草野心平 詩集『全天』について
 
           英米文学科英米文学コース一年 小阪森人
 
 僕は今までに、これ程奇抜性に富んだ詩集を読んだことは無かった。この詩集の中には、僕が今までに出会ったことのない表現、詩の要素が無数に鏤められていた。例えばそれは、完全な小説的散文によって書かれた「それが生きてる時の最後だった」や、擬声語(オノマトペ)のみによって書かれた「蛙連邦行進曲」や、完全な英詩「dying-fantasy」に表れている。勿論、奇抜であればある程いいというのでは決してないが、そうすることが読者に鮮烈な感動を受けやすくさせる効果を持つことは否めない。
 詩というものは、現代に至って形式(五七五調)を無くした故、非常に自由な表現が可能になったが、逆にそのことによって形式の持つ長所(メリット)も無くした。つまり、詩は形式の中に納めることによって、どんなに拙劣な詩でもその形式の持つ<美的言語抑揚>という隠れ蓑に匿われ、拙劣なりにも詩として成り立つ事が出来たが、それから離れることによってその長所(メリット)の代替物を、形式とは違ったものに求めなければならなくなったのである。そしてそれが奇抜性に始まる、有らゆる技術を駆使することに繋がったのであると僕は認識している。
 しかし、この詩集はそれを除いても全くそれの持つ素晴らしさを失わないものと確信する。というのは、この詩集は奇抜性を「生かしている」のであって、それに「生かされている」のではないからである。この詩集を構成する一編一編の詩の持つ言葉の美しさは、それのみでこの詩集を偉大なる詩人「草野心平」の最も優れた詩集の一つとして君臨すると僕に考えしめるに充分余りあるものである。
 次に、具体的に彼の詩における技法について述べる。
 この詩人は、静的なものを動的に躍如として描くことに非常に長けた人間であると思う。例えば、その技術を最も僕に如実に伝えたものが、次に引用する「若い溶岩流」という一編の詩である。
 
 どろどろの流れは。
 どろどろ流れ。
 麓の雑木共をなぎ倒し。
 太い生木共はぶすぶすいぶり燃えあがり。
 倒れた生木共はどろどろの流れに埋まり。
 または燃えながらながれにのり。
 どろどろの流れは。
 海辺の家を押し倒し。
 家ごと海におんでてゆく
 ひるまは煙の積乱雲。
 もくもくもうもうの煙幕を張り。
 夜にはひれば幅広い火の大川。
 海は無数の尖った赤い舌をおつたて吼えまはる。
 けれどもしかし。
 黒こげのまま突つたてゐるふてぶてしい樹木もある。
 死んだまま突つたてゐるのだ。
 どろどろの若い溶岩流も。
 やがては然し。
 あつちこつちにへこんだ臍をつけたり。
 疱瘡(あばた)になつたり。
 針鼠になつたり。
 全体が黒い縞型に固まつて。
 死ぬ。
 
 この文章の進行は、「文章の流れに乗った」と形容するに相応しい。また、巧みな句読点、擬人法の使用などが相俟って生まれる躍動感、終わりの「死ぬ」という言葉によってその躍動感を全て打ち消すときに生まれる、えもいわぬ静謐感、そしてそれらを構成する言葉のどれを他の言葉に置き換えても、この詩の持つ情を損ねてしまうと思われるほどの完全性をこの詩は秘めている。
 また次に引用する「曼珠沙華」という詩に至っては、読んでいて心内に震えを感じた。
 
 連続してゐた颱風の眼も。
 遠く消え去り。
 透明サファイヤの風が流れる。
 
   土の中からシュンとたつ。
   その緑の茎のてっぺんの。
   血の花火。
 
   上天の華であるべきものが。
   地から生え。
   奇想天外の模様をひらく。
 
 透明サファイヤの風にゆれゆれ。
 
 この詩には絶句してしまう。これ程までに素晴らしい色彩感覚を持った詩を僕は知らない。「透明サファイヤの風」という言葉の持つ清純な透明感漂う青のイメージの中で、「血の花火」という言葉の持つ鮮やかな赤のイメージがゆれている、という情景が醸し出す映像効果。ここでは実際の曼珠沙華よりも、ヴィジョンとしてのそれの方が格段に優った美質を具えていると考えざるを得ない。実際、詩においてはそういったものこそ真の価値を持ち得るのではなかろうか。自然の景観に感動してそれを詩によって表現するということは、その表現されたものが実際の自然の景観の美を越えていない場合、その当事者自身においては意義が有るかも知れないが、それは客観的価値を持つことは不可能であろう、なぜならその場合、詩を読む事自体の必要性は無く、その代わりに実際の自然の景観美に魅せられればそれで事足りるであろうからである。
 この詩集は僕にとって非常に得るところ多く、また詩に対する鑑識眼を肥やす役目もあったように思う。また、この詩集を読んで、日本語の美しさというものを、まるで古典を読んでいるときの様に再認識させられた。現代、日本語は腐敗の傾向を呈している様に思われるが、それ程遠くない過去において、これ程までに美しい日本語を書く作家がいたのだと思うと、希望が自ずから沸き上がってくるのを感じる。そしてまた、次の世代を担う我々若い世代は、限りなく不可能に近いことに思われるが、それ(日本語の美質)を向上させるとまではいかなくとも、今ある状態に保つ努力をしていかなければならない事を考え、その荷の重さに押し拉げられる事を余儀なくさせられているのであると感じずにはいられない。