ミダ・イエス教
――僕の『詩と真実』――
小阪清行
 
 僕の家の宗旨はもともと浄土真宗だった。近所に不幸があって通夜などに出ると、今でもお年寄りから「儂(わし)はあんたのお祖父さんから正信偈を教えてもろたんやがな」と、有難そうに言われることがある――祖父の死後六十年近く経っているのに。祖父は僕の誕生の数ヶ月後に死んだが、人の話を繋ぎ合わせると、まるで妙好人のような人柄だったように僕には思われる。
 大きな金色の仏壇に御仏飯を運ぶのが、幼い頃の僕の日課だった。家に念仏の絶える日はなかった。父はことあるごとに仏壇の前で正信偈を称えていた。
 父には、しかし、妙好人らしさの欠片(かけら)もなかった。狡(ドツベラコ)くて捻くれ者の僕は、父からしょっちゅう怒鳴られ、口汚く罵られていた。
 「おまえみたいな人間は穀潰し(ゴクトレ)になってしまうんじゃ」
 この一言とともに、真っ暗で黴臭い地下室に放り込まれた。謝ることもせず、ただ頑なに泣き叫びながら戸を叩き続けた。やがて泣き疲れて、乾いた涙で頬が引きつってくる。コンクリートの階段に座った尻が、冷えて痛い。ときどき鼠の走る音。蛇が這い上がって来ぬかという不安と恐怖。時を失った闇の中で、遣り場のない怒りが沸々と湧き上がってきた。
 僕の記憶はこの囚獄(ひとや)から始まる。
 助けにきてくれるのは決まって二軒隣りの荒井のオバさんだった。岡山の田舎の出で、ボートとパチンコが好きな――父が言うところの――穀潰し(ゴクトレ)ババアだった。僕は不思議と父が毛嫌いするタイプの人間に好かれた。
 もともと父は自作農で、かなりの塩田も所有していた。そこへ倉敷紡績が丸亀に工場進出を計画して、塩田の買い取りを打診してきた。父は、工場の正門を我が家に一番近い位置に設けることを条件に、譲渡に応じた。五百人の女工たちを相手に商売を目論んで、土地譲渡で得た金で店舗を兼ねた家を新築した。その際、物置代わりに造らせたのがこの地下室だった。昭和初期の話である。
 父は百姓の出にしては利に賢く、商売が上手かった。そして働き者だった。まだ塩田を持っていた頃は、夜明け前から起きて、入り浜式塩田で「浜引」「潮掛」などの奴隷労働に汗を流し、午後は田畑の仕事。塩田を売った後も、農作業、商売、借家の修理と、寝る暇を惜しんで働き続けた。飯台と仏壇の前以外で、座っている父の姿を見た記憶がほとんどない。
 母は、父にとって三人目の連れ合いだった。祖母が嫁にあまりに辛く当たるため、先妻二人は辛抱できずに逃げ帰り、そのうちの一人は実家に帰る途中、松林で首を吊った。
 総領だった祖母は、婿養子の祖父とは正反対で、何事も自分の思い通りにならないと承知できない性分(たち)だった。そして女牢名主のごとく近所の女衆(おなごし)を仕切っていた。「あんたは熊はんと一緒になんな」という祖母の一言で、遠縁のミッちゃんは好き合っていた与吉っつぁんから引き離されて、無理矢理に熊はんに嫁(とつ)がされた。そして奈落に落ちた。
 母がそんな祖母に辛抱できたのは、母自身が再婚でもう逃げ場がなかったからである。前の夫は酒乱で女癖が悪く、母は娘を連れて善通寺の実家に逃げ帰っていた。そして同じ過ちを繰り返せばもう家には入れない、と実父から釘を刺されたうえで、丸亀に嫁(とつ)がされていたのである。しかも祖母は、娘を善通寺に置いてくることを嫁取りの条件とした。僕にとって種違いの姉にあたるその娘は、里子に出されて、後に精神を病んだ。
 母は、父に劣らぬ働き者だったが、その母もやはり祖母にいびられた。醜女で出戻りの叔母も、祖母に加勢した。風呂の湯の量がどうの、おかずの味付けがこうのと、細かいことで毒々しい嫌味を言われるのが母の日常だった。商品の靴下が中に一足残っている紙箱を、母が間違えて風呂の焚き口に持っていったことがあった。「シズ子、おまえはうちの家を潰す気かぁ」と般若顔で狂ったように怒鳴り散らしていた光景を、僕は今も忘れることができない。隠れて悔し泪を流す母の姿を何度目撃したことだろう。父は度し難いマザコンで、父が母を庇っている情景を僕は思い出すことができない。
 家の中が和むことは、地下室に陽の光が射しこむのと同様、皆無であった。
 これが僕を包む浄土真宗ないし仏教の世界だった。だから僕は父や祖母を憎み、その父や祖母が称える糞垂れ念仏も糞垂れ仏教も嫌っていた。
 
 商売が忙しかったせいで、僕は四年間も幼稚園に通わされた。本願寺塩屋別院の付属幼稚園である。子供の足で歩いて十五分くらいのところにあった。先生のスカートの中を覗き込んで撲(しば)かれるような悪ガキだったが、何故だか卒園のとき総代に選ばれた。そして本堂で輪番さんを前にして答辞を述べる羽目になった。「御仏様のよい子になります」と、心にも無いことを言ってのけた。
 小学時代には勉強もせず、「御仏様のよい子」どころか、殺生ばかりやっていた。学校から帰ると、塩田の周辺の海で貝掘り、魚釣り、蟹釣りの毎日だった。
 素手で貝を掘るとき、大きな貝に指が触れた瞬間の快感。魚屋で貰ってきた鯖の頭をジャバラ糸に括り付け、棒の先に吊す。岩場に垂らして待っていると、ワタリガニが泳いできて鯖の頭にしがみつく。それをソッと持ち上げながら網で掬うのだが、蟹が泳ぎ寄ってくる姿の、得も言えぬ小気味良さ。台風で塩田の堤防が決壊したことがあった。徐々に水が退いて、子供の足でも入れる程になった頃、逃げ場を失った鱚(キス)などの魚や、蟹やタコが、網や素手で簡単に捕れた。はじけんばかりの喜びと興奮。子供時代を振り返るとき、輝いているのは、海で遊んだ光景ばかりである。
 それ以外の記憶はどれも、ゴッホが描いた糸杉の夜空のように、黒くそして歪んでいる。しかしそれは家庭内の陰鬱さだけに因っていたのではなかった。その暗さは僕の体に潜む悪の反映でもあった。僕にはメンコ(ぱっちん)やビー玉(ラムネ)などの賭け事に病的にのめり込む傾向があった。自分が自分を制御できない。負ければ取り戻そうとする。また負ける。店のお金を盗んでまでやって、また負ける。愚かであると知りながら、取り憑かれたように、魔の力に振り回されていた。性的欲望についても同様で、お医者さんごっこをしたときの、黒く燃える疼くような歓喜は、今も体が覚えている。
 
 僕が中学一年の正月、四歳年上の兄が石鎚山で遭難した。これが僕にとって初めての「死」の体験だった。凍死した兄の顔は眠っているように安らかだったが、死に顔を見た途端、僕は頭を金槌で殴られたような烈しい頭痛に襲われ、嘔吐を催した。それからの数週間、まるで真空のような異次元空間の中で生きていたような気がする。キーンという金属音しか聞こえていなかった。
 そんなある日、同じ町内で祈祷師をやっている老婆とその嫁が、僕たちの家にやって来た。そして言った。「お宅の息子さんが私(うち)らの夢に現れてなぁ、泣きもって言うんじゃがな。親に悪いことした、悪いことしたぁ、ちゅうてな。どうしても謝りたいけん、間に入ってくれんやろか、そない言うんじゃがな」。座敷に祭壇が組まれ、お供えが献げられた。やがて彼女たちは御幣を振り回しながら嘘っぽいトランス状態に入って、悶えたり、喘いだり、叫んだりした。そして陶酔から覚めたとき、もっともらしい「兄の言葉」を取り次いだ。両親と祖母は喜んで、謝礼金を弾んだ。僕はなぜか如何わしさを感じた。ただ「お金」が目当だということに直観的に気付いていた。嘘つき人間には人の嘘を見抜く能力が具わっているのかもしれないが、ともかく、宗教がこれほどまでに人を盲目にすること、それが僕には理解できなかった。
 
 僕は、兄の死の一年ほど前から、兄の親友の御母堂に英語を習っていた。日本女子大で英文学を学び、映画の助監督に嫁いでいたが、若くしてご主人を亡くされ、丸亀の実家に帰っておられた。二階に庭園のある大きな邸宅だったが、左翼がかった人達の溜まり場になっていた。大の勉強嫌いだった僕が、英語だけにせよ、自分から勉強するようになったのは、ひとえに前田先生のお陰だと思っている。プラトン、ディケンズ、マルクス等の――当時の僕には――神秘な響きを持った名前は、先生の塾で初めて聞いた。僕の家とは違って、ここでは「精神」が息づいていた。生まれて初めての高尚な世界との出会いだった。先生はもともとはカトリックだったが(そして後にカトリックに回帰されたが)、その頃はセブンスデー・アドベンチスト(SDA)というアメリカのプロテスタント系教会に属しておられた。その関係で僕は聖書を読んだり、その教会が主催する英語キャンプに参加するなどして、キリスト教というものに触れるようになった。
 中学時代、僕は一時ぐれていた。担任に髪を刈られたことにやたらと反発したのがキッカケだった。時あたかも反抗期で、得体の知れない――多分に性的な――どす黒い存在が心の奥に蜷局(とぐろ)を巻いていた。それが荒れ狂い始めた結果だった。しかし、前田先生の前や教会の中では、そんな素振りは?(おくび)にもださなかった。偽善者に向かって、「白く塗った墓」「蛇」「蝮の子」と烈しく罵ったイエスの言葉が、心臓に突き刺さった。
 一方に自身を偽善者と責める自分、他方に牧師の説教に嘘を感じる傲岸な自分――両者の板挟みで、説教を聴くたびに胸に棘が刺ささるような痛みを覚えた。一部教会員の高潔な人格や敬虔さにもかかわらず、僕は安息日の重視など、SDAの戒律主義的教義にも違和感を感じ始めていた。
 内村鑑三の文章を初めて読んだのは高校一年のときだった。圧倒するような言葉の力に惹かれて、急速にSDAから無教会的考えに傾いていった。
 模擬テストの結果が何点だとか、期末試験の成績が学内で何番だとか、そんなことがかりで騒いでいる級友達が、みんな馬鹿に見えた。そんな校風の高校だった。
 
 獨協大学では、内村の流れを汲む小池辰雄先生のゼミに入った。たまたま高校時代にすでに、先生が訳されたヒルティの『眠られぬ夜のために』が僕の本棚にあった。ゼミではシュヴァイツァーと、ゲーテの『ファウスト』を読んだ。
 先生はもともと、塚本虎二や藤井武など内村の高弟の弟子だったが、無教会には「聖霊」が無いと言って飛び出された方である。
 先生の集会に参加したことがある。ちょうど聖霊降臨祭(ペンテコステ)だった。集会では先生は紛れもない教祖だった。先生の入魂の説教の後、祈祷に移ったが、祈りの場にたちまち「聖霊」が降(くだ)って、五十人ほどの信徒のほとんどがトランス状態に入った。空間が異様な霊気で充満して、「主(しゅ)さま!」と叫んだり、泣いたり、異言を語ったり、体を激しく震わせたり――まさに、ペンテコステの再現だった。もちろん、あの口寄せの女たちのような如何わしさは微塵もない。僕自身も未知の力に取り憑かれ、沸騰しそうな予感があった。その時、先生が背後に立って僕の背中をさすった。ますます破裂しそうになったが、僕はただただ恐ろしくて、体を硬直させて黙り続けた。先生が僕から遠ざかったとき、九死に一生を得たような安堵を覚えた。
 「先生、午後からは用事がありますので、これで失礼します」。先生に見詰められると、蛇に睨まれた蛙状態の僕だったが、その先生に嘘をついた。嘘をついてまで、午後の茶話会を遠慮して、その場から逃げ去りたかった。
 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。
 小心者の僕は、聖霊を拒んだような罪悪感に後々までも苛まれた。そんなある日、先生の集会に出たことのあるゼミの先輩と喫茶店で話していた。彼は煙草を吹かしながら「俺があそこで感じたことは、まずもってセックスだったねぇ。はっはっは」と磊落に笑い飛ばした。そのときから僕の気持は何故か少し楽になった。もちろん二度と集会に足を運ぶことはなかった。
 先生は、集会だけでなく、授業中にも説教を行った。学問の場において客観性や中立性や理論は軽視された。特に論理の欠如には目を被いたくなるものがあった。『キリスト者の自由』のルターと「自由の詩人」シラーは共に十一月十日生まれである――僕にとっては単なる偶然の一致に過ぎないことが、先生には意味を持った。平気でそんなことを学会の論文に書いておられた。僕には理解しがたいオカルト的世界だった。
 先生には偽善の片鱗も無かった。それと関連するかどうか、ともかく好き嫌いが激しくて、依怙贔屓することに何の憚りもなかった。人間を、動物的本能のようなもので見ていたに違いない。女性関係もゲーテと張り合うほどに華々しく、その面でも先生に躓く人間は少なくなかった。ヒルティの訳者として僕が想像していた円満高潔な人格からは、およそ遠かった。
 先生の内面は、ヒルティやシュヴァイツァーではなく、ルターやゲーテのそれだった。その宇宙は底知れぬ神秘を帯びて、野性と神性、闇と光が共存していた。結局僕は、先生のその闇と光に惹かれていたと思う。
 ともかく僕は小池ゼミの熱心なメンバーであり続け、宗教に関する講義などもすべて受講した。先生から学んだことは、まず「体感」ということだった。ゼミでの発表の際、僕は、ダンテとゲーテの女性観を比較する内村鑑三の引用を並べていた(オーソドキシーの内村がゲーテに批判的であるのは無論である)。「君、人がどう感じたかはあまり重要じゃないんだよ。君自身がどう感じているかを、自分の言葉で述べなきゃダメだ」と厳しい口調で叱られたことがある。これが僕には応えた。中味が無く、借り物の衣裳でわが身を被っていた僕は、身包(みぐる)み剥がれて丸裸にされた思いだった。逆に「体で感じて」言葉を発している人間の意見には――特に、先生の集会に「セックスを感じた」例の先輩には――よく耳を傾け、尊重しておられた。
 しかし、僕が先生から相続した最大遺物は、結局「高尚なる生涯」でも、「体感」でもなく、ましてや「聖霊」によるヌミノーゼ体験でもなく、先生の生き様そのものだったと思っている。それは一言で言えば、「破れ」の生き様だった。
 木喰のけさや衣はやぶれても まだ本願はやぶれざりけり
 先生が特愛した木喰上人の歌である。
 
 卒業後、僕は小池先生に推薦状を書いてもらって、西ドイツのテュービンゲン大学に留学した。
 テュービンゲンは美しい街だった。街の真ん中をネッカー川が流れている。ネッカー橋から川中島(ネッカー・インゼル)に降りる階段があり、原生林のようなプラタナスの並木が上流に向かって延々と伸びる。橋から見てネッカーの右岸には、柳の樹に囲まれた「ヘルダーリンの塔」が立ち、これが街のシンボルになっている。人妻ズゼッテ・ゴンタルト(ディオティーマ)との限りなく純粋な関係を引き裂かれ、放浪を続けていた詩人は、ボルドーからの帰郷の途次、突如アポロに撃たれた。精神の闇に包まれたまま、三十六年をこの塔で過ごしたのである。この塔の裏道を百メートルほど西に行くと、ヘルダーリン、ヘーゲル、シェリングが共に学んだ神学寮(シュティフト)がある。神学寮の横の石段を登って、今度は東に向かって歩くとシュティフト教会(キルヒェ)が聳える。その斜向かいに小さなヘッケンハウアー書店がある。エリートコースからドロップアウトした若きヘッセが、約四年間見習い店員としてここで働き、その間に詩集を世に問うた。ヘッセはここから世界に羽搏いていったのである。ヘッケンハウアー書店と向かい合うように、コッタハウスが立つ。後に初めてゲーテ全集を出版したコッタの家で、ここにしばらくゲーテが滞在していた。ヘルダーリン達が神学寮から巣立っていった数年後のことである。
 ともかく、少しばかり時間のズレはあるものの、半径百メートルそこそこの圏内で、文学・思想の巨星たちが同じ石畳の上を歩いていたことになる。「詩」が実体として漂っている――そんな濃厚な空気の感じられる一角がテュービンゲンには存在した。
 最初の一年間、シュヴェービッシュというほとんど理解不能な方言を喋る老婦人のところに下宿していた。学生が数人下宿していたこの家は三階建てで、ドイツ家屋の例に違わず、地下室もあった。僕はその二階に住んでいた。
 隣りの家に、トマス・ハーゼという男が下宿していた。学生ではなかった。彼は初対面のとき自分をMalerだと紹介したので、僕はてっきり画家か画学生だろうと思っていた。実際そんな雰囲気を漂わせていた。Malerに「ペンキ屋」の意味もあると知ったのは、だいぶ後のことである。端正な顔立ちなのに少し藪睨みで、奇人だった。若者にしては強いシュヴェービッシュ訛が残っていて、早口で、そのうえ吃るので、話しているとひどく疲れた。
 ある夜、疲れて早めに床に就いていると、窓ガラスに何度もカチンカチンと何かがぶつかる音がする。目覚めて窓から顔を出すと、ベレー帽を被ったトマスが手招きしていた。窓に小石を投げつけていたのだ。それほど親しい間柄でもなかったのに、これからビールに付き合えと言う。もう寝ているし疲れているからダメだ、と言ってもドイツ人特有の強引さで、ともかく降りて来いと言う。
 近くの飲み屋に行くと、ジョッキをささげ持った互いの腕を絡めさせて、そのままの状態で、ビールを飲めという。その通りにすると、「これで俺たちは義兄弟だ」と、訳の分からぬことを言った。
 その後もこちらの都合を無視して、ずかずかと僕の生活に闖入してきた。
 タイプ打ちの彼の詩集を読んだことがある。生きることの哀しさが切々と伝わってくる素晴らしい詩だった。何度も人に裏切られて寂しくて堪らない気持が感じられた。受験勉強をやるタイプではなく、親にも見放されていたため、才能に恵まれながら、大学に入ることができない。ペンキ屋仲間とでは、話も?み合わなかったであろう。たとえ大学に入っても、あの性格では友人などできはしない。不憫に思った。そう思ったものの、彼の威圧的態度には、その後もウンザリさせられ通しだった。「義兄弟」になっても、付き合いはなるべくご免被りたかった。だから僕もトマスを裏切った人間の一人なのだ。
 獨協時代に、その境遇がトマスに似た友人がいた。山梨出身の服部という同い年の人間だった。才能も、向学心も、知識もすべてが僕より遙かに上なのに、西新井の油に汚れたネジ工場で職人をやっていた。彼にも、僕以外に友がいなかった。偶然知り合いになってからは、ときどき草加の僕のアパートにギターを抱えてやってきた。そして孤独を訴える詩を読んで聞かせたり、立原道造の失恋の詩をアレンジして、それに曲をつけてギターで弾き語ったりした。
 ある日曜日の午後、一度だけ服部を西新井に訪ねたことがある。工場の横にある三軒長屋が寮になっていて、その一軒に先輩の職人と同居していた。薄暗い部屋でしばらく話をしていると、壁一枚隔てた隣りの部屋から、男の怒鳴り声と一緒に陶器の割れる音が聞こえた。子供の泣き声がしたと思うと、今度は女の金切り声のあと、窓ガラスが割れた。服部は慣れているらしく、「また始まったね」と言って平然とギターをつま弾いていた。近くに旨い餃子を喰わせる店があると言うので、一緒に夕飯に出掛けようとしていたときだった。同室の職人が帰ってきた。すれ違いざまにその顔を見て、心臓が止まりそうになった。顔の表面から、蚯蚓(みみず)状の肉が百本もぶら下がっていた。
 トマスと話していると、僕はよく服部のことを思い出した。そして生きることの哀しさを思った。
 トマスがある日、『神の学校にて――救いと慰めの本』という本をくれた。パウル・ゲルハルトやボンヘッファーなどの詩や説教やエッセイ、それに聖句からなるアンソロジーで、デューラーなどの銅板画や木版画も何枚か入っている。センチメンタルな調子もあるが、立ちのぼる世界はドイツの冬のように――そしてトマスの内面のように――暗く冷たい。しかし斜めから仄かな光が差し込んでいるようで、心に沁みるものがあった。僕は文章よりも絵が気に入った。とりわけ惹かれたのは、溺れかかった青年ペテロにイエスが手を差し伸べている絵だ。三十二ページにあるはずのその絵が、今は見あたらない。切り取って壁に掛けていたことがあり、どこかに挟まっているはずなのだが、探そうという気持は起こらない。実物が出てきたとしても、僕の脳裡に焼きついている絵の方が、ずっとヴィヴィッドだろうから。
 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
 巻末の出典一覧によればペグローという名もない画家の絵らしいが、その絵が、何故かしばしば思い浮かんでは、「救いと慰め」を与えてくれるのである。
 イエスは、手だけしか描かれていない。舟縁(ふなべり)のその手は、ペテロの手をしっかり掴んで放さない。ペテロの顔は恐怖に歪んでいる。そしてイエスを見上げている。仄かな光は、二人の手しか照らしていない。それなのに、闇の中のペテロの脅えた顔も、不思議とはっきり記憶に残っている。闇に包まれた恐怖だからこそ、より鮮明に焼き付いている所為(せい)だろうか。
 「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と咎めているのに、僕にはイエスの優しさしか感じとれない。
 あの手の残像の所為だろう。
 神殿に入ったイエスが、両替商の台や鳩を売る者の腰掛けを投げ倒したりしたのに、僕にはイエスの怒りが感じとれない。鶏が鳴く前に三度知らないと言うだろうと予告したイエスの言葉に、ペテロへの愛しか感じない。聖霊に言い逆らう者も、今では許されている気がするのである。
 すべては、あの絵の、握って放さない手ゆえかもしれない。
 
 テュービンゲンで文学やルター神学を中途半端に囓り、そこでの生活を捨てて東ドイツのアンモニアプラント建設現場で一年ほど通訳として働いた。たまたまその化学コンビナートは「ルターの町」ヴィッテンベルク市内にあった。そして丸亀に帰って親の商売を継いだ。好き放題、遊ばせ勉強させてくれた親への感謝のつもりだった――というのは嘘で、無能でいい加減な人間だったため、ほかに進むべき道が見あたらなかったからだ。
 時あたかもオイルショック後のインフレの最中で、僕の仕事は定価を貼り替える作業だった。例えば、千円で仕入れた品物に、千五百円の定価ラベルが付いているとする。新しく仕入れようとすると、原価が千五百円に高騰している。古い品物を千五百円で売ったのでは、利益が無くなってしまい、仕入れが出来なくなってしまう。だから定価を二千円に貼り替えなければならない。仕方がないような気もしたが、千円のものを二千円で売っては、儲け過ぎではないかという気もしていた。
 父のアパートも、建材費と人件費が安いときに建てたのに、インフレと共に、家賃はどんどん値上げされた。建て替えようとするとそれだけの資金が必要になるから。理屈に叶った正当な理由である――一見。
 商売人たちは「チェッ、しゃあないなぁ」という顔をしながら、腹の中では誰もがほくそ笑んでいた。銀行から借り入れたお金の価値が、どんどん下がっていたからである。経済の巨大な歯車は、人間の限りない欲望によってのみ駆動されているように思われた。世の中の現象が一切合財、この金儲けの絡繰りに組み込まれているように感じられた。
 能力のない自分が大学で学び留学できたのは、すべて父がこうやって稼いでくれた財のお陰。そのやり方に文句をつけられる道理などあろうはずが無いのに、ことあるごとに衝突して、喧嘩ばかりしていた。
 一緒に借家の雨漏り修理をやっていたときのことである。僕が口答えしたものだから、屋根の上から瓦を投げつけられた。二枚の瓦が僕の足元で粉々に砕け散った。
 どうしようもない無力感、自責、焦燥、自棄。今まで自分が学んできたものは、一体何だったのだろうか。そんなことばかり考えていた。
 親鸞に出会ったのは、そんなときだった。本屋で何気なく手に取った倉田百三の『法然と親鸞の信仰』の中に、「摂取不捨」「下根」という言葉を見出して、驚くほど新鮮な喜びを感じた。僕の中では、「不捨」という点では、イエスの教えも全く同じだという感覚があったのに、キリスト教は――少なくとも僕の知るキリスト教は――そうは教えなかった。親鸞とその信仰構造が似ていると言われるパウロやルターの神も、「救ってはやるが、その後は真人間になれ。真人間になれないならば、それはおまえの信仰が本物でないからだ」と言っているように感じられた。それが僕を不安にし、苛立たせた。「おまえの考えは所詮擬(まが)い物に過ぎない。甘えに過ぎない。イエスの教えはもっともっと峻厳なもんだ」という声が何処かから聞こえる気がしていた。キリスト教の中では、わずかに遠藤周作、特に『沈黙』の「転びキリシタン」キチジロウに、同類を見出しただけだった。
 親鸞は、「とことんダメな人間でいい。いやむしろ、とことんダメな人間の方がいいんだよ」と僕に語りかけた。「おまえがダメなのはおまえだけの所為じゃない。生まれついたら、どうしようもないってこともあるんだよ」とも、また「おまえの信仰もダメなのか、私の信仰もダメなんだよ」とも語りかけてくれた。
 溺れる者は藁をも掴む。糞(くそ)をも、糞垂れ仏教をも掴む。当時の僕にとっては、キリスト教であろうと、忌み嫌った仏教であろうと、最早どうでもよくなっていた。「歎異抄」の親鸞によって、僕の中で初めて「不捨のイエス」が肯定された気がしたのである。
 僕のイエスは、脅え震える手を、しっかり掴んで放さないイエス。どれほど悪や陋劣さに塗(まみ)れていようと、心弱く信仰が薄かろうと、空虚感と自棄に押し潰されそうなときも、決して見捨てない「不捨のイエス」。ひとえに僕一人がためのイエス。
 
 脳溢血で倒れ、意識のない物体に変身した父を、僕は跡取りの義務として、三年間甲斐甲斐しく看病した。死後、遺骨の一部は本人の希望通り大谷本廟に納め、三回忌までの法要はやった。しかしその後、父の肝煎りで作られた本願寺塩屋別院の納骨堂から、先祖の遺骨と一緒に引き取った。骨などどうでもよいという気持もあったが、ともかく寺との縁を切りたかった。その方が自分らしいと思った。厨子に入っていた数個の骨壺は、樹々で被われ小鳥たちが飛び交う青ノ山の墓地に移した。墓石には石鎚産の岩を使い、僕が訳したゲーテの言葉を刻んでもらった。
 おまえの見たものは
 何がどうあろうとも
 やはり一切が美しかった
 「別院の納骨堂に納まっておれば、毎日有難いお経を誦(ず)してもらえる」と常々言っていた父である。納骨堂から出されたうえに、「南無阿弥陀仏」ならぬ、ヤソ教紛いの毛唐の言葉の下に置かれたことを、激怒しているかもしれない。しかしまた、一回の念仏で往生決定(けつじょう)するところ、千万回も称えた父のことだから、成仏したかとも思う。往生して安楽国から、生きていたときよりもずっと優しくこの穀潰し(ゴクトレ)息子、放蕩息子を見守ってくれているような気がしないでもない。来世など、あまり信じていない僕ではあるが。
 最近よく、火葬場の父の姿を思い出すのである。兄の棺に点火しようとマッチを擦るが、何度も何度もマッチが折れた。やっと点いたマッチを持った父の手が、ブルブルと激しく震えて、点火口に火が点かない。横から叔父が優しくソッと手を添えた。
 仏縁が祖母や父への憎しみを消した訳でもなかろうが、親鸞との出会いが自分自身の業(ごう)だけでなく、祖母や父の業をも、少し相対化させてくれたような気はしている。
 卯毛羊毛(うもうようもう)のさきにゐるちりばかりも つくるつみの宿業にあらずといふことなし
 
 そう言うわけで、僕は自分の宗教を「ミダ・イエス教」だと感じている。「詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし」。アーメン。