日本とザクセンを結んだシュテヒャー父子
 
岡山・松尾展成
 
 かつて私は,明治末年にザクセン王国から日本陸軍に派遣された士官として,ゲオルク・ヴァルター・シュテヒャーを紹介した(「来日したザクセン関係者」,1998年,pp. 126-127).その後,ルター派教会ドレースデン地区文書管理部から,士官シュテヒャーの生地ばかりでなく,彼の父の名と職業についても教示を得た.また,最近,星昌幸氏は士官シュテヒャーの配属部隊などについてアジア歴史資料センターの資料を検索してくださった.それらに基づいて,ドレースデンのシュテヒャー父子と日本との関係をとりまとめてみる.星昌幸氏と上記教会文書管理部に深謝する.なお,士官シュテヒャーについての私の文章は多くの誤りを含むことが分かったので,ここに全文を書き改めた.また,省略形で引用した文献の完全形は,松尾,「4人の板東収容捕虜」,2004年,pp. 101-104を参照されたい.
 
  (I)士官シュテヒャー
 
 ドイツ皇帝は1907年に,プロイセン陸軍部隊への日本陸軍少佐「クニ親王(注1)」の配属を認め,その代わりに,日本陸軍部隊へのドイツ陸軍士官の配属を求めた.交渉の結果としてプロイセン軍ばかりでなく,ザクセン軍からも士官が日本に派遣されることになった.ザクセン陸軍省はまず07年4月に,ドレースデン駐屯第4野砲兵連隊の中尉ゲオルク・ヴァルター・シュテヒャー(1874年ドレースデン生まれ)を大尉に昇進させ,彼を2年間,日本に派遣する,と決定した.もう一人の派遣士官は第7歩兵連隊ヨハネス・アルベルト・バイアー大尉(注2)であった.シュテヒャーは07年9月に東京に到着し,同年11月に静岡の,08年9月に東京・世田谷の部隊に配属された.彼の部隊配属期間は09年8月で切れるが,その部隊が09年9月から11月まで実施する予定の演習に参加するために,シュテヒャーは3ケ月間の配属期間延長を要請した.この要請に応じてザクセン陸軍省は08年11月に,日本政府との交渉をドイツ帝国外務省に依頼した.――シュテヒャーは『ザクセン国政便覧』において,08−09年に第4野砲兵連隊所属大尉,日本派遣中とされ,帰国後の10年に同じ連隊の参謀,11−13年にピルナ市駐屯第5野砲兵連隊第5中隊隊長・大尉と記載されている.ザクセン陸軍の側からは14年以後の彼の消息は不明である(注3).
 
 シュテヒャーの日本軍配属部隊は,ザクセン側の資料では1年目静岡,2年目世田谷のそれであった.日本側記録ではどうか.
(1)1年目の配属部隊は不明である.陸軍省『密大日記』(防衛研究所図書館[以下では防衛研と略記],M42~1,「交代・派遣」に続く,判読不能の分類項目,第8)は,クント(Kundt)など4人のドイツ将校[プロイセン士官である]が1907年11月から2年間,隊付となる,と記し,1年目の所属師団も付記している.しかし,シュテヒャーはここに記録されていない.もし1年目の彼が静岡の部隊に配属されたとすると,当時の静岡駐屯部隊は歩兵第34連隊(第3師団所属)だけであった.
(2)2年目の部隊は野砲兵第14連隊であった.『密大日記』(防衛研,M43~1,外国武官,第1,「普国大尉クント外4名ノ成績ノ件」)は,索孫国砲兵大尉ステツヘルが野砲兵第14連隊の勤務を終了した,との記録を含む.また,近衛師団長が陸軍大臣に宛てた報告書に,野砲兵第14連隊長のステツヘル評価(1909年12月7日)が同封されている.[大尉は]勤務頗ル熱心勉励ニシテ・・・.日本語ハ精通ニシテ兵語ノ難解ヲモ行フヲ得ルノ程度ニ在リ.大尉ハ交際円満能ク和シ能ク談シ[,]毫モ将校団員[=日本軍士官]ト異ラス[.]品行方正ニシテ勤倹ノ美風ヲ有シ[,]又能ク困苦欠乏ニ堪ユ.
 なお,次の文書も彼の野砲兵第14連隊配属を裏付ける.陸軍省『壱大日記』(防衛研,M42~5,省,第56,「普国武官満韓地方旅行ノ件」)は,多くの錯綜した記録を含む.(a)陸軍大臣副官は,「目下野砲兵第14連隊付勤務中ナル」大尉ステッヘルが戦場視察のために旅行し,(1909年)4月20日頃に大連到着の予定である,と関東都督府参謀長と韓国駐剳軍参謀長に伝え,「可然便宜ヲ与エ」るよう要請した(3月31日).(b)独乙大使館付武官の陸軍省宛て電報(4月12日):ヘンツ(Henz)などプロイセンの大尉3人に満州戦場旅行のための休暇を許可するが,ステッヘル大尉は病気のために満韓旅行を中止する.(c)独乙大使館付武官の陸軍省宛て書簡(4月19日):野砲兵第14連隊付ステッヘル大尉は4月30日から6月1日まで旅順・満州戦場・韓国を旅行する.書簡(c)は電報(b)より後の日付であるから,シュテヒャーの満韓旅行は実現したのであろう.
(3)『壱大日記』(防衛研,M42~13,省,第51,「独国武官隊付ノ件」)によれば,索孫国大尉ステツヘルはクント,ヘンツなどプロイセンの大尉3人と同じく,1909年11月30日をもって日本陸軍隊付を終了し,帰国する.
(4)『日本砲兵史』(陸上自衛隊富士学校・編,原書房,1980年,p. 937)は,1908年に東京に駐屯していた野砲兵連隊を,近衛,第13,第14(以上は近衛師団所属),第1(第1師団所属)の4連隊と述べている.さらに,『近衛野砲兵連隊史』(同史編さん委員会・編,1986年,p. 122)によれば,近衛野砲兵連隊は1898年に竹橋から世田谷・三宿に移転したが,ここには第1,第13,第14の3野砲兵連隊も駐屯していた.
 以上から見て,シュテヒャーは来日2年目の1908−09年に近衛師団所属野砲兵第14連隊に配属されており,同連隊は世田谷に駐屯していた.そして,第14連隊隊付勤務が終了した09年末に,シュテヒャーは帰国した.彼の配属期間延長は日本側では問題にされていない.なお,上記『近衛野砲兵連隊史』(p. 151)によれば,野戦砲兵連隊は1907年に野砲兵連隊に改称された.私は簡単のために07年以前についても野砲兵の語を用いる.
 
 ところで,資料(2)で引用したように,野砲兵第14連隊長はステツヘルに関して「日本語ハ精通」と評価していた.それを裏付ける事実として,シュテヒャーは日本陸軍の教科書,『野戦砲兵操典』,『野戦砲兵射撃教範』と『歩兵操典』を独訳した(注4).
 
 シュテヒャーが世田谷時代に親しく交際した日本軍士官として,2人が挙げられてきた.猪狩亮介大尉と山田耕三中尉である.山田については後に検討することにし,まず,猪狩の経歴を概観して,シュテヒャーとの接点を探ってみる.
@外山操,『陸海軍将官人事総覧 陸軍編』,芙蓉書房;甲斐克彦,『陸軍大学校全人録 上』,槙書房;『日本陸軍将官辞典』,芙蓉書房出版によれば,猪狩は1881年に宮崎県で生まれ,1957年に没した.陸士12期(砲兵科1900年卒),陸大23期(1911年卒).1901年第14野砲兵連隊付き少尉,29年野戦重砲兵第4旅団長,32年予備役中将.後に武蔵高等工科学校校長.
A『武蔵工業大学50年史』(同大学・編,1980年,pp. 44-45, 84-85, 678)は猪狩を,1937−45年の武蔵高等工科学校(武蔵工業大学の前身)校長(陸軍中将,1957年没)と記している.
B『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』なる年次刊行物(以下では『陸軍将校名簿』と略記)がある.膨大な人数を記載しているにもかかわらず,索引を欠くために実に利用しにくい資料である.その明治39年(p. 893);明治41年(p. 805);明治42年(p. 845)で,猪狩は野砲兵第14連隊の砲兵大尉(1908年に中隊長,06年と09年には同連隊付き.なお,同連隊は近衛師団所属)となっている.したがって,08−09年にそこに配属されたシュテヒャーは,同連隊で猪狩と交流できたわけである.
C資料「第18師団司令部歴史付録 明治41.12.末−−大正14」(防衛研・中央/部隊歴史師団/62)の付表第8「独立第18師団将校同相当官職員表 その1」によれば,1914年8月に砲兵少佐猪狩は同師団司令部副官であり,野砲兵第24連隊長は砲兵中佐馬場崎豊であった.――猪狩は日独戦争に従軍したが,それは野砲兵第14連隊の連隊長ないし士官としてではなく,青島攻撃軍=独立第18師団の司令部副官としてであった.野砲兵第24連隊は,青島を攻撃した,唯一の野砲兵連隊であるが,第18師団(久留米)に元来所属していた.したがって,猪狩が1914年に野砲兵第24連隊長になった(甲斐,前掲書,p. 487),あるいは,野砲兵第14連隊が青島に出陣した,との記述は誤りである.
 
 ザクセン王国出身の青島捕虜を追跡する過程で,私は士官シュテヒャー(シュテッヒェル,シュテッヘル,シュテッヒャー,ステッヘル,ステッケル)に再び巡り会った(注5).
 シュテヒャーは1913年に青島駐屯軍に配属され,第3海兵大隊野砲兵隊隊長となった.青島陥落後に彼はまず松山に収容された.日本語に堪能な彼はそこで日本の新聞を読んでいた.松山収容所の非合法回覧紙,『陣営の火』は16年に3回に亘って,松山地域を概観する論説を掲載した.その前書きによれば,関係の日本語文献を翻訳したのは,シュテヒャーであった.彼は同年に収容所で「日本」について講演した.17年に移送された板東収容所では,「日本側の捉えた(日本側の見解による)青島戦」について講演した.彼が毛筆で書いた「忍耐 ステッヘル少佐」の掛軸(出所は不明)は,鳴門市ドイツ館に展示されている.――また,彼がかつて配属されていた世田谷駐屯連隊は,日独戦争に際して青島要塞を攻撃した.従軍した猪狩亮介少佐と山田耕三大尉は,世田谷連隊で彼と親交があった.山田は,シュテヒャーの安否を気遣う手紙を何度も要塞に送った.このように記述されてきた(注6).
 青島捕虜としてのシュテヒャーについて,さらに次の事実が明らかになる.
(i)14年12月「3日夜ステッヘル大尉ニ到着セル北京新聞ハ,ソノ弟ノ独逸国ニオケル戦死ヲ告ゲタリ.ヨッテ[松山収容所]所長ハ4日同大尉ヲ慰問シ,本日午後1時ヨリ来迎寺[ドイツ士官収容所の一つ]ニオイテ・・・森厳ナル追悼ノ法会ヲ施行」(注7).
(ii)「松山市・・・居住猪狩恭介ハ[,]実兄陸軍砲兵少佐猪狩亮介カ当地収容ノ俘虜ステッヘル大尉ト知己ナルヲ以テ[,]慰問ノ為メ同氏ト面会ヲ願出テ許可セラル(注8)」.
(iii)シュテヒャーの妻クレールは19年末に,息子1人,娘1人(いずれも12歳以上)とともに上海に住んでおり,ドイツ兵捕虜帰国船での帰国を希望していた(注9).
(iv)板東収容所時代のシュテヒャーはエンゲル楽団理事4人中の1人であった(注10).
 
 世田谷駐屯第14野砲兵連隊が日独戦争に出陣しなかったことは,上記の資料Cに関連して,すでに言及した.世田谷連隊でシュテヒャーと親しく交際したとされる士官のうち,猪狩亮介少佐は,(ii)に示したように,実弟に松山のシュテヒャーを慰問させた.山田耕三大尉とシュテヒャーの接点はどうか.山田の経歴を検討してみる.
 青島攻防戦における山田の行動を瀬戸 2001(pp. 67, 80, 92, 103, 124-125,142)は幾度も言及している.それによれば,山田は独立第18師団司令部付・陸軍歩兵大尉として従軍した.山田が戦闘中にしばしばドイツ軍と折衝したことを,ドイツ士官(ベスラー,グラーボウ,カイザー,マウヘンハイム)は証言している.14年9月28日に60人のドイツ兵が最初の捕虜となった.彼らを尋問したのが,山田であった.10月13日の一時休戦会談に際して,また,その後に,山田は旧友シュテヒャー大尉に宛てて,無事を願う手紙を送った.一時休戦会談の合意に基づいて,済南へのドイツ人婦女子の避難が10月15日に実施されたが,山田はそれに同道した.山田は11月9日の青島開城交渉に参加し,青島攻囲軍司令官と青島総督との会見では日本側通訳となった.開城規約調印後は俘虜委員となった.
 それ以外の文献・資料を見てみる.
(a)山崎正男・編,『陸軍士官学校』(秋元書房, 1974年, pp. 218, 234)は,山田を陸士16期(歩兵科1904年卒)と記している.
(b)『陸軍将校名簿』を調査する.明治39年(p. 329)で彼は近衛歩兵第3連隊付き少尉,本籍群馬,士族,22歳,1904年から少尉である.したがって,山田は1884年に生まれ,陸士卒業年に少尉となったわけである.
(c)『陸軍将校名簿』,明治41年(p. 563);明治42年(p. 591);明治45年(p.625)では,歩兵第66連隊(第14師団所属)付き中尉(1907年から中尉)である.
 明治40年の『陸軍将校名簿』が防衛研究所図書館に所蔵されていないので,断定はできないとしても,(b)と(c)から見ると,1906年に近衛歩兵第3連隊に,08−12年に歩兵第66連隊[宇都宮]に所属した歩兵士官山田が,日本軍部隊で砲兵士官シュテヒャーと接触した可能性は,高くない.少なくとも両者の接点は,シュテヒャーが08−09年に配属された野砲兵第14連隊ではなかった.二人が交流したとすれば,どのような事情があったのであろうか.また,以下の(d)と(e)で記すように,1914年に山田は日本陸軍有数のドイツ語通となっていたが,どうして彼にはそれが可能であったのであろうか.
(d)資料「第18師団司令部歴史 明治41. 10. 19――大正14. 5. 1」(防衛研・中央/部隊歴史師団/61)によれば,(1914年)8月18日に独立第18師団司令部の臨時的要員として,「外国語ニ通スル者」2人が配属された.歩兵第61連隊付き歩兵中尉山本義彦と歩兵第66連隊付き大尉山田耕三であった.ただし,猪狩に関してすでに引用した資料,「第18師団司令部歴史付録」の付表第8は,同司令部要員の中に山田を記載していない.
(e)参謀本部・編,『大正3年日独戦史』(偕行社,1916年, 復刻,ゆまに書房,2001年, 上, p. 1190)は,11月7日の青島開城交渉の日本側全権団の一員として,「独立第18師団司令部付歩兵大尉山田耕三」を記している.日本側通訳は特記されていないから,山田であったろう.ドイツ側全権団の通訳は「ボイグト」(=フォークト)博士と「ユーベルシャール」博士(注11)であった.また,同書(p.1202)は開城実施のための「俘虜委員」に山田大尉を挙げている.
(e)外交資料館で1−1−2−77に分類された資料,「支那政見雑纂」,第2巻4に多くの意見書が綴じ込まれている.その冒頭が青島軍政署山田耕三の「今日ニ於ケル帝国ノ対支政策案」であり,これは1917年4月6日付け,10ページのガリ版刷り文書である.外交史に疎い私は山田の見解を論評できない.
(f)大正2年から6年までの『陸軍将校名簿』は防衛研究所に欠けている.大正7年と8年のそれ(前者でpp. 93-406,後者でpp. 85-408)は歩兵大佐・中佐・少佐・大尉として山田を記録していない.したがって,遅くとも1918年には山田は陸軍を離れるか,他界していたであろう.
 
 ここで,ドイツ側の記録を見る.ルター派教会ドレースデン地区文書管理部によれば,ゲオルク・ヴァルター・シュテヒャーは1874年11月にドレースデンで生まれた.父は第2近衛歩兵連隊一等軍医クルト・シュテヒャー博士,母はエリーゼ・アナ・ゾフィー,旧姓レムケであった(注12).
 また,板東収容捕虜の故国住所録はヴァルター・シュテヒャーの本国連絡先をドレースデン新市街アルベルト広場10番地,エリーゼ・シュテヒャー夫人としている(注13).この住所は当時の同市刊行住所録における未亡人E. シュテヒャーのそれ(注14)と同じである.
 ヴァルター・シュテヒャーは帰国後の1921年と22/23年のドレースデン市刊行住所録に記載された.住所は病院街であった.しかし,彼はその後の刊行住所録に掲載されなかった(注15).帰国後にヴァルターが住んだ病院街は,東方三博士教会の教区であるが,この教会の20年代の死亡記録簿は現存しない(注16).したがって,彼の死亡は教会記録から解明されえない.ドレースデン市の公文書からも同じである(注17).ハンス=ヨアヒム・シュミット氏(ホイスヴァイラー)の教示によれば,シュテヒャーは1922年10月に没した.
 
  (II)軍医「ステツヘル」
 
 森鴎外は早い時期の陸軍軍医留学生として1884年から88年までドイツに派遣された.彼はまずライプツィヒ大学医学部衛生学研究所で1年間研修し,次いでドレースデンのザクセン軍団軍医講習会に約5ケ月出席した.ライプツィヒ時代の末期にはザクセン軍団の野外演習にも参加した.鴎外は帰国後,3編の小説,いわゆるドイツ三部作を発表したが,その最後のもの,『文づかひ』は鴎外のザクセン体験を背景としていた.
 森鴎外の『獨逸日記(注18)』は「軍醫正ステツヘル」を3回記録している.すなわち,「軍醫正ステツヘルStecherの講筵に與る.頒白翁にして鬚髯多く,身幹低し」(明治18年10月14日).「ステツヘル余を第二「グレナヂイル」聯隊・・・の「カシノ」・・・に招く.饗する所の肴饌豐美,三鞭酒も亦た良かりき」(18/11/10).「是日夜-8停醫學會・・・に至る.・・・ステツヘル・・・席に在り」(18/12/5).――軍医講習会の講師の一人,「軍醫正ステツヘル」は軍医講習会受講者鴎外を,第2近衛歩兵連隊の士官集会所に一夕招待したことになる.
 
 ザクセン側から見ると,この軍医はドレースデン駐屯第2近衛歩兵連隊の連隊医,二等軍医正クルト・シュテヒャー博士であった(注19).彼は,自分が勤務する連隊の士官集会所で,鴎外と夕食を共にしたわけである.
 軍医クルト・シュテヒャーは1867年の『ザクセン国政便覧』に二等軍医として初めて記録された.最後は1900年であった.この時はザクセンの軍医で最高の地位,軍医監・陸軍省軍医部長に昇進しており,功労勲章第一等騎士(1893年受賞)であった(注20).
 ルター派教会の記録によれば,軍医監クルト・シュテヒャーは1900年12月に60歳で没した.遺族は妻と2人の息子であった(注21).鴎外が『獨逸日記』で「翁」と表現した軍医シュテヒャーは,死亡時の年齢から考えると,鴎外のドレースデン滞在当時45歳だったはずである.
 
 ところで,青島捕虜ヴァルター・シュテヒャーは,すでに前節で言及した教会洗礼記録から,軍医クルト・シュテヒャーを父としていた.軍医シュテヒャーは,森鴎外が『獨逸日記』に書き記した軍医,その人である.この軍医が遺した,もう一人の息子(名は不明)は,士官シュテヒャーの弟である.この弟は,前節(i)で明らかになったように,1914年末にドイツで戦死し,松山収容所で追悼式が営まれたのであった.
 
 このように,父の軍医クルト・シュテヒャーはドイツ留学中の軍医森鴎外にドレースデンで講義した.その約20年後に子の士官ヴァルター・シュテヒャーが日本陸軍に派遣され,第一次大戦中には松山・板東に収容された.ドレースデンのシュテヒャー父子は日独交流に一定の役割を演じたと言えるであろう.
 
(注1)これは,1873年生まれ,1904年少佐,07−09年ドイツ派遣,29年没,元帥となった久迩宮邦彦王を指す.Rauck 1994, p. 210; 日本人名 1979, p. 432;日本軍 1971, p. 27; 華族 1996, p. 37.
(注2)バイアー(1874年生まれ)について,松尾,「ザクセン関係者」,pp.135-136を参照.ただし,現在ではこの文章はかなり修正されるべきである.
(注3)SAD, Nr. 4733; SHB 1908, S. 448; SHB 1909, S. 465; SHB 1910, S.473; SHB 1911, S. 483; SHB 1913, S. 468; ザクセン州立中央文書館回答.シュテヒャーはSHB 1914に記載されていない.Vgl. SHB 1914, S. 627. 同年に彼はザクセン陸軍から離れていたわけである.なお,彼の名前がSHB 1907にない(Vgl. SHB 1907, S. 579)のは,『国政便覧』は中尉以下を原則として記載しないからである.
(注4)最初の2教範は「独国大尉クント」との,3番目の教範は上記バイアーとの,共訳である.『壱大日記』(防衛研,M42~3, 省,第44,独国大使館付武官・独国大尉重砲兵射撃学校参観等ノ件;M42~14, 省,第24,独逸大使館・歩兵操典独訳出版ノ件).なお,『密大日記』(防衛研,M43~4,外国武官,第2,「独国陸軍大尉ハルトグ他3名隊付・・・ノ成績ノ件」)によれば,バイエル(=バイアー)も歩兵操典の翻訳に精力を傾注した.
(注5)松尾,「ザクセン王国出身の青島捕虜」,2002年,p. 45(注15).さらに,松尾,「久留米収容所楽団指揮者オットー・レーマンの生涯」,2003年,p.68(122)も参照.
(注6)俘虜名簿 1915, p. 4(本籍地ドレースデン); 俘虜名簿 1917, p. 4; 才神1969, pp. 148-149, 164; 林 1982, pp. 191, 233; 鳴門教育大学 1990, p. 61;冨田 1991, pp. 49, 182-183, 215, 234, 239, 32; 林 1993, pp.44, 104, 117; 板東収容所 2000, pp. 7, 95; 瀬戸 2001, pp. 103, 124-125,139, 142; 松尾 2002(2), 第1表8, 第2表3; 松尾 2003(1), p. 68; 瀬戸 2003,pp. 27, 122; 松尾 2004(1), 第2節(C)@(6); Fremdenführer 1918, S. 55.――才神 1969(p. 148)は,シュテヒャーが1910年12月,日本軍部隊派遣からの「帰国に際して駐日ドイツ大使とともに宮中に伺候し,明治天皇の拝謁をたまわった」と書いている.しかし,『明治天皇紀』はシュテヒャーの天皇拝謁を1907年9月から10年末までの期間に記録していない.明治天皇紀(11), pp.780-858; 明治天皇紀(12), pp. 1-538を参照.そもそも才神の「明治43年12月」帰国は誤りであろう.第1に,(3)に引用した資料によれば,彼は1909年末に帰国した.第2に,(注3)に記したように,10年の『国政便覧』はシュテヒャーのザクセン軍部隊復帰を明記している.
(注7)松山俘虜収容所日誌1914年12月5日の項.さらに,才神 1969, p. 149; 森2004,p. 96を参照.
(注8)松山俘虜収容所日誌1916年12月17日.猪狩恭介は当時,愛媛県立農事試験場技師であった.才神 1969, pp. 148-149.
(注9)小幡公使 1919; 解放後俘虜 1919; 瀬戸 2003, p. 122.板東「収容所楽団」指揮者パウル・エンゲルの妻も上海に住んでいた.
(注10)Hülsenitz 1917, S. 75. 指揮者エンゲルが,「ステヘル行進曲」を作曲して,シュテヒャーに献呈した理由(の一つ)は,これであろう.
(注11)ユーバーシャールについて,さしあたり,松尾,「レーマンの生涯」,p.68(128)を,フォークトについて,さしあたり,同,pp. 68-69(130); 瀬戸2003, p. 129,を参照.
(注12)以上の典拠はドレースデン新市街・東方三博士教会洗礼記録簿1874年1698号である.――帝国法に基づく出生・婚姻・死亡記録は,1876年に開始された.Fischer 1914, S. 116. 同年以前に生まれたヴァルター・シュテヒャーについて,戸籍部記録(出生・死亡届出記録)は作成されていない.ドレースデン市戸籍部回答;ドレースデン市立文書館回答.
(注13)故国住所録, S. 43. ドレースデン刊行住所録におけるシュテヒャー未亡人の名E. は,故国住所録とヴァルターの洗礼記録簿から見て,エリーゼである.士官シュテヒャーは,(iii)で見たように,妻が当時上海に住んでいたから,母を故国連絡先としたのであろう.
(注14)ドレースデン市立文書館回答.
(注15)ドレースデン市立文書館回答.病院街は,新市街アルベルト広場から南南東に向かう道路であり,その名称は同地の陸軍病院に由来した.Stimmel 1994,S. 193. しかし,陸軍病院は森鴎外のドレースデン軍医講習会受講時にすでに陸軍特別地区に移転していた.
(注16)ルター派教会ドレースデン地区文書管理部回答.
(注17)ドレースデン市戸籍部回答;ドレースデン市立文書館回答.
(注18)『獨逸日記』の記事はすべて事実である,とこれまで理解されてきた.それに対して,中井義幸,「軍医森鴎外再考」,『鴎外』,59号,1996年は重大な疑問を提出している.
(注19)Rangliste 1885, S. 26, 243. Vgl. SHB 1886/87, S. 494. さらに,松尾,「ザクセンの森鴎外 補遺」,1998年, pp. 100-101を参照.
(注20)SHB 1867, S. 484; SHB 1900, S. 19, 774.
(注21)ドレースデン・マルティン=ルター教会死亡登録簿1900年第769号に基づくルター派教会ドレースデン地区文書管理部回答.