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<研究ノート>
第一次大戦期の青島ドイツ兵捕虜に関するいくつかの問題
松尾展成
『岡山大学経済学会雑誌』,36巻1号(2004年6月)所収;2004年6月加筆
(1)『俘虜名簿』の問題点
(2)捕虜の出生地と「本籍地」の関係
(3)捕虜兵士の生年
(4)捕虜総数および,本籍地がザクセン王国にある捕虜の人数
Zu einigen Problemen über die deutschen Tsingtau-Kämpfer und Japan-Gefangenen 1914 − 1919/20
Nobushige Matsuo
(1)Problematik der "Namentlichen Verzeichnisse der deutschen und österreich-ungarischen Kriegsgefangenen in Japan", 1915 und 1917
(2)Beziehungen zwischen den Geburtsorten und den Heimatsorten von den 94 deutschen Kriegsgefangenen
(3)Geburtsjahre von den 72 deutschen kriegsgefangenen Gefreiten und Gemeinen
(4)Gesamtzahl der Kriegsgefangenen und Zahl der Gefangenen, deren Heimatsorte es im Königreich Sachsen gab
第一次大戦の結果として中国・青島要塞守備軍のドイツ将兵,4,700人以上が捕虜となり,日本の俘虜収容所に収容された.これらの日本収容青島捕虜のうち,徳島・板東の「ドイツ牧舎」を指導したフランツ・クラウスニッツァーと,久留米「収容所楽団」を指揮したオットー・レーマンの生涯に関して,私は松尾 2002(c)(d)と松尾 2003(a)(b)を発表した.本稿と次稿で私は4人の板東収容捕虜について,また,青島捕虜の基本資料である『俘虜名簿』,さらに,青島捕虜の本籍地・生地・生年,本籍地がザクセン王国にある捕虜の人数について,考察する.なお,捕虜に言及する場合,俘虜番号・所属部隊・本籍地は原則として,また,軍階級・収容所は多くの場合に,省略されている.引用文献は省略形で示し,その完全形は一括して,拙稿,「4人の板東収容青島捕虜」の末尾に掲げた.
本稿と次稿の作成に当たって,さまざまな資料と情報を提供された,多くの個人と機関に対して深く感謝する.個人では田村一郎氏,瀬戸武彦氏,石坂昭雄氏,柳澤治氏,柳澤遊氏,榎本泰子氏,星昌幸氏,堤諭吉氏,福島幸宏氏,ディルク・ファン=デア=ラーン氏,ミヒャエル・ラウック氏,ハンス=ヨアヒム・シュミット氏,元捕虜の遺族などである.瀬戸武彦教授は最も多くの資料と情報を与えられた.ドイツの機関(市役所,村役場,文書館,図書館など)で,私の質問にともかくも回答してくれたのは,77であった.その中には,調査したけれども成果がなかった,あるいは,調査不可能であった,と回答したドイツの機関,および,旧プロイセン王国シュレージエン州に関連して,ポーランドの3機関が含まれる.ドイツの40機関(図書館を除く)からは回答がまったくなかった.これらの機関の名称は当該個所に記されている.とりわけザクセン州立ライプツィヒ文書館,ドレースデン市立文書館,リューデンシャイト市立文書館,ドレースデン工業大学文書館,テュービンゲン大学図書館,バイエルン州立図書館,ヴュルテンベルク州立シュトゥットガルト図書館,シュトゥットガルト対外関係研究所から豊富な情報・資料が寄せられた.さらに,私の資料・情報収集に協力された下野克已氏,黒川勝利氏,田口雅弘氏,滕鑑氏,國米充之氏,村井浄信氏と岡山大学経済学部資料室に深謝する.
(1)『俘虜名簿』の問題点
俘虜情報局は大正4年10月に『俘虜名簿』を刊行し,大正6年6月に改訂版を発行した.これが青島捕虜についての基本資料である.以下では前者を俘虜名簿 1915 と略記し,後者を俘虜名簿 1917と略記する.
(A)俘虜名簿 1917として,防衛研究所図書館所蔵本(以下で研究所本と略記)と外交史料館所蔵本(史料館本と略記)が知られている.研究所本は追加記載を含まない.史料館本には一部の捕虜について,刊行以後の死亡,収容所の変更,宣誓解放(エルザス出身者など)などの追加記載(手書き,押印あるいは線引き)があり,これらはきわめて有用である(1).しかし,これらの追加記載が常に正確・完璧であるとは言えない.以下の3事例は,追加記載の正確さ・完璧さを疑わせるものである.
(i)フリッツ・ペーベルの収容所は久留米から板東に訂正されている(2).しかし,@ペーベルは板東移送者についての1918年の名簿に記録されていない(3).A捕虜の解放が近づいた19年12月3日に,久留米高等女学校は捕虜の音楽家を招待した.この交歓音楽会で演奏された曲目は,モーツァルト,ヴァーグナー,メンデルスゾーンなどの作品であり,さらに,ベートホーフェン(ベートーベン)作曲交響曲第9番の第2・第3楽章であった.後者は,日本で多くの日本人が,全曲ではないとしても,「第九」に接した最初の機会であった(4).残されているプログラムによれば,交歓音楽会に独唱者ペーベルが出演した(5).ペーベル姓あるいは類似の姓の捕虜は他にいなかった(6)から,この捕虜はフリッツ・ペーベルである.Bそれから2週間余り後,12月19−21日に久留米・恵比寿座で捕虜演芸会が開かれた.久留米「収容所楽団」指揮者オットー・レーマンの遺品である「レーマン関係資料」の中に,「久留米劇場参加者名簿」がある.後者は笑劇出演者としてペーベルを記載している(7).交歓音楽会と恵比寿座演芸会の後で,解放(主として同年末)直前に,ペーベルだけが久留米から板東に移送された,とは考えられない.
(ii)ハリー・フォン・シュトランツの収容所は久留米から習志野に訂正されている(8).しかし,@習志野移送者についての1918年の名簿はシュトランツを含まない(9).A久留米収容のストランツ(シュトランツ,フォン・ストランツ)は19年8月,9月,11月29日に中国駐在あるいは東京駐在のスイス外交官あるいはオランダ外交官に宛てて手紙を送った(10).ストランツ姓あるいは類似の姓の捕虜は他にいなかった(11)から,この捕虜はハリー・フォン・シュトランツである.19年12月にシュトランツが久留米から習志野に移送された,とは考えられない.
(iii)将校並同相当者の節で,オットー・ギュンター,フリードリヒ・ハック,ヨハネス・ユーバーシャールなど6人について,「文官」との手書き追記がある.しかし,@同節には,膠州総督府所属で,軍階級を持たない人が,さらに幾人も記載されている.獣医パウル・ディークマン,財政長カルル・クニュッペル,築港部長フリッツ・リーケルト,法務長ゲオルク・ヴェーゲナーなどである.A俘虜情報局の小冊子,俘虜職業調 1915は,俘虜中の官公吏を約200人と述べている(12).B俘虜職業調 1917でも俘虜の官公吏は約200人となっている(13).Cジーメンス=シュッケルト電機鞄結梹x社長ハンス・ドレンクハーンが1915年に報告したところでは,日本収容捕虜は「公務員その他」89人(うち士官19人)を含んでいた(14).以上から見ると,文官の一部に対してだけ,「文官」の追記が手書きされているわけである.
(B)俘虜名簿 1915の複写本は久留米市文化財収蔵館に所蔵されている.私見では,これは以下の特色を持つ.
(i)同書の68ページは,戦闘終結から10ケ月後の15年9月に青島で収容された国民軍兵士(カルル・ユッフハイム[ユーハイム]など)を,一括して記載している.俘虜番号4674から4708までの35人である.それに対して,俘虜名簿 1917はこの35人を他の捕虜と区別していない.
(ii)この複写本には,一部の人の「本籍地」の項に,印刷された本籍地地名を抹消することなく,街路・番地が手書きで追記されている.本籍地に追記された街路・番地は,解放・帰国後の当該人物の居所を示すものであろう.
(iii)一部の人には,印刷された本籍地の後に,それと異なる集落名が手書きで併記されている.例えば,4ページのエドゥアルト・ヴィル(15)では天津(印刷)とハンブルク(手書き),7ページのオットー・ベッカー(16)ではマルヒョウ(印刷)とキール(手書き)である.このように追記された地名は,解放・帰国後の居住地と考えられる.
(iv)14ページのヴァルター・ドゥンケルには「1968年没」と追記されている.したがって,複写本の原本への追記は少なくとも1968年まで書き継がれていた.――(ii),(iii),(iv)のような具体的事実を書き込んだのは,解放後の青島捕虜の消息を追跡したドイツ人であろう.
(v)久留米複写本には13ページと39ページが欠けている.前者には久留米収容のルートヴィヒ・ディートリヒ(久留米の演劇活動に参加)などが,後者には福岡のハンス・ミリエス(後に習志野で楽団を指揮),丸亀のパウル・モルトレヒト(後に板東で音楽を指導)などが,記載されていたはずである.
(C)俘虜名簿 1915と俘虜名簿 1917を比較してみる.
(i)俘虜名簿 1915,p.9はMax Blocksbergerを記載している.俘虜番号1834,第3海兵大隊第2中隊,予備二等兵,丸亀収容,本籍地テューリンゲン・Gorndorfである.俘虜名簿 1917,p.9には,収容所以外の事項は上記とまったく同じMax Blocksberg(板東収容)が記載されている[ディルク・ファン=デア=ラーン氏教示].私は,この捕虜の「本籍地」ゴルンドルフ村を合併したザールフェルト市に,問い合わせてみた.しばらく経ってから,同市立文書館から回答が届いた.それによれば,マックス・ブロックスベルガーの出生は確認されない.マックス・ブロッホベルガー(..ochb..)ならば,ゴルンドルフで1893年に生まれ,肉屋となり,同地で1953年に没した.以上である.ところで,「ブロツフ・ベーアゲーア」なる捕虜が,板東「ドイツ牧舎」の船本宇太郎に食肉加工技術を伝授した(17).船本宇太郎の言う捕虜は,上記のブロッホベルガーに違いない.後に肉屋となった彼は,召集前にすでに肉屋の修業をしており,板東で技術を指導できた,と考えられる.これは,ドイツ牧舎の酪農に対するフランツ・クラウスニッツァーの指導と同じである.したがって,俘虜名簿 1917が記載する,上記の姓は,そして,俘虜名簿 1915の姓も,誤植であろう.俘虜名簿 1915の複写本では,前後は不鮮明であるけれども,..ochb..の追加手書き文字が判読できる.
(ii)俘虜名簿 1915,p.17のFranz Fischesser(番号414,海兵第1中隊二等兵,久留米収容,本籍地オーバーエルザス・Ruelisheim)はWilly Fischerの次に置かれている.それに対して,俘虜名簿 1917,p.17でWilly Fischerの次の捕虜の姓は,Fischer(久留米→習志野収容,宣誓解放)である.その番号,所属,階級,本籍地と名は15年名簿のFischesserと同じである.ドイツ語新聞の付録であるListe 1914も,Franz Fischesserを久留米収容捕虜として記載している[星昌幸氏教示].したがって,俘虜名簿 1917のあの姓は誤植である.
(D)俘虜名簿の「本籍地」の綴りには誤植がきわめて多い.例えば,俘虜名簿 1917でP.Böhm(p.9)のFreiburg(ザクセン)はFreibergの,Gottfried Fischer(p.17)のBurkersdorf b.Burgstedtはb.Burgstädtの,F.Goppelt(p.20)のWeisenburgはWeißenburgの,Ernst Müller(p.41.番号607)のHoltzenhausenはHolzhausenの,W.Othmer(p.3)のUtwerden/AarichはUthwerdum/Aurichの,R.Patitz(p.44)のTrelosenはTrebsenの,E.Quaas(p.47)のLamberzwald-GrosenheimはLampertswalde b.Großenhainの,L.Saxer(p.3)のCarlsburgはCarlburgの,R.Steude(p.58)のRosweinはRoßweinの,S.Stognief(p.58)のSchaddelnはSchaddelの,K.Vetter(p.61)のKönigssteinはKönigsteinの,F.Wagemann(p.62)のCarsturfはCarsdorfの,O.Winkler(p.65)のLöbdanはLöbtauの,W.Zöffel(p.67)のCrimmitschouはCrimmitschauの誤植であろう.これらのうち,士官であったW.OthmerとL.Saxerの本籍地綴り字は,誤植としか考えられない.他の捕虜の多くは士官ほど高い学歴を持たなかったであろう.その場合に本人が誤記しなかった,とは断言できない.しかし,少なくとも,uとe,loとb,mとn,lとln,danとtau,などを,本人が書き間違うことはなかったであろう.
(E)俘虜名簿 1915と俘虜名簿 1917の記載内容は,私見によれば次の問題点を持つ.
(i)俘虜名簿の「本籍地」は日本語文献でしばしば出身地と記される.本籍地と出生地との関係については,本稿次節を参照されたい.
(ii)現役軍人として記載されている捕虜の中に,予備・後備役軍人が含まれるかもしれない.逆もありうるであろう.
@フリードリヒ・タイレ(番号773)は俘虜名簿 1915,p.58で予備一等兵とされ,俘虜名簿 1917,p.60では一等兵とされている.
Aドイツが臨戦体制に入ると,膠州総督は14年8月にアジア各地在住のドイツ市民を青島に召集した.急遽召集された人々の中に,中国・上海居留地工部局管弦楽団の5人の音楽家がいた.同楽団指揮者の1914年度報告は次のように述べている.「当年後半に楽団の構成が大きく変化した.戦争のために数人の団員音楽家が減少した.そのうち4人は日本に収容されており,1人は青島で殺害された(18)」.これらの音楽家に関して次の事実が知られている.第1に,上海工部局年報の12年と16年の団員名簿を比較すると,青島で戦死した団員は,B.クレーバー(12年入団)である(19).彼は俘虜名簿に,ドイツ軍埋葬の予備二等兵ベルトルト・K.クラッヒャー(あるいはクレーバー)として記録されている(20).他の4人(21)のうち,ハンス・ミリエス(10年入団)は後備・軍楽下士官であり,福岡に収容され,後に習志野に移送された.ヨハネス・プレーフェナー(06年入団)は後備二等兵であり,大阪,後に似島に収容された.それに対して,マックス・ガーライス(08年入団)とパウル・エンゲル(12年入団)はともに二等兵で,前者は松山と板東に,後者は丸亀と板東に収容された.5人中の1人は予備兵,2人は後備兵・後備下士官,2人は現役兵とされている.第2に,俘虜職業調を見ると,(a)現役下士卒本業としての音楽家は15年に合計11人いた(音楽師と表現されている).収容所別では久留米5人,福岡2人,東京・名古屋・徳島・熊本各1人であった.(a)の音楽家は17年にも同数,11人おり,収容所別では久留米6人,名古屋・板東各2人,習志野1人であった.(b)現役下士卒特業としての軍楽手は15年に,喇叭手と鼓手を含めて,合計24人いた.収容所別では久留米8人,丸亀5人,大阪4人,静岡2人,名古屋・徳島・大分・福岡・熊本各1人であった.(b)の軍楽手は17年には21人とされ,収容所別では板東6人,似島5人,名古屋・久留米各3人,静岡・大分各2人であった.それに対して,(c)現役軍人以外の音楽家は15年に7人いた.収容所別では松山3人,静岡・大阪・丸亀・福岡各1人であった.(c)の音楽家は17年にも同数,7人おり,収容所別では板東3人,習志野・静岡・青野原・似島各1人であった.また,(c)の音楽家の旧職業地は15年調査で青島1人,中国南部4人,中国・日本以外2人であり,17年調査では中国南部5人,中国・日本以外2人であった(22).俘虜名簿の記載と俘虜職業調のそれとをつき合わせてみる.15年調査の福岡に,そして,17年調査の習志野に1人だけ挙げられた,(c)の音楽家,すなわち,現役軍人以外の音楽家がミリエスであり,15年の大阪と17年の似島のそれがプレーフェナーであることは,確実である.ところで,久留米「収容所楽団」指揮者オットー・レーマンの履歴書によれば,第一次大戦勃発とともに青島の第3海兵大隊軍楽隊は解散した(23).俘虜名簿で現役兵士とされたガーライスは,15年に松山に収容されていたけれども,15年の職業調で松山に(b)の軍楽手はいなかったから,ガーライスは現役軍楽手に含まれていないはずである.名簿で現役兵士とされた,丸亀のエンゲルもそうであろう.また,15年の職業調では松山と丸亀に(a)の音楽家(現役軍人・本業)はいなかった.したがって,ガーライスとエンゲルは(a)の音楽家に含まれていない,と考えられる.15年の(a)の音楽家,11人にエンゲルとガーライスが入っていないとすれば,彼らは17年の(a)の音楽家(15年と同数の11人)からも除かれていたであろう.捕虜となった,上海の楽団員全員,つまり4人を,職業調における予備・後備役の音楽家と想定してみる.中国南部で活動していた,(c)の音楽家の数は,2回の統計で4人ないし5人であったので,あの想定は誤りではないであろう.このことから,15年調査で(c)の音楽家として挙げられた,丸亀の1人はエンゲルであり,松山の3人の1人がガーライスである,と推定される.そして,17年調査における板東の(c)の音楽家,3人はエンゲルとガーライスを含むであろう.第3に,エンゲルを「予備兵」,「後備」海軍歩兵卒あるいは「後備」海兵隊員と表現する資料もある(24).
(注1)史料館本に基づく修正作業の一結果として,本稿第4節(C)を参照されたい.
(注2)俘虜名簿 1917,p.46.
(注3)収容換俘虜 1918を参照.
(注4)横田 2002,p.122;久留米収容所 2003,pp.41,83.
(注5)久留米収容所 1999,p.76;横田 2002,p.122;久留米収容所 2003,p.83.
(注6)俘虜名簿 1917,pp.3,44,46を参照.
(注7)松尾 2003(b),p.93.
(注8)俘虜名簿 1917,p.4.
(注9)収容換俘虜 1918を参照.
(注10)久留米収容所 1999,pp.37-39を参照.
(注11)俘虜名簿 1917,pp.4,59を参照.
(注12)俘虜職業調 1915,序言.この小冊子には調査年月が印刷されていない.しかし,その統計表の欄外に「四,一,一0現在調」とあるから,15年調査と判断されうる.
(注13)俘虜職業調 1917,p.1.
(注14)冨田 1981,p.29.
(注15)ハヴァナで生まれたヴィルの国籍は,都市国家ハンブルクであった.本稿第2節(A)A(6)を参照.
(注16)マルヒョウで生まれ,後にキール大学教授となったベッカーについて,本稿第2節(A)@(1)を参照.瀬戸武彦教授から伝えられた,ハンス=ヨアヒム・シュミット氏の情報によれば,ベッカーは(a)14年に岡山総合大学から青島に召集された.(b)95年に没した.ただし,(a)の総合大学は誤りで,第六高等学校(岡山)である.
(注17)船本 1968,p.3.さらに,本稿第2節(D)@(2)を参照.なお,林 1993,p.147はソーセージ製造の指導者をヘーアゲーアと記している.――日本における青島捕虜の事績を問題とする場合,カタカナ表記で伝承されている姓名が,俘虜名簿の原綴と照合・確認されねばならない.周辺住民に対して技術を指導した板東収容捕虜を見てみる.網羅的な大作,瀬戸 2001;瀬戸 2003によれば,畜産の「クラウスニツアー」,「クラウスニッツェル」あるいは「クラウスニッチェル」は[フランツ・]クラウスニッツァー,農産加工の[ラインホルト・]エックハルトと[オットー・]ゲーベル,製菓の[ハインリヒ・]ガーベル,家畜屠殺の[オットー・]ハンナスキー(ハナスキー),園芸のハインリヒ・シュミット,煙草栽培の[ハンス・]チッテル,洋酒醸造のヨーゼフ・ウェーバーは,俘虜名簿の中に容易に発見されうる(名を[]に追加).染色指導の「オスカー・フランス」はオスカル・フランツに,植物採集の「マクス・ヒーブナー」はマックス・ヒュープナーに,標本作製の「パウル・クラトケ」と「カンペ」はパウル・クラウトケと[アードルフ・]クランペに,「農畜産学士」の「ク・ノル」は[エルンスト・]クノルに,洋酒醸造の「フリック・ローデル」はフリッツ・ローデに照応する.また,植物標本を作製し,「ペルターム・グリム」あるいは「クレーグ」と記された捕虜は,ベルトラム・クルークである.徳島と板東で建物を設計した技師「シュライダー」あるいは「シュレーダー」は,[ヴァルター・]シュライバー(徳島→板東収容)であろう.食肉加工の「ブロツフ・ベーアゲーア」については,本文で言及した.「ドイツ牧舎」の富田久三郎,松本清一などとの集合写真で,クラウスニッツァー以外に姓が知られている唯一のドイツ人,「ストレー」は[オットー・]シュトレと考えられる.それに対して,以下の板東収容捕虜の原綴は私には不明である.家畜屠殺の「ブオン・タラーン」,「カール・ビュクネル」,「ハンス・アウグスト」と「ビードレ」,製菓の「オイゲン・バウム」,養鶏の「ヘルベルト・プレーゲル」,植物採集の「エム・ストラム」.
(注18)上海工部局年報 1914,p.124B[榎本泰子助教授教示].
(注19)5人全員は各人の入団時期とともに上海工部局年報 1912,p.170Bに記載されている.しかし,同年報 1916,pp.170A-171Aには,B.クレーバーが記されておらず,他の4人は括弧付きで掲載されている.
(注20)俘虜名簿 1915,p.71;俘虜名簿 1917,p.71.
(注21)俘虜名簿 1915,pp.15,19,45(ミリエス記載のページを欠く);俘虜名簿 1917,pp.15,19,40,46.さらに,瀬戸 2001,pp.73,78,105-106,113;習志野収容所 2001,pp.60-61;榎本 2003,pp.95-96,104-105,110-116,118-120;松尾 2003(a),pp.59-61,65,67;瀬戸 2003,pp. 53-54,58-59,98,107;松尾 2004(b),第3節を参照.――俘虜解放願出 1914に綴じ込まれた,上海居留地工部局から上海駐在日本総領事への1914年12月14日付け工部局管弦楽団団員解放要請書簡は,楽団員4人の姓を(プレーフェナーはプローフェナーと)記している.なお,この一件文書によれば,上記要請に対して外務大臣は,「音楽隊次長Millies及・・・音楽隊員三名」の解放を拒否し,同年同月26日付けで陸軍大臣と在上海総領事にそれを通知した.陸軍大臣宛て文書について,『欧受大日記 大正4年1月下』,第87(防衛研究所図書館[陸軍省 欧受大日記T4-2/29].さらに,アジア歴史資料センターwww.jacar.go.jp/cgi-bin/bibdata.cgi?refcode=C03024431300.星昌幸氏教示)を参照.――板東収容所の故国住所録 1919に,多くの捕虜は所属部隊を記入している.その欄にガーライスは「上海市立楽団」と記している(S.14).これは工部局管弦楽団のことである.ただし,この故国住所録にはエンゲルの項がない.
(注22)俘虜職業調 1915, pp. 1, 5, 9-10;俘虜職業調 1917, pp. 5, 11, 15, 19.
(注23)松尾 2002(d),p.117;松尾 2003(a),p.53.青島第3海兵大隊軍楽隊の隊長と隊員の相当部分は16年夏に日本には収容されておらず,米国で活発に演奏していた.松尾 2003(b),pp.90-91.――俘虜解放願出 1914に綴じ込まれた,上海工部局の上記楽団団員解放要請書簡は,注目すべき以下の文章を含む.私が告知されたところでは,連合国が青島の包囲を決定したとき,ドイツ軍楽隊の隊員たちは天津への出発を許可された.
(注24)松尾 2004(b),第3節,(I)(A)(i)を参照.
(2)捕虜の出生地と「本籍地」の関係
俘虜名簿は青島捕虜の各人について,姓名,俘虜番号,階級,所属部隊,収容所とともに,「本籍地」を記している.その場合,本籍地のドイツ語は「ハイマートの場所」とされている.
「ハイマートの場所」に関連して,私はミヒャエル・ラウック博士からLutz(電子版)を与えられた.ザクセン州立ライプツィヒ文書館も当時の法的状況を教えてくれた.それらによると,ドイツでは社会政策の一環として「ハイマートの権利」が規定されていた.出生,婚姻,長期滞在によって,ある自治体で「ハイマートの権利」を獲得した人だけが,社会福祉上の救助をその自治体に請求できた.しかし,法律は「ハイマートの場所」を規定していなかった.ドイツ帝国で生まれた人,60百万人のうち,1907年には48%が出生地以外に居住していた.
以上が,「ハイマート」に関連する,ドイツの法的状況であった.したがって,大部分の青島捕虜は日本の本籍地の概念を知らなかったはずである.彼らは,日本軍当局から「ハイマートの場所」の申告を求められたとき,出生地か,あるいは,出生地と異なる召集前居住地かを回答した可能性が高い(1).出生地が召集直前の本人居住地であり,同時に現在の家族居住地である場合も,少なくないであろう.また,出生地と異なる召集前居住地は,しばしば現在の家族居住地であろう.
ドイツ人の出生地は,ある程度は検証可能であるから,私は青島捕虜の出生地を調査してみた.本節は,出生地と本籍地の関係についての調査結果である.成果が得られなかった人についても,私の調査方法が示されている.捕虜の姓名の後の[]は,史料館本俘虜名簿の階級,本籍地,収容所と記載ページ数を示す.俘虜名簿 1915を引用した場合には,その旨を付記した.[]の後の()は私の調査結果としての生地と生年である.同姓同名の捕虜がいる場合に限って,[]の最初に俘虜番号を記した.兵科による区別は省略し,階級は士官,下士官,一等兵,二等兵に簡略化した.その区分に際してドイツ海軍官階表を基準とした.佐官・尉官はすべて士官とした.官階表の「剣緒アル下士官」(「海軍歩兵隊」の階級で曹長と曹長補,「海軍砲兵隊」の掌砲兵曹長,上等掌砲兵曹,曹長と曹長補,「水兵団」の兵曹長と上等兵曹,など)と,「剣緒ナキ下士官」(海軍歩兵隊で軍曹と伍長,海軍砲兵隊の砲兵軍曹長と砲兵伍長,水兵団の一等兵曹と二等兵曹,など)とは下士官に一括した.一等兵は官階表の「一等卒」(海軍歩兵隊の上等兵,海軍砲兵隊の一等砲兵,水兵団の一等水兵,など)を指す.また,二等兵は同表の「二等卒」(海軍歩兵隊の「卒」,海軍砲兵隊の二等砲兵,水兵団の二等水兵,など)を指す.官階表に見出されない階級のうち,Seesoldat,KanonierとSignalgastはハンス=ヨアヒム・シュミット氏の教示に従って二等兵とした.官階表から私が類推した場合も少なくない.
出生地を高い程度に検証できる社会層は,博士,貴族,士官である.それらは以下の(A),(B),(C)にまとめた.その他の社会層は(D)に集めた.(A)博士において,[]の後の<>は,学位論文を提出した大学と年を表す.生地・生年は,ドイツ語図書総目録GV (1),GV (2)に記載された,刊行学位論文の履歴による.一部の情報はテュービンゲン大学図書館,ベルリーン・フンボルト大学図書館,ライプツィヒ大学文書館,瀬戸武彦教授,ディルク・ファン=デア=ラーン氏から得られた.(B)貴族の生地・生年に関して,(a)(b)・・・は,生没年から見て,該当する可能性のある人物を示す.貴族系譜書,いわゆるゴータ,などの検索は主としてヴュルテンベルク州立シュトゥットガルト図書館に,一部はバイエルン州立図書館に依頼した.(C)士官について,特記しない場合は,上記シュトゥットガルト図書館検索の海兵隊名簿1930による.(D)その他の社会層の関係事項は主として先行業績に依拠した.さらに,「本籍地」とされている村の役場や都市の戸籍部,文書館などに照会した場合も,少なくない.数人については元捕虜の遺族に直接問い合わせた.なお,本節は松尾 2002(d),第7節への大幅な修正・加筆である.ただし,私はハンス=ヨアヒム・シュミット氏作成の捕虜名簿を読むことができない.本稿の内容の一部(例えば,オットー・ベッカーの没年)は,瀬戸武彦教授によれば,シュミット氏の捕虜名簿に掲載されている由である.
(A)博士
@生地が本籍地と同じ場合
(1)Becker,Otto [予備下士官,Malchow,久留米,p.7]<Berlin 1909>(1885年Malchow/Mecklenburg生まれ.GV (1),Bd.10,S.207.俘虜名簿 1915,p.7に「博士・教授」,「キール」の追記がある.テュービンゲン大学図書館によれば,ベッカーは1912年に日本,Hochschule Okayama講師,31年にキール大学歴史学教授となった.六高 1980,p.26では,彼は12−14年に第六高等学校(岡山大学の前身校)の外国人教師であった.日本居住許可俘虜 1920は彼を「一般送還船出発前予メ日本ニテ解放者」としている.95年に没した.瀬戸 2003,p.38;本稿第1節(注16)を参照)
(2)Berliner,Siegfried [下士官,Hannover,板東,p.8](1884年Hannover生まれ.GV (1),Bd.13,S.294.東大・経済学・講師・博士.林 1993,p.116.ナチスから逃れ,1961年に米国フォレストグロウヴで没した.松尾 1998(a),p.143[博士];瀬戸 2001,pp.64-65[博士];松尾 2002(b),p.46;瀬戸 2003,p.39[博士].日本居住許可俘虜 1920の「日本内地契約成立者」)
(3)Dieckmann,Paul [士官級・獣医・博士,Rostock,大分→習志野,p.1]<Bern 1904>(GV (1),Bd.28,S.424に生地・生年不記載.テュービンゲン大学図書館によれば,Rostock生まれ,生年不明)
(4)Knüppel,Carl [士官級・経理監督・博士,Stettin,習志野,p.2]<Tübingen 1905>(1875年Stettin生まれ.GV (1),Bd.77,
S.173)
(5)Lepsius,Ernst [予備下士官,Darmstadt,久留米,p.36]<Heidelberg 1912>(1888年Darmstadt生まれ.GV (2),Bd.79,S.324.俘虜名簿 1915,p.35に「博士」の追記あり)
(6)Lütgens,Alfred [予備士官,Hamburg,福岡→習志野,p.2]<Leipzig 1909>(1881年Hamburg生まれ.GV (1),Bd.91,S.197.瀬戸 2001,p.102に博士)
(7)Mohr,Friedrich W(ilhelm) [予備士官,Engers/Rhein,久留米,p.3]<Marburg 1913>(1881年Engers/Rhein生まれ.GV (2),Bd.90,S.229.瀬戸 2001,p.106に博士)
(8)Othmer,Wilhelm [士官,Utwerden/Aarich,似島,p.3]<Berlin 1904>(1882年Uthwerdum/Aurich生まれ.GV (1),Bd.105,S.378.瀬戸 2001,p.110;瀬戸 2003,p.39に博士. 俘虜名簿の本籍地の綴りは誤植)
(9)Rappenecker,Karl [予備下士官,Freiburg/B.,名古屋,p.47]<Feiburg/B.1909>(1886年Freiburg/B.生まれ.GV (1),Bd.113,S.150.瀬戸 2003,p.108に博士)
(10)Rumpf,Fritz [3082,予備士官,Hanau,板東,p.3]<Tübingen大学法学部 1912>(1884年Hanau生まれ.GV (2),Bd.110,S.299.瀬戸 2001,p.116に博士)
(11)Solger,Friedrich [予備士官,Berlin,板東,p.4]<Berlin 1902>(1877年Berlin生まれ.GV (1),Bd.136,S.58;松尾 2002(d),p.125.――才神 1969,p.148;林 1993,p.116;瀬戸 2001,p.123;板東収容所研究 2003,pp.26,45は,ゾルガーが博士あるいは教授であり,ライプツィヒ大学で学んだ,と記している.しかし,ライプツィヒ大学文書館によれば,彼が同大学で受講した,との記録はない.松尾 2002(d),p.125)
(12)Vogt,Karl [予備士官,Nienburg,久留米,p.4]<Rostock大学法学部 1903>(1878年にNienburg/Anhaltで生まれ,少年時代をBernburgで過ごした.法律家として横浜で活動中に青島に召集された.解放後も東京で活躍し,1960年に東京で没した.フォークトの自伝に基づく,ディルク・ファン=デア=ラーン氏の教示.瀬戸 2001,p.131;瀬戸 2003,p.129に博士.さらに,久留米収容所 2003,p.153;松尾 2003(a),pp.47,68-69を参照.ただし,学位論文ではBernburg/Anhalt生まれ,生年不記載.GV (1),Bd.151,S.574.日本居住許可俘虜 1920の「一般送還船出発前予メ日本ニテ解放者」)
A生地が本籍地と異なる場合
(1)Bohner,Hermann [二等兵,Mannheim,板東,p.9]<Erlangen 1914>(1884年Abokobi/Afrika生まれ.GV (2),Bd.16,S.393.俘虜名簿 1915,p.9に「博士」の追記あり.解放後は大阪外国語大学などで長く教え,1963年に没した.林 1993,p.116;瀬戸 1999,p.119;瀬戸 2001,pp.66-67)
(2)Hack,Friedrich (Wilhelm) [士官級・文官・博士,Freiburg/B.,久留米→習志野,p.2]<Bonn 1910>(1885年Cöln生まれ.GV (1),Bd.53,S.125.後に日本海軍と密接な関係を持ち,1949年にスイスで没した.習志野収容所 2001,pp.120-127;松尾 2003(a),p.62.なお,瀬戸 2001,p.82では予備中尉.日本居住許可俘虜 1920の「特別事情ヲ有シ日本内地ニ居住希望者」)
(3)Ueberschaar,Johannes [士官級・通訳,Bochum/Westfalen,習志野,p.4]<1913 Leipzig>(1885年Meißen生まれ.GV (2),Bd.135,S.41.帰国して,ライプツィヒ大学日本学研究所初代所長となる.ナチスを避けて来日し,甲南大学教授.1965年に神戸で没.松尾 1998(a),pp.147-148[博士];瀬戸 2001,p.129[予備中尉・博士];松尾 2002(b),p.46;松尾 2003(a),p.68.日本居住許可俘虜 1920の「日本内地契約成立者」)
(4)Weegmann,Oskar C[arl] von[予備士官,München,習志野,p.4]<München 1909>(1879年Cöln生まれ.GV (1),Bd.154,S.377.解放後は日本医科大学などで長く教え,1960年に東京で没した.武内 1995,p.41[Carl von Weegemann];瀬戸 2001,p.134[博士];習志野収容所 2001,pp.112-113.本節(B)A(13)を参照.日本居住許可俘虜 1920の「特別事情ヲ有シ日本内地ニ居住希望者」)
(5)Weinholz,Fritz [一等兵・博士,Hankau[漢口]/China,板東,p.63]<Straßburg 1911>(1887年Frankfurt/O.生まれ.GV (2),Bd.142,S.385.瀬戸 2001,p.134;瀬戸 2003,p.132に博士)
(6)Will,Eduard [予備士官,Tientsin[天津],久留米,p.4]<Heidelberg大学法学部 1906>(1883年Havana生まれ.国籍はHamburg.GV (1),Bd.157,S.1;松尾 2003(a),p.70.俘虜名簿 1915,p.4に「博士」,「Hamburg..」の追記あり)
B博士論文がドイツ語図書総目録に記載されていない,あるいは,同目録によって本人確認ができない場合
(1)Engelhorn,Friedrich [後備下士官,Mannheim,名古屋,p.15](瀬戸 2003,p.54で博士)
(2)Pfeiffer,Heinrich Moritz [士官級・獣医,Bitburg/Trier,久留米,p.3](瀬戸 2001,p.111で博士)
(3)Spann,Alexander (瀬戸 2001,p.124;瀬戸 2003,p.121で博士.本節(D)A(11)を参照)
(4)Stein,Wilhelm [二等兵,Neukirchen/Saar,久留米→習志野,p.58](俘虜名簿 1915,p.56に「博士」の追記あり.瀬戸 2001,p.125;瀬戸 2003,p.122を参照)
(5)Tiefensee,Franz [二等兵,Gross-Ottenhagen,板東,p.60](瀬戸 2001,p.128;瀬戸 2003,p.126で博士)
(6)Vetter,Friedrich [士官,Landau/Rheinpfalz,習志野,p.4](瀬戸 2003,p.128で博士)
(B)貴族
@生地が本籍地と同じ場合
(1)Kessinger,Friedrich (Wolfgang Curt) von [士官,Dresden,名古屋,p.2](1866年Dresden生まれ.Briefadel,Jg.5,1911,S.502)
(2)Koch,Erwin von (Erwin Victor Koch) [下士官,Hamburg,板東,p.32](1883年Hamburg生まれ.Briefadel,Jg.23,1931,S.372.瀬戸 2003,p.81によれば1945年没.日本居住許可俘虜 1920の「日本内地契約成立者」)
(3)Martin,Hans (Hermann) von [士官,Rothenburg/Lausitz,似島,p.3](1885年Rothenburg/Lausitz生まれ.Briefadel,Jg.32,1940,S.393.瀬戸 2003,pp.94-95によれば1973年没)
(4)Praschma,Cains (Cajus Maria Albrecht Michael Franz) Graf [退役士官,Falkenberg,久留米→習志野,p.3](1874年Falkenberg生まれ.Graf,Jg.115,1942,S.413.瀬戸 2003,pp.105-106によれば1948年没)
(5)Saldern,Siegfried (Otto Edmund Heinrich) von [士官,Dessau,福岡(死亡),p.3(階級,本籍地,収容所は俘虜名簿 1915)](1881年Dessau生まれ.Uradel,Jg.32,1933,S.487)
(6)Schlick,(Albert Heinrich) Friedrich (Franz) von [士官,Wandsbeck/Altona,名古屋,p.3](1881年Hamburg-Wandsbek生まれ.Briefadel,Jg.31,1939,S.532.瀬戸 2003,p.115を参照)
(7)Strantz,Harry (Leopold Erdmann Hermann) von [士官,Görlitz,久留米→習志野,p.4](1872年Görlitz生まれ.Uradel,Jg.25,1924,S.664.ただし,俘虜名簿に記された,習志野への移送は誤り.松尾 2003(b),pp.96-97;本稿第1節(A)(ii))
(8)Wilucki,Günther (Adolf Theodor) von [士官,Dresden,習志野,p.4](1883年Dresden生まれ.Briefadel,Jg.11,1917,S.953)
A生地が本籍地と異なる場合
(1)Bernhardi,Friedrich (Julius Adam) von [士官,Hirschberg,福岡→習志野,p.1](1849年St.Petersburg生まれ,1930年Gunnersdorf/Riesengebirgeで没.南米チリで1925年に結婚したのは,彼の義子Friedrich Ludwig Otto Richard von Bernhardi (1886−1930)である.Briefadel, Jg. 24, 1932, S. 19-20.瀬戸 2003,p.40を参照)
(2)Bobers,Wilhelm W. (Werner Otto August Emil) von [予備士官,Oldenstadt,久留米,p.1](1886年London生まれ.Briefadel,Jg.33,1941,S.49.松尾 2003(a),p.58)
(3)Bodecker,Karl (Friedrich Georg) von [士官,Kiel,似島,p.1](1875年Friedenthal/Ostpreußen生まれ.Briefadel,Jg.1,1907,S.65.瀬戸 2003,p.42によれば1957年没)
(4)Borcke,Otto (Ferdinand Karl) von [士官,Weissenthurm,久留米,p.1](1883年Mewe生まれ.Uradel,Jg.12,1911,S.95.日本居住許可俘虜 1920の「一般送還船出発前予メ日本ニテ解放者」)
(5)Hertling,Georg Freiherr von [士官,Würzburg,久留米,p.2](1888年にクロアティアのLipikあるいはLippicで生まれ,退役大尉として1957年にブラウンシュヴァイクで没した.Freiherr,Jg.89,1939,S.209;hertling(電子版);松尾 2003(a),p.63.さらに,瀬戸 2003,p.71を参照.なお,海兵隊少尉のヘルトリンク男爵はEhrenrangliste 1930,S.1075によれば1888年生まれであるので,久留米のヘルトリンクは,上記の男爵である.上記ゴータ,1939年版の同じページに記載されたゲオルク・M.J.K.フォン・ヘルトリンク男爵は,1883年生まれであるから,海兵隊少尉ではない)
(6)Hofenfels,Hermann (Maximilian Oskar Moritz) Freiherr von [士官,Baden-Baden,久留米,p.2](1883年Dürckheim/Haardt生まれ.Freiherr,Jg.89,1939,S.222)
(7)Kayser,Georg (Karl Edwin Robert August) von [士官,Darmstadt,福岡→習志野,p.2](1870年Neiße生まれ.Briefadel,Jg.2,1908,S.555)
(8)Mauchenheim,W.Freiherr von,v.Bechtolsheim gen.,(Wilhelm Alfred Maria von Mauchenheim gen.Bechtolsheim) [士官,Hohenturm/Bad Töltz,福岡,p.3](1881年Hohenberg生まれ.Freiherr,Jg.92,1942,S.322.さらに,瀬戸 2003,p.38[Bechtolsheim,福岡→習志野]を参照)
(9)Schönberg,Rudolf von [士官,Purschenstein,大分→習志野,p.3]
(a)Hans Rudolf (1880年Stuttgart生まれ)
(b)Horst Rudolf (1881年Stuttgart生まれ)
(c)Kaspar Rudolf (1884年Stuttgart生まれ.以上 : Uradel,Jg.40,1941,S.491.さらに,瀬戸 2003,p.117を参照.――俘虜名簿で本籍地とされているプルシェンシュタインは,ザクセンの旧貴族フォン・シェーンベルク家が何世紀も支配・所有してきた城館の所在地である.Schlesinger 1965,S.290)
(10)Seebach,Thilo (Bernhard Oskar Stephan) von [士官,Wiesbaden,習志野,p.4](1890年Leipzig生まれ.Uradel,Jg.39,1940,S.594)
(11)Tucher,Christof (Christoph Karl Lorenz) Freiherr von [一等兵,München,久留米→習志野,p.61](1892年Feldmühl生まれ.Freiherr,Jg.90,1940,S.643.なお,1875年Nördlingen生まれのクリストフ・A.H.フォン・トゥーハー男爵(Freiherrr,Jg.90,1940,S.642)は,1914年の一等兵としては年齢が高すぎるであろう)
(12)Wedel,Hasso (Karl Magnus Wilhelm Heinrich) von [士官,Wilhelmshaven,大分→習志野,p.4](なお,1892年Berlin生まれのハッソ・K.M.W.H.フォン・ヴェーデル(Uradel,Jg.41,1942,S.567)は,1914年の少佐としては年齢が低すぎるであろう)
(a)Hasso Sebastian Georg (1859年Berlin生まれ)
(b)Hasso Hans Joachim Heinrich (1863年Neurode生まれ)
(c)Hasso Otto (1863年Sarranzig生まれ)
(d)Hasso Lupold Lewin (1877年Ganten生まれ.以上:Uradel,Jg.41,1942,S.567,578,582,598)
(13)Weegmann,Oskar C(arl) von [予備士官,München,習志野,p.4] (1879年Cöln生まれ.Briefadel,Jg.31,1939,S.639)(本節(A)A(4)を参照)
Bゴータなどで生地が不明の場合
(1)Brockdorff,Kay (Cai Christian Magnus Christoffer Nicolaus) Graf von [予備下士官,Peking,久留米,p.11](1867年生まれ,生地不記載.Uradel,Jg.38,1939,S.87.俘虜名簿 1915,p.11に「Dresden..」の追記あり.ただし,1914年に47歳となる,この貴族は1914年の予備下士官としては年齢が高すぎるであろう.ゴータに生地が記載されなかった彼は,北京を俘虜名簿の本籍地としたが,ゴータに掲載されなかった貴族とは,同姓・一部同名の別人と考えられる)
(2)Seckendorff,Oscar A.A.Freiherr von [退役士官,Foochow[福州]/Südchina,静岡→習志野,p.4](1873年生まれ,1928年没.瀬戸 2003,p.119)
Cゴータにも"Das Deutsche Geschlechterbuch"=Stammfolgen-Verzeichnisse fuer das Genealogische Handbuch des Adels, Bd. 1-30, und das Deutsche Geschlechterbuch, alte Reihe 1-119, neue Reihe 120-134. Limburg 1963, にも見出されない場合
(1)Ahe,Eduard von der [二等兵,Dortmund,静岡→習志野,p.5]
(2)Borries,Theodor v. [予備一等兵,Hamburg,名古屋,p.10]
(3)Borstel,Heinrich v. [二等兵,Kadenberge/Hannover,名古屋,p.10]
(4)Bruck,Hugo vom [後備下士官,Velbert/Rheinland,大分→習志野,p.11](日本居住許可俘虜 1920によれば「日本内地契約成立者」.瀬戸 2003,p.45を参照)
(5)Costenoble, Hermann v. [二等兵,Jena/Thüringen,板東,p. 13](瀬戸 2003,p.49を参照)
(6)Gimborn,Bodo v. [一等兵,Sigmaringen,板東,p.20](瀬戸 2003,p.60を参照)
(7)Günther,Otto [士官級・民政長官,Friedrichsfelde/Berlin,板東,p.2<追記>](松尾 2003(a),pp.61-62.日本語文献でしばしば貴族と記される)
(8)Hofe,Paul vom [二等兵,Kassel,久留米,p.26]
(9)Holstein,Walter v. [二等兵,Hamburg,板東,p.26]
(10)Koslowski,Hans von [二等兵,Danzig,似島,p.33](瀬戸 2003,p.83を参照)
(11)Michalkowski,Karl v. [予備一等兵,Bremen,久留米→板東,p.40](瀬戸 2003,p.98を参照)
(12)Nahl,Heinrich v. [二等兵,Mühlheim/Rheinland,似島,p.42]
(13)Plank,Gerhard v.d. [二等兵,Emmerich/Rheinland,久留米,p.45]
(14)Raussendorff,Ernst v. [予備一等兵,Kiel,名古屋,p.47]
(15)Ryswick,Johann v. [二等兵,Duisburg,青野原,p.50]
(16)Seggern,Max v. [下士官,Oldenburg,板東,p.56]
(17)Strucynski,Hans v. [下士官,Danzig,板東,p.59]
(18)Vogelstein,Max v. [一等兵,Weilheim/Bayern,似島,p.62]
(19)Wenckstern,Gerhardt v. [士官,Görlitz/Schl.,福岡(逃亡),p.4]
(20)Weyhe,Curt v. [予備士官,Fahrenhorst/Hannover,久留米,p.4]
(C)士官
@生地が本籍地と同じ場合
(1)Boethke,Paul [士官,Thorn,福岡→習志野,p. 1](1872年Thorn/Westpreußen生まれ.さらに,瀬戸 2003,p.44を参照)
(2)Goepfert,Arthur [予備士官,Annaberg,板東,p.2](1879年にAnnabergで生まれ,1937年に中国・太原で没した.工学士・工学博士.松尾 2002(b),p.45;松尾 2002(d),pp.99-100;松尾 2004(b),第2節(2).日本居住許可俘虜 1920の「日本内地契約成立者」)
(3)Kuhlo,Paul [士官,Bielefeld,習志野,p.2](1866年Bielefeld生まれ.習志野市史研究 2003,p.119;松尾 2003(a),p.65.さらに,瀬戸 2003,p.86を参照)
(4)Meyer-Waldeck,Alfred [膠州総督・士官,Petrograd,福岡→習志野,p.4](1864年St.Petersburg生まれ,1928年没.瀬戸 2001,p.132[Waldeck];瀬戸 2003,p.97)
(5)Saxer,Ludwig [士官,Carlsburg/Neumark,福岡→習志野,p.3](1869年Carlburg/Neumark生まれ.俘虜名簿の本籍地の綴りは誤植)
(6)Stecher,Walter [士官,Dresden,板東,p.4](1874年Dresden生まれ.1907−09年に日本派遣士官.松尾 1998(a),pp.126-127;松尾 2002(b),p.45;松尾 2003(a),p.68.さらに,瀬戸 2003,p.122を参照)
(7)Vollerthun,Waldemar [士官,Fürstenau/Westpreußen,福岡→習志野,p.4](1869年Fürstenau/Westpr.生まれ,1929年没.瀬戸 2003,p.129)
(4a)Waldeck,Alfred Meyer- ――本節(C)@(4)Meyer-Waldeck,Alfredを見よ.
A生地が本籍地と異なる場合
(1)Hass,Gustav [士官,Wilhelmshaven,似島,p.2](1872年Lippinken/Westpreußen生まれ)
(2)Scriba,Emil [予備士官,Darmstadt/Hessen,習志野,p.4](東京生まれ.解放後,日本の実業界で活動し,1932年に没した.習志野収容所 2001,pp.7,29,115;瀬戸 2001,p.121;久留米収容所 2003,p.151;松尾 2003(a),pp.67-68.日本居住許可俘虜 1920によれば,「特別事情ヲ有シ日本内地ニ居住希望者」)
B海兵隊名簿に生年だけが記されている場合
(1)Hertling,Georg Freiherr von (1888年生まれ)――本節(B)A(5)を見よ.
(2)Kleemann,Eduard [士官,Grossen-Ehrich,板東,p.2](1870年生まれ.瀬戸 2003,p.78を参照)
(3)Lancelle,Waldemar [士官,Berlin,大分→習志野,p.2](1871年生まれ.瀬戸 2003,p.88を参照)
(4)Schulz,Johannes [4274,士官,Kottbus,板東,p.3](1887年生まれ)
(5)Siebel,Carl [士官,Barmen,福岡→習志野,p.4](1867年生まれ)
(D)その他の社会層
@生地が本籍地と同じ場合
(1)Barth,Johannes [二等兵,Bremen,板東,p.6](1891年Bremen生まれ.日本で実業のかたわら日本研究を進め,1981年に鎌倉で没した.東京ドイツ東洋文化研究協会(OAG)副会長.OAG回答;松尾 2002(c),p.59.なお,瀬戸 1999,p.118ではBremen近郊生まれ.日本居住許可俘虜 1920の「日本内地契約成立者」)
(2)Blocksberger,Max [予備二等兵,Gorndorf/Thüringen,丸亀,p.9(俘虜名簿 1915<..ochb..の追記あり>.ただし,俘虜名簿 1917,p.9では板東収容のMax Blocksberg)](検証可能なMax Blochbergerは1893年にGorndorfで生まれ,肉屋として1953年に同地で没した.Gorndorfを合併したSaalfeld市の市立文書館からの回答.本稿第1節(C)(i)参照.したがって,俘虜名簿の姓はいずれも誤植.瀬戸 2003,pp.41-42を参照)
(3)Bodenstedt,Herrman [後備下士官,Bremen,習志野,p.9](Bremen生まれ.習志野市史研究 2003,p.77;瀬戸 2003,p.42)
(4)Böhm,Paul [後備下士官,Freiburg,久留米,p.9](1887年にFreibergで生まれたカルル・パウル・ベームは,1968年にドレースデンで没した.Freiberg市立文書館回答;松尾 2002(b),p.52;瀬戸 2003,p.43.俘虜名簿の本籍地の綴りは誤植)
(5)Claussnitzer,Franz [一等兵,Brand,板東,p.12](1892年にBrandで生まれた.板東で「ドイツ牧舎」を指導し,1955年にブロインスドルフ村で没した.ブラント=エルビスドルフ市戸籍部回答;松尾 2002(d),p.101;瀬戸 2003,p.48)
(6)Doert,Erich [二等兵,Dortmund,板東,p.14](1893年Osterfeld[ドルトムント市の一部]で生まれ,1960年ヴェルネで没した.瀬戸 2003,pp.50-51)
(7)Elle,Erich [二等兵,Düsseldorf,習志野,p.15](Düsseldorf生まれ.習志野収容所 2001,p.154;瀬戸 2003,p.53)
(8)Fritzsche,Arthur [予備下士官,Hamburg,習志野,p.18](Hamburg生まれ.習志野市史研究 2003,p.77)
(9)Goppelt,Friedrich [予備一等兵,Weisenburg,板東,p.20](1889年にWeißenburgで生まれ,1988年にミュンヒェンで没した.Weißenburg市戸籍部回答;松尾 2004(b),第2節(4).俘虜名簿の本籍地の綴りは誤植)
(10)Grüneweller,Bernhard [二等兵,Münster,習志野,p.21](Münster生まれ.習志野市史研究 2003,p.78)
(11)Hamm,Heinrich [二等兵,Elsheim/Bingen,習志野,p.23](1883年にElsheimで生まれ,葡萄酒醸造技術者として日本に招聘された.山梨から青島に召集され,1954年にエルスハイムで没した.習志野収容所 2001,p.8;習志野市史研究 2003,pp.54-55;松尾 2003(a),p.62;瀬戸 2003,pp.64-65.軍階級の位置づけはシュミット氏による)
(12)Hansen,Hermann [下士官,Glücksburg,板東,p.23](1886年にGlücksburgで生まれた.板東で「第九」を指揮し,1927年にフレンスブルクで没した.横田 2002,pp.62-67;瀬戸 2003,p.66)
(13)Hiller,Kurt [二等兵,Niederjana/Meissen,静岡→習志野,p.25](文書は存在しないが,次の伝承がある.クルト・ヒラーは1914年に19歳で日本軍の捕虜となり[生年は1895年頃であろう],1920年に解放された.日本と中国で働いた後,38年にマイセンに帰郷した.Meißen市立文書館回答;松尾 2002(d),p.99;瀬戸 2003,p.72.マイセン市は28年にNiederjahna村を併合した.HOS 1957,S.83.したがって,ヒラーの生地はNiederjahnaであり,俘虜名簿の本籍地は誤植であろう.松尾 2002(d),p.99.――彼は帰国船に神戸で乗船した(彼の船は,習志野収容捕虜の多くが乗船し,青島に寄港した喜福丸と考えられる)けれども,青島で下船して,何らかの職業に従事し,次いで日本で働いた後,帰国したのであろう.しかし,ヒラーは日本居住許可俘虜 1920の「日本内地契約成立者」にも,「特別事情ヲ有シ日本内地ニ居住希望者」にも,「青島ニ於ケル就職既定者」にも,「特別事情ヲ有シ青島居住希望者」にも,記載されていない.帰国船出帆後のドイツ兵は,行動に関してかなり大きな自由を持っていたのではなかろうか.喜福丸で帰国した青野原収容捕虜,ケルステンの日記の記述に対する私の解釈は,松尾 2004(b),第3節(注19)を参照)
(14)Kleinerüschkampf,Karl [二等兵,Solingen,習志野,p.31](Solingen生まれ.習志野収容所 2001,p.154;瀬戸 2003,p.78[Kleinerbüschkampf])
(15)Kley,Paul [二等兵,Waltershausen,板東,p.31](1894年にWaltershausenで生まれ,1992年にリューデンシャイトで没した.Lüdenscheid市の市民部と市立文書館からの回答;松尾 2002(c),p.59;瀬戸 2003,pp.78-79;松尾 2004(b),第1節.俘虜名簿 1915,p.30に「Lüdenscheid」の追記あり)
(16)Kluge,Ernst [一等兵,Berlin,久留米,p.31](1892年にBerlinで生まれ,1979年にキームゼーで没した.久留米収容所 2003,pp.132-133;松尾 2003(a),p.64;瀬戸 2003,pp.79-80)
(17)Koeberlein,Willy [二等兵,Wuerzburg,板東,p.32](1890年Würzburg生まれ,1952年に没.瀬戸 2003,p.81.さらに,板東収容所研究 2003,p.38を参照)
(18)Laan,Heinrich van der [二等兵,Weener/Ems,板東,p.35](1894年にWeenerで生まれた.1913年に来日し,青島に召集された.解放・帰国後,再来日して,貿易に従事し,1964年に神戸で没した.瀬戸 2001,p.99;瀬戸 2003,p.88)
(19)Lehmann,Otto [二等兵,Geringswalde,久留米,p.36](1892年にGeringswaldeで生まれた.久留米で「収容所楽団」を指揮し,1971年にヴァルトハイムで没した.ゲリンクスヴァルデ市戸籍部回答;松尾 2002(d),p.116;松尾 2003(a),pp.52-55;瀬戸 2003,p.90)
(20)Leipold,Eduard [一等兵,Unterlauter/Sa.-Coburg-Gotha,板東,p.36](1892年にUnterlauterで生まれた.元板東収容捕虜の団体,フランクフルト・バンドー会を支え,1978年にコーブルクで没した.エドゥアルトの娘,リスベート・ライポルト夫人の書簡;松尾 2002(c),p.59)
(21)Lemke,Fritz [下士官,Spandau,習志野,p.36](Spandau生まれ.習志野市史研究 2003,p.72;瀬戸 2003,p.91)
(22)Mailänder,Andreas [二等兵,Kutzhof/Saarbrücken,習志野,p.38](1892年にKutzhofで生まれ,同地で1980年に没.瀬戸 2003,pp.93-94)
(23)Mechelke,Paul [下士官,Königsberg,習志野,p.39](Königsberg生まれ.習志野市史研究 2003,p.77;瀬戸 2003,p.95)
(24)Meissner,Kurt [二等兵,Hamburg,板東,p.39](1885年にHamburgで生まれ,日本での実業のかたわら日本研究を進めた.長年に亘ってOAG会長.1976年にスイス・ロカルノで没.クルトの息,ハンス・マイスナー氏の回答;松尾 2002(c),p.59.さらに,武内 1995,p.455;瀬戸 2001,p.104;瀬戸 2003,p.96を参照.日本居住許可俘虜 1920の「日本内地契約成立者」)
(25)Miedtang,Max [二等兵,Lossen,久留米,p.40](1892年にLossenで生まれ,1980年にロマッチュ市で没した.マイセン郡文書館回答;松尾 2002(d),p.100;瀬戸 2003,p.98)
(26)Mühlich,Heinrich [予備二等兵,Insterburg,習志野,p.41](Insterburg生まれ.習志野市史研究 2003,p.73;瀬戸 2003,p.99)
(27)Pechbrenner,Max [二等兵,Königsberg,習志野,p.44](Königsberg生まれ.習志野収容所 2001,p.154;瀬戸 2003,p.104)
(28)Richter,Bruno [後備下士官,Moskau,習志野,p.48](Moskau生まれ.習志野市史研究 2003,p.78;瀬戸 2003,p.109)
(29)Riedel,Georg [二等兵,Plauen-Reusa,板東,p.48](Plauenで1895年に生まれ,1917年没.瀬戸 2003,p.110.さらに,瀬戸 2001,p.114を参照)
(30)Thiele,Johannes [二等兵,Zittau,青野原,p.60](パウル・ヨハネス・ティーレは1890年にZittauで生まれ,1974年に同市で没した.金箔師助手であった彼が,20年9月にZittau市戸籍部に提出した証明書類の中に,同年2月のヴィルヘルムスハーフェン通過収容所からの解放証明書があった.Zittau市戸籍部回答;松尾 2002(d),p.99;瀬戸 2003,p.125.彼は豊福丸で帰国したであろう)
(31)Treuke,Richard [国民軍二等兵,Berlin,板東,p.61](1874年頃Berlin生まれ.林 1993,pp.133-134;瀬戸 2001,p.129;瀬戸 2003,p.127.日本居住許可俘虜 1920によれば,「特別事情ヲ有シ日本内地ニ居住希望者」)
(32)Uerscheln,Matthias [二等兵,Korschenberg,久留米,p.61](Korschenbroich/Düsseldorf生まれ.久留米収容所 2003,p.150;瀬戸 2003,p.127.俘虜名簿の本籍地の綴りは誤植であろう)
(33)Vogelfänger,Christian [二等兵,Düsseldorf,習志野,p.62](1896年Düsseldorfで生まれ,1980年没.瀬戸 2003,p.128)
(34)Wolf,Hermann [予備二等兵,Hamburg,久留米,p.66](1885年にHamburgで生まれた.解放・帰国後,再来日して,事業を営み,1938年に神戸で没した.久留米収容所 2003,pp.142-144;瀬戸 2003,pp.134-135)
A生地が本籍地と異なる場合
(1)Beyer,Fritz [二等兵,Bant,習志野,p.8](Wilhelmshaven生まれ.習志野市史研究 2003,p.78;瀬戸 2003,p.40)
(2)Bötjer,Otto [下士官,Lemsahl/Stormarn,福岡→習志野,p.10](Hamburg生まれ.習志野市史研究 2003,p.77)
(3)Fischer,Paul [3317,二等兵,Grünau,久留米,p.17](フリードリヒ・パウル・フィッシャーは1884年にザクセン王国Wildenfels市で生まれ,1967年にGrünau村で没した.グリューナウ村を合併したLangenweißbach村の村役場回答;松尾 2002(d),p.100;松尾 2003(a),p.60;瀬戸 2003,p.57.Grünauはおそらく当時の家族居住地であった)
(4)Grönitz,Alfred [二等兵,Slawitz/Oppeln,習志野,p.21](Breslau生まれ.習志野収容所 2001,p.154;瀬戸 2003,p.62)
(5)Helm,Wilhelm [予備下士官,Kobe[神戸],青野原,p.24](1891年に横浜で生まれ,神戸で育ち,青島に召集された.解放後は日本で活動し,1951年にヴィースバーデンで没した.ヘルムが本籍地とした神戸は,彼の父の商会の本拠であった.久留米収容所 2003,p.152;瀬戸 2003,p.70.日本居住許可俘虜 1920の「日本内地契約成立者」)
(6)Juchheim,Carl [国民軍二等兵,Garz/Rügen,似島,p.28](1889年にKaub/Rheinで生まれた.横浜で菓子店ユーハイムを創業し,1945年に神戸で没した.夫人による伝記に基づくディルク・ファン=デア=ラーン氏の教示;松尾 2003(a),p.63.さらに,武内 1995,p.508;瀬戸 2001,pp.90-91;習志野収容所 2001,pp.118-119を参照.日本居住許可俘虜 1920の「日本内地契約成立者」)
(7)Krüger,Karl [二等兵,Thorn,習志野,p.34](1892年にPensau/Westpreußenで生まれ,1980年にブレーマーハーフェンで没した.習志野市史研究 2003,p.112;松尾 2003(a),p.64;瀬戸 2003,pp.84-85)
(8)Millies,Hans [後備下士官,Kiel,習志野,p.40](1883年にDagebüllで生まれ,1957年にリューベックで没した.習志野の管弦楽団指揮者.瀬戸 2001,pp.105-106[後備二等軍楽手];習志野収容所 2001,p.61;榎本 2003,p.110;松尾 2003(a),p.65;瀬戸 2003,p.98.没年は星昌幸氏教示;瀬戸 2003,p.98による)
(9)Nommensen,Richard [下士官,Pötrau,習志野,p.43](Hamburg生まれ.習志野市史研究 2003,p.75;瀬戸 2003,p.102)
(10)Sommerlatt,Benedikt [予備下士官,Oldenfelde/Hamburg,名古屋,p.57](1889年英領東インド・カラチン生まれ.瀬戸 2001,p.124)
(11)Spann,Alexander [二等兵,Rio de Janeiro,久留米,p.57](1890年Altona生まれ.解放後,九州大学などでドイツ語教育に従事.没地・没年不明.武内 1995,p.216;瀬戸 2001,p.124;瀬戸 2003,p.121.日本居住許可俘虜 1920の「日本内地契約成立者」)
(12)Steckelberg,Hans [予備二等兵,Gronau/Westfalen,習志野,p.57](1886年Langenberg/Rheinland生まれ.瀬戸 2003,p.122)
(13)Stolle,Otto [下士官,Oldenburg,板東,p.58](1886年にOsternburg/Oldenburgで生まれ,1967年にオルデンブルクで没した.Oldenburg市戸籍部回答;瀬戸 2003,pp.123-124.日本居住許可俘虜 1920によれば,「日本内地契約成立者」)
B十分には判明しなかった場合
(1)Hannasky,Otto [予備二等兵,Guben,板東,p.23](Gubenは食肉加工技術者ハナスキーの当時の家族住所であったであろう.少なくとも1923年のグーベン市刊行住所録に,離婚したハナスキー夫人が一食肉店の同居者として記載されている.Guben市立文書館回答;松尾 2002(c),p.51)
(2)Vetter,Kurt [一等兵,Königsstein,板東,p.61](Königstein市の回答によれば,資料がない.しかし,ザクセン独日協会のロタール・ポレンツ氏によれば,クルト・フェッターのKönigstein居住を記憶している同市市民がいる.さらに,瀬戸 2003,p.128を参照.なお,俘虜名簿の本籍地の綴りは誤植であろう)
C調査不可能の回答があった場合,あるいは,質問への回答がなかった場合
(1)Baehr,Karl [二等兵,Copitz/Pirna,板東,p.6](Copitz村を合併したPirna市から無回答.俘虜名簿 1915,p.6に「Radebeul..」の追記あり.さらに,瀬戸 2003,p.37を参照)
(2)Biedermann,Paul [予備二等兵,Zwickau,久留米→板東,p.8] (調査不可能.Zwickau市戸籍部回答.さらに,瀬戸 2003,p.41を参照)
(3)Böttcher,Fritz [二等兵,Annaberg,久留米,p.10](1876−90年の戸籍部記録に発見されず.Annaberg-Buchholz市戸籍部回答)
(4)Colbow,Otto [下士官,Schönberg,習志野,p.13](かつてのエルスニッツ郡Schönberg村はBad Brambachに統合された.後者の村の戸籍記録に同名の人物は記録されていない.さらに,瀬戸 2003,p.48を参照)
(5)Eckhardt,Reinhold [後備下士官,Stuttgart,板東,p.15](調査不可能.Stuttgart市立文書館回答)
(6)Engel,Paul [二等兵,Dresden,板東,p.15](出生と居住に関係する文書は一切ない.Dresden市立文書館回答.さらに,瀬戸 2003,pp.53-54;松尾 2004(b),第3節(II)(A)を参照)
(7)George,Kurt [二等兵,Kainsdorf,習志野,p.19](CainsdorfはZwickau市に合併されたが,資料は未整理である.Zwickau市立文書館回答)
(8)Kleppsch,Paul [二等兵,Copitz/Pirna,久留米→板東,p.31](Copitz村を合併したPirna市から無回答)
(9)Preissler,Richard [二等兵,Meissen,習志野,p.46](Meißen市立文書館に資料がない.瀬戸 2003,p.106を参照)
(10)Preu,Johann [一等兵,Zwickau,久留米,p.46](調査不可能.Zwickau市戸籍部回答)
(11)Rieger,Waldemar [後備一等兵,Zittau,習志野,p.49](Zittau市立文書館に出生記録が残されていない.瀬戸 2003,p.110を参照)
(12)Rode,Fritz [二等兵,Hannover,板東,p.49](調査不可能.Hannover市立文書館回答.さらに,瀬戸 2003,p.111を参照.日本居住許可俘虜 1920の「日本内地契約成立者」)
(13)Schlosser,Karl [二等兵,Zwickau,似島,p.52](調査不可能.Zwickau市戸籍部回答)
(14)Schmieder,Hugo [二等兵,Meissen,板東,p.53](Meißen市立文書館に資料がない.瀬戸 2003,p.116を参照)
(15)Schreiber,Walter [二等兵,Tarnowitz/Schlesien,板東,p.54](Tarnowitz村は現在ポーランド領グミナ・ルブシャのタルノヴィチェである.ルブシャ住民登録部の回答によれば,同名の人物は確認されない.瀬戸 2003,p.118を参照)
(16)Weber,Josef [4321,二等兵,Recklinghausen/Westfalen,板東,p.63](調査不可能.Recklinghausen市戸籍部回答.さらに,瀬戸 2003,p.131を参照)
(17)Wiese,Wilhelm [二等兵,Schönberg,青野原,p.65](かつてのエルスニッツ郡Schönberg村はBad Brambachに統合された.後者の村の戸籍部記録には同名の人物は記録されていない)
調査結果は以上のとおりである.本節で本籍地と出生地との関係が解明されえなかった,各項のBとC,合計50人(他項との重複を含まず)を除いて,生地が本籍地と同じである場合@と,生地が本籍地と異なる場合Aだけを,取り出してみる.博士(A)では@は12人,Aは6人である.貴族(B)で@8人,A13人,士官(C)で@7人,A2人,その他の社会層(D)で@34人,A13人である.このうち,(A)A(4)と(B)A(13)とは同一人物であるから,それを差し引いた合計は@が61人で,Aが33人であり,(A)−(D)の4群計は94人である.検証されえた事例はそれほど多くないけれども,この調査結果は無意味ではないであろう.俘虜名簿の本籍地が出生地である場合は,確かに多い(65%).しかし,常にそうであるとは限らず,本籍地が出生地でない場合も,35%に達する.したがって,本籍地の記載だけから,某捕虜は「本籍地」の某地生まれ(2)である,と即断されるべきではない.
(注1)奇異な事例として,ドイツ以外の集落を本籍地とした捕虜が,77人いた.その内訳は中国54人,ロシア8人,日本4人,オランダ4人,スイス2人,アメリカ,アルゼンチン,エジプト,ブラジル,ルクセンブルク各1人であった.一層奇異なことに,ドイツの集落と外国の集落の二つを本籍地として申告した捕虜も,6人いた.重複記載された外国の内訳は,中国3,日本2,ロシア1である.両者合計の83人が本籍地とした外国集落は,日本の制度から見ると,本籍地とはなりえない.これらは捕虜の出生地,あるいは,召集直前の本人居住地ないし収容当時の家族居住地を示すと考えられる.ドイツ以外の集落だけを本籍地とした捕虜のうち,習志野収容の膠州総督マイアー=ヴァルデック大佐のペトログラードは,本節(C)@(4)が示すように,出生地である.板東収容・二等兵ハインリヒ・グロースマンの神戸は,瀬戸 2001, p. 81によれば,召集直前の本人居住地であり,収容当時の家族居住地である.本節(D)A(5)のヘルムは日本で生まれ,育った.ヘルムが本籍地とした神戸は,彼の父の商会の本拠であった.本節(A)A(5)のヴァインホルツは,博士論文の履歴によれば,オーダー河畔フランクフルトで生まれた.ヴァインホルツが本籍地とした中国・漢口には,家族が当時住んでいたのではなかろうか.また,ドイツと外国の二つの集落を本籍地とした6人の場合,ドイツの集落は生地あるいは家族居住地を示すのであろう.二重申告者うち,名古屋収容・予備二等兵アウグスト・ベーゼは小樽/ヴァンネとしている.このヴァンネは,俘虜名簿にヴァンネ生まれと記載されているから,生地である.なお,外国を本籍地とした,これら83人の氏名は松尾 2002(d),pp.124-125にある.
(注2)論題の簡潔さを優先させて,私が論文,松尾 2002(b)を「ザクセン王国出身の青島捕虜」と題したのは,誤りであった.あの論文の題目は,正確さを第一として,「本籍地がザクセン王国にある青島捕虜」とされるべきであった.本稿第4節(B)(C)を参照.
(3)捕虜兵士の生年
前節で提示した捕虜のうち,生年が明らかになっている兵士(士官・下士官を除いた一等兵・二等兵)は,29人である.すなわち,(A)AからBohnerとWeinholz,(B)Aからvon Tucher(前節の想定にしたがって,1892年生まれと考える),(D)@からBarth,Blochberger,Claussnitzer,Doert,Goppelt,Hamm,Hiller,Kley,Kluge,Koeberlein,v. d. Laan,Lehmann,Leipold,Mailänder,Meissner,Miedtang,Riedel,Thiele,Treuke,VogelfängerとWolf,(D)AからPaul Fischer(3317),Juchheim,Krüger,SpannとSteckelbergである.
さらに,生地は不明であるけれども,生年の判明している兵士を,先行業績,とくに,網羅的な大作,瀬戸 2001と瀬戸 2003から拾い上げる.氏名の後の[]に階級,収容所,俘虜名簿 1917(それに記されていない場合には,俘虜名簿 1915)の記載ページを記し,()に生年と典拠を示すと,次のようになる.
(1)Böhmer,Wilhelm [後備二等兵,習志野,p.9](38歳の1915年に重営倉処分.習志野収容所 2001,p.51.したがって,1877年頃生まれ)
(2)Buech,Ludwig [二等兵,板東,p.11](1890年生まれ,1960年没.瀬戸 2003,p.46)
(3)Cravatzo,Peter [二等兵,板東,p.13](1893年生まれ,1918年没.瀬戸 2001,p.70;瀬戸 2003,p.49)
(4)Danielsen,Friedrich [二等兵,板東,p.13](1885年生まれ.瀬戸 2003,p.49)
(5)Franz,Oskar [一等兵,板東,p.18](1918年に37歳.瀬戸 2001,p.76;習志野収容所 2001,p.57.したがって,1881年頃生まれ.日本居住許可俘虜 1920の「日本内地契約成立者」)
(6)Georgi,Paul [一等兵,名古屋,p.19](1892年生まれ,1918年没.瀬戸 2001,p.78)
(7)Gomille,Paul [二等兵,板東,p.20](1889年生まれ,1917年没.瀬戸 2001,p.79;瀬戸 2003,p.61)
(8)Grevsmühl,Hans [予備一等兵,似島,p.21](1888年生まれ.瀬戸 2001,p.80)
(9)Guenschmann,Edmund [二等兵,板東,p.22](1893年生まれ.瀬戸 2003,p.62)
(10)Hansen,Hans [一等兵,久留米→板東,p.23](1894年生まれ,第二次大戦後没.板東「第九」指揮者ヘルマン・ハンゼンの弟.瀬戸 2003,pp.65-66)
(11)Haertle,Thaddaeus [二等兵,板東,p.23](1888年生まれ.解放・帰国後,再来日し,1968年に西宮で没した.瀬戸 2001,pp.83-84;瀬戸 2003,pp.66-67)
(12)Hasselbach,Johann [二等兵,名古屋,p.23](1891年生まれ.瀬戸 2001,p.84.日本居住許可俘虜 1920の「日本内地契約成立者」)
(13)Hellmuth,Jean [二等兵,板東,p.24](1895年生まれ,1917年没.瀬戸 2001,p.86;瀬戸 2003,pp.69-70)
(14)Hubbe,Fritz [予備一等兵,板東,p.26](1887年生まれ,1918年没.瀬戸 2001,p.88;瀬戸 2003,p.74)
(15)Jakob,Johann [二等兵,名古屋,p.27](1892年生まれ,1918年没.瀬戸 2001,p.89)
(16)Kardinal,Herrmann [二等兵,名古屋,p.29](1892年生まれ,1918年没.瀬戸 2001,p.92)
(17)Ketel,Helmuth [二等兵,習志野,p.30](1893年生まれ,解放後,東京でレストランを開業し,1961年に没した.瀬戸 2001,p.93;習志野収容所 2001,p.117.彼の階級の位置づけはシュミット氏による.日本居住許可俘虜 1920の「日本内地契約成立者」)
(18)König,Jakob [二等兵,久留米,p.32](1892年生まれ,1964年没.瀬戸 2003,p.82)
(19)Körner,Peter [一等兵,習志野,p.33](1880年生まれ,1919年没.瀬戸 2003,p.83)
(20)Kort,Rudolf [二等兵,習志野,p.33](1891年生まれ,1955年没.瀬戸 2003,p.83)
(21)Kraus,Simon [後備二等兵,習志野,p.33](28歳の1915年に重営倉処分.習志野収容所 2001,p.51.したがって,1887年頃生まれ)
(22)Kühne,Karl [二等兵,板東,p.34](1892年生まれ,1918年没.瀬戸 2001,p.98;瀬戸 2003,p.87)
(23)Lauenstein,Arthur [二等兵,松山,p.35(俘虜名簿 1915)](1888年生まれ,1916年没.瀬戸 2001,p.100[予備二等兵.林 1993,p.166では予備補充兵])
(24)Lechner,Michael [一等兵,習志野,p.36](1892年生まれ,1969年没.瀬戸 2003,p.89)
(25)Markel,Georg [二等兵,習志野,p.38](1888年生まれ,1950年没.瀬戸 2003,p.94[Markl])
(26)Matheis,Gustav [一等兵,静岡,p.37(俘虜名簿 1915)](1895年生まれ,1915年没.瀬戸 2003,p.95)
(27)Oetmann,Arthur [予備一等兵,名古屋,p.44](1889年生まれ.瀬戸 2001,p.110)
(28)Philipps,Lorenz [二等兵,名古屋,p.45](1892年生まれ,1918年没.瀬戸 2001,p.111)
(29)Precht,Karl [二等兵,似島,p.46](1893年生まれ,1985年没.瀬戸 2003,p.106)
(30)Protze,Arthur [一等兵,習志野,p.46](1888年生まれ,1978年没.瀬戸 2003,p.107)
(31)Puchert,Wilhelm [二等兵,名古屋,p.46](1892年生まれ,名古屋収容所で没.瀬戸 2001,p.113)
(32)Schillo,Peter [二等兵,板東,p.52](1894年生まれ,1984年没.瀬戸 2003,p.114)
(33)Schlotterbeck,Wilhelm [一等兵,青野原,p.52](1892年生まれ,1965年没.瀬戸 2003,p.116)
(34)Schmidt,Daniel [2701,一等兵,名古屋,p.52](1891年生まれ.瀬戸 2001,p.119)
(35)Schmidt,Karl [2713,二等兵,名古屋,p.51(俘虜名簿 1915)](1898年生まれ,1916年没.瀬戸 2001,p.119)
(36)Scoppwer,Paul [二等兵,習志野,p.55](1893年生まれ,1984年没.瀬戸 2003,p.119)
(37)Seeger,Hermann [海兵第2中隊・一等兵,板東,p.55](1918年11月30日没.瀬戸 2001,p.122;瀬戸 2003,p.120[1891年生まれ].――林 1993,p.166によれば,海兵第2中隊所属(階級の記載を欠く),板東収容,1891年生まれの「ヘルマン・ハインリッヒ」は1918年11月30日に没した.この姓名は俘虜名簿に記載されていない.板東収容所 2000,p.107によれば,18年11月30日の死亡者はゼーガーだけであった.そのためにゼーガーを1891年生と考える)
(38)Stuhlsatz,Johann [二等兵,似島,p.59](1891年生まれ.瀬戸 2003,p.124)
(39)Syre,Hermann [一等兵,板東,p.59](1882年生まれ,1962年没.瀬戸 2003,pp.124-125[Syr'e])
(40)Temme,Ammandus [階級不記載,丸亀,p.58(俘虜名簿 1915.「二等兵」の追記あり)](1893年生まれ,1915年没.瀬戸 2001,p.127;瀬戸 2003,p.125)
(41)Walter,Hugo [国民軍二等兵,似島,p.63](1914年8月に17歳未満.瀬戸 2003,p.129.したがって,1897年8月以後生まれ)
(42)Willig,Georg [二等兵,名古屋,p.65](1890年生まれ,1981年没.瀬戸 2003,p.134)
(43)Zach,Georg [二等兵,習志野,p.66](1893年生まれ.瀬戸 2001,p.138)
このようにして生年が明らかになった一等兵・二等兵は,43人である.
この43人と上記29人を合わせた72人を,一等兵と二等兵,現役と予備役とに区分してみる.その場合,「xx年頃生まれ」を便宜上,xx年生まれと見なすことにする.
第1に,現役一等兵は
1880年生まれのKörner,
1881年生のFranz,
1882年生のSyre,
1887年生のWeinholz,
1888年生のProtze,
1891年生のDaniel Schmidt(2701),Seeger,
1892年生のClaussnitzer,Georgi,Kluge,Lechner,Leipold,Schlotterbeck,von Tucher,
1894年生のHans Hansen,
1895年生のMatheisである.
現役一等兵16人の中で(i)最年長のKörnerと1888年生のProtzeについては,事情が不明である.二番目に年長のFranzは,日本収容中に日本企業を技術指導した染色技師である(1).Syreは20世紀初めから青島で建設工事に従事していた(2).Weinholzは,1911年に論文審査に合格した博士である.(ii)1892年生まれの現役一等兵は7人であり,2人は91年生まれであった.彼らが現役一等兵の基幹部分であった.(iii)94年生のHans Hansen,とくに95年生のMatheisは1914年の一等兵としては異常に若い.
第2に,現役二等兵は
1883年生まれのHamm,
1884年生のBohner,Paul Fischer(3317),
1885年生のDanielsen,Meissner,
1888年生のHaertle,Markel,
1889年生のGomille,
1890年生のBuech,Koeberlein,Spann,Thiele,Willig,
1891年生のBarth,Hasselbach,Kort,Stuhlsatz,
1892年生のJakob,Kardinal,König,Krüger,Kühne,Lehmann,Mailänder,Miedtang,Philipps,Puchert,
1893年生のCravatzo,Doert,Guenschmann,Ketel,Precht,Scoppwer,Temme,Zach,
1894年生のKley,v.d.Laan,Schillo,
1895年生のHellmuth,Hiller,Riedel,
1896年生のVogelfänger,
1898年生のKarl Schmidt(2713)である.
現役二等兵は合計43人に上った.(i)5人は1885年までに生まれていた.84年生のPaul Fischerについては事情が不明である.最年長,83年生のHammは,開戦直前まで日本で葡萄酒醸造技術を指導していた(3).84年生のBohnerは,1914年に論文審査に合格したばかりの博士である.1885年生のMeissnerは商社員として滞日8年を超えていた(4).Danielsenも香港の企業に勤務していた(5).(ii)1914年の召集に際して,1895年生の3人は通常の兵役年齢の20歳に達しておらず,96年生のVogelfänger,とくに98年生のKarl Schmidtは,さらに若かった(6).(iii)年長者5人と若年者5人とを除く現役二等兵,33人は88年から94年までの生まれであった.とくに,92−93年生まれは18人に達した.いくらか広げて,90−93年生まれを取ると,27人であった.
第3に,予備一等兵は
1887年生まれのHubbe,
1888年生のGrevsmühl,
1889年生のGoppelt,Oetmannである.
予備一等兵3人は年齢的に集中しており,しかも,現役一等兵の基幹部分(16人中9人が1891−92年生まれ)よりも年長であった.
第4に,予備二等兵は
1885年生まれのWolf,
1886年生のSteckelberg,
1888年生のLauenstein(階級は瀬戸 2001に従う),
1892年生のBlochbergerである.
予備二等兵の1人は現役二等兵の年齢別最大階層と同じ1892年生である.しかし,彼以外の3人は年長者であった.もちろん,この年齢層は現役二等兵にも含まれていた.
第5に,後備二等兵・国民軍二等兵は
1874年生のTreuke(国),
1877年生のBöhmer(後),
1887年生のKraus(後),
1889年生のJuchheim(国),
1898年生のHugo Walter(国)である.
後備二等兵・国民軍二等兵は,1898年生まれで非常に若い1人を除く4人が,89年までに生まれていた.しかも,他の階級の兵士には見られない70年代生まれが,2人もいた.
(注1)瀬戸 2001,p.76.
(注2)瀬戸 2003,pp.124-125.
(注3)瀬戸 2001,p.83;習志野収容所 2001,pp.8-9;習志野市史研究 2003,pp.54-55;瀬戸 2003,pp.64-65.
(注4)林 1993,p.160;板東収容所 2000,p.73;瀬戸 2001,p.104;瀬戸 2003,p.96.
(注5)瀬戸 2003,p.49.
(注6)1916年の松山収容所と1919年の板東収容所における捕虜の年齢別構成は,冨田 1991,pp.97,231に示されている.それによれば,階級は明らかでないけれども,松山収容所には1896年生まれが4人おり,板東収容所には1896年,97年,98年生まれがそれぞれ1人いた.最後者,98年生まれが両収容所において,最も若い捕虜であった.さらに,鳴門市史 1982,p.767を参照.
(4)捕虜総数および,本籍地がザクセン王国にある捕虜の人数
(A)捕虜総数
青島捕虜の総数について多くの説がある(1).瀬戸 2001と瀬戸 2003は史料館本俘虜名簿などを詳細に調査して,青島総督府民政長官オットー・ギュンター(2)の俘虜番号から青島捕虜総数を4,715人と判定した(3).ギュンターは1918年5月になって初めて青島から板東収容所に移送された.史料館本俘虜名簿にはギュンターの氏名が手書きで追記され,俘虜番号で最大の4715が彼に当てられている.俘虜名簿は捕虜の氏名と番号を具体的に示しているので,瀬戸の見解は最も信頼されうる.
資料的に確実なこの見解に基づいて,私が問題としたいのは,日本収容青島捕虜の総数である.これについても,瀬戸 2001と瀬戸 2003は具体的に俘虜番号を挙げている(4).それによれば,俘虜番号108と4659から4664までとの合計7人は青島と周辺で死亡し,4627は青島で逃亡し,4665から4673までの9人は,捕虜となったドイツ領南洋植民地で宣誓解放され,4687は最後まで青島に収容されていた,と.これを合計した18人は日本に移送されなかったことになる.したがって,青島捕虜総数4,715人からこの18人を差し引いた4,697人が,日本収容青島捕虜の総数となる.
人数だけなら,同じ数値が俘虜総員数表(1)から得られる.それによれば,「捕獲総数」は4,791人(うち墺洪軍307人)であった.この中の76人(うち墺洪軍2人)は英国引渡,9人は南洋解放,7人は青島死亡,1人は青島逃亡,1人は青島残留であり,その合計は94人となる.この94人を「捕獲総数」から除いた4,697人(うち墺洪軍305人)が,日本に移送された青島捕虜の総数である(5).英国引渡以外の特殊な捕虜は,区分も人数も瀬戸のそれと同一であり,瀬戸はこの18人を俘虜番号でもって示しているわけである.
以上から,日本収容青島捕虜の総数は4,697人である,と私は考える.4,697人以外の人数が日本収容捕虜総数として提示される場合には,根拠が具体的に示されるべきであろう.すなわち,総数がこの人数より少ない,と主張される場合には,これこれの氏名と番号の捕虜は,俘虜名簿あるいは収容換俘虜 1918などに記載された某収容所に,何年何月何日にいなかった,と実証される必要がある(もちろん,ペーベルとシュトランツについて本稿第1節(A)(i)(ii)で言及されたように,捕虜の国内移送は正確に追跡されるべきである).上記の数値よりも大きい捕虜総数が記される場合には,俘虜名簿に記録されていない,氏名と番号の捕虜が,某収容所に何年何月何日にいた,と証明されねばならない.
言うまでもなく,あの人数は日本収容青島捕虜の現員総数ではない.現員総数は一方では15年9月の国民軍兵士の収容などによって増加し,他方では日本国内での死亡,収容所からの逃亡,宣誓解放,早期解放などによって減少した.したがって,現員総数はしばしば変動したはずである.現員総数確定のための出発点は,「俘虜情報局月報」末尾の俘虜収容人員表の月末収容者総数であろう.
個々の収容所についても,正確な捕虜現員数の確定が期待される.このための出発点も「俘虜情報局月報」末尾の収容所別人員表であろう.私の知るかぎりでは,板東収容所の収容者数が最も詳細に調査・報告されている.鳴門教育大学 1990,第2章の表2は,板東収容所の開設から閉鎖に至る,約2年10ケ月の収容者数の推移を28時点で示す.この表は1人の増加あるいは減少も看過せず,異動には月のみならず,日も付記されている(6).板東収容所の現員数は常に1,019人であったかのように,記述されることがある.しかし,この数字は,板東収容所の新聞,『バラッケ』,の論文に19年1月1日現在として挙げられた収容者数である(7).したがって,あの人数は,時期の限定されない数字では決してない.
(B)本籍地がザクセン王国にある捕虜の人数
私はかつて俘虜名簿 1917からザクセン王国関係青島捕虜の検出を試み,その結果を松尾 2002(b),第1表「ザクセン王国に本籍地を持つ青島捕虜の一覧表(8)」として発表した.ザクセンの都市を,あるいは,ザクセンと追記して,村を,本籍地として申告した青島捕虜219人が,そこに表示されている.以下では,本籍地とされた集落をさらに検討して,同表を補正しよう.
第1.上記第1表中の2人の本籍地はライプツィヒ市近郊とされている.@第1表59のカルル・フックスの本籍地はFriedersdorfである.この名称の村はザクセン王国に5村あったけれども,いずれもライプツィヒから遠く離れていた(9).同市に近かったのは,プロイセン王国ザクセン州メルゼブルク県所在の村である(10).A同表113のフェリックス・リントナーの本籍地はKötschauとされている.同名の村はザクセン王国に存在せず,類似名称の村はライプツィヒから離れていた(11).したがって,問題の村はプロイセン王国ザクセン州メルゼブルク県所在の村であろう(12).
第2.第1表中の他の2人の本籍地はドレースデン近郊と記され,あるいは,地名にドレースデンと付記されている.しかし,第1表86のヴィリー・カーデンのTödenschenと同表216のマックス・ツィンメルマンのCrimmenhausenはドレースデン市の一部でも,ドレースデン近郊の村でも,ザクセン王国所在の村でもなかった(13).とくに,捕虜ツィンメルマンはザクセン王国出身者でも,ドイツ人でもなく,ポーランド人,ヤン・パポルチックであった(14).
第3.板東収容捕虜の故国住所録 1919の本国連絡先から,1人の本籍地はザクセン王国にあったと判断される.松尾 2002(b),第3表7のルードルフ・シューベルトである.俘虜名簿における彼の本籍地は単にOberplanitzであるが,彼の本国連絡先は故国住所録 1919にOberplanitz b.Zwickau/Sa. と記されている(15).この本国連絡先は本籍地と同名の集落であり,しかも,明確にザクセン王国ツヴィッカウ市近郊の村である.
第4.松尾 2002(b),第4表は,本籍地がザクセン王国にあった可能性のある青島捕虜28人を列挙した.このうち,本籍地とされた集落が明白にザクセン王国にのみあるのは,2人である.@第4表1のパウル・アメーターのSchoenbrunn/V.について,Schönbrunnはザクセン王国の4郡にあるけれども,フォークトラント地方(V.)に所在するのは1村だけである(16).A同表10のクルト・ゲオルゲのCainsdorfはザクセン王国以外には存在しない(17).
第5.ザクセンの村役場などに問い合わせて結果として,第4表の3人に関してザクセン王国出まれが確認された.@第4表5のパウル・ベームの本籍地はFreiburgとされている.フライベルク市立文書館からの回答によれば,カルル・パウル・ベームは1887年にフライベルク市で生まれ,1907年に徴兵され,68年にドレースデンで没した(18).したがって,俘虜名簿の本籍地FreiburgはFreibergの誤植である.A同表8のパウル・フィッシャー(番号3317)の本籍地はGrünauとされている.同名の村の一つは,ツヴィッカウ市立文書館によれば,現在ランゲンヴァイスバッハ村の一部となっている.ランゲンヴァイスバッハ村役場は,フリードリヒ・パウル・フィッシャーが1884年にザクセン王国ヴィルデンフェルス市で生まれ,1967年にグリューナウ村で没した,と教えてくれた(19).彼の家族は第一次大戦当時すでにグリューナウ村に移転していたので,彼は家族居住地を本籍地と申告したのであろう.なお,上記論文第1表54のパウル・フィッシャー(番号4147)は同姓同名の別人である.B第4表16のマックス・ミートタンクはマイセン郡文書館によれば,1892年にロッセン村(俘虜名簿の本籍地)で生まれ,1980年にロマッチュ市で没した(20).
以上の結果(マイナス2,マイナス2,プラス1,プラス2,プラス3)として,ザクセン王国の集落を本籍地とする青島捕虜は,221人となる.第4表になお残る23人によって,ザクセン王国を本籍地とする捕虜が最大で244人にまで増加する可能性が,ないではない.もちろん,この221人ないし244人すべてがザクセン王国出身者とは即断されえない.
本籍地を出生地とする青島捕虜の割合は,本稿第2節で65%と算出された.それから推論すると,上の人数,221人中の65%,すなわち,約144人の出生地は,本籍地とされる,ザクセン王国の集落である可能性が高い.残りの約77人の相当部分も,軍隊に召集された当時,本籍地とされる,ザクセン王国のその集落に居住していたであろう.あるいは,捕虜期間中に彼らの家族がそこに居住していたであろう.
(C)本籍地がザクセン王国にある板東収容捕虜の人数
ザクセン王国の都市を,あるいは,ザクセンと追記して,村を,本籍地として申告した板東収容捕虜は,松尾 2002(b),第2表「ザクセン王国に本籍地を持つ板東収容捕虜とその本国連絡先(21)」によれば,62人であった.同表の補正を試みる.
第1.同表が依拠した俘虜名簿 1917は,研究所本であった.しかし,同名簿刊行後の18年8月に90人が久留米から板東に移送された.同月以後のザクセン関係板東収容捕虜としては,収容換俘虜 1918と史料館本俘虜名簿に基づいて,松尾 2002(b),第1表の以下の4人が第2表に追加されるべきである.すなわち,士官のヴィルヘルム・コッペ(第1表5),下士官・兵士のパウル・クレプシュ(同表92),カルル・キューネ(同表103),ベルンハルト・ジーバー(同表173)である.
第2.本籍地の申告に際してザクセンを付記しなかったために,上記第1表,第2表に含まれなかった捕虜のうち,故国住所録 1919にザクセンの村を記し,その村が俘虜名簿の本籍地と同じである人が,1人いた.松尾 2002(b),第3表7のルードルフ・シューベルトである.彼についてはすでに本節(B)第3で言及した.
第3.本籍地の申告に際してザクセンを付記しなかったために,上記第1表,第2表に含まれなかった板東収容捕虜のうち,ザクセンのみにある村を本籍地とした人が,1人いた.松尾 2002(b),第4表1かつ第5表1のパウル・アメーターである.彼についても本節(B)第4@で言及した.
以上の結果として,本籍地がザクセン王国にある板東収容捕虜は,18年8月以前には64人(プラス1,プラス1)となり,同月以後には68人(64プラス4)となる.最大では,それはさらに1人(上記第5表2のアウグスト・シュミーデル)増加する可能性もある(22).それに加えて,松尾 2002(b),第3表5のマルティン・マイザーも注目される.彼の場合,俘虜名簿の本籍地は中国・青島であるけれども,故国住所録 1919の連絡先はLeipzig-Marienbrunnである(23).後者はライプツィヒ市域の一部である(24).マイザーの家族はライプツィヒに居住していた可能性が高い.もちろん,この68人(ないし69人ないし70人)すべてを,ザクセン王国出身者と即断することはできない.
上の68人中の65%,すなわち,約44人の出生地はおそらく,本籍地とされる,ザクセン王国の集落であろう.残りの約24人の相当部分も,軍隊に召集された当時,本籍地とされる,ザクセン王国のその集落に居住していたであろう.あるいは,捕虜期間中に彼らの家族がそこに居住していたであろう.
ところで,『バラッケ』の1論説は,出身邦(プロイセン王国に関してはさらに州)で分類した,19年1月1日現在の捕虜人数一覧表を掲げている.それによれば,ザクセン王国「出身者」は71人であった(25).この71人は,ザクセン王国に本籍地を持つ,と本節が明らかにした68人(ないし69人ないし70人)よりやや多く,私が推計したザクセン王国生まれの約44人よりも,遥かに多い.この不一致はなぜに生じたのであろうか.
(注1)松尾 2002(a),pp.7-8を参照.捕虜はドイツ国籍の軍人ばかりではなかった.@ドイツ国籍を持たない軍人も,含まれていた.後者は主としてオーストリア軍人(本節(A)の俘虜総員数表(1)で305人)であり,その多くはオーストリア軍艦,皇后エリーザベト号の乗組員であった.その他の軍人として,特殊な事情によって連合国側の国籍を開戦時にすでに持っていた人も,収容されていた.さらに,講和条約によって連合国側となった国・地域の出身者もいた.A軍人以外に,すでに本稿第1節(A)(iii)で言及したように,合計で約200人の官吏もいた.
(注2)ギュンターを貴族フォン・ギュンターと呼ぶ文献がある.しかし,ヴュルテンベルク州立シュトゥットガルト図書館によれば,彼の姓名はドイツ貴族系譜書,ゴータに記されていない.したがって,彼は貴族ではない.本稿第2節(B)C(7)を参照.
(注3)瀬戸 2001,pp.58-59,81;瀬戸 2003,pp.30,32.
(注4)瀬戸 2001,p.59;瀬戸 2003,pp.30,32-33(内訳は,青島から日本に移送された人4,688人,南洋諸島から日本に移送された人5人,日本国内などで捕虜となった人4人).
(注5)俘虜総員数表(1);冨田 1991,p.267.
(注6)鳴門教育大学 1990,p.82.
(注7)冨田 1991,p.100.なお,林 1993(p.29);板東収容所 2000(pp.22-23,25)などのように,調査期日,1919年1月1日を明示しない文献が,少なくない.
(注8)松尾 2002(b),pp.38-42.
(注9)Vgl.HOS 1957,S.16*.
(注10)Ritter 1905,S.748;ザクセン州立ライプツィヒ文書館回答.
(注11)Vgl.HOS 1957,S.28*.
(注12)Ritter 1905,S.1193;テューリンゲン州立中央文書館回答.
(注13)Vgl.HOS 1957,S.29*,55*;Stimmel 1994,S.426,507;ドレースデン市立文書館回答.
(注14)彼はユーラシア大陸の諸処を放浪した後,青島の海兵大隊に入隊した.林 1993,p.134;瀬戸 2001,p.138;瀬戸 2003,p.136.
(注15)Heimatsadressen 1919,S.41.
(注16)Ritter 1906,S.812;HOS 1957,S.50*.
(注17)Ritter 1905,S.384,1094.ただし,Cainsdorfではなく,Kainsdorfである.
(注18)本稿第2節(D)@(4).
(注19)本稿第2節(D)A(3).
(注20)本稿第2節(D)@(25).――青島捕虜の中の,本籍地がザクセン王国にある人,および,ザクセン出身者・関係者,10人に関して,以下を追記する.(i)松尾 2002(b),第1表81のクルト・ヒラーについて,本稿第2節(D)@(13)を参照.(ii)第1表187のヨハネス・ティーレについて,本稿第2節(D)@(30)を参照.(iii)第1表2かつ第2表2のアルトゥル・ゲプフェルトについて,本稿第2節(C)@(2);松尾 2004(b),第2節(2)を参照.(iv)第1表44かつ第2表12のパウル・エンゲルはドレースデンを本籍地としている.しかし,彼とザクセンとの関連を私はまったく立証できなかった.松尾 2004(b),第3節(II)を参照.(v)第1表8かつ第2表3のヴァルター・シュテヒャー(1907−09年に日本派遣士官)について,本稿第2節(C)@(6)を参照.なお,彼の妻クレールは1919年に上海で子供(1男1女)と暮らしており,夫と同じ船での帰国を希望していた.小幡公使 1919;解放後俘虜 1919;瀬戸 2003,p.122.(vi)第1表37かつ第2表10のフランツ・クラウスニッツァーについて,本稿第2節(D)@(5)を参照.(vii)第1表111のオットー・レーマンについて,本稿第2節(D)@(19)を参照.(viii)第1表197かつ第2表の55のクルト・フェッターについて,本稿第2節(D)B(2)を参照.(ix)ヨハネス・ユーバーシャールは,本籍地がヴェストファーレン・ボーフムとされているので,松尾 2002(b),第1表に掲げられなかった.しかし,彼の生地はマイセン市である(1885−1965).本稿第2節(A)A(3)を参照.(x)ジークフリート・ベルリーナーはハノーファー(本籍地)で生まれた.彼は第一次大戦の前と後にそれぞれ数年間,東大で教え,1927年にライプツィヒ商業大学教授となった(1884−1961).本稿第2節(A)@(2)を参照.
(注21)松尾 2002(b),pp.47-48.
(注22)松尾 2002(b),第5表2のA.シュミーデルは第4表21の人物でもある.その本籍地は単にシェーンフェルトとされている.この名称の村はドイツで珍しくなく,ザクセン王国にも7郡にあった.
(注23)Heimatsadressen 1919, S. 30. そこの記事によれば,彼の勤務先は独亜銀行青島支店であった.
(注24)ザクセン州立ライプツィヒ文書館回答;松尾 2002(b),p.50.Vgl.HOS 1957,S.34*.なお,マイザーについて,瀬戸 2003,p.96を参照.
(注25)冨田 1991,pp.98,100.さらに,林 1993,p.29;板東収容所 2000,p.25を参照.