となりしが、此超過分は凱旋結了後他に移さるヽならんと。

▲所員専任任命 松木少佐、渡辺大尉、濱田・足立両中尉、竹内主計以下の熊本収容所員は二十八日熊本収容所付仰付られ、連隊に於ける歩兵連隊の兼勤を解かれたるが各員の補充は当分欠員の儘にし置く由なり。当松木所長は正六位に昇叙されたり。

▲自炊許可期 俘虜の自炊を許すべき時期は不明なるも、収容人員確定後俘虜全部の国籍軍属等を調査し同郷、同人種又は同階級等に区分して一室或は一ヶ所に収容さる事とし、其上には自炊を許可する由。

 ▲荷物沢山携帯  昨夜着の俘虜

昨夜十時四十分廿三連隊丸山中尉監督の下に熊本駅にて、熊本収容所に収容されたる俘虜は将校十九名、下士以下百七十七名なるが青島在留期の永かりし為めか荷物山の如くあり。従来の連中は各自其荷物を昇つぎたるも、今回は十二台の車に満載して□々と細工町を行き行き、将校と其従卒は物産館に入り珍客の珍輸送は却々の見物なりき。

 

<大正3年12月3日/3面>

 俘虜雑記  新来の華族俘虜

▲師団長巡視 梅澤第六師団長は本日午前十時より師団幕僚を随へ熊本俘虜収容所を視察し、更に物産館将校収容所を初め市外横手、市内細工町の各出張所を巡視する筈。

▲新来の華族 三十日収容されたる十八名の将校中にはフォン(華族)に属する者三名あり。殊に支那税関官吏たりし伯爵カインス・プラシュマといふ予備中尉あり。尚青島警察署長、同測候所長等ある外、明治天皇の侍医ベルツ博士と共に同じく侍医の栄職にありし故スクリッバ氏の次男予備少尉エミ−ル・スクリッバなども収容され居れり。

▲巡査と衛兵 俘虜将校の外出には必ず衛兵を付する規定なるも、独逸は階級制度頗る厳重にて将校を兵卒にて護衛するを最も嫌がり、自由散歩が出来ずば日本将校か又は通訳を付けて呉れ。尚イケずば巡査を付けて呉れと強請する。多忙な収容所員は之れに応ずる訳に行かず、然らば希望に依り巡査を随行さすべきも、日本の巡査は犯人を護衛する者ぞと余りの強請に冗談半分に話すと、イヤ夫れは大切大切と遂に外出を思ひ止まりしと。

▲若き女の手紙 ウイルヘルム・ヘルム宛の美人の手紙は嘗て紹介せしが、昨今は色男此一人のもならず収容所検閲係の机上には日本の女文字の手紙却々多く神戸……春山八重子といふもあり。又は厚く封じた中より伊予松山市……尾上花子様御許へと自署した封筒五六枚を入れ、妾への手紙はコウして出して下さいと鼻持ならぬ文句の裾に書添へたのなどありて、検閲係の机上何とやら物騒な気分に充てり。

 

<大正3年12月4日/3面>

 俘虜雑記  総員七百八十六

          梅澤師団長巡視

▲車五台の荷 熊本収容の俘虜は総数七百八十六人となり、愈之れで珍客来の終りとなりしが、連中が青島に残してあった荷物の輸送し来ること頗る夥しく、昨朝は荷車五台に満載して収容所に到着したり。所員は之れを解装して一々検査の後、荷主に引渡す事とて又忙しき一仕事が殖えたり。

▲一人で十四通 発信受信共に日を経るに従って増加し係員は滅法忙しい様子なるが、チンメルマンといふ男に昨日十四通の手紙が来た相にて、一日少くも百に及ぶといふ。

▲俘虜配属区分 七百八十六名の俘虜中将校五十五名、准士官十一名、下士百六十六名、卒五百五十四名だが、之を収容所別に区分すると物産館陸軍将校四十一名、海軍将校十三名、文官一名、卒四十八名で、内墺国海軍兵が二名、義勇兵一名あり。長国寺は陸軍下士二十七名、卒七十一名、正立寺同下士二名、海軍下士八名、卒は陸軍二十名、海軍十九名、禅定寺にては海軍下士十名、卒五十名、妙立寺陸軍下士九名、海軍十名、兵卒四十八名、妙永寺海軍下士三名、陸軍下士七名、海軍卒三十七名、實成寺陸軍下士一名、海軍下士六名、陸軍卒十五名、海軍十四名、西光寺准士官海軍十一名、陸軍下士五十名、海軍下士七名、陸軍卒七十一名、海軍卒八十三名あり。又阿弥陀寺には陸軍下士二十四名、海軍下士九名、陸軍卒三十六名、海軍卒三十九名なり。

▲師団長の巡視 既報の如く昨日午前十時より梅澤師団長は幕僚を随へ、岡澤旅団長も旅団副官と共に物産館内の収容所を視察し、各室に静粛に控へ居る俘虜将校を訪ひ無聊なるべしと慰問し、午後一時よりは横手、細工町の出張所を視察したり。

 

<大正3年12月4日/3面>

■俘虜の手招き

三日午前十時ごろ物産館の俘虜将校の従卒二名が、東側の矢来の中から□病予防事務所の方を眺めながら、手真似をしたり笑ったりして頻りに嬉しがってゐる。□かと見れば予防事務所の窓口の白衣姿の女助手が五六人、俘虜の方を眺めてキャッキャッ笑ひながら向うで手真似をすれば此方でも手真似をする。俘虜が頬ッぺたを叩いて見すれば、此方では頭を叩いて見せる。奴さん、いよいよ悦に入ってゐるところを巡視中の日本将校が発見し、「誰だツ」と一喝したので二人の将校は予防事務所の方を見返り見返り、二三度手招きをして見せ、室内に這入った。

 

<大正3年12月5日/3面>

 俘虜の母語る

最近熊本に送られた俘虜中曾て東京帝国大学に教鞭を執り、我が医学界に多大の貢献をなしたる故スクリッバ博士の子息エレ−・スクリッバ(二五)が予備小尉として加はってゐることは報道したが、東京麹町区平河町の故博士生前の邸に住む実母スクリッバやす子 (五八)は流石に親心の包み切れぬ嬉さを湛へて語るやう。「実は私共へも三十日の夕刻、門司の発信で港務部の福田といふ人から『御令息、只今無事到着。これから熊本へ行く』と云ふ、至って簡単な電報が参りましたので、初めて俘虜となって来たのを知ったのです。同人は一昨年伯林郊外のポツダムの士官学校を卒業すると共に伯林の近衛連隊に勤務して居ましたが、昨年春病気に罹り非常に衰弱しましたので、八月初め保養旁々日本に参り、それ以来引続いて滞在してゐます中、本年七月召集されて俄に青島へ参りました儘何等の便りもありませんので安否如何と気遣ってゐたのですが今回、俘虜として日本に参ったと云ふ知らせを得て漸く安心しました。私の方からも折返して電報を出したいと思ひますが、何処へ宛て宜いのやら分り兼ねるので其儘にしてゐますが、何れその中詳しい便りを寄越すことだらうと、それのみ待って居ます」と。(東京発)

 

<大正3年12月6日/3面>

 ●俘虜等水前寺へ繰込む 六百五十余名外出

熊本の俘虜は昨日午前九時より午後にわたり下士以下の連中六百余名、将校連五十余名渡辺大尉、浜田・足立両中尉以下に導かれて水前寺見物に出掛けたり。十数日前に菊見から花岡山に登って俘虜として柄になき愉快を尽した。以来雨に鎮され寒気に悩んだを、余り寒からぬ日に

▲水前寺見物 と来たので彼等の喜びは素敵なものにて、お寺住居から鳥居を潜る神社へのお詣り。トリヰトリヰと先驚き、ズット進んで池畔に出ると美しい築山を廻る。美しい水面かも目馴ぬ日本式の築山。ヤアヤアと歓声を発して居る。石橋に集まった連中は緋鯉真鯉さては家鴨の泳ぐを見て、珍らしさうに爪ぐって居た麸を教へられて投り込むがあり。パクリと飛び出る鯉を眺めつヽ、奇声を放って喝采する。鳥居の説明に係員を弱らせ、水に入りたい、魚を捕へたいとだだ駄々を捏ね、護全公の銅像を仰いで説明を聞く内、日本公園に鉄条網がある抔と目をミハり

▲芝生に足を投出 して日向ボッコに楽さうな物語をするがあるかと見れば、例の新婚旅行で日本の各地を巡遊したビ−、バ−などは、規模は小さいが巧に出来てる抔批判を試みる。池辺を一周して茶屋の前に来ると、椅子に腰を卸して餅を摘んで見るもあれば、絵葉書を買込むもあり。中には細君を同伴したらと愚痴るやら贅やらを並べるありて人さまざま嬉しき楽き外出の数時間を送りて帰所したり。

 

<大正3年12月11日/3面>

 俘虜大尉の悲嘆

物産館に収容の海軍大尉コッポの細君は只一人の愛児と共に北京にあり。明け暮れ異郷の空に囚はれの身となれる夫の身を案じつヽありしに、此程右の愛児を喪ひ、悲嘆は更に悲嘆を生ん□身も世もあらざるまヽに先日来夫に書をいだし、自身も近く熊本に参るべしとの旨を申送れるが、此方はコッポも愛児の逝去を聞きたる時は一時暗涙に暮れ居たりといふ。尚奈良歩兵五十六連隊附見学将校たりしガホルの細君は目下、神戸東亜ホテルに在るが同女も近々中来熊すべしとの噂あり。

 

<大正3年12月14日/3面>

 俘虜大尉の妻が熊本に来た  恋しき夫にくさぐさのお土産熊本俘虜収容所に収容中なる歩兵大尉コックの妻ヘルナ−・コップは敵国に捕はれの身となれる夫の身の上を打案じては流石に女心の矢も楯も溜まらず、一時も早く恋しき夫に面会して積もる思ひを語らんと準備も匆々に九日、北京出発。朝鮮を経て釜山港より桜丸に搭乗、一昨夜下関に上陸。山陽ホテルに一泊の上、昨朝熊本に向ひ午後三時過ぎ上熊本駅着。同駅に出迎ひの五高教師、同国人ピッドナ−氏とともに停車場より腕車を雇ひ人目を憚かる風情にて、熊本市外黒髪村小松原なるピットナ−氏の宅に入れり。繊弱き女の只一人心細くも遙々と夫の許を訪ね来りし事なれば、身敵国にゐて何れは同じ思ひの同胞ピットナ−氏は同女に深く同情を寄せ、昨日到着の際は互に飛立つ思ひにて涙の中に堅き握手を交換したるが、コップの妻は今年二十六才、眼涼しき美人にて至極壮健らしき体にて「最初夫が捕虜として送られたる際は、日本で何んな待遇を受けるかと夫れのみ心配してゐましたが、後で聞けばワルデック総督始め日本に来てゐる俘虜は凡て手厚き待遇を受け何不自由なく暮らして居ると聞き、始めて安心しました。陸軍大臣よりは未だ夫と面会の許可は得て居ませんが、何うとかして夫と面会が出来る方法があったら当分、当地へ滞在する積でゐます。私が今日山陽ホテルを出る時には福岡収容所の歩兵大尉タルタン夫人が同ホテルに残って居ましたが、此人も陸軍大臣から夫と面会の許可がありません」「噂に聞けば熊本の収容所は荒い垣を結ってあり、外面から内部の様子が見えるさうですから、垣越しにでも面会が出来るかも知れぬと思ひ熊本まで飛んで来た次第であります」と語り居たり。

因に同女は到着後、旅装を解く間くなく小形編籠に菓子果物等を詰めたる手土産に安着の手紙を添へ、車夫をして物産館内なる夫の許に送り届たり。

 

<大正3年12月15日/3面>

 矢来越しの夫婦体面  熊本俘虜収容所の悲劇

            ヘルナ−地上に泣伏す

別項コップ大尉の妻ヘルナ−はヴヰツナ−氏は同道、昨日午後三時物産館に赴き俘虜収容所長松木少佐に対し良人に面会を願出で、陸軍大臣の許可なき中は面会を許可すること能はずと膠なく刎つけられたるにも拘らず、一分間にても宜いから貴官のお情にて面会を許してくれと少佐の腕に縋りついて少佐が訳をいって聞かするを耳にも入れず、是非是非遇はしてと狂ひ回るを同行のヴヰツナ−氏漸くに宥め賺して事務所より連出し、門外に待たせたる俥に乗せる時、つと竹矢来の中を逍遙する俘虜を見るやヴ氏の手を振切て矢来の側に駆け寄り手巾を打振りつヽ良人の名を呼び、やがてヘレナ−の来たりしことを俘虜の兵卒より聞き、走せ来たれる良人大尉は恋しき妻の姿が目に入るや、我れを忘れて進み寄り矢来の内と外よりなつかしき握手を交換せんと人目も憚らず矢来に寄添ふ処に番卒来たりて大尉を拉し遠ざけたれば、ヘルナ−は声を揚げて地上に泣き伏し、ヴ氏が抱き起して帰宅を勧めたるも聞入れず、此の矢来の垣一重踏破っても良人に遇はんと狂気の如く。此態を見て番卒二名駆け来たり、門外に連出し俥に乗せ帰宅せしめたるが、付近は人の山を築きたり。

 熊本に来た俘虜の妻  愛児に死なれて嘆き悲しむ

熊本物産館に収容の俘虜海軍大尉コップの妻ヘルナ−が一昨夕着熊、熊本市外小松原五高教師独逸人ヴヰツナ−氏方に滞在せる事は既報せしが、是より先同女は夫と共に独逸ウエデル河口なるウエルヘルムス・ハ−ベン軍港にあり。千九百十三年の正月コップが東洋艦隊附を命ぜらるヽと同時に共に青島に来り同棲中、今回の日独の国交破るヽや開戦に先立ち妻は倉皇として尚年二才の愛児を抱き難を北京に避けおるが、青島開城と同時に夫は我軍に捕はれ敵国へ送らるヽ事となりたれば人知れず憂ひの淵にしづみ居たるに、偶十一月下旬愛児を喪ひ嘆きは更に加はり北京に居据る心地もせず、遂に意を決して態々夫を訪ね来りし者なりと。

 ▲ベ中尉の妻も熊本へ  後を慕うて来る

又熊本に収容中の墺国軍艦カイゼリン・エリザベス号乗組員にして副艦長ドラッヘルタ−ル少佐の副官なるベルスタイン中尉の妻は夫が我国に俘虜となれりと聞き上海より筑後丸に乗じて十二日朝神戸に着し、夫の所在を捜す為め直ちに姫路に赴き米国宣教師ブリフス氏を煩はして俘虜収容所に前記タ−ル副艦長を訪ひしに、夫中尉は熊本に収容され健在すと聞き勇んで今日にも熊本に赴かんと心は焦れど荷物は総て横浜揚となしあるを以て十三日午前十時、再び神戸より筑後丸に乗船。横浜に向ひ荷物の受取を了し、直に熊本に来る筈なるが同女の夫ベルスタインは過日記載したるが如く墺国の画家にして風光優雅なる日本に憧憬れ、筆を携へて昨年六月我国に来り、まづ日光の奥に幽居して絵筆に親しみしが八月下旬端なく日独開戦となり、夫は急に墺国海軍の召集に応じカイゼリン・エリザベスに乗組み、自分は青島野戦病院の看護婦として働く中、総攻撃の一夜エリザベス号は爆沈し夫は青島陥落と共に我国に俘虜として収容さるヽに至り、彼の女は戦後青島に在りて夫の身の上を案じ暮し、遂に意を決して上海より乗船せるなりと。

 

 ●俘虜の活動写真見物  恋愛物に大喝采

熊本収容の俘虜(将校を除く)約六百名は昨日午後二時より渡辺大尉引率の下に世界館観覧の恩典に接したが、館主側では気轉を利かして西洋物では独逸に近い墺太利劇ブラグの大学生を出し、日本物では武勇の鎮西八郎為朝を映写したが、全く説明入らずの無言写真といふ珍な行方。夫でもブラグの大学生では大要を悟り、人情は変らぬもの、件の大学生が或る婦人と甘い恋を囁く処なぞ大喝采。滑稽物のジャカタラの初恋には笑ひ崩れてお手拍子、鎮西八郎で武士が刀や槍で切り合ふ件、白縫姫の奮闘振りは一様に驚異の眼を腔って居たが、為朝が引張って出た馬が所謂芝居の作馬で怪しな格構なので、「ジャパニス、ベルド、ゼマ−、インテルソント」(日本の馬却々面白い)と、ふふ……と笑ひ崩れた。

 

 ●温泉結構結構  俘虜将校の喜び

熊本収容所に収容中の俘虜は予定人員を超過し居たるを以て十三日、将校十名、下士三十二名、兵卒九十三名、合計百三十五名を大分に輸送したるが、彼等は今度は温泉地に行くか結構々々と嬉々として同地に向ひたり。将校側には其の前夕、形ばかりの送別の宴を張れり。転送者将校は左の如し。

 ウエラル少佐、ウエルゼル大尉、ワルタ−中尉、シットベルク中尉、サエンスト少尉、 カウダマン獣医、リ−デル少尉、キイジガス少尉、トライヤ海軍大尉、ハラスハミゲン 海軍中尉

 

<大正3年12月16日/3面「はなしのたね」欄>

 はなしのたね

昨日の物産館は雨傘持参の有象無象がいつもの三倍もあって、竹矢来の周囲は山のやうな人だかり ▲俘虜の女房が来たというぢゃないか。泣いて矢来にしがみついた所はどの辺だらうと口々に女の噂をして居る。けふの人出は其の女の見物らしい ▲ところがいつまで待っても女が来ないので、中には待疲れて帰たものもあったが、朝から午后二時頃迄根気能く矢来の側に立ち通して居た者が多かった ▲折角はるばるたづねて来て遇はれぬとあっては、その女が泣て地上に倒れたも無理はないと年増女が涙ぐんで同情する ▲私なら夜中にソッと矢来を越して遇って見せると宿屋の女中らしい女が朋輩に囁いてゐるのを小耳に挟んだ四十男、若し番兵に見つかって剣の先に芋さしにされたらどうすると水を向けたが、女は取り合はなかった ▲学生らしいのが両三名、その生きた悲劇を見なかったのが残念だと口惜がれば、商人体の男はハタノ俘虜達がさぞヤケたらうと十人十色、昨日の物産館はこの沙汰で持切って居った。

 

<大正3年12月16日/6面>

 ●総督夫人と北京に避難せる頃

       来熊したる俘虜コップ大尉の妻の談

▲青島を引揚げ たのが日独国交断絶の前日、即ち八月廿二日。ワルデック総督夫人、カイゼル少佐夫人と私は最後の引揚者として総督其他の海陸将校連の見送りを受け、涙の中に青島を出発致しました。北京に着くと大使館の人達が数多迎へに来て、当分大使の宅に滞在して、後に私達三人だけ大使館の近所に家を持つことになりました。総督夫人には子供三人の外に総督の母堂が居られ、又カイゼル夫人にも一人の子供があります。北京に引揚げてから青島の消息は

▲無線電信に よって大体を知ることが出来、銘々の書簡は一纏めにして北京と青島から間牒を使って秘密の裡に往復をして居たのが、日本軍が巫山姑山の線に前進した以来ハタと止まって了った。多分途中にて日本軍に差押へられたに違ひないと思って一時は発信を中止したが、お互良人の身の上が案じられる処から、万一の僥倖を頼みに一週一回宛手紙を出して居りました。

▲青島の陥落祝 は十一月二日頃から待って居たが八日、総督から日本軍の手を経て北京の独逸公使館に打った電報を見て始めて知りました。青島を出発の時、良人大尉が私に向って青島は適当の時期に於て開城することヽ思ふから心配するに及ばぬ。日本軍に捕はれて日本に送られたことが分ったら面会に来て呉れ。我々将校連は勝算なき戦争に生命を賭するの愚をなさぬと申して居りました。

▲総督夫人は 私が日本に来ることを聞いて、自分も一所に行きたいが老人や子供連れにては途中が思ひやられるのみならず、良人からの手紙にも自分の方からいうてやる迄は来るに及ばぬとのことに、旁出発を見合せて居ります。併し明年一月末迄には是非、日本に行くとのことで総督にいろいろと托言がありました。

▲総督が母に対す る孝行は実に感心の外なく、青島から総督夫人に手紙が一度来る間に母堂には三回来る。そして手紙にはなつかしい母上にお目に懸る時と場所が何処であらうと、私は母上が壮健でさへあって下さったら外には何等の希望もないといふやうなことや、又は母上のお好きであった盆栽は私の室に持って来て大事にして居ります。私は部下の将校夫人や小児に物を恵む時、必ず母上の名前を以て致しますと細かいこと迄一々、日記体に書きつけ何の書面を見ても

▲母を思ふ情の 現はれてない手紙はなく、総督の至孝には一同感心して居りました。私は五高教師ウヰツナ−氏とは知合の間柄でもあり、良人と同棲が出来る迄お宅にお世話になる積りで居ますが、其筋から絶対に面会も同棲も出来ないといふことになった場合は、熊本市内に家を借りて三年でも五年でも良人が許される迄滞在したいと思って居ります。▲北京に残て居 る将校夫人も独逸本国が戦乱の巷となって帰国する事が出来ず、早晩日本に来ることヽ思ひます。私は最初日本に来る時、日本人から侮辱を与へられはせぬかと心配して居りましたが、上陸して全く取越苦労であったことが分り非常に嬉しく、こんなことなら早く来れば好かったとウヰツナ−氏と大笑ひをいたしました。

 

<大正3年12月18日/3面>

 ●俘虜等の作業  露国人より従順

熊本収容中の俘虜へ運動機械としてシ−メンス会社よりテニス道具を寄贈されたるもネットなくて用を為さず、収容所よりはクロッケ−八人用のを一組買うて与へる事となれり。其他シ−メンス会社よりリンゴ十三箱、古着類など送越したれば今明日中に

▲破れ衣裳の連中 に取換へてやる筈なり。尚数日前よりミシン機と靴の修繕機を給したるを以て俘虜中の本職の仕立屋、靴屋等に命じて修繕を許し居れるが、日露戦争の際姫路にて俘虜に職を授けたるに敵国の為めに仕事するは馬鹿々々しとて不平を唱へし由なるを、独逸俘虜は何事も云はず寧悦んで作業し居れり。将校収容所にては風呂の火焚きを

▲軍艦の火夫に命 じある事とて、巧に風呂焚きに熱心し居れりといふ。将校連はクリスマスの贈答品を買求めたしと請求し、シ−メンス会社其他よりも遠からず夫等の品を恵贈すると言ひ越したるもの多く、ボソボソ準備中なり。俘虜への面会人は既報コップの細君とホッフの妾との二人が面会相成らずと追返されしも、医学士田中秀介氏のみ

▲面会を許され メルク少尉と会談したるが、此人は伯林留学中メルクの宅に下宿し居りし縁故により、面識なきも只慰問の為めに来りし由。

 

 ●俘虜の稲荷詣  花岡山登山

熊本市外横手村に収容中の俘虜二百五十余名は昨日午後二時より足立中尉に引率されて市外高橋の□□□□詣りに出掛けたり。田崎の□□□□□では徒歩で行き、同所の軌道□□□□て郊外の冬を寒さうに眺めつヽ同所に達し、今覚えた計りのホヤホヤ言葉で稲荷さんと繰返しつヽ足立中尉に説明をセガみ、線香や灯明に煙る御穴を覗きては何やら奇妙な声を出して叫ぶもあり。山腹の穴を巡っては面白がり、遠くへ続く田圃を眺め打興じつヽ、午後四時頃帰途につきたり。尚細工町収容の連中二百余名も濱田中尉に導かれて花岡山見物に出掛けたり。

 

<大正3年12月19日/3面>

 ●俘虜と聖誕祭  買物の為外出

物産館収容中の俘虜将校は昨日、午後二時半よりクリスマス贈物用の買物にと渡辺大尉に引率されて出掛けたり。東京弁では熊本人は跣で逃出す程流暢な元侍医スクリバ−少尉は渡辺大尉を助けて通弁する。塩山鍬工場に練込んだ一同は、店一ぱいに拡がってベラベラの大饒舌。先づ

▲象や犬又は 猫などの玩具を買ひ子供が悦ぶだらうと悦に入ってゐるがあるかと見れば、羽子板に羽根を添へて之れはコウする者だと聞き、大喜びで押絵上等なのを買込み北京の娘に贈るのだと早速銀貨を掴み出す。其内に一同ドヤドヤと引上げて上通町は美しい洋服の連中に埋まる。見物の男女が之に続く。赤星呉服店では友禅を買ふて、之は妻に贈らうといふがあり。小間物屋、呉服屋、玩具屋と

▲軒別に訪づれ て、手取本町の我社前へと雪崩れ来る。社前の佐野成章堂に入っては印類を捻回して大にペラ付く。マルタ号で銭入一箇を買ふてゐる内、渡辺大尉がやって来てサア散歩だ、右へ行けと号令を掛け、憲兵本部の方へとドヤドヤと進む。同所の練兵場で新兵の教練を暫く眺めた連中は

▲千葉城跡に登 って熊本市街を瞰下しつヽ、今買ふた香筥や玩具の汽車などを出して、又改めて歓談する。約一間の散策を終って、一同ニコニコと引上げたり。

 

<大正3年12月25日/3面>

 ●俘虜のクリスマスの夜  鯉と鴨の料理

今廿五日は耶蘇降誕祭とて熊本に収容中の俘虜連中も数日前より降誕祭準備を始め、各地より寄贈し来る贈り物の整理を急ぎ居りしが、昨朝に至り収容所よりは樅の降誕樹を初め▲独逸の聖誕祭 には是非無くてはならぬ鯉と鵞鳥の料理用として、将校に対しては大鯉十匹と鵞鳥代用として鴨二十羽に蜜柑、カステ−ラにビ−ル一本を添へて贈り、下士以下には鴨、鰹、蜜柑、ビ−ル、カステ−ラとを与へ、更に下士以下には日本滞留の記念にさする為め日本特有の漆器の小箱、人形、籠付信玄袋とを六百五十一個取揃へ、各収容所より受取りに来た連中に分配し

▲皆々打寄りて 荷馬車に積み嬉々として立ち去りしが、ウルフ君など六七本ムキ出しにされたビ−ルを携へ、持て帰るより此処で呑んだら美味からうなど巫山戯るもあり。今日料理人として庖丁の切味を見せやうといふ炊事当番は鴨を眺め、鰹を受け取りては料理の計画を考へ居るあり。此男を捉へて、今日は充分に腕を見せて呉れと煙草一本贈賄したのもあり。十一時頃一同引取りしが、此日は平素の中食と夕食とを一度に中食に受取り

▲大いに平げて 降誕祭壇の装飾に着手し、夕食には之れ等の御馳走を料理して大に祝福する慣例にて、中食後は何の収容所も軍艦或は兵営にての料理人として腕前ある連中が料理に急ぎ大賑にて夕食となり、六時頃よりは下士は下士室に、下士以下は又其部屋に打集ひて装飾美々しき樅の木の下に集ひてビ−ルを呷り、降誕祭の

▲讃美歌を合唱 しつヽ、今日に限りて十二時迄点灯を許されし室に俘虜の身を忘れ、各自各人悉く数日前日本独逸人より寄贈されたる襦袢、袴下、ワイシャツ、上着などを着飾り、ビックリ箱や玩具の写真器など種々な玩具を並べ立て、或は手風琴、ハ−モニカなんどを持出して唄ひつ、興じつ夜を更かしたるが酒保静養軒、福栄堂、不二屋等よりも

▲寄贈品いろいろ あり、一同大喜びなりしが師団副官篠尾少佐、松木所長、渡辺大尉など各収容所を巡視したり。

 

<大正3年12月25日/3面>

 ●俘虜伯爵の愛児収容所に飛込む

             父子相抱いて熱涙に咽ぶ

熊本俘虜収容所渡辺大尉が廿三日午後二時頃、山なす寄贈品を同所玄関に積みて俘虜数名を招き夫々分配に忙しかりしに突然、後方よりウォ−ス、マイン、パパ−と呼ぶ可愛き声聞えしかば、振り返り見れば六七歳の独逸の子供が又も同じ言葉を繰返しつヽ、私のお父さんは何処に居ませうと尋ぬる態の余りに可憐なるより、招き寄せて名を聞けば私のお父さんは伯爵プラシマですと答ふる声の打ち震いて早や涙を催し居るにぞ、同大尉も同情に堪へず事務所に招き入れて松木所長に右の事情を通ずれば、お父さんへ逢して下さい。之を差上げて下さいと白布新らしき枕一個を供の支那ボ−イより受取り、所長へ差出したれば所長も遂に涙催されて可愛き頭を撫でつヽ、規定により面会させる事は叶はねど言伝あらば伝へやらんと劬はりしが、此子供は数日前波路遥に北京より良人伯爵を尋ね来り熊本市京町米国宣教師ホ−ルン氏邸に滞在し居るグラフィン夫人の長男メンツにて、良人に面会叶はずばセメて心を籠めし此枕に安らかな夢を結んで賜はれと、愛児メンツ君を使者として従僕支那人を付けて収容所を訪れさせたるものにて、所長も大に同情し直に此枕を届け伯爵プラシュマの言伝もあらばと柳井通訳に其品を届けよと命ずれば、子供は何と思ったか狐鼠々々と柳井通訳の跡を追ひ飛鳥の如く父プラシュマの居室に駆込み、お父さんと叫びさま驚いて振返る父の膝に飛付き久しぶりの暖かきキッスを受けて父も子も共に言葉も出ず、熱涙に咽びたり。之れを見たる他の俘虜も喜悦に堪へず足踏みして無事を祝し、入交り立交りメンツ君にキッスし、キッスを受けしが父なる人より却て他の者が打喜びたり。此時嬉しさに茫然たりし父伯爵も漸く我に返りて我児を引取り、尽きぬ喜悦に母の無事を聞き、当時二歳計りの末子の健康を聞き、約五分間にして惜しき別れをなし、柳井通訳に伴はれて振り返りつヽ帰り行く愛児を玄関まで送り行き、オヽ我子よ無事に……と一声叫びて顔を反けしには一同、思はず涙に軍服の袖を濡らしたりと。

 

<大正3年12月26日/3面>

 ●聖誕祭の夜の俘虜収容所  様々な珍趣向

廿五日夜は他に一日先立つ独逸の聖誕祭とて、熊本にある九ヶ所の俘虜収容所では何処も同じく暇に任せて入念の装飾を施こし、腹一杯の御馳走と胸に溢るヽ喜びとに其夜を歌ひつ語りつして明かした。横手村六ヶ寺に於ける模様を聞くに事務所の置かれてゐる正立寺は本堂仏壇を包んだ幔幕の外に聖誕祭祝賀の文字を表し、

▲探照灯に敵船 が照らされて将に暗礁に乗上げさうな絵が描いてある。ホンネンタ−ムたる樅木には雪綿と菓子、煙草などの種々が吊るされてあり、独逸御自慢のツェッペリン飛行船とルンプラ−とが天井から浮いてゐる。此お寺には別に取立てヽ記す装飾はないが、而し他の寺に見られぬものは

▲一斗樽を太鼓 とし、洗面器に樽の□を乗せて小太鼓とし、其他バイオリン、ビストン、喇叭等は彼等が皆各自に考案した竹製のもの、銀紙や金紙を貼った楽器で其特有な音色は各自赤い顔をして唇から響かせてゐる。空罐の音色などは却々奇抜なもの。妙永寺には墺太利カイザリン・エリザベスの水兵連だけに海軍に因んだものが多い。殊に茶碗を分度として□□仕掛けの

▲□□□が作ってあるのは□□□□者だ。此処にも樅木の美麗□□□□葉越にカイゼルの肖像が掲□□□飛行機、飛行船、灯台などの造物□□□彩紙細工のいろいろが部屋中□□□に引いてある。實成寺には独逸□□□を正面に、右には独帝と墺帝□□□□□があり、其下には青島の写□□□□□てゐる。盆栽式のものが□□□□□□を以て造られてゐるのみ□□□□□島に面したる此方からは

▲□□の重砲が 発砲し、其巨弾が□□に向って飛んでゐる。又右方から□□海軍の複葉飛行機が爆弾を投じてゐる。此二つの弾丸には一紙片に、今日は聖誕祭だから青島之から先きには□むべからずと書いてゐるなどは頗る愛嬌。マックス・レップは画工だといふので種々な絵を書いてゐるが、毎日の無聊に寺内の墓を写生し何々信女など漢字を英字に書いてゐる。妙立寺の装飾は余り巧でないが、空缶詰と竹とで四十二珊の

▲大砲と砲弾と を拵へてゐる。小刀一本と石とで造ったと自慢してゐるが、其処に一商船の模型がある。夫れも上出来だが其船号が「故郷」といふのである。其傍に竹細工の望遠鏡があるが、夫を覗くと故郷号が今や海波を蹴って独逸に向ってゐるのが見える。源定寺に入ると飛行機に心得のある男が居るだけ精巧な複葉水上飛行機が造ってある。聖誕樹の頂には天使がゐる。其天使は顔を石鹸で造り

▲煙草を金髪とし 芳野紙を衣裳にしたなど甚だ思付がよい。殊に下士室にはラインボルトが木炭を砕いて擦筆した巴里市街火災の絵を置き、此方から四十二珊砲を発射し其砲弾が今将に巴里市に落下せんとする処が造ってあるが、モウ間もなく仏蘭西はコウなりますと一同語ってゐた。楯間などにはビ−ルの栓にある丸い金具からバットやスタ−に付いてゐる煙草の蝋吸口を糸に通して波状に吊るしてある。其思付の奇抜であり且つ廃物のみを巧に利用してある所は感心だ。最後の長国寺に入って見ると相変らずの飛行船と飛行と機を初め、紙細工の色々が飾ってあるが、此縁起のよいお祭りに

▲葬式用の金蓮華 牡丹の造花を応用してある所は頗る奇である。松木所長以下所員が祝盃の為め訪問するとサンタクロ−スの爺さんが麻の長い髪を垂れ、坊さんの白衣を着て出たなども臍茶であった。斯く飾られた各収容所では三人乃至四人で分配すべき鴨の丸煮や鰹のフライ、蜜柑、ビ−ル、其他の贈物並べられ、八時頃からビ−ルを呷り、讃美歌を唄ひ続けて

▲限りなき興を やりつヽ、十二時の消灯を心惜気にドウにかなりますまいかと衛兵に縋った相也。

 

<大正3年12月26日/3面>

 ●俘虜大尉の妻  女絵師来熊す

熊本物産館に収容中なる墺国海軍大尉フォン・リ−ドル・シュトイの妻マリ−(三十)は廿四日午後三時二十七分上熊本駅にて五高独逸語教師ビュットナ−女史を初め俘虜の細君コップ、ハインス両夫人に迎へられ、大荷物を携へて研屋支店に投宿したるが、ビュットナ−女史は其夜直に訪問し、昨朝も共に散歩をなし中食後クリスマスにと出掛けたるが、マリ−は独逸ミュンヘンの生れにして女絵師なるが青島陥落後横浜より東京に入り、更に熊本に其良人を尋ね来りしものにて鼠の洋服にラッコの毛皮を深く襟巻して慎ましやかに構へ、色白長面の美人なり。

 

<大正3年12月29日/3面>

●俘虜慰問 浄土宗慰問使興芝真道師は山本義善、田中恵雲の両師を伴ひ二十六日午後午後物産館内及正立寺、西光寺に至る全部の俘虜を訪問し、渡辺大尉の通訳にて慰問の辞を述べ、渡辺大尉は之を独逸文に訳し刷物として之を配布し、尚俘虜全部に守田寶丹を寄贈せるが、俘虜等は日本人の慰問を受けしは之が嚆矢なり。此旨本国に通知すべしと喜び合へり。

 

<大正4年1月3日/3面>

●俘虜の妻面会を許さる  四名のうち一名

熊本に収容中の俘虜将校の妻にて熊本に来れるもの四名に達し居れるが、孰れも良人への面会が叶はず五高語学教師ピュットナ−女子及び米国宣教師ホ−ルン氏邸に同居又は他に借家居住し居れり。伯爵プラシュマの夫人イリス・プラシュマは昨日陸軍大臣の許可を得て正式に面会を求めしかば、松木所長は所長室にてプラシュマに面会を許し約三十分間絶えて久しき面会に、積る思ひを打語りいそいそとして立帰れり。

 

●ホウラ−三唱  俘虜等の越年

独逸人は正月には別段に儀式張って廻礼などをせず、元日は大概寝て暮す位が関の山なるが、三十一日の大晦日には孰れも逝く年を送るべく一夜を強烈な酒に明すが習慣にて、在熊本の俘虜等は大晦日には夕刻より将校室にて一同集合して酒に親しみ、将校中の一牧師はビスマ−ク宰相の言たる我独逸国民は天帝の外世界に一つも恐るヽものなしとの壮語を交へて

▲大演説を試み 除夜の酒宴に興をやりしが、十二時の時刻を合図に彼等は一斉に起ちてホウラ−(快哉)を三唱し、独逸は世界の各国に卓越せり云々の勇壮なる国歌を合唱し一同、大恐悦にて逝く年の一夜を明せり。殊に面白きは細工町収容所に一室僅かに三人居住し居る俘虜中、日本語に巧なるベンケイあり。此男至極陽気は滑稽家にて、私は今年からベンケイを止めて義経になります。そして極々豪い人になりますと語れば、和訳してニシンといひ大根といふ二人が口を出してジャ張る。此処三人寄って

▲頗る陽気な 正月に応はしい一日を送った相だが、此ニシン君とベンケイ君とが平素の寝室たる押入れに這込めば、大根君独り淋しく畳の上に丸くなって寝つヽ、弁慶もニシンも大根には叶ひませんネは頗る振ったり。因に東京俘虜情報局よりは九州各地に於ける俘虜収容所状況視察として四日、所員数名来熊の筈にて同日、熊本収容所の視察をなす由。

 

<大正4年1月3日/3面>

●俘虜の遊廓行  熊本市外横手村字高麗門俘虜収容所の俘虜の伍長は可なり日本語の出来る兵卒と、歩哨と巡査の囲を突破し近所の幽霊車に飛乗り新町より新市街、通町より唐人町に出で細工町より二本樹遊廓に繰込み、大吉楼に上がり娼妓の二葉(二四)と吾妻(二四)を揚げ三十分で四円を仕払ひ、飛鳥の如く駆戻り車代二人の一円を踏んたくらんとし曲事忽ち露見に及、共に重営倉十日に処せらる。

 

<大正4年1月8日/3面>

●俘虜雑記  細君連の大弱り

       職業しらべ終る

熊本収容の俘虜将校の細君連四人の来熊は既報せしが、晴れての面会には陸軍大臣の許可を得ねばならず、度々の面会も到底六ヶ敷いと見切りを付けたが、扨て本国には帰られず、米国辺に居住するより

▲亭主の居る熊本 にさへ居れば何時かは同棲も許されようと云ふ頼みならぬ事を頼みとし、四人共当分熊本に居住と決め、伯爵プラシュマ夫人に長安寺町に、リ−デルスタイン夫人は新屋敷に一軒借る事とし、大尉コップ夫人は桜井町に一家を構へ、ガウル夫人と同居して当分俘虜将校合宿所といふ体にて暮し居れるも、今の処にては自由外出も市内居住も許されさうになく北京、天津の独逸領事は同地方に居住する俘虜細君に至急同地を立退き米国等の中立国に居住せよと

▲厳重なる立退き 命令を下し、日本にも行く事叶はず六ヶ敷き雲行きとなり、細君連の大弱りより俘虜連の立腹極度に達し、領事を怨むこと猛烈なり。又将校従卒連にも青島第一の貿易商を初め種々金満家や有資格者があり。之等は将校の従卒とならば市内居住を許さるべきを以て自由が出来ると特に志願したのもありて、甚だ気の毒な連中少からずと云ふ。近来は細君連の来熊も少くなりしが、昨日は故スクリバ−侍医の令息ヘンリ−・スクリバ−君が兄エミュ−ル君を尋ね来りしが、同胞ながら

▲日独の血で出来 た二人とて兄は独逸語は出来れど、弟は東京暁星中学校を卒業した二十歳の少年とて仏語には巧なるも独逸語が出来ず、止むなく兄弟二人が流暢な日本語、而も東京弁で絶て久しき物語りに数刻を過した相なり。熊本俘虜収容所にては昨日来、俘虜六百余の職業調を初め昨日正午までに三十三名の将校従卒の職業調べを終りしが、最も多きは錠前屋にて、煙突掃除人、窯焚夫、窓覆ひ製造業、靴屋などあるかと思へば貿易商、雑貨商など堂々たる商人あり。将校中には哈爾賓総領事ロク−ル・ハインツェ、上海総領事エ−ベルハルド・ラドゲ、上海副領事ハインリッヒ・リムマ−などあり。クルクプ銃砲会社に亞ぐの銃砲製造業の息子などあり。当分の小使銭にとて

▲年末九千余円送 って来たのなど色々の連中あり。尚将校中陸軍中尉パウル・フロリアンは大阪や東京の新聞に恋のフロリアンと題し大いに艶種を披露されしを此頃に至り聞出して、恐るまい事か平素の快活に似ず顔色をかへて弁明に及び、ソンナ物ではあるまいと遂には大笑ひに笑ひこけた相なり。俘虜連の音楽に巧な事は聖誕祭の記事中に記せしが、昨今の彼等は更に大に研究して麦酒、サイダ、葡萄酒の瓶の各違ふ音色を研究して、今ではピアノの如き巧妙なる音を叩き出して、ヴァイオリンなどと合奏し盛に無聊をやり、正月以来税関がロハの為め沢山に送って来る煙草よりも楽器が欲しいと所員にねだり居る由にて、横手の各収容所は却々陽気なものたり。

 

<大正4年1月12日/3面>

●俘虜への送金三万千円  ワ総督より六百円

熊本俘虜収容所にて十二月中に取扱ひし俘虜への送金額は三万千余円に達し居れるが、本月に入りて福岡に収容中のワルデック総督より約六百円を送付し来り。銀行兌換の都合にて延引せしも将校以外のものに分配されたしと松木所長に分配方を委嘱し来れり。熊本在住の俘虜細君四名中ガウル夫人が昨日午前、陸軍大臣の許可を得て正式に良人ガウルに面会したるが、プラシマ伯爵夫人の伴ひし長男ジ−フリ−ドは折々母親の代理として花や珈琲などを携へて面会に来り。収容所に出頭したりして可愛がられ居れり。

 

<大正4年1月13日/2面>

●俘虜授産問題

内地各所に収容中の俘虜に対し何等か授産の方法を講じ、相互の利益を計るは面白き思ひ付に相違なく、現に仏蘭西にては独墺の俘虜を鉄道工事其他に使役し居る由なれども、彼国の如く国内の壮丁悉く軍に従ひたるとは大に趣を異にせる我国にては、都鄙を通じて不景気の極に達せる今日、我労働者の職業を奪ひて迄も之を遂行する必要なく実は今日迄内々、彼等各自の芸能を調査したるが、独逸人は露国人と違ひ頗る尊大にして使役に困難なるのみならず、実際上の効果も疑はしく随って各地収容所々在地方庁等より俘虜が特に有せる技能を地方の邦人に伝習せしむれば、労働者の職業を奪ふより反対に地方を裨益する処多かるべしとの見解にて、一二の請求もありたれど以上の如き事情なれば今後俘虜に授産の途を与ふるが如き事は万々あるまじと信ずと柴軍務局長は語れり。

 

<大正4年1月15日/3面>

▲俘虜の雪合戦  昨日の収容所

毎日無聊に苦しみ居りし俘虜連は、一昨夜からの雪に寒いとイヂけるかと思ひの外、物産館構内に収容され居る将校従卒連は一昨夜の寒風飛雪中に飛出して二手に別れ、雪合戦を初め嬉々として一時間余激しく戦ひしが昨日正午頃、将校連は食堂に入込みし暇に収容所の渡辺大尉と柳井通訳が試みし雪合戦に釣込まれ、所員四五名が激しく合戦するを竹矢来越しに眺め拍手し居りし一同は予てお世話になる柳井通訳の旗色少しく危しと見て、一同柳井氏に加勢し猛烈に戦ひしが□て柳井氏も俘虜連を相手とし、遂に日独の大合戦となり十五六名の従卒が飛出し、四五の収容所員は激しく投初め竹矢来を中にして互に花火を散して戦ひし末、遂に□□□□□収容所員軍の退却となりて此雪合戦が終りとなり相たりしが、勝誇た従卒連は今度互に右左に別れて又々凄まじく戦ふこと十数分、大笑大喜びにて各自の部屋に赤くなって引籠りたり。

 

 ●惨澹たる独逸の内情  熊本俘虜収容所宛の書簡

四面敵を受けて死者狂の態で、土耳其などの小国まで煽てあげて死出の道連れとしやうとしてゐる独逸昨今の有様は、実に惨澹たるものである。熊本俘虜収容所某氏は曰く、十月頃発信せる独逸よりの書簡が近来到着し居るが、其手紙を総合すれば独逸国民の苦境は真に同情に堪へざる者あり。日曜日は彼れ等が最も愉快に一家挙って散策し喜遊する日なるも、今は日曜日すら一人の通行人なく、平素も人子一人見ること頗る稀にて、心細きこと限りなく戦況の将来如何になるべきやと女文字の哀なるものあり。又た平素五頭居った馬は今は悉く徴発されて厩に一頭もなく、何処を訪うても男は居らず、只女子供か左もなくば病人のみなりなど書きたるもの多く、之等は独逸の田舎に住む俘虜の妻女又は親族よりの手紙なるが、尚英仏露等に捕虜となり居る者の有様など書送りたるもあり。其内に仏国に俘虜となり居りし一将校が苦心の末、漸く仏国を逃出し独逸に帰国したる人の話に、将校の自分すら後手に堅く縛されて市中を引回されたり。仏国に於る独逸人は実に悲惨なる日を送り居れり。将校にして斯の如き待遇を受くるより考ふれば、兵卒などの惨状は如何計りならんとあり。又神戸在住の独逸人よりの来簡中に、シベリアに収容され居る同胞(独人)は殆ど瀕死の有様にて働き居れり。英国にしても仏国にしても犬馬の如く虐待し居れるに反し、日本の俘虜は実に予想外の優遇を受け、他に比し十倍も百倍も幸福なり。故に君等も此事を一同に通じて不心得あるべからずと戒めたるあり。青島上海にある俘虜の親族などより上海の一独字新聞に、日本収容の俘虜が虐待され書簡も没収されたりなど書立て、一時は不安に堪へざりしも其誤報なることを知り同新聞社員の悪辣に驚きたり。恤兵品の如きも露国の虐待を聞いては日本に送るものを後にして彼等を助くる方が急なりなどと記せしもの多く、一般に日本の待遇に就き安心し居れるが如し。因に一月一日より十日迄に熊本収容所の俘虜に面会せるものはプラシュマ伯夫人、コップ大尉夫人、スクリッパ少尉弟、海軍兵卒ライゼナ−夫人、同伍長シュルツ夫人の五人なりしが、昨日伍長ヘルムの父面会を許されたり。此ヘルムは旧藩時代和歌山藩の兵学師範なりしが、維新後神戸にヘルム兄弟商会を起し東京大阪京都などに支店を置き、戦争前迄は日本人百余名を使役し居りし人なりと。

 

 ●俘虜を襲ふ賊  不浄取りの悪事

飽託郡池上村大字戸坂農伊吉三男塚本新吾(□□)は熊本市外横手村なる各俘虜収容所の糞尿取りに□はれ屡々出入りする中悪心を起し、□□十八日妙永寺内俘虜所有の赤革長靴一足(代価十四円)を窃取せるを手始めに、同月二十日禅定寺内俘虜の靴一足(六円)、本月三日長国寺内俘虜の梨色ズボン、襟衣各一着、翌四日及六日又も禅定寺、妙永寺にて襟衣、長靴を盗み、七日實成寺に至り俘虜等の入浴に行って留守を見すまし、巻脚半(代七円五十銭)を盗まんとする処をカレナアといふ兵卒が発見し、他の俘虜等も集まり日本泥棒なかなか太いなどヽワイワイ騒ぎ立て係り将校安達中尉の前に突き出したるが、新吾は所轄署にて取調べを受け昨日熊本区裁判所公判の回さる。

 

<大正4年1月17日/3面>

 ●俘虜六百五十名の山登り  本日金峰山へ

熊本俘虜収容所の俘虜将校三十余名と従卒及横手、細工町の下士以下総員六百五十余名は本日午前九時、各収容所出発。松木所長、渡辺大尉、笠井、柳井両通訳及第一出張所長濱田中尉以下に引率され金峰山に登山する由。

 

<大正4年1月18日/3面>

 ●俘虜六百の山登り 金峰山上で食ふやら歌ふやら

熊本俘虜収容所の将校以下約六百人は松木所長、渡辺大尉以下各所員に導かれて昨日午前九時各収容所を発して金峰山登山を試みたり。今年になって初めての外出、殊に予て収容所より朝夕望見してアノ山に登りたいとセガみ居りし事とて、登山の事を一般に通告さるヽと一同拍手して喜び、病気か又は留守番の者以外は皆打連れ、思ひ思ひの扮装にて将校は従卒に中食のビ−ル、パンなどを担がせ、物産館連は桜町より段山を経て田圃に出で嶋崎製糸場近くに行くと横手、細工町の連中が石神山の麓に現るヽや物産館連中帽を打振り打振り互に喚き合ひ、彼等の姿の見えずなりし頃には軍歌を唱へ初めて、割木売などの牛曳きの老幼を驚かし横手、細工町連は将校でない丈け喜悦に堪へぬといふ調子。猛烈に喚き立てヽ監督者を手古摺らす。軈て名に負ふ鎌研坂に掛ると、大股に元気よく進んだ連中急に軍歌を□めて只ウッフと吐息を吐く。漸く坂上に出づれば例の茶店を占領して小憩。稍恢復した元気も山麓の鳥居から見上げた急坂に、折角ハヅンだ話も途絶勝となる。ガウル中尉は渡辺大尉、笠井通訳と茶店で話して笑はれた細君を家内といふと始めて覚えた日本語を繰返したが、之れもバッタリ話止めて登って行く。従卒連は此荷厄介の連中の尻を押すやら手を引くやらで重い荷物を担うて行く。一同登山には甚だ苦しんでゐたが、殊に肥満した海軍大主計フォル・ロイフェルは其名を訳すると先頭に行くといふ意味だが、其の先頭たるべき人が最も弱って喘ぎ喘ぎの殿りなので、「殿り将校」と改名したらと頻に冷やかす。十三日の雪の凍えて残ったのを、雪が大層おいしいですと愛嬌タップリに石上の雪を摘まみ食ひするのもある。人さまざまの珍スタイルで、横手村の例の楽隊を先頭に山上に着いたは十一時頃。山上の小祠を物珍らしく打眺めて、茲に初めて上衣を脱ぎ汗を拭いたが、山上の冷気に又もや縮こまって早速腰の弁当をパク付き初める。将校連が山上に達すると、従卒はスグ駆け付けてビ−ルを抜ぐ。パンを切る。頗る忠実。食事の終った一同は、西方の展望よき場所に三々五々打集うて何か知ら呑み且つ食ふ。俘虜連中は青島で別れたか又は去年の十一月から十二月に分散して各異なる収容所に収容されて絶えて面会をしなかった丈けに、久々の物語り、久々の握手、久々の対酌など、眺めに床しき有明海や三角半島を望む隙もないと云ふ有様。将校の内には四五名、写真機を携へて頻に撮影して居るのがある。下士以下を虫ケラ同様に思って居る将校、此記念すべき会合を撮影してやらうと云ふ親切者はない。従って下士以下で撮影したくも言ひ出せない。我社の写真班山部君が彼方此方で撮影して居ると、自分も自分もと撮影を頼む。私は本国に送る。自分は北京の妻に送ると一頻り写真機の引張凧。此間に横手組の楽隊連漸く元気恢復。手製の楽器を取出して、今日初めての奏楽をやる。竹筒の喇叭、酒樽の太鼓、銀笛など珍に怪しき音色を立てヽ山神も驚き給ふらんといふ賑かさ。一同云ふに云へぬ愉快を尽し、此眺めは青島に似てゐるの、イヤ本国の何処に似てゐるなどと打語る。雪を溶して沸した湯の、珈琲や茶となって将校に分たれる。寿司も五六人に配られたが、日本茶は美味い美味いと十幾個の折詰は羽根が生えて飛んで仕舞ふ。斯くて午後一時下山の令が下ると細工町、横手連は猿辷りの嶮を下るといひ、将校連は元来た道を帰るといふ。所員も二分して両道から帰途に就たが、猿辷りの組は下士以下の元気者、無邪気者が多い丈に其勢ひの強烈さ、石ゴロの転げ落つる有様、物凄じい勢ひなり。将校連の下山は少々大人ジミて悠々としてゐたが、従卒連は登山の弱音を逆にアノ巨体を石ゴロも雪溶け道も一切構はず駆け下る。其音恰も巨石の転がるが如し。急坂を下り、鎌研坂上の茶店に来ると帰途のヤマが見えたので一同又々元気付く。県庁の高等官連の登山で評判になった、お房さんが酌んで出す渋茶に大喜び。娘さん別嬪さんと一頻りは大賑ひ。此お房さんで連中も疲労を忘れ、鎌研坂は長脚を大きく踏み張って、段山口に下り着いたのは午後三時。愉快でした、面白かったと松木所長以下の所員にお世辞ダラダラで、各収容所に帰着したり。ガウル中尉は帰途も日本語練習に余念なく、渡辺大尉に習った細君、奥さん、家内と段々に熟達し、遂に山の神まで習ひ覚え、別れに臨んで山の神さんに宜しくとは振ったり。

 

 ■俘虜の金峰山登山(写真説明)

 (一)鎌研坂の登攀。先頭中折がガウル中尉

 (二)八合目で将校、従卒の休憩

 (三)絶頂権現社参拝

 (四)横手組楽隊絶頂の奏楽

 (五)フォル・ロ−フェル海軍大主計五合目での大弱り

 

<大正4年1月20日/3面>

 ■俘虜の金峰山登山(写真説明)

 (上)一行金峰山の猿辷りを下る

 (下)鎌研坂茶小屋の休憩

 

 ●独帝誕生日と俘虜の祝賀準備  長国寺で芝居の稽古

来廿七日は独逸皇帝ウィルヘルム二世の誕辰日とて、各収容所にては祝賀準備中なるが、横手村長国寺収容の俘虜は当日は演劇をして大に祝意を表する筈にて、既に其稽古を励み、当日は将校にも観劇して貰ひ度しと松木所長に其許可を願出たり。又同正立寺の手製楽器を以て大得意とする楽隊は更に大に研究稽古を積んで、奇抜斬新な奏楽を行ふと意気込み居り。細工町連も一昨日の金峰山登山に横手組の楽隊に鼻をアカされ大に口惜しがり、昨朝楽器其他は自弁にするから是非、楽隊組織を許可して欲しいと願出でたり。尚熊本俘虜収容所にては昨日、陸軍省より橋本主計正出張。俘虜の被服に関し調査し、久留米収容所の山本中尉は視察の為来熊せり。

 

<大正4年1月21日/3面>

 ●俘虜通話厳禁

逓信省にては今回或筋よりの注意に依り、各地収容の俘虜に対しては当分の中、一切電話を厳禁することに決定し、俘虜よりの請求は勿論他よりの呼出請求あるも之を廃絶することとし、各地逓信官署宛夫々通牒を発したりと。

 

<大正4年1月22日/3面>

 ●立退人と旅費  俘虜等は一安心

独逸政府は日本及支那に居る俘虜の家族に殆んど強制的立退きを命じ、二日と九日とに既に二回横浜出帆の汽船で本国へ送還したが、尚三十日にマンヂュリヤ号で横浜から桑港、紐育を経て交戦国以外の港に寄港し伊太利に上陸させる事となり、俘虜の召集前勤務してゐた会社は帰国旅費を給し、伊太利以後は一日三円宛の出征軍人家族扶助料を給さるヽ筈で、不平だった俘虜も漸く安心した様子。

 

 はなしのたね 俘虜の身長

熊本俘虜収容所の俘虜□員六百六名の平均身長は五尺六寸二分、体重十八貫二百二十五匁であるが、最長最大なのは火工ベルカ−・アトルフで、六尺五分で体重は二十五貫八百匁ある。最少のものでも十四貫幾らで、日本人よりは一貫目以上重い事になってゐる。

 

<大正4年1月25日/3面>

 ●俘虜五名逃走す  阿弥陀寺に収容中の不届け者

熊本俘虜収容所収容の俘虜六百余名は従来、松木所長以下の所員に頗る柔順にて他収容所の俘虜よりも比較的愛撫され、金峰山の登山又は花岡山、水前寺見物等運動を兼ね彼等の無聊を慰められ居りしが昨朝、市内細工三丁目阿弥陀寺収容俘虜中五名の姿見えざるに所員大に驚き、八方に手を分けて捜索中なり。彼等は一昨夜の夜陰に乗じ同寺院裏手の竹矢来を抜けたるものらしく、逃亡者は悉く准下士官待遇者にて、五名中のラベニックと云ふは開戦前まで上海にありて医師を開業し居り。其他孰れも相当の学識あるものなれば、夜間俘虜一同の寝静まりし間に予て外字新聞等にて英仏等にある俘虜が平生の食糧を節約し変装して逃亡せりなどの記事を見、又来る三十日横浜出帆のマンヂュリア等が北京、天津等に避難せし俘虜の家族を搭載して米国経由独逸本国に送還さるヽを聞知し、夫等に面会し尚アワよくば逃走せんと考へしものか。過日金峰山に登り、脚下に有明海を隔てヽ島原半島を望み長崎までの距離等を聞きたる事なれば、或は彼等は金峯山麓を河内に出づるか又は百貫方面に出てヽ逃走せんと企てしには非ざるかといふ。尚二本木遊廓に潜伏し居るやも知れずと捜索中なるが、彼等には過日上海のシ−メンス会社より職工の古服を寄贈し来りしを以て、或は夫等にて変装せるやも知れずと。因に五名中のチャイスと云ふは稍日本語を解するも、他の四名は日本語を知らずと云ふ。

 

 ●俘虜の外出

熊本物産館内の俘虜将校四十五名中四十三名は二十二日、渡辺大尉、笠井通訳に導かれて熊本市外八景水谷の探勝に赴き、大林巡査より八景の説明を聞きつヽ本田紋蔵氏の座敷に休憩し、茶を啜りつヽ日本庭園の雅趣を賞したりと。

 

<大正4年1月26日/3面>

 ●俘虜盗人島まで逃延ぶ  島原へ渡航の準備中捕はる

熊本俘虜収容所細工町出張所阿弥陀寺内の俘虜が夜陰に乗じて逃走したる件は既報の如くなるが、収容所にては取調の結果一名は其後逃走し居らざることを発見し、四名の行衛に就き憲兵、巡査八方に急派し捜索中、午後二時頃飽託郡松尾村方面に逃走せる形跡あるを探知し、収容所附国武巡査部長外数名同方面に出張せしが午後四時四十分頃、国武部長等の到着前収容所附松間巡査が松尾村駐在高濱巡査の応援を得て同村盗人島有明館に休憩中の四名を逮捕し、其夜直に松木収容所長に身柄を引渡し取調の末、収容所よりは第六師団軍法会議に引渡したり。彼等は二十三日夜十二時頃阿弥陀寺の裏手より逃走し、過日の金峰山登りの際ウロ覚えに覚えたる道を金峰山麓より河内に出で、百貫を経て松尾村に逃延び盗人島の有明館に休憩の上、肥前島原に渡航する考にて、四名中の一人海軍二等兵曹フレッケ−が付近村民に就き小舟を雇入れ彼等自身にて漕行く考へにて、他の三人歩兵副曹長プッシュ、歩兵ツァイス、ラッペンニッカの三名は有明館にて休憩し、其準備を待居りし処を捕はれたるなりと。

 

<大正4年1月27日/3面>

 ●本日はカイゼルの誕生日  俘虜一同の祝賀

本日は独逸皇帝の誕生日なるを以て、熊本収容所の俘虜一同は祝意を表する為め夫々数日前より準備を急ぎ居りしが、クリスマスの際の如く各室内にて種々の見立て細工などを新に工夫せし者なきも、各所共に夜間一室に集合して祝盃を上げ、余興として活人画、芝居、落語等を催す由にて、横手正立寺の楽隊を初め、細工町組も楽隊を新に組織し、長国寺にては既報の如く演劇をなすべく連日稽古し居り。プログラムを作成して、松木所長の許可を得たり。其目録によれば、先づ開会の辞としてお定まりの演説あり。落語、芝居、奏楽等を行ひ、活人画を最終にして楽む予定なりと。

 

<大正4年1月28日/3面>

 ●カイゼル誕生日の俘虜

熊本俘虜収容所に於ける俘虜連は廿七日の独逸天長節なるを以て各所共、大に趣向を凝らして祝賀会を開いたり。横手村正立寺の連中は午後三時より催したり。御堂の正面には赤毛布の舞台は花、国旗紙モ−ル又は煙草紙などにて頗る巧に装飾しあり。正三時には一等機関兵曹ハントルが開会の辞を述べ、一同は中央に安座し独帝の肖像に対し国歌を合唱し、独逸自慢の独逸は世界の覇者たりてふ軍歌を歌ひて天長の式を厳かに行はれ、次で余興となる。第一は飛行教練とありて、四人の卒が帽子の前立に小プロペラを刺し、アノ高い鼻には蜜柑の皮を付けて更に□く聳えさせ茶目公、凸助とも云ふべき此四人が大巫山戯の処を下士に発見されての大騒ぎを初め、一寸坊の滑稽は博多仁輪加の二人羽織といふ格なり。其他「去年と今年」と題する画工夫婦の昨年、欧州の出来事を滑稽にオドケて話す。其他結婚の希望、狐の述懐、靴屋の落語など八九ありて後、活人画露営の夢と題するがあり。拍手喝采、午後五時に終り、松木所長、笠井通訳の祝辞と謝辞とありて正立寺の祝賀を終りしが、細工町其他にても夜に入りて種々の催しありたり。

 

<大正4年1月29日/3面>

 ●種々さまざまな珍芸当  俘虜の祝賀会

廿七日は独帝の誕生日。日本各地に収容中の俘虜連中は、身は敵国に居ながら独帝の為に其祝典を催すことを許されたので、在熊本の俘虜連中も大喜び。各収容所共思ひ思ひの趣向で、深夜までフザケて居た。横手正立寺では海軍火夫のヅッパ−が楽長となって手製楽器の奏楽をやる。臍の緒切る前から滑稽に生れ落ちたらしいヅッパ−は、予ての不精者に似ていろいろな芸当に大車輪。プログラムが進んで第七となると、画工と女音楽師とが現はれて「去年今年」と題する

▲欧州戦乱の珍画 を見せて、其絵解きと洒落る十数枚の絵が悉く独逸の勝利、本国の正義を示してゐるも面白い。最終の活人画は、露営の夢としては負傷者がある。負傷者を本位に見れば、寝てゐるを死人とも見える。細工町西光寺に行くと、舞台中央のカイゼル、右にビスマルク、左に対露軍総司令官ヒンデンノルン将軍の肖像を勿体らしく挙げ、舞台は酒保から徴発の麦酒広告幕が引延べてある。クレッチマ−は金峰山登りで奮発した

▲新組織楽隊を提 げて、盛に吹奏する。他の楽隊の騒音に比し頗る上品にバイオリン、ハ−モニカ、太鼓、笛が響き渡る。出征軍人父子決別の活人画から幕が明いて、お定まりの独逸は世界の覇者たりとの御自慢の歌を吹いて、クレ−マン君の天長祝辞が熱烈なホラ−三唱で終り、十六人集団の遊戯体操となる。小学生の赤十字遊びといふ格で、白水兵服の十六人が奏楽に連れて練出して来る。咲いた蕾んだが二三回。□て三列になって、撃剣の型とも球竿体操とも棒踊りとも付かぬ奴を初める。司会者ケタ−マンは突如ゴツンと敷居を叩くと、十六人

▲蜘蛛の児を散し たやうに□□□□したと思ふと又、一団に堅まる。と見ると逆立、直立の人が三人、四人組合って、上に乗るやら寝てゐるやらの三角形を造る。コレを称してピラミッドといふ。江川万吉に軽業に見る奴なり。此芸当、既に四回。少々お目に止まり過ぎて、記者は特別案内を受けた横手村長国寺へと雨を衝いて行く。軍曹マルチン、司会者として熱心に立働く。シュルツ指揮の楽隊は、独逸学生記章たる襷を右肩から左の脇へ掛け、決闘の傷痕やマダ膏薬の貼ってある

▲学生姿に扮して プカドンをやる。室内の装飾など別になく、赤毛布に包まれた一室は煙草の煙が濛々と立籠んでゐる。午後八時の夜が蒸し暑い。俘虜の身でコウした大祝典を挙げ得るが嬉しいと、世辞ダラダラの内に開幕。蓄音機や演説があって、兵士物語といふ活人画が初まる。第一場は大工兄弟が老母を劬りつヽ仕事をしてゐると、次に召集令状が下る。入営して軍服を着る。不格巧から練兵となり宣誓式となるが、最後が帰休して動きも取れぬ

▲老母に抱付いて キッスをする所で幕となった。其間、拍手喝采鳴りも止まず。正立寺のに比して、丸で役者が違ふ。夫れから幾つかの落語が済んで、伊太利の猿廻しなど眼新しい所があったが、滑稽坊四人の紳士とても活動写真で云ひさうな絹帽燕尾服の黒坊が、骨無しの如く踊狂ふ。松木所長は、伯林の寄席に行ったやうだと微笑する。其内

▲赤毛布の幕が引 かヽると、伍長ロ−トがウルリヒ、ウイロバの二人を率ゐて出場、吊環体操をやる。之れは独逸では寄席でもやる相なり。最後に、ロ−トとウルリヒとが裸体になり、非常に発達した筋肉に更に金粉を塗って光線を按排した処、実に立派なもの。彫刻家や画家は垂涎三千丈以上とも云ふべき上乗のものであった。

 

<大正4年1月31日/2面>

●俘虜の現在数

目下内地に収容せる独逸俘虜は将校以下四千六百二十人にして、此外青島にありて此程検挙せられたる者を合し、現在青島に収容せる将校二、下士卒百名(詳細は未だ報告なし)。此内英国政府の要請に依り来る十月、香港に送らるヽは前記の将校二、下士卒七十五名の予定なり。内地各収容所に現在するるの左の如し。

 所在地  将校同相当官  准士官下士卒  合計

 東京     15     279     294

 静岡      7     100     107

 名古屋    12     299     311

 大阪     28     417     445

 姫路      8     315     323

 徳島      5     201     206

 丸亀      7     317     324

 松山     15     400     415

 大分     13     128     141

 福岡     35     814     849

 久留米    19     507     526

 熊本     45     606     651

 合計    219    4401    4620

 

<大正4年2月6日/3面>

●逃走俘虜の取調べ終る  判決は一両日中

去月廿四日熊本細工町阿弥陀寺の柵を潜って逃走し、飽託郡松尾村にて逮捕されたる俘虜四名は其後、軍法会議に付せられ熊本監獄京町出張所拘置監に収監され居りしが、一昨日四名に対する取調を終りしを以て、一両日中判決ある筈也。

 

<大正4年2月8日/3面>

●逃走俘虜判決  三人重禁錮一年

一月廿四日、夜陰に乗じて熊本俘虜収容所第二出張所阿弥陀寺裏手の柵を潜りて逃走し、金峰山麓より飽託郡松尾村に出で、小舟を雇ひて長崎に逃げ、アワよくば上海に渡り、本国まで逃帰らんとせし独逸俘虜陸軍副曹長ブッシ、同ラベリッカ−、同チャイス及び海軍按針兵曹フリッケの四名に対する軍法会議は勾坂理事主任、笠井氏の通訳にて審議中の処五日終了。六日午後、前記副曹長三名は孰れも重禁錮一年に、海軍按針兵曹は同十ヶ月に処せられ、熊本監獄京町出張所未決監より同日、既決監に移されたり。

 

<大正4年2月14日/3面>

●俘虜の取締を厳にする

   内閣書記官長  江木翼氏談

目下我が国に於ける独逸の俘虜中には、我が待遇の余りに寛大なるを以て、或は其の散歩区域の拡張を要求し、或者は遊廓等への出入を要求する等実に際限もなきことを申出づる者多く、斯る事は俘虜として断じて許し得べき事に非ざるのみならず、其取締上にも多大の不便を惹起するを以て、自今俘虜の取締を一層厳かにすると共に其の法を犯し、規律を守らざるものは厳重に処分することとせり。斯ることは実に俘虜取締上当然の事なれども、我国が俘虜の待遇を

▲余りに寛大に したる結果、彼等の増長するものにして最近に外務省への報告によるも独墺に於ける帝国の臣民の如きは其軍人たると非軍人たるとを問はず、実に囚人同様の待遇を受けたるのみならず、其の甚だしきものに至りては過酷なる苦役にも服せしめられつヽありて、其の待遇誠に残虐を極め居れる事実ありたるを以て、帝国に於ても敢て之等に対する復讐と云ふ意味には非ざるも、従来の如くに寛に失しては却って彼等を増長せしめ、俘虜としてあるまじき要求をなすに至り、取締上に

▲多大の不便 を生ずるを以て、今後法を犯し規律に服せざる者ある時は一歩も仮借する所なく、断乎として法規を励行し厳重なる処分をなすことヽせり。更に我国に於ては開戦当初に於て既に内務大臣の訓令を以て発布せられたる如く、帝国は独墺に対して宣戦を布告したりと雖も、該国の臣民にして我国に居住する者は交戦中に於ても帝国の国法に遵ひ

▲正当なる営業 に従事する者は従前の通り居住並に営業の権利を与へ置きたるも、独墺両国に於ては斯る事は絶対になきのみならず、我国に於ける之等の敵国臣民中にても近時往々不穏の行動をなす者あれば、斯る者に対しては今後断然放逐する事となしたり。欧羅巴諸国に於ては独逸人と見れば間諜として取扱ふと称する程なるに、我国に於ける居住並に営業の自由は大に寛大なるものなれば、今後は之等のものに対し極めて厳重なる取締を励行する方針なり。(東京電話)

 

<大正4年2月26日/3面>

●俘虜の此頃

<気の毒な将校>

熊本俘虜収容所の某俘虜将校は此程本国よりの書簡に接し、痛く鬱ぎ居れる由なるが、其談に依れば二人の弟は出征して戦死し、弟嫁は病に斃れ、長男たる自分は俘虜となりて日本に収容され居り。一家の悲惨事引続く上に、戦争は一般の生計にも甚だしき影響を与へ、豊裕なる家庭も随分と手痛き苦痛を蒙り居る事とて、其将校の母は遂に発狂したるより、老年の父は最早世に望みなしと大に悲観し、財産は何もいらずとて総てを投出し、身は国民軍に志願し出でたるなりといふ。目下熊本収容所に到達する独逸よりの書簡は一月発信のものにて、戦況は一進一退にして別段の変化なしとあるもの多しといふ。

<俘虜の犯罪>

全国各地に収容され居る俘虜中の犯罪に就き俘虜情報局の調査に依れば、将校は久留米のグラボ−中尉重謹慎十五日に処せられたるが将校中の唯一にて、其他三十名あり。熊本にての犯罪者は逃走四名の懲役の外、重禁固四名なり。福岡にては十二、大阪四名あり。其他は静岡、東京の一二名宛にて、所長の手心と収容人員の多寡とに依るも、福岡の犯罪者最も多し。

<労役と賃金>

俘虜情報局にては内務、農商、逓信、文部の各省及び東京、大阪等の重要都市商業会議所に諸事業に対し、俘虜を使用し得ることを通告せり。

 

<大正4年3月13日/3面>

●俘虜の妻の暮し振り

熊本俘虜収容所の俘虜将校三十三名の細君連中で熊本に来て居るは、プラシュマ伯夫人外四名と久留米で衛兵の銃剣を握り問題となったグラボ−中尉の細君と都合六名。其六人が■四軒の家を借切って良人と同居を許さるヽ日を指折数へてゐる。プ夫人は八歳と十歳の二人の子を相手に、京町八景園の付近に淋しい生活を続けてゐる。墺太利退職海軍大尉リ−デル・シュタイン夫婦共に絵を描くので、中尉は収容所で渡辺大尉の肖像を書いたり、収容所付近の写生をしてゐるが、細君は新屋敷の仮住居で支那風俗の写生を仕上げたり、熊本風景の写生に精を出してゐる外は

■古道具屋を漁って、角や象牙の根付ものを頻に買込んでゐると、日本通の予備陸軍少尉スクリッパは高々二十五六銭のものを三円も出すとは金満家も豪いものだと冷かしてゐる。細君中で最ケチン坊と云はれてゐるコップ夫人も桜井町に二十円の家賃を払って、女中一人を七八円で使ひ、新聞読みや市中の散策又は五高教師ビットナ−嬢を初め、俘虜細君連と往復して日を送ってゐるが、彼等唯一の楽みは

■恋しい亭主に手製の菓子を贈る事で、毎日セッセと精一杯に上等な所を拵へてゐる。其心を込めた菓子は雇女に持たせて収容所に差出し、良人が舌鼓を打ったと聞いて無上に喜んでゐる。夫等の材料は大概は静養軒洋品部から買入るるのだが長崎、神戸等から悠々取寄せるのもある。同店員の話によると、ケチとは云へ流石西洋人だけに金の支払ひが几帳面で、商売は仕易い。折々出入して窺ふ生活状況から見ると、女一人に下女相手にコップ位の生活でも

■百円以下のものはない。リ−デルシュタインの細君など極派手な生活をしてゐるから、ウンと費用も多からふと云ふ。

 

<大正4年3月24日/3面>

●果報者マイヤマン  熊本に在る元青島観象臺長

           学術尊重の為赦免問題起る

目下熊本俘虜収容所(物産館構内)に収容されてゐるドクトルマイヤマンは元青島の観象臺長で、予備陸軍中尉の肩書ある男であるが、学術尊重の意味よりして同人に関する赦免問題が此頃我内閣の閣議に上ってゐる。

▲独逸が青島 に観象臺を設けたのは千八百九十七年で、其後報時球、地震、地磁力、時計等の調査観測の設備全く成るや、彼は其臺長に任ぜられ、ハヒデルベルグ及びゲッチング州大学で修めた学理を実地に研究して、今では斯界有数の学者となり、殊に地磁力観測に就ては造詣尤も深く万国磁力協会の委員に迄挙げられた者である彼れが

▲吾国の俘虜 になった理由は、青島陸軍中尉と云ふ肩書を有してゐるからである。然るに東洋に於て前記万国磁力協会に加入してゐるのは日本の中央気象台、支那の上海気象台及び青島観象臺等であるが、僅か此の三ヶ所の内マイヤマンが俘虜となったので自然、磁力観測の研究上に影響を及ぼすに至った。されば同協会は世界の学問と云ふ立場から此際マイヤマンを赦して、引続き青島観象臺に於ける磁力観測をやらしたいとの希望で、同会委員長独逸ポツタム磁力観測所長は今回

▲和蘭の委員 を介して日本の委員田中館博士に此旨を通じて来たこそで、同博士は中村中央気象台長、横田博士等と協議の結果、先づ加藤外務大臣、岡、八代陸海軍大臣、一木文部大臣に請願したので、偖こそ同問題が閣議に付する事となったのである。八代海相は田中館博士に対して「斯る学者を俘虜として埋らして置くは惜い事だ。是が為め世界の学問上に影響を及ぼすとあれば尚更であるから

▲帝国の監督 の下に観測せしめたが好からう。閣議に於ては無論賛成する」と語り、其他の閣員も多少反対の意見はあるが戦争と学問とは別問題であるから、学問を尊重して此際学者の請ひを容れようと云ふ度量があるらしい。因に曩に大石□学士が

▲青島観象臺 に出張して調査した報告書及び現同観象臺主任伊東海軍技師の報告書に基き磁力観測機其他の修繕費を取調べた所、約五千円もあれば好い相で此修繕をなした暁マイヤマンが熊本の収容所から青島観象臺に帰る事になったら青島観象臺が再び役に立つ事になるのである。

  △俘虜仲間に敬重せらる  近々細君が来る

マイヤマンの赦免問題につき松木熊本俘虜収容所長は曰く、未だ本省より同人の件につきては何等の公報なく、又内報もなきを以て当収容所にては同人に対して何等の手数もなさざるも、同人はドクトルの学位を有し戦争前青島観象臺長を勤務し居りしだけ、熊本収容以来他の俘虜将校と態度に於いても日常の状況も些か相違せる所あり。常に読書に耽り真に学者肌の所あるを見受け居れり。書簡等の文句より見れば小心な人のやうに思はるるも、学問を尊重する独逸人は同人に対して大に敬意を表し居るが如し。同人は読書に飽けば写真機を携へて所内を撮影して無聊を慰し居れり。細君は本月末日鎮南浦発にて熊本を来訪する筈にて、既に通知し来れりと。

 

<大正4年4月4日/3面>

●青島天文臺長の妻  子供と下女を連れて熊本へ

青島天文臺長マッチルダ・マイヤ−マンは我軍の為に捕虜となり熊本に収容されたるが、同人の技術は斯界に貢献する所鮮少ならず、学術上の見地よりして同人を放免すべしとの説閣議に上りたることは既報の如くなるが、同人の妻(三二)は良人マイヤ−マンの捕虜となるや、五歳になる長女イルムタフトと二歳になる長男ハガインハフト及下女一名を携へ天津に去り、米国領事の保護に淋しき

▲詫住居を為し 居りしが、曩に学術の為マイヤ−マンを赦免すべしとの説日本の閣議に上れりとの報を耳にするや、飛立つ許り喜び一日も早く良人の赦免あれがしと祈り居りしが、斯くなりては天津に詫住居するも、心焦ちて心も気も添はぬ思ひぞするより、在天津の米国領事より在東京の米国大使の手を経て陸軍省に願ひ出て面会の許可を得、去月二十六日其の許可書の到着せしより、便船を待ち山東丸に乗り込み一日午前八時門司に着し、直に馬関に渡り山陽ホテルに投宿し、二日朝の急行列車に乗り、午後三時過ぎリ−デルスタイン夫人等の出迎を受け、熊本市新屋敷傘七番町リ夫人の付近に一家を借りて住込み、三日午前俘虜収容所に出頭し

▲松本所長に 面会し、郎君への面会を願出でたるが、マ夫人は郎君と分れて海山遠く隔てて詫住居せしこと七ヶ月半に及び、マダ幼き二人の姉弟も父を恋ひ詫び居りしに、今回赦免の噂を聞き飛立つ思ひして熊本に来り。良人に面会するを得ることとなりしは真に嬉しき限りにて、日本政府の情は言葉に尽せず嬉しきを感じ居れり。子供等も嘸かし喜ぶことならんが、子供等の面会は所長の許可を得て後にする事として、単独にて来訪せりと語り、尚郎君の身の上に就いて語って曰く、良人マイヤ−マン赦免の事は未だ確定し居らぬより

▲当分熊本に 滞在し、良人を慰むる考へにて、一日も早く良人赦免の日を神がけて祈り居れり。日本の俘虜に対する待遇は非常に親切であるとの話も聞き、良人よりの手紙にもあり大に安心しては居たものの良人の健全な姿を見ぬまでは安心が出来ぬけれども、良人赦免の噂ありと聞いた時の嬉しさは今思うては尚夢の如く思はれ居れり。赦免の確定し居らぬ由を聞きては又落胆せしも、良人と同一土地に暮し折々の面会を得る事は思ひも寄らぬ喜びで、殊に二人の子が非常に父を慕ひドンなに言ひ聞かせても思ひ出しては泣出すには困り抜きしが、父に逢ふ事が叶へば如何ばかり喜ぶ事でせう。早く戦争が済んで平和の光が輝き出でん事を祈ってゐる云々と。松木所長は直にマイヤ−マンに妻女来訪の旨を通じ面会せしめしが、夫人は更に子供等の面会を許可し呉れずやと問ひ、松木所長も既に情報局より

▲父子面会も 許可しある事とて快諾すれば両人大に喜び、直に車を以て二児を迎へ面会せしめしに両人忽ち父に取縋り熱きキッスを交したる。親子の情は同所員悉く同情の涙に咽びしといふ。夫妻は二児と互に健康を祝し、一応二児を返し、更に細君と面談して一別以来の尽きぬ物語に耽りしと。因に熊本俘虜収容所にはマイヤ−マン赦免に関しては何等の通報なしと。

 

<大正4年4月17日/3面> (写真……俘虜水兵の葬儀)

●俘虜水兵シルリングの葬儀  小峰墓地に埋葬す

熊本市細工町俘虜収容所の一等水兵カ−ルシルリングの葬儀は十六日午前九時三十分熊本市手取本町天主公教会教会堂にて行はれたり。収容所にては十五日午後三時上河原火葬場にて屍体を荼毘に付し、遺骨は十六日早朝同教会堂に送られ松木収容所長、渡辺大尉以下所員一同、師団よりは牧副官、衛戍病院よりは肥田病院長会葬し、俘虜将校全員及細工町収容所よりは各寺院より十名宛の代表者会葬し、深堀宣教師は聖堂に棺を迎へ

▲入堂の式 あり。聖人来リ彼を助け天使は出でヽ彼を迎へ云々の□□にて棺は聖堂に安置され、六本の燭は悲しき光を放ちて収容所職員、俘虜将校より献じたる十個の花輪を照し、煙の如く降り続く屋外まで立つくせる会葬者、粛として控える内に深堀氏の祈祷あり。細工町俘虜は「未来の安住」なる哀悼歌を唱へ、赦□式に移りオルガンの合唱する悲哀の曲、堂内に起れば燭光瞬いて死者生前の

▲罪科は赦され 司祭者は更に□文を黙□しつヽ聖水を灌きて死体を清め、香を燻じてキリストとの芳しき香を湛へ死者の罪科は悉く清められて式を終り、午前十時より棺は会葬者に囲まれて市外黒髪村小峰官軍墓地へと送られ、埋棺の式あり。聖水、浄土は松木所長以下によりて投ぜられ、花輪に掩はれし土饅頭に木の香高き

▲十字架の墓標 建てられたるが、会葬者中青島以来の朋友パウレルは俘虜将校より贈れる花輪を両手に確と握りて放し□得せ□。朋友永遠の別れに涙を流して立去り□□たるは真に憐れを極めたり。

 

<大正4年4月17日/3面>

  看護長の夢  −死んだ俘虜に追はる−

青島籠城前から胃癌に罹って酒とス−プとで命を繋いでゐた熊本俘虜収容所細工町の俘虜カ−ル・シルリングがいよいよ重態となって、本月初めから熊本衛戍病院に入院し日に弱り行く容態にて到底快復は六ヶ敷からうと医員も匙を投た。此時最初より肉親も□ならぬ迄に熱心に看護してゐた収容所の野田看護長は公務に妨げぬ限り、更に寝食を忘れて看護してゐた。十四日夜は当直の為に親しく見舞ってやる暇もなく、多忙な公務を終って□□二名と宿直室に入って十時頃寝に就いた。一室に枕を並べて寝た三人は、間もなく深い眠に落ちた。ト突然野田看護長は凄い唸りごゑを発し身を悶えて夜具を蹴る。其物音に他の二人の下士は眼を覚した。隣床の看護長は夜具を□れ敷布を踏んで七転八倒の苦しみである。二人は均しく看護長を揺起し呼起して子細を聞いた。看護長は全身の汗を拭き拭き、室内を見回て「今シルリングが来た。何だか淋しい凄い顔をして自分を追掛けた。其早い事、恐ろしかった事は産れて初めてだった」と尚動悸がしゐるやうだ。而し間もなく三人は笑って再び温い床に入ったが、翌朝彼の死を聞いて時間を思合せると、彼の死後二時間余過ぎてゐたようである。

 

<大正4年4月26日/3面>

  俘虜の食料運搬(写真とその説明)

 熊本収容の俘虜連は自炊を許されて以来、献立表に依て渡される食料品を受取っては車に積んで帰るニコニコ顔。

 

<大正4年5月15日/2面>

●俘虜雇傭心得

独墺国俘虜にして工業に関する業務に従事したる者の中、其技能優秀にして之を本邦工業に使用するに於ては相当の効果を挙け得べき者も之れ有るべく、先般陸軍省に於て其業体及び経歴等取調べたるが、其結果は左記の通りなれば本県当事者も若し試みに之を使用せんとする者は其使用員数、業務、期間、支出給料最高限度等回報すべき様農商務省商工局長岡實氏より川上知事宛照会ありたり。使用者の承知すべき事項、左の如し。

 一、俘虜には一定の給料を□ふる事。

 二、使用者に於て通訳を付すべき事。

 三、逃走等に対する取締及び収容所よりの往復の監視は使用者に於て□当の方法を講ず   る事。

尚ほ収容俘虜四百四十人の職業別は左の如くなれり。

 ▲麦酒製造業二四人▲□□製造業三人▲□□□□工一 ▲指物師一○一▲□革□一○▲ 染色業一二▲腸詰製造業四○▲革工二一▲電気工八五▲自動車製造業三二▲麺麭製造業 六三▲□□業五▲金□□工七▲葡萄酒製造一▲飛行機製造一▲□□製造業一▲製針業二 ▲□□製造業二○▲染料製造業七▲化学工業七

 

<大正4年5月18日/3面>

 ●静養軒の瓢会  肥後瓢の独逸行

熊本瓢会は十七日午前九時より手取本町静養軒に於て開かれた。定刻前に会員等が持寄りたる……(中略)……松木俘虜収容所長は東洋趣味を見せんと俘虜将校三十余名を連れて来る。

▲俘虜将校は □さまに第二席より第一席に流れ込んだが、是れは如何にも面白い。帰国のお土産には絶好のものだとばかり、気に入った瓢と見ると誰が何と言ったって許さない、といふ風で買ふは買ふは、殆ど売って好い代物は買って了って、あはや熊本瓢会は俘虜将校の為めに荒らし終られんとした位ゐ。高階会長大に気を揉み、売るな売るなと言って居る内、更に又た会員の出品者があったので会長辛っと胸撫で下ろして安心の体であった。此の事実は瓢会は寧ろ

▲意外の出来事 だったが、能く考へると肥後瓢の海外行きは蓋し之を

 

<大正4年5月18日/3面>

 ●俘虜と薔薇の花  将校連の皆花園行

当地の俘虜将校四十余名は□□十時頃、渡邉大尉の引率にて市外本荘の皆花園に薔薇見物に行き、咲き乱れたる花の色に見惚れ、香を聞き乍ら祖国の春を偲び、園内を一時間ばかり逍遥して立帰りたるが、彼等は一体に白と紅との色を好まず淡紅、枇杷色、黄色の花を□びて蟇口を軽くした□□も少からず、中には乙に出掛けて野□の石付を買ひ、上海在住の嬶殿へ遥々発送を頼みたる者もあり。

 

<大正4年5月22日/3面>

 ●俘虜移転  熊本の全部が遠からず久留米へ

熊本、福岡、其他の俘虜収容所が数ヶ所に併合さるべしとの噂は屡報せしが、熊本俘虜収容所全部と福岡収容所の一部との移転閉鎖命令、二十日所管師団長に到達せり。松木熊本俘虜収容所長は曰く。二十日、第六師団長より熊本俘虜収容所全部を久留米に移し

▲熊本収容所閉鎖 し、所長以下は原隊に復帰し通訳等は解雇すべしとの陸軍省命令の通達ありしを以て、直に其準備に着手せるが熊本収容現俘虜数は六百五十一名にして内三名監獄に、三名は入院中にして之等全部を久留米に移転せしむるには師団に於て万事処理する筈にて移転期日も目下不明なるが、六百余の熊本俘虜は久留米衛戍病院のバラックに収容され福岡の一部も此処に容れらるる事とて久留米に於ける収容準備も相当の日子も要すべく同師団は目下検閲中のもあり旁夫等の準備は多少遅延すべきを以て

▲移転は来月上旬 なるべし。熊本収容所の開始命令は昨年十一月十一日にして、第一回に俘虜四百余名を受領せしは同月十六日にて十七、十九、二十二日及び三十日の五回に八百七十五名を収容し、更に二百十六名を大分収容所に移動せしめ、百八十余日親しく彼等の取締に任じたる間犯罪者十七名を出し、全国俘虜四千六百十八名中最も重刑たる禁固一年に処せられし者三名を出せしは遺憾なりとするも、他は比較的軽罪者なりしは幸なりき。三年以前彼等の本国に在りし予の百余日、彼等の世話をして今此処に彼等を他に移すは多少の感なき能はす云々と語れり。俘虜昨今の費消金額は十日毎に

▲千円乃至千五百円 なるが、八百余名の際は二千円を経過し居りたれば単に俘虜日用品代のみにて平均十日千二百円として、仮りに移転迄に二百日と見て二十四万円許り熊本に撒き散らせし訳なり。其他陸軍省よりの支出等を合算すれば莫大のものとなるべし。俘虜連は以前より移転説を伝へ聞きて所員に種々セガみ居る由なるが、昨日来俄に忙しき収容事務所の模様を見て将校等は早くも移転決定を合点し、三十二名の将校中唯一名久留米に親友ある者の外は悉く見ず知らずの久留米に行くを憂ひ

▲姑を恐るヽ花嫁 の如く心配し居れり。又懐しき熊本を去れば、又来る事は当分六ヶ敷きにより精養軒で芸者を揚げてウンと騒ぎたしなと巫山戯居る日本通の将校もあり。貴官の監督から放れるを悲しみますと泣面する従卒などもありて、俘虜連は悲喜交々の態なるが、第一に弱ってゐるは細君の来熊し居る連中にて、久留米に行けば多数の将校となり、面会日も今の如く頻繁に来ず移転にも金がかかるとコボシ居るもありたり。

 

<大正4年5月22日/3面>

 ■俘虜と木遣音頭

今秋開かるヽ熊本市主催大典記念国産共進会場建設の為め熊本俘虜収容事務所が物産館構内から県会議場に移さるヽと、同所の広場が俘虜の運動場となり将校は午後三時から一時間自由運動を許されて大喜び。従卒連も大喜び。ファウスト・ボ−ルで腹ごなしをしてゐる。一昨日は共進会事務所が広場の一隅に建てられるので地搗きが初まったが、エ−イトエ−イトの美音と面白い軽い調子が堪らずイゝとあって、将校連はソロソロ見物に来る。写真器を抱出すがあるかと見れば、アノ声を蓄音機に入れたいと収容所員にセガむもあり。一時は大賑合ひであった相だ。

 

<大正4年5月23日/3面>

 ●地図の上の進軍  俘虜元気づく

破竹の勢を以てガリシア方面に殺到した露軍は忽ち墺軍を叩き付け、独軍の鼻ッ柱を折って戦況大変化を来し、さしも傲慢な独逸人も甚だ心細く思ったと見え、熊本収容の俘虜連は其居室に掲げた地図に毎日日課の如く

▲両軍勝敗の旗 を進めてゐたのを一時中止して悄然としてゐたが、近来独軍の形勢が□に好くなったので俄に赤い高い鼻を□かし、地図の上では一足飛びに露軍ゐ撃退し昨日報ぜられたプルセミスル要塞などは□の昔陥落し独軍は荒獅子の如く露軍を薙倒し

▲国境を越えて 遥か露領に侵入してゐる。一昨日などは物産館構内の将校連は一室に会してシャンパンの盃を上げ、大勝利を祝し合った相だ。而して其言草が面白い。一時は我勇猛な将士も□□□□□蛮勇な露人の為めに□地を蹂躙され残念ながら此秋までには平和を願はねばならぬ事と思って国を憂へてゐたが、昨今では最早

▲我国の大勝利 は少しの疑もない。露軍を打滅しペテルグラ−ドニ城下の誓をさせるは遅くも二ヶ月を出ぬ。而し仏国を滅し、更に英国を降伏させるには其処に越え難い海があり英国の海軍がゐるから、一寸□の国を亡ぼすやうな調子には行かぬ。仏国を亡ぼすに一二ヶ月を要し、英軍を海の彼方に追出して後、英国海軍の掃滅を断行し制海権を得て、夫から静かに倫敦攻撃を行はねばならぬ。之には少くとも半年を要する。従って独逸が欧州第一の強国となり

▲全欧を支配す べく平和条約を取結び我々俘虜が戦勝国民として放たれ、名誉ある独逸国民として諸君に別れるのは一年の後となるが、放れた後は囚はれ時代に受けた厚意に対しては数倍にして善き返礼をするぞと頗る気炎を上げて収容所員を吹飛した相だ。

 

<大正4年5月26日/2面>

 ●収容所長更迭

本日左の通り任命ありたり。

   歩兵第五十三連隊附中佐

            正木(ママ)甚三郎

 任久留米俘虜収容所長

   久留米俘虜収容所長

   歩兵第四十八連隊附少佐

            樫村 弘道

 免久留米俘虜収容所長 命同俘虜収容所附

 

<大正4年5月26日/3面>

 ●俘虜六百余名の引越し  熊本より久留米へ

熊本俘虜収容所に収容せる独逸俘虜全部は六月九日午後一時迄に

▲久留米に到着 するやう昨日第六師団長より松木熊本俘虜収容所長に指令ありたるを以て、同収容所にては俄に多忙を極め居れり。同所長は曰く、九日午後一時久留米到着の指令なるを以て、同日は遅くも午前九時には熊本駅出発の事となるべく、夫等の輸送計画は総て師団司令部にて行ふ筈なるが総員六百五十一名を

▲一回に輸送 するは随分困難なるべく、尚所持品一切も同時に輸送し久留米駅にて当所長と久留米収容所長と授受を終るべしとの命令なり云々。俘虜連も既に移転の事を知り、夫々荷物運搬等の準備に着手し従卒や細工町、横手等に居る下士以下の面々は久留米に行けば福岡よりも相前後して移転し来る事とて

▲知巳俄に増加 し、俘虜相当楽き日を送らるべしと大喜びにニコニコして仕事し居れり。将校中の名物男チンメルマンなどは久留米に行くのに狭い汽車で運ばれるは苦痛だから一層の事徒歩で連れて行って貰ひ度いなど贅を並べ居るもあり。収容所全部

▲俄に色めき 立ちたり。因に九日移転後残務整理に相当の日子を要するを以て、熊本俘虜収容所閉鎖は一二旬の後なるべし。

 

<大正4年5月27日/3面>

 ●俘虜の妻大弱り  移転の事を聞て

熊本収容の俘虜全部が来月九日久留米に移□□□事に決定した。次第は曩に報道したが在熊中の俘虜将校の細君連は俘虜引越しの噂を聞き、俄かに□げ返って当惑の体とある。恋しい夫を尋ねて玄海の荒波を乗切り、熊本に来て居を構へ陸軍大臣の情に依って焦るヽ夫に

▲一週二回宛の 面会を許され、ヤレ嬉しやと指折数へて其日を待ち大満足で敵□に在るも忘れ勝ちに□に堪能なリ−デルスタイン夫人などは毎日□□□□と口を□めて□美する熊本郊外の

▲風景を写生し 象牙や紫壇細工の根付けを買込んでは、夫のお褒め言葉を無上に喜び、又プラシュマ伯夫人は二人の子供を相手に夫伯爵への菓子など拵へて□憂さを忘れてゐたに突然、久留米移転と聞いては□□□□□□□お定りの天に在します神よテナ事を云って弱ってゐる。プラシュマ伯夫人の如きは

▲子供を相手に 阿蘇垂玉の温泉に此夏を送り、面会日を自動車で熊本に来やうと意気込んでゐたのに此始末とは余りに無情だと大コボしてゐるといふ。又細君来熊の俘虜将校連は熊本収容所の渡邉大尉が久留米出身と何処から知ったか聞出して、ドウか妻の住込むべき家を世話して下さいとせがみ、跳付られるとソンなら貴官の邸が高良山だといふから其処を是非貸して下さいと渡邉大尉の姿さへ見れば皆が取巻いて□イ□イ頼み込むかと見ればセッセと

▲荷物の取形付 を急いでゐる。昨日の如きは俘虜総計六千二百余円ある貯金を引出して一思ひに呑み度いなどと贅を申込み、係員を忙殺させるやら叱られるやら面白い事が演じられてゐる。

 

<大正4年6月3日/3面>

 ●俘虜伯爵婦人の家に強盗  脅迫して二百四十余園を奪ふ昨日午前四時二十分熊本市京町独逸俘虜伯爵プラシュマ妻ア−チス(二九)の寓居に覆面の強盗、裏口より押入り下女を起してア−リスの寝所に案内させ、短刀を差突け脅迫文句を並べて二百四十三円余を奪ひ立去りたるが、賊は二十七八才、中肉中背の男なりし由にて熊本署にては目下犯人□□中なり。

 

<大正4年6月4日/3面>

 ●収容所の閉鎖  俘虜に記念品

熊本俘虜収容所の俘虜全部が九日久留米に移転することは既報せしが、二日付を以て第六師団長は松木収容所長に対し正式に

▲収容所閉鎖命令 を発したり。残務は松木所長、渡邉大尉以下七名にて九日より十四日以内に整理し整理後、原隊に復帰する事となりしが、収容所にては八日限り酒保を閉鎖し、九日午前熊本出発と同時に各収容所の衛兵を撤し所長は久留米に赴き、久留米駅にて俘虜全員を引渡し、俘虜の荷物は七日より八日迄三回に発送し

▲愈全部を移転 せしむるに決定し其準備中なるが、一昨日収容所よりは記念として俘虜将校に錫製のコップ、下士には学生袋と熊本名所絵葉書を贈り、俘虜連中は所員を捉へて頻に別れを惜み居れり。

 

<大正4年6月4日/3面>

 ●滑稽合点と合点  俘虜と郵便局員

三四日前の或夜熊本市物産館内竹矢来の中に数ヶ月を詫住居してゐる俘虜従卒の一人がキョトキョト眼して部屋を飛び出し、将校室の裏手を一散に駆け行く姿の只事ならぬに怪しと踉けて見ると隣合せの坪井郵便局の裏窓に手をかけヒラリと飛び上った身軽さ。ハテ可笑な事だと思ふ間もなく十円札を衣□から摘み出し、赤毛の生えた腕を小窓から突出し、手真似をしながらベラベラ喋舌り立つるので当直局員は一時驚いたが、十円札を出しての手真似、ハヽア小銭に替へて呉れとの頼みだらうと合点して五円札一枚と一円札、五十銭銀貨などを取交ぜて渡すをダンケダンケと受取りた俘虜は、其内から一円五十銭を摘み出しサクラビ−ルサクラビ−ルと又頻りに繰返す。局員漸くビ−ルが欲しいのだと合点したが、郵便局ではお門違ひの願ひの筋も聞届けられず手□眼やう暫くあって、俘虜も合点が行き、困りました、左様ナラと大悄けに悄けて帰った。此事を所員が聞付け能く能く調べて見ると、其夜は酒保の番人が急用の為め店を閉して帰って行った。夫れとも知ぬ俘虜従卒。将校を静に寝せての後の一杯と酒保を見ると、既に閉店。ヤレ残念と一思案の末、郵便局の裏窓からビ−ル半打を買求めやうと、扨てこそ珍粉漢の押問答をしたのと知れ一同腹を抱へて笑った相な。

 

<大正4年6月5日/3面>

 ●変装に巧みな兇賊  さながら活動写真のごとし

            或は伯爵夫人を襲うた賊か

去二日朝熊本市京町独逸俘虜夫人の寓居に強盗押入り、夫人を脅迫して二百四十余円を奪ひ立去りたる時刻より約四十分を経過せる頃、熊本署竹下刑事は被害者の訴へにより現場臨検の途中……(中略)……

▲俘虜伯爵夫人を襲ひたる強盗 の人相、年齢と符号し居る上、被害後付近の土の付着せる衣類を着用して徘徊せる等怪しむべき点多く……(後略)

<大正4年6月8日/3面>

 ●移転する俘虜  九日朝九時出発

熊本俘虜収容所が閉鎖となり俘虜全部が九日午後一時迄に久留米に移転することは既報したが、愈同日午前九時一同熊本駅に集合して特別列車に乗込み松木所長以下に護衛され久留米に向け十二時過ぎ同駅着。午後一時迄に久留米収容所長に引渡さるる事に決し、炊事道具を始め手回りや玩具まで仰山に荷造りして当日を待ち居れり。

 

<大正4年6月10日/3面>

 ●俘虜六百余名 引越しの日  前後の日本料理

                国歌合唱で出発

去年十一月十六日から熊本住まひをしてゐた独逸の俘虜連中は久留米移転を命ぜられて昨日午前九時熊本駅発

▲臨時列車で 出発した。松木所長は十二時三十一分久留米駅着の上、同地の所長に六名の病人と元気な六百四十四名を残らず引渡したが、出発し前夜は物産館に居た将校全部にフライ一皿の外は全部日本料理の夕食が

▲熊本最後の 御馳走として並べられた。日本で産れて暫時独逸に□った□り□年近くも日本に居って日本語は我々同様にベラベラ喋れるスクリッバ少尉を初め日本通の連中は大喜び。久々でお刺身の御馳走と早速箸を付けるものあり。

▲臍の緒切て 初めての日本料理。ドウ食ってよいか方法が分らず、所長初め渡邉大尉などに頻に聞くのもあり。吸物が第一番だと聞いて少し吸うて残したのを一度に皆食ひますかと変な顔をしてゾロゾロパクリとやる。小刀とホ−クを封じられ杉の割箸のみを与へられたので二つに割ったのを両手に一本宛握って刺身を突掛けて食ふのもあり。

▲珍妙な光景 抱腹絶倒以上であったが、彼等の食事に無くては叶はぬビ−ルを禁じ日本酒のみとしたので定めて困ると思ひの外彼等は大喜び。一人当り一合平均のが足りず、追注文で係員は目を回し、一升徳利が五六本も酒保に俄に舞ひ込んだ。一同満悦、お世辞ダラダラ

▲日本酒の酔 で寝床に這入る。横手、細工町の各寺院組は夕食後スク寝床に入ったか、明けて九日午前四時頃からコソコソ起上って、彼方此方で荷造りや旅支度を急ぐのは各所同一。折柄降頻る雨を恨んでは、何故雨の日を特に選んだのだ。困るから明日に延期せよと所員の誰彼を虐める。渡邉大尉抜らず

▲別れの涙雨 だと説明に及ぶとアハ……と許り一同納得。午前七時半から熊本駅に行く。横手、細工町組は下士以下だけに外套もあれば油紙を裾長く羽織ったもあり。外套なしの丸濡れもある。将校連は流石金に不自由でないだけ、アノ美しい外套を着た上に

▲日本の雨傘 を翳したのが多い。従卒は両手に、背に、肩にウンと荷物を携へて汗と雨とで顔一杯の水。夫れでも細工町辺で若い女を見ると、日本語で「左様なら」と浴せて行く。停車場には新納熊本憲兵隊長、長富師団副官等が見送りに来てゐる。松木所長以下の所員は残らす□万端の世話を済まし

▲別離の握手 は十八繋いだ列車の窓毎に初まり、発車と共に□□た力強い彼等の声がホ−ムに籠って□て独逸国歌を歌ふ。熊本に於ける終りの声は九時の汽笛と共に遠ざかったが、尚熊本には□□阿弥陀寺から飛出し長崎に逃げんとした五名の俘虜が監獄住をして残ってゐる。

  △久留米に到着  雨中の珍行列

九日午前九時熊本を出発したる独逸俘虜将校シュットラット大尉以下六百五十名は松木少佐、黒川一等軍医、丸山中尉、野田看護長、衛兵、将校、一下士卒三十八名に護衛され、零時三十六分久留米に着したり。列車は二十二台の臨時発にて、将校は三台の一二等車に分乗したるが車中は大元気で

▲軍歌などを 歌ひ、窓外を眺めて楽気に語り合ひ、身敵国にあるを知らざる者の如く停車すると争うてホ−ムに降り立ち、手に手に荷物を提げては降る雨の中を熊本で買った和傘を翳し、ナポレオン帽や軍帽などの将校連中と柳行李やバケツ、薬罐などを提げるもあり。背には

▲大風呂敷包み や大雑嚢を背負ひたる珍な姿に、見物人は雨を物ともせず押かけて見物する中を泥を踏みて共進会跡にて点呼を受け樫村少佐の訓示あり。小憩の後一時半、徒歩国分村衛戍病院仮収容所に入り、十八棟のバラックに住込みたり。福岡に居りし俘虜は准士官四、下士六、卒百二十二名、合計百三十三名も同日午後二時十九分着米し、前同様の手数にて柴田、守山両中尉より樫村少佐に引渡され、三時徒歩にて

▲収容所に向ひ たるが、之にて久留米に於ける俘虜数千三百十九名となれり。(久留米電話)

  △福岡よりも移転  百余名久留米へ

福岡に於ける収容俘虜中下士以下百三十三名は九日、森山中尉引率、福岡連隊より柴田中尉指揮の下に五名の下士卒警衛し、零時五十七分博多駅発列車にて久留米に向日、同地収容所に転容されたり。尚ほ不日習志野に九十五名、名古屋に百二十四名、青野原に九十名を転容せしめらるる筈に付、福岡に残存すべき俘虜の数は総督以下四百七名となるべしと。(福岡電話)