生 き る
 
生命・健康・看護(介護)
〈10〉
 
心臓(死)と脳(死)
その2
 
中山英子
 
 
 高知市には 「日曜市」 という、全国的に名を馳せている街路市がある。この日曜市は、元禄年間以来、かれこれ三百年続いていて、日曜日毎に大賑わいをみせる日本最大規模の市で、年間二百万人の人が訪れる。季節の野菜・果物、海産物、穀物類から切り花・植木、ペットに小鳥、骨董品、金物、庭石、おもちゃ……というように、無い物は何もない、といわれるくらい何でも揃っている。
 この市のよさは、何といっても旬の食べ物が安く手に入ることである。新鮮で、安くて、おいしくて、観光客にも大変な人気だ。けれども妙に観光ずれしていない、素朴な、のどかな雰囲気をもつ生活市である。県外から帰省した折りは、とにかくこの市を覗きたくなる。ふるさとの味がいっぱいの市である。
 高知市では、日曜市の他に規模は小さいながら、火・水・木・金・土曜にも街路市が立つ。わが家の近くには水曜市が立つのであるが、ここのうなぎのしら焼・蒲焼が絶品である。母の好物だったのでよく買って食べた。
 割合最近まで、母と一緒にこの水曜市へ、よく買い物に出掛けたことだった。母の足が弱ってきて、あまり外へ出なくなってからは、もちろん私ひとりで。
 きのうは水曜日。水曜市のうなぎを焼く匂いを嗅ぎながら、御供えのお花を買う。今はもう居ない母のことを思い、また切なくなるのであった。
 昨年十一月のはじめ、母は突然、享年八十九歳の生涯を閉じた。心臓の大動脈瘤破裂(診断名は解離性大動脈瘤)である。いわゆるではなく、正真正銘の心臓死であった。
     *
 昨年二月末、高知赤十字病院で、「臓器移植法」制定から日本で初めての「脳死判定」が行われ、心臓、肝臓、腎臓、眼球が摘出され、レシピエント(臓器をもらう側)へ提供されてから、一年ちょっと経った。
 ヘリコプターの爆音に危機感を煽られ、テレビの報道に胸を詰まらせながら、母と「脳死」について語り合ったあの日の情景が、母の表情が、今でも瞼に焼き付いている。
 
 臓器提供の遺志尊きも遺族らの
     真意は如何に凍るきさらぎ (梅原婀水)
 
 移植する臓器なぞ我に残るらむ
     呟きて見つ今朝の白梅 (中村正生)
 
 燃えつきぬ命であろう臓器移植
     心重たくテレビを見つむる (清遠美加)
 
 一人の死四人の命助くると
     臓器移植の過大報道(谷岡伸茂)
 
 心臓移植の臓器を積めるヘリコプター
     我が村の空を爆音とどろかせゆく (岡村修)
 
 成功の手術に少しほっとしつ
     國をゆさぶるドナーのニュース (北村鷹子)
 
 人の死を脳死と決めてはじまれる
     臓器摘出に思ふおのれの死後を (津田四郎)
 
 これらの歌は、移植後間もない四月、地元の短歌誌『高知歌人』(一九九九年四月号)に掲載された歌であるが、県民の気持ちが、いや国民すべての人々の気持ちが表されているといってもいいのではないかと思われるのので、引用させて頂いた。それぞれが、わが身の痛みとして、祈るような気持ちが、そしてまた、己の身、己の死についても思いを馳せたことがひしひしと伝わってくる。臓器提供の是非はともかく、「移植する臓器なぞ、私にはもう残っていない」 と呟いた中村正生氏の歌などは身につまされる。
 ちなみに、最器提供の可否判断であるが、「移植した臓器が正常に機能しなかったり、臓器を通じて移植患者が感染症にかかることを防ぐために、各臓器ごとに提供できないケースの基準が定められている。提供者が高齢すぎる場合、全身の感染症、がんなどがある場合は原則として除外される。また、救命治療での昇庄剤の大量投与や糖尿病の場合も臓器によっては提供できないことがある。基準は一応の目安で、移植を待つ患者と提供者の臓器の状態を、移植施設の医師が総合的に判断した上で最終的に決める」とされている。
       *
 私はカードを持っていない。
 これからも持つつもりはない。
 ところが、この秋に、臓器移植法が改悪されると、臓器提供の意思のない者は「拒否を示すカード」を持っていないと、臓器提供されてしまうことになるのである。
 というのは、一九九七年十月に法が施行された際、三年後に見直しをすることになっていた。つまり今年の十月がその時である。法が良い方向に改正されるならまだしも、とんでもない方向へ改悪されようとしている。
 厚生省の研究班の一つ(分担研究者、町野朔)が、「およそ人間は死後の臓器を提供する意思を有しているのが通常であり、それを望まないという意思が表示されない以上、臓器を摘出することが本人の自己決定にそう」という見解を示し、したがって「臓器提供の意思にかかわらず、脳死は一律に人の死である」「脳死になった人間が臓器提供を拒否する意思を示していない限り、家族の同意があれば臓器を摘出できる」と、驚くべき改正案を提示しているのである。
 何とも不遜な物言いである。
 「えっ、ちょっと待って!」「本人の自己決定が、まず優先されるべきではないか」と叫びたい。
 現行の法では、十五歳未満の者は臓器の提供ができない。それは十五歳未満の者は仮りに提供意思があったとしても、法的に有効だとは認められないためである。また、六歳未満の幼児は脳死判定基準から除外されていたのであるが、このほど六歳未満の幼児の脳死判定基準がまとめられた。このことも法改正へ向けての一つの動きとみて間違いないといわれる。
 先の町野研究班は「親権者の同意があれば年少者の臓器摘出を可能にする」という改正案をも示している。
 このように法が改正されると、国民の臓器移植の義務化につながりかねない、と憂える声しきりである。
       *
 脳死移植第一例目以降に、カードにサインをした人がたくさんいる一方で、地元の報道機関の取材班の一人は提供意思を記入していたカードを破り捨てたという。また、もう一人はすべての臓器を提供する、と示していたカードを持っていたが、「提供しない」に丸をつけたカードを持つようになった。二枚のカードのどちらを使うか、まだ答がでていないという。
 評論家の立花隆氏は、一九九九年春、民放(TBS)の特別番組「ヒトの旅 ヒトヘの旅/世紀末人類最先端スペシャル」の出演中に、「私は二、三日前に、臓器提供意思表示カードにサインをし、『すべての臓器を提供する』に丸をした」と語り、カードをみんなに見せた。映し出された画面のカードの1999年4月24日という文字が妙に印象に残っている。
 立花氏は、「田中角栄研究」を『文芸春秋』に連載し、実質的に首相を退陣に追い込んだことで、一躍注目を集めたが、『脳死』『精神と物質』『サル学の現在』など著書も多数あり、生命科学に関してはかなりの知識をもっており、これまで、脳死判定の竹内基準については批判的立場をとってきたことでも知られている。
 その彼が、先端医療を取材する中で、臓器提供に違和感がなくなった、というような話をしていた。
 たまたま私は、このテレビ放映の前の年の十月に、同氏の「二十世紀の医療 二十一世紀の医療」と題する講演を聞く機会があった。高知医科大学創立二十周年を記念しての講演会であったから、かなり専門的な内容ではあったが、一部テレビで放映された内容と同じものであつた。背中に人間の耳をはやしたネズミがスクリーンいっぱいに映し出され、異様な感じがする。
 耳は「ティッシュエンジニアリング(再生医工学)」によって、自分自身の細胞から人工的に作られたもので、いまや、あらゆる臓器や組織を人為的に作ることができる時代になっており、心臓・気管・皮膚・骨など、いろいろな人工臓器が国内外ですでに実験段階にあり、応用されている現実を紹介。
 他人の臓器を移植した場合、拒絶反応を抑えるために、生涯、免疫抑制剤を飲み続けなければならない。副作用やガンになるかも知れないという問題を抱えている。しかし、自分の細胞から作られた臓器であれば免疫の問題は起こらない。すべての臓器ができる時が早晩やってきて、脳死の人からの臓器摘出の必要がなくなる。他人の死を必要とせず、命を救える再生医療の時代がやってくる、と語る。
 昨年四月に、日本医学会総会が「社会と共に歩む医学 − 開かれた医療の世紀へ」をテーマに開かれた。会頭の高久史磨(自治医科大学学長)は、「あらゆる組織や臓器になりうる万能の胚性幹細胞(ES細胞)の開発や人間の全遺伝情報を解読するヒトゲノム計画完了、脳機能の解明などが今後の先端医療を大きく変えるだろう、これを受け入れるかどうかを決めるのは国民だが、すべての人が正確な知識をもつことは不可能だ。医療関係者は専門職としての意見を積極的に述べ、正しい情報を発信しなければ」と講演した。
 今年になって、日本でも、ES細胞の研究を容認する報告書案が出された。国がゴーサインを出すのは先進国では日本が最初のことだという。
 ES細胞は万能細胞ともいわれるように、クローン羊のドーリー君どころではない。異種間移植、地球上に存在しない動物、いわゆるキメラも誕生させることができるのである。
 医学界総会は四年に一度開かれることになっているが、二〇〇三年にはどんなことになっているのだろうか。
 人間の欲望は果てしない。生命の意味を考えるとき、これからの医学は、どこまでなら許されるのか、ということを真剣に考えないと、とんでもないことになる。
 立花氏は、先端医療を取材する中で、臓器や身体組織が徹底してばらばらにされ利用されていく実態をみて、カードに署名する決断をした(註)、ということであるが、私の場合は、逆に、二十五年か三十年くらい前までは、自分の身体が役に立つなら、進んで提供してもよいと思っていた。しかし、脳生理学者の時実利彦の名著『人間であること』を読み、三木成夫の「生命誌」に触れ、立花氏ほどではないにせよ、先端医療の実体を知る中で、生命を人為的に操作することの愚かさ、宇宙の中の生物の仲間としての人間が、こころしなければならないことを考えるとき、当然、カードに署名することは「ノー」という答になったのである。ただし、医学生の解剖の学習のための献体はしてもよいと思っている。私にとっては、献体のほうが勇気ある決断のように思われる。
 脳死からの臓器移植は、あまりにも多くの問題を抱えている。脳死判定の手順ミスや方法のミスはもちろんのこと、脳死と植物状態のちがいを知らないなど、人々が脳死について正しく把握していないこと、また、医師の側も法的脳死と医学的脳死にずれがあるため、判断に戸惑う、あるいはその場の医師の力量で変わってくるなど。
 さらに現実問題として、最低一千万円、多い場合は一億円という費用が必要であるといわれているが、この費用の負担はどうなるのか。移植後、拒絶反応を抑えるために免疫抑制剤を飲み続けなければならないが、その費用が毎月十万円という。これだけの高額な医療費を自己負胆することは無理であろうから、いずれ保険が適用になるであろうという。「手厚い移植医療 寂しい老人医療」と題して、地方紙の『声』欄に地元の整形外科医が投稿していたが、わが意を得たりという思いであった。保険で賄う老人医療費はどんどん削り、自己負担を増やしている。今年四月、悪評高い介護保険制度がとうとう始まったが、家族介護の負担を減らして、社会皆で介護をしましょうとはお題目だけで、これも医療費を削減するための苦肉の策といわれても仕方がない。
 とにかく、きちんとした検証も終わらないうちに、「臓器移植法」を改正するのは性急すぎる。
 
(なかやま ひでこ)
 
註 「ぼくはなぜドナーカードに署名したか」(中央公論一九九九、7月号)
* 高知新聞社会部 「脳死移植」取材班の新聞連載「生命のゆくえ 検証・脳死移植」と書籍『脳死移植 いまこそ考えるべきこと』を参考にさせていただきました。