大正五年度
 
 
大正五年一月一日  曇 時々 雨
 午前九時所長事務所に於て無位無勲の下士及判任官待遇者の拝賀を受け直に式部職宛言上書を呈出す終て所長職員一同に対し年末の所感及年始の希望を述ふ
 衛戌司令官午后十時より将校収容所を同十時四十分より准士官以下収容所を巡視せらる
 
大正五年一月二日  晴
 午後五時三十分より同七時三十分迄俘虜准士官以下一同音楽会を施行す
 
大正五年一月三日  晴
 午前俘虜准士官以下二百六十六名補助将校奥山中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年一月四日  晴
 午前俘虜将校並従卒悉皆(ランセル大尉を除く)補助将校遠山中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午后所附看護長山地岩太を左記の如く処分す
        陸軍一等看護長  山地岩太
    右大正五年一月一日所附軍医の命に依り備付薬剤行李を衛兵所に預入れたる際同   行李閉鎖上の注意不充分なりし件不都合に付譴責す
 
大正五年一月五日  晴
 記事なし
 
大正五年一月六日  晴
 記事為し
 
大正五年一月七日  晴
 
 午前十時在熊本市宣教師ウィルヘルム、グンデルト俘虜慰問の為来所せしに依り先所長応接し該宣教師は初めての来所なるを以て特に俘虜の状況を詳述したる後宣教師よりも説教の要旨を述へしめ所長及所員市川中尉並通訳立会の上午前十一時准士官以下収容所に到り俘虜将校以下(将校及同従卒は午前十時五十分招致す但しランセル大尉は除く)に対し宗教上の礼拝及左記要旨の説教を施行す
    基督降誕祭の記憶未た新たなる今日に於て再ひ基督降誕祭に関して説くは無益の   事にあらさるへし我等は基督降誕の当日を救世主出現の日として喜ひ祝ふこれ当然   のことなり、されと単に賑はしき祭典を催して此の聖日を紀年するのみにては基督   降誕の価値と意義とを充分ならしむるに足らすと信す我等は此の祭日に際して基督   の一生に於ける実際生活を観察し彼か救世主としての聖き生活より我等の生活に対   する光と力とを収得し此の聖日を期して更により多くの光と力とに充ちたる新生活   を始めさるへからす斯くして此の聖日を迎ふる毎に益々我等の生活は聖めらるるに   至らん茲に於て初めて基督降誕祭を充分に価値あらしめ意義あらしめ得と信す
 右終て午后零時十五分退所帰途に就く
 
大正五年一月八日  曇 午后 小雨
 午前俘虜准士官以下二百八十一名補助将校齊藤中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年一月九日  雨
 記事なし
 
大正五年一月十日  晴
 記事なし
 
大正五年一月十一日 晴
 記事なし
 
大正五年一月十二日 晴
 午前俘虜准士官以下弐百四十一名補助将校小田少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年一月十三日  晴
 記事なし
 
大正五年一月十四日  晴
 午前俘虜将校(ランセル大尉を除く)並従卒一同補助将校佐藤中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年一月十五日  晴
 午前俘虜准士官以下二百三十一名補助将校漆原中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年一月十六日  晴
 午前俘虜マックス、ジマラ昨日中津公園に於て運動中時計を落失したるに付き捜索したき旨出願す依て僚友二名に護衛兵を附し之を許可せしに約二時間の後帰所発見せさる旨届出しに依り直に憲兵分憲所及警察署へ其旨届出を為す
 
大正五年一月十七日  晴
 本日所長依病引籠を為す
 
大正五年一月十八日  晴
 本日所長引続き引籠を為す
 午前俘虜伍長レーマン及同卒ベーアーの二名眼底検査の為丸亀衛戌病院に到る
 午前俘虜将校(ランセル大尉を除く)及従卒補助将校玉本中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午前名倉小松俘虜ラーデマッハに面会の為来所せしに依り所員宮地中尉立会の上面会せしむ談話の要旨は小松二月下旬頃当地引上けに関する相談並相互の近状なり終りに小松より絹製首巻一個を与ふ
 
大正五年一月一九日  晴
 所長本日より出勤す
 午前俘虜准士官以下弐百二十三名補助将校里見中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年一月二十日  晴
 記事なし
 
大正五年一月二十一日  晴
 午前俘虜将校(ランセル大尉を除く)及従卒一同補助将校楠瀬少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年一月二十二日  晴
 午前俘虜准士官以下弐百弐拾九名補助将校坂東中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午後索遜王国出身の俘虜宛ハンス、ドレンクハーンの仲介に依る寄贈金四拾七円七拾五銭を情報局通牒に基き例の如く俘虜両中隊班長を経て同准士官以下二十五名に交付す
 
大正五年一月二十三日  晴
 本日到着の官報を以て左記発表あり
           陸軍歩兵中佐石井彌四郎   
  任陸軍歩兵大佐(一月二十一日付)
 午前俘虜上等兵フリッツ、ワインホルツ所有の金側時計を昨二十二日夜紛失せし旨俘虜班長カール、バウツを経て届出しに依り両中隊班長に命し細密なる取調を為さしむ一方万一を顧慮し補助将校と協力して当夜服務の衛兵に対し厳密なる検査を施行し上番衛兵をして所内外に就き捜索を命し下肥汲取塵埃残飯搬出及出入商人の監視を厳密ならしむ
 午後六時より同七時三十分迄俘虜准士官以下所内本堂に於て音楽会を施行す
 
大正五年一月二十四日  晴
 午前昨朝俘虜届出たる時計発見せさるに付憲兵分遣所長の来所を乞ひ時計紛失の顛末を詳述し捜査を依頼し同様収容所附巡査にも依頼せり
 衛戌司令官には電話を以て報告す
 午後衛戌副官時計紛失の現場を視察し度旨を以て来所せしに依り所員市川中尉及田添憲兵分遣所長と共に所内に到り俘虜ワインホルツの寝床附近の視察を為す
 
大正五年一月二十五日  晴
 午前俘虜将校(ランセル大尉を除く)並従卒一同補助将校漆原中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午前在高松市宣教師エリクソン俘虜慰問の為来所せしに依り例の如く先所長応接の上俘虜の近況一般を述へたる後宣教師より慰問の要旨を聴取し午前十一時四十分所員市川中尉並通訳立会の上准士官以下収容所に到り俘虜中英語を解する者十数名に対し宗教上の雑話を為す午後一時三十分将校収容所に到り俘虜将校以下(ランセル大尉を除く)に対し補助将校漆原中尉立会の下に右同様慰問を為し午後二時三十分退所帰途に就く
 同宣教師より入室患者に対し蜜柑一籠を寄贈す
 
大正五年一月二十六日  晴
 午前俘虜准士官以下二百二十八名補助将校山崎中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午後師団経理部々員古庄主計来所営繕及陣営具等に関し協議す
 午後俘虜准士官以下に供用毛布の日光消毒を為さしむ
 
大正五年一月二十七日  晴
 所長進級申告の為善通寺師団司令部に出頭す
 午後善通寺憲兵隊長中佐鈴木武臣、副官及丸亀憲兵分遣所長と共に新任挨拶の為め来所す 序を以て所員市川中尉誘導の下に准士官以下収容所を視察す
 午後俘虜准士官以下月例身体検査を施行す
 
大正五年一月二十八日  晴
 午前豫てより服罰中のランセル大尉昨二十七日満罰に付挨拶の為来所せしに依り所要の注意を与ふ
 午前俘虜将校及従卒一同補助将校奥山中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午前名倉小松、アドルフ、ラーデマッハ及其の弟グスターフ、ラーデマッハに面会の為来所せしに依り所員宮地中尉立会の上面会せしむ用語は日本語にして小松両三日中に故郷播州へ帰国するに付告別並今後の所置に関し談話す   
 ア、ラーデマッハは旅費として金参拾円を小松に交付す
 
大正五年一月二十九日  晴
 午前俘虜准士官以下二百四十六名補助将校寺田中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年一月三十日  晴
 午前俘虜准士官以下門前運動を塩屋北端海岸に変更実施せしむ
 
大正五年一月三十一日  晴
 午後伯林「シーメンス、シュッケルト ウエルケ」の取扱に係る俘虜宛寄贈金弐百拾七円六拾五銭を情報局通牒に基き例の如く俘虜両中隊班長を経て同准士官以下に交付す
 
大正五年二月一日  晴
 午前俘虜将校並従卒一同補助将校藤中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年二月二日  晴
 午前俘虜准士官以下二百四十七名補助将校山本中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年二月三日  晴
 記事なし
 
大正五年二月四日  晴
 午前俘虜将校並従卒一同補助将校中張中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午前九時三十分頃俘虜炊事係下士伍長ドレヒカンプ事務所へ物品受領の為出頭の際炊事場下士居室に在る火鉢を規定の火鉢集聚所に持ち行くを失念し其の儘残置せり然るに炊事場にて炊事当番卒か生肉取扱の為壁に手を触れし際隣室の隔壁に掛けありし被服か脱落し火中に投し其の被服及壁に貼付しありし新聞紙に燃へ移れり之を見るや衛兵及炊事当番卒は消化器の使用等臨機の処置宜しきを得直に消し止む衛兵は午前九時十分、同九時三十分の二回室内を巡視し同時刻炊事掛は同室に在りて異状を認めす
 午後右取調の結果ドレヒカンプ及俘虜両中隊班長を事務所に招致し左記之通処分し両班長に対しては実例に鑑み特に火災予防上の厳重なる訓戒を与ふ
             俘虜海軍歩兵伍長エルンスト、ドレヒカンプ
右者大正五年二月四日午前九時五十分物品受領の為め事務所へ出頭に際し居室の火鉢を室外に搬出することを怠り為めに私有被服を焼き火災を起こさんとせし段不都合に付軽営倉十日に処す
  (厳重に処分すへき処ドレヒカンプは炊事掛下士として平素日本官憲に対し忠実にし   て服従心の良好なると勤務精励なるとに依り情状を酌量し右の如く処分せり)
 
大正五年二月五日  晴
 午前俘虜准士官以下二百三十七名補助将校佐藤中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年二月六日  雨
 所員宮地中尉実父病死に付本日より服喪す
 降雨の為俘虜准士官以下午后の運動を取止む
 
大正五年二月七日  晴
 午前俘虜副曹長フレデリック、ビオレット歯痛の為め丸亀市富屋町岡歯科医の許に到る 所員宮地中尉服喪中の処事務繁劇の為め本日より除服出仕せしむ
 
大正五年二月八日  時々雨
 午前在横浜ゲルトルード、コッホ其の夫俘虜コッホに面会の為め来所せしに依り所員市川中尉立会の上面会せしむ用語は独逸語にして談話要件左の如し
  1.前回面会以后に於ける相互の安否
 
  3.夫人横浜に於ける家事に関し
  4.ハンブルヒに於て所持せる家屋に関し(夫人其の家屋の写真を携帯し来る)
  5.夫人は夫に対し金銭に不自由なきや日用品、飲食物等は如何なるものを欲するや 終わりに夫人は夫に通貨参拾円を与ふ
 午後四時頃長谷川憲兵上等兵金側懐中時計を所持し来る該品去月二十二日夜俘虜の紛失したるものにあらさりしやとの事なるを以て直に俘虜ワインホルツを事務所に招致し所員市川中尉立会の上取調へしめたるに己か所持品に相違なき旨明言す
 
大正五年二月九日  晴
 午前俘虜准士官以下二百三十二名補助将校楠瀬少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午後二時三十分長谷川憲兵上等兵来所時計紛失の現場実視し度旨願出しに依り所員市川中尉同道准士官以下収容所に到り現場を視察せしむ
 午後三時四十分衛戌司令官電話命令に依り所員宮地中尉歩兵第十二聯隊に出頭す
 
大正五年二月十日  晴
 午後歩兵第十二聯隊第十中隊長より豫て俘虜ワインホルツの紛失したる懐中時計を送付し来りたるを以て当人をして受領証を差出さしめ現品を交付す
 
大正五年二月十一日  晴
 紀元節に付き午前九時事務所に於て無位無勲の下士及判任官待遇者の拝賀を受け言上書を式部職宛呈出す
 午前在東京市宣教師フンチカー俘虜慰問の為め来所せしに依り例の如く先所長応接し俘虜の近況を詳述したる後宣教師よりも説教の要旨を述へしめ午前九時五十分所員市川中尉並通訳立会の下に准士官以下収容所に到り俘虜将校(将校は午前九時三十分将校収容所より招致す)以下に対し独語を以て左記要旨の説教を施行す
   人生の行路は多種多様旦変化定まりなきものにして或は幸運に笑むものあり或は悲  境に泣くものあり又今日幸運に笑むも明日は悲境に泣かさるへからさることあり斯か  る人生に処し吾人は如何なる境遇の下にも確固たる信仰と遠大なる希望とを抱きて安  らかなる生を営まさるへからす之れ宗教の吾人に教ふる真人生なれは我等基督信徒は  吾人の父なる神の恵と力とに信頼し吾人の救主なる基督の愛と指導とを受け神の示す  理想とを目的として勇往邁進し基督の与ふる慰籍に浴して日々新なる力を養ひ人生の  真目的を達せさるへからす
 午前十時四十分終了俘虜ビオレットと少時談話(市川中尉立会)の後同十一時退所琴平に向け出発す
 午前愛媛県人在新居郡西条織田仁太郎俘虜上等兵ハインリッヒ、シュミットに面会の為め来所せしに依り所員市川中尉立会の上面会せしむ用語は日本語にして談話の要旨左の如し
   1.八、九年北京に於て共に商業(花商)に従事せし当時の懐旧談
   2.数年前決別以来の双方の身上異同及現在の家族に関し
面会者は被面会者に鶏卵約二百匁を贈与す
 午後豫て俘虜個人宛送付に係る洋酒(保留しありたるもの)若干を俘虜准士官以下に交付す
 午后豫て在東京市シーメンス、シュッケルト電気株式会社ハンス、ドレンクハーンと交渉の結果俘虜歯痛患者治療中の処本月二被一応完了せしを以て治療費総額参百六拾五円五拾銭を主治医当丸亀市富屋町岡峯之助宛て送金すへき洋通牒置きしに現金を受領したる旨の通牒を受
 
大正五年二月十二日  晴
一、午前八時五十分第二中隊班長カール、バウツ、伍長ハンス、アンドレーの両名事務所  に来り同中隊上等兵ヘルマン、ゼーゲル、卒ヨハン、ヘルマイの二名今朝所持不明の  報告に接せしかは直に取調しも全く不明の由報告す
一、右報告に接し直に憲兵分遣所、警察署に電話を以て通告し衛戌司令官に電話報告す同  様収容所附巡査派出所にも急報す
一、午前九時十分中隊毎に厳密なる指名点呼(呼名者は位置を転せしめ計上す)を施行せ  しに全く班長報告の如し
  同時に職員及衛兵を以て所内の捜索及逃亡の形跡に就いて取調を行ふ
一、右捜索の結果東側外壁(患者浴室東側旧便所)に破壊逃亡の形跡あるを発見す
一、両人の居所は寝具外套及左の品目を除きたる被服一切を着用したるものの如く「ヘル  マイ」は私物箱二珈琲空鑵一、襦袢袴下各一をゼーゲルは「パン」半片塵紙数帖、雑  記帳二、手帳一、信書一を残すのみにして他は皆携行(物品不詳)せるものの如し、  衛兵よりは何等報告に接せす
一、塩屋住民には日露戦役の際当所収容俘虜中逃亡者ありたる時之れを発見又は逮捕せん  為め報酬として若干金品を受領せし者ありし為め今回も之か為め尽力する者多く旁有  力者に依頼し捜索の救助を乞ふ
一、俘虜の言を綜合するに当夜九時半頃迄は両名共存在するものの如し
一、善通寺憲兵分隊より私服憲兵三名来所俘虜の服装人相等に就き聞合せの上退所す(午  前九時二十分頃)
一、県警察部に於て県下巡査の非常召集を行ひ各捜索に従事する由(午前九時二十分頃丸  亀警察署より電話)
一、情報局(午前九時三十分頃)松山、徳島、大阪、岡山、、広島、県警察部及憲兵分隊  に逃走の旨電報す(午前十一時)
一、午後一時頃丸亀警察署より高松―多度津間各乗船乗車場に於て外人の昇降客なく沿岸  船舶の被害及出船の形跡なき旨電話あり
一、塩屋附近潜伏し易き地点(日露戦役当時度々潜伏せし草叢堂祠等)を捜索せるも形跡  なし(村民、憲兵□)
一、午後五時頃城倉憲兵中尉来所多度津―高松間各駅に於て昨夜来乗降外人なく高松より  乗船せるものもなしと(以上は午後四時頃丸亀憲兵分遣所よりも電話通報あり)
一、歩兵第十二聯隊より将校斥候三組を派遣し左記沿岸を警戒する筈(衛戌司令官電話)  1.坂出方面(坂出東方川口より聖通寺山西北麓)
  2.宇多津方面(坂出斥候に連絡し丸亀東端)
  3.多度津方面(多度津より遍照庵)
  善通寺歩兵第四十三聯隊より琴平方面、善通寺方面多度津方面に各捜索隊を派遣しあ  りと
 
大正五年二月十三日  晴 夜 雪
一、午前二時丸亀憲兵分遣所より左の電話通報あり
  十二日午前十時頃詫間村字濱田―仁尾道に於て二人の外人に出会ひたる者ありと
一、右直後丸亀警察署より十二日午前十時頃右濱田附近に於て二名の外人に出会ひたる婦  人ありたる由電話通報あり
一、右之旨衛戌司令官に報告す
一、午后六時四十分出発所長、所員附近下士通訳は所以西多度津東端に至る間の神社仏閣  を捜索す又塩屋消防夫(約七十名)は午後七時より翌朝に亘り左記区域内の毎戸に付  厳密なる捜査を為す
   東は遍照庵より西は金倉川、北は海岸、南は丸亀―多度津道の両側
一、午後七時三十分歩兵第十二聯隊より左記電話通報に接す
   歩兵第四十三聯隊より派遣の将校斥候(土屋中尉)の報告に依れは昨十二日午后(時   間不詳)予讃国境に在る飲食店へ西洋人(身長五尺五、六寸)一名土方風の日本人   を伴ひ煙草の火を借りに立ち寄りたり其の西洋人の服装は上服は記憶せさるも袴は   茶色なり其の後伊予川の江にて西洋人二名の通過せるを目撃したる者ありと依て将   校斥候は直に高知街道を自転車にて追跡し一方歩兵第四十三聯隊に急報す
一、午後八時五十分在郷軍人香川金八の言
   十二日午前九時四十分丸亀駅発の汽車にて善通寺に向ふ途中多度津東方(堀江東方)   森林間を一名の大人西走するを見たりと
一、午後十時丸亀衛戌司令官命令に依り先般愛媛県在西条織田仁太郎と面会したる俘虜ハ  インリッヒ、シュミットを取調の為め歩兵第十二聯隊に護送す
一、午後十時三十分丸亀警察署より通報の要旨
   土屋将校斥候の報告したる西洋人とありし二名は一見外人らしきも日本語を能くし   全く日本人の間違なり
 
大正五年二月十四日  晴 風稍強し
一、午前豫てより入倉中俘虜エルンスト、ドレヒカンプ昨十三日を以て満罰に付き出倉せ  しめ事務所に招致し所要の注意を与ふ 
一、午前伯林シーメンス、シュッケルト ウェルケの取扱に係る俘虜宛寄贈金弐百拾七円  六拾五銭を情報局通牒に基き例の如く俘虜両中隊班長を経て同准士官以下に交付す
一、午前耶蘇教派教師十一日午后夜塩屋港を出発せしとか或は之にて逃走せしにあらすや  と話(昨夜消防組の協議席上にて)ありたりとのことに依り午前来所の由添丸亀分遣  所長に通告し取調へたるに塩屋在住某なる布教師十一日午後一時頃塩屋を出帆し廣島  に到り十三日丸亀に帰港し目下在宅し全く逃走に関係なし
一、午前及午后に亘り在郷軍人香川金八外七名を使役し別院内床下天井空室等隈なく捜索  するも異状なし
一、午後一時大阪毎日、讃岐毎夕同日々新聞記者を事務所に招致し所長より俘虜逃亡に関  し経過を詳述す
一、午後零時四十分丸亀憲兵分遣所長より電話を以て左の通報に接す
   風説に依る多度津東方に於て俘虜らしき者西行せるを実見せりとの福島町某女に就   き糺したる処十二日午後一時頃多度津よりの帰途四名の外人体の男に出会ひ「此の   附近に飲食屋はなきや」とのことなりしを以て不知の旨を答へ帰途更に後方より一   名の魚商人(人久)印提灯を携帯し追行し来り其の者の談に先刻出会ひたる四名の   一行は俘虜なりしか別に変りしことはなかりしやとの事なりしと依て該魚屋を目下   捜索中
一、午後二時二十分香川県警察部保安課長来所せしに依り所長面談俘虜逃亡の経過に就て  詳述す
一、午後七時五十分師団司令部より左記電話通報あり
   三豊郡辻村在郷軍人分会より善通寺聯隊区司令部宛の電報に依れは西洋人を捕へた   り連れに来られたしとの事に付直に憲兵を差遣せり
右に依り丸亀衛戌司令官、丸亀憲兵分遣所丸亀警察署に通報すると同時に丸亀警察署を介し観音寺警察署に照会したるに午後八時二十分左記返事あり
   辻村消防組より西洋人二名を発見せし旨報告ありたるも未た逮捕したることは明か   ならす
一、午後八時四十五分丸亀警察署より収容所附巡査を介し左の通報あり
   観音寺警察署長より県警察部宛報告に依れは逃走俘虜二名恙なく逮捕せり
一、右に依り午后九時三十分逃走俘虜二名逮捕したる旨電報を以て俘虜情報局に通報す
一、午後十時丸亀警察署に照会し左記を知る
   逮捕したる俘虜二名目下観音寺警察署に留置しあり本夜受領の為め善通寺憲兵分隊   より差遣の憲兵上等兵に引渡す予定なり
 
大正五年二月十五日  晴
一、午前八時五十分俘虜二名善通寺憲兵分隊に到着せし旨丸亀衛戌司令官より電話通報を  受く
一、午前九時二十分衛戌司令官命令に依り准士官以下収容所補助将校高岡中尉は取調通訳  の為め善通寺憲兵分隊に到る
一、午前在金沢市宣教師チンメルマン俘虜慰問の為め来所せしに依り例の如く所長面会の  上俘虜の近状を述へ宣教師よりも説教の要旨を述へしめ午前十時より所長、通訳立会  の下に准士官以下収容所に到り本堂に於て旧教徒一般に対し左記要旨の説教を施行す
   吾人の此世に於る生活は死後天に於ける新生活の準備にして此世に於る吾人の生活   か神の意に適ふ時吾人は死後天に於て神の下に無限の生命を与へらるるに至る此の   世に於て吾人か神意に適ふ生活を営まんと欲せは吾人は働くにも休むにも総て吾人   の良心に訴へ善ありと信する所に従て為ささるへからす善なる動機善なる意向に依   って為されたることは如何に小なることと雖も神の前には大なる事なれは如何なる   処如何なる事に於ても諸君は天に至るへき準備として善なる動機善なる意向に依り   て行動せさるへからす
 右終了午前十一時三十分退所す
一、午前九時三十分衛戌司令官同副官に従へ来所准士官以下収容所内外を巡視せられ警戒  火災予防等に就き注意せらる
一、午前所附三谷上等計手に左記辞令を交付す
        陸軍上等計手   三谷正水
   依願予備役を命す(二月十二日附)
一、午後衛戌司令官注意に依り准士官以下収容所囲壁内側一部の鉄条網工事に着手す
 
大正五年二月十六日  晴
 午后二時善通寺憲兵分隊平岡憲兵伍長同上等兵各一名逮捕したる俘虜ヘルマイを連れ来り逃亡の実地検証を為す衛戌司令官、同副官田添丸亀憲兵分遣所長同行す右通訳の為め所員市川中尉憲兵俘虜と共に善通寺附近に到る
 
大正五年二月十七日  晴
一、午前八時丸亀衛戌司令官同副官来所(逃亡俘虜実地検証立会の為め)
一、同八時二十分逃走俘虜上等兵ゼーゲル善通寺憲兵分隊平岡憲兵伍長及同上等兵一名之  を連れ来所し逃走当時の実地検証を為す通訳の為め歩兵第四十三聯隊兼久中尉同行、  当所長、市川中尉及田添丸亀憲兵分遣所長立合せり
  昨日に引続き准士官以下収容所鉄条網布設工事を為す
  本日同所東部囲壁に電灯に二個を増設す
 
大正五年二月十八日  晴
 午前俘虜将校並従卒一同補助将校野村少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 本日も准士官以下収容所警戒工事を施工す
 午後収容所警戒に関する衛戌司令官要求事(丸俘発第六一八号)を師団経理部長宛照会す
 
大正五年二月一九日  晴
 午前俘虜准士官以下弐百四拾七名所員市川中尉並補助将校中張中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午前十一時五十分第十一師団法監部長、理事及録事を従へ俘虜逃走の実地視察の為め来所せしに依り所長並所員市川中尉同道視察せしむ
 午后香川県警察部警部廣田良助及丸亀警察署大須賀警部来所、収容所附巡査、巡邏法、所内出入商人の取締方法等に関し協議す
 本日准士官以下収容所俘虜居室の間取(莚、馬糞紙、西洋紙等を以て作りたるもの)を衛兵等の取締に便ならしむる如く改造せしむ第十一師団軍法会議理事島田明三郎より逃走俘虜二名(ヘルマン、ゼーゲル、ヨハン、ヘルマイ)取調の為め一昨十八日高松監獄に収禁の処分に附したる旨の通牒を受く
 
大正五年二月二十一日  晴
 午后陸軍会計監査部々員陸軍一等主計諸橋幸雄当所経理状態視察の為め来所す  
 午后二時五十分より事務所に於て書類に附き視察を為し同四時三十分終了、両収容所内(准士官以下、将校収容所の順序を以て)を観覧し同五時退所す(師団経理部々員伊集院主計正、外主計一名同行す)
 
大正五年二月二十二日  晴
 午前俘虜将校並従卒一同補助将校藤井少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午前在高松市宣教師エリクソン俘虜慰問の為め来所せしに依り所長応接の上俘虜の近況を通告したる後宣教師よりも慰問の方法を述へしめ午前十時四十分所員市川中尉並通訳立会の上准士官以下収容所に到り例の如く俘虜中英語を解する者十数名に対し英語を用ひ慰問の辞を述へ宗教上の雑談を為し同十一時二十分終了、同十一時五十分将校収容所に赴き俘虜将校並従卒に対し補助将校藤井少尉立会の下に前項同様慰問す
 
大正五年二月二十三日  雨
 午后第七中隊俘虜卒ハインリッヒ、メッケルを左記事由に依り重営倉五日に処す
メッケルは平素所長の命したる班長に対し不従順なるのみならす二月二十日及同月二十二日に於て班長か所長の意を受けて指示したる個人衛生に関する洗濯及不寝番の指定に対し柔順に服従せす却て□弁せしに依る
 
大正五年二月二十四日  晴
 将校収容所下番衛兵の引率法を左の通改む
   自今下番衛兵は交代後必司令の引率を以て帰営すへし(昨二十三日衛戌副官希望に  依る)
 午后天津救護会並天津婦人救護会より俘虜中困窮者に年玉として東京ハンス、ドレンクハーンを介し寄贈したる金弐百参拾六円弐拾八銭を情報局通牒に基き例の如く俘虜両中隊班長を経て同困窮者下士以下百七拾九名に交付す
 
大正五年二月二十五日  晴
 午前俘虜将校並従卒一同(ブッファーを除く)補助将校石川中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午后、俘虜卒オスカール、ベネウィッツ歯痛甚しきを以て丸亀市富屋町岡歯科医の許に到り受診せしむ
 午後善通寺歩兵第四十三聯隊大尉四名衛戌司令官代理の許可を得て所員市川中尉誘導の下に准士官以下収容所内を見学す
 補助将校石川中尉より俘虜将校従卒衛兵に対し不柔順なる旨の報告に依り午后俘虜従卒一同を事務所に招致し衛兵司令及両班長ブンゲ及バウツ立会の下に取調の結果従卒海軍歩兵卒フランツ、ブッファーを左記事由に依り重営倉十日に処し他従卒に対しては厳に将来を戒め置けり
1.二月十二日箒を持ち歩哨の眠るか如き態度を為し居りたり
2.二月二十四日及五日衛兵舎内巡視の節事由不明なるも縷々室内に入らんとする際大笑  せり
3.前項の外衛兵に対する態度敬意と柔順とを欠く処あり
  補助将校及衛兵司令の報告に依り俘虜従卒一同を取調へたるに衛兵を侮辱するの考を  以て以上の行動を為せし確証を認むる能はさるも要するに衛兵に対するの敬意柔順の  度足らさる結果として不謹慎の言動を為すものと認め前項の如く処分せり
 
大正五年二月二十六日  晴
 午前俘虜准士官以下二百二十六名所員市川中尉並補助将校池上少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年二月二十七日  晴
 午前午后共俘虜准士官以下門前運動を塩屋北端海岸に変更実施せしむ
 本日逃走俘虜二名(ヘルマン・ゼーゲル、ヨハン・ヘルマイ)取調終了左記の通処分相たる旨第十一師管軍法会議理事より通牒を受く
   俘虜共謀して多衆迯走したる各被告の所為は各明治三十八年法律第三十八号俘虜処   罰に関する件第三条後段の其の情軽きものに該当す仍て判決すること左の如し
 
 被告ゼーゲルを禁錮一年三月に被告ヘルマイを禁錮一年に処す
      大正五年二月二十六日
        第十一師管軍法会議
             判士長以下官氏名は之を畧す
 
大正五年二月二十八日  晴 
 午前豫て入倉中の俘虜卒ハインリッヒ・メッケル昨二十七日を以て満罰に付今朝出倉せしめ班長ブンゲと共に事務所に招致し所要の注意を与ふ
 午后電話命令に依り所員宮地中尉衛戌副官の許に到る(俘虜迯走後警戒に関し豫て衛戌司令官よりの希望事項に就き協議す)
 午后俘虜下士以下月例身体検査を施行す
 
大正五年二月二十九日  曇、小雨
 記事なし
 
大正五年三月一日  曇 時々 霰
 本日より俘虜日課時限中左の通改正す
     起床    午前六時
     日朝点呼  午前八時
  准士官以下午前の運動時限を八時より九時の一時間に改む
 午前衛戌司令官代理手嶋中佐来所す
 
大正五年三年二日  晴
 記事なし
 
大正五年三月三日  晴
 本日より将校、准士官以下両収容所衛兵監視法を左の如く改む
 将校収容所
 一、歩哨監視法を自今左の如く改む
   東南角複哨は交互に左の区間を動哨すへし
   但し一名は常に定位置に在りて監視するものとす
 
               〇  □

 








 

     ○

 
     □



 








 
 
 准士官以下収容所
 一、歩哨監視法を自今左の通改む
   西側中門外囲西側屈曲部、同西北角、同東北角、東通用門歩哨は昼夜共必要に応し   左の区間を動哨すへし
   但し双方より相対し同時に行ふへからす
     □ ○      □
     







     ○
 
       








 
   
         □○
 


 



 

 

 

 

 
 

 
     □
               □
 
大正五年三月四日  晴
 記事なし
 
大正五年三月五日  晴
 午后米国大使館三等書記官外一名当所を視察せらる其の状況附録第三の通
 
大正五年三月六日  晴
 午前豫てより入倉中の俘虜フランツ、ブッファ昨五日を以て満罰に付き出倉せしめ班長ブンゲと共に事務所に招致し所要の注意を与ふ
 
大正五年三月七日  晴
 午前俘虜将校七名補助将校若山中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年三月八日  晴
 本日丸衛第二二号を以て当所俘虜取締規則第十七条を改正せらる(衛戌司令官達を以て)
 衛戌司令官命令を以て俘虜日課時限中左の通改正せらる
     日朝点呼   午前六時十分
 本日より所長依病引籠を為す
 午前俘虜准士官以下二百四十七名補助将校寺田中尉監視の許に中津公園に到り運動す
 午後俘虜マックス、ジマラ午前中津公園に於て運動中豫て(本年一月十五日)同人の紛失したる懐中時計砂中より発見せし旨現品携帯届出しに依り自今貴重品に対しては各自に於て相当注意すへき旨諭告して時計を交付し同時に憲兵分遣所及警察署に届出を為す
 
大正五年三月九日  晴
 本日到着の官報を以て左記発表あり
    丸亀俘虜収容所々員被免
      歩兵第十二聯隊附陸軍歩兵中尉宮地忠一
    丸亀俘虜収容所々員被仰付
      歩兵第十二聯隊附陸軍歩兵中尉里見金二
 
大正五年三月十日  晴
 午前俘虜将校及従卒悉皆補助将校遠山中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年三月十一日  晴
 午後里見中尉見学の為来所す
 
大正五年三月十二日  晴
 記事なし
 
大正五年三月十三日  曇
 午前俘虜卒フランツ、ホルランド、同ヘルマン、グランツの二名歯痛甚しきを以て受診方願出しに依り岡歯科医の下に到り受診せしむ
 午后所員宮地中尉衛戌司令官の下に到り左記注意並希望を受く
  1.俘虜の所持品の細密検査を施行すること
  2.先般俘虜従卒磁石購買の件に就き更に綿密に取調を為すこと
  3.俘虜将校の従卒を交代せしむるを可とせん
  4.俘虜私有の貴重品(時計、指環)の保管に関し注意を与へたることありや否や取    調の上報告すること
 
大正五年三月十四日  晴
 午前俘虜将校並従卒悉皆補助将校泉少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午后所員宮地中尉辞令受領の為歩兵第十二聯隊に出頭す
 午后、将校、准士官以下両収容所衛兵所の備付弾薬の交換を為す
 
大正五年三月十五日  晴
 本日元所員宮地中尉事務引継の為来所(衛戌司令官の命に依り自今当分の間出所せらるる筈)
 午前俘虜准士官以下二百四十六名補助将校山本中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午后俘虜一般に対し左記要旨の注意を与ふ
   各自所有の貴重品(時計指環等)特に金銭は常時己か懐中に保持するか又は手箱中  に蔵収する等各自に於て厳重に注意するを要す
 
大正五年三月十六日  晴
 午前俘虜将校従卒の交代を為さしむ
    交代上番者氏名
      第二中隊  ハインリッヒ、コッホ  ゲオルグ、ライテル
      第七中隊  アルフレット、バウエル  アロイス、マイエル
 
大正五年三月十七日  曇
 午前俘虜将校及従卒一同補助将校藤井少尉監視の下に中津公園に到り運動す 
 
大正五年三月十八日  晴
 午前俘虜准士官以下二百三十九名補助将校田村少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年三月十九日  晴
 記事なし
 
大正五年三月二十日  晴
 午前俘虜准士官以下門前運動を塩屋北側海岸に変更実施せしむ
 
大正五年三月二十一日  晴
 午前俘虜将校並従卒悉皆補助将校浦川中尉監視の下に中津公園に到り運動す 
 
大正五年三月二十二日  午前雨 午后晴
 午前十時衛戌司令官准士官以下収容所を巡視せられ火災予防其他二、三注意せらる帰途将校収容所を巡視せらる
 
大正五年三月二十三日  晴
 午前俘虜准士官以下二百三十四名補助将校寺田中尉監視の許に中津公園に到り運動す  午后所員市川中尉電話命令に依り衛戌司令官の下に到り左記注意を受く
  1.炊事場竈の上に薪を置きありたり注意を要す
  2.煙草の吸殻、マッチの摺殻を定位置に投棄せしむる様充分監督すへし
  3.其他火災予防に関し絶対的の注意を望む
 
大正五年三月二十四日  晴 風強し
 午前俘虜将校並従卒一同補助将校浦川中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午後第十師団副官歩兵中尉松本忠造来所捕虜取扱状況視察の為来所せしに依り所員里見中尉応接の上詳述す
 
大正五年三月二十五日  晴 風強し
 午前俘虜准士官以下二百十一名補助将校吉岡中尉監視の下に中津公園に到り運動す 
 
大正五年三月二十六日  晴
 午前俘虜准士官以下二百四十七名補助将校中西中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年三月二十八日  晴
 午前俘虜将校並従卒一同補助将校王本中尉監視の下に中津公園に到り運動す   
 午前在横浜市コッホ夫人俘虜コッホに面会の為来所せしに依り所員市川中尉監視の下に面会せしむ用語は独逸語にして談話の要旨左の如し
  1.横浜に於ける夫人の寓居に就いて
  2.神戸に於ける夫妻双方の友人の近況に関し
  3.ハンブルヒに於て所有する家屋に就いて
 
大正五年三月二十九日  晴
 午前俘虜准士官以下二百四十七名補助将校山本中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年三月三十日  晴
 記事なし
 
大正五年三月三十一日  晴
 午前在東京市小石川区宣教師エミール、シュレーデル俘虜慰問の為来所せしに依り所員市川中尉並通訳立会の下に准士官以下収容所に到り午前十時五分より「同情」なる題にて説教を施行す其の要旨を左の如し
   困難の中に呻吟する人に取て他人の同情は砂漠の中に湧泉を見出したる旅人と同様  にて是に依て甚大の慰籍を感し新しき力と希望とに充されて其困難に打勝つの機会を  得るものなり加之同情者自身も亦他人に対する同情に依て自ら有せし困難をも打忘れ  て自ら困難に打勝つことを得るものなれは諸君等目下の境遇に於ては同情か他人を助  け且自らを救ふ唯一の道ならん
 午前十時五十分説教を終り同十一時三十分迄所内に在て数名の俘虜と挨拶を交換し後事務所に於て班長ブンゲと救恤金品の事に関し談話し同十一時五十五分所員市川中尉同道にて在監中の俘虜(ゼーゲル、ヘルマイ)を慰問すへく高松に向け出発す
 午後三時より約四十分間に亘り在監俘虜に対し施行せし説教の要旨左の如し
   宣教師は典獄より依頼を受け在監俘虜か不従順、不謹慎なることを宗教上より説諭  し目下は他に同僚もなき獄舎生活なれは嘸寂寥ならんも常に汝等の身辺に在る神を唯  一の友とせは無事に刑期間を経過することを得へし
 
大正五年四月一日  晴
 本日より俘虜日課時限中左記之通変更せらる
     起 床    午前五時三十分
     日朝点呼   同 五時四十分
 
大正五年四月二日  晴
 午前俘虜准士官以下二百四十八名補助将校小田少尉監視の許に中津公園に到り運動す 
 
大正五年四月三日  晴
 俘虜個人宛送付に係る洋酒(保留しありたるもの)若干本を同准士官以下十数名に交付す
 
大正五年四月四日  晴
 午前在京都市宣教師エミール、シルレル俘虜慰問の為来所せしに依り所長代理市川中尉応接し俘虜の近況一般を述へたる後午前十時三十分市川中尉並通訳立会の上准士官以下収容所に到り俘虜将校以下に対し左記要旨の説教並宗教上の礼式を施行す
   復活祭を目前に控へた今日吾人信徒は基督の一生に就き考へねはならぬ又基督か自
  使命を自覚し正義人道の為尽した努力と其為め受けた迫害とは甚大なものであった然  し基督は神に信頼し如何なる苦難をも自己及人類に対する神に恩恵として甘受したの  て遂に救主たる大使命を完ふすることか出来た吾人は彼の一生を模範として世に処し  たならは如何なる困難をも神の愛より出つる恩恵として甘受し万難を排して自己の使  命を完ふし意義あり価値ある人生を営むことか出来ると思ふ
 
大正五年四月五日  晴
 所長石井大佐依病請願休暇中の処本日より来る二十五日迄三週間引続請願休暇
 
大正五年四月六日  晴
 午前俘虜准士官以下二百四十三名補助将校増田中尉監視の下に中津公園に到り運動す 
 
大正五年四月七日  晴
 午前俘虜准士官以下門前運動を塩屋北端海岸に変更実施せしむ
 午前在高松市宣教師エリクソン俘虜慰問の為来所せしに依り先所員市川中尉応接し俘虜近況を述へたる後午前十一時所員里見中尉立会の上准士官以下収容所に到り例の如く俘虜中英語を解する者十数名に対し宗教上の慰問的雑談を為し正午終了午後零時二十分里見中尉同道将校収容所に赴き俘虜将校以下に対し前項同様慰問を為し午后一時退所帰途に就く 午后伯林「シーメンス、シュッケルト ウエルケ」取扱寄贈に係る俘虜救恤金弐百五拾円九拾銭を情報局通牒に基き俘虜両中隊班長を経て同准士官以下に交付す
 午後収容所附伊藤巡査部長以下巡査悉皆収容所建物の構造囲壁内部の状況等警戒上参考とすへき箇所を視察せり
 
大正五年四月八日  晴
 午前俘虜准士官以下二百四十一名補助将校寺田中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年四月九日  晴
 午後俘虜将校以下准士官以下収容所に於て音楽会を施行す
 
大正五年四月十日  晴
 午前在東京市貴族院議員柳沢伯爵当所を参観せらる調査事項中特に注目せられたるは俘虜生活状態とす
 
大正五年四月十一日  晴
 午前俘虜将校並従卒一同補助将校藤中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午前左記俘虜三名受診の為丸亀衛戌病院に到る
   フィリップ、オルローブ  シュネッコ  メラー
 
大正五年四月十二日  晴
 午前俘虜准士官以下二百三十九名補助将校野村少尉監視の下に中津公園に到り運動す  本日到着の官報を以て左記発表あり
      陸軍歩兵大佐   石井彌四郎
 丸亀俘虜収容所長被免待命被仰付(四月十日附)
  歩兵第十二聯隊附陸軍歩少佐  納富廣次
 免本職丸亀俘虜収容所長被仰付(四月十日附)
 
大正五年四月十三日  雨
 記事なし
 
大正五年四月十四日  晴
 午前在播州飾磨郡置塩村名倉小松俘虜伍長アドルフラーデマッハに面会の為来所せしに依り所員里見中尉立会の上面会せしむ、用語は日本語にして談話の要旨左の如し
   a、家庭の現況(主としての物価の現況を述へ生活の困難を訴ふ)
   b、友人の状況
   c、小松将来の方針に就いて(横浜地方へ出稼するの可否)
       ラーデマッハは解決を与へす
 午前石井大佐の辞令到着此日同大佐は俘虜将校以下対単簡なる告別の辞を述へらる
 午前俘虜逃亡等の変事に備ふる為将校以下全員の採影を行ふ
 午后俘虜をして別院門前俘虜運動場の均土作業を為さしむ(約二十日間の予定)
 午后俘虜両中隊班長(ブンゲ、バウツ)将校収容所に到る
 
大正五年四月十五日  雨
 記事なし
 
大正五年四月十六日  晴
 午前俘虜准士官以下二百三十五名補助将校王本中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年四月十七日  晴
 午前俘虜卒カール、ワイゲル受診の為丸亀衛戌病院に到る本日より所長納富廣次出勤
 
大正五年四月十八日  晴
 午前十時俘虜将校以下を准士官以下収容所中庭に集め所長新任の披露並左記要旨の訓示を為す
   余は此度新任せられたる当収容所長納富少佐なり自今諸子を統轄す諸子は諸法規の  示す処に従ひ日本官憲の命令に服従し軽挙俘動の所為なきことを□すへし
   余は一視同仁博愛を以て諸子を遇すと雖も苟も軽挙俘動の所為に対しては一歩も之  を仮借せさる決心なり
   先般は不幸にして各自の同僚中より二名の逃亡者を出せしは誠に遺憾とする処あり  若し再此の如きことあらは啻に日本官憲の手を煩すのみならす自己一身の不幸は勿論  延いて煩を同僚に及すに至るへし各自は互に戒告し将来再此の如き失態なきことを期  すへし
 午后所長新任申告の為第十一師団司令部に出頭す
 
大正五年四月十九日  晴
 午前俘虜准士官以下二百三十五名所員市川中尉並補助将校梶山少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年四月二十日  晴
 記事なし
 
大正五年四月二十一日  曇
 記事なし
 
大正五年四月二十二日  雨
 記事なし
 
大正五年四月二十三日  曇
 午后三時より同五時三十分に至る間俘虜将校以下同准士官以下収容所本堂に於て音楽会を施行す
 
大正五年四月二十四日  晴
 午前九時より俘虜准士官以下収容所、午後三時より俘虜将校収容所の細密検査を施行す 検査補助として衛戌司令官より将校二名(宮地中尉、三上少尉)差遣を受く
 
大正五年四月二十五日  雨
 記事なし
 
大正五年四月二十六日  曇
 午前俘虜准士官以下二百三十二名補助将校山本中尉監視の下に中津公園に到り運動す 
 
大正五年四月二十七日  晴
 記事なし
 
大正五年四月二十八日  晴
 午前俘虜将校(ランセル大尉を除く)並従卒悉皆補助将校山本中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午前在東京市シーメンス、シュッケルト会社員オットー、リンデンベルヒ左記俘虜十名に面会の為来所せしに依り所長、所員市川中尉並通訳立会の上面会せしむ用語は独逸語にして談話の要旨左の如し
   1.借用金(俘虜かシーメンス会社より)返済に就き
   2.俘虜将校寄贈としての希望品に関し
  ランセル  ブンゲ  バウツ  ビオレット  ラハー  エンゲルス
  ウェストファール  グリアー  ガックステッター  トロヤン
 午後俘虜月例身体検査を施行す
 午後俘虜卒ヘルマン、ヤコブ歯痛甚しきを以て丸亀市岡歯科医の許に到り治療を受く
 午後別院(准士官以下収容所)春季祭の為門前人出多く頗る雑踏せしを以て俘虜の運動を停止す
 
大正五年四月二十九日  雨
 所長、午後一時俘虜両中隊班長ブンゲ、バウツを事務所に招致し左記注意を与ふ
    所長着任以来俘虜准士官以下の日本帝国軍人に対する態度を観るに十分と云い難   し例へは上官を目撃して敬礼を為ささる者、敬意を表すへき場合に於て其態度宜し   きを得さるもの多々あり自今注意すへき様俘虜准士官以下一般に厳達すへし
 
大正五年四月三十日  曇 午后 雨
 一昨日同様別院門前雑踏せしに付俘虜准士官以下午后の門前運動を停止す
 
大正五年五月一日  晴
 午前新任当衛戌司令官両収容所(将校、准士官以下)を巡視せらる
 午前収容所出入商人悉皆を事務所に招致し所長より所要の注意を与へ併せて希望を述ふ
 本日到着の官報を以て左記発表あり
           陸軍上等計手梅野栄三郎
  叙勲六等授瑞宝章(四月二十八日附)
 
大正五年五月二日  晴
 午前在松山市宣教師ホアン、カルホ俘虜慰問の為来所せしに依り所員市川中尉立会の上准士官以下収容所に到り俘虜将校以下旧教徒悉皆に対し午前九時二十分より同十時に至る四十分間宗教上の礼拝式を施行す
 式後所員市川中尉を介し参集俘虜一同に対し単簡なる挨拶を述へ午前十時三十分退所す
 
大正五年五月三日  晴
 午前俘虜准士官以下二百三十四名補助将校岡藤中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年五月四日  晴
 別院春季祭典参詣人雑踏せし為一時中止しありし門前俘虜運動場の均土作業を為さしむ
 
大正五年五月五日  晴
 午前俘虜将校並従卒悉皆補助将校佐藤少尉監視の下に中津公園に到り運動す 
 
大正五年五月六日  曇 午后 雨
 午前俘虜准士官以下二百二十二名補助将校藤中尉監視の下に中津公園に到り運動す 
 本日所長俘虜警戒打合せの為香川県警察部に出頭す
 
大正五年五月七日  雨
 記事なし
 
大正五年五月八日  晴
 午后所附上等計手梅野栄三郎に対する勲六等瑞宝章を授与す
 
大正五年五月九日  晴
 午前俘虜将校並従卒悉皆補助将校加川少尉監視の下に金倉川堤防に到り運動す
 午前在神戸市北野町ウインクラ商会グスターフ、ゼーリッヒ其夫人及小供二人と共に俘虜伍長ハンス、アンドレーに面会の為来所せしに依り所員市川中尉並通訳立会の上面会せしむ用語は独逸語にして談話の要旨左の如し
   独逸本国及日本在留独人知己の近状に就て
   面会者及被面会者相互の近況安否に関し
 面会者はアンドレー及メンゲ(面会者と同郷の者)に対し通貨五円及食料品数点を寄贈す
 本日到着の官報を以て前所長石井大佐以下職員一同に対する大正三、四年戦役行賞発表あり(大正四年十一月七被附)
 
大正五年五月十日  晴
 午前准士官以下二百八十四名所員市川中尉監視の下に健康保全の為左記の通遠足を施行す
   出発 午前八時
   経路 金倉川堤防に沿い金蔵寺に同堤防を経て帰所す
   帰所 午前十一時五十分 
   行程 約二里半
 
大正五年五月十一日  晴
 記事なし
 
大正五年五月十二日  晴
 健康保全の為所内及別院門前運動場に於て俘虜将校以下運動会を施行す
 午後七時より同八時二十分迄俘虜准士官以下の所内中庭に於て音楽会を施行す
 
大正五年五月十三日  晴
 午前俘虜准士官以下二百三十五名補助将校吉本中尉監視の許に中津公園に到り運動す
 
大正五年五月十四日  晴
 記事なし
 
大正五年五月十五日  晴
 午后、取締の都合上俘虜各班の編成を改正す蓋し従来は固有中隊の儘第一第二の二個班と為しありしを各班を更に三個班に別ち曹長及副曹長を以て班長と為し前班長をして中隊全般の取締を為さしむる如く編成せり(目的は俘虜逃走等事変の際に其発見を容易ならしめ報告の迅速を期するに在り)
 
大正五年五月十六日  晴
 午前俘虜准士官以下門前運動を塩屋北端海岸に変更実施せしむ
 午前俘虜将校並同従卒一同補助将校和泉中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午前在高松市宣教師エス、エム、エリクソン俘虜慰問の為来所せしに依り例の如く所長応接し俘虜の近況主として健康状態に就いて詳述したる後午前十一時所員里見中尉監視の下に准士官以下収容所に到り英語を解する者十数名に対し左記項目に就いて述へ慰問を為す
   1.現時の気候と健康との関係
 午後零時十分将校収容所に赴き前項同様俘虜将校以下に慰問し同四十分退所す
 慰問者は俘虜宣教師一同に対し石鹸五十個を寄贈す
 
大正五年五月十七日  雨
 本日より俘虜准士官以下午后の運動を四時より五時に至る一時間に変更す
 午前俘虜卒ウイルヘルム、ハイン受診の為丸亀衛戌病院に到る
 午前所附亀友主計外五名に対する賞賜物件(大正三、四年戦役従軍記章等)到着、午后所長之を夫々交付す
 
大正五年五月十八日  晴
 午前俘虜准士官以下二百十八名補助将校加納少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年五月十九日  午前小雨 午后晴
 所長収容所営繕其の他に関し協議の為善通寺第十一師団司令部に出頭す
 
大正五年五月二十日  晴
 午前俘虜准士官以下二百十三七名補助将校加川中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年五月二十一日  晴
 祖宗降誕祭執行の為別院門前参詣者雑踏せしに依り俘虜准士官以下午后の運動を停止す
 
大正五年五月二十二日  晴
 左記衛戌司令官より達せらる
  1.聯隊連合演習の為出場中准士官以下収容所補助将校は之を出務せしめて将校収容    所補助将校をして必要に応し同所を巡視せしむ
     (一行解読不能)
 
大正五年五月二十三日  晴
 午前俘虜将校並同従卒一同補助将校山崎中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午前在横浜市コッホ夫人其夫俘虜コッホに面会の為来所せしに依り所員市川中尉監視の下に面会せしむ用語は独逸語にして談話の要旨左の如し
  1.俘虜居室の状況に就いて(主として蚤、蚊の予防方法)
  2.信書、小包等郵便物の着否
  3.俘虜は書籍、タイプライター其他日用品二十余種の送付を夫人に依頼す
  4.現時に於ける相互の境遇に就いて悲哀を述ふ
 午后俘虜准士官以下門前運動を塩屋北端海岸に変更実施す
 
大正五年五月二十四日  晴
 午前俘虜准士官以下門前運動を塩屋北端海岸に変更実施す
 
大正五年五月二十五日  午前小雨 午后曇
 記事なし
 
大正五年五月二十六日  曇
 午前俘虜将校以下二百二十四名所員市川中尉並補助将校山崎中尉監視の下に中津公園に到り運動す(俘虜将校及従卒と同准士官以下とは運動区域を異にせり)
 午前俘虜伍長ヘルマン、デゼブロック及同卒ハインリッヒ、グロッスマンの二名造花材料購買の為所員里見中尉監視の下に丸亀市に到る
 
大正五年五月二十七日  雨
 記事なし
 
大正五年五月二十八日  晴
 午後俘虜准士官以下所内中庭に於て健康保全の為体操(徒手、器械)を施行せしむ
 
大正五年五月二十九日  晴
 午前在東京市宣教師エミール、シュレーデル俘虜慰問の為来所せしに依り先所長応接し俘虜の近況を述へ且本日施行せんとする説教は豫て送付し来りたる説教案の通なるや否や確めたる後午前九時四十分所長、所員市川中尉並通訳立会の上准士官以下収容所に到り俘虜将校以下に対し独語を用ひ左記要旨の説教を施行す
   神は精神の慰安者なりされは神を信頼する者は常に平静なるを得て甚幸福なり然れ  とも世は常に推移して休むことなけれは時流の一秒も息むことなきか如く吾人の実生  活は一日として安らかなるを得す茲に於てか吾人は益神に信頼し精神的安泰を得休む  ことなき実生活に備へて変転極りなき人生に煩はされさるを期すへし
 午後俘虜准士官以下月例身体検査を施行す
 
大正五年五月三十日  晴
 午前俘虜将校並従卒悉皆補助将校平山少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 豫てより俘虜両中隊班長の願出に依り器械を貸与して午後七時三十分より同十二時に至る間活動写真影写を為さしむ(フイルムは所員検査済みのもののみ)
 
大正五年五月三十一日  晴
 午前俘虜准士官以下二百十四名補助将校吉岡中尉監視の許に中津公園に到り運動す
 午後伯林シーメンス、シュッケルト、ウエルケの取扱に係る俘虜宛救恤金弐百四拾五円七拾銭を情報局通牒に基き例の如く俘虜両中隊班長を経て同准士官以下百八十五名に交付す
 
大正五年六月一日  晴
 午前俘虜准士官以下門前運動を塩屋北端海岸に変更実施す
 
大正五年六月二日  晴
 午前俘虜将校並従卒一同補助将校高畑少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午前豫て俘虜個人宛送付に係る洋酒三十余瓶(保留しありたるもの)を夫々交付す
 
大正五年六月三日  晴
 午前俘虜准士官以下二百三十一名補助将校寺田中尉監視の許に中津公園に到り運動す
 午後小使山本佐太郎外一名に対する賜金御沙汰書(大正三四年戦役の勤労に依る)到着せしに依り夫々交付す
 
大正五年六月四日  晴
 午後九時俘虜臨時点呼を施行せしに異状なし
 
大正五年六月五日  晴
 午前俘虜伍長ウイルヘルム、ショーン、同卒ハンス、ミルスワの両名入院の為九時丸亀衛戌病院に護送し同時に右両名入院中に於ける監視方を歩兵第十二聯隊に依頼す
 
大正五年六月六日  雨 午後 曇
 故俘虜卒アンマンデウス、テンメ一周年忌当日に付俘虜将校以下一同所員市川中尉並補助将校藤中尉及同天野少尉監視の下に埋葬場たる丸亀市東方土器村陸軍墓地に到り墓参す
 
大正五年六月七日  曇 時々 雨
 記事なし
 
大正五年六月八日  雨
 午前俘虜准士官以下二百十二名補助将校木原尉少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年六月九日  晴
 午前俘虜准士官以下門前運動を塩屋北端海岸に変更実施す
 
大正五年六月十日  晴
 午前俘虜准士官以下百九十三名補助将校奥山中尉監視の下に中津公園に到り運動す 
 
大正五年六月十一日  晴
 午前俘虜伍長ベメディクト、ライスト歯痛甚しきを以て受診の為丸亀市岡歯科医の下に到る
 午前俘虜准士官以下収容所に於て同将校以下日曜礼拝を施行す
 午後三時三十分より同六時迄同所に於て俘虜将校以下音楽会を施行す
 
大正五年六月十二日  晴
 午前俘虜准士官以下二百五十一名健康保全の為め左記の通郊外運動を施行す
   出発   午前八時
   帰所   同 十一時四十分
   経路   金倉川堤防に沿ひ金蔵寺に到り同堤防を経て帰所す
   行程   約二里半
の後
大正五年六月十三日  晴
 記事なし
 
大正五年六月十四日  晴
 午前臨時軍事調査委員陸軍工兵少佐杉原美代太郎軍事資料蒐集の為来所す
 午後丸亀市書記勧業係庭村米太郎来所、収容所出入商人、俘虜特有の技能等に就き協議す
 
大正五年六月十五日  晴
 本日より当所服務衛兵呼出時限を午前八時に変更せらる
 午前九時在金沢市宣教師フランツ、フインゲル俘虜に対し説教祭式及懺悔式施行の為来所せしに依り所長応接し俘虜の近況を通告したる後懺悔式(祭式及説教は明十六日午前中施行の予定)の方法を述へしめたる後午前九時四十分所員市川中尉並通訳立会の上准士官以下収容所に到り俘虜将校以下旧教徒大部分に対し懺悔式を行ひ正午終了旅館に向ふ
 午後伯林シーメンス、シュッケルト、ウエルケの取扱に係る俘虜宛救恤金弐百四拾五円七拾銭を情報局通牒に基き例の如く俘虜両班長を経て同准士官以下百八十五名に交付す
 俘虜豫てよりの願出に依り准士官以下収容所構外北部畑地一劃に野菜花□の栽培を許可しありし処本日午后初めて其の工作に着手す
 
大正五年六月十六日  晴
 午前八時四十分宣教師フランツ、フインゲル来所事務所に於て少時休憩の後所員市川中尉並通訳立会の下に准士官以下収容所に到り俘虜将校以下旧教徒大部分の者に対し午前九時十分より同九時三十分迄礼拝式を営み引続左記要旨の説教(説教案は昨夜旅館より送付を受けありたり)を行ふ終て午前十時三十分退所す
   聖霊降臨祭を祝ふて霊の覚醒を来した六月は常よりも一倍吾等基督に向ける事とな  る而して基督とは如何なる人物かとの問題に想到する基督は其の名の示す如く我等の  救主てあって次の如き三職分を我等の為にと死を賭して尽くした
     一、基督は我等の師なり
     二、基督は我等の救者なり
     三、基督は我等の贖罪者なり
   されは我等の基督か我等に示した人生の目的を達せんか為に基督の足跡を辿って永  遠の生命に到達せねはならぬ
 午後菜園墻壁用竹材運搬の為め俘虜下士一名、同卒十三名所員里見中尉監視の下に丸亀市旧城内に到る
 
大正五年六月十七日  晴
 午後俘虜准士官以下二百十六名所員市川中尉並補助将校佐藤中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年六月十八日  晴
 午前俘虜班長マックス、ブンゲ同卒ジョーン、ミュラーの二名入院中の俘虜伍長ウイルヘルム、ショーン見舞の為め丸亀衛戌病院に到る
 
大正五年六月十九日  晴
 午后菜園墻壁用木材運搬の為め俘虜下士二名同卒二十三名所員市川中尉監視の下に丸亀市東方青ノ山に到る
 
大正五年六月二十日  晴 午后 小雨
 午前所長歩兵第十二聯隊第二期検閲見学の為め出場す
 午前在京都市宣教師エミール、シルレル俘虜慰問の為め来所せしに依り所員市川中尉面接の上俘虜の近況を通告したる後宣教師よりも説教の要旨を述へしめ午前十一時十分同中尉及通訳立会の上准士官以下収容所中庭に於て俘虜将校以下新教徒一同に対し左記要旨の説教を施行す
   本日は基督教信徒に取って大切な聖霊降臨祭の当月である、されは吾人信徒は此時  に当たり此祭典の意義に就て考へねはならぬ此祭典は基督教会の創立を紀念すへき祭  典てある而して茲に所謂教会とは愛に依て神に連る人類の団体てある愛は吾人を現世  以上に超越せしめ悪を離れ良心の示す処に従て真理に到達せしむるの自由を得せしむ  るものてあるから此祭典を期として神の愛に依り真の教会を形成し人類の向上を計ら  ねはならぬ
 
大正五年六月二十一日  雨
 午前所長昨二十日同様検閲見学の為め出場す
 
大正五年六月二十二日  晴
 午前所長昨二十一日同様検閲見学の為め出場す
 午前俘虜准士官以下二百十七名所員里見中尉監視の下に中津公園に到り運動す 
 
大正五年六月二十三日  晴
 午前在高松市宣教師エス、エム、エリクソン俘虜慰問の為め来所せしに依り所長応接の上俘虜の健康状態入院患者の病状に就て述へたる後宣教師より慰問方法を聴取し所員里見中尉立会の下に准士官以下収容所中庭に於て俘虜中英語を解する者十数名に対し時候見舞、知己朋友の消息、在監俘虜の近状、食物の調整等に関して慰問的談話を為し午前十一時将校収容所に赴き同将校以下に対し畧右同様の談話を為し正午退所帰途に就く
 午後丸亀憲兵分遣所長田添二助来所主として俘虜警戒に関し協議す
 
大正五年六月二十四日  晴
 午前七時より同正午迄俘虜准士官以下支給毛布を塩屋北端海岸に於て日光消毒に付せしむ
 当所出入牛肉商白田大三郎続て出入せしむるは不利益と認め本日出入を停止し交付の門鑑を没収す
 午前俘虜准士官以下二百十一名補助将校中西中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 本日到着の官報を以て左記発表あり
    陸軍歩兵軍曹   秋山留吉
  叙勲八等授瑞宝章(六月二十一日附)
 
大正五年六月二十五日  晴 夕方 雨
 記事なし
 
大正五年六月二十六日  曇 時々 雨
 午前豫て入院中の俘虜ウイルヘルム ショーン、ハンス ミールスワの二名全治退院す
 
大正五年六月二十七日  雨
 午前俘虜将校以下十名補助将校山本中尉監視の下に中津公園に到り運動す 
 午後八時俘虜伍長ウイルヘルム ショーン発熱甚しきを以て不時診断を行ふ
 
大正五年六月二十八日  雨
 午後俘虜月例身体検査を施行す
 午後丸亀警察署長来所、収容所附巡査俘虜取締法方(ママ)等に関し協議を為す
 午後俘虜准士官以下二百六名補助将校中井中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年六月二十九日  午前小雨 午後晴
 午前師団経理部長当所本年度委託経理検査を施行せらる、午前八時二十分部員以下来所事務所に於て書類の検査を行ひ同十一時五十分部長来所、午後一時より現品の検査並収容所内の巡視を為し同一時四十分事務所に於て講評あり同四十分退所す
 
大正五年六月三十日  晴
 所長納富少佐実父病気危篤に付帰郷の為め本日より七月六日迄七日間請願休暇
 午後俘虜将校並従卒一同補助将校野村少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年七月一日  晴
 午後俘虜准士官以下二百十名補助将校梶山少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午後所附下士秋山軍曹に対する賞賜物件到着せしに依り所長代理市川中尉之れを当人に授与す
 
大正五年七月二日  晴
 午後五時三十分より同七時三十分迄俘虜第二中隊心得ある者十数名を撰定して滑稽芝居を施行す
 
大正五年七月三日  晴
 記事なし
 
大正五年七月四日  晴
 午前俘虜第七中隊卒フランツ、ハルクス丸亀衛戌病院に入院す(病名未定)其の取締に関しては前回同様歩兵第十二聯隊に依頼す
 
大正五年七月五日  晴
 午後俘虜准士官以下二百二十六名補助将校野村少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年七月六日  曇 時々 小雨
 記事なし
 
大正五年七月七日  晴
 所長実父昨六日夜死亡せしに付本日より忌引服喪す
 本日到着の官報を以て左記発表あり
     陸軍二等軍医  倉本猪三男
  任陸軍一等軍医(七月五日附)
 
大正五年七月八日  晴
 午後俘虜准士官以下二百八名補助将校戸田少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年七月九日  晴
 午後六時三十分より同七時三十分に至る一時間俘虜将校以下音楽会を施行す
 
大正五年七月十日  曇 時々 小雨
 記事なし
 
大正五年七月十一日  曇 時々 雨
 午前在東京市宣教師瑞西人ヤコブ、フンチカー俘虜慰問の為め来所せしに依り所長代理所員市川中尉応接し俘虜の近況を述へたる後宣教師よりも説教の要旨を述へしめ同九時三十分より准士官以下収容所に於て俘虜将校以下新教徒一同に対し左記要旨の説教を為し同十時三十分終了退所す
   現時欧州各国は互に相分れて戦禍の中にあり国民相互に敵視し居るか人類は本然の  性として斯の如く相敵視し相憎悪すへきものにあらす戦場に在りて負傷せる両軍の兵  士か其の敵意を忘れて互に相扶助するを見ても人類は相愛するか本然の性なること明  かなり而して人類の進歩発達はこの愛に依て初めて為さるるものなれは諸君基督信徒  は戦後基督の愛によって世界の平和の為めに大に努力されんことを祈る
 
大正五年七月十二日  曇
 所長納富少佐忌引服喪中の為本日より出務す
 第二中隊班長カール、バウツ俘虜兵卒中三名我か儘にして取締に困難する旨訴へ出しを以て午后右三名を事務所に招致し不心得を諭し将来を厳に誡め班長に対しては右処置を通達し爾後彼等の挙動に注意すへき様通告す
 午後俘虜准士官以下二百二十八名補助将校梶山少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年七月十三日  曇 時々 雨
 午前俘虜兵卒ヨセフ、コルプを左記通処罰す
     俘虜卒  ヨセフ、コルプ(俘虜名簿番号第九十二番)
  右日本官憲の命したる俘虜班長の命令に従順に服従せさりしに依り重営倉七日に処す   事由
  昨十三日午後俘虜班長より日直下士「ポーレ」に対し炊事場所の下水壕を清掃すへく 命せしに依り「ポーレ」は兵卒「コルブ」に其の実施を命したり然るに数時間を経て其 の実施如何を検せしに甚た不充分なり
 
大正五年七月十四日  晴
 昨日の事実ありしに依り午前九時四十分俘虜准士官以下全員を所内中庭に集合せしめ俘虜中最高級者たるランセル大尉をして所要の注意を為さしめ(同大尉は昨日午後其の案を呈出して俘虜一般に注意を与へしめられ度願出しに依り許可しありたし)後所長左記要旨の訓誨を与ふ
   只今ランセル大尉より各俘虜に与へたる注意には同意なり
   近来各俘虜は同僚間の意見感情等の衝突より相互の融和を欠き為めに我か日本官憲  の命令に服従せす現に昨日の如き一名の処分者を出せしは真に遺憾とする処なり
   将来に於ても余事は兎も角苟も所長の命令及日本官憲の命令に服従せさる等の者あ  らんか所長は寸毫も仮借することなく処罰するの考なり
   要するに各俘虜は収容漸く久しきに亘り為めに各自我意を張り我か儘に慣れたるよ  り斯くの如き結果を見るに至りしに外ならす自今同僚間は謙譲を旨として諸種の希望  を抑制し相援け相親み而して我か官憲の命令に服従し以て愉快に収容期間を経過して  平和の日を待て
 午後俘虜准士官以下支給毛布を塩屋北端海岸に搬出して日光消毒に付せしむ
 午後俘虜将校並従卒一同補助将校遠山中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年七月十五日  晴
 午前六時より同十二時迄俘虜准士官以下支給寝具を塩屋海岸に搬出して日光消毒に附せしむ
 午前俘虜班長マックス、ブンゲ同副曹長グスターフ、トーレー同伍長エミール、ガイヤーの三名豫て入院中の俘虜フランツ、ハルクス病気見舞いの為め丸亀衛戌病院に到る
 午前俘虜下士二名所員里見中尉監視の下に竹柵用竹運搬の為め丸亀旧城内に到る
 本日准士官以下収容所西側中門歩哨の位置を変更し之れを西門歩哨と改称し同守則一部に改正を加え之れを実施す
 
大正五年七月十六日  晴
 午后俘虜准士官以下二百十九名補助将校野村少尉監視の下に中津公園に到り運動す 
 午后七時より同八時二十分迄俘虜准士官以下所内中庭に於て音楽会を施行す
 
大正五年七月十七日  晴
 記事なし
 
大正五年七月十八日  晴
 本日所附荒川通訳徳島俘虜収容所逃走俘虜取調通訳の為め第十一師団法管部に出張す
 本日より借上車両等の関係上一時中止したる准士官以下収容所俘虜運動場の均土工事を開始す
 午後八時四十分所長両収容所(将校及准士官以下)を巡視す
 
大正五年七月十九日  晴
 午前俘虜伍長ヘルマン、スタインメッツ楽器購買の為め丸亀市に到る
 午前俘虜両中隊班長マックス、ブンゲ、カール、バウツの二名将校収容所に到る
 午後俘虜准士官以下二百十名補助将校奥山中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年七月二十日  晴
 本日到着の官報を以て左記発表あり
    歩兵第十二聯隊附陸軍一等軍医 倉本猪三男
  丸亀俘虜収容所附兼勤被免
    丸亀衛戌病院附陸軍一等軍医  黒川哲二
  丸亀俘虜収容所附兼勤被仰付
 豫て入院中の俘虜フランツ、ハルクス急性咽頭炎に決定す
 
大正五年七月二十一日  晴
 豫て入倉中の俘虜ヨセフ、コルブ昨二十日を以て満罰に付今朝出倉せしむ
 丸亀衛戌病院附当所兼勤黒川軍医本日より出務す
 
大正五年七月二十二日  晴
 午後俘虜准士官以下二百十二名補助将校平山少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年七月二十三日  晴
 准士官以下収容所外囲西側一部に竹柵を構築す
 本日より収容所附巡査警邏方法改正実施の旨通牒ありしに依り之れを両収容所(将校、准士官以下)補助将校及衛兵に移牒す
 
大正五年七月二十四日  晴
 午前豫て入院中の俘虜卒フランツ、ハルクス全治退院す
 
大正五年七月二十五日  晴
 午後八時所長納富少佐来所収容所内外を巡視し主として先般改正の収容所附巡査の警邏方法を視察す
 
大正五年七月二十六日  晴
 午前俘虜准士官以下二百六十四名補助将校三上中尉監視の下に中津公園に到り運動す  午前八時より俘虜准士官以下所持品(官給品共)一切の細密検査を施行す検査の主眼は和服の所持如何にありしか之れを所持する者あるを発見せす
 午後消毒剤を交付して舎内の大掃除を施行せしむ
 
大正五年七月二十七日  晴
 午前俘虜将校並従卒所持品悉皆を昨二十六日と畧同方法を以て細密検査を施行す異状なし
 午前俘虜下士卒二名所附下士秋山軍曹監視の下に来る三十日施行の予定なる滑稽芝居用品購求の為め丸亀市に到る
 本日より当分の内気候の関係上将校収容所衛兵控兵を東側樹林下に在ることを得せしむ
 
大正五年七月二十八日  晴
 午前丸亀市長同助役、市会議長市参事会員八名俘虜慰問の為め来所す午前十時五十分俘虜准士官以下に対し単簡なる慰問の辞を述へ帰途将校収容所に到り俘虜将校並従卒を同様慰問す
 慰問の際俘虜将校に対し丸亀市附近風景絵端書一組宛及タオール一個宛を同准士官以下に対し絵端書一組宛を寄贈す
 午後俘虜下士卒四名所員里見中尉監視の下に来る三十日施行せんとする滑稽芝居用化粧品購買の為め丸亀市に到る
 午後俘虜将校並従卒一同補助将校高畑少尉監視の下に中津公園に到る
 
大正五年七月二十九日  晴
 午前俘虜准士官以下月例身体検査を施行す
 午後俘虜准士官以下二百十三名補助将校藤中尉監視の許に中津公園に到り運動す
 
大正五年七月三十日  晴
 午後七時より同九時三十分に亘る間俘虜准士官以下同収容所に於て音楽会並滑稽芝居を施行す
 日夕点呼を午後十時に変更す
 
大正五年七月三十一日  晴
 午前伯林シーメンス、シュッケルト、ウェルケの取扱に係る俘虜宛救恤金弐百四拾五円七拾銭を情報局通牒に基き例の如く俘虜両中隊班長を経て同准士官以下百八十五名に交付す
 
大正五年八月一日  曇 時々 雨
 午前俘虜准士官以下個人宛送付に係る洋酒(保留しありたるもの)三十一本を夫々に交付す
 
大正五年八月二日  雨
 午前十時三十分俘虜情報局事務官記録少佐来所事務上に関し打合せを為し後准士官以下収容所及将校収容所を巡視し午後四時三十分退所す
   打合せ事項中主なるもの左の如し
1.俘虜の遺留品は消毒後之れを俘虜情報局に送付すること
2.軍事調査資料として情報局に送付の新聞雑誌は一人に対するものは可成一日分若くは  数日の分を取纏め送付すること
3.遺骨(火葬に付したるもの)は平和克復時迄収容所に於て留置すること
4.俘虜死亡証明書は軍人恩給取扱手続第六書式に依り調製すること
5.俘虜宛送付の煙草は其の数量に注意し彼等間に於て売買等の行はるることなき様注意  すること
6.アルサス、ロレーヌ人に就き調査のこと
7.俘虜給養願を日本兵卒と同一程度と為すこと
8.食麺麭は俘虜をして自製せしむるを可とす
9.俘虜一人に対する給養主品と日本軍人一人に対する給養主品との比較対照表を調製し  情報局へ送付のこと
10.努めて俘虜に労役を課すること
11.俘虜情報局事務官篠崎中佐昨年末各収容所巡視後当収容所の取りたる主なる処置方法  を情報局に通牒すること
12.収容所周囲の囲壁に障害物を増築すること
 午後俘虜准士官以下二百八名補助将校李少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年八月三日  晴
 午後在大阪市西区商業、工藤耕助俘虜ハー、グロッスマンに面会の為め来所せしに依り所員里見中尉立会の上面会せしむ日本語を用ひ相互の安否伺を為したる後二、三友人の近状に就て談話す
 面会者は俘虜にビール三瓶を寄贈す
 午後准士官以下収容所東通用門哨舎の位置を若干変更す
 
大正五年八月四日  晴
 午前在松山市宣教師西班牙人ナアン、カルボ俘虜慰問の為め来所せしに依り例の如く所長応接の上俘虜の近状を述へたる後午前十時所員市川中尉監視の下に准士官以下収容所に於て俘虜旧教徒全員に対し礼拝式並祈祷を施行し同十時三十分終了帰途将校収容所に到り俘虜将校を慰問し退所す
 
大正五年八月五日  晴
 午前高松監獄監守来所、在監俘虜に対し高松市宣教師米国人エリクソンより寄贈したる書籍八冊宗教雑誌三綴、画報一部、検閲方希望せしに依り夫々検閲の上書籍の内三冊を除き他は交付し差支なき旨通達し現品を返戻す
 午後俘虜准士官以下二百八名補助将校木原少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午前俘虜准士官以下支給毛布を海岸に搬出して日光消毒に附せしむ
 
大正五年八月六日  晴
 午後五時より同七時に至る間、俘虜准士官以下収容所に於て同将校以下音楽会並滑稽芝居を施行す
      一等看護長  山地岩太
  右被給一等給(八月一日附)
 
大正五年八月七日  晴
 午前所附山地看護長に対する増給辞令を交付す
 
大正五年八月八日  晴
 午後俘虜将校並従卒一同補助将校佐藤中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年八月九日  晴
 午後俘虜准士官以下二百二十一七名補助将校野村少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年八月十日  晴
 記事なし
 
大正五年八月十一日  晴
 記事なし
 
大正五年八月十二日  晴
 午前俘虜炊事掛下士伍長ドレヒカンプ同副曹長ワッサーマンの二名所附梅野計手監視の下に食麺麭製造見学の為め丸亀市大西商会(当所に食麺麭納入商人)に到る
 午後俘虜准士官以下二百九名補助将校中張中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年八月十三日  晴
 午後六時より同八時に至る間俘虜第二中隊准士官以下音楽会を施行す
 
大正五年八月十四日  晴
 午前俘虜伍長クリングミュラー糞便検査の為め丸亀衛戌病院に到る
 
大正五年八月十五日  晴
 午前丸亀市書記勧業係庭村米太郎来所俘虜労役に関し協議す
 本日より俘虜准士官以下賄料を減少(准士官下士卒を通し薪炭料を含み平均日額弐拾銭)実施す
 午後俘虜将校同従卒一同補助将校楠瀬少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年八月十六日  晴
 梅野上等計手定例休暇を実施す
 午前丸亀市書記土木係齊田勝来所俘虜労役に関し協議す
 午後俘虜准士官以下二百一名補助将校園田中尉監視の下に中津公園に到り運動す 
 
大正五年八月十七日  晴
 午前俘虜准士官以下支給毛布を海岸に於て日光消毒を為さしむ
 梅野計手、山地看護長、秋山軍曹定例休暇を実施す
 
大正五年八月十八日  晴
 午前俘虜下士卒十七名補助将校里見中尉監視の下に木片、板運搬の為め丸亀市旧城内に到る
 荒川通訳定例休暇を実施す
 午後俘虜下士卒二十七名所員市川中尉監視の下に木工具等購買の為め丸亀市に到る
 午後俘虜将校並同従卒一同補助将校中張中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年八月十九日  晴
 午前所長善通寺第十一師団司令部に出頭す
 午前俘虜下士卒三名所員市川中尉監視の下に指物用板等購買の為め丸亀市に到る
 午前香川県麦稈真田同業組合技手小林東三郎来所俘虜労役に関し協議す
 午前俘虜准士官以下収容所外囲東側畑地に電灯一個を増設す
 午前衛戌副官より左記要旨の通牒(電話)あり
   師団命令
  多度津町に擬似虎列拉病患者一名発生せしに付当分の内海水浴遊漁等海に就くを禁す
 
大正五年八月二十日  晴
 午後六時より同八時迄俘虜准士官以下音楽会を施行す
 
大正五年八月二十一日  晴
 午前仲多度郡書記豊田幸太郎来所麦稈真田製造その他に関し協議す
 本日山地看護長定例休暇を実施す
 
大正五年八月二十二日  晴
 午後俘虜将校並従卒一同補助将校吉岡中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年八月二十三日  晴
 午後俘虜准士官以下二百二十七名補助将校吉本中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年八月二十四日  晴
 秋山軍曹定例休暇を実施す
 午前伯林シーメンス、シュッケルト、ウエルケの取扱に係る俘虜宛救恤金弐百四拾五円七拾銭を俘虜情報局通牒に基き例の如く俘虜両中隊班長を経て同准士官以下百八十五名に交付す
 
大正五年八月二十五日  晴
 午前丸亀憲兵分遣所長陸軍歩兵特務曹長辻由松新任挨拶の為め来所せしを以て所長より俘虜に関する情況概要主として取締警戒方法に就て述へたる後所員市川中尉誘導の下に准士官以下収容所内外を視察す
 
大正五年八月二十六日  晴
 荒川通訳定例休暇を実施す
 午後俘虜准士官以下二百十名補助将校山崎中尉監視の許に中津公園に到り運動す 
 
大正五年八月二十七日  晴
 記事なし
 
大正五年八月二十八日  晴
 梅野計手、荒川通訳定例休暇を実施す
 
大正五年八月二十九日  晴
 梅野計手定例休暇を実施す
 午後事務所大掃除並昇汞水消毒を為す
 
大正五年八月三十日  晴
 本日より当分の内俘虜准士官以下午前の運動を海岸に於て実施せしむることに定め
 午前俘虜准士官以下月例身体検査を施行す
 午後俘虜准士官以下二百十六名補助将校和泉中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年八月三十一日  晴
 午後俘虜個人宛豫て送付に係る洋酒(領置しありたるもの)十九壜を夫々交付す
 
大正五年九月一日  晴
 従来備付の衛兵場日誌を本日より廃止す
 俘虜日課時限中左の通り改正せらる
   起床    午前五時三十分
   日朝点呼  同 五時四十分
 
大正五年九月二日  晴
 午後俘虜准士官以下二百七十九名補助将校加川少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年九月三日  晴
 午後収容所酒保商人等出入者悉皆を事務所に招致し健康診断並伝染病主として虎列剌病予防方法に就て衛生講話を施行す
 
大正五年九月四日  晴
 梅野計手定例休暇を実施す
 
大正五年九月五日  晴
 午前所長善通寺第十一師団司令部に出頭す
 梅野計手定例休暇を実施す
 不都合の件ありたる為め一時出入を禁止しありたる酒保商人田村忠太郎、岡田勝次の両人に対し将来を誡め相当の手続を了せしめ出入を許可す
 
大正五年九月六日  晴
 俘虜卒カール、ワイゲル及同オルシュネル二名病原検査の為め所附兼勤黒川軍医附き沿ひ善通寺衛戌病院に到る但し監視として衛兵一、巡査一名を附す
 秋山軍曹定例休暇を実施す
 午後俘虜准士官以下二百七名補助将校木原少尉監視の下に中津公園に到り運動す 
 
大正五年九月七日  晴
 午前丸亀市長及丸亀郵便局長来所俘虜労役に関し協議す
 
大正五年九月八日  晴
 記事なし
 
大正五年九月九日  晴
 午後俘虜准士官以下二百十三名補助将校高畑少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年九月十日  晴
 記事なし
 
大正五年九月十一日  雨
 午後俘虜下士一同卒二名錻力細工用材料購買の為め所員市川中尉監視の下に丸亀市に到る
 
大正五年九月十二日  晴
 俘虜准士官以下支給寝具を海岸に搬出して日光消毒に附せしむ
 午後俘虜将校並従卒一同補助将校増田中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年九月十三日  雨
 午後香川県耕地整理課技手小倉亀一来所俘虜労役に関し協議す
 午後俘虜准士官以下二百九名補助将校山本中尉監視の許に中津公園に到り運動す
 
大正五年九月十四日  晴
 午前在高松市百間町酒見忠勢来所俘虜労役に関し協議す
 午後兵卒二名縫工用ミシン運搬の為め梅野計手監視の下に歩兵第十二聯隊に到る
 
大正五年九月十五日  晴
 午前俘虜炊事掛下士一名同卒二名衛兵二名巡査一名護衛の許に丸亀市大西食麺麭製造場に到り見学す
 午後俘虜将校並同従卒一同補助将校中張中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 所長、所長会議の為め上京す
 
大正五年九月十六日  晴
 午後俘虜准士官以下二百二十七名補助将校戸田少尉監視の下に中津公園に到り運動す 
 
大正五年九月十七日  晴
 午後第十一師団高田参謀来所、俘虜労役に関し協議したる後俘虜将校並同准士官以下収容所を見学せらる
 午後六時三十分より同八時三十分迄俘虜准士官以下仮装芝居を施行す
 
大正五年九月十八日  晴
 秋山軍曹定例休暇を実施す
 午後歩兵第十二聯隊軍曹川邊孫次郎事務見学の為め来所す
 午後俘虜准士官以下支給寝具悉皆を舎外に於て日光消毒に附せしむ
 
大正五年九月十九日  晴
 梅野計手定例休暇を実施す
 午後俘虜将校並同従卒一同補助将校森中尉監視の下に中津公園に到り運動す 
 本日所附下士左記異同あり
       軍曹  秋山 留吉
   右俘虜収容所派遣を免す
       軍曹  川邊孫次郎
   右俘虜収容所へ派遣を命す
 
大正五年九月二十日  晴
 本日より俘虜午前の運動時限を八時より九時迄の一時間に変更す
 午後俘虜准士官以下二百三十二名補助将校中西中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年九月二十一日  晴
 記事なし
 
大正五年九月二十二日  雨
 午前在高松市宣教師エス、エム、エリクソン俘虜慰問の為め来所せしを以て里見中尉応接し俘虜に対する近況を詳述したる後同中尉立会の上准士官以下収容所に到り左記要旨の辞を述へ慰問を為す
  1.久闊の挨拶
  2.支那語辞書に関する談話
  3.虎列剌病に就て
 午後伯林シーメンス、シュッケルト、ウエルケの取扱に係る俘虜宛救恤金弐百四拾五円七拾銭を俘虜情報局通牒に基き例の如く俘虜両中隊班長を経て同准士官以下百八十五名に交付す
 
大正五年九月二十三日  雨
 記事なし
 
大正五年九月二十四日  曇 小雨
 午後俘虜准士官以下二百七十三名補助将校國方中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年九月二十五日  晴
 所長上京中の処本日より出務す
 
大正五年九月二十六日  晴
 午前所長善通寺第十一師団司令部に出頭す
 午前所員市川中尉丸亀駅に到り俘虜迯走予防に関し協定す特に切符販売者及開札係に注意せられ度旨依頼す
 午後市川中尉多度津停車場に赴き前項同様協定す
 午後所長丸亀警察署に到り俘虜取締に関し協議す
 午後俘虜将校並同従卒一同補助将校山崎中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年九月二十七日  晴
 午前収容所出入商人悉皆を事務所に招致し所長より所要の注意を与ふ
 午後衛戌司令官より俘虜将校は来る十月一日当地出発大分俘虜収容所に転送すへき内命を受く
 午後所長衛戌司令官の下に到り所長会議事項に就き報告す
 午後昨日丸亀市に疫列剌病患者発生の報に接したるを以て本日より俘虜一般に外出を禁止す
 本日より准士官以下収容所内側囲壁に接し鉄条架設工事に着手す
 
大正五年九月二十八日  晴
 午後所員市川中尉六郷村役場に到り不日転入すへき俘虜隔離収容舎借上交渉を為す
 
大正五年九月二十九日  晴
 午前九時俘虜准士官以下臨時点呼を施行す
 午前俘虜将校以下身体検査を施行す
 午前当師団経理部々員古庄主計来所経理事務に就て協議す
 午前衛戌副官岩澤大尉来所衛兵司令巡察の件に就き調査す
 午後出入商人悉皆を事務所に招致し健康診断を行ひ疫列剌病予防に関する注意を行ふ
 
大正五年九月三十日  晴
 本日山地看護長定例休暇を実施す
 午前所長俘虜将校一同に対し単簡なる告別の辞を述ふ
 午前俘虜将校の願出に依り同准士官以下一同に対し告別の辞を述へしむ
 
大正五年十月一日    晴
 本日より俘虜日課時限中左の通改正す
     起床    午前六時
     日朝点呼  同 六時十分
     消灯    午後九時
 午後歩兵第十二聯隊より左記四名に対する大正三、四年戦役従軍記章の証の送付を受く    陸軍一等主計  亀友廣吉
    歩兵軍曹    田中一三郎
    一等看護長   山地岩太
    通訳      荒川充雄
 
大正五年十月二日  曇 時々 小雨
 午前昨日の従軍記章の証を夫々交付す
 午前収容所附巡査部長湯浅進新任挨拶の為め来所す
 午後事務補助として歩兵第十二聯隊より左記二名来所す(当分の内毎日来所の予定)
    第十一中隊 上等兵  大石庄太郎
    第六中隊  一等卒  三木幸太
 午後語学研究の為め歩兵第十二聯隊より左記三名来所す
    中尉     三上強介
    少尉     高畑義彦
    三等軍医   越智五七 
 
大正五年十月三日  晴
 午後衛戌司令官より左記要旨の達あり
   大分へ転出せしむへき俘虜将校は十月四日出発せしむへし
   其の護送員左の如し
     丸亀俘虜収容所所員 中尉  市川元治
     歩兵第十二聯隊   軍曹  永峰倉次郎
     同         一等卒 綾田行太郎
     同         同   谷本佐八
 
大正五年十月四日  晴
 午前三時俘虜将校七名大分に転送の為め出発す
 右護送員は所員市川中尉歩兵第十二聯隊下士一、兵卒二名とす猶多度津乗船場迄収容所附巡査四名警護す
 俘虜将校出発後は浜町収容所補助将校及東南角歩哨は之を撤し表門に単哨のみを残置し以て建物の保存、諸物品の監守任せしむることとせり
 
大正五年十月五日  晴
 記事なし
 
大正五年十月六日  晴
 記事なし
 
大正五年十月七日  曇
 本日梅野計手定例休暇を実施す
 本日より准士官以下収容所炊事場薪炭炊爨を瓦斯炊爨に改む
 
大正五年十月八日  晴
 午後衛戌司令官より左記要旨の達あり
  青野原、大阪及久留米俘虜収容所より転入すへき俘虜は明後九日当所到着の予定なり 数日来元将校収容所炊事場、浴室の改築外囲警戒工事の増築実施中本日竣工す
 午後大分に赴きたる俘虜護送者市川中尉以下四名異状なく帰所す
 
大正五年十月九日  曇 時々 小雨
 俘虜収容所を悉皆転出せしめたる結果従来の将校収容所を浜町収容所、准士官以下収容所を塩屋収容所と改称す
 本日梅野計手定例休暇を実施す
 午前大阪俘虜収容所より転入の俘虜二名う受領す
 午後久留米及青野原俘虜収容所より転入の俘虜十五名を受領す
 
大正五年十月十日  晴
 本日梅野計手定例休暇を実施す
 午後俘虜第二中隊卒アルベルト、ウイシュロネウスキー入院す(結核の疑)
 
大正五年十月十一日  晴
 記事なし
 
大正五年十月十二日  雨
 一昨十日入院せし俘虜卒アルベルト、ウイシュロネウスキー肺結核に決定す
 午前俘虜海兵一等麺麭焼工アルフレッド、バウエルを重営倉七日に処罰す
 午後法学士中村浅太郎酒見忠勢の紹介に依り来所俘虜労役に関し協議す
 本日より浜町収容所俘虜自炊を開始す
 本日より塩屋収容所俘虜午前一時間海岸に於て運動することを許可す   
 午後十時所長浜町収容所及塩屋収容所内外を巡視す
 
大正五年十月十三日  雨
 午前第十一師団経理部々員古庄主計及技手一名新設の瓦斯炊爨装備検査の為め来所す
 
大正五年十月十四日  晴
 午後浜町収容所俘虜十五名補助将校藤中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年十月十五日  晴
 午前四時所長浜町収容所並塩屋収容所内外を巡視す
 
大正五年十月十六日  晴
 本日より塩屋俘虜収容所俘虜午前一時間門前運動を許可す
 午前俘虜准士官以下二百七十一名補助将校高畑少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午前九時より塩屋俘虜収容所(午后一時より浜町俘虜収容所)俘虜細密検査を施行す其の成績概して良好にして特に記すへき事項なし
 検査補助として歩兵第十二聯隊より将校一名(藤中尉)差遣を受く
 
大正五年十月十七日  晴
 記事なし
 
大正五年十月十八日  晴
 午前左記俘虜六名丸亀衛戌病院に到る
   バウツ、ボッツ、ボイステルレ(入院患者見舞の為め)
   クラーゼン         (眼底検査の為め)
   コイエル          (□疸手術の為め)
 
大正五年十月十九日  曇
 本日より伝染病予防の為め禁止しありし果物の販売を許可す
 豫て入倉中の俘虜アルフレッド、バウエル昨八(ママ)日満罰に付今朝出倉せしむ
 
大正五年十月二十日  晴
 午前俘虜准士官以下八名(製作品出品関係者)所員市川中尉監視の下に丸亀市四国製作品々評会場に到り見学せしむ(工芸品奨励の為め)
 午前香川県□長尾繁二郎来所俘虜手工品に関し協議す
 本日到着の官報を以て左記発表あり
   丸亀俘虜収容所々員被免
     歩兵第四十三聯隊附陸軍歩兵中尉市川元治
   丸亀俘虜収容所々員被仰付
     歩兵第四十四聯隊附陸軍歩兵中尉諏訪邦彦
               (以上十月十八日附)
 
大正五年十月二十一日  晴
 午前市川中尉に対する辞令を交付す
 午後香川県立高松師範学校外県立四学校音楽教師の希望に依り俘虜卒エンゲル(音楽教師)及同伍長スタインメッツの二名市川中尉監視の下に丸亀高等女学校に到り試験的奏楽を為す
 
大正五年十月二十二日  晴
 午後三時より同五時迄別院収容所俘虜一同音楽会を施行す
 
大正五年十月二十三日  晴
 本日衛戌命令を以て伝染病第二期予防法実施に関する一切の規定を解く
 本日市川中尉に対し左記命令す
          中尉  市川元治
 右後任者著任迄事務引継及同期間諸勤務を命す
 午前香川県麦稈真田組合長来所真田製造に関し研究方希望せしに依り俘虜パウル、ワイテル、ヨセフ、ミルツ、オットー、ストレーを事務所に招致し所員里見中尉立会の下に研究せしむ
 午後別院収容所俘虜二百六十七名補助将校八木少尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年十月二十四日  晴
 午前浜町収容所俘虜十五名補助将校中井中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午後伯林シーメンス、シュッケルト、ウエルケの取扱に係る俘虜宛救恤金二百六十三円
情報局通牒に基き例の如く俘虜班長を経て同貧困者百九十八名に夫々交付す
 
大正五年十月二十五日  晴
 午前第十一師団軍医部長松井貞五郎来所別院及浜町収容所を視察せらる
 歩兵第十二聯隊より差遣を受け居りし兵卒二名本日限り通勤を解く
 
大正五年十月二十六日  晴
 午後歩兵第十二聯隊見習士官大町茂語学研究の為め来所す
 
大正五年十月二十七日  晴
 記事なし
 
大正五年十月二十八日  雨
 所員諏訪中尉本日より出勤す
 
大正五年十月二十九日  雨
 本日より塩屋収容所俘虜午前運動時限を九時より十時に至る一時間に変更す
 本日より同所俘虜菜園往復時限を午前七時より午后五時迄に改正す
 
大正五年十月三十日  晴
 午前浜町収容所俘虜一同補助将校中井中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 本日より俘虜一般に燭台の使用を禁止す
 
大正五年十月三十一日  晴
 午前九時無位無勲の下士、同判任待遇者の拝賀式を行ふ
 午後俘虜第二中隊卒ボート同、エラートの二名同中隊兵卒三名(バルドウイン、シエック、チンマーマン)に殴打せられたる旨訴へ出しに依り所員諏訪中尉取調へたるに前記二名は居常言行不謹慎にして同僚間に排斥せられ居りしを以て独逸軍隊の習慣に依り同僚制裁を受けしものの如し依て両中隊班長をして一般に将来を誡飾せしめ又補助将校及衛兵に相当の注意を促かし迯亡等の失態なからしむる様警戒取締を為さしむ
 
大正五年十一月一日  雨
 本日より俘虜日課時限中左の通改正す
    起床    午前六時三十分
    日朝点呼  同 六時四十分  
 昨日の俘虜五名を事務所に招致し取調の結果左記の通懲罰処分に附す
   第二中隊  俘虜卒  ヨハンシェック
         (名簿番号一〇七)
  右上官の注意を遵守せす私怨を以て再度他人を殴打せし科に依り重営倉七日に処す
   第二中隊  俘虜卒  ウイルヘルム、バルドウイン
         (名簿番号六九)
   同     同    ゲオルグ、チンマーマン
         (名簿番号一四〇)
  右者私怨を以て他人を殴打せし科に依り重営倉五日に処す
   同     同    ヨセフ、ボート
         (名簿番号八四)
   同     同    ルドルフ、エラート
         (名簿番号一二一)
  右者妄りに他人を誹謗し争闘を諾き起さしめたる科に依り重営倉三日に処す
 午後左記兵卒二名事務補助として衛戌司令官より差遣を受く
   第六中隊  一等卒  三木幸太
   第十一中隊 上等兵  大石庄太郎
 
大正五年十一月二日  晴
 所附川邊軍曹定例休暇を実施す
 昨日の兵卒二名事務補助の為め差遣を受く
 午後衛戌司令官土井大佐別院及浜町収容所を巡視せらる
 
大正五年十一月三日  晴
 午前九時三十分所長以下職員一同事務所に集合し遙拝式を施行す
 式前無位無勲の判任官同判任待遇者の拝賀を行ふ
 
大正五年十一月四日  晴
 午前左記俘虜二名出倉す
    第二中隊  俘虜卒  ヨセフ、ボート
    同     同    ルドルフ、エラート
 午前丸亀高等女学校書記長谷川音次郎来所俘虜音楽教師の件に就き協議す
 午前俘虜卒ヘルマン、デゼブロック脂肪瘤切除の為め丸亀衛戌病院に到る
 午后俘虜准士官以下二百三十一名補助将校中井中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年十一月五日  晴
 記事なし
 
大正五年十一月六日  晴
 所長香川県庁へ出張す
 午前左記俘虜二名出倉す
    第二中隊  俘虜卒  ウイルヘルム、バルドウイン
    同     同    ゲオルグ、チンマーマン
 午後俘虜准士官マックス、ブンゲ脂肪瘤切除の為め丸亀衛戌病院に到る
 本日梅野計手定例休暇を実施す
 午後左記俘虜卒二名一般俘虜と隔離せしむるの必要上歩兵第十二聯隊営倉内に預入を為す
 左記
    俘虜卒  ヨセフ、ボート
    同    ルドルフ、エーレルト
 午後八時所長別院及浜町収容所を巡視す
 
大正五年十一月七日  晴
 午前在神戸市ゲルトルード、コッホ其の夫俘虜副曹長エルヴィン、フォン、コッホに面会の為め来所せしに依り所員諏訪中尉及通訳立会の上面会せしむ用語は独逸語にして談話要件左の如し
  1.前回面会以後に於ける双方の安否に就て
  2.相互発信書の着否に就て
 午前俘虜宣教師ワナーグス俘虜准士官以下に対し宗教上の講話を施行す
 午後浜町収容所俘虜十六名補助将校山本中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年十一月八日  晴
 午前俘虜卒ヨハン、シエック出倉す
 午前塩屋収容所服務の歩哨第十中隊松原梅由服務に堪へす(腹痛の為め)同中隊三毛重太郎と交代す
 午後所長俘虜産業利用に関する協議の為め丸亀市役所に到る
 
大正五年十一月九日  雨
 午前俘虜炊事掛エルンスト、ドレヒカムプ及同卒マックス、ブロッホベルゲルの二名丸亀市屠牛場に到り豚の血液を購買す
 
大正五年十一月十日  雨
 記事なし
 
大正五年十一月十一日  晴
 午前浜町収容所俘虜十六名補助将校山本中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 午後六時頃俘虜副曹長ビオレット同副曹長カール、プレディガーと争闘せり依て取調へたるにビオレットは近来神経過敏となり往々他俘虜と争闘し今回も些細の事に起因せしこと判明す
 
大正五年十一月十二日  晴
 記事なし
 
大正五年十一月十三日  晴
 記事なし
 
大正五年十一月十四日  晴
 所長師団秋季演習見学の為め出場す
 
大正五年十一月十五日  曇
 午前六時俘虜上等兵マックス、ノイマン外五名(手工品心得ある者)所員里見中尉監視の下に高松工芸学校備付器械実視の為め同校に到る
 午前俘虜伍長スタインメッツ外二名(屠殺心得ある者)豫て購買せし豚屠殺の為め丸亀市屠牛場に到る
 午後去る六日当分の間他俘虜と別居せしむるの必要上歩兵第十二聯隊営倉に預け置きたる俘虜二名の中先つボート一名を連れ帰り当人には訓誨的説明を与へ又一般に対しては俘虜班長をして融和せしむる様伝達せしめ相当の監視方法を講し所内診断所に起居せしむ
 
大正五年十一月十六日  曇
 午後俘虜ボートを一般俘虜と同居せしむ
 
大正五年十一月十七日  雨
 本日到着の官報を以て左記発表あり
        陸軍歩兵少佐  納富廣次
   任陸軍歩兵中佐(十一月十五日附)
 
大正五年十一月十八日  晴
 午前俘虜卒エーレルトを歩兵第十二聯隊営倉より連れ帰りたる時と同様の取扱を為す
 
大正五年十一月十九日  晴
 午後塩屋収容所俘虜二百四十三名所員里見中尉監視の下に中津公園に到り運動す
 
大正五年十一月二十日  晴
 午後在京都市宣教師エミール、シルレル俘虜慰問の為め来所せしに依り所長応接し俘虜の近況を述へたる後宣教師よりも説教の要旨を述へしめ午後二時三十分所員諏訪中尉並通訳立会の上塩屋収容所に於て俘虜准士官以下に対し左記要旨の説教を施行す
   秋季に於て我等新教徒は新教創立日たる十月三十一日及ルーテル誕生日たる十一月  十日の二大紀念日を有す我等は当紀念日に於て宗教改革の大事業を追想しこを完うし  たる大偉人ルーテルの人格を追憶せさるへからす此れに依て宗教改革の意義、新教の  信仰及ルーテルの事業を明かにし併せて我等の信仰生活を豊富ならしめ困難に堪ふる  の力、善に帰するの力を獲て吾人の精神涵養に資するを得ん
 
大正五年十一月二十一日  晴
 午前所長納富中佐に対する辞令到着す
 
大正五年十一月二十二日  晴
 午前所長昇級挨拶の為善通寺師団司令部へ出頭す
 午前在高松市宣教師エス、エム、エリクソン俘虜慰問の為来所せしに依り所員里見中尉応接し一昨二十日同様の手続きを了し午前九時五十分同中尉立会の上塩屋収容所俘虜中英語を解する者十数名に対し左記要旨の辞を述へ慰問を為す
  1.俘虜近時の健康状態は如何に
  2.宗教心の向上を希望す
  3.読書は如何なる種類のものを好めるや
 エリクソンは入院、入室患者に対し金弐拾円を寄贈し午前十時四十分退所す
 午前俘虜伍長アンドレ外三名豫て購買に係る豚屠殺の為丸亀市屠牛場に到る
 
大正五年十一月二十三日  晴
 午前八時五十分軍事課長津野大佐来所、先つ事務所に於て所長より俘虜警戒取締其の他一般状況に就て報告したる後塩屋収容所及浜町収容所内外を巡視し午前十時退所せらる巡視後所長以下職員一同に対し左記要旨の注意及所見を述へらる
 諸官は常に所長の懇切なる注意に依り奮励努力しあるは信する所なるも各収容所巡視の結果聊か左に余の所見を述へ以て参考に資せんとす
一、警戒に就て
   当収容所の警戒並取締法は概して可なるも俘虜は迯走を企画すへき性質なるを以て  最早迯走せさるへし思惟する時反て迯走することあるへし細心注意し以て遺憾なきを  期すへし
   衛兵は衛戌司令官に隷属しありと雖迯走予防其の他取締上に関しては所員の注意を  要すること多大なり日常此の点に留意し失態なからしむる様未然に心掛くへし
二、俘虜取扱
   彼等は在邦中如何なる取扱を為すも決して満足することなし故に寛厳宜しきを得る  ことに心掛け其の間に於て一種言ふへからさる
   帝国軍隊の威信を感せしめ温情ありて犯すへからさる所ある如く所謂武士道的精神  を知らしめ解放後に於ても亦帝国軍隊を尊重せしむへき気風を養成することに努力す  るを要す
三、秘密通信
   久留米収容所に於て俘虜書翰中より散見せる状況に依り察すれは北京又は天津に彼  等の情報集収所あるか如くも思はれ到る処に於て秘密通信を実行しあるものの如し果  して然らは彼等の書翰取扱に就ては忽にすへからさることを覚悟せさるへからす又一  方より考ふるは日々の業務は殆んと同一の事項を繰返すを以て趣味なきか如きも彼等  か如何にして秘密通信を為し居るかを研究し置かは将来彼等と戦闘を交ふる時諜報勤  務の一助と為すを得へし細心注意し以て遺漏なきを期すへし
 午後六時四十分頃補助将校山本中尉俘虜兵卒二名(ボート、エーレルト)迯走したる旨報告す依て日直所員里見中尉速時臨時点呼を施行し一方日直下士をして憲兵分遣所、警察署等所要の箇所に電話通報し衛戌司令官及所長に報告せしむ其の詳細に関しては附録第三の如し
 
大正五年十一月二十四日  晴
 午前九時四十分昨二十三日夜迯走せし俘虜二名六郷村字下金倉海岸に於て地方人武田半八郎之れを逮捕し同人及憲兵附沿ひ連れ来りしを以て之を受領し所要の調査を了し歩兵第十二聯隊営倉に留置す
 午後伊太利大使館参事官フェランテー氏俘虜訪問の為来所せしに依り所長応接の上墺国
於て慰問せしむ談話の要旨は機密日誌に在り
 慰問者は前記俘虜十三名に対し金弐百参拾四円を寄贈す
 
大正五年十一月二十五日  曇 時々 小雨
 午前十一時より丸亀憲兵分遣所に於て迯走俘虜二名に対する検察処分を為す旨同所より通牒に接す
 右通訳の為所附通訳同所に出張す
 
大正五年十一月二十六日  晴
 引続き迯走俘虜二名の検察処分中の処終了に付午後二時四十二分丸亀駅発列車にて善通寺第十一師管軍法会議に護送したる旨丸亀憲兵分遣所より通牒を受く右通訳の為所附通訳出張す(丸亀憲兵分遣所に)
 
大正五年十一月二十七日  曇
 午前、俘虜取調通訳の為所附通訳荒川充雄善通寺法官部に出張す
 午前丸亀警察署大須賀警部来所収容所附巡査服務規定改正に関し現状視察並協議を為す
 午後播州飾磨郡家島村の内宮浦、井原鶴吉俘虜トロイケに面会の為来所せしに依り所員諏訪中尉立会の上面会せしむ用語は日本語にして談話要件左の如し
  俘虜か青島に於て所有する家屋の売買に関する件
 午後六時三十分俘虜一名塩屋収容所東側宝蔵庫の屋上に登り居りしを巡邏中の警官之を認め叱責せしに直に降下したる旨報告に接したるを以て所員里見中尉直に臨時点呼を行ひ人員に異状なきを確めたる後現況の視察及概況取調へを為し所長に報告す午後七時過所長出所取調の結果左記の通略々判明したるも夜間無断屋上に登り徒らに衛兵警官等を煩はしたるに依り所内仮営倉に留置し明日精査することにす俘虜は第二中隊卒オットー、デッケルにして豫て飼育しある百舌雀に与ふへき餌として雀を捕へんか為屋上に登りたりと
 附言、当人は雀一羽を捕獲し居りたり、又上衣を脱し金銭等を所持し居らさるより察す    れは迯走の意図はなかりしものの如し
 
大正五年十一月二十八日  晴
 午前昨夜の俘虜デッケルを事務所に招致し精査の結果俘虜昨夜の陳述は全く事実にして他の目的を有するものにあらさることを判明せしを以て厳に将来を誡め留置を解き又俘虜両班長を経て俘虜一般に注意を与へしむ
 
大正五年十一月二十九日  晴
 午前所員諏訪中尉、二十三日迯走せし俘虜二名取調の為善通寺軍法会議に出張す
 午後第十一師管軍法会議理事小幡(?)通徳より迯走俘虜二名を多衆共謀迯走及器物毀棄罪に依り十一月二十六日善通寺衛戌監獄へ収禁の旨通牒を受く
 午後左記の箇所に電灯を増設す
   別院外囲東西隅  壱個
   同 西側歩哨前  壱個
 午後周囲に在る板柵等薄弱なる部分(錠前、柵)を堅固に修築す
 
大正五年十一月三十日  晴
 一、午前所長先般迯走俘虜捜索に関係せる善通寺諸隊へ謝礼の為出頭す
 二、電灯増設
   午後衛兵所東北隅  壱個
 
大正五年十二月一日  晴
 一、午後所附通訳荒川充雄迯走俘虜取調への為善通寺第十一師管軍法会議に出頭す
 二、所附下士進級、派遣、任免、昇級の件
             軍 曹   田中一三郎
    右陸軍歩兵曹長に任せらる
             曹 長   田中一三郎
    右丸亀俘虜収容所派遣を免せらる
             軍 曹   藤浦時次郎
    右丸亀俘虜収容所派遣を命せらる
             軍 曹   川邊孫次郎
    右一等給を給せらる
 
大正五年十二月二日  晴
 午前第十二師管軍法会議より左の通牒あり
          海軍歩兵卒  ヨセフ、ボート
          同      ルードルフ、エーレルト
 右俘虜二名多衆共謀迯走及器物毀棄罪に依り懲役一年六ヶ月に処す(十二月一日)
 
大正五年十二月三日  晴
 記事なし
 
大正五年十二月四日  晴
 午後語学研究の為歩兵第十二聯隊より左記二名来所す
           少 尉   高畠義彦
           見習士官  大町 茂
 
大正五年十二月五日  晴
          海軍歩兵卒  ヨハン、テッフエルゲルト
 右衛兵の制止を聴かす且反抗的(十二月四日午後五時二十分頃衛兵所前に於て衛兵所内を窺ひ居りしを以て他所に赴くへく命したるも之を聴き入れす衛兵の一名か俘虜に立ち退きを命せし際)の行為を為したる科に依り重営倉十五日に処す
 午後0時三十分より補助将校奥山中尉監視の許に塩屋俘虜准士官以下二百七十一名中津公園へ運動に到る
 
大正五年十二月六日 晴
        浜町に収容しある特種俘虜
         海軍歩兵卒  タッヂウス、ヘルトレ
 右日本官憲に対し不満不遜の言動を為したる科に依り重営倉十日に処す
         海軍歩兵卒  リヒヤド、トロイケ
 右日本官憲に対し不満の言動を為し且反抗的行為を為したる科に依り重営倉十日に処す     情 況 書
         ダッヂウス、ヘルトレ
一、十一月十三日午後十時三十分頃衛兵司令巡察に際し巡察の回数多きに過き為に安眠を 得す当丸亀軍人は九州軍人に比し柔弱なり僅々十七名に対し多くの衛兵を附すか如き之 れなり又歩法の如きも宜しからす
  然るに右に対し所長は説諭を加へ且つ成るへく彼等に好感を与ふる為兵卒の派察は必 要と認むる外舎内に立ち入らさることに注意し申送を為さしめ置きたり
二、所員に対し屡々糧食の不足を訴ふ然れとも塩屋に収容しある独乙一般の俘虜は准士官 を含み平均一日一名弐拾銭なるも浜町収容所は人員十七名なるを以て特に准士官を含ま す、平均一名一日弐拾銭の賄を給しつつあり其の熱量は塩屋収容所の者は三、一〇〇に 対し浜町収容所の熱量は三、二二五に在る状況なり
三、ヘルトレ、久留米収容中は一且平和に際し解放せらるるときは一般独乙俘虜と同様独 乙官憲に引渡すことなく所長に於て責任を以て逃亡せしむへきことを明言せりと、然れ とも安心ならさる故解放時の為独乙官憲に引渡さるとの証書を与ふこと、之に対し所長 曰く日本官憲も特に諸子の境遇に同情し如斯隔離する等好意を以て遇し居れり又解放時 に於けることも十分諸子の意を了知せし、居れりと云ふも彼曰く若し証書を与へされは 解放前に放火して日本官監獄に入るへしと
四、一二月五日軍医の診断に当たり尚ほ第一項のことを訴へ我衛兵に対し不満不遜の言を 為し且つ曰く衛兵の巡察甚だ多く且つ家屋不良にして住居するに堪へす願はくは監獄に 入れられたし、然れとも罪なきものを入れ得されは病院に収容せられたし、然らされは 自ら傷付け入院を計るへしと、然るに彼等両名は此の収容所内最も良室に収容しあり
五、要するに彼ヘルトレーは特別の優遇を受くへきこと即ち衛兵等も附せらるることなく 外出等も自由になり被服、糧食、居室等もより以上の良好なるものを与へらるることを 予期して久留米より来りしものの如くし然るに収容後取扱に大なる変化なく予期に反せ るを以て常に不満を抱き絶へす所員に対しても不服不穏の言動を為するに至れり彼常に 曰く吾人は独逸俘虜に在らす連合軍の一員なり取扱に於て独乙俘虜と同一視せらるへか らす須らく優遇せられさるへからすと
 之か為所長及所員は屡々注意し再三懇々説諭すると雖何等改悛の状なく事今日に至れり         リヒヤート、トロイケ
一、十一月十三日に於ける行為はタッヂウス、ヘルトレに同様なり
二、所長に対し書簡呈出は一ヶ月に書状一端書一の如きは回数甚た少なく且つ入浴も一週 一回の如きも恰も監獄に在るか如しと暴言を吐き反抗的態度を以て対せり所長は叱責し て其の不心得を諭せり
三、十二月五日軍医の診断に際し吾人は神経衰弱なるも衛兵の巡察の回数多く且つ不眠の 場合多し故に薬を服用するも全恢することなし今後薬を飲用せさるへし等其の他前者第 四項に同し
四、之を要するに「トロイケ」は大坂に於て我国に帰化せんと願書を出し(実は只た解放 の速かならんことを翼ひしものにして他意あるにあらす)他の独乙俘虜の知る所となり 遂に其の圧迫を受け当収容所に収容せしものにして稍々神経質の性を有するも自ら多き を求めて止ます
 以上の如き言動をして以て自己の優遇を受けんことを希ひ屡々注意訓戒すると雖も自ら顧みる所なく全然改悛の状毫もなく事今日に至れり
 右両名に対し所長は十二月六日特に招致し懇々従来に於ける言動を慎むへきことを諭し将来の改悛を求めたるも全然自己の行為を是認し尚ほ我か官憲に対し不平不満を訴ふるのみにして改悛の状なきを以て処罰するに至れり
 之を要するに右両名及之れ等と同行の外二名(墺国俘虜十三名は極めて従順なり)は不良の徒にして一時他の圧迫を受けしを以て日本官憲に依頼し来りしも其の圧迫を免るに至り其の本性を現はすに至れり収容以来今日に至る迄の行為を観察するに日本及連合国に一つも同情を有するものと認め難し
 
大正五年十二月七日  晴
一、午後十二時二分塩屋収容所西北角(哨舎南方約三十米)に於て麻裏草履の落失しあるを警邏中の巡査之を認め事務所に報告し来りたるを以て所員里見中尉現場に到り調査し尚不時点呼を行ふも人員に於て異状なし
 
大正五年十二月八日  晴
 記事なし
 
大正五年十二月九日  晴
 午後浜町収容所に於けるポーラント人、露西亜人伊太利人とを監視の関係上居室の収容換をなせり
 
大正五年十二月十日  晴
 午後三時入倉中の俘虜タッヂウス、ヘルトレー六日夕食より十日昼食に至る十二食故意に喫食せさりし為身体衰弱せるを以て健康快復の目的を以て一時出倉せしむ
 
大正五年十二月十一日  晴
 午前九時在松山市三番丁ホアン、カルボー塩屋俘虜慰問の為来所せしに依り所長及所員諏訪中尉応接し俘虜の近況を述へ且又宣教師よりも礼拝式挙行の旨を述へたる後九時三十分より収容所に至り所長及所員立会の上旧教徒一同礼拝式を行ひ総て通訳を会し左の要旨の会話をなせり
 一、松山に於ける友人俘虜の起居に就て
 二、次回の訪問は来年一月下旬に来るへきことを約せり  
 所附通訳荒川充雄実母危篤の旨電報に接し請願休暇七日にて郷里熊本県八代郡八代町鷹辻六七藤田方に帰省す
 
大正五年十二月十二日  晴
 午後一時より所員里見中尉衛兵監視の許に塩屋俘虜准士官以下二百四十四名綾歌郡土器村(青ノ山西麓)に在る陸軍墓地に到る午後三時三十分帰所せり
 午後一時十分より所長及所員諏訪中尉塩屋収容所舎内に据付ある瓦斯ストーブの位置を検査をなせり
 
大正五年十二月二(ママ)十三日  晴
 十三日、十四日、十五日三日間収容所及俘虜に備附品並支給品の現況調査を施行せり
 午後丸亀市葭町中田宗助皮革製造に関し所長と協議せり
 
大正五年十二月十四日  晴
 現況調査を施行せり
 
大正五年十二月十五日  晴
 現況調査を施行せり
 
大正五年十二月十六日  晴
 午後タッヂウス、ヘルトレー残罰六日を実施の為入倉せしめんとし服装検査を為し出発せんとする際歯磨道具携帯の為自室に帰還せんことを願ひ出てしを以て之を許可したるに自室に於て左前膊内面下方三分の一に自己所有の剃刀に依り長さ約三珊知深さ三粍を自傷せるを以て懇々諭示し入倉せしむ
 
大正五年十二月十七日  晴
 記事なし
 
大正五年十二月十八日  晴
 記事なし
 
大正五年十二月十九日  晴
 午前在東京市小石川区上富坂宣教師エミル、シュレーテル塩屋俘虜新教徒一同に対し慰問の為来所せしに依り所長及所員諏訪中尉通訳立会の上所長より塩屋俘虜の近況を述へ且又エミル、シュレーテルよりも講話の要旨を聴取したる後別院に到り講話をなせり其の要旨左の如し
 1、基督降誕祭を眼前に控へたる今日我等信徒は其の意義に付考究せさるへからす旧約  時代に於ける正義の神は基督に依りて愛の神となり基督教の信仰を生むに至れり此の  信仰に依れは宇宙の万象へ皆之れ神の愛の現にして人生の苦も難も亦神の愛の恩悪な  り斯かる信仰に依りて吾人は初めて此の世に処し完全の生を営むことを得へし此の信  仰は基督の吾人に与へたる所にして吾人基督教徒は基其(ママ)の降誕を祝し神の愛  に浴し此の世に処すへき力を得て基督に依て示されたる信仰生活を営まさるへからす
 
大正五年十二月二十日  晴
 記事なし 
 
大正五年十二月二十一日  晴
 記事なし
 
大正五年十二月二十二日  晴
 記事なし
 
大正五年十二月二十三日  晴
 記事なし
 
大正五年十二月二十四日  晴
 基督降誕祭に就き午後五時より俘虜一同本堂に集合し降誕祭式を施行す
 俘虜願出に依り日夕点呼を午後十時迄延期す
 
大正五年十二月二十五日  晴
一、午後一時より塩屋俘虜准士官以下二百二十八名所員諏訪中尉及衛兵監視の許に仲多度 郡金蔵寺に運動に到る午後四時帰所す
二、所附小使解傭
        小 使  山本佐太郎
   右小使を解傭す
 
大正五年十二月二十六日  強風
一、俘虜願出に依り午後五時三十分より音楽会を許可す
二、小使傭入
             中村豊次郎
   右小使を命す
 
大正五年十二月二十七日  晴(強風)
 記事なし
 
大正五年十二月二十八日  晴
 記事なし
 
大正五年十二月二十九日  晴
 事務所の畳表替を行ふ
 
大正五年十二月三十日  晴
一、当収容所俘虜中鞣革製造の技能を有する者三名ありて先般所長高松へ出張の際県庁と交渉の結果今度鞣革試作費として香川県庁より金五拾円送付を受く
 
大正五年十二月三十一日  晴
 午前十時五十分俘虜情報局河西大佐俘虜事務打合せの為来所せられ同時に師団参謀長小川大佐、衛戌司令官同副官も来所せられたり
 午前十一時十分より塩屋俘虜収容所を巡視せらる
 午後二時〇分より浜町収容所を巡視せらる
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大正六年度
 
 
大正六年一月一日  晴
一、午前九時所長事務所に於て無位、無勲の下士及判任官待遇者の拝賀式を行ふ、後所員 一同海岸に到り遙拝式を行ひ  天皇陛下の万歳を三唱す
 
大正六年一月二日  晴
 記事なし 
 
大正六年一月三日  晴(強風)
 記事なし 
 
大正六年一月四日  晴(強風)
 記事なし 
 
大正六年一月五日  晴(強風)
 記事なし 
 
大正六年一月六日  晴(強風)
 記事なし 
 
大正六年一月七日  晴(強風)
 記事なし 
 
大正六年一月八日  晴(強風)
 記事なし 
 
大正六年一月九日  晴(強風)
 当収容所俘虜中指物師及建築技師二名香川県立工芸学校と交渉の結果本日より通勤せしむ其の人名左の如し
      海軍歩兵上等兵  マックス、ノイマン
      同        アウグスト、アートラー
 依て歩兵第十二聯隊より監視兵として歩哨一名を附し往復途中の警戒に任せしむ
 毎日(休日、祭日を除く)午前八時二分丸亀駅発列車にて出発し午後三時五十八分丸亀駅着列車にて帰所す
 
大正六年一月十日  晴
 記事なし 
 
大正六年一月十一日  晴
 記事なし 
 
大正六年一月十二日  晴
一、本日より塩屋収容所に於ける衛兵取締の補助将校を廃し事務補助の為将校一名を派遣せられ事務所に於ける事務を補助し且つ事務所日直勤務に服し従来の衛兵取締補助将校の業務は日直将校に之を兼ねしめ補助将校の服務期間約一ヶ月間とす
 服務者、歩兵第十二聯隊附陸軍歩兵少尉高畠義彦
 
大正六年一月十三日  晴
一、所長、工芸学校に通勤中の俘虜二名の状況視察の為香川県立工芸学校へ出張せり
 
大正六年一月十四日  晴
 記事なし 
 
大正六年一月十五日  晴
 午前九時在東京市小石川区上富坂町二三「ヤコブ、フンチカ」俘虜新教徒一同に対し説教の為来所せしに依り所長及所員立会の上所長より塩屋俘虜の近況を述へ且又「フインチカ」よりも当日の説教の要旨を述へられたる後塩屋収容所に至る
  説教の要旨左の如し
  人生に就て
  人生は時計の針の如し神は永遠に汝等を愛護し賜ふものにして神に信頼するものは   「やかて」神によりて幸ある世に導かるへし必すや神に背き短慮の行為をなすへから  す神の教に従ひ時々刻々を過すへし如斯神を中心として初めて永遠の生を営むことを  得人生の真意義を発揮するに至る
二、香川県立工芸学校へ通勤中の俘虜マックス、ノイマン脳貧血病の欠勤せり
 
大正六年一月十六日  晴
 記事なし
 
大正六年一月十七日  晴
 記事なし
 
大正六年一月十八日  晴(強風)
一、浜町俘虜十二名運動の為吉岡中尉監視の許に中津公園に到る、午後0時三十分出発午後三時帰所す
         所附通訳  荒川充雄
 右腎臓炎疑にて引籠
 
大正六年一月十九日  晴
 郵便局員の来所
 俘虜に対する特種郵便(郵便為替、価格表記、貯金の払出及預入)は従来所員郵便局に出張し授受の処今般郵便局と交渉の結果毎週一回局員収容所に出張し来り前記金銭の受授を所員監督指導(情報局規定要項は実施す)の許に受授をなすこととせり
 
大正六年一月二十日  晴
一、午前九時三十分より梅野計手監視の許に俘虜四名丸亀市屠殺場に屠殺見学の為出張同 十一時0分帰所す
二、香川県立工芸学校に通勤中の俘虜二名欠勤せり
三、当所俘虜海軍歩兵卒「アルフレッド、ヒルデブランド」肺結核にて丸亀衛戌病院に入 院せしむ
四、午後0時三十分より里見中尉衛兵監視の許に塩屋俘虜准士官以下二百五十三名運動の為中津公園に到る午後三時帰所す
 
大正六年一月二十一日  晴
 記事なし
 
大正六年一月二十二日  晴
 午後0時三十分より李少尉、衛兵監視の許に浜町俘虜十二名運動の為中津公園に到る午 後三時帰所す
 
大正六年一月二十三日  晴
 午前十時在高松市浜ノ町エス、エム、エリクソン俘虜慰問の為来所せしに依り所員里見中尉、所長応接し塩屋俘虜の近況を述へ且又「エリクソン」よりも当日の説教の要旨を述へられたる後別院に到り左の要旨の談話をなせり
  1、日常の挨拶
  2、相互間の近状の談話
  3、肺結核患者アルフレッド、ヒルデブラント入院に就て
二、午後二時より所員里見中尉及衛兵監視の許に別院俘虜准士官以下二百二十七名運動の為中津公園に到る午後三時三十分帰所す
 
大正六年一月二十四日  晴
 記事なし
 
大正六年一月二十五日  晴
一、午後一時三十分より経理検査の為第十一師団経理部々員陸軍三等主計正伊集院俊彦来所し検査を施行せらる
 
大正六年一月二十六日  晴
 記事なし
 
大正六年一月二十七日  晴
一、香川県立工芸学校へ通勤中の俘虜二名本日欠勤す
二、午後0時四十分より里見中尉及衛兵監視の許に塩屋俘虜准士官以下二百二十名中津公園に運動に到る、午後三時帰所す
 
大正六年一月二十八日  晴
 記事なし
 
大正六年一月二十九日  晴
一、午後0時三十分より補助将校及衛兵監視の許に浜町俘虜十二名運動の為中津公園に到る午後三時帰所す
二、午後一時より高畠少尉監視の許に塩屋俘虜ワイヒ外二名細工用の材木購買為丸亀市に到る午後三時帰所す
 
大正六年一月三十日  晴
 午後一時より諏訪中尉、衛兵監視の許に塩屋俘虜二百四十二名運動の為中津公園に到る午後三時二十分帰所す
 
大正六年一月三十一日  晴
 午後一時より高畠少尉監視の許にハウプト外二名細工用の木材購買の為丸亀市に到る午後三時四十分帰所す
 
大正六年二月一日  晴
午後0時三十分より補助将校衛兵監視の許に浜町俘虜十二名運動の為中津公園に到る午後三時帰所す
 
大正六年二月二日  晴
 記事なし
 
大正六年二月三日  晴
 午後0時三十分より里見中尉及衛兵監視の許に塩屋俘虜二百十四名運動の為中津公園に到る午後三時帰所す
 
大正六年二月四日  晴
 記事なし
 豫て計画中なりし鞣革試作を開始せり
 
大正六年二月五日  晴
一、鞣革試作見学の為善通寺陸軍兵器支廠長波多規矩造外二名及香川県庁より四名来所せり
二、午後俘虜三名細工用の材木購買の為高畠少尉監視の許に丸亀市に到る
 
大正六年二月六日  晴
一、午前九時三十分在横浜市ゲルトルード、コッホ其の夫俘虜副曹長エルヴィン、フォン、コッホに面会の為来所せしに依り所員里見中尉及荒川通訳立会の上面会せしむ、其の談話の要旨左の如し
  1、家計上に関する相談   
  2、独乙本国との文通に関する談話
  3、其の他雑談
二、午前九時より俘虜スタインメッツ以下三名豚屠殺の為高畠少尉監視の許に丸亀屠殺場に到る午前十時四十分帰所す
三、午後0時三十分より塩屋俘虜運動の為諏訪中尉及衛兵監視の許に二百十九名中津公園に到る午後三時帰所す
 
大正六年二月七日  晴
 記事なし
 
大正六年二月八日  晴
 記事なし
 
大正六年二月九日  晴
 記事なし
 
大正六年二月十日  降雪
 記事なし
 
大正六年二月十一日  晴
一、紀元節に付午前九時三十分事務所に於て無位無勲の判任官判任待遇者の拝賀式を行ふ二、午前十時三十分岡山県下津井小学校長出射喜太郎当収容所参観の為来所し衛戌司令官の認可を得たる後高畠少尉立会の上所内を参観せしむ午前十一時三十分退所せり
 
大正六年二月十二日  曇 風
一、鞣革作業見学として丸亀市より白河義男、佐藤音吉の両名来所せり
 
大正六年二月十三日  晴
一、午後0時三十分より塩屋俘虜准士官以下二百十三名運動の為高畠少尉監視の許に中津公園に到る、午後三時0分皈(帰)所せり
 
大正六年二月十四日  晴
 記事なし
 
大正六年二月十五日  晴
一、午後0時三十分より浜町俘虜十一名運動の為補助将校山本中尉監視の許に中津公園に到る、午後三時帰所す
 
大正六年二月十六日  晴
一、記事なし
 
大正六年二月十七日  晴
一、午前九時三十分在金沢市広坂町宣教師フランツ、フインゲル塩屋俘虜旧教徒一同に対し説教の為来所せしに依り所長応接し俘虜の近況を述へたる後「フインゲル」よりも当日の説教の要旨を聴取し午前十時十分より高畠少尉、荒川通訳立会の上塩屋収容所に到り説教を行ふ用語は独乙語にして其の要旨左の如し
   時恰も基督降誕祭と復活祭との中間に在る今日余は茲に両祭の意義を研究し修養に  資せんと欲す神は其の真善美と愛とを人類に具体的に示さんとて基督を此の世に出現  せしめたり之れ降誕祭の意義にして吾人々類に対する神の愛の現れなり然るに此の世  は罪のにして真善美と神愛を以て対すれは必すや善悪の衝突起こらさるへからす、さ  れは基督は此の世に処し常に真善美と神愛とを以て奮進し吾人此の世に処する模範を  示したり而して基督は其の結果として十字架上に凱歌を奏し正義の一生を完ふしたる  後復活祭の当日後復活して天の光栄を受け永遠に吾人々類を指導す故に正義を以て世  に処する者は苦戦苦闘の一生を送らさるへからすさるも遂に永遠の生命と天の光栄と  を以て酬いられ最後の勝利者たるを得之れ復活祭か吾人に教える所の真理なり諸君は  両祭の意義を玩味して真の勝利者たらさるへからす
二、午後0時三十分より里見中尉監視の許に塩屋俘虜准士官以下二百三十二名運動の為中 津公園に到る午後三時帰所す
三、香川県立工芸学校へ通勤中の俘虜本日欠勤す
 
大正六年二月十八日  晴
 記事なし
 
大正六年二月十九日  晴
一、午前九時三十分より俘虜「スタインメッツ外二名眼底検査の為丸亀衛戌病院に到る、午前十一時三十分帰所す
二、午後0時三十分より補助将校大町少尉監視の許に浜町俘虜十二名運動の為中津公園に到る午後三時帰所す
 
大正六年二月二十日  晴
 午前十一時より高畠少尉監視の許に塩屋俘虜三名細工用の材木購買の為丸亀市に到る午後一時帰所す
 
大正六年二月二十一日  晴
一、午前九時三十分より俘虜スタインメッツ外二名件屠殺の為丸亀市屠殺場に到る午後十一時三十分帰所す
一、午後俘虜情報局傭陸地測量部写真技手一名来所し俘虜生活状態に就き諸種の撮影を行ふ二十三日終了せり
一、補助将校交代
        少 尉   高畠義彦
右丸亀俘虜収容所補助将校服務を免せらる
        中 尉   池上克馬
右丸亀俘虜収容所補助将校服務を命せらる
 
大正六年二月二十二日  晴
一、所員疾病
        中 尉   諏訪邦彦
右疾病の為引籠
 
大正六年二月二十三日  晴
 記事なし
 
大正六年二月二十四日  晴
 午後池上中尉監視の許に俘虜五名青ノ山に到る
 
大正六年二月二十五日  晴
 記事なし
 
大正六年二月二十六日  晴
一、俘虜出獄
        海軍歩兵卒 ヨハン、ヘルマイ
右高松監獄に収監中の処二十六日満刑に付釈放せらる
一、      軍 曹   川邊孫次郎
右在監中の俘虜ヨハン、ヘルマイ満刑釈放に付受取の為高松監獄に出張す
一、俘虜の争闘 海軍歩兵卒 フランツ、セック
右午後九時四十五分当収容所に於て同兵卒「セバスチアン、リッテルマイヤー」と争闘の結果同兵卒(主傷は右肩胛下部に長さ三珊米、深さ斜に二珊五密米にして外に左太腿外側に二ヶ所の切創あるも極めて軽傷なり)を傷害せり
 
大正六年二月二十七日  晴
一、情報局長官視察
           陸軍少将  白川義則
 右当収容所視察の為午後一時五十五分来所せられ所長より一般状況報告をなしたる後塩屋収容所並浜町収容所を巡視し午後四時退所せらる
 随行者  小川参謀長、衛戌司令官代理南沢中佐
      師団経理部々員早瀬川三等主計正
        海軍歩兵卒 フランツ、シェク
 右傷害に関し取調への為歩兵第十二聯隊営倉に入倉せしむ
 
大正六年二月二十八日  晴
一、池上中尉監視の許に俘虜午前に六名午後八名細工用材料購買の為丸亀市に到る
二、      海軍歩兵卒 フランツ、セック
 右傷害の件に付丸亀憲兵分遣所附   憲兵軍曹来所し検察処分に着手せり
 
大正六年三月一日  晴
一、午後池上中尉監視の許に俘虜五名菓子製造の為丸亀市に到る
 
大正六年三月二日  晴
一、午前、竹林伐採の為俘虜三名川邊軍曹監視の許に丸亀城内に到る
一、午後、池上中尉監視の許に俘虜スタインメッツ外十七名雑木伐採の為青野山に到る
 宣教師来所
 午前九時在松山市三番町天主公教会ホアン、カルボー来所せしに依り所長並補助将校池上中尉応接し日常の挨拶を為したる後同十時より別院収容所に到り旧教徒一同に対し礼拝の式を行ふ
 
大正六年三月三日  晴
一、俘虜収禁  海軍歩兵卒フランツ、シェク
 右傷害事件取調の為第十一師管軍法会議に収禁せり
一、通訳出張  通訳  荒川充雄
 右フランツ、シェク傷害事件取調通訳の為第十一師管軍法会議に出張せり
一、傷害事件証人調
 俘虜傷害事件に関し参考人及証人調への為第十一師管法官部理事小幡通徳氏来所せり
 
大正六年三月四日  晴
一、傷害事件証人調
 俘虜傷害事件に関し参考人及証人調への為第十一師管法官部理事小幡通徳氏来所せり
 
大正六年三月五日  晴(烈風)
一、午後池上中尉監視の許に俘虜八名製作品材料購買の為丸亀市内に到る
一、午後、高畠少尉監視の許に俘虜十九名雑木伐採の為綾歌郡土器村青野山に到る
一、事務補助将校差遣
           少 尉  高畠義彦
 右所員諏訪中尉疾病引籠中に付本日より七日間事務補助の為歩兵第十二聯隊より差遣せらる
 
大正六年三月六日  晴
一、俘虜をして海岸運動場の均土作業を実施す
 
大正六年三月七日  晴
一、俘虜海岸運動場の均土作業を実施す
 
大正六年三月八日  晴
一、俘虜刑罰海軍歩兵卒   フランツ、シェク
 右傷害被告事件審理中の処大正六年三月八日左記の通判決せらる
     左 記
 被告か他人の身体を傷害したるは刑法第二百四條に談し懲役三ヶ月に処す
 
大正六年三月九日  雨天
 俘虜製作品陳列準備をなせり
 
大正六年三月十日  晴
一、俘虜製作品展覧会
 十日、十一日の両日当所教覚寺に於て俘虜の製作品を国民教育並生産事業参考の為展覧会を施行せり
 
大正六年三月十一日  晴
一、前日に同じ
一、所員出勤    中 尉  諏訪邦彦
 右疾病引籠中の処昨十日より出勤せり
一、俘虜消灯後飲酒の件
  左記の者午後十一時頃入浴場に於て飲酒しあるを所員諏訪中尉巡察の際発見せり
          海軍歩兵伍長   ウイルヘルム、アリー
          同        アダルベルト、クリングミュラ
          同        アドルフ、ラデマッハ
          同        マックス、ジマラ
          海軍歩兵卒    ウイルヘルム、リュウスマン
          同        カール、リッシュ
          海軍歩兵上等兵  クレメント、フェルシュウネロウスキー
          計  七名
 
大正六年三月十二日  雨天
一、前夜入浴場に於て飲酒せしもの七名を左記の通処罰せり
      左記
    情報局番号一八八二 海軍歩兵上等兵 クレメント、フェルシュウネロウスキー    同    二〇四八 海軍歩兵卒   カール、リッシュ
 右の者命令を遵守せさる(消灯後入浴場に於て飲酒し且つ注意を受くるや無言の儘免出せる)科に依り重営倉三日に処す
    情報局番号一八一三 海軍歩兵伍長  ウイルムヘルム、アリー
    同    一九三九 同       アダルヘルト、クリングミュラ
    同    二〇四三 同       アドフ、ラデマッハ
    同    二〇五三 同       マックス、ジマラ
    同    二〇四一 海軍歩兵卒   ウイルヘルム、リュウスマン
 右者命令を遵守せさる(消灯後入浴場に於て飲酒せる)科に依り重営倉二日に処す
 依て右七名を歩兵第十二聯隊営倉に入倉せしめたり
 
大正六月三月十三日  曇天
一、当収容所俘虜板東俘虜収容所移転に関する件俘虜情報局より通牒に接す
二、午後所長以下所員全員会合し統計事項に就き協議をなせり
 
大正六年三月十四日  曇天
 俘虜の出倉 
          海軍歩兵伍長 ウイルヘルム、アリー
                 以下 五 名
 右入倉中の処出倉せり
二、午前コッホ外三名入院患者見舞の為丸亀衛戌病院に到る
三、知事の挨拶
 午後三時三十分新任知事坂田幹太挨拶の為来所せり
 随行員として丸亀市長同警察署長、県属一名来所せり
 
大正六年三月十五日  晴
 記事なし
 
大正六年三月十六日  晴
一、丸亀俘虜収容換準備の件通信(陸軍省副官発丸亀衛戌司令官宛)の写を受領す
一、俘虜収容換輸送数量の件照会(陸軍運輸部本部長発丸亀衛戌司令官宛)の写を受領す
 
大正六年三月十七日  晴
一、俘虜収容換に関し私物品携行程度許可の件に付徳島俘虜収容所長に照会す
二、午後一時より俘虜運動の為池上中尉監視の許に二百十八名金蔵寺―多度津を経て午後五時三十分帰所せり
 俘虜時計落失
 金蔵寺―多度津間に於て俘虜「エンケル」所持の時計を落失せり帰省後丸亀俘虜収容所巡査派出所に届出つ
 
大正六年三月十八日  曇天
一、俘虜一般に対し今般当所俘虜板東俘虜収容所に移転に関する件を伝達す同時に携行すへき俘虜の私物を調査す
 
大正六年三月十九日  晴
 俘虜収容換に関し物品調査の件師団参謀長より照会に接す
 
大正六年三月二十日  曇天
一、第十一師団経理部より板東俘虜収容所備付用器具として土工具四拾五個を受領す
一、第十一師団参謀長より俘虜収容所換に付諸物品の携行に関する件通信に接す同日回答をなす
一、徳島俘虜収容所長より私物許可の件に付俘虜三人に対し車両一両を使用すへき件を回答せらる
 
大正六年三月二十一日  晴
 記事なし
 
大正六年三月二十二日  晴
一、当収容所に要する四月以後の経費(収容換経費を除く)は従来の認可残額を使用すへき旨第十一師団経理部長より通信に接す
一、徳島衛戌副官より俘虜収容換輸送計画に関する件照会せらる
一、事務補助特技として歩兵第十二聯隊より池上中尉差遣中疾病の為引籠中
一、俘虜の面会
  午前九時在東京シーメンス、シュッケルト電気株式会社工学士フロイデン、スタイン (住所東京々橋区明石町四十八番地)俘虜班長マックス、ブンゲ外六名に面会の為来所 せしに依り所員諏訪中尉及荒川通訳立会の上面会せしむ其の会談左の如し 
 1、俘虜班長マックス、ブンゲ、同カール、バウツに対しては救恤金は如何なるものか  必要なりや
  其他日常の挨拶及起居及動静に就て
 2、其の他の五名は元シーメンス会社の社員にして只日常の挨拶及起居並動静等に就て  会談せり
一、名古屋俘虜収容所々員事務視察
名古屋俘虜収容所々員歩兵中尉廣瀬友吉来所し事務及俘虜の状態を視察せらる
一、所長及出張及来所
 納富所長俘虜収容換及閉鎖業務に関し事務打合せの為第十一師団司令部に出張せり
  徳島俘虜収容所長松江歩兵中佐当収容所視察の為来所せらる
一、俘虜収容換輸送計画に関する件を徳島衛戌副官に回答す
 
大正六年三月二十三日  晴
一、俘虜収容換に関する協議事項に付第十一師団参謀長より通信に接す
 
大正六年三月二十四日  晴
一、俘虜私有品輸送に関する件に付師団参謀長より通信接す
一、俘虜収容所換に要する経費調査に関する件師団経理部長より照会に接し直に回答す
一、俘虜輸送人員並荷物数量を丸亀衛戌司令官に報告す
一、俘虜収容換並閉鎖に関する規定を立案し所要の件を俘虜に伝達す
 
大正六年三月二十五日  雨 天
記事なし
 
大正六年三月二十六日  晴
記事なし
 
大正六年三月二十七日  晴
一、俘虜労役停止
    通勤延日数五十九日 海軍歩兵上等兵 マックス、ノイマン
    同    六十日  同       アウグスト、アードラー
 労役の為本年一月九日より香川県立工芸学校に通勤中の処本日限り停止す     
一、丸亀―板東間俘虜護送人員を将校一、下士二兵卒一二名に規定の件師団参謀長より通牒あり
一、俘虜宛煙草輸入許否通牒の件に関し三月二十九日限り当所に於て取扱はさる旨下関税関に通牒す
一、俘虜宛郵便物(書留信書、電報を除く)は三月二十九日限り丸亀郵便局に留め置き板東俘虜収容所開設次第同所へ送付すへき旨丸亀郵便局に通報す
 
大正六年三月二十八日  晴
一、第十一師団参謀長より丸亀衛戌司令官宛に左の通牒あり
 板東俘虜収容所収容準備は四月五日完了可致旨通牒に接す
一、補助将校差遣
 補助将校として差遣中なりし池上中尉疾病に付代人として歩兵第十二聯隊より歩兵中尉板東梅二来所せらる
 
大正六年三月二十九日  晴
一、俘虜舩舶輸送に関し細部の協議の為梅野上等兵計手をして多度津商舩会社に出張せしむ  
一、俘虜舩舶輸送中に於ける給養に関し副食物は日本食にして可なるも主食を麺麭とすの件宇品運輸部本部長に要求す
一、俘虜私物品中携行を許ささる物品の発送準備をなさしむ
 
大正六年三月三十日  晴
一、俘虜舩舶輸送に関し給養及乗舩日時に関し運輸部本部より通牒に接す《四月七日荷物は午前四時人員は午前十一時搭載開始午後二時出航(自七日昼食至八日昼食舩内給養)》
一、海軍少佐当所視察
 海軍々令部参謀井上繁則来所し俘虜一般の状況を視察せり
一、俘虜の私物品(板東収容所へ携行を許ささる分)発送の準備をなせり
一、俘虜支給被服(着用被服を除く)の梱包開始
 
大正六年四(ママ)月三十一日  晴
一、第十一師団司令部より左の通牒に接す
 丸亀俘虜収容所は板東俘虜収容所開設後第十二日に於て閉鎖すへき旨ありたり
 前項同様陸軍省副官より丸亀衛戌司令官に通牒ありたり
一、丸亀郵便局に対し特種郵便物一切(電報を除く)本日限り取扱はさる旨通報す
一、官給被服の梱包をなす
 
大正六年四月一日  晴
一、事務補助の為歩兵第十二聯隊より上等兵一名派遣せらる
一、支給陣営具及雑品の引上け並梱包をなす
 
大正六年四月二日  晴
一、特種俘虜輸送に関し左記の件軍務局長情報局長官、師団参謀長宛通牒せり(現文の儘) 今般当収容所板東収容所へ俘虜収容換輸送の件に付隔離収容しある特種俘虜過半数は一般独逸俘虜と同舩し輸送せらるるを拒否する為彼等に向て同舩に就ては一般独逸俘虜と隔離したる舩室を与へ相当なる衛兵を附し乗舩上陸に於ても時を異にし十分なる保護を与ふる故安心して同舩すへきことを説諭したるも彼等曰く身体上の危険なきも彼等と同舩することは彼等の名誉を汚すものなりとて説諭に従はす依て乗舩の際に続て我意を主張し命令に従はさるに於ては兵力を以て強制し輸送を実行する考へに有之候条為念及通牒候也
    参 考 書
 三月三十一日移転準備の為独逸俘虜一名を使役し居りしに偶々隔離しある特種俘虜「デスコビッツ」「チムマーマン」の両名来所し独逸俘虜一名来所しあるを察知し「デスコビッツ」は大声にて独逸人の馬鹿と連呼せり、又本日乗舩の件に付彼等一同を事務所に招致せし際遥かに独逸俘虜の収容しある方に向て(距離約百米にして彼等の認むるを得)殴打の形容を以て亦々大声にて独逸人の馬鹿と連呼せり
 以上の言動は態々一般独逸俘虜の敵意を挑発するものと認む
一、陸軍運輸部本部長より左の電報に接す
 俘虜の舩舶輸送は予定の通り実施す
一、俘虜私物品中他所へ発送すへきもの及板東収容所へ自費を以て発送すへき梱包発送並在庫被服品の梱包をなせり
 
大正六年四月三日  晴
一、在庫雑品の梱包をなす
一、俘虜私物品を自費を以て板東収容所へ発送す
 
大正六年四月四日  晴
一、支給寝具の引上け及梱包をなす
一、陸軍大臣より丸亀衛戌司令官宛、俘虜収容所収容換に関する命令を受領す
一、丸亀衛戌病院長に俘虜入院患者輸送に関する件を照会す
一、俘虜私物品(不用のもの)を売却せり
 
大正六年四月五日  晴
一、借用品の返納及借入
  蚊帳、土工器具、縫靴工具を歩兵第十二聯隊へ返納す
  当収容所衛兵及日直諸官に充つへき毛布寝具の借入をなす
一、郵便局員出張停止 
  俘虜宛特種郵便物受授に関し丸亀郵便局局員出張中の処本日以後廃止の件を丸亀郵便 局へ通牒す
一、輸送実施命令受領
  丸亀衛戌司令官より俘虜の輸送実施に関する命令を受く
 
大正六年四月六日  晴
一、所長訓示
  俘虜移転に関し出発命令を伝達し尚種々なる訓示を与ふ
一、陸軍運輸部々員来所(四月五日)
  陸軍運輸部本部々員伊東歩兵大尉俘虜船舶、鉄道輸送実施並打合の為来所せり
一、荷物運搬
  車両六十一両を借入れ官給品及俘虜私物品梱包を多度津乗舩地に俘虜をして運搬せし む
  右監視として歩兵第十二聯隊より将校二、下士二、兵卒一〇を差遣せらる
一、荷物集積場衛兵
  多度津荷物集積場衛兵として歩兵第十二聯隊より下士一兵卒四を差遣せらる
 
大正六年四月七日  午前雨天、午後雨
一、俘虜移転人員
  准士官二一、下士五〇、兵卒二五七、合計三二八
一、俘虜護送人員
  丸亀―板東間  将校二、下士二、兵卒一二 計一六
  丸亀―多度津間 将校二、下士二、兵卒一〇 計一四
一、俘虜引継(物品をも含む)の為左記各官板東収容所に出張せり
 
              中 佐   納富 廣次
              中 尉   諏訪 邦彦
              一等軍医  黒川 哲二
              上等計手  梅野栄三郎
              一等看護長 山地 岩太
              軍 医   藤浦時次郎
              通 訳   荒川 充雄
一、荷物運搬
  車両二十一両を借入れ前日の通残余の荷物を多度津に俘虜をして運搬せしむ
一、特種俘虜出発及出発前に於ける状況
  午前九時四十分浜町特種俘虜出発(七名車載、十名徒歩)
  出発前に於ける状況(衛戌司令官訓示の際)
  特種俘虜十七名に対し昨六日所長は本七日出発の命令を伝達し尚種々訓示を与へんに 従順に命令を遵守すへく明言したるにも関わす本日出発時に於て衛戌司令官訓示の際出 発を拒絶し横臥して如何に訓諭するも命令に服従せさるを以て不止得其七名を制縛し車 載せしに其他の者は帰順せしを以て徒歩せしめ多度津(乗舩地)に転送す
  塩屋俘虜出発
  午前十時二十分塩屋俘虜出発(多度津乗舩地に向て)
  正午人員(浜町特種俘虜十七名共)並荷物共搭載を完了せり
  午後一時多度津港出帆徳島県小松島港に向へり
  午後一時十五分左記諸官に電報を発せり(乗舩終了の件を)
  第十一師団長、軍務局長官、俘虜情報局長官、徳島衛戌司令官
一、家屋引継
午後第十一師団経理部々員川田三等主計来所し浜町及塩屋(別院)収容所家屋を家主に引 渡せり 
 
大正六年四月八日  晴
一、残留員にて書類の取纏め並残務整理に着手せり
一、借用品の返納を行ふ
 
大正六年四月九日  晴
一、所長 俘虜及物品引継の為徳島県板東俘虜収容所に出張中の処帰所せり
一、残務整理実施
 
大正六年四月十日  晴
一、黒川一等軍医、山地一等看護長 俘虜護送及衛兵事務引継の為徳島県板東俘虜収容所 に出張中の処異状なく帰所せり
一、          中 尉   里見 金二
 右 本年度陸軍大学校学生候補者初審試験受験の為善通寺偕行社に出張せり
一、          中 尉   諏訪 邦彦
 右 丸亀俘虜収容所々員被免板東俘虜収容所々員被仰付
            一等主計  亀友 廣吉
 右 丸亀俘虜収容所附兼勤被免歩兵第十二聯隊附兼第十一師団経理部々員被免歩兵第二十六聯隊附以上四月十日附
 
大正六年四月十一日  晴
一、梅野上等計手経理事務及物品引継の為板東俘虜収容所に出張中の処帰省せり
一、残務整理実施
 
大正六年四月十二日  晴
一、残務整理実施
 
大正六年四月十三日  晴
一、残務整理実施
 
大正六年四月十四日  晴、雨天
         中 尉  里見 金二
 右本年度陸軍大学校学士生候補者初審試験の為善通寺偕行社に出張中の処帰所せり
         中 佐  納富 廣次
 右丸亀俘虜収容所長被免補歩兵第八聯隊附(四月十四日附)
 
大正六年四月十五日  雨天
 残務整理実施
 
大正六年四月十六日  晴
 残務整理実施
 
大正六年四月十七日  晴
 残務整理実施
 
大正六年四月十八日  晴
 塩屋別院家屋復旧に関し第十一師団経理部々員古庄主計来所せり
一、残務整理実施
 
大正六年四月十九日  晴
一、残務整理実施
 
大正六年四月二十日  晴
 開所以来閉鎖時迄に於ける諸帳簿を整理し且諸物品の発送漏を調査し梱包(小包)をなし各々関係諸官衙に発送せり
 
大正六年四月二十一日  晴
一、本日を以て丸亀俘虜収容所を閉鎖す
 依て左記職員は原隊(院)に復帰せり
   歩兵第十二聯隊へ  陸軍歩兵中尉  里見金二
   丸亀衛戌病院へ   陸軍上等計手  梅野栄三郎
   同         陸軍一等看護長 山地岩太
   歩兵第十二聯隊へ  陸軍歩兵軍曹  川邊孫次郎