松尾展成「日本とザクセンを結んだシュテヒャー父子」を読む
                               瀬戸武彦
 
 
 この度、54日付けの会報132号で紹介され、ホームページの「論文・記事など」にも掲載されている松尾展成岡山大名誉教授の論考「日本とザクセンを結んだシュテヒャー父子」は、実に綿密な検証に基づいた精緻な論考である。この論考への感想とその意義を管見の限りで述べてみたい。
 
0)この論考で主として採り上げられている人物は、松山・板東の両俘虜収容所に収容された将校ゲオルク・ヴァルター・シュテヒャー(シュテッヒャー;Georg Walter Stecher)大尉、及び軍医クルト・シュテヒャーである。後者クルト・シュテヒャーは、シュテヒャー大尉の父親で、ザクセン陸軍省軍医部長・軍医監にまで昇りつめた人物である。また両者との関連で、猪狩亮介、猪狩恭助、山田耕三、森鴎外にも言及されている。猪狩亮介は日独戦争時に陸軍砲兵少佐、猪狩恭助はその弟、そして山田耕三は日独戦争時に陸軍歩兵大尉だった。
 
1) シュテヒャー大尉の経歴については、論者松尾名誉教授による調査まで、明治末期久邇宮邦彦親王との交換でザクセン陸軍省から日本に派遣されたこと、明治天皇に拝謁したこと、猪狩少佐、山田大尉と親交があったこと、弟が開戦後まもなく欧州で戦死したこと、松山、板東の両収容所での学習活動、「エンゲル・オーケストラ」の理事であったこと、今日、鳴門市ドイツ館にその筆になる「忍耐 ステッヘル少佐」の書があること等が知られていた。現役将校俘虜の中では、比較的その人物像が知られている数少ない一人と言える。しかし、肝心の生没年等の経歴については、未知のまま、というよりは調査することに思い至る研究者もいなかったのが実情である。論者はその論文「来日したザクセン関係者」(1998)において、俘虜研究とは別の視点からシュテヒャーについて言及していたことを考えると、この度の詳細なシュテヒャー研究は、至極理由のあることでもあった。シュテヒャーに関しての論究では、従来触れられることのなかった資料『ザクセン国政便覧』からの検証は、長年「ザクセン農政史」の研究に打ち込まれてきた論者ならではと考える。シュテヒャー大尉の来日前後の動向がかなり明瞭になったことが、この論考の意義の一つとされる。ただ一点、大きな問題と考えられるのがシュテヒャー大尉の配属先である。19079月に来日してからの一年間、シュテヒャー大尉が何処に配属されていたのかが、未決定のままになっている。ザクセン側の資料では静岡で、日本側の資料では不明に留まっている。このことは、後に触れる山田耕三大尉との関連で重要な意味を持つ。ザクセン側の資料が正しいとすれば、シュテヒャー大尉の配属先は歩兵第34連隊となる。砲兵将校であるシュテヒャー大尉が、何故歩兵連隊に配属されたのか。疑問が生じるところである。それと関連することであるが、山田耕三は1908年から宇都宮の歩兵第66連隊に配属されたようだが、月日が不明なことから、宇都宮への配属以前も年号の点では1908年の可能性がある。宇都宮以前の山田耕三は、近衛歩兵第3連隊附であることから、東京にいたことになる。近衛野砲兵第14連隊所属の猪狩亮介も当然ながら東京にいた。陸軍士官学校の卒業年では、猪狩亮介は山田耕三より4年先輩になるが、ドイツ語を通じて知り合う可能性はなかったのだろうか。推測、想像の域を出ないものではあるが、猪狩、山田の二人の足跡を更に詳細に調査すれば、あるいは二人の接点が見出せるのかもしれない。シュテヒャー大尉が日本陸軍の教範『歩兵操典』を訳出したことも、気になる出来事である。他のドイツ人将校との共訳とのことではあるが、彼等だけで独訳したと考えるよりも、ドイツ語に通じた日本人将校に、助言・助力を仰ぐことは至って自然なことのように思える。ドイツ語に長けた日本陸軍の歩兵将校が協力した可能性は、寧ろ高いであろう。上記『歩兵操典』以外にも、日本陸軍の教範『野戦砲兵操典』及び『野戦砲兵射撃教範』を他のドイツ人将校と共同で独訳した。猪狩亮介と山田耕三の二人が独訳に協力した、と考えるのは推測が過ぎるであろうか。なお、第一次大戦時のドイツ将兵俘虜の足跡等の研究は、従来応召兵が中心で、現役の将兵は一部の例外(例えば、「第九」の本邦初演時の演奏者へルマン・ハンゼン)を除いて、対象にはなりにくかった側面がある。しかしシュテヒャー大尉は、第一次大戦以前に日本を訪れ、日本人将校と親密な関係を結んだ。この一例をとっても稀有なことであるが、収容中の文化的活動によっても、その存在は特筆に価する人物である。
 
2) 猪狩亮介については従来、単に砲兵少佐だったというその兵種・階級、愛媛県農事試験場技師の弟が松山にいて、シュテヒャーに面会すべく松山俘虜収容所訪れたことしか触れられていなかったように思われる。本論考によって、シュテヒャー大尉と猪狩少佐は、近衛野砲兵第14連隊で接触した可能性が、ほぼ立証された意味は大きい。論者は猪狩亮介少佐について、陸軍関係の資料に留まらない新たな資料の発掘によって、予備役中将で軍を退いてからの足跡についても記している。猪狩亮介が晩年近くの8年間を、高等工科学校長という、全く意外な道を歩んだことを知り、その人物像が「顔を持った」人間としていくらか浮かび上がった感がする。 
 
3) 猪狩亮介の弟が、猪狩恭助の氏名できちんと記されたのは、俘虜関係文献では本論考が初めてであろう。筆者などは探索の努力をしないまま、単に「猪狩亮介少佐の弟」とのみ記して、何ら痛痒を感じないできた。論者の細部の細かい点にまで調査の目を向け、疑問点は徹頭徹尾追求する姿勢が、このような所にも顕著に出ていると言える。歴史研究に携わる際の姿勢を教えられる気がするのは、筆者一人ではあるまい。
 
4) 山田耕三歩兵大尉はシュテヒャー大尉との関わりで、ドイツ側の文献にも登場する珍しい存在であるが、その経歴等を含めた実像は杳として不明であった。本論考においても必ずしも山田大尉像が明瞭になった訳ではない。山田大尉とシュテヒャー大尉の接点は、未だ不明のままである。しかし山田耕三大尉の経歴に関連して、1917年の時点でも青島に留まり、青島軍政署から「意見書」を提出していたことを論者が突き止めたことは、一つの成果であると言える。ただ、「明治39年で彼は近衛歩兵第3連隊付き少尉、…22歳、1904年から少尉である」の下りは、換算上正しいのであろうか?ともかく『陸軍将校名簿』の記載状況から、1918年には軍を離れるか、他界したのではという論者の推測は、筆者も共有するところである。抜群のドイツ語力を有していたと思われる山田大尉は、猪狩少佐以上にシュテヒャー大尉と親密であったとも推測される。ドイツ語力という点で、不図筆者の脳裡を過ぎることは、ポツダムのドイツ陸軍士官学校に留学した山本茂歩兵中尉(日独戦争時の階級)のことである。山本中尉は大分・習志野の俘虜フリッツ・ルンプと親しく、かつ森鴎外の周囲にもいた人物である。4年近くドイツに留学した鴎外の周辺に、ドイツ語・ドイツ通の若手将校が集まる、ということはなかったのだろうか、との他愛もない想像が浮かんだりする。単にルンプとの関わりでのみ、山本中尉は鴎外と近しくなっただけなのだろうか。「1914年の時点で山田は日本陸軍有数のドイツ語通となっていたが、どうして彼にはそれが可能であったのだろう」、という論者の疑問からの連想である。ハンス・ヨアヒム・シュミット氏の調査によれば、シュテヒャー大尉は1922年に没したらしい。シュテヒャー大尉と同様に山田大尉も早世したとすれば、実に惜しむべきことである。
 
5) クルト・シュテヒャー(Kurt Stecher)は、本邦においては本論考で初めてその名が記されたと思ったが、鴎外の『獨逸日記』に三度も登場していたことは、実に思いがけないことだった。ここにも論者の調査・探求の眼がいかに鋭く、かつ細かい点にまで及ぶかが如術に現れている。188510月、ドレスデン滞在中の若き鴎外森林太郎は、ドレスデン駐屯第2近衛歩兵連隊の連隊医・2等軍医正クルト・シュテヒャーの講演を聞き、あまつさえ、士官集会所での晩餐会に招かれ、シャンペンを傾けつつ歓談したとの事実には、不思議な巡り合わせを感ぜずにはいられない。その息子の俘虜将校シュテヒャー大尉が、松山・板東の俘虜収容所いることを、後の鴎外は豪も知らなかったであろう。同じくシュテヒャー大尉も、19079月に来日して二ヵ月後の11月、軍医総監に就いた森林太郎が、かつて自分の父親の講演を聞き、また膝を交えて語り合った人物とは、想像さえしなかったであろう。クルト・シュテヒャーは、最後にはザクセン陸軍の軍医監という最高位にまで昇りつめたが、同じく軍医総監にまで昇りつめた森鴎外のことを思うと、余りに符牒が合致したことに、運命の不思議さを思わずにはいられない。シュテヒャー大尉が、猪狩少佐及び山田大尉の日本人将校と親交を結んだ背景には、単にドイツ語を解する日本人将校だった、という以外の要素もあったのではないか、との想像も浮かんでくる。久邇宮邦彦親王との交換で日本陸軍へ派遣されたのは、果たして偶然のことだったのであろうか。
ともあれ、論者の結句「ドレースデンのシュテヒャー父子は、日独交流に一定の役割を演じたと言えるであろう」の言葉に、本論考の意義が集約されているが、この言葉はもっと強調しても、強調し過ぎることにはならないであろう。
 
                        平成17512日 記