生 き る
 
生命・健康・看護(介護)
〈3〉
 
宇宙のリズムと身体のリズム
その3
 
中山英子
 
 
 四国路の春の訪れはお遍路の鈴の音とともにはじまる。春まだ浅い二月の初め、お四国まいりをする機会に恵まれた。巡拝第一回目のこの日は、アカウミガメの産卵で知られる、徳島は日和佐にある二十三番札所薬王寺から始まった。室戸岬の高台にある札所の境内では、厳しい寒さの中でほころんだ白梅が凛として、そこはかとない香りを漂わせ、南の海辺の札所付近では菜の花の黄色が陽光のもとで色鮮やかに空の青に映えている。
 澳(おき)ではさざなみがきらきらと輝く。
 はてしなく広がる「空」と「海」。大地に根をはり、季節の訪れに呼応して開花する植物たち。
 ふきわたる「風」。降りそそぐ「ひかり」。
 まさに「光の春」である。
 季節は確実に巡ってくることを実感しつつ歩く。
 「いのち」。「万物流転」。「リズム」。
 「いのちの波は宇宙リズムの一つである」「『生命』とは、生活の中にではなく、森羅万象の“すがたかたち”の中に宿るものである」という三木成夫の言葉を思い出しながら歩く。
 グループの人々が唱える般若心経に必死でついていく。ただひたすらに読経していると、いつしか我を忘れる。これが無我の境というものだろうか、とほんのちょっぴりわかったような気になり、また歩く。
 生きているものはいつかは死を迎える。
 植物たちは、花のあとには種子を落として枯れていく。地面に落ちた種子からは、また新しい生(いのち)が芽生えてくる。
 毎年年賀状の季節になると、友人たちのご両親あるいは友人知人の旅立ちを知る。私自身も母と別れなければならない日が刻々と近づいている。いとおしさがこみあげてくる。
 三木成夫は動物の「生のかたち」を述べるとき『蟷螂(たうらう)の尋常に死ぬ枯れ野かな』という其角の句を好んで用いた(註1)。交尾を終えたカマキリの雄が、そのまま雌にかじられていく光景に、稔りを終えた草が葉を枯らせていく光景をダブらせて詠んだ句である。
 「食から性への位相転換は、動物には親の死を、植物には葉の枯れをそれぞれもたらす。そこでは、だから、蟷螂の死があたかも枯れるがごとき尋常の姿として映し出される。ただ位相が変わっただけだ。しかもこれが、四季の流れに沿った永遠回帰の一コマとして描き出される。『いのちの波』の本質をこれほど端的に示した世界はあまりないだろう。(註2)
 植物や昆虫や鳥たちをみていると、宇宙(自然)のリズムの波に乗って、彼らの生の波が見事に調和し、共鳴していることを確かに実感する。
 ところが私たち人間も、身体にはリズムがあり、日々のくらしにもリズムがあることをおそらくは誰もが認めるだろう。しかし、このリズムが宇宙のリズムと共振しているということについては、実感はおろか、普段は全く考えてみもしないのではないだろうか。
 悲しいかな、現代人は、『生のリズム』をだんだんと喪いつつあるという。ことに、生の根元的リズムである『食と性のリズム』はほとんどなくなっているという。しかし、春になると何となく胸のときめきを覚え(『春のめざめ』)、秋になると、女性は特に天高く○○肥ゆる秋となり、脂肪を蓄えはじめる(『食欲の秋』)。そして、何となくうら悲しい気分になったりするではないか。こんな時に、身体ばかりではなくこころも自然のリズムに共振している、季節のリズムを知るはずである。
 三木成夫は、これを『内臓波動』と呼び、こころあるいは心情の表出であると説いている。つまり、大宇宙のリズムに共鳴する小宇宙のリズムこそが「こころ」であるという。あらためて、自分の身体とこころに聞いてみると、自分が普段どんな暮らし方をしていたかがわかるような気がする。
    *
 私たちの身体には、植物にも動物にもみられる植物性機能(内臓系)と動物にしかみられない動物性機能(体壁系)の二つがある(図1参照)。宇宙のリズムと共振しているのは、動物性機能はもちろんであるが、最も強く共振しているのは植物性機能である内臓系である。
 
 (図1→) http://www.geocities.jp/seto_no_shorai/nakayama3_fig1.gif
 
 (図1解説)
人体には、消化・吸収、呼吸、循環、排出などのように、動物にも植物にもみられる株能と、感覚、伝達、運動などのように、動物のみにみられる機能の二つがあるが、前者を植物性過程(機能)、後者を動物性過程(機能)と呼んでいる。これは、18世紀末葉のフランスの生物学者ザビエル・ビシャー以来の古典的な呼び方であるが、植物性機能は内臓系(植物性器官)で、動物性機能は体壁系(動物性器官)で営まれる。植物性機能は、植物性神経(自律神経〉が支配しており、動物性機能は動物性神経(体性神経)が支配している。
三木成夫は、心臓をこころ・心情の象徴として、脳をあたま・精神の象教としてとらえている。
 
 なぜ、内臓系のほうが宇宙のリズムとの共振が強いというのであろうか。
 人体の発生学的ななりたちからいえば、まず腸管ができ、つぎに腸管を中心にあらゆる付属物ができてきて、外壁である皮膚、神経(脳を含む)、筋肉は最後にこの内臓を被うのであるが、内臓は植物性器官と呼ばれるように、「植物」の姿にほかならないという。
 植物のからだはその生のあり方からいって、自然の一部であるというよりも、植物がおのれのからだの一部として自然を保有するとすらいえる、と三木成夫は述べているが、このことを吉本隆明は、三木の著書の解説で、「動物にとって植物は初期であり、植物にとっては自然は初期である、とみなされている(註3)」という言い方をしている。
 また、植物と動物の生の営みの本質とその関係について、三木成夫は次のように説いている。
 植物は、太陽の光のもとで空からの雨、大地の無機質そして空気中の炭酸ガスをもとにみずからが備えている合成能力によって生を営む。この時かれらは天と地に向かってからだをまっすぐ伸ばし、大気と大地にからだを開放して、完全に交流しあう。植物のからだは、動物のからだから腸管を引っこ抜いて裏返しにしたようなもので、太陽を心臓にして天地をめぐる巨大な循環路の毛細管に相当し、外界との間には生物学的な境界線はない。
 
 一方、動物は合成能力をもたないために、植物のつくりあげた“平和のみのり”に頼るか、植物を食べた他の動物にそれを求めるかである。そのために動きまわってえさを求める。その役割をするのが体壁系の「感覚−運動」器官である。したがって、動物のからだには「栄養−生殖」の過程と「感覚−運動」の過程の二つがあるのである。
 植物が“植”わったままで、自然と一体になって栄養の合成が続けられるのに対して、合成能力をもたない動物は、刻一刻と進行する内なる声に促され、つねに欲動充足の目標に向かって“動”くことになる。クラーゲスが、植物のからだには「宇宙の遠が居合わせている」と表現したのに対して、動物は「近」のいちいちに反応しながら生を営む。
 植物は、四季のリズムや地球のもろもろと合致して生起しており、宇宙との交流が直接的で“生ま”であるのに対して、動物はおのれのからだに宇宙を内蔵し、「遠を観得」するのである。つまり、からだに閉じ込めた内臓(植物)によって、宇宙(自然)と共振するのである(註4)
    *
 ちょうどこの原稿を書いているとき、昨年二月十二日に亡くなった司馬遼太郎の一周忌「菜の花忌」が営まれ、新聞やテレビなどで彼を偲ぶ特集が組まれていた。あらためて、司鳥遼太郎のモンゴルや辺境の地への思いに触れ、これまた三木成夫の世界に重なるものを発見して、感無量であった。
 ――天山山脈の山麓で、「西域という言葉にも、シルクロードという言葉にもポエジーを感じますが、天山という言葉には、やっぱりポエジー以上のなにか、人間を育むもの、もしくはあらゆる生物を育むものという感じがします。」「(天山は)常に氷河をもっていて、常に水を麓に流していて緑の絨毯を敷いたような草原を作っておってくれる。天山のおかげで人間と生物が暮らしていけるわけです。(註5)
 ――モンゴルの草原で、「モンゴルにひかれたというのは、大高(草)原の中でパオに住んでみたい。真っ青な空の下で、コロコロゴミのようにして自分の存在を考えてみたい、というのが最初。(モンゴルには)深い歴史がある。その歴史の中には、われわれが思っている文物だとか文化だとか、文学だとか演劇だとかというのはないからすごい、という感じ。ないという文明がすごいじゃないか。それはもう、深い青空のように真っ青の大空間のような文明というのがモンゴル。モンゴルヘそういうものを感じると、すうーっと吸い込まれていく。(註6)
 ――ゴビ砂漠に立って、「文明というのは、余分なものをもたないという知恵も大切なことだ。人間の内臓のように、また機械のように余分なものがない。そしてすべてが作動しているという暮らしの方が、いさぎよくてきれいで、清潔で、そういうものがもっている威厳のようなものをモンゴル人に感じる。(註7)
 司馬遼太郎が遊牧の民に見た、シンプルでいて威厳に満ちた姿。これこそは、三木成夫のいう家畜化(飼いなら)されない、自然と共振しながら生きる生物本来の姿なのではないだろうか。
 私たちは、モンゴルの人々に、かつての「生命記憶」を呼び覚まされる。だからこそ郷愁を感じ、ひかれるのではないだろうか。
 「人体には宇宙が内蔵されている」「内臓の感受性が豊かでないと世界を感知できない」とくり返しくり返し三木成夫はいったが、現代の、この文化・文明の社会に生きる私たちはどう生きればよいのだろうか。しかも、アジアの中のこの日本に住んでいる私たち。
 三木は、「われわれ大和民族は、歴史的に眺めて、世界中のどんな民族の中でも“こころ”の豊かさにおいて傑出したものをもっているといわれています。われわれの先祖は自然というものを無欲に、そして理屈をつけないで、静かに眺め、その懐に抱かれて生活してきた。これが、この民族の本来の姿のように思われるのです。もちろんこの明治百年というものはあわただしかった。それはいわゆる国際的な立場から、“あたま”の方を磨くことに専念しないではいられなかったからでしょう。しかしもうこのへんでそろそろ、われわれ本来の姿にかえる、そのときがやって来たのではないかと思っているところであります。(註8)」と語り、
 司馬は『二十一世紀に生きる君たちへ(註9)』というメッセージの中で、「自然こそは不変の価値である。その自然を畏れる態度、つまり人間は、自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている、という素直な態度をもってほしい。自然物としての人間は孤立しては生きられない。いたわり、優しさをもって、相手の痛みがわかる人間になってほしい。そして、自己をしっかりともった人になってほしい。」と記している。
 二人の巨匠は、人類の未来を危惧するばかりではなく、根本のところでは人間を信頼し、希望を託している。
 三木は生命誕生の歴史から、司馬は人物あるいは人類社会の歴史から、つまり両者とも、過去から現在をみることによって人間を学びつづけ、私たちに貴重なメッセージを与えてくれている。
 
註1、2 三木成夫『胎児の世界』中公新書
註3、8 三木成夫『海・呼吸・古代形象』うぶすな書院
註4 三木成夫『生命形態の自然誌』ほか
註5、6、7 NHK ETV特集「司馬遼太郎の遺産」
註9 司馬遼太郎『六年 国語』大阪図書
 
                        (なかやま ひでこ)