生 き る
 
生命・健康・看護(介護)
〈2〉
 
宇宙のリズムと身体のリズム
その2
 
中山英子
 
 平成八年一月十日付の地方紙朝刊に、永六輔氏が「九五年に学ぶ」と題して、沖縄の基地問題、いじめ問題、オウム真理教問題にからめて、政治家や国民に対して辛口の所感を寄せていた。その中に次のような発言がある。
 「現代史をきちんと教えれば、日本がどのようにいじめられ、そして、いじめてきたかがわかる。そのすざまじいいじめと比較すれば子供達がいじめで簡単に死ぬことは無い。(中略)文部省が現代史を教えないなら、厚生省は生命の教育を徹底すべきだ。遺伝子で考えれば、我々の生命は三十五億年の歴史があり、僕の生命は三十五億六十二歳なのだ。中学生も自分の年齢に三十五億年をたせば、そうは簡単に死ねなくなる筈である。海から川をさかのぼって地上に姿を現す進化を生命の歴史として教えこむべきだ。その生命の教育に欠かせないのが宗教で
あり、哲学であり、科学なのである。」
 永六輔氏にならって「九六年に学ぶ」なら沖縄の基地問題、いじめ問題の他に「O157」や「狂牛病」などの感染症と、官官接待・から出張・不正飲食費・賄賂など後を絶たない官僚の不祥事をあげねばなるまい。
 しかしここでは沖縄問題や官僚の不祥事はさておいて、「O157」と「狂牛病」について考えてみたい。
 「O157」にしても「狂牛病」にしても、この感染症から学ぶのは、両者ともに生命の歴史に関わる問題であり、人間のカルチャーの問題だからである。
 
 「野生の動物は、その土地の、その季節のものを食することによって特徴づけられる。その食料は、したがってつねに新鮮である代わりに、その捕獲採集には偶然性がつきまとう。これに対し、家畜の場合は、ひたすら飼育の恒常性が配慮され、そこでは“人工飼料”が一定の間隔で与えられる。それは、いつどこででも入手されるひとつの貯蔵食品であることはいうまでもない。
 いま、上述の“保存食料”(筆者註:昨今巷に氾濫する即席保存食料)も、所詮これと同じであることを思い合わせると、人類とは自分を家畜として養うこと、すなわち自己家畜化 self-domestication を、好むと好まざるとに関わらず、最終の目的とする特殊な存在であることがうかがえる。われわれはこれを、かれらの異常に発達した、頭と手の所産に帰したのであるが、そこでは“飢餓”の世界から自分たちを守ろうとする“あたま”の計算能力が、自然物を利用して道具を製作する手の作業能力と相まって、いわゆる食料の生産とその貯蔵という、他の動物には見られない、人類独自の食の営みを繰り展げていったのである。
 山の幸と海の幸の採集という野生の生活が、しだいに、農耕および牧畜・養殖といった、文字通り culture の生活に変わり、そこで“穀物の貯蔵庫”と“食肉の冷凍庫”を建設しながら、その一方で加工食品の保存に知恵を絞ってゆく。
 こうした人間生活の歴史は、この間の事情を端的に物語るものといえよう。それは“生を蓄える”というひとつの行為である。」 (略)
 「『食』の問題は、動物たちに課せられた、もっとも厳しい課題であろう。人類はこの課題を、 self-domestication という切羽詰まった方法で切り抜けてきた。それはいわゆる“耕す”という行為から始まる。かつて先人が『文化」と訳した西欧語の culture, Kultur, cultuire etc. には、こうした『耕作、栽培、養殖、飼育……』の本来の意味が蔵されているが、それは、とりもなおさず、地球の生態系の持つ悠久の流れを、さまざまなかたちで堰止め、そこに、ひとつの『たまり』をつくることに他ならないのである。それは最初に述べた、自然の『リズム』に加える人間のひとつの『タクト』というものであろう。
 タクトがリズムのかたちを忘れて打ち下ろされたとき、それは最も残酷な破壊の行為となる。いいかえれば誤って耕したとき、それは“母なる大地”の皮膚をメスでもって、切り刻む結果になることを忘れてはならない。それは文字通り“畜生”の行為となるであろう。『文化 culture 』の本質の問題はここにあるといわねばならない。」 (三木成夫『生命形態の自然誌』うぶすな書院)
 
 三木成夫はけっして文明批評家ではない。「生のかたち」「人間本来のあり方」を「からだの構造」を通して眺めた結果、消化系である腸管の発生から今日までの機能分化において、いくつかの「たまり」をみる。それは肝臓であり、胃袋であり、口腔であり、ついには「たまり」は体外にまで出て、料理、食糧貯蔵に、ということになる、という人類のすがたをみるのである。
 さて「O157」は、さまざまの報道で周知のとおり、病原性大腸菌である。この大腸菌で起こる感染症を「O157感染症」あるいは「出血性大腸菌感染症」という。ところで、保菌者であっても、発病する人としない人がいるのはなぜだろうか。
 大腸菌は、ヒトや動物の腸内とくに大腸に多数常在し、細菌叢(そう)を構成する菌種である。ほとんどのものは非病原性で、消化されずに残った炭水化物や蛋白質などを分解し、腸の蠕動(ぜんどう)を促してくれる。また、外から入ってくる有害な菌の感染から守る役目もしてくれている。大腸菌はヒトや動物と共存関係にあるのである。
 しかし大腸菌の中のごく一部に、人に病原性を発揮するものがあり、腸管病原性大腸菌と総称されているが、その中の一つが「O157」である。
 「牛の大腸にはO157が常在しているが、ほかのしっかりした大腸菌叢があるため、増えることができず、症状は起こらない。しかし、人に経口的に移ると、徐々に増えて毒素を出し、症状を起こすことがある。人の場合でも、大腸の細菌叢は、人、年齢により異なるため、同じO157に感染しても症状が出る人、症状が出ない人、症状が出ても軽い人と重い人がいるのである。註1
 東洋医学は細菌と共存する世界であり、西洋医学は細菌を敵とみなして撲滅させることに終始する。前者では常に共存が可能な体質が問題となり、後者では“因果”の図式でみることになる、と三木成夫は云っているが、ここではことさらに東洋医学、西洋医学のどちらと云わないまでも、発病する人としない人との違いを一言で云うと、体質(大腸菌叢との共存の種顆や度合い)ということになるであろうか。
 インドや東南アジア・中央アジアでは、旅行者が生水を飲むと下痢を起こすことが多い。しかし現地の人はなんともなく生活している。旅行者も一〜二週間もすれば大腸菌叢は現地人並になり問題なくなるという。
 コレラや赤痢はどちらかというと、発展途上国に多く、日本は今や海外旅行者達によって、これらの輸入国となっている。ところが「O157感染症」はアメリカや日本のような文明国家に多い、というのだ。一九四〇年代に入ってから、抗生物質の発見応用で、感染症はほとんど制御されるかに見えた。しかし、抗生物質の開発と汎用は、耐性菌の出現を招き、撲滅されたかにみえた感染症まで再び流行をみせている。
 「O157感染症」の治療に於いても、抗生物質を使用すると、O157が死ぬときにベロ毒素を多数出し、それが原因で重傷に陥ることもあるために、治療を難しくしているという。抗生物質の使い方次第でさらに重篤(じゅうとく)を招きかねないのである。
 一方、レトロウイルスをはじめとする新種のウイルス感染症が続々登場してきている。
 人類の歴史は感染症との戦いでもあったのであるが、ウイルスや細菌たちも生きのびるのに必死なわけであるから、一つがなくなればまた一つ新種のものができる。それもだんだん形を変えたやっかいなものに。エイズしかり、エポラ出血熱しかり、ATL(成人T細胞白血病)しかり、MRSA(メチシリン耐性黄色ぶどう球菌)など薬剤耐性菌による院内感染しかり、レジオネラ病しかりである。
    *
 狂牛病は、プリオンという蛋白性の感染因子が経口的に入りうつる伝染病である。
 プリオンは、ウイルスよりもさらに小さく(ウイルスの百分の一以下)、核酸をもたず、自己増殖する物質である。
 牛は本来草食動物であり、自然の生態系の中では、草食動物の牛が肉を食することはありえない。ところが最近では、牛の成長を良くしようと飼料に動物蛋白を混ぜるのが普通になっていて、イギリスの場合、羊の内臓が使われていたのである。羊には百年も前からスクレイピーと呼ばれる同様の病気があることが知られているが、スクレイピーにかかった羊の肉を与えたことから牛に伝染し、その牛を人が食べて感染したと考えられている。
 これまで羊の病気が牛に感染することはわかっていたが、牛の病気が人間にうつるはずがない、つまり、種の異なる動物間では「種の枠(バリアー)」があり、感染は起こりにくいと考えられていた。ところが、この考えに反して、人間にも感染した。また核酸がなく蛋白質だけの物質が、どうやって自己複製して感染を成立させるのか、ということも謎のひとつである。
 プリオンにはいくつもの謎があり、専門家をして首をひねらせている。これまでの科学常識では考えられないことが起こったのである。
 専門的なことは省略するとして、こうした不思議は、新種のウイルスで次々に発見されてきているのであるが、ある病理学者は、次のように発言している。
 「地球における生命の誕生の時には、まずDNAあるいはRNAができて、次にペプチドができたわけでもないらしい。RNAとペプチドとは別々にできていたらしい。億単位という長い時間の間に、お互いの存続のためには利用し合ったほうが能率がよいということで、今のようなシステムができたらしい。しかし、そうした能率のよいシステムができるまでは、いろんなことが起きていたに違いない。その中にはペプチドのアミノ酸の配列をRNAの配列に読ませるようなことも起こっていたに違いない。狂牛病によるプリオン感染の解明は、生命の誕生のプロセスまで遡ることになるかもしれない。註2
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 こうした感染症の流行は、森林やジャングルの伐採、環境破壊による地球の温暖化、交通手段の発達、地域間交流、ライフスタイルの変化などなど、現代科学・文明と無縁ではないといわれている。
 「私たちは科学技術を用いることにより、豊かな生活を追求してきましたが、その技術を経済効率最優先に用いた結果、新たな病気を人類が作り出してしまったことの重大さを、狂牛病は教えてくれているのです。註3」というある獣医の言葉に、耳を傾けなければなるまい。
 からだの中の腸管の「たまり」やからだの外に食料を貯蔵することが、人間の宿命だとしても、牛を効率よく太らせた結果の狂牛病は、三木成夫の口調で述べるなら、「まことに人間の業の探さを思わせる」ということになろう。
 「O157」も「狂牛病」も、広義の意味での生体リズム、つまり種の興亡に関わる問題であり、生態系の問題であり、人間の生き方の問題である。
 「一つの種の興亡の歴史もまた、一個体の“生・殖・死”の波にその原型がもとめられるまでのもので、それは同じ自然のリズム現象の一つ、たとえていえば自然に枯れゆく一年草本の心にもかようものであろうか。註4
                       (なかやまひでこ)
 
 註1 広川勝c「綜合看護」 一九九六年四号
 註2 広川勝c 同前 一九九六年三号
 註3 桜井富士朗 同前
 注4 三木成夫『原色現代科学大事典」6「人間」学習研究杜
 ■詳細は最終回に掲載