ドイツによる青島建設、日独戦争、俘虜収容所と俘虜の活動及び

俘虜研究等に関する年表

 

1897年(明治30年)

111日 中国山東省曹州府鉅野県張家荘の教会堂で、アンツァー司教下の神言会ドイツ人宣教師2名殺害される。

1114日 ドイツ東アジア艦隊(司令官ディーデリクス海軍中将)の艦船三隻(カイザー、プリンツェス・ヴィルヘルム、コルモラン)が青島沖に現れ、青島を無血占領する。艦隊の総員は、将校以下717名であった。なお、当時の青島は、戸数約400の漁村で、駐屯する清国守備隊(司令官章高元)の規模は約2000名といわれる。

1898年(明治31年)

 126日 トゥルッペル海軍大佐指揮の輸送船クレーフェルト及びダルムシュタット、海軍歩兵1155名、海軍砲兵303名を青島に上陸させる。

同日、郵便取扱所が青島に開設され、「China 加刷」切手が持ち込まれて使用される。

36日 独清条約締結(青島周辺並びに膠州湾一帯551平方キロを99ヵ年租借、青島・済南間430キロ及び張店から博山までの支線40キロの鉄道敷設権、鉄道沿線15キロ以内の鉱山採掘権等を取得)。膠州湾租借地を海軍省直轄として、総督(海軍大佐)を置くことが決定される。

416日 青島に膠州総督府が設置され、ローゼンダール海軍大佐が初代膠州総督に就任する。

531日 「林業に関する総督府告示」が交付され、青島及びその周辺で植林が開始される。

617日 青島の守備軍として、海軍歩兵第3大隊と海軍膠州派遣砲兵隊が配置される(後にその陣容は、部隊名の改称も伴うが、第3海兵大隊(本隊、歩兵4中隊、騎兵1中隊、機関銃隊の計1180名)、海軍砲兵中隊(100名)、海軍工兵中隊(120名)、海軍膠州砲兵隊(本隊並びに4中隊;750名)の陣容となる)。

 92日 総督府、「膠州土地法」を制定し、青島の私有地の買い上げに着手し、土地の騰貴を規制する。

1011日 青島市街建設の最終的な青写真が完成して、市街建設に着手する。

この年、青島市街ディーデリクス山の中腹に、青島占領を記念する巨大な記念碑が築造される。

1899年(明治32年)

 417日 独清間で膠海関(税関所)設置の協約が結ばれる。

512日 宣教師にして中国学者リヒャルト・ヴィルヘルム、青島に着任する。

516日 イェシュケ海軍大佐、第2代膠州総督に就任する。

61日 山東鉄道会社設立される。

928日 山東鉄道(青島・済南間430キロ)の建設が、ドイツ皇弟ハインリヒ皇子の鍬入れで着工される。

秋    台東鎮(中国人街;青島中心部から3.5キロ北東、400×400mの碁盤目状の町)が完成する。

1010日 山東鉱山会社設立される。

     この年、ヴィルヘルム皇帝海岸通に、東京の帝国ホテル及び横浜のグランドホテルに匹敵する、豪華にして瀟洒なプリンツ・ハインリヒ・ホテル(ハインリヒ皇子ホテル)落成する。

1900年(明治33年)

この年から翌年にかけて、特に高密(青島から107キロ北西)周辺で、義和団や農民による鉄道建設工事およびドイツ軍への襲撃が頻繁になる。

95日 青島郵政署から、膠州租借地用の切手(10ペニヒ深紅色普通切手;鷲切手に黒で「China 5Pf.」(中国5ペニヒ)の加刷、並びに横に青線入り)が発行される。

1901年(明治34年)

 127日 イェシュケ膠州総督の死去にともない、ロルマン海軍大佐、第3代膠州総督に就任する。

68日 トゥルッペル海軍大佐第4代膠州総督に就任する。

 夏    中国人の人口増加に伴い、台西鎮(中国人街;青島中心部から約1キロ西)が建設される。

      この年、建造費95万マルクを投じたイルティス兵営(海軍膠州砲兵隊兵営)が完成する。

      またこの年、高橋写真館が青島で営業を開始する。

1902年(明治35年)

 4月   女子向けのドイツ人学校並びに高等女学校開校する。

   この年、カトリック天主堂が落成する。

また1898年に起工し、300万マルクを投じた総督府衛戍病院が、総督山北東の敷地約2万坪の広大な土地に開院する。

クルーゼン、東京での内務省・法務省顧問を辞して、膠州高等判事として青島に赴任する。

1903年(明治36年)

715日 お雇い医師ベルツ、青島を訪問して約2週間滞在し、膠州高等判事クルーゼンと旧交を温める。

     この年、建造費75万マルクを投じたビスマルク兵営(第3海兵大隊兵営)が完成する。

1904年(明治37年)

 210日 日露両国、互いに宣戦を布告し、日露戦争勃発する。

 36日 青島大港の港湾施設の第1期工事として、第1桟橋が完成する。

611日 山東鉄道の開通式が執り行われる。

夏    小川琢治(湯川秀樹の父親、後に京都帝大教授)、博山及び坊子鉱山等山東の地質、化石の調査を行う。

7月   ゲルマニア麦酒会社が設立される。

夏    海岸ホテルの営業とともに海水浴場が開設される。

1905年(明治38年)

独領南洋諸島のポナペ島でジョカージ部落の反乱が起こり、知事以下ヨーロッパ人10数名が殺害されるが、青島からの援軍によって反乱は鎮圧される。

 95日 ポーツマスにおいて日露講和条約締結し、日露戦争終結する。

1906年(明治39年)

6月   建造費85万マルクを投じた、東洋随一の青島屠畜場が完成する。

     この年、建造費85万マルクを要した総督府庁舎が完成する。

1907年(明治40年)

2月   三井物産青島出張所が開設される。

この年、100万マルク(銅製の配水管・造園等周辺部の経費を含めると350万マルク)を投じて、二年に亘って建設されていた総督官邸完成する。この頃までに、青島市街地の主要な建造物、ドイツ人家屋の建設がほぼ完成する。

1909年(明治42年)

1025日 徳華高等学堂がかつての清国兵営跡に建設されて開校する。

1911年(明治44年)

819日 マイアー=ヴァルデック海軍大佐、総督府参謀長から第5代膠州総督に就任する。

9月    日本綿花株式会社青島出張所が開設される。

秋     辛亥革命起こる。

1231日 横浜のドイツ海軍衛戍病院閉鎖される(開院は187861日)。

1912年(明治45年;大正元年)

 11日  中華民国成立する。

1月    ドイツ海外艦友会の資金により測候所が完成する。

 8月    大文洋行(牛皮、牛油、落花生取扱)青島出張所が開設される。

1913年(大正2年)

10月   江商株式会社青島出張所が開設される。

111日 横浜正金銀行青島出張所が開設される。

1214日 マイアー=ヴァルデック総督、青島訪問を終えて帰国するドイツ駐在武官山本茂陸軍中尉のために、総督官邸で送別の宴を開く。

1914年(大正3年)

628日 オーストリア帝国皇太子フランツ・フェルディナント夫妻、サラエボでセルビアの一青年によって暗殺される。

728 第一次世界大戦勃発する。

マイアー=ヴァルデック膠州総督、北京及び天津駐屯の海軍東アジア分遣隊に対して、青島集結の密命を下す。

81日 福島安正陸軍大将、青島にマイアー=ヴァルデック膠州総督を訪問する。

82日 福島大将が日本に向けて戻ると、ただちに青島に戒厳令が布かれる。

83日 マイアー=ヴァルデック総督、東アジア在住の予備役、後備役、補充予備役に召集令を発する。

815日 日本政府はドイツに対して823日までの回答期限をつけて、膠州湾租借地を中国に無条件で返還するよう最後通牒を発する。

823日 日独国交断絶し、日本はドイツに宣戦を布告する

824日 オーストリア巡洋艦カイゼリン・エリーザベト、日本の勧告に従って武装解除し、乗員は北京及び天津に向かう。

825日 独立第18師団(師団長神尾光臣陸軍中将;約15000名)等の陸軍(約30000名)及び海軍の3艦隊(総員約25000名)が、長崎から山東半島に向けて出撃する。

826日 オーストリア=ハンガリー帝国、日本に宣戦を布告し、巡洋艦カイゼリン・エリーザベト日独戦争に加わる

92日 午前730分、日本軍(第2艦隊の常盤、千歳、秋津洲の3艦に乗船)、山東半島黄海側の港町龍口に上陸する。

99日 青島攻撃の軍事費として、5300万円の臨時軍事費予算案が国会で承認される(大隈重信内閣)。

912日 山田中央隊(山田良水少将指揮)の騎兵隊、即墨(青島から46キロ北)周辺においてドイツ騎兵隊と、日独戦争での最初の戦闘を交える。

913日 巡洋艦カイゼリン・エリーザベト乗員310名、北京及び天津から私服で青島に辿り着き、独軍に加わる。

918日 堀内支隊(堀内文次郎少将指揮)約1000名が労山湾王哥庄東方海岸に上陸し、河東峠で独軍と交戦する。また狗塔埠北方の白沙河左岸でも戦闘があり、両軍の指揮官将校が戦死する。

919日 青島郊外の柳樹台保養所(メクレンブルクハウス)で、日独両軍の間で激しい戦闘が行われる。

922日 流亭附近の斥候戦で、ドイツ兵1名が捕虜となる。

923日 東京に俘虜情報局(長官河合操陸軍少将)が設置される。

927日 浮山(ドイツ名ハインリヒ皇子山)山中で日独両軍の間で激しい戦闘が繰り広げられ、独軍将兵60名が捕虜となる。

928日 ヴァルダーゼー高地攻防をめぐって激しい戦闘が繰り広げられる。

929日 前夜からこの日の早朝にかけて、砲艦ルックス、イルティス、コルモランが膠州湾内に自沈する。

102日 四房山高地攻防をめぐって激しい戦闘が繰り広げられ、独軍に25名の戦死者がでる。

      樫村弘道陸軍少佐(歩兵第48連隊附)、久留米俘虜収容所長に任命される。

106日 久留米俘虜収容所開設される。

109日 俘虜第一陣55名が門司港に到着する。

1012日 日独両軍間の話し合いにより、戦死者埋葬、婦女子避難のために12時間の停戦が行われる。

1018日 2等海防艦高千穂(3709トン)、水雷艇S90400トン)の魚雷を受けて沈没。生存者は僅か13名で、艦長始め271名が戦死する。

1029日 砲艦ティーガー、膠州湾内に自沈する。

111日 巡洋艦カイゼリン・エリーザベト、膠州湾内に自沈する。

116日 朝6時、プリュショー海軍中尉、総督の密命を帯びて飛行機で青島を脱出する。

117日 午前3時、砲艦ヤーグアルに自沈命令が下される。

未明、ビスマルク砲台へ日本軍の総攻撃があり、砲台は自爆する。

マイアー=ヴァルデック総督、日本軍に降伏して青島を明け渡す。

1111日 東京、名古屋、大阪、姫路、丸亀、松山、福岡、熊本に俘虜収容所開設される。青島近郊労山湾の沙子口(青島から22キロ北東)より、俘虜の日本への移送が始まる。

1118日 青島市街地のドイツ名街路等が日本名に変えられる(例:ヴィルヘルム皇帝海岸通→舞鶴浜、イルティス山→旭山、モルトケ兵営→若鶴兵営)。

1126日 青島(せいとう)守備軍(歩兵8大隊、騎兵1中隊、野砲兵1中隊、重砲兵1大隊、工兵1中隊、他に電信隊、鉄道連隊、兵器廠、陸軍病院等約7000の陣容)が設置される。神尾光臣中将が独立第18師団長を免ぜられて、青島守備軍司令官に任ぜられる。

123日 静岡、徳島、大分に俘虜収容所開設される。

128日 旗艦シャルンホルストで青島を脱出したドイツ東アジア艦隊司令官フォン・シュペー中将、イギリスとのフォークランド沖海戦で戦死する。

1218日 神尾青島守備軍司令官、東京駅(開業式の日)に凱旋する。

12月   松山俘虜収容所の山越地区で、俘虜による学習活動としての英語講習会が始まる。

12月末までに、青島から約4462名の独軍俘虜(ドイツ及びオーストリア=ハンガリーの将兵)が日本に移送され、12ヶ所の収容所に収容される。その後も俘虜の移送があり、青島からの移送俘虜数は4688となる。その他南洋群島等からの俘虜を合わせて、最終的には4697名が俘虜として収容される。

1915年(大正4年)

 14日 青島において、国民軍の軍籍にあった者の捜索・検挙が行われる。

4月   青島日本小学校が元ドイツ総督府実科学校跡に開校される。

徳島俘虜収容所において、俘虜による新聞『トクシマ・アンツァイガー』(「徳島新報」の意;週刊)第1号が発行される(19174月まで発行されたと思われる)。

54日 イタリア、オーストリア=ハンガリー帝国に宣戦布告する。

524日 大谷喜久蔵陸軍中将、第2代青島守備軍司令官に就任する。

69日 熊本俘虜収容所閉鎖され、俘虜は久留米へ移送される。

613日 久留米俘虜収容所において、オットー・レーマン指揮による収容所楽団の第1回コンサートが開催される。

78日 丸亀俘虜収容所において、6人編成の「エンゲル・オーケストラ」設立される。

夏    名古屋俘虜収容で、俘虜による運動競技会が開催される。

91日 久留米俘虜収容所内で、俘虜作品展覧会が開催される。

97日 東京俘虜収容所閉鎖され、習志野俘虜収容所開設される。

920日 姫路俘虜収容所閉鎖され、青野原俘虜収容所開設される。

10月   俘虜情報局より、『俘虜名簿』(大正410月調)発行される。

111日 松山俘虜収容所において体操会が開催される。

1112日 大正天皇即位祝賀の日、福岡俘虜収容所から俘虜将校5名が脱走する。

1916年(大正5年)

127日 松山俘虜収容所において、俘虜による新聞『ラーガーフォイアー』(「収容所兵               所の火」の意;週刊)第1号が発行される(1917325日まで61回発行)される              される。              

35日 大阪俘虜収容所で第1回の演劇が上演される。

328日 大阪俘虜収容所で火災が発生し、建物15棟を焼失する。

417日 青島日本高等女学校(元徳華高等学堂)が開校される。

6月   この月の終わり頃、『大阪収容所新聞』(日刊)発刊される。

 91日 東京三宅坂の俘虜情報局が全焼する。

 98日 久留米俘虜収容所内で、第2回俘虜作品展覧会が開催される。

 916日 大日本麦酒、ゲルマニア麦酒会社を60万円で買収する。

 10月   大阪俘虜収容所で「スポーツ競技大会」が開催される。

1021日 高松師範学校等の音楽教師の要望により、パウル・エンゲルとシュタインメッツが丸亀高等女学校で器楽の模範演奏をする。

1130日 青島の旭公園(旧ドイツ植物園)の一画で忠魂碑の竣工式が挙行される。

1215日 松山俘虜収容所展覧会が開催される。

1917年(大正6年)

219日 大阪俘虜収容所閉鎖され、似島俘虜収容所開設される。

315日 愛知商品陳列館主催による1回名古屋収容所俘虜製作品展覧会が開催される。(〜3月末まで)

44日 青島日本中学校校舎が、旧独軍自動車庫の跡に10万円余を投じて落成する。

46日 アメリカ、第一次大戦に参戦する。

49日 徳島俘虜収容所閉鎖され、板東俘虜収容所開設される。

421日 丸亀俘虜収容所閉鎖され、俘虜は板東俘虜収容所へ移送される。

423日 松山俘虜収容所閉鎖され、俘虜は板東俘虜収容所へ移送される

427日 旭山中腹に「忠魂碑」建立され、日独戦争における1014名の戦死者・戦病死者が祀られる。

6月   日本帝国俘虜情報局より、『獨逸及墺洪國俘虜名簿』改訂版発行される。

86日 本郷房太郎陸軍中将、第3代青島守備軍司令官に就任する。

814日 中国、ドイツに対して宣戦を布告する。

930日 板東俘虜収容所で俘虜による新聞『ディ・バラッケ』(「兵舎」の意;週刊)第1号発行される(最終巻は19199月号)。

10月   法学博士秋山雅之介陸軍参事官、初代青島守備軍民政長官に任ぜられる。

1012日 習志野俘虜収容所において、ミリエス、ユーバシャールの共同主催で、「宗教改革400年記念の夕べ」が開催される。

1918年(大正7年)

 2月    3回久留米美術工芸品展が開催される。

 221日 鶴舞公園で名古屋収容所俘虜同士のサッカー試合が行われ、二日後の23日に『新愛知』で試合経過が詳報される。

38日 徳島市公会堂で、板東収容所俘虜製作品展覧会が開催される(〜19日まで)。

412日 福岡俘虜収容所閉鎖される。収容所閉鎖以前に俘虜は段階的に、青野原、大分、大阪、久留米、名古屋、習志野の各収容所へ移送される。

61日 板東俘虜収容所内でヘルマン・ハンゼン指揮により、ベートーヴェンの『第九交響曲』が演奏される(本邦初演)

79日 久留米俘虜収容所内でカール・フォークト指揮により、ベートーヴェンの『第九交響曲』が「合唱」部分を省いて演奏される。

1010日 大島健一陸軍中将、第4代青島守備軍司令官に就任する。

825日 静岡及び大分俘虜収容所閉鎖され、俘虜は習志野へ移送される。

秋    流行性感冒(スペイン風邪)が世界中で猛威を振るい始める(翌年の春まで)。

1111日 休戦条約締結され、第一次大戦終結する。

1129日 久留米俘虜収容所内で、4回俘虜作品展覧会が開催される。出品点数約5000点で、開催中には演劇、音楽会、運動会も行われた。

1213日 青野原収容所俘虜製作品展覧会が開催される(20日にも開催)。

1215日 名古屋偕行社の将校家族会で、約70名の俘虜による音楽演奏会が行われる。

1919年(大正8年)

11日 習志野俘虜収容所長の陸軍歩兵大佐侯爵西郷寅太郎(西郷隆盛の嫡男)、スペイン風邪で没する

116日 広島高等師範学校のグラウンドで、似島収容所の俘虜と広島高等師範学校等の生徒たちとのサッカー国際親善試合が行われる。

118日 広島高等師範学校のグラウンドで、似島収容所の俘虜による運動競技会が開催され、安河内麻吉広島県知事、幣原坦広島高等師範学校校長を始め、市内の有力者や教育関係者、市内各小中学校生徒や呉市の小学校教員40名が見学する。

119日 上記運動競技会の2日目に、同上グラウンドで青・白二組の似島俘虜サッカーチームによるサッカー試合が行われる。

34日 広島県物産陳列館(後に産業奨励館の名称となる。現在の原爆ドーム)で、似島収容所俘虜製作品展覧会(似島独逸俘虜技術工芸品展覧会)が開催される(13日まで)。

41日 ヨーハン・ヤコービによって、精密な「板東俘虜収容所要図」(縮尺625分の1)が製図される。

417日 名古屋陸軍幼年学校生徒、収容所で体操演技や日常生活を見学する。

430日 パリ講和会議で、山東省のドイツ利権に関する日本の要求が承認される。

518日 広島高等師範学校の丁未音楽会の一環として、似島収容所の俘虜による音楽会が開催される。

528日 由比光衛陸軍中将、第5代青島守備軍司令官に就任する。

66日  名古屋新聞社の婦人慰問団170、収容所へ慰問品として扇子を持参して訪問する。

622日 愛知県商工陳列館において、名古屋収容所俘虜製作品展覧会が開催される(〜30日)。

628日 ヴェルサイユ講和条約締結により、青島のドイツ国有財産は、日本に譲渡されることになる。

78日 パウル・エンゲル、この日に板東俘虜収容所内で発行された「ビール新聞」に、「自伝」を載せる。

723日 習志野俘虜収容所内において、俘虜による大規模なスポーツフェスティヴァルが開催される。

727日 板東俘虜収容所近くの大麻比古神社境内に、ドイツ兵俘虜によって「ドイツ橋」が完成(「要石」の打ち込み)する。

夏    習志野俘虜収容所内で「チャップリン映画」等の上映会が開催される。

828日 カルクブレンナー、名古屋俘虜収容所を通じて、北海道帝国大学に『獨逸人北海道移住ニ関スル趣意書』を提出する。

105日 名古屋の明倫中学校校庭で、名古屋収容所の俘虜と第八高等学校及び明倫中学校の生徒・卒業生との混合チームによるサッカーの試合が行われる。

1010日 徳島市の劇場「新富座」において、板東収容所俘虜の「お別れ演芸会」が三日間の日程で開催される。

123日 久留米高等女学校講堂で女学生達を聴衆として、久留米収容所俘虜43名によるベートーヴェン『第九交響曲』の第2、第3楽章他が演奏される。

1214日 久留米俘虜収容所で、最後となる第144回収容所楽団コンサートが開かれる。

1219日 久留米俘虜収容所俘虜による「獨逸人演芸会」(入場料50銭、音楽演奏、喜劇、独唱、舞踏、曲芸、史劇)が、久留米市苧扱川(おこんかわ)町の恵比寿座で21日まで三日間にわたって行われる。

1225日 この日より翌年の128日にかけて俘虜の本国送還が行われる。

1920年(大正9年)

110日 ヴェルサイユ講和条約発効する。

2月   青島守備軍陸軍参謀部によって「鹵獲(ろかく)書籍及図面目録」作成される(鹵獲書籍・図面の総数は、31393点;内訳:書籍は洋書・漢籍合わせて26260冊、図面は5133葉)。

312日 久留米俘虜収容所が閉鎖される。

41日 習志野、名古屋、青野原、似島、板東の各俘虜収容所閉鎖される。またこの日、俳優三船敏郎が、青島随一の写真館を経営する三船秋香を父として青島に生れる。

     この月、元名古屋俘虜収容所の俘虜カルクブレンナー等6名、朝鮮蘭谷でドイツ式大規模農場建設のために営農を始める。

420日 浦塩派遣軍俘虜委員樫村弘道陸軍中佐(初代久留米俘虜収容所長)の元に、渋沢栄一、藤山雷太や名古屋の中日新聞等から、辛酸を嘗めているシベリアの独墺洪国等の俘虜救済のために義捐金44613円が届く。

12月   青島における阿片制度が廃止される。

1921年(大正10年)

 1022日 ドイツより名古屋市長宛てに、俘虜に対して市民が友好的かつ温情ある対応

       をしたことに対して、感謝状と赤十字勲章が贈られる。

1922年(大正11年)

31日 指揮者石丸寛、貿易商を父として青島に生れる(青島日本中学校19回生)。

125日 ヴェルサイユ講和条約に基づき、山東鉄道が中国政府に4000万円で売却されることが決定する。

1210日 青島の行政権が中国政府に引き渡される(山東還附)。

1217日 青島守備軍撤退完了。(第5代青島守備軍司令官由比光衛大将をもって、日本軍による青島占領終結する)

1923年(大正12年)

11日 この日をもって、山東鉄道が中国政府の所有になる。

31日 青島日本人居留民団設立。

331日 青島日本総領事館設立。

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1955年(昭和30年)

 1113日 日独(西独)国交回復を受けて船橋市習志野霊園に、習志野俘虜収容所で没したドイツ人兵士30名の慰霊碑除幕式が執り行われる。

1959年(昭和34年)

 410日 旧日本軍記録文書がアメリカ政府より返還されて、防衛省(旧防衛庁)防衛研修所戦史室に収められる。

1963年(昭和38年)

 5月    東宝映画「青島要塞爆撃命令」が上映される。

1972年(昭和47年)

 510日 鳴門市にドイツ館落成する。

1976年(昭和51年)

 1118日 鳴門市の板東俘虜収容所跡に、ドイツ兵士合同慰霊碑建立される。

1989年(平成元年)

 119日 ベルリン日独センターで「フリッツ・ルンプ展」開催される。

1990(平成2年)

 320日 鳴門教育大学社会系及び芸術系教育講座から、『「板東俘虜収容所」研究』発行される。

1993年(平成5年)

 1013日 鳴門市に新ドイツ館落成する。

1997年(平成9年)

 111日 久留米市教育委員会によって、第7回企画展「ドイツ人俘虜と久留米」開催される(〜15日)。

1998年(平成10年)

 327日 ベルリンのドイツ歴史博物館において1897年から1914年における中国のドイツ植民地展」が開催される(〜619日)。

 331日 鳴門市から、『ディ・バラッケ』第1巻の日本語訳発行される。

1999年(平成11年)

 331日 久留米市教育委員会から『久留米俘虜収容所 19141920』発行される。

2000年(平成12年)

 115日 習志野市教育委員会により、習志野市津田沼で特別史料展「ドイツ兵士の見たNARASHINO 1915-1920 習志野俘虜収容所」開催される(〜30日)。

 331日 鳴門市ドイツ館から、『どこにいようと、そこがドイツだ』発行される。

2001年(平成13年)

 331日 鳴門市から、『ディ・バラッケ』第2巻発行される。

 53日 鳴門市ドイツ館で、特別企画展「国内のドイツ人収容所」が開催される(〜63日)。

 520日 鳴門市ドイツ館で、パネルディスカッション「国内のドイツ兵俘虜とそれぞれの日独交流」が開催される。

 7月   ヴュルツブルクのシーボルト博物館で、ケーバラインが板東俘虜収容所等で写した写真等で構成された「極東で俘虜となって―日本の収容所におけるドイツ人」と題した展示会が開催される。

 91日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」創刊号発行される。

 98日 丸亀市において、1回「エンゲル祭」開催される。

 1220日 習志野市教育委員会から、『ドイツ兵士の見たニッポン 習志野俘虜収容所19151920』発行される。

2002年(平成14年)

 110日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第2号発行される。

525日 旧青野原俘虜収容所の将校宿舎の一部が、農家の納屋として使用され現存している事が判明する。

      鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第3号発行される。

97日 丸亀市において、第2回「エンゲル祭」開催される。

930日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第4号発行される。

2003年(平成15年)

 2月    鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第5号発行される。

 31日  習志野市教育委員会から、『習志野市史研究3』(ドイツ捕虜収容所特集)発行される。

 315日 鳴門教育大学・鳴門市から、『地域社会における外来文化の受容とその展開』―「板東俘虜収容所」を中心として―発行される。

331日 久留米市教育委員会から、『ドイツ軍兵士と久留米』―久留米俘虜収容所U―発行される。

 47日 インターネット上の研究組織「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」発足する。

 412日 名古屋日独協会によって、名古屋俘虜収容所跡の県立旭丘高校正門の北側に「日独友好の碑」が建てられ、ドイツ人墓地(旧陸軍墓地;現平和公園内)において献花慰霊祭が執り行われる。

 6月    鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第6号発行される。

 1015日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第7号発行される。

 1025日 鳴門市ドイツ館から、『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』創刊号発行される。

 1214日 丸亀市において、第3回「エンゲル祭」開催される。

 1216日 丸亀市において、独日文化交流育英会から寄贈された菩提樹の植樹祭が行われ、後日菩提樹は、丸亀俘虜収容所で没したドイツ兵の墓がある旧陸軍墓地に移される。

2004年(平成16年)

 122日 板東俘虜収容所の俘虜によって建設された「ドイツ橋」が、徳島県の県史跡に指定される。

 210日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第8号発行される。

  31日 小野市から、AONOGAHARA捕虜の世界』(『小野市史第三巻 本編V』別冊)発行される。

  515日 大分市で、久留米俘虜収容所俘虜カール・フォークト作曲の作品が、大分ウィンドフィルハーモニーによって90年ぶりに演奏される。

  620日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第9号発行される。

  1015日 鳴門市ドイツ館から、『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号発行される。

  1116日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第10号発行される。

  12月始〜 鳴門市ドイツ館で、「ドイツ兵俘虜関係者からの寄贈資料展」開催される(翌年1月末まで)。

 2005年(平成17年)

 228日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第11号発行される。

 315日 伊東市立木下杢太郎記念館において、特別展「杢太郎と異国情緒」が開催される(58日まで;クルト・グラーザーとフリッツ・ルンプとの交流の軌跡を辿る)。

 325日 丸亀俘虜収容所のあった西本願寺塩屋別院において、瀬戸フィルハーモニー交響楽団のメンバーによって、「丸亀保養楽団」が再現され、その模様が瀬戸内海放送から44日に放映される。

 331日 鳴門市から『ディ・バラッケ』第3巻発行される。

 41日 「日本におけるドイツ2005/2006」(ドイツ年)始まる(2006331日まで)。

 7月25日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第12号発行される。

 910日 徳島市において、東映映画『バルトの楽園(がくえん)』企画発表会が開催される。監督出目昌伸、脚本古田求で、制作費は10億円を超える大作になる予定。

 915日 鳴門市ドイツ館から、『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第3号発行される。

 101日 鳴門市ドイツ館で、全国フォーラム:「ドイツ兵俘虜収容所−を考える」開催される。

      小野市立好古館で、特別展「青野原俘虜収容所の世界…」開催される(1127日まで)。

 1026日 東京赤坂のドイツ文化会館で、ドイツ東洋文化研究協会(OAG)及びドイツ日本研究所(DIJ)の共催で、「日本おけるドイツ兵俘虜19141920年」のパネル展示会及び「板東コレクション・ヴァーチャル展覧会」が開催される。後者の開設によって、ドイツのシュミット氏のホームページ、丸亀ドイツ兵俘虜研究会による「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」のホームページ、及びドイツ-日本研究所の三つのホームページがリンクすることになる。

 1029日 ドイツの俘虜研究家ハンス=ヨアヒム・シュミット氏が来日し、習志野、板東、丸亀、似島、姫路、青野原の各収容所跡を歴訪し、各地で日本の研究者と交流する。

 113日 JR徳島駅近くの徳島県郷土文化会館の西側に、徳島・板東の俘虜収容所長だった松江豊寿大佐顕彰碑の除幕式が行われる。

 115日 松山市で開催された第54回日本独文学会中国四国支部の研究発表会で、シンポジウム「第一次大戦時の中四国におけるドイツ兵俘虜収容所」が一般公開される。

      兵庫県立小野高等学校で講演会「青野原俘虜収容所の世界」開催される。

 1128日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第13号発行される。

2006年(平成18年)

 122日 似島俘虜収容所の俘虜を採り上げたドイツからの贈りもの〜国境を越えた奇跡の物語」が放映される(テレビ新広島製作;フジテレビ系列)。

 218日 大阪市大正区の平尾亥開(いびらき)公園において「大正ドイツ友好記念碑」の除幕式が行われる。

 325日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第14号発行される。

 617日 ワールドカップドイツ開催に合わせて、東映系映画『バルトの楽園(がくえん)』が封切られる(出演:松平健、ブルーノ・ガンツ、高島礼子、國村隼、板東英二、市原悦子、三船史郎他)。

 731日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第15号発行される。

 826日 徳島市徳島城博物館で、徳島におけるドイツ2006 フォーラム「ドイツ兵俘虜収容所所長 松江豊寿の実相を求めて」が開催される。

 1031日 鳴門市ドイツ館から、『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第4号発行される。

1130日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第16号発行される。

2007年(平成19年)

 320日 香川県立文書館において「写真に見るロシア・ドイツ兵俘虜」が開催される(〜527日まで)。

 324日 鳴門市ドイツ館において、『バラッケ』翻訳完成記念祝賀パーティーが開催される。

 331日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第17号発行される。

      鳴門市から『ディ・バラッケ』第4巻及び『帰国航』の日本語訳発行される。

         久留米市教育委員会から『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 W』が発行される。

  1031日 鳴門市ドイツ館から、『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第5号発行される。

 1222日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第18号発行される。

2008年(平成20年)

 3月   大阪市大正区から『大阪俘虜収容所の研究―大正区にあった第一次大戦下のドイツ兵収容所』(大阪俘虜収容所研究会、大正ドイツ友好の会編)が発行される。

 315日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第19号発行される。

 93日 オーストリア国家文書館にて、「青野原俘虜収容所「ウィーン里帰り」展覧会」が開催される。

 930日 鳴門市ドイツ館から、『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号発行される。

 1013日 岡山大学における日本独文学会秋季研究発表会において、「日独文化交流史上の在日ドイツ兵捕虜とその収容所」をテーマにした一般公開国際シンポジウムが開催される。

 1111日 第一次大戦終結90年に当るこの日、習志野市の東習志野児童公園内に、レンガ造りの「ドイツ捕虜オーケストラの碑」(高さ1.4メートル、幅2.3メートル、奥行き1.2メートル)が落成する。

 1214日 丸亀俘虜収容所があった丸亀市塩屋町の本願寺塩屋別院で、「まるがめ第九演奏会プレコンサート」が開催される。

2009年(平成21年)

 131日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第20号発行される。

 331日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第21号発行される。

 5月     ユーハイム社が青島(チンタオ)のホテル「香格里拉大飯店」で「ユーハイム創業100年祭 晩餐会」を挙行する。

 94日 マールブルク大学付属図書館で同大日本センター主催、OAG東京の共催によって、“Alle Menschen werden BrüderDeutsche Kriegsgefangene in Japan 19141920の展示会が開催される(1018日まで)。

 117日 「青野原俘虜収容所展示会・講演会・再演音楽会inTokyo」が神戸大学と小野市との地域連携事業として、東京のドイツ文化会館及びオーストリア大使館で行われる。

1130日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第22号発行される。

  1215日 鳴門市ドイツ館から、『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第7号発行される。

2010年(平成22年)

113日 NHK総合テレビ番組『歴史秘話ヒストリア』(第29回放送)において、「焼け跡とバウムクーヘン〜あるドイツ人夫妻の苦難と愛」と題してカール・ユーハイムが採りあげられる。

 31日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第23号発行される。

 820日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第24号発行される。

 821日 名古屋鶴舞中央図書館主催による「名古屋の図書館ことはじめ」の展示会で、名古屋俘虜収容所の俘虜が帰国に際して寄贈した図書が展示される。

 1130日 鳴門市ドイツ館から、青島戦ドイツ兵俘虜収容所研究』第8号発行される。

2011年(平成23年)

 

(本年表作成に当たっては、田村一郎、校條善夫、小阪清行、星昌幸、小谷厚三、吉田正の各氏から資料提供等の教示を得た。なお漏れている事項が多々あると思われ、また日付が判明していない部分もある。ご教示頂ければ幸甚に思います)