生 き る
 
生命・健康・看護(介護)
〈6〉
 
内臓の復興
その3
 
中山英子
 
 
 わたしは近ごろ散歩のおりに、街路樹や道端の草花を眺めながら、また、ふと立ち止まって道路沿いの塀の中の庭木や花々を鑑賞させてもらいながら、植物のもつ優しさを、いまさらのように、感じるのである。
 人間のなかにも、この植物的な要素をそのまま有する内臓を身体のうちに秘め、それが宇宙と最も密接に響きあっていることを思うとき、よりいっそう植物が身近に感じられるのかもしれない。
 立春・雨水・啓蟄を過ぎると、陽光は日増しに明るくなり、にわかに春の息吹が強く伝わってくるようになる。暖冬異変で、今年は辛夷(こぶし)や白木蓮が二月中旬から花開き、下旬にはその花弁を地に落としていた。
 吐く息が白くなるような、冬の冷たい空気を吸うのも身が凛と引き締まって気持ちが良いものであるが、春ののどかな陽光のもと、寺院の回廊などで、澄み切った、青い空をバックに庭の景色を眺めながら、梢で鳴く小鳥の声を聞きつつ吸う空気の味と薫りはまた格別である。
     *
 まもなく二十一世紀を迎えようとしている今、なぜ、どうして、というような少年の犯罪がつぎつぎに起っている。なぜ、子どものこころがこんなにまで荒廃してしまったのか、と人びとは憂え、「こころの教育」ということがしきりにいわれている。文部省も、中教審(中央教育審議会)もいろいろな試案を出してきている。内容については、門外漢のわたしにはいちいちいえないが、なかには首をかしげたくなるようなものもある。そして、なぜ、ここまでくるまえに何とかならなかったのか、と残念でたまらない思いでいる。
 こどものこころの問題は、大人のこころの問題でもあるはずだ。
 こどものこころが育まれないのは、自然離れが大きく影響しているといわれている。環境保護といいながらも、自然破壊はとどまるところを知らず、一見快適そうにみえる人為的社会は、行き着くところまで行かないと変わりようがないのかもしれないとさえ感じられる。
 かつて、春を待ちかねて野原を駆けめぐり、れんげやクローバの花で冠や首飾りを作ったり、夏には川で日がな一日遊びまわり、メダカやエビを追っかけ、焼けた河原の石のぬくもりで身体を温め、また泳ぎに行く。秋にはトンボ採り、冬には押しくらまんじゅうをしたり、焚き火を囲んで焼けたサツマイモをほうばったり、という具合に、ガキ大将に連れられて、こどもたちは思い思いのグループで、存分に遊んだものだ。こんな記憶を今の大人たちは皆もっているのではないだろうか。ところがいまのこどもたちは自然のなかでの遊びを知らない。
 自然が豊かで美しいところでは人のこころも温かい。思いやりや優しさ、いつくしみのこころが自然にわいてくる。植物のないところ、ことに、緑のないところでは何となく殺伐として、人のこころが荒んでくる。
 「……植物(森林)を全部伐っちゃうと、人間の心のほうが壊れてくるんじゃないかと僕は思うんです。共食いが始まるかどうかは知りませんけど、人間の精神活動が突然狂って、殺し合うとか、いろんなことが起こって、維持できなくなるんじゃないかなという感じが僕は実はしなくもない(註1)」と、植物学者の古谷雅樹氏は語っている。
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 三木成夫が『内臓のはたらきと子どものこころ』を著したのは一九八二年、今から十六年も前になる。すでにこの頃、登校拒否の問題が出てきていて、若者の多くは無気力で、未来に希望がもてないで悩んでいた。
 当時、三木は芸大にいて、美術や音楽の学生に「生物学」として生命形態学を教えていた(学生からは、芸大名物「生物学」と評され、大変人気が高かったという)。また、三木は芸大の保健管理センターの所長も兼ねており、学生の心身の問題について、相談役もしていた。言わずと知れた芸大である。こころの問題は、どの大学よりも深刻な問題を抱えている学生が多かったにちがいない。そのことは、さまざまなエピソードとともに、芸大の研究誌や小冊子、研究論文のいたるところに書かれている。
 こどもや学生を見ていて、これは、早くしないと取り返しがつかなくなる、と思われたのだろう。『内臓のはたらきと子どものこころ』には、大げさにいえば、人類を救うには、このことがまずなによりも優先されなければならないのですよ、ということが語られている。それがつまり、「内臓の復興」である。
 「内臓の復興」と声高に唱えたのは、脳社会への警鐘といえなくもないが、とにかく、生命の主体は内臓にあって、豊かなこころを育むのは、自然の意を観得する内臓の感受性なのだ、ということを肝に命じてほしい、大切にしてほしい、ということなのである。もちろん人間は脳の機能によって、人間を人間たらしめているわけであるから、脳を否定しているわけではない。脳とこころのバランスを解いているのが三木成夫である。
 三木成夫はこの著で、「内臓の感受性」はどのように鍛えられるのかを、赤ん坊のこころの芽生えから、満一歳の指差し、立ち上りの姿、さらに言葉を獲得し、抽象思考・概念思考ができ、自己が確立し、こころが形成されていく満三歳児の世界への過程を、ヒトの個体発生と人類の宗族発生の過程を重ねながら、平易に解き明かしている。「億」の記憶を秘めたわたしたちの身体には、動かしがたい「生命記憶」が年輪のように刻み込まれている。こころの形成の過程を知るには、この「億」の記憶を辿るしかないといっても過言ではない。なぜなら、「生命記憶」を抜きにしては、今ここにいるわたしたちの身体もこころも存在しえないのだから。
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 前回、内臓のなかの腸管(消化管)について、そのたくましい腸能力を見てきた。
 消化管が内臓のなかの一方の横綱だとしたら、もう一方の横綱は呼吸器である。やはり腸管から出来たこの呼吸器を抜きにしては内臓を語ったことにならないぐらい重要な臓器である。ことに、海から上陸した人類にとって、呼吸の問題は大変やっかいな問題を抱えている。
 というのは、かつて脊椎動物が魚の時代に、鰓呼吸をしていた名残を人類も引き継ぎ、延髄を中枢とする呼吸は、無意識のうちに昼も夜も休むことなくつづけられている(これを生命呼吸と呼ぶ)。心臓のリズムと兄弟の呼吸のリズムは、太古の昔からの波打ちの記憶を宿し、宇宙のリズムと最もよく呼応し合っており、こころとも密接に関係してくる。鰓呼吸というのは植物性の機能であり、植物性神経・筋肉でまかなわれている。
 ところが、睦に上がった脊椎動物の宿命として、鰓は干からび、かつてのように酸素を取り込むことが出来なくなり、呼吸機能からかなりの部分が退き、顔面からのどに広がる嚥下や発声・表情などの筋肉に変身していく。その代わりとして、肺による呼吸がなされるようになるが、この肺は、自分で膨らんだり、縮んだりするすることができないため、大脳皮質が営む体壁系(感覚系)の動物性神経・筋肉の助けを借りなければ呼吸が成り立たなくなった。つまり、あたま=意志による呼吸筋の運動によって呼吸をする(これを意志呼吸と呼ぶ)という、他の内臓系器官にはみられないいきさつがあるからである。
 呼吸には、外呼吸と内呼吸(組織呼吸)の二種類があり、また呼吸の仕方に胸式呼吸と腹式呼吸があることはご存知だと思うが、このように、発生学的には「生命呼吸」と「意志呼吸」の二つが区別されるのである。
 呼吸は生命に直結するものであり、一時なりとも休むことを許されない。呼吸が本来の植物性の神経と筋肉のみでまかなわれていたなら、前にも触れたように、これらの神経と筋肉は疲れを知らないはたらきものであるから、安心して彼らにまかせておけたのであるが、動物性の神経・筋肉は、瞬発力はあるがすぐ疲れる。夜などはぐっすり眠ってしまわないとすぐ使い物にならなくなる。そのうえ、近くのいちいちにすぐ反応する。たとえば、びっくりしたときや緊張したときには息を詰める、物事に集中しているときや不慣れなことをするときは息を凝らす、不安が強いときには息は浅くなる、こうして呼吸のリズムは寸断される。それでは呼吸は困るのである。
 このことは、こころ(内臓系)とあたま(体壁系)の問題にも関係してくることなのである。
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「……いったい『こころ』と『はらわた』とは、どんな関係にあるのか……?このためには、まず“あたま”と“こころ”と呼ばれている二つの言葉について考えてみる必要がある。
 これは、私たちのいわゆる“精神”を支える二本の柱ともいわれていますが、この両者は、いかにも対照的です。“切れるあたま”とはいうが“切れるこころ”とはいわない。また“温かいこころ”はあっても“温かいあたま”はない。つまり前者の『あたま』というのは、判断とか行為といった世界に君臨するのに対して、後者の『こころ』は、感応とか共鳴といった心情の世界を形成する――一言でいえば、あたまは考える物、そしてこころは感じるもの、ということです。(註3)
 「頭ではわかっている」が「腑に落ちない」とか「肚の底からわかった」とか「腹の虫が納まらない」あるいは「胸が熱くなる」「胸が躍る」というように、心情を表す言葉には、腹とか胸とか身体から発する言葉が多い。
 ところで、「内臓の感受性」を鍛えるというが、「内臓感覚」とはどういうものだろうか。
 「内臓感覚」にはいろいろあるが、特に重要なのは、口腔および胃、膀胱、子宮から生じる感覚である、という。
 「赤ん坊が大声あげて泣き叫ぶのは、つぎの三つの場合と決まっている。一、おっばいが足りない。二、おしめが汚れた。三、眠りが不充分。だから、この三つさえ満たされておれば、もうご機嫌でニコニコだ。しかし、よく考えてみると、こうした問題は赤ん坊の時代に限られるというものではない。
 ……大人になっても、お腹がすくとたいていはご機嫌が悪くなるものだ。いつの間にかイライラが始まり、なんでもないのに絡んでみたり、やたら、つっかかって来たり、かと思うとすっかり悲観的になって絶望に陥ってみたり……。
 これは空腹時にかぎらない。酸欠の時でも同様に起こるだろう。例えば、息を詰めてなにかをしていると、たいていは行き詰まってくるものだ。そんな時、頭の中になにかやっかいなことでも浮かぽうものなら、もう止めどなく、ああでもない、こうでもないと文字通り思い詰めていくうちに、確実に無呼吸の状態が進行し、こうしてとうとう一種の酸欠に陥った時、はじめて“アーアー”と長く大きな溜め息をつき、いっとき肩の荷を下ろすものである(註4)」。息詰まりと同じ現象は、消化系の便秘としてもみられる。膀胱への尿の充満や、女性の生理の中にも同類の現象がみられると指摘する。つまり、「ふつうそれが近づくと、たいていそこはかとない不穏の気が漂い始めるようだ。ヒステリーとは古欧語で子宮を意味するものであるが、やがて、その内臓の声が差し迫り出すと、ある種の性格においては、もはやたしなみもなく、時に人格の崩壊壊すら疑わせる状況に陥るともいう。こうしてその極限を迎え、ついにこらえにこらえた経血の一気の放下が始まると、こんどは一転して、女神もかくやと思わせる静謐の母性像がそこに姿を現すのである。(註5)
 空腹・酸欠、膀胱・子宮の充満など、これらはすべて“内臓系”の切迫であるが、この生理過程はそのまま感受されることはなく、つねに漠然とした“不快”という形で意識されるという。内臓の不快が思考の不快に化けるというのだ。
 「わたしたちの行動は、内臓の声に突き動かされる」と三木は言う。
 “不快”を“快”にするために、生き物には智恵が備わっているのである。
(なかやま ひでこ)
 
註1 対談:古谷雅樹・立花隆(立花隆ほか『マザーネイチャーズ・トーク』) 新潮文庫
註2・3 三木成夫 『内臓のはたらきと子どものこころ』 築地書館
註4・5 三木成夫 『海・呼吸・古代形象』 うぶすな書院