ミクロネシアのポーンペイ(旧称ポナペ)人捕虜に関して
 
(編集者注: ニュージーランドのN氏から以下のようなメール(T)が「丸亀ドイツ兵俘虜研究会」宛てに届きました。丸亀の研究会では分からないので、瀬戸先生に転送しましたところ、N氏に対する回答(U)、およびその追伸(V)が返ってきました。N氏だけが読んで忘れ去られてしまうには惜しい内容かと思われましたので、瀬戸先生にお願いいたしましたところ、了解いただきましたので、会報でお知らせして、ホームページにアップロードして保存することにいたしました。なお、名前を伏せたり、関係のない部分を削除したりして、多少の編集を施してあります。)
 
 
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(T)N氏から丸亀研究会へのメール
 
丸亀ドイツ兵俘虜研究会御中
前略
 
突然お便り差し上げる無礼をお許しください。私はニュージーランドのオークランド大学人類学部大学院博士課程で考古学を学ぶNと申す者です。習志野市教委の星さんから貴研究会について紹介していただきました。この度お手紙を差し上げたのは、日本または外国(オーストラリア?)の捕虜収容所に収容されていたミクロネシアのポーンペイ(旧称ポナペ)人捕虜に関する情報についてご教示していただくためです。
私は1991年から1994年まで青年海外協力隊の考古学隊員としてポーンペイ州政府歴史保護文化課に勤務し、文化と歴史の小さな博物館の設立と運営に携わっていました。2002年より同課と共同で、ポーンペイ州の一離島であるモキール環礁の伝統的な口承伝承(民話・歴史・歌謡など)を記録し、モキール語と英語で出版するプロジェクトに携わっております。私が採録したこの島のドイツ統治時代の話として、モキール人1人を含むポーンペイ人数人がドイツ領青島で第一次世界大戦に遭遇し、日本の捕虜収容所で数年過ごすという話があります。星さんから日本側の史料をご教示していただき、砲艦ヤ−グルに乗っていて習志野俘虜収容所に送られたポーンペイ人3人について確認できました。しかし、これらの史料の中には私がモキールの老人から聞いたモキール人(現地名エーピン)の名前を見つけることが出来ませんでした。星さんからも日本の収容所で出身地ポナペと記録されているのは習志野の3人だけとお聞きしました。そこで他のポーンペイ人捕虜についての情報をご教示いただきたくお便りさせていただきました。彼らは日本の収容所には収容されず、外国の収容所に送られたのでしょうか?
別の情報として、ポーンペイのドイツ時代の歴史を扱った博士論文に「第一次大戦勃発後、少数のポーンペイ人が停泊中であったドイツ海軍の戦艦グナイゼナウとシャルンホルストに乗って、東アジア艦隊に(East Asian Squadron)に加わるため西に向かった」という記述があります。これは多分ドイツ語の史料からの引用だと思うのですが、このポーンペイ人たちがどうなったかはご存知ですか?星さんによると彼らは英豪軍に引き渡されたようであると教えていただいたのですが、何か関連する情報はありませんか?
また星さんからは習志野市が集めたポーンペイ人捕虜についての資料(「ドイツ兵士の見たニッポン」や「習志野市史研究3」に載せられたもの)を送っていただきましたが、もし他の史料や古い写真などご存知でしたら、お教えください。
それではご多忙中不躾なお願いで大変恐縮ですが、よろしくお願い致します。
 
早々  N
          2004年6月18日
 
 
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(U)瀬戸先生からN氏への回答
 
 
 N氏のメールを読みました。世の中には、色々なところで色々なことに携わっている方がいるものですね。
 さて本題ですが、星さんが伝えた3名以外には、当方もポナペ島出身俘虜の存在を知りません。
 仮に習志野収容所(東京収容所閉鎖に伴い開設)に収容された3名のポナペ人の他に、ポナペ島近くの環礁出身で、ドイツ軍の一員となった者がいたと仮定すると、俘虜名簿には見当たらないことから、以下の四つのケースが考えられます。
 
1) 青島での戦闘で戦死した。しかし、日本軍埋葬者及びドイツ軍埋葬者のリストには、それらしき名前はみつかりません(出身地が記載されているので確かでしょう)。
 
2) 青島での海戦で、海に投げ出されて、救助されることなく海に沈んだ。
(東京及び習志野の収容所に収容されたポナペ島出身者のヴィルヘルム・ヘルゲン(Wilhelm Helgen)は、海に投げ出されたものの日本軍によって救助された、との事例がある)
 
3) 青島でイギリス軍に引き渡された。これらの俘虜は重傷者でイギリス軍に引き渡され、やがて1915年2月にイギリスの香港収容所に収容された。この俘虜リスト(将校1名を含む76名)を調べても、それらしき俘虜の名は見当たりません(但し、出身地の記載はない)。もっともドイツ名を名乗っていたのでしょうから、判別は難しいですが。
 
4) 水雷艇S90号の乗組員で、青島を脱出して南京方面に逃れたものの、やがて中国の南京収容所に収容された。ドイツの俘虜研究家シュミット氏のホームページ及びデーターバンクに、そうした俘虜の名が掲載されていますが、当方はその全容は承知していません。但し、この水雷艇の乗組員に南洋出身者がいたと考えるのは、かなり無理があるように感じます。
 
 当方は日頃、伝承というものを重んじる立場をとっています。しかし現段階では、未だ知られていない南洋群島出身俘虜が、実は日本の収容所にいた、とはとても考えられません。しかし、折りを見てなお調査することにします。
 
 N氏のメール中には、別の情報との但し書き付きで、「戦艦グナイゼナウとシャルンホルストに乗って、東アジア艦隊に加わるために西に向かった」の一文があります。シャルンホルストは東アジア艦隊の旗艦で(拙稿(2)の148-149頁の注84を参照)、青島を脱出して南洋群島に向かいました。最終的にはそこから更に東に向かい(西ではなく)、フォークランド沖でのイギリスとの海戦で沈没しました。
 念のために、注の部分の一部を下にコピーしました。
 
  84)シュペー中将:シュペー(Maximilian von Spee;1861-1914)は第一次
大戦勃発時のドイツ東洋艦隊司令官。軍艦シャルンホルストで青島を脱出した
が、1914年12月8日、イギリスとのフォークランド沖海戦で戦死した。
 
 軍艦シャルンホルストに乗船していれば、日本で俘虜になることはあり得なかったでしょう。軍艦グナイゼナウについてはその行方を正確に承知していません。海戦に加わったと推測されます。
 
 日本軍によって、オーストラリアに引き渡された俘虜については皆目分かりません(南洋群島付近で引き渡されたようですが)。なお、オーストラリアの収容所(リヴァプール収容所)にはイギリス軍によって、北京、天津のドイツ人やオーストリア人が送られています。その他には、イギリス軍によってシンガポールの収容所に収容された俘虜がいます。これは南洋群島というよりは、南方海上での海戦等で俘虜となったか、日本軍によって引き渡されたドイツ人です。収容所で暴動を起したとも言われています。 
 
 なお当方は、南洋群島から原住民が、直接日本に俘虜として送られたことはないと推定します。習志野収容所に収容されたポナペ人達は、青島で砲艦ヤーグアルに乗り組んだドイツ軍の一員であったがため、青島から日本に移送されたのでした。南洋群島では、ドイツ人将兵でも宣誓解放された者達がいたほどです(青島では宣誓解放者は一人としていませんでした)。現住民なら先ずは解放されたか、もしくはオーストラリアに引き渡されたでしょう。
 
 俘虜とはまったく関係ありませんが、当方は『南洋新占領地視察報告』(文部省専門学務局、大正5年3月31日発行)を所持しています。ポナペ島だけではなく、ヤップ、パラウ、ヤルート、トラック島などの南洋群島全体に触れたものです。日独戦争(青島攻囲戦)終結間もない大正3年12月末から大正4年の初めに、上記群島の調査が行われました。気候、風土、人口構成、医療事情、民俗、食生活、動植物、鉱物等について記した、11名の研究者(東京、京都、東北の各帝国大学や盛岡、鹿児島の高等農林等に勤めていた教官達)の視察報告集です。全273頁、かなり劣化した文献です。これによると、当時はまだ数名のドイツ人(主として医師)が各群島にいたようです。N氏には既知の文献かもしれません。
 
瀬戸武彦
 
 
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(V)瀬戸先生からN氏への回答(追伸)
 
 
南洋群島関係俘虜
 
ミクロネシア人俘虜についての古老の話は、根拠があるのかもしれません。よく考えると、ほんの90年前のことでした。10数年前までは、俘虜の幾人かも生存していました(現在なお110歳以上で存命していることも、可能性としては絶無ではありませんが)。日本の収容所に送られた、という観点から調査し直し、南洋群島に関わる俘虜としては、以下の四つのケースがありました。
 
1) 既にご存知の習志野収容所(当初は東京収容所)俘虜、イソラプ・ゲオルク(Isolap Georg)、ヴィルヘルム・ヘルゲン(Wilhelm Helgen)、ヨーゼフ・ザムエル(Joseph Samuel)のポナペ島住民三名は、いずれも砲艦ヤーグアル乗員で、青島(チンタオ)から日本へ移送されました。
 
2) 西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったものの、1914年(大正3年)11月1日、宣誓解放されたのは測量船プラーネット(Planet)乗員9名です。ヴィリー・ライエケ(Willy Reieke)海軍中主計(中尉相当)他8名ですが、出身地はいずれもドイツ本国。長崎でアメリカ領事に引き渡されて、アメリカに向かいました。
 
3) 1914年10月19日、東カロリン群島のトラック島で俘虜となり、久留米収容所に送られたのは、測量船第2号乗員のエーミール・アーピッツ(Emil Apitz)、リヒャルト・シュラム(Richard Schramm)、ヴィルヘルム・ゼームート(Wilhelm Seemuth)の三名です。それぞれドイツの、ブランデンブルク、ザクセン、マンハイム出身です。
 
4) 戦艦グナイゼナウの乗員で、病気のために残留していたポナペ島で俘虜となり、東京収容所(後に習志野収容所)に送られたユリウス・リュールス(Julius Luehrs)、及びゲオルク・ツァッハ(Georg Zach)の二名の出身地(本籍地)は、アッセル(Assel)及びシュナイテンバッハ(Schnaittenbach)です。その地名は当方にとっては、いずれも馴染ない地名です。百科事典に当たっても見当たりません。シュナイテンバッハは、インターネットで調べた限りでは、ビーレフェルト近郊にあるようですが。
 
(5)南洋群島とは直接の関わりはないと思われますが(病気等のために、青島で乗船できなかったと推測されます)、戦艦グナイゼナウとシャルンホルスト乗員の俘虜は以下の通りです。
  戦艦グナイゼナウ乗員:
  カツォレク(Alfred Katzorek;マグデブルク出身;松山収容所→板東収容所)ザイファルト(Paul Seyffart;ハンブルク出身;静岡→習志野)
  シュトラウプ(Eugen Straub;ヴュルテンブルク出身;大阪→似島)
 
  戦艦シャルンホルスト乗員:
  ゼディヒ(Gustav Seddig;ポンメルン出身;大阪→似島)
  ファイト(Richard Veidt;ニーダーヘルムスドルフ出身;静岡→習志野)
 なお、俘虜の人名・出身地等は、『獨逸及墺洪國俘虜名簿』(日本俘虜情報局、大正6年6月改訂)に拠りました。
 
 『南洋新占領地視察報告』には、残念ながら「モキール」の語は一つも見当たりません。論文集なので、全体を通した索引もありません。また、イギリス軍に引き渡された重傷の俘虜は、青島守備軍衛戍病院(旧総督府衛戍病院)に三ヶ月程入院の後、イギリス軍がドイツ軍に勝利した(実際は日本軍による勝利ですが)ことを中国人に見せ付けるために、香港に移されたのです(従って、南洋群島出身の俘虜はいなかったのではと推測されます)。
 
 現時点での調査は以上です。どこかに見落としがあるのか、なんとも言えません。