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<資料>
4人の板東収容青島捕虜
松尾展成
『岡山大学経済学会雑誌』,36巻1号(2004年6月)所収;2004年6月加筆
(1)日独交流のパウル・クライ
(2)士官アルトゥル・ゲプフェルトと兵士フリードリヒ・ゴッペルト
(3)指揮者パウル・エンゲル
(4)引用文献目録
Vier deutsche Tsingtau-Kämpfer und Japan-Gefangene im Lager Bandou Nobushige Matsuo
(1)Paul Kley, der Deutschland an Japan anband
(2)Offizier Arthur Goepfert und Soldat Friedrich Goppelt
(3)Dirigent Paul Engel
(4)Literaturverzeichnis
私は海兵第2中隊二等兵パウル・クライの略歴を松尾 2002(c),p.59; 松尾 2002(d),p.116に書いた.また,士官アルトゥル・ゲプフェルトと指揮者パウル・エンゲルの略歴も書いた.本稿は,その後に入手した資料に基づいて,旧稿を全面的に書き改めたものである.
(1)日独交流のパウル・クライ
クライは俘虜名簿によれば,まず丸亀俘虜収容所に,後には板東に収容された.彼の本籍地はテューリンゲンのヴァルタースハウゼンであった(1).それに対して,故国住所録 1919は彼の本国連絡先をテューリ<ンゲン>,プラウ,獅子亭と記している(2).
林 1993は,クライが1982年にリューデンシャイトで林に語った回想を記している.クライは,ポーランド国境に近いゴータの町で,1894年に生まれた.1911年に植民地勤務の海軍師団に応募した.14年1月にハンブルク港からアメリカ航路の旅客船で青島に向かった.青島で訓練を受けた.青島降伏の前日に負傷した.捕虜として丸亀に送られた後,病院でしばらく療養した.板東最後の1年間には収容所の外で働くことが許された.解放されて,豊福丸で帰国した.それから20年後に警察学校に入学し,ヴィルッブルクの保安警官となった.第二次大戦で再び戦場にかり出され,敗戦のためにソ連軍の捕虜となった.死刑判決を受け,バウツェン収容所で9年間を過ごした.「大阪万博の年,フランクフルト・バンドー会[元板東収容捕虜の団体]のライポルト氏(3)と板東へ行き,長年の夢が果たせた」.「捕虜も今は私と寝たきりのゴッペルトさんの二人切りとなってしまった(4)」.
さらにクライは林にこうも語った,と横田 2002は林の旧著を引用している.板東でベートホーフェンの第九交響曲が演奏されたとき,自分は「18歳で」,「エンゲル楽団の・・・使い走りをやっていた」.「ハンゼン[指揮]の『第九』の反響」は「すごかったなぁ.最後は全員の大合唱になり,泣き出す者も出る始末だった.・・・あまり板東での反響が大きかったので,久留米でも少し遅れて『第九』をやったそうだ.久留米にはレーマン(5)という優秀な指揮者がいたからな(6)」.
以上のように林に話してから10年後の92年に,「<板東収容所>最後の生存者」クライは97歳で没した(7).
リューデンシャイト市の市民部と市立文書館からの回答によれば,パウル・クライはヴァルタースハウゼン市で1894年7月1日に生まれた.この都市は現在テューリンゲン州に所属するが,当時はザクセン=コーブルク=ゴータ公国に属していた.板東収容捕虜エドゥアルト・ライポルトの出生地コーブルクも,同じ公国に属していた.そして,クライはノルトライン=ヴェストファーレン州リューデンシャイト市で1992年5月11日に没した(8).クライと同年に生まれた人は,板東収容捕虜の中で4番目に多い集団(1890年生まれと同数)で,1919年初の収容者1,019人中の6%であった(9).
クライについてリューデンシャイト市立文書館に何度か問い合わせていると,同文書館は,クライに関連する,1956−88年の地方新聞の記事のコピーを,数回に亘って,送ってくれた(10).私の関心を惹いた記事の内容を,順不同に紹介する.
(i)日独戦争による青島捕虜は約4,700人であった(11).
(ii)クライは,19歳であった1913年10月に,第3海兵大隊の定期交替のために部隊の仲間とともに輸送船パトリツィア号でクックスハーフェンを出発した.彼らは青島で訓練を続行した.青島攻防戦でクライは負傷し,捕虜となった.日本人は板東収容所で捕虜を人道的に,あるいは,友人のように取り扱った.捕虜たちは庭畑を設け(あるいは,畑にトマトと玉葱を植え),鶏と兎を飼い,道路,橋と記念碑を作り,1合唱団,1管弦楽団を創設した.彼らはまた,さまざまな言語,数学,一般教養,各種楽器の本格的な講習を受けた.収容所の規則は時とともに緩和された.捕虜たちは周辺の諸都市を訪れ,人々と接触し,祭に参加した.あるいは,日本人とお茶を飲み,話をした.ドイツ軍士官は日本軍士官と定期的にお茶を飲み,話をした(12).
(iii)板東島のドイツ捕虜は日本人に野菜栽培,畜産と音楽を教えた(13).
(iv)板東収容捕虜は,日本に従来なかった酪農場<ドイツ牧舎のことである>を建設した(14).
(v)板東の捕虜たちは19年のクリスマスに解放された.神戸で豊福丸に乗船し,上海・スマトラ経由でヴィルヘルムスハーフェンに到着した(15).
(vi)第二次大戦期になると,クライは39年に対ポーランド作戦のために召集され,翌年に除隊となった.彼は41年に警察にはいり,東部のビャウィストック市<ポーランド東北部ヴォイェヴツトフォ県>などで勤務した.敗戦後,彼は何度も逮捕・脱出を繰り返して,出身地ヴァルタースハウゼンに戻ってきた.しかし,しばらくして同市がロシア<ソ連>軍に占領されると,クライは逮捕された.彼は46年に死刑を判決され,後に25年の懲役刑に減刑された.彼はまずヴァイマル市<現テューリンゲン州>の収容所に抑留され,間もなくバウツェン市<現ザクセン州>の収容所に移された.この収容所は50年までロシアの,以後はドイツ民主共和国人民警察の管理の下にあった.彼は最後の受刑者の一人として56年に釈放され,子供たちの住むリューデンシャイトに定住した(16).
(vii)ドイツ連邦共和国に生き残っている,かつての青島戦士は現在<1969年>約120人で,今も定期的に会合を開いている(17).
(viii)クライは,収集してきた,多くの青島関係資料を米国・カリフォルニアのH.バーディック教授に,教授のドイツ植民地史の著作のために提供した(18).
(ix)クライは長年の夢をようやく70年に実現させた.彼は戦友ライボルトとともに,かつて青島捕虜を人道的に処遇してくれた板東収容所を再訪したのである.2人は板東で非常な歓迎を受け,記念碑に花を捧げ,多くの旧友と再会した.当時収容所に毎朝やって来ていた牛乳屋<ドイツ牧舎の船本宇太郎>は,今では老人となっていた.捕虜たちが建設した酪農場<ドイツ牧舎>は,なお残っていた.彼らが作った橋は,ドイツ橋と名付けられていた(19).
(x)板東には1「収容所管弦楽団」があった.南ドイツ出身のパウル・エンゲルによって指揮された,この楽団は,日本人に多くのことをした.初めてシュトラウスのワルツや喜歌劇,「白馬亭にて」を日本人に聞かせた.その頂点がベートホーフェンの第九交響曲であった.「第九」が日本で再演されたのは,7年後の東京においてであった.今日の日本で「第九」は国歌と同じほど好まれるようになっている(20).
(xi)エンゲル指揮・板東「収容所管弦楽団」は「第九」を日本で初めて演奏した.クライは今ではそれの唯一の証人である.「第九」演奏のような,当時の出来事を彼は今もはっきりと記憶している.現代の日本で「第九」は国歌と同じほど好まれている(21).
(xii)今日では年末に「第九」が日本中で鳴り響く.「第九」を日本人のために日本で初めて演奏したのは,南ドイツ出身の指揮者エンゲルと板東「収容所管弦楽団」であった.このとき日本人は嬉し泣きした.クライはあの合唱団の一員であった.彼は今ではこの演奏会の唯一の生存者である.彼は当時のすべてを今も鮮明に記憶している.彼は「第九」の日本初演の際の,ジュッターリン書体で書かれたプログラムと歌詞を,今も保存している(22).
これらの新聞記事の内容は非常にきわめて興味深いが,記事に誤りも少なくない.順不同に書き出してみる.
(1)日本軍士官の大部分はドイツ(あるいはプロイセン)で教育を受けていた(23)こと.――板東収容所所員たる士官の中に,ドイツ留学経験者は全くいなかった.
(2)捕虜収容所は板東島にあった(24)こと.もちろん,板東が島にあった,との誤解はすべての記事に記されているわけではない.四国島の板東との表現はしばしば用いられている.
(3)クライは第一次大戦中に1年間,オサカ(25)の収容所に収容されていた.一人の元捕虜の遺族は当時の写真アルバムを,一日本人写真家を通じてオサカの博物館,「ドイツの家」に提供した(26).――オサカの博物館,「ドイツの家」が鳴門市ドイツ館(1972年開館)を指すとすれば,オサカは大麻の誤記であろう.クライの板東収容期間は1年ではなく,2年半余りであった.
(4)ハンブルクに勤務する日本人,フジイ ヒロシ<藤井 寛>は,徳島市のドイツ博物館のためにクライから話を聞いた(27).――徳島市のドイツ博物館は鳴門市ドイツ館であろう.
(5)クライは捕虜として板東収容所で6年間を過ごした(28).あるいは,クライと戦友は最初から板東収容所に収容された(29).――クライたちの板東収容期間は上記のように2年半余りであり,日本収容期間は通算して,5年余りである.
(6)クライは初めは板東収容所にいたが,最後の2年間は丸亀の臨時収容所で過ごした(30).――収容所の順序が逆である.
(7)板東で喜歌劇,「白馬亭にて」が上演された(31).――ラルフ・ベナツキー作曲の喜歌劇,「白馬亭にて」が初演されたのは,第一次大戦終結よりも後の1930年である.それに対して,戯曲,「白馬亭にて」はブルーメンタールとカーデルブルクによって1898年に合作された(32).したがって,新聞記事では戯曲と喜歌劇が混同されている.
(8)寺院の前で撮影された,1枚の写真がKriegsgefangener 1987に添えられている.これは,林 1993,p.97の写真と同じものである.新聞記事には,「第九」を演奏した楽長パウル・エンゲルと楽団員・合唱団,という説明の他に,天蓋の卍は日本の一貴族の家紋である,との解説も加えられている.しかし,丸に卍は仏教寺院の紋章である.もっとも,新聞のこの説明は,紋章がナチスの鉤十字とは無関係,との暗示であるかもしれない.
(9)クライが資料を提供した,と述べているH.バーディック教授は,林 1982の原本の著者,チャールズ・B.バーディック教授であろう.
(10)クライは70年に戦友ライボルト(Leybold)とともに板東を再訪した.板東のドイツ人記念碑を長年守ってくれた日本女性は,名前をタカハシ カゾという(33).正しくは戦友はライポルトであり,「ドイツ兵士の墓」の墓守は高橋春江である.
私は,新聞記事の誤りを指摘する手紙を書いて,リューデンシャイト市立文書館に送った.
リューデンシャイトで82年にクライが林に語った,とされる事柄(林の旧著を引用した横田 2002を含む)のいくつかも,ドイツ語新聞記事や上記の事実と一致しない.
(a)林によればクライは,ポーランド国境に近いゴータの町で生まれた.新聞記事によれば,クライの生地はヴァルタースハウゼンであった.これはリューデンシャイト市の市民部と市立文書館の回答からも明らかである.彼の生地は俘虜名簿の本籍地でもある.ヴァルタースハウゼン市もゴータ市(現テューリンゲン州)も,ポーランド国境から近くなかった.両者の間には,クライの出生当時にはザクセン王国とプロイセン王国シュレージエン州が広がっており,1982年で見ても,ライプツィヒ県とドレースデン県があったからである.
(b)林によればクライは,14年1月にハンブルクからアメリカ航路の旅客船で出港した.新聞記事によれば,彼がドイツを出発した時期は,13年10月で,出港地はクックスハーフェンであり,船はパトリツィア号であった(34).
(c)林によればクライは,板東から帰国して20年後に,警察学校に入学し,保安警官となり,第二次大戦で再び戦場にかり出された.新聞記事とは前後が逆である.また,林がクライの勤務地としたヴィルッブルクの所在を,私は確認できなかった.新聞記事にある警察勤務地は,現在のポーランド・ビャウィストック市であった.
(d)新聞記事ではクライの回想の起点は,青島向けにクックスハーフェンを出航した13年10月であり,林に話した,という11年海軍師団応募は語られていない.クライより2年前に生まれた,久留米のオットー・レーマンは,音楽学校学生であったために,2度の召集延期後,13年10月に海兵に入隊した.クライと同年生まれのハインリヒ・ファン=デア=ラーン(35)は膠州総督の召集令によって14年8月に青島に赴いて,入隊した.彼は前年に本国から日本への渡航を認められていたのである.しかも,14年11月の青島要塞陥落時点でクライはレーマン,ラーンやペーター・シロ(クライと同年生まれ.松尾 2004(a),第3節(32)参照)と同じように二等兵であった.入隊が12年9月以前ではなく,12年10月の可能性が高い(36)フランツ・クラウスニッツァーは,14年7月にすでに一等兵に昇進していた.
(e)最も大きな問題は,板東の管弦楽団とベートホーフェンの「第九」に関連する.@林によれば,<ヘルマン・>ハンゼン指揮の管弦楽団が「第九」を板東で演奏した,とクライは82年に語ったという.演奏会場は板東収容所内であった(37).したがって,聴衆に日本人は含まれず,「最後は全員の大合唱」の全員はドイツ兵だったはずである.ところで,板東における「第九」演奏会プログラムの発見は,78年の冨田論文で報告された(38).その著者冨田とともに林は鳴門市ドイツ館でこれを発見したのであった(39).プログラムによれば指揮者はハンゼンで,「徳島管弦楽団」が演奏した.Aそれに対して,新聞記事によれば,板東には「収容所楽団」の1楽団があっただけである.「第九」日本初演の指揮者は,83年の2記事でも87年の記事でも,パウル・エンゲルであった.87年の記事には,寺院の前で撮影された写真に,「第九」を演奏した楽長エンゲルと楽団員・合唱団,という説明も付けられていた.「第九」を聴いて,「日本人は嬉し泣きした」.他方では,指揮者ハンゼンも「徳島管弦楽団」も,新聞記事のクライ談話には一度も言及されない.また,エンゲル指揮「第九」演奏会のプログラムもまだ発見されていない.クライの遺品はリューデンシャイト市立文書館によれば現在,所在不明である.彼が所持していた,板東の「第九」演奏会プログラムを手に取って,指揮者と演奏団体を確認することは,現状では不可能である.クライは82年に林に対して(40),板東の「第九」指揮者をハンゼン,演奏団体を徳島管弦楽団と明言したのであろうか.
(注1)俘虜名簿 1915,p.30[丸亀.「Lüdenscheid」の追記あり];俘虜名簿 1917,p.31[板東].
(注2)故国住所録 1919,S.24.ただし,そこに記されたプラウは,テューリンゲンにはなかった.テューリンゲンにあったのはプラウエ村である.Ritter 1906,S.565.
(注3)故国住所録におけるライポルトの本国連絡先はコーブルク近郊ウンターラウターであった.故国住所録 1919,S.28.ライポルトはフランクフルト・バンドー会を組織して,板東と旧板東収容捕虜との交流に尽力し,1970年に板東を再訪した.林 1993,pp.156,158,174-176,188-189;板東収容所 2000,pp.80-81;瀬戸 2001,p.100[大阪→徳島→板東].ウンターラウターはラウタータールに合併された.ラウタータール村役場を通じて届けられた,エドゥアルトの娘,リスベート・ライポルト夫人の書簡によれば,エドゥアルト・ライポルトは1892年にウンターラウター村[俘虜名簿の本籍地]で生まれ,1978年にコーブルク市(バイエルン州)で没した.松尾 2004(a),第2節(D)@(20)を参照.――ライポルトのような1892年生まれは,板東収容捕虜の中で最も多い年齢層であった.19年初の収容者1,019人中17%である.鳴門市史 1982,p.767;冨田 1991,p.97から計算.同じ1892年生まれの青島捕虜兵士について,松尾 2004(a),第3節末尾を,同年生まれの捕虜のうち板東のクラウスニッツァーについて,本節(注13)を,久留米のレーマンについて,本節(注5)を参照.
(注4)林 1993,pp.156-158,171,175-177.
(注5)久留米「収容所楽団」指揮者オットー・レーマン(1892−1971)について,松尾 2002(d),pp.116-122;松尾 2003(a),pp.39-57;松尾 2003(b),pp.75-104;瀬戸 2003,pp.90-91;松尾 2004(a),第2節(D)@(19)を参照.
(注6)横田 2002,p.53.ただし,クライは,1894年7月に生まれたので,板東に移送された1917年4月には,すでに23歳目前であった.また,久留米収容所では19年12月に「第九」の全曲が演奏された.それを指揮したのは,クライが示唆するレーマンではなく,ゲオルク・フォン・ヘルトリンク男爵と推定されている.その直前に久留米高等女学校で「第九」の第2−3楽章を指揮したのも,ヘルトリンク男爵であろう.瀬戸 2001,p.86;横田 2002,pp.118-119,123;久留米収容所 2003,p.83.ヘルトリンク男爵について,冨田 1991,p.76;久留米収容所 1999,pp.13-14,42-75;津村 2000,p.45;瀬戸 2001,p.86[久留米];横田 2002,pp.101,103-104,106-108,110,116,118-119,121,123;久留米収容所 2003,pp.40,42,47-83;松尾 2003(a),pp.44,63;松尾 2003(b),pp.76,85,93-94;瀬戸 2003,p.71;松尾 2004(a),第2節(B)A(5)を参照.――横田 2002, p. 118は19年9月29日の演奏会の指揮者をヘルトリンクとしているが,それはカルル・フォークトであった.久留米収容所 1999,p.72;久留米収容所 2003,p.79.戦前にも戦後にも日本で弁護士として活動し,東京で没したフォークト(1878−1960)について,瀬戸 2001,p.131[熊本→久留米];横田 2002,pp.101-102,116;久留米収容所 2003,pp.62,153-154;松尾 2003(a),pp.47,69;瀬戸 2003,p.129;松尾 2004(a),第2節(A)@(12)を参照.フォークトは18年7月に久留米で,第4楽章を除く「第九」演奏を指揮した.日本居住許可俘虜 1920は彼を,「一般帰還船出発前予メ日本ニテ解放者」としている.
(注7)林 1993,p.176.さらに,板東収容所 2000,p.81;瀬戸 2001,p.94[丸亀→板東];瀬戸 2003,pp.78-79;松尾 2004(a),第2節(D)@(15)を参照.
(注8)リューデンシャイト市市民部回答;リューデンシャイト市立文書館回答.
(注9)鳴門市史 1982,p.767;冨田 1991,p.97から計算.なお,クライと同年に生まれた板東収容捕虜として,ファン=デア=ラーンがいた.本節(注35)を参照.
(注10)これらのコピーは私から鳴門市ドイツ館に寄贈された.
(注11)Reporter aus Japan 1986.
(注12)Untergang von Tsingtau 1969;Tsingtau-Veteran 1983;Beethovens Neunte 1983;Kriegsgefangener 1987.以上の記事はすべて,板東に1「収容所管弦楽団」が創設された,と述べている.
(注13)Musik und Liebe 1983.――板東の「ドイツ牧舎」を指導したフランツ・クラウスニッツァー(1892−1955)について,松尾 2002(c);松尾 2002(d);瀬戸 2003,p.48;松尾 2004(a),第2節(D)@(5)を参照.
(注14)Kriegsgefangener 1987.
(注15)Untergang von Tsingtau 1969.
(注16)Von Bautzen nach Lüdenscheid 1956.――クライと似通った体験をした捕虜がいた.「ドイツ牧舎」の指導者クラウスニッツァーである.第3海兵大隊第2中隊,丸亀収容所,板東収容所,第二次大戦後のバウツェン収容所が両人の共通項である.
(注17)Untergang von Tsingtau 1969.
(注18)Untergang von Tsingtau 1969.
(注19)Altes Gefangenenlager 1970.ドイツ牧舎が乳牛の飼育を停止したのは,78年であった.松尾 2002(c),p.58.
(注20)Beethovens Neunte 1983.新聞記事は板東における「第九」全曲演奏の期日を,以下の(i)(ii)を除いて,述べていない.(i)演奏時にクライが18歳であった,という記述.その誤りはすでに本節(注6)で指摘した.(ii)「第九」が日本で再演されたのは,7年後の東京であった,という記述.東京での初演は24年11月であった.林 1993,p,93;横田 2002,p.239.それから逆算すると,板東での演奏は17年ということになる.それに対して,ヘルマン・ハンゼン指揮の「第九」初演は1918年6月であった.冨田 1991,p.172;林 1993,pp.92,212;板東収容所 2000,p.103;瀬戸 2001,p.83;横田 2001,p.46.また,久留米収容所でもすでに19年12月に「第九」が全曲演奏された.久留米収容所 1999,pp.76,78;瀬戸 2001,p.86;横田 2001,pp.118-119;久留米収容所 2003,pp.41,83;瀬戸 2003,p.71.
(注21)Japaner und die Neunte 1983.この記事より1年前のFernsehteam 1982には,次のように記されている.約60年前にドイツ人たちは板東収容所で「第九」を日本で初めて演奏し,クライもそれに参加した.板東にいた捕虜の中で,2人だけが存命である.1人はミュンヒェン近郊にいる.クライは板東のあの演奏会を良く記憶している.――記事で述べられている存命者は,クライとフリードリヒ・ゴッペルトのことであろう.ゴッペルトについて,本稿第2節(IV)を参照.
(注22)Kriegsgefangener 1987.
(注23)Untergang von Tsingtau 1969;Altes Gefangenenlager 1970;Letzter Veteran 1984.なお,Kriegsgefangener 1987の表現では,日本人<軍人>の多くは,プロイセンの教官から指導されていたので,ドイツ人に恩がある,と感じていた.
(注24)Musik und Liebe 1983.
(注25)クライが大阪収容所に収容されたことはない.瀬戸 2001, p. 100; 瀬戸 2001, p. 79を参照.なお,Letzter Veteran 1984とKriegsgefangener 1987には,「オアサ」市の近くの板東収容所,という表現もある.これは大麻であろう.
(注26)Erinnerungen 1985.そこには次の文章も記されている.かつてのドイツ人捕虜ヘルムート・シュルツェ(Schürze)は91歳で,現在も日本で健在である,と.しかし,これに該当する青島捕虜は,士官にも下士官・兵士にもいなかった.俘虜名簿 1917,pp.3-4,55を参照.このシュルツェの姓がSchulzeの誤植であるとすれば,後者は,俘虜名簿 1915,p.53[大阪];俘虜名簿 1917,p.55[似島]に記載されている海兵第6中隊1年志願兵ヘルムート・シュルツェであろう.彼の本籍地は中国・天津である.瀬戸 2001,p.121[大阪→似島]を参照.そして,日本居住許可俘虜 1920は彼を「日本内地契約成立者」の1人としている.しかし,彼は武内 1995に記載されていない.武内 1995,p.696を参照.
(注27)Reporter aus Japan 1986;In diesem Kreise 1986;Glückwünsche 1987.ドイツ在住のフリーカメラマン藤井寛について,四国新聞,1986年10月9日の記事,「70年ぶりドイツ新聞紙発見 丸亀の元俘虜収容所」[丸亀ドイツ兵俘虜研究会教示]を参照.
(注28)Tsingtau-Kämpfer 1972(クライは1919年のクリスマスにドイツに到着した,とも記されている.これは誤りである);Fernsehteam 1982;Beethovens Neunte 1983;Letzter Veteran 1984.
(注29)Kriegsgefangener 1987.
(注30)Reporter aus Japan 1986.この記事は,クライのいた収容所に,1管弦楽団があり,これが「第九」を極東にもたらした,と書いている.そのために,「第九」の日本初演の場所は板東に限定できなくなる.クライの収容所は板東→丸亀とされているからである.――丸亀の臨時収容所は現存している,と記事本文に記され,写真が付けられている.約70年前の丸亀臨時収容所への道,と題する写真である.広い道を散歩する,多くの人々が写っており,背景に大屋根が見える.この建物は西本願寺塩屋別院[丸亀ドイツ兵俘虜研究会教示]であろう.
(注31)Beethovens Neunte 1983.
(注32)音楽大事典 1983,p.2276;津村 2000,p.41.
(注33)Altes Gefangenenlager 1970.
(注34)久留米「収容所楽団」指揮者オットー・レーマンの軍歴手帳と履歴書によれば,レーマンは14年1月に,パトリツィア号でクックスハーフェンから青島に向かった.このパトリツィア号はドイツ帝国海軍の輸送船であった.松尾 2003(a),第3節(4)(6).海兵二等兵のエーリヒ・ドアートも14年1月に,パトリツィア号で青島に赴いた.瀬戸 2003,p.50.膠州砲兵大隊下士官カルル・クリューガーは14年2月末に,ハンブルク=アメリカ汽船会社のパトリツィア号で青島に赴いた.瀬戸 2003,pp.84-85.なお,クライがハンブルク港からアメリカ航路の旅客船で青島に向かった,との林の記述は,ハンブルク=アメリカ会社の船で青島渡航,の意味ではなかろうか.
(注35)H.ファン=デア=ラーンは1913年に,神戸で商会を経営する叔父,ハンス・ラムゼーガーに誘われて,来日した.ラーンは解放・帰国後,再び来日して,貿易に従事し,1964年に神戸で没した.瀬戸 2001,p.99[松山→板東];瀬戸 2003,p.88;松尾 2004(a),第2節(D)@(18).故国住所録 1919,p.27では,彼の所属は神戸・ラムゼーガー商会で,本国連絡先はエムス河畔ヴェーナーであった.なお,H.ラムゼーガーの交響詩,『忠臣蔵』とその初演について,本稿第3節(I)(A)を参照.
(注36)松尾 2002(d),pp.103-105を参照.
(注37)林 1993,p.212の1918年6月1日の項.さらに,横田 2002,pp.52-54を参照.膠州砲兵大隊軍楽隊長・下士官ヘルマン・ハンゼン(1886−1927)について,故国住所録 1919,S.17;鳴門市史 1982,pp.752-754,758-759,761-762;冨田 1991,pp.166-172;林 1993,pp.93-95,117;板東収容所 2000,pp.41-42;瀬戸 2001,p.83[大阪→徳島→板東];横田 2002,pp.62-67;瀬戸 2003,p.66;松尾 2004(a),第2節(D)@(12)を参照.
(注38)冨田 1991,pp.vi,172;中野 1996,p.336を参照.
(注39)林 1993,p.93.
(注40)この会談についてドイツ語新聞は次のように報道した.<西>ドイツ政府から招待された著述家ハヤシ ケイスケ<=林啓介>は,マサダ タカシなどの日本のテレビ撮影チームを伴っていた.彼らは,同行するドイツ外務省の通訳とともに,西ドイツの数都市を訪問し,最後にクライを訪ねた,と.Fernsehteam 1982.ただし,この記事は板東の「第九」指揮者名を明示していない.
(2)士官アルトゥル・ゲプフェルトと兵士フリードリヒ・ゴッペルト
私はかつて松山・板東収容の士官アルトゥル・ゲプフェルトの略歴を書いた(1).本節は,その後に入手した資料に基づいて,旧稿を全面的に書き改めたものである.
(T)林啓介の「ゴッペルト」
林啓介は1982年にミュンヒェンで「ゴッペルト」に面会した.このとき94歳であった「ゴッペルト」は,板東収容所時代を次のように回想した.「海軍士官だった私は,バンドーで鶏と豚を飼育していた.競歩大会や水泳大会にも出場したが,日本人の盛んな声援には胸が熱くなったものだ」,と.また,林が同じ82年にリューデンシャイトで会ったパウル・クライは,「寝たきりのゴッペルトさん」について語った,という(2).
林の聞き取りによれば,「ゴッペルト」は士官であった.そこで,「ゴッペルト」と発音する,あるいは,発音がそれに似た板東収容士官を,俘虜名簿 1917で探してみる.それに該当するのは,アルトゥル・ゲプフェルトだけである.彼の階級は予備少尉,所属は海兵・工兵中隊,収容所は板東,「本籍地」はエルツゲビルゲ・アナベルクである(3).俘虜名簿 1915の記載(4)も,収容所が松山となっている以外は,同じである.
故国住所録 1919に予備少尉A.ゲプフェルトの項がある.彼の本国連絡先はドレースデンの教授ゲプフェルト博士である.多くの板東収容捕虜は上記住所録に青島での所属部隊を示しているけれども,ゲプフェルトのその欄は,東京,となっている(5).
(II)士官アルトゥル・ゲプフェルト
士官ゲプフェルトは,松山・板東収容捕虜の中で名を相当に知られており,日本語文献・資料でゲッペルト,ゲップフェルト,ゲッフェルト,ゲップルト,ゲップヱルトと表記されている.
(1)才神 1969によれば,(松山)来迎寺収容の捕虜ゲッペルトの妻,カンニー,28歳は,1年余り前から東京市麻布区新竜土町に住んでいた.彼女は5歳の娘,ガッスホウを連れて,15年1月2日午後,来迎寺に面会に来た.「五時間あまりの面会はたちまち終わった.・・・翌日,カンニーはふたたび収容所へ会いに行ったが,面会証は一回だけのものであった」.収容所当局は彼女の二度目の面会を拒否した.来迎寺の「住職は,気晴らしにと,彼女を連れて城山に登った.・・・彼女は,景色などは見ようともせず,・・・山裾に建っている来迎寺収容所を眺め入っているだけであった.目がしらを抑えていた白いハンカチを,思わず振った」.「夫のゲッペルトは,妻が城山に登ることを知っていて,庭に長椅子を持ち出し,腰を据えて,双眼鏡で見守っていた・・・」.「数日後,カンニーの友だちのエロークが,旅のついでに立ち寄った」.面会許可証を持っていなかったエロークを,「カンニーは城山へ案内した」.「エロークは,来迎寺収容所に向かって,用意してきた赤い旗を,しきりに振って合図した」.「城山を望む双眼鏡のゲッペルトは,干してあった敷布をとりはずし,これを振って応えた」.その後,「カンニーの面会について,陸軍大臣から送ってきた指令書には,ときどき面会を許可する旨が明記されていた(6)」.この文章から,ゲプフェルトの妻は1913年末頃から東京に住んでいたことが判る.
(2)冨田 1991によれば,ゲップフェルトは松山時代に代数と力学を捕虜に講義し,日曜講演会で鉄の製造と整形作業について講話した(7).ゲプフェルトは自然科学・工学に通じていたわけである.
(3)鳴門市史 1982は,板西警察分署警備警察官出張所の警備日誌,「雑書編冊」に基づいて,次のように記している.板東収容所の開設から程ない(17年)4月30日に,「徳島市大滝山に居住している准士官バルクホーンの妻ハンナと,工兵少尉ゲッフェルトの妻オーリー」が「第二・第三の面会人」として来訪した.「いずれも以前の居留地の青島から捕虜の夫を追ってきた(8)という.町民たちは初めて見る異国の女性に目をみはり<,>子どもたちはものめずらしそうにゾロゾロと付いてまわった・・・(9)」.この資料によれば,ゲプフェルトの妻は板東収容所の開設直後にすでに徳島市に居住していた.
士官ゲプフェルトに関して,さらに次の事実が明らかになる.
(a)松山俘虜収容所日誌によれば,彼の妻「オリー」は15年1月3日から17年4月3日までしばしば夫と面会した.彼女は二等兵「ワルタードウンケル」(ドンケル)の妻「リア」とともに松山市に住んでいた(10).
(b)日本居住許可俘虜 1920はゲプフェルトを,「日本内地契約成立者」の1人としている(11).
(c)「工学士A.ギヨツペルト」は14年に東京・ドイツ東洋文化研究協会(OAG)の会員であり,東京市麻布区新竜土町12番地に住んでいた(12).
(d)ゲプフェルトは,すでに言及したように,故国住所録 1919に所属部隊の代わりに東京と記載していた.彼が板東に移送された直後に,彼の妻はすでに徳島市に居住していたから,この場合の東京は,彼の勤務先の所在地を示すであろう.そして,この勤務先は,日本でドイツ製機械を販売する企業だったのではなかろうか.それはともかく,故国住所録 1919における彼の本国連絡先はドレースデンの教授ゲプフェルト博士であった.
(d1)本国連絡先に関連して,まず,教授ゲプフェルト博士を『ザクセン国勢便覧』で探してみる.この人物は,アナベルク市の元上級教師として1903年にザクセン国王からアルブレヒト勲章第一等騎士を授与され,14年にも健在であった(13).
(d2)アルトゥル・ゲプフェルトについての資料は,ドレースデン市の市立文書館にも戸籍部にもまったくない.ドレースデンのゲプフェルト教授は名をエルンスト・エドゥアルトといい,同市で22年に没した(14).
(d3)戸籍簿によれば,アナベルク市の実科学校教師としてエルンスト・エドゥアルト・ゲプフェルトがいた.これは(d1)の勲章受章者であり,板東のゲプフェルトが本国連絡先とした人物である.この教師ゲプフェルトには4人の子供が生まれた.上の娘2人は生後数年で没した.(i)長男エルンスト・エールハルト・アルトゥル・ゲプフェルトはアナベルクで1879年に生まれた.彼がTaiyanfu,Provinz Shansiで1937年に死亡した旨,Yientsin(中国)のドイツ総領事館がアナベルク市に通知してきた.(ii)次男ゲオルク・ルードルフ・アーダルベルト・ゲプフェルトは1882年に生まれ,1933年に没した(15).――ミヒャエル・ラウック博士の教示によれば,戸籍簿に記載された,上記長男アルトゥルの没地はShanxi-sheng(山西省)のTaiyuan-fu(太原府),総領事館所在地はTianjin=Tientsin(天津)と考えられる.板東収容捕虜と姓名を同じくし,この捕虜の本籍地アナベルクで1879年に生まれ,ドレースデンの引退教授ゲプフェルト博士(捕虜の本国連絡先)の長男であったアルトゥル・ゲプフェルトは,中国・山西省太原で1937年に死亡した.
(e)ドレースデン工業大学で第一次大戦前に学んだ学生のうち,アルトゥル・ゲプフェルトの名前をもつ人は,2人いた.1人はフライベルク生まれで,1895−98年に建築学を学んだ(@とする).他はアナベルク生まれで,1901−06年に機械学を学んだ(Aとする).両者とも生年は登録されていない.さらに,同姓同名の人物が論文,「安全弁について」でもって21年に同大学から工学博士号を取得した.ただし,この博士論文は履歴書を欠いているので,博士号取得者の生地・生年は不明である(16).
(f)アルトゥル・ゲプフェルトの博士論文審査に関して添付された,ドレースデン工業大学の報告書によれば,ゲプフェルトはアナベルク出身で,06年に同大学を卒業し,日本の板東にある捕虜収容所(その住所は漢字で書かれている)で博士論文を執筆した(17).(e)で問題としたドレースデン工業大学卒業生が@でなく,Aであることが,この報告書から判明する.また,同報告書から推測すれば,東京から松山,次いで徳島に転居した夫人は,面会の際に博士論文執筆のための資料を夫に手渡していたであろう.収容所から解放された後,ゲプフェルトは帰国して,ドレースデンで博士論文の審査を受け,21年に博士となったわけである.
以上を総合すると,青島捕虜ゲプフェルトは1879年にアナベルクで生まれ,1906年にドレースデン工業大学を卒業し,13年ころに妻とともに東京に居住しており,21年に上記大学から博士号を取得し,37年に中国・太原で没した.
(g)シュトゥットガルト対外関係研究所によれば,中国在住の工学博士アルトゥル・ゲプフェルトは定期刊行物,『東アジアのドイツ人住所録』(ADO),1926/27年版に初めて記載された.付記事項はHoffmann & Wedekind China Co.,Mukden(奉天,現瀋陽)である.この会社(中国名華惠洋行)は,ハンブルクと天津を拠点として,中国に機械を輸入する企業であり,3人の共同経営者の1人がゲプフェルトであった.彼の記載は同誌,1935/36年版で終わった.その時にはNorth-Western Industrial Works,Shansi Government,Taiyuan,1 Ta Chao Chan Peiが付記されている(18).この企業の所在地は山西省太原であり,上記(d3)(i)の死亡地と重なる.なお,収容所からの解放(あるいは博士論文の審査)から26年までは,住所も所属も不明である.
(III)棟田博の「ゲッフェルト」
棟田 1997(初版1974年)は「ゲッフェルト」(と妻)の動静を何度も書き留めている.
(1)1917年「四月六日・・・面会者ノ件 国籍 独逸 女性 徳島市北小路町大滝山在住 ハンナ・バルクホルン オーリー・ゲッフェルト 右両名ハ人力車ニテ来所シ,俘虜准士官「バルクホルン」(ハンナの夫)及ビ工兵少尉「ゲッフェルト」(オーリーの夫)ニ面会ヲ求メ・・・.対話ノ内容.両名トモ,カネテ三日ニアゲズ来所シオルニツキ,サシタル話ハナケレドモ,明日ヨリハ遠隔ノ板東ニ移送サルルニツキ,コレマデノ如ク頻繁ニ会ウコト叶ワザルヲ嘆キ・・・.二人ノ良人ハ,コモゴモ妻ヲ慰メテ,板東ハ山紫水明ノ地ト聞ク,「ピクニック」ノツモリニテ来タレ.・・・「オーリー」・・・本日ハ「ゲルトルート」(オーリーの子供の名前)少シク熱アレバ,同道セザリシモ,板東ニハ必ズ連レ行クベシト云エリ」.
さらに棟田は事情を説明している.「バルクホルン准尉とゲッフェルト少尉が現役軍人なのか,または予備召集兵なのか記録にはないが,たぶんアジアのどこかで職業に従事しているとき召集令状をうけ,青島へ駆せつけた召集兵であろう.中国大陸の上海とか・・・シンガポールに在留していたのかもしれない.ともあれ,そういった遠い土地から,夫がとらわれている日本のトクシマへ,はるばる彼女たちは居を移したのである(19)」.
(2)徳島居住の「准士官バルクホーンの妻のハンナと,工兵少尉ゲッフェルトの妻のオーリー」は,捕虜が板東に移されて間もない4月30日に,板東収容所を訪問した.収容所開設後の面会人第2号と第3号であった(20).
(3)17年のクリスマス直前に,「例の准士官バルクホルンの妻のハンナと,工兵少尉ゲッフェルトの妻のオーリーが,かよいなれたる収容所・・・ということでもあったろうか」,<大尉夫人>ヘレネ・コップを案内して一緒に訪れた.「・・・ヤガテ『ヘレネ』<・コップ>曰ク.徳島カラハ,眉山ニ登レバ,コノ収容所ノアル,大麻山ノ姿ヲ望ムヲ得ベシト,『オーリー・ゲッフェルト』カラ教エラレタリ.コレカラハ,毎日,眉山ニ登リテアナタノコトヲ想ウコトニスルナドト,マコトニ夫婦ノ情濃ヤカナルモノアリキ・・・(21)」.
(4)19年11月の記録文書は徳島居住の「俘虜の夫人たちが,踵を接して面会にきている有様を誌している」.例えば,「ゲッフェルト夫人は,せっかちらしく,家具類の始末をどうしたらよいのかなどの相談をもちかけ」ている(22).
(5)「翌月<19年12月>23日であった.家族を徳島市に居住せしめている俘虜の現地解放が達せられた.・・・ゲッフェルト・・・<など>,計九名が該当者であった.彼らはかねてから松江<豊壽・板東収容所>所長に現地解放のことを願い出ていたのであった(23)」.
以上の記述のうち,(2)と(5)の典拠は明示されていない.(2)の事実は,すでに本節(II)で引用したように,鳴門市史 1982が,「雑書編冊」に基づいて言及している.(3)と(4)は「衛兵司令日誌」からの引用とされている.(1)の文章のうち,漢字カタカナ書きの部分も,同じ日誌である(ただし,徴兵司令は衛兵司令の誤植).私は前稿執筆の際に,(1)の記述に関連して2点を承知していた.すなわち,@ゲプフェルトの最初の収容所は徳島でなく,松山であったこと,A彼は戦争勃発の1年余り前から東京に住んでいたこと,である.したがって,私は当時,これらの事実と(1)の記述との矛盾に気付いていた.しかし,私は棟田を典拠の一つとして安易に挙げてしまった.
最近になって私は中野 1996を読むことができた.この論文は,板東収容所に関する研究史を整理して,棟田の著書を次のように痛烈に批判した.棟田は,資料たる「雑書編冊」を「改竄」し,「高木大尉<板東収容所副官高木繁>のメモや「衛兵司令日誌」など,現在まだその存在が確認されていない(恐らく当時も存在していなかったであろう)史料」を「随所に」「引用」した(24),と.棟田による資料の改竄・捏造という指摘に私は驚愕した.ノンフィクション文庫の1冊である棟田 1997を,軽率にもノンフィクションと信じていたからである.――日本収容青島捕虜はさまざまな観点から叙述されうる.私は自らの青島捕虜調査の課題を,こまごました事実の発掘・確定に限定している.棟田 1997が文学作品と知った後では,私は原則として同書を引用しないつもりである.
(IV)兵士フリードリヒ・ゴッペルト
本節(II)で述べたように,林の言う元捕虜,「ゴッペルト」を士官ゲプフェルトと見なすならば,彼は中国で1937年に死亡しており,林が82年に会えるはずはない.
ところで,林の「ゴッペルト」は@士官の他に,次の条件の人物であった.すなわち,A1982年にミュンヒェンに住んでいた.B82年に94歳であった.逆算すると,彼は1888年前後に生まれた.そこで,@ではなく,AとBの条件に当てはまる下士官・兵士を探してみる.
俘虜名簿 1917でこれに該当する可能性のある人物は,フリードリヒ・ゴッペルトだけである.彼の階級は予備一等兵,収容所は久留米→板東,本籍地はバイエルンのヴァイゼ(s)ンブルクである.所属部隊は記されていない(25).俘虜名簿 1915では彼は久留米収容であり,さらに,彼の所属が手書きで「海兵・野戦砲兵隊」と追記されている(26).
故国住所録 1919において,Fr.ゴッペルトの本国連絡先はバイエルンのヴァイセ(ss)ンブルクである.この捕虜も,士官ゲプフェルトや松尾 2004(a),第1節(E)(ii)Aの音楽家ガーライスと同じように,故国住所録に所属部隊を書いていない.ゴッペルトのその欄はD[汽船]アイテル・フリードリヒ(27)である(28).
故国住所録 1919における彼の本国連絡先,ヴァイセンブルクと俘虜名簿の本籍地,ヴァイゼンブルクは,綴りが1字違う.私は地名の検索をバイエルン州立図書館に依頼した.バイエルンにヴァイセンブルク市は当時存在したが,ヴァイゼンブルクは,村としても,存在しなかった,というのが回答であった.
俘虜名簿の本籍地は誤記・誤植である,と考えた私は,フリードリヒ・ゴッペルトの生地・生年と没地・没年をヴァイセンブルク市戸籍部に質問した.戸籍部からの回答によれば,フリードリヒ・ザームエル・ゴッペルトは1889年に(29)ヴァイセンブルク市で生まれ,1988年にミュンヒェンで没した.私はさらに,このゴッペルトの青島軍役勤務と日本収容を確認すべく,彼の親族の氏名と住所の通知をヴァイセンブルク市戸籍部とミュンヒェン市市民部に依頼した.しかし,どちらからも回答がない.
ともかくも,ヴァイセンブルク市戸籍部から届けられた,同市生まれのフリードリヒ・ザームエル・ゴッペルトの生年から見て,彼の年齢は,林がミュンヒェンで話を聞いた「ゴッペルト」の年齢,1982年当時に94歳に,ほぼ照応する.また,彼は,いつからかは確定できないが,少なくとも晩年は,ミュンヒェンで生活していたであろう.彼は,林と面会した6年後,88年にミュンヒェンで没したからである.しかも,クライが82年に語ったように,「ゴッペルト」が当時「寝たきり」であったならば,「ゴッペルト」と林との面談はミュンヒェン以外では困難であったであろう.そうだとすると,自分は士官であった,との,「ゴッペルト」の発言は言い間違いか聞き間違いとなる.ただし,彼の回想のうち,鶏と豚の飼育は事実であろう.板東収容下士官・兵士による鶏・豚の飼育は確認されている(30)からである.
以上から,林が82年にミュンヒェンで面会した元板東収容「士官」「ゴッペルト」は,松山・板東収容士官エルンスト・エールハルト・アルトゥル・ゲプフェルトではなく,久留米・板東収容兵士フリードリヒ・ザームエル・ゴッペルトである.
(注1)松尾 2002(b),pp.45-46;松尾 2002(c),p.49;松尾 2002(d),pp.99-100.さらに,松尾 2002(b),第1節第1表2;松尾 2002(b),第2節第2表2;松尾 2004(a),第2節(C)@(2)を参照.しかし,私は調査結果を整理できぬままに,士官アルトゥル・ゲプフェルトが第二次大戦勃発前に中国で死亡した,とも併記していた.松尾 2002(b),p.45.
(注2)林 1993,pp.158-159.林がクライに会ったのは,「ゴッペルト」との面会の数日後であった.Fernsehteam 1982.さらに,本稿第1節(注40)を参照.
(注3)俘虜名簿 1917,p.2.なお,瀬戸 2001,p.79の「ゲプフェルト」を参照.
(注4)俘虜名簿 1915,p.2.
(注5)故国住所録 1919,S.15.
(注6)才神 1969,pp.161-164.ここに記された妻の名,カンニーは誤りである.本節(注18)を参照.――日本収容青島捕虜の中で日本を「職業地」とした人は,全体で116人(15年)あるいは128人(17年)であった.俘虜職業調 1915,p.8;俘虜職業調 1917,p.13.それに対して,松山収容捕虜のうち,日本を入隊前の居住地とした人が39人(15年),最終滞在地とした人が42人(16年)であった.才神 1969,p.129;冨田 1991,p.233.これらの人数を単純に比較すれば,かつて日本に居住していた青島捕虜のうち,約1/3が松山に収容された計算になる.いずれにせよ,ゲプフェルトはこの39人ないし42人中の1人であろう.――小冊子,俘虜職業調 1915の表紙には発行年月が印刷されていない.しかし,これに収められた各統計表の右下欄外に,「四,一,一0現在調」と記されているから,これは15年調査である.
(注7)冨田 1991,pp.236,239.
(注8)ゲプフェルトの妻が青島から徳島に移住した,との記述は誤りである.後述(a)(c)を参照.なお,彼女の名について,本節(注18)を参照.
(注9)鳴門市史 1982,pp.746-467.なお,予備下士官アードルフ・バルクホールンは板東収容所の演劇で活躍し,日本関連のドイツ語図書,『国民年中行事』の出版に関わった.瀬戸 2001,p.62[松山→板東];瀬戸 2003,p.37.彼は日本居住許可俘虜 1920によれば解放後の「日本内地契約成立者」であった.
(注10)松山俘虜収容所日誌各所.ゲプフェルト夫人は2回目,1915年1月6日の面会に子供を連れて来た.16年5月18日の項にも,小供病気ノ為神戸ニ至ル相談ノタメ臨時面会ヲ許可ス,と記されている.松山市の居宅は16年6月16日の項から明らかとなる.すなわち,「独探」<スパイ>と疑われる,門司シュッケルト会社の一日本人が,「松山市二番町俘虜家内「ゲッペルト」及「ドンケル」ノ住宅ニ立寄レルコトヲ当<収容所>所員探知シ<,>此機会ヲ利用シテ全住宅内部ノ模様ヲモ詳細探知」し,云々.また,17年2月19日に「松山在住独逸婦人リア,ドウンケル」の盲腸炎発病に関して,彼女の夫ワルターとの面会を「同居人」オリーゲップヱルトが願い出た.同月22日に,神戸在住米国人医師が松山に来て,ドウンケルの妻の住宅で手術した.ドウンケルは,妻の手術に立ち会うことを許された.ヴァルター・ドゥンケルに関して,瀬戸 2001, p. 72[松山→板東]; 瀬戸 2003, p. 52を参照.ゲプフェルトと夫人について,さらに3点を追記する.第1.15年11月29日に「神戸カールローデ商会店員グロートヤーン」が面会に来た.ハンブルクのカルル・ローデ商会はドイツ最大級の商社で,横浜,神戸と東京にも支店を置いていた.瀬戸 2003, p. 139.ゲプフェルトがこの商会の関係者であったのか,それとも,店員ヤーンが彼の友人であったのか,は解明できなかった.第2.16年6月25日の記事.妻ハ避暑ノ目的ヲ以テ小樽市稲穂町バルクホルンノ許ニ至リ七八両月同所ニ滞在ノ予定ニテ本夜松山ヲ出発ス.この避暑先は上記バルクホールンに関連するであろう.なお,ゲプフェルト夫人が収容所に次に面会に来たのは11月27日であった.第3.オリーゲップヱルトは17年3月5日に夫と面談し,次の処置を決めた.「福岡ニ於テゾルダン大尉ノ妻ノ殺サレタルヲ憂慮シ<,>身ノ振リ方ヲ決定センカ為メ種々協議シタル結果<,>成シ得レハ請願巡査ヲ傭聘シ<,>許可セラレサレハ神戸ホテルニ転居スルコトニ決セリ」.夫人が神戸に転居したかどうか,は明らかでない.彼女は3月12日,20日,4月3日にも面会に来たからである.ジークフリート・フォン・ザルデルン大尉の妻が17年2月に福岡の自宅で強盗に刺殺され,悲嘆した同大尉が福岡収容所で同年3月1日に自殺したことについて,冨田 1991, pp. 54-55; 瀬戸 2001, p. 117; 久留米収容所 2003, p. 155を参照.――松山俘虜収容所業務報告書(p. 6)に次の記事がある.「開設ヨリ閉鎖迄夏季避暑ノ外<,>常ニ松山ニ居ヲ定メ・・・1週1回(1時間)定時面会ヲ許セシ者」として「俘虜将校ノ妻 独逸人 1名」がいた.これがゲプフェルト夫人である.
(注11)日本居住許可俘虜 1920.ただし,彼が板東からの解放後に,誰と契約したか,日本のどこに居住したか,は不明である.
(注12)OAG回答(ただし,彼の14年当時の勤務先もその後の消息も不明である).この回答と才神 1969,p.161から,「工学士A.ギヨツペルト」は捕虜士官ゲプフェルトと見なされうる.OAGに申告した,彼の住所が,15年1月初めに松山収容所に面会に来た,彼の妻のそれと同じであるからである.
(注13)SHB 1903,S.29;SHB 1914,S.29.毎年あるいは隔年に出版されていた『ザクセン国勢便覧』は,1914年を最後として,第一次大戦と革命のために刊行されなくなった.共和国政府による継続誌は,21年以後編集されたけれども,国王授与の勲章受賞者を掲載することはなかった.
(注14)ドレースデン市立文書館回答.
(注15)アナベルク=ブーフホルツ市戸籍部からの回答.
(注16)ドレースデン工業大学文書館回答.
(注17)ザクセン州立中央文書館回答.文書,SAD, Nr. 15853(ザクセン州文部省文書15853,大学・専門学校,博士論文,1919−1924年)はアルトゥル・ゲプフェルトの項(Bl. 28f.)を含むが,彼の生地・生年を記していない.しかし,ドレースデン工業大学からの報告書がそこに添付されている.報告書によれば,ゲプフェルトはアナベルク出身で,1906年に同大学を卒業し,日本の板東にある捕虜収容所(その住所は漢字で書かれている)で博士論文を執筆した.
(注18)ADO 1926/27,S.108, 170;ADO 1935/36,S.130.後者の項目はGöpfert,Dr.-Ing.A.und Frau O.となっている.したがって,ゲプフェルトの妻の名はO.であった.それに対して,1926/27年版(S. 170)では,項目がGöpfert,Arthur,Dr.-Ing.とGöpfert,Frau Olgaとに二分されている.しかし,両者の住所は同一である.したがって,1935/36年版でO.と省略されている,彼の妻の名はオルガであり,才神 1969のカンニーは誤りである.鳴門市史 1982と棟田 1997のオーリーはオルガの愛称である.
(注19)棟田 1997,pp.58-59.ここに記された「ゲッフェルト」の妻の名は,鳴門市史 1982と同じである.本節(注18)を参照.彼の娘の名前は才神 1969のそれと一致しない.
(注20)棟田 1997,pp.85-86.
(注21)棟田 1997,pp.128-129.なお,ヴィルヘルム・コッペが熊本に収容されているとき,すでに彼の夫人ヘレーネは日本にいた.瀬戸 2001,p.96[熊本→久留米→板東].
(注22)棟田 1997,p.302.
(注23)棟田 1997,p.320.なお,鳴門教育大学 1990,p.82によれば,ドイツ系捕虜の解放は19年12月19日の34人に始まり,同月20日6人,25日563人,26日7人,・・・と続いた.林 1993,p.44によれば,12月25日563人,同月26日10人,・・・であった.
(注24)中野 1996,pp.331-333.
(注25)俘虜名簿 1917,p.20.久留米から板東への彼の移送は収容換俘虜 1918に記録されている.
(注26)俘虜名簿 1915,p.20.
(注27)これは北ドイツ・ロイド会社の汽船アイテル・フリードリヒ号のことである.瀬戸武彦教授教示.
(注28)故国住所録 1919,S.15.
(注29)青島捕虜で1889年生まれの兵士として,私の調査ではユッフハイムなどがいた.松尾 2004(a),第3節を参照.同年生まれは1919年の板東収容者の4%を占めていた.鳴門市史 1982,p.767;冨田 1991,p.97より計算.
(注30)林 1993,pp.60,70-71は「雑書編冊」から以下の@を引用し,Aの事情を説明している.@「炊事ヲ為サシムル准士官以上ニアリテハ生活上其ノ困難ヲ感ズル事ナキモ 下士以下ニアリテハ毎月支給額寡少ナルヲ以テ余裕ナキ下士卒以下約三百名ハ 所内ニ於テ各自業務ニ従事シ 其収入ヲ以テ生活費ノ補給策ヲ講ジ・・・」.A「各種作業への参加は技術指導やアルバイトとして自発的になされた」.その中に久留島,佐山,乾3人の経営する養豚所があった.18年1月から,捕虜の残飯で豚を飼い,肉不足と物価高に対処した.同年2月には,収容所門前に「にわとりの飼育場を作り,捕虜たちに飼育させ」た.「これも捕虜の健康管理と食糧不足対策の,一石二鳥を狙ったものであり,ドイツ人達も進んで作業に従事した」.さらに,中野 1996,pp.340-341(鶏2千羽飼育);松尾 2002(c),p.49を参照.
(3)指揮者パウル・エンゲル
パウル・エンゲルは,第1に,エンゲル管弦楽団を丸亀,後に板東収容所で指揮した.第2に,板東時代の彼は,収容所外の演奏会に数回出演し,また,地元青年たちに音楽を長期間指導した.とくに第2の意味で,エンゲルは日独交流史上の1人物である.彼の経歴について本節(I)は,明らかになったと考えられる部分を叙述する.(II)は,成果が得られなかった事項を列挙する.本節は,新しく入手した資料を参照して,松尾 2002(a),pp.14-15(注11)と松尾 2002(d),p.99(注5)第1(iv)を大幅に修正したものである.
(T)明らかと考えられる部分
(A)日本収容時代.俘虜名簿 1915と俘虜名簿 1917によれば,エンゲルは海兵第7中隊の二等兵である.また,彼の本籍地はドレースデンで,収容所は前者で丸亀,後者で板東である.彼は上記名簿によれば現役兵であるけれども,彼を「予備兵」,「後備海軍歩兵卒」あるいは「後備海兵隊員」と表現する資料もある(1).
板東収容所(存続期間2年半余り)では,いくつもの音楽団体が活発に活動していた.管弦楽団は二つあった.一つはヘルマン・ハンゼンに指揮されていた.ハンゼンは膠州砲兵大隊の軍楽下士官であった(2).ハンゼンの楽団はすでに徳島収容所(存続期間2年半弱)で結成されており,50回以上の演奏会を開いていた.楽団は板東時代に35回の定期演奏会と数回の特別演奏会を開いた.45人編成のこの楽団は板東収容所で,18年2月にベートホーフェンの第四交響曲を,同年6月に同第九交響曲を全曲演奏した.これらは日本初演であった.
板東収容所のもう一つの管弦楽団は,パウル・エンゲルを指揮者としていた.この楽団もすでに丸亀収容所で結成されており,23回の演奏会を開いていた.45人編成のエンゲル楽団は板東時代に17回の定期演奏会と,5−6回の特別演奏会を開いた.楽団は18年4月にベートホーフェンの第五交響曲,19年2月に同第一交響曲を演奏した.これらは,久留米収容所における日本初演に次ぐものであった.板東収容所の音楽活動を後援した,神戸在住のドイツ人貿易商,ハンス・ラムゼーガーは,交響詩,「忠臣蔵」を作曲した.エンゲル楽団はこの曲を17年に初演した.
エンゲル自身は「青島戦士行進曲」と「シュテヒャー大尉行進曲」を作曲した.また,エンゲルは板東のターパオタオ(タパトウ.商店街)2号小屋で,同僚の捕虜にヴァイオリンを教えた.
板東収容所の音楽団体は主として収容所内で演奏したが,時には収容所外で,日本人を聴衆として演奏した.
(i)板東収容捕虜の美術工芸展覧会が18年3月に板東町霊山寺で開かれた.8日間に45千人の日本人が訪れた.その際に大小の楽団が演奏した.楽団指揮者の一人が「エンゲル後備海兵隊員」であった.この時の霊山寺前の日本人観客の写真,および,「エンゲル楽団」と題された写真(3)が残されている.寺には卍幕が張り巡らされていた.
(ii)徳島衛生協会は19年3月に徳島市で和洋大音楽会を開催した.この音楽会で「独逸俘虜団」43名は,「独逸ワルツ」や日本の曲(「かつぽれ」,「六段」),さらに,エンゲル作曲の「ステヘル<=シュテヒャー>大尉行進曲」などを演奏した.エンゲル自身は「さすらいの歌」,「歌劇椿姫」などを独奏した.これらの西洋音楽と交互に,日本人が長唄勧進帳,舞踊妹脊山道行などを上演した.
(iii)同じ徳島衛生協会は19年10月に徳島市で捕虜演芸会を,4日間に亘って,開催した.「・・・今回俘虜収容所ヨリ前回ノ縁故ヲ以テ本協会ニ対シ今ヤ俘虜ハ解放近ツキタル時ニ際シ彼等ガ組織セル演芸中ノ粋ヲ抜キ大ニ公衆ニ欧風ノ演芸ヲ紹介シ置クハ時分柄必要ノコトニアラサルヤトノ交渉アリ即チ本協会ハ此機ヲ逸シテハ今後再ビ観覧期ス可ラサル演芸ナルヲ以テ進デ之ニ応シ・・・」,と開催趣意書にある.演芸会では喜劇,体操などが演じられ,音楽が演奏された.演奏曲目には「日本かつほれ」,「日本軍艦マーチ」が含まれていた.「ヴアイオリン弾奏者ト蜂」なる演目もあったが,その奏者名は演芸番組表に記載されていない.
それに加えて,板東時代のエンゲルは徳島市の十数人の音楽愛好者に毎週,熱心に音楽を指導した(エンゲル音楽教室).場所は初めは収容所近くの四国巡礼遍路宿であり,後には徳島市の一写真館であった.徳島との送迎には教え子が当たった.教え子たちは,エンゲル楽団団員の帰国に際してドイツ製の楽器を譲り受け,徳島県最初の西洋音楽演奏団体,徳島エンゲル楽団を結成した(4).
捕虜エンゲルに直接・間接に関連する日本語資料として,さらに以下のものがある.
第1.俘虜職業調 1915と俘虜職業調 1917から,(a)現役下士卒本業調における音楽家(15年には音楽師)の総数と収容所別内訳,(b)現役下士卒特業調における軍楽手(喇叭手と鼓手を含む)の総数と収容所別内訳,(c)現役軍人以外の音楽家の総数と収容所別・旧職業地別内訳は,松尾 2004(a),第1節(E)(ii)Aで紹介された.この統計はエンゲルを,俘虜名簿で現役二等兵とされるマックス・ガーライスとともに,中国南部を職業地としていた,現役軍人以外の音楽家に含めている,と考えられる.
第2.丸亀俘虜収容所日誌は県立学校音楽教員に対するエンゲルの演奏を記録している.すなわち,「香川県立高松師範学校外県立四学校音楽教師ノ希望ニ依リテ俘虜卒エンゲル(音楽教師)及同伍長スタインメッツノ二名市川中尉監視ノ下ニ丸亀高等女学校ニ到リ試験的奏楽ヲ為ス(5)」.このスタインメッツはヘルマン・シュタインメッツ(6)であろう.
第3.特種技能俘虜 1918は板東収容所の音楽家を3名と述べ,うち「一名は弦楽ニ長シ多年音楽ノ教師トシテ生活シ教授料一時間十二「マーク」ヲ得ルノ程度ニアリ(7)」,と記している(他の2人は特記されていない).この音楽教師がエンゲルであろう.
(B)解放・出発.板東収容ドイツ捕虜の多くは1919年12月から翌年1月にかけて解放され,神戸で乗船した.とくに604人が12月26日に豊福丸に,220人が1月27日にハドソン丸[インドネシア寄港]に乗船した(8).
エンゲルが解放された年月日は,文献に言及されていない(9).日本居住許可俘虜 1920(10)は「日本内地契約成立者」,141人と「特別事情ヲ有シ日本内地ニ居住希望者」,33人の他に,「一般送還船出発前予メ日本ニテ解放者」,25人,「単独自費ニテ独逸ヘ帰還スル者」,2人,「青島ニ於ケル就職既定者」,44人,「特別事情ヲ有シ青島居住希望者」,88人の名前を挙げている.しかし,その中にエンゲルは見出されない.
エンゲルの解放・出発に論及した資料は,まず@俘虜患者解放表 1920である.それによれば,板東収容所の「後備海軍歩兵卒」パウル・エンゲルは20年1月23日に「加答児性肺炎」のために入院し,1月26日に徳島市古川病院で解放された(11).エンゲルが入院した,古川の名を持つ病院は,当時の徳島市に1病院しかなかった.その院長は,徳島県出身で,東大医学部卒業後,1902−04年にライプツィヒ大学に留学した古川(コカワ)市次郎(1863−1929)である(12).
次に,A俘虜引渡区分表 1920である.その備考欄に次の記事が記されている.「板東収容所 蘭領印度渡航者([1月]27日)中兵卒1名ハ病気ノ為メ前日(1月26日)徳島市古川病院ニ於テ引渡シ且其付添トシテ(1月26日家族船ニヨルモノニシテ日本内地ニ用弁者)中ノ兵卒一名ヲ同時ニ引渡セリ(13)」.
1月26日に徳島市古川病院で解放されたエンゲルは,翌日神戸出港のハドソン丸でインドネシアに向かったであろう(14).
それに対して,B小幡公使 1919なる資料は問題を孕む.これには,在北京オランダ公使館から在北京日本公使館への19年11月14日付け書簡が含まれる.書簡は,日本抑留捕虜の家族であって,日本からヨーロッパに向かうドイツ兵帰国船への乗船を希望している中国居住者を記載している.上海居住者の中にエンゲルの妻ベルタが,士官シュテヒャーの妻子とともに見出される.エンゲルは予備兵の音楽家であり,夫婦に子供はいない,と記録されている(15).この資料によればエンゲルの妻は,上記A俘虜引渡区分表 1920備考欄に記された板東収容捕虜,私見ではエンゲル,と異なって,本国への帰還を希望していたことになる.
本国帰還兵の他に,インドネシアに向かうドイツ捕虜を神戸で乗船させたハドソン丸は,上海とインドネシアに寄港してから,ドイツ・ブレーメン港に到着した(16).下記(D)の蘭印名簿 1922が2年後のエンゲルのインドネシア居住を記録しているので,エンゲルの妻ベルタは上海でハドソン丸に乗船し,夫とともにインドネシアで下船したのではなかろうか.
(C)召集以前.青島駐屯第3海兵大隊に入隊する前のエンゲルは,上海工部局管弦楽団の団員であった.資料,俘虜解放願出 1914は上海居留地工部局から上海駐在日本総領事への14年12月14日付け工部局管弦楽団団員解放要請書簡を含む.これは日本収容中の楽団員としてミリエス,エンゲル,ガーライス,プレーフェナー(ただし,プローフェナーと記されている)を列挙している.要請に対して外務大臣は14年12月26日に4人の楽団員の解放を拒否し,その旨を陸軍大臣と上海総領事に通知した(17).上海工部局年報の管弦楽団団員名簿(18)を検証すると,第1に,14年を区切りとして,正規の団員から括弧付きの団員に変わった4人の名前は,上記の捕虜のそれと一致する.第2に,エンゲルは12年10月に同楽団団員に採用された.当初の契約期間は15年11月までであった.第3に,エンゲルは上記3人とともに,日本連行後も,16年までは工部局年報に,括弧付きの工部局楽団員として記載されていた.しかし,16年以後には,エンゲルと他の3人は楽団員として記載されなかった.
(D)インドネシア.瀬戸武彦教授はハンス=ヨアヒム・シュミット氏の情報を私に伝えてくださった.1922年にオランダ領東インドに居住する,元日本収容青島捕虜の一覧表が,蘭印・バタヴィアで刊行されたドイツ語雑誌に印刷されている,との情報である.その名簿(蘭印名簿 1922)のコピーを対外関係研究所から取り寄せてみると,確かにエンゲルはジョクジャカルタ居住となっている.しかしながら,他の多くの元ドイツ兵と異なって,エンゲルについては職業が記載されていない(19).
以上によれば,パウル・エンゲルは(i)1914年11月から17年4月まで丸亀に,その後20年1月まで板東に収容されていた.(ii)12年10月から(14年8月の)召集まで,上海工部局管弦楽団団員であった.板東収容時代の事情から考えると,彼はヴァイオリン担当であったろう.19年末に彼の妻は上海にいた.(iii)22年にはインドネシア・ジョクジャカルタに居住していた(職業不明).したがって,エンゲルの生涯のうち,12年10月から22年までの期間だけが実証されえた.
(II)不明の部分
(A)生地・生年.生年に関連して私が知る,唯一の具体的記述は,棟田 1997にある.それによれば,「ポール・エンゲル少尉」は当時「三十歳だった(20)」.この文章の前後は1918年について叙述している.それから逆算すると,エンゲルの生年は1888年頃となる.また,すでに触れたように,エンゲルは1912年10月に上海工部局管弦楽団の団員に採用された.採用当時の彼は20歳を超えていた,と考えられる(21).そうだとすると,エンゲルの生年は1892年より以前となろう(22).さらに,本節(I)(B)Bで見たように,エンゲルの妻は1919年末に上海に住んでいた.彼らが結婚したのは,エンゲルが14年8月に召集されるより以前のはずである.彼の生年は1892年よりかなり以前ではなかろうか.他方で,松尾 2004(a),第3節本文末尾によれば,青島捕虜の中で現役二等兵の最年長者は,1883年生まれ(松尾 2004(a),第2節(D)@(11)のハインリヒ・ハム)であった.エンゲルはハムより若かったであろう.また,上海管弦楽団副指揮者のミリエスも,上記ハムと同年生まれ(松尾 2004(a),第2節(D)A(8)参照)であった.エンゲルはミリエスよりも若かった,と推定される.
生地に関しては3説がある.第1は中部ドイツ・ドレースデン,第2は北ドイツ・ブレーメン,第3は南ドイツである.第1は俘虜名簿の本籍地(23)に関わり,第2は園田 2002(3)によって主張され,第3は,板東時代にエンゲル指揮(!)・ベートホーフェン「第九」全曲演奏の際に合唱に参加した,というパウル・クライ(24)の証言である.3説の示す出生地は,全然一致しない.第3の南ドイツは広大すぎて,私には手掛かりとならない.第1のドレースデンと第2のブレーメンに関して私は,エンゲルが出生記録に記録されているかどうか,を尋ねてみた.ドレースデン市立文書館は,所蔵する出生記録すべてにエンゲルは一切記載されていない,と回答してきた.ブレーメン市市民部からの返答は,調査不可能,であった.
(B)音楽学校.エンゲルはドレースデンでヴァイオリンを学んだ,あるいは,彼はドレースデン音楽院で学んだ,との説がある(25).ところで,上海工部局管弦楽団は音楽水準の向上を目指して,1906年にドイツから指揮者と6人の主席奏者を招聘した.指揮者はルードルフ・ブック(1866−1952.上海管弦楽団の指揮者としては1906−18)であり,主席奏者の1人がフルートのプレーフェナーであった.また,1908年に3人(その1人がヴィオラ兼トロンボーンのガーライス)が増強された.さらに,10年に副指揮者のミリエスが,12年10月にエンゲルが入団した.12年4月の楽団編成表ではミリエスは第1ヴァイオリン主席(コンサートマスター),ガーライスはヴィオラ主席であった.同編成表で打楽器以外の部門の主席はすべてドイツ人奏者とされている(26)から,プレーフェナーはこの時にもフルート主席であったであろう.この楽団編成表の半年後に入団したエンゲルは,後に収容された板東で,捕虜たちにヴァイオリンを教えたので,上海でもヴァイオリン奏者であったろう.ここに名を挙げた音楽家の中で,同楽団に最後に採用されたのが,エンゲルであったから,彼は音楽の専門教育を受けていた,と考えられる.なお,榎本泰子助教授によれば,工部局管弦楽団の古いプログラムのうち,1911年11月から12年4月までのものだけが発見されている.したがって,12年10月入団のエンゲルが同楽団の演奏会で独奏したかどうか,は現状では解明できない.
私は,1912年10月以前の卒業生について,ドイツの古い音楽学校に問い合わせてみた.その結果は次のとおりである.ライプツィヒ,ヴァイマルとヴュルツブルクの音楽大学およびベルリーン芸術大学からの回答によれば,エンゲルはこれら4校の前身校の卒業生ではない.カルルスルーエ音楽大学とマンハイムおよびミュンヒェンの音楽・演劇大学からの回答によれば,これら3校の前身校の卒業生名簿は失われているために,エンゲルが卒業したかどうか,は確定できない.ドレースデン音楽大学(その校舎は1945年のドレースデン大爆撃によって破壊された),ブレーメン芸術大学とシュトゥットガルト音楽・演劇大学からは回答がない.
(C)ドイツにおける居住地.ドレースデン市立文書館によれば,エンゲルは第一次大戦前と大戦後の同市刊行住所録に,さらに,その他の文書にもまったく記載されていない.また,ザクセン州立ライプツィヒ文書館,バイエルン州立図書館(ミュンヒェン),ハンブルク大学図書館,プロイセン文化財団図書館(ベルリーン)とブレーメン州立文書館によれば,1920年代のライプツィヒ市,ミュンヒェン市,ハンブルク市,ベルリーン市とブレーメン市の刊行住所録はエンゲルを記録していない.――園田 2002(3)の1論点は,エンゲルがドレースデン音楽学校で教えた,というものである.これは誤りであろう.エンゲルが第一次大戦の前にも後にも同市刊行住所録に記載されていないからである.
(D)インドネシアでの活動.まったく不明である.
(E)没地・没年.まったく不明である.
以上のように,上海管弦楽団入団以前および1922年以後のエンゲルの経歴は,22年の職業を含めて,まったく不明である.
(注1)俘虜名簿 1915,p.15[丸亀];俘虜名簿 1917,p.15[板東];小幡公使 1919(エンゲルを予備兵と表現);解放後俘虜 1919(予備兵);俘虜患者解放表 1920(後備海軍歩兵卒);冨田 1991,p.196(後備海兵隊員).なお,故国住所録 1919はパウル・エンゲルの項を含まない.故国住所録 1919,S.11;松尾 2002(b),第2節第2表を参照.――エンゲルを含む,上海工部局管弦楽団の音楽家,5人について,松尾 2004(a),第1節(E)(ii)Aを参照.
(注2)ハンゼンについて,本稿第1節(注37)を参照.
(注3)ここで紹介した,「エンゲル楽団」と同じ写真がドイツの一地方新聞の記事に掲載されている.それは,本稿第1節(e)Aで言及した,パウル・クライについての87年の記事である.写真には,「第九」を演奏した楽長パウル・エンゲルと楽団員・合唱団,という説明が付けられている.Kriegsgefangener 1987.さらに,本稿第1節(8)を参照.
(注4)以上について,和洋大音楽会番組 1919;才神 1969, p. 175;鳴門市史 1982,pp.752-754,759-765,775,781;林 1982,pp.154,158-162,235;鳴門教育大学 1990,pp.94-95,97;冨田 1991,pp.167-172,313-314,17,29-30;富田製薬 1992,p.91;林 1993,pp.90-93,96-97,117,140-144,196-198,212;板東収容所 2000,pp.41-44,59-61,78,92-115;習志野収容所 2001,p.60;瀬戸 2001,p.73[丸亀→板東];園田 2002(1)−(5);横田 2002,pp.27,29,33-35,39-46,53-72,76-85,133,ii-v;板東収容所研究 2003,pp.51-54;榎本 2003,pp.105-110;瀬戸 2003,pp.53-54.なお,板東収容所の2管弦楽団の団員数について,「それぞれ40人」との証言もある.板東でエンゲルから毎週2回ヴァイオリンを習っていた捕虜,ヘルマン・ハーケ(瀬戸 2001,pp.82-83;瀬戸 2003,p.63[松山→板東])が,1918年に故郷に送った手紙に記している.板東収容所研究 2003,p.52.また,エンゲルが行進曲を捧げたヴァルター・シュテヒャー大尉(1907−09年に日本派遣士官)について,松尾 1998(a),pp.126-127;瀬戸 2001,pp.124-125[松山→板東];松尾 2002(b),p.45;瀬戸 2003,p.122;松尾 2004(a),第2節(C)@(6)を参照.
(注5)丸亀俘虜収容所日誌,大正5年10月21日.
(注6)瀬戸 2003,p.123[丸亀→板東].なお,故国住所録 1919はシュタインメッツの項を含まない.故国住所録 1919,S.44を参照.彼に関して丸亀俘虜収容所日誌は次のように記述している.「伍長ヘルマン・スタインメッツ楽器購入ノ為メ丸亀市ニ到ル」(1916年7月19日).「伍長スタインメッツ他二名(屠殺心得アル者)予テ購買セシ豚屠殺ノ為メ丸亀市屠牛場ニ到ル」(同年11月15日).シュタインメッツは,楽器演奏に優れた屠殺技術者であろう.
(注7)特種技能俘虜 1918.エンゲルがヴァイオリンを教えた,板東収容所のターパオタオ2号小屋は1918年8月発行の『板東収容所案内書』に,板東ボーリング場と並んで掲載されている.ボーリング場は板東収容所開設間もない17年5月に開場した.冨田 1991,pp.190,17.エンゲルのヴァイオリン教室の発足もかなり早かったのであろう.ヘルマン・ハーケが板東でエンゲルから毎週2回ヴァイオリンを習っていたことは,本節(注4)で言及した.また,すでに15年1月の第1回「寺院楽団演奏会」(丸亀)でエンゲルはヴァイオリン独奏を披露した[丸亀ドイツ兵俘虜研究会教示]. さらに,冨田 1991, pp. 171-172は,エンゲルが板東の音楽会で何度もヴァイオリンを独奏した,と記している.
(注8)板東収容所 2000,pp.76-77.さらに,鳴門市史 1982,p.782;冨田 1991,pp.66-67;林 1993,pp.44-45を参照.
(注9)「エンゲル音楽教室の送別会には,エンゲルに指導を受けた仲間十数人が楽器を手になじみの遍路宿に集まった.彼らは懐かしい思い出を語りあい,宴が果てるころ全員で「蛍の光」を合奏し,それぞれが心をこめて感謝の言葉を述べ,全員でエンゲルを収容所の営門まで見送った」.鳴門市史 1982,p.781.「いよいよエンゲルが帰国することになって」,エンゲル音楽教室の教え子たちは徳島市の一流料亭で「盛大な送別会を催した.出発の日は自然とみんなが集まってきて,堤防にあがって見送った.エンゲルは深々と頭を下げ手を振った」.林 1993,p.144.さらに,園田 2002(4)を参照.
(注10)日本居住許可俘虜 1920.さらに,瀬戸 2003,p.34を参照.
(注11)俘虜患者解放表 1920;松尾 2002(a), p. 15;瀬戸 2003,p.54.
(注12)徳島市医師会史 1994,pp.194-229;松尾 1998(b),p.192;松尾 2002(a), p. 15;瀬戸 2003,p.142.
(注13)俘虜引渡区分表 1920;松尾 2002(a), p. 15;瀬戸 2003,p.54.
(注14)特例捕虜解放表 1919によれば,オランダ植民地居住希望者は,和蘭政庁職者 151人,蘭領東印度有職者105人の合計256人で,板東関係者はそれぞれ70人,67人,計137人であった.板東収容所 2000,p.77;瀬戸 2003,pp.33-34を参照.また,蘭領印度送還 1919と蘭領印度警察官 1919によれば,オランダ植民地就職者は合計169人であり,板東関係者は65人であった.さらに,俘虜引渡区分表 1920によれば,蘭領印度希望者は合わせて231人であり,板東関係者は90人であった.松尾 2002(a),p.10.
(注15)小幡公使 1919.この資料は解放後俘虜 1919にも含まれている.エンゲルの妻について,興味深い次の事実が判明した[榎本泰子助教授教示].音楽家エンゲルの妻は,夫が日本で捕虜となっている期間の経済的援助を要請した.このことを14年12月16日の工部局参事会で副議長が報告した.夫人の請願に応じると,状況の類似した,他の従業員の家族も要求を出すかもしれない.そのために,参事会は次のように決定した.このような援助は与えない.ただし,エンゲル夫人は,夫の同意を得れば,夫の退職金総額から適当な金額を分割して受け取ることを許される.上海市档案館・編,『上海工部局董事会会議録』,第19冊,上海古籍出版社 2001, p.153.
(注16)松尾 2002(a),p.7(インドネシア渡航ドイツ兵は228人であった).
(注17)俘虜解放願出 1914.さらに,瀬戸 2001,pp.73,78,105-106,113;習志野収容所 2001,p.60;榎本 2003,p.105;瀬戸 2003,pp.58-59,98,107を参照.
(注18)松尾 2004(a),第1節(E)(ii)と(注19);榎本 2003,p.106を参照.
(注19)蘭印名簿 1922には,他の人と同じように名は頭文字だけで,P.エンゲルが記録されている.Japangefangene 1922,S.30.名をP.と略記できる,エンゲル姓の青島捕虜は1人しかいなかった(俘虜名簿 1917,pp.1,15を参照)から,問題のエンゲルはエンゲル楽団指揮者以外ではありえない.なお,蘭印名簿は345人を記載している.この人数は,本節(注14)の日本側4資料が示した数字,169−256人を遥かに上回る.それはなぜか.――青野原収容捕虜ヘルマン・ケルステンは喜福丸で帰国した.彼の日記によれば,この船は青島・スマトラに寄港した.「「キフクマル」をドイツ語に直すと「幸福の船」となる.4,800人の乗員のうち約80人が蘭領インドネシアに留まった.大抵の者は税関職員や郵便局職員だったが,事前に申告したよりも多くのひとが留まった」.小野市史 2004,p.60.この文章は理解困難である.第1に,「4,800人の乗員」とは何か.1919年末から20年初にかけて帰国船に乗船した捕虜の数は,日本収容青島捕虜の総数4,697人よりも相当少なかったはずである.日本国内での死亡,宣誓解放,早期解放(俘虜ニ関スル書類(1),付表第34によれば早期解放は784人)などによる減少に加えて,日本残留者(資料の表現では「日本内地契約成立者」と「特別事情ヲ有シ日本内地ニ居住希望者」など)も乗船しなかったからである.俘虜引渡区分表 1920によれば,日本残留者は68人であり,帰国船乗船者は4,221人であった.ただし,この68人よりも多い140人ないし295人を,特例俘虜解放表 1919,日本残留ドイツ俘虜 1919,日本居住許可俘虜 1920,特例俘虜引渡表 1920,『俘虜ニ関スル書類(1)』(第1章第6節),瀬戸 2003(p. 34)は日本残留者としている.松尾 2002(a), p. 9を参照.第2に,神戸で喜福丸に乗船したのは,「4,800人」でなく,941人(オーストリア・ハンガリー兵を含む)であった.俘虜引渡区分表 1920;冨田 1991,p.67;松尾 2002(a),p.7.第3に,蘭領インドネシアで下船した捕虜の合計は,「約80人」より遥かに多かった.(i)蘭印名簿は345人を記載している.(ii)20年1月27日に神戸を出港したハドソン丸は,オランダ領東インドで下船するドイツ兵228人を乗せていた.俘虜引渡区分表 1920;冨田 1991,p.67;松尾 2002(a),p.7.以上を考慮して,私はケルステン日記の文章を,喜福丸の乗員,941人中の約80人が蘭領インドネシアに留まった,この人数は,「事前に申告したよりも多」かった,と解したい.そのように解しうるとすれば,ドイツ兵がインドネシアでの就職(帰国船からの途中下船)を決断したのは,解放前の日本においてではなく,最終的には現地において,ということになる.そして,蘭印名簿記載の345人が,本節(注14)の日本側4資料に示された数字,169−256人を上回るばかりでなく,ハドソン丸の228人(予定)に喜福丸の約80人(ケルステンが記した人数)を加えた人数も超える事態も,説明可能となる.なお,約500人が蘭印植民地警察官となった(冨田 1991,p.66)との記述がある.これは何を根拠としているのであろうか.蘭印名簿に記載されているのは,警察官だけではないにもかかわらず,500人には到底及ばない.――蘭印名簿収録の345人中57人は1922年当時すでに帰国したり,中国など外国(日本は含まれない)に移ったり,行方不明になったりしていた.
(注20)棟田 1997,p.164.エンゲルは少尉ではなく,二等兵であった.なお,棟田のこの著書に対する中野 1996の批判について,本稿第2節(III)末尾を参照.
(注21)久留米「収容所楽団」指揮者オットー・レーマンは1913年3月にドレースデン音楽学校を卒業し(20歳6ヶ月),半年後の同年10月に海兵隊に召集された.松尾 2002(d),pp.116-117;松尾 2003(a),pp.52-53;瀬戸 2003,p.90.
(注22)園田 2002(3)によれば,エンゲルは「<@>名門のドレスデン音楽学校で教鞭をとったほか,<A>バイオリン奏者として母国のアマチュア楽団で腕を磨き,<B>中国・上海のオーケストラに所属したこともあった・・・」.この文章の順序,@ABが時間の推移を表わすとすれば(エンゲルが,音楽学校教師になった後で,「アマチュア楽団で腕を磨」く,とは,何を意味するか,を度外視して),エンゲルは,12年に上海管弦楽団に入団する前に,ドレースデンの音楽学校で教えていたことになる.そうだとすれば,エンゲルの生年は1892年よりも相当早くなければならないであろう.
(注23)俘虜名簿の本籍地が必ずしも出生地ではないことは,松尾 2002(d),pp.122-125を修正した松尾 2004(a),第2節末尾を参照.
(注24)Beethovens Neunte 1983;Kriegsgefangener 1987.
(注25)園田 2002(2);板東収容所研究 2003,p.52.――上海管弦楽団の副指揮者であり,習志野でも管弦楽団指揮者として活躍したハンス・ミリエスは,ダーゲビュルで1883年に生まれ,ベルリーンの音楽学校でヴァイオリンを学んだ.習志野収容所 2001,p.61;榎本 2003,p.110.さらに,松尾 2004(a),第2節(D)A(8)を参照.このミリエスと本節(注21)のオットー・レーマンとは,音楽学校で教育を受けた音楽専門家であった.徳島と板東で楽団を指揮したヘルマン・ハンゼンは,グリュックスブルクで1886年に生まれ,シュテッティーンで音楽を学び,1904年に海軍に入隊した.園田 2002(3);横田 2002,p.65(生年の1986年は1886年の誤植);瀬戸 2003,p.66.さらに,松尾 2004(a),第2節(D)@(12)を参照.ハンゼンは18歳で入営したから,彼が本格的な音楽教育を受けたのは,海軍軍楽隊においてであろう.それに対して,久留米収容所で作曲とピアノ演奏の面で,また,管弦楽団指揮者として,さらに,歌手として活躍したカルル・フォークトは,ニーンブルクで1878年に生まれ,ベルリーン大学で日本語と法律を,そして同時に,音楽史と対位法も,学んだ.久留米収容所 2003,p.153.さらに,松尾 2004(a),第2節(A)@(12)を参照.久留米収容所のゲオルク・フォン・ヘルトリンク男爵は作曲,ピアノ演奏の面で,とくに管弦楽団指揮者として活躍した.彼は,19年12月に収容所内で行なわれた,ベートホーフェン「第九」の全曲演奏の指揮者,そして,その直前に久留米高等女学校で行なわれた,「第九」の中間部2楽章演奏の指揮者と推定されている.横田 2002,p.123;久留米収容所 2003,p.83;瀬戸 2003,p.71.ヘルトリンクについてさらに,松尾 2004(a),第2節(B)A(5)を参照.久留米収容所の室内楽指導者エドゥアルト・ヴィルは1883年に生まれた.ヴィルについて,瀬戸 2001,p.136;松尾 2004(a),第2節(A)A(6)を参照.ヘルトリンクとヴィルがどのようにして音楽に習熟したか,は明らかでない.
(注26)榎本 2003,pp.92-96,104,106,118.
(4)引用文献目録
以下において,紀要は『岡山大学経済学会雑誌』を,史料館は外務省外交史料館を,ドイツ館は鳴門市ドイツ館を,図書館は防衛庁防衛研究所図書館を意味する.
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