生 き る
 
生命・健康・看護(介護)
〈9〉
 
心臓(死)と脳(死)
その1
 
中山英子
 
 
 一九九九年二月二十八日、人口三〇余万のこの狭い高知市の上空を、何機ものヘリコプターとジェット機の爆音が終日轟いた。臓器移植法の施行後初めての「脳死判定」とドナーからの「臓器摘出」がなされた日である。
 県外からの移植チームを乗せたヘリコプターとジェット機、それにテレビ局、新聞・雑誌社など報道関係のヘリコプターが続々到着。港に近いわが家のマンションのベランダ越しに、いやでもヘリコプターの舞うのが見える。テレビでは、二十五日の午後七時頃「法に基づく国内初の脳死判定が、高知赤十字病院で行われる」とNHKが第一報を報じて以来、民放各局もこぞって放映を始める。赤十字病院院長の会見、厚生省の会見はもちろん、現場の映像を刻々と映し出し、まるで重大事件のような扱いでさまざまな映像を放映していた。たとえば、移植チームが、摘出した臓器を入れて持ち帰るためのクーラーボックスを、機材とともに車に積み込み、出発する映像などは、危機感と共に、なんとも寒々とした気持ちにさせられる映像であった。
 現場の喧噪はそのまま茶の間へ持ち込まれたかたちになり、こころはかき乱され、誰もがかたずを飲んで、テレビに見入っていたにちがいない。わが家でも、母などは気分がわるくなった、吐き気がする、といいながらも、テレビを消さずにいた。
 そして、日も暮れた高知空港を、まず、心臓を乗せたヘリコプターが、一刻も早くと飛び立っていった。
 正確な情報を知りたいから、テレビも見れば新聞も読む。一応、ジャーナリストを自負している者として、メディアの重要性は十分に知っているつもりの私ではある。しかし、まるで死を待っているかのような報道の仕方には、私自身もだんだん寒気を覚えはじめていた。手術室での臓器摘出の撮影を申し出た記者が大半を占めたというが、臓器摘出の写真は、「情報の透明化」という観点からしても、全く意味がないものであるから、このような良識を疑う発言には、ただただあきれ返ってしまうばかりであった。この申し出に反対したのは地元報道機関とTBSだけだったという。
「脳死」ということについての正確な知識を持った記者がどれだけいただろうか。今回、高知赤十字病院に詰めかけた報道陣は百五十人に上るというが、報道機関から派遣された記者たちは医療関係の記者ではなく、社会部の事件記者たちが大半だったというから、知識がないのは無理からぬことだったとはいえ、禁止されている携帯電話を片手に、病院の中を我がもの顔に歩きまわり、自宅や実家の周辺まで取材をしたり、ある時には、ドナー(臓器提供者)の家族に、知らずにインタビューをしたという。ワイドショーなみの感覚といわれてもしかたないだろう。礼節を欠いた取材の仕方、プライバシーや人権侵害の問題等々、後々まで、マスコミヘの不信感を人びとに植えつけてしまった。
 『命のリレー』『命の贈り物』『一人の死 いくつもの生へ』と、アナウンサーが興奮してがなりたてる声も、新聞の段ぬきの大見出しも、まるでお祭り騒ぎ。上滑りなヒユーマニティーを振りかざした言葉の羅列には、うんざりさせられる。
 行き過ぎた報道が、ドナーの家族の不安と怒りを招き、人びとはマスコミ批判を募らせていった。結果的に、必要な情報までも公開されなくなり、マスコミは自分で自分の首を絞めることになってしまった。
 プライバシーが守られなければならないのは当然であるが、だからといって必要な情報までも公開されなくなったのでは、医療行為の透明性が確保されない。法による『脳死判定』だからこそ、正確な情報の開示が、要求されるのである。厚生省も日本臓器移植ネットワークも医療者側もメディア側も、きちんとしたスタンスがないまま右往左往し、未熟さを露呈した第一例であった。
         *
 「臓器移植法」が成立したのは、一九九七年六月十七日『脳死を人の死とする』『臓器提供する意思がある場合に限り脳死判定が行われる』と、人の死を法で定めた日である。法で人為的に死を決めることをめぐつては、さまざまな論議があり、さらに審議をする必要があったはずであるが、会期中に、介護保健法や他法案の成立が無理だと判断し、それらを断念する代わりに、慌ただしく「臓器移植法」を可決。国会の、政治的かけひきに使われたといういきさつがあり、充分な合意を得ないままの出発であった。『心臓死』と『脳死』。二つの死が存在する大変な時代である。
 『心臓死』はわざわざ『心臓死』といわなくとも、人の死として、昔から受け入れてきた『死』であり、呼吸が止まる、心臓が止まる、瞳孔が散大する、といういわゆる死の三微候で判断されてきたものである。これらの徴候は、外から見ることができ、触れることができる徴候であり、皆が納得している『死』である。
 ところが、『脳死』は目に見えない。
 テレビを視ていた八十八歳の母(一昨年は死をも覚悟した時期があったが、いまはまずまずの元気を取りもどしている)が、「脳死の人は死んでいるのか」と聞いてきた。私は返事に因って、「死んでいるわけではないけれど……」と、口ごもりながら前置きをして」「人工呼吸器をつけて、呼吸はしているし、脈もちゃんと打っていて、顔色もいい。ただ、脳が機能しなくなって、脳波もない状態。人工呼吸器をはずしたら、自分ではもう呼吸できない人で、法律で『死』と決めた、つまりね、社会が、人が決めた『死』なのよ」と。そして、「そういうふうな脳死状態になったとき、私の臓器を提供します、という意思表示のカードを持っていて、しかも、家族がそれに反対しなかった場合だけ、法で定めた『脳死判定』を行い、臓器を取り出して、欲しい人に移植できるのよ。臓器提供をする場合だけ『脳死』を人の死とする、と法律で決めたわけなのよ。だから臓器提供をしない人は、『死者』ではないことになる……」としどろもどろに説明したことだった。
 母はわかったような、わからないような顔をしてテレビに見入っていた。
 『脳死』であるという確かな見極めは、はたして本当に可能なのだろうか。
 たとえば、脳死といわれた人が、生還した例がないではない。それは、身近な人であったり、本で読んだり、話に聞いたり、であるが……。こうした例を、ある場合は、脳死寸前の状態で、本当の脳死ではなかったとか、ある場合は、奇跡が起こつた、などと、当の医師たちがいう。
 この一線を越えると、どうしても死を避けることができないという限界点を見極めるのが脳死判定であるが、この一線の線引きが、本当に可能なのかどうか、医学の診断治療の発展によっても、それは当然変わってこよう。
 現在採用されている脳死判定基準、いわゆる「竹内基準」では、平たんな脳波ということが必須の条件となっているが、もはや現在の医療現場では現実にそぐわなくなっている、といわれる。脳の血流を調べる頭部CT(コンピューター断層撮影)、あるいはMRI(磁気共鳴装置による断層撮影)やMRA(磁気共鳴装置による血管撮影)による画像診断とともに脳幹機能の廃絶を示す聴性脳幹反応の検査を提唱する医師もいる。
 この日の朝の高知新聞に、今回の脳死判定から臓器移植への過程をどんな思いで見守ったかを、県内の何人かの医師に聞いた記事が出ていたが、N市のある外科医は「死体腎移植の時代は手術の苦労は並大抵ではなかった。生体からの移植ができるようになって飛躍的に進歩した。やっと日本でも脳死から移植できる時代が来た」と、感慨深げに語った、という。なるほど、この医師の認識は、脳死の人の身体は、死体ではなく生体なんだ、と、複雑な思いでこの記事を読んだのであるが……。確かに、脳死というのは、個体としては『死』を意味するが、細胞は生きている。
 母が 「脳死の人は死んでいるのか」 と問うたのが、わかるような気がする。
       *
 ところで、一般に『脳死』と『植物状態』を混同している人が多いらしいが、『脳死』と『植物状態』とは全く違うのである。
 『植物状態』は、脳の機能の中でも、文字どおり、植物的機能である呼吸、循環など生命維持に必要な脳幹部は機能している(自動的ないしは人工的に)が、動物的機能である大脳、なかでも思考や運動を司る皮質の機能が失われている状態であって、脳外傷、脳卒中などで、年間七千人も発生しているといわれる。日本脳神経学会は自力では動けず、食べられず、意味のある言葉をしゃべれない、意思の疎通ができない、などの状態が三か月以上続く場合と定義している。かつては『植物人間』と呼ばれたこともあるが、人権の尊重ということから、現在
では使われていない。
 『法による脳死』は、全ての脳の機能が永久に失われ(全脳死)、再び機能が戻ることはない(不可逆的機能消失)状態であるが、『植物状態』は、延髄などの脳幹機能が保たれている状態である。
 最近注目されているのは、『植物状態』あるいは『脳死状態の寸前』になった人でも、脳低体温療法によってほとんど後遺症もなく社会復帰できている例がいろいろ報告されていることである。また他にも、看護の専門家や家族による働きかけによって意識が回復したり、日常生活に復帰できたりしたケースが報告されている。
 しかし一方で、延命医療によって、長期にわたって、『植物状態』のまま生存し続けることができる、現在の医療のあり方は、家族の心理的・経済的負担は大きく、社会的問題として、クローズアップされて久しい。
 脳死も植物状態も、延命医療の飛躍的な進歩によって人為的にもたらされた状況である。
 こんな状態は、人間以外の動物にはない。どの動物よりも脳が大きくなり、ことに大脳皮質が著しく発達分化し、知性が生み出された人間だけにもたらされた、それは宿命命的な状態といえるのだろう。
       *
 初めての脳死移植の日からずっと、「生命とは何だろう」「死とは何だろう」「自分が、あるいは家族が脳死状態になったらどうするだろう」と、誰もが、自分の問題として、考えてきた。
 あれから四か月、こんなにも短期間に、四例目の脳死移植が行われた。(二例目、三例目の臓器提供者はともに一例目の実施後にカードを持ったという。)
 まだ充分な検証がなされないうちに、臓器提供の意思表示カードの保持者が急激に増え、脳死移植に肯定的なムードが見られる。しかし、五月中旬から下旬にかけて高知新聞社が行った県民世論調査によると、脳死と植物状態の違いを「知らない」とする人が三十七パーセントにも上り、実際に臓器提供の意思表示カード保持者で、臓器提供の意思を示している人のなかでも、四人に一人が、違いを「知らない」という結果が出ている。しかも、脳死移植を肯定した人が心臓死移植はダメという、信じられないような回答が四分の一強もあるのである。
 「脳死移植=人命を救う素晴らしい行為」と単純に考えている人がかなりいる可能性がある、と編集子も指摘し、脳死移植という言葉が独り歩きしていることを憂えているが、これほどたくさんの人が、脳死の基本的なことを知らないで、臓器提供に肯定的になっていることに驚く。心臓死を死とする者、脳死を人の死と認める者があってよいのは当然。死生観は個々さまざまで、それは尊重されなければならない。
 ところが、「脳死は一律に人の死である」として、来年秋に、現行の臓器移植法を作り替えようという動きがあるという。
 そもそも、現行の臓器移植法にしても、法で人の死を定めること自体が問題だと考えている人が大勢いるというのに、さらに、心臓死を死と考える者も、臓器提供する意思のない者も、すべて一律に脳死を人の死と、法で定めようという無茶なことを言い出したのである。
 ひとりひとりが正確な知識をもち、情報の開示を求めていく必要がある。
 
        (この項続く)   
 
(なかやま ひでこ)