生 き る
 
生命・健康・看護(介護)
〈5〉
 
内臓の復興
その2
 
中山英子
 
 
 この夏、永六輔氏のチャリティー・トーク・コンサートに足を運ぶ機会があった。歯ぎれの良い巧みな話術と徹底したサービス精神とで、快い笑いに包まれた二時間余りであった。
 話の最後のほうで、長寿は、人類の、永年の夢であったはずであるから、そのこと自体は喜ばしいことだと思う。けれども、いろいろ準備が追っつかないまま高齢社会に突入したわけで、……高齢者を支えるのは若者ではなく高齢者自身、というような話から、どうやったら元気に過ごせるかに話は及び、歌を唄うことの効用、彼が三十年ぶりに作詞した『あした咲くつぼみ』の歌にまつわるエピソードの数々……そして、結びとして、ボケないために、ぜひ今晩から寝る前に、今日一日何を食べたかを思い出してほしい、そうすればきっとボケない、どうぞ実行してみてください、と聴衆を沸かせた。
 その帰り、友人と食事をすることになった。
 食事をしながらの話題は、自然に今日食べたものの話から「ボケ」「記憶」の話へと移っていった。
 普段からあまり食欲がなく、睡眠のリズムも乱れがちだという友人は、ポツリ。「寝る前に思い出していたら、よけい眠れなくなりそう」。思い出すのが大変だからなのか、食欲がなく、食べることが苦痛でさえあるのに、もう一度、今日の苦痛を思い出すことに抵抗があってそう言ったのか、あるいは軽いジョークなのか、確かめ得なかったが、食べ過ぎて悩む人がいるかと思えば、食べられないで悩む人あり。また、飢えで死んでいく人のいる国がある一方で、飽食の国あり。
 本来動物は、内臓の欲求に従って、自分に必要なものを必要なだけ食べるようにできている。しかし、残念ながら私たち人間は、いまやその能力をほとんど持ち合わせてはいない。つまり人間は、内的欲求が何であるかわからなくなっているから、頭で考えて食べなければならなくなっている。
 ところで、私たち人間は、外界から栄養物と酸素を取り込むことによって生を営んでいる。したがって、当然のことながら、食べ物と空気は命の源であり、生命にとってこれほど重要なものは他にない。
 外界から栄養物と酸素を取り込むというこの重要な役割を担っているのが内臓系である植物性器官である。
 腸で消化吸収した食べ物を呼吸系で取り入れた酸素で燃やしエネルギーとする。これを全身に配るのが血液・脈管系であり、燃焼の結果生まれた子種(卵子・精子)と老廃物は排出系から外へ出される。これらの内臓系は前にも述べたように、元を質せばすべて一本の腸管から生まれたものである。
 そして、この内臓は宇宙を内蔵したからだの中の植物であり、宇宙のリズムと共振している。
 「内臓に目を向けることが、心を豊かに育てることにつながる」あるいは「内臓の感受性を豊かに」と三木成夫はいうが、「内臓の感受性」とは、いったいどういうことなのか。
 生命の主人公、あるいは生命の元祖(?)ともいうべき腸の超能力註1(腸能力)をみながら、私たち人間の「内臓系」と「体壁系」の関係、そして「内臓感覚」について考えてみることにしたい。
   *
 原始的な脊堆動物の消化呼吸器は、鯉のぼりのように開きっばなしの口から、まっすぐに肛門までつづく一本の管であって、広い意味での腸管と呼ばれる。無顎類のヤツメウナギがその典型例であり、生きた化石といわれる。腸管の前の部分(鰓(えら)=鰓腸(さいちょう))では、口から入った水が両脇に一列に並んだ鰓穴から外へ吐き出されるとき、そこでガス交換(鰓呼吸)が行われるが、やがて、動物の上陸とともにこの鰓穴は閉じ、かわりに肺が風船球のようにふくれだし、ここでガス交換(肺呼吸)が行われるようになる。腸管の後のほうでは食べ物の消化吸収が行われる。(図参照)
 
http://www.geocities.jp/seto_no_shorai/5-1.jpg
 
 動物には草食動物と肉食動物、それに雑食動物がある。人間は雑食動物である。しかも人間は、他のどんな動物よりも雑食性が高く、食べられるものなら何でも食べる動物である。
 ところで、食べ物をお腹の中に入れる、あるいはお腹に納めると云うが、消化管、つまり腸管(口腔−胃−十二指腸−小腸−大腸−肛門)の内腔は、実は身体の中ではなく、身体の外なのである。このことを知っている人は案外少ないのではないだろうか。私たちが外界と直接接しているのは、感覚器である体壁系の皮膚の表面や目・鼻・耳などの枯膜、それにせいぜい口の中ぐらいに思っているのではないだろうか。
 身体の外というと、文字通り皮膚を境とした外界と解している人が多いと思われる。ところが外界は身体の中にもあるのである。それが腸管の中である。胃や腸の粘膜を介して外界と接触・交流しているのである。
 胃や腸は皮膚と同じく、外界に存在するさまざまなものと接する。刺身もビフテキも蟹も蛸も貝も、野菜も果物もゲテものも、人が食べる物すべてを通じて外界と壊している。一日に消化管を通過し、利用され、排出される量は相当なものである。これらと一緒に、ばい菌も有毒物質も入ってきて消化化管に接触する。
 また、酸素を取り入れる呼吸器(鼻孔−咽頭・喉頭−気道−気管−気管支)も外界から空気を取り込むため、外界と常に接触している。
 外界との接触は、ばい菌や有毒物質との接触を意味し、それら異物の侵入を防がなければならない。
 私たちの身体は、「自己」と「非自己」を見極めて自分でないものを排除したり、うまく取り入れ共存して「自己」の全体性を保とうとしている。この機構を免疫というが、自己生存・種の生存には欠かせない最重要なことなのである。
 ちなみに、免疫というのは従来、感染症などウイルスを防衛する働きという程度に考えられていたが、最近では、病原性のウイルスばかりではなく、あらゆる「自己でないもの」から「自己」を区別し、個体のアイデンティティを決定するのが免疫と考えられ、生命科学の中心的テーマとなってきている註2
 この免疫の中心が、実は腹にあるのである。
 「自己」を決定しているのは脳だと思っている人が多いと思われるが、そうではなくて、「自己」を決定しているのは免疫系の中心の胸腺である註3。この胸腺は鰓腸の扁桃と呼ばれるが、胸腺の由来は腸なのである。
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 腸管は身体の外機能を備えながら、身体の中に閉じ込められていて、外からは見ることができない。外から見えるのはわずかに腸管の前端、つまり鰓の名残である顔と口腔、それに後端の肛門ぐらいであり、腸管の中の出来事は、意識にのぼってこない。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」というように、意識できるのは喉元までである。内臓の中で起こるすべては、おぼろにかすみ、ただ肉体の奥のほうで、ずっしりと厚ぼったく蠢く「無明」の世界、と三木成夫は表現したが、この暗闇の中で、どのようにして外界の有害、有毒なものを認識し、排除あるいは無毒化し異種蛋白などの栄養物質を消化吸収(自己化)するのだろうか。
 腸の驚嘆に催する能力(超能力)を列挙してみよう。
 まず、腸には大変な数の神経が張り巡らされていて、取り込まれた物質を即座に見分けることができ、見分けたもの一つ一つに適切な反応をする。また食べ物を肛門の方へ送り出す蠕動(ぜんどう)と呼ばれる「腸の運動」が、巧妙に行われている。
 「腸は小さな脳註4」あるいは「腸は神経の編みタイツをはいている註5」と表現されたりするほどである。
 また、いろいろな消化管ホルモンを出している。
 この消化管ホルモンは、胃・腸・胆嚢からの消化液の分泌促進や抑制に関わると同時に、これら消化管の収縮・弛緩、蠕動運動には欠かせない役割をしている。
 しかもこれらの働きは脳からの命令や連絡とは無関係に腸自身で別個に働く、自動能力をもっているのである。
 さらに重要な働きは、先に触れた免疫系機能である。つまり、腸の粘膜からは粘液が分泌されるが、この粘液にはいろいろな抗体が含まれている。粘膜下には、多数のリンパ球や免疫細胞が分布しているが、ここでIgAという免疫グロブリン(抗体)が作られており、分泌液の中に大量に含まれているのである。
 「分泌液中のIgAには、大腸菌、サルモネラ菌、百日咳菌、口の中にいるミユータンス菌などのさまざまな細菌、ロタ、ポリオ、インフルエンザ、ヘルペスなどのウイルス、カンジタや酵母菌などの真菌、さらには牛乳や卵の蛋白などの食品抗原など、おびただしい種顆の外界の分子に対する抗体が含まれている。消化管の分泌液だけではない。涙にも乳汁中にも精液にも、同じIgA抗体が含まれている。体中の粘膜は互いに呼応して同じ抗体を作り出し、同じ免疫学的体制の中に組み込まれている。管(チューブ)としての人間は、外界に接するあらゆる管(チューブ)の内面に、同じ組成のIgA抗体をペイントのように塗りつけているのである。註6
 抗体がペイントのように塗りつけられているという表現がおもしろいが、IgA抗体のお陰で、有害な抗原を中和し、細菌が過剰に増えるのを抑え、消化管内に常在する細菌などと共存することができている。だから、外界と仲良くしながら、平和に過ごせている、と『免疫の意味論』を著した多田富雄氏は述べている。
 片時も休むことなく働き続ける内臓系に対して、発生学的に新しい脳神経や筋肉などの体壁系は四六時中活動することができない。例えば、睡眠。睡眠はからだの休息のためばかりでなく、脳自身を眠らせ、休ませるという大きな目的があるのである。
 脳は休ませないとすぐ壊れてしまうのに対して、内臓系は、眠っているときでも、麻酔をかけられたときでも、脳死や植物状態になったときでも、働きつづける。
 また体壁系は、自分の意志で意識的にことを起こすのに対して、内臓系は意識にのばらない、自分の意志ではどうすることもできない。しかも、体壁系を養っているのは内臓である。なかでも脳は、全身のエネルギー消費量の二〇パーセントも消費する浪費家である。
 そしてさらに、脳は腸からできた、という発生学的事実があり、腸の神経・ホルモンを理解することは、脳を理解することにつながる註7といわれ、研究がなされている。
 このように、内臓系は非常にたくましい。生命を担う主役に相応しい。しかし、使わないとその横能を失う。
 頭や手足は使わないと退化し、ボケるからと人々は何とか運動しようと努めてはいる。しかし、「食べる」という行為が、運動と同じく、消化管にとって、重要なことだということを忘れがちである。
 よく噛んで食べると脳に刺激が伝わり、ボケ予防になる、ということは周知のことであると思うが、よく噛んで食べることの効用は、そればかりではない。よく噛むことによって、唾液の分泌が盛んになり、消化をよくすると同時に、先に記した抗体による無毒化、つまり免疫機能を働かせ、高めることにつながるのである。
 「……今日では患者さんの静脈から必要なすべての栄養物質を注入して、何ケ月も生かすことができるから、食物を口から摂り、その栄養を腸から吸収することは、生物にとって不要なことだと思われがちである。しかしこれは思い違いであって、腸に食物が入って来なくなると、センサー細胞が消化管ホルモンを出さなくなり、その栄養効果もなくなる。そのため胃腸の壁は紙のようにうすくなり、膵臓も見るかげもなく小さくなってしまうのである。註8」と、藤田恒夫氏は述べ、生命にとって大切なことは、ただ単に栄養素を体内に入れれば良いというものではないことを指摘している。   
                    (なかやまひでこ)
 
 註1.4.5.8 藤田恒夫 『腸は考える』 岩波新書
 註2.3.6 多田富雄 『免疫の意味論』 青土社
 註7 藤田恒夫、小林繁