第三章 ヒトのかたちは生物史とともにできてきた
 
第一節 ヒトは心の目覚めた動物である
 
脊椎動物は二重の土管のかたちをしている
ゲーテは、原型とメタモルフォーゼによって形態が生み出されるとする形態学の考えによって、植物学をはじめとして、動物学、地質学、色彩論など広範な分野に関し、優れた業績を残した。このことは形態学的方法の、もっと言えばゲーテの自然観の普遍性を例証しているといえるだろう。
解剖学者の三木成夫は、宗族発生(系統発生)の先端に位置するヒトの原型を知るためには、ヒトの辿った生物史を遡り、その先祖である動物のかたちを知らなければならないと考えた。そこで三木は、ゲーテの原型概念を導きの糸として、古生物学・比較解剖学・比較発生学の知見を駆使し、脊椎動物の原型、言いかえれば「根原のかたち」を追い求めた。
こうして、脊椎動物のかたちが、動物器官と植物器官の二重の筒で模式化できることを明らかにしたのである。だが、この二重の筒は、単なる静態的な構造物ではなく、自然全体を飽くことなく貫流し続ける渦流に身を委ねて、上下に律動するメタモルフォーゼの舞いを踊る形態学的モナドなのであった。
ところで、植物や動物に限らずあらゆる生物は、栄養を取り入れることで個体のからだを造る、成長繁茂・成長期の「食の相」(個体保存の位相)と、種を未来につなげるために生殖を行なう、開花結実・生殖期の「性の相」(種族保存の位相)を、天体運行法則に呼応しながらそれぞれ種独自のリズムで繰り返す。この「食と性の位相交替」によって終わりなく続く生命の波≠アそ、無生物と生物を区別する目印であり、生命現象の根原に流れるものである。
そして、この生命のリズムは、ある固有のかたちをもった身体によって担われる。すなわち、食の相には、それにふさわしいからだの構造と機能をもち、性の相にもまた、それにふさわしいからだの構造と機能をもつ。この意味でリズムとかたちは対の関係をなし、互いに相手を不可欠の契機にしている。
では、食と性の位相交替というリズムを刻む動物のからだとはどんな形をもっているのか? 三木は、動物のからだを、腸管が「体壁の鞘」に収まったものと考えた。そこで、古生物学者ローマー卿にならって、脊椎動物の四つんばいになった様子を、二つの土管が内外二重に重なっているすがたかたち≠ニみなしたのである。
生命体は、外界から栄養を取り入れ、それらを同化することでからだをつくり、異化することで老廃物を排出するという代謝過程を、あたかも川の流れのように、天命が尽きるまで無限に繰り返さなければならない。この際、独力で栄養を作り出すことができない動物は、動くことで獲物探し、捕まえなくてはならない。このため、外界からさまざまな情報を入力し、それを神経によって脳に伝え、外界の状況を判断し、その判断を脳から筋肉に命令することによって行動しなければならない。
 
脊椎動物のからだは内臓系と体壁系からなる
そこで、脊椎動物の個体体制が次の三つの部位から構成されると考える。すなわち、外界からからだに向かって栄養や情報を取り入れる受容極、からだに入ってきたものを運搬・伝達する介在部、処理のすんだ栄養や情報をからだから外界に向かって取り出す排出極の三大部位からなる一個の完結した体系であるとする。
脊椎動物のからだをつくる二重の土管のうち、内側の土管(inner tube)は、栄養−生殖≠ニいう生命本来の営み―植物性過程≠ニいわれる―にたずさわる植物性器官≠ナある。植物性器官のなかで、上の三つの部位を相当する器官は、食と性の繰り返されるリズムにしたがってその様相を交替させる。
食の相において、植物性器官は、受容・介在・排出の三部位を、吸収(腸管系)・循環(血管系)・排出(腎管系)という三つの植物性機能≠ノ分担させることによって栄養を行なう。時は巡り、性の相になると性腺が体腔に充満し、食の相における受容・介在・排出の器官構成に革命が起る。すなわち、受精(卵巣)・仲介(精管系)・射精(精巣)という三つの過程と器官によって生殖が行なわれる。受容極では、食の相における腸管が性の相の卵巣に、介在部では血管が精管に、排出極では腎管が精巣に、革≠ワったことはいうまでもない。
植物性器官は、体内に蔵されているため内臓系≠ニ呼ばれる。吸収系と排出系を天秤の両腕とすると、循環系は支点にあたる。お互い対照的な関係である二系列を仲介し、交通させるのが循環系の血管系である。ハーヴェイのいう循環≠ノ相当するであろう。血管の一部が肥大化したものが心臓であるから、内臓系を代表する心臓が天秤の両腕を支えているといえる。
外側の土管(outer tube)は、感覚−運動≠ニいう動物固有の過程―動物性過程=\にたずさわる動物性器官≠ナある。動物性器官は、受容極・介在部・排出極の三大部位を、感覚(外皮系)・伝達(神経系)・運動(筋肉系)という三つの動物性機能≠ノ割り当てることよって、外界の刺激を外皮から感覚し、それを、神経を通じて筋肉へ伝達、そして運動によって全過程が終わる。動物性器官は、内臓系を囲い込むからだの壁をつくるため体壁系≠ニ呼ばれる。伝達系は、感覚系と運動系という天秤の両腕の支点に位置し、感覚を運動にもたらし、また運動を感覚にもたらす。そこで伝達系の中枢である脳が体壁系を代表するのである。
こうして、動物のすがたかたちは、栄養−生殖という生本来の機能を営む内臓系を、感覚−運動という動物固有の機能を営む体壁系≠ェ取り囲み、外界と隔てられることによって出来上がる。具体的には、腸や肝臓、膵臓、胃、脾臓、骨髄、血管、リンパ管、腎臓、心臓、子宮などが内臓系で、皮膚、舌、鼻、耳、目、脊髄、延髄、脳や筋肉などが体壁系である。魚をさばく場合でいえば、臓物が内臓系で、煮炊きする部分が体壁系であると考えればよいだろう。
 
植物は存在することがそのまま生存することである
こうした、動物のかたちに関する考察から逆に、植物のかたちが照射されてくる。三木の巧みな比喩を借りれば、植物とは、二重の筒状をしている動物から、内側の筒である腸管を引き抜いてそれを袖まくりするように引っくり返し、露出した腸に穿たれた無数のくぼみを残らず引っ張り出した形をしている。ここで引っ張り出したくぼみが葉や根に相当している。この葉や根を使って、無機物、水、光、炭酸ガスを外界から採り入れ、それらから栄養を合成し、不要な老廃物を排出するというサイクルを繰り返すことによって植物は生きている。
動物器官を欠き、感覚することも運動することも必要ない植物は、外界との間に何の隔てもない開放系、だから外界―すなわち宇宙―と一体であり、天体運行の法則―宇宙リズム―に共鳴しながら生きている。だから植物は、太陽を心臓とし、天空と大地をめぐる巨大な循環路に組み込まれた毛細管≠ノ譬えられる。植物と自然とは機能的な境界がない。植物は、天然自然というからだの「生物的器官」なのである。このことは天体運行法則のあらわれである、四季の移ろうのに従って春から夏に成長繁茂し、秋から冬にかけて開花結実する一年生草本のくらしぶりをみればすぐにわかる。
植物は、居ながらにして食と性という生物の二大使命を淡々と流れるようなリズムで果たすことができる。したがって、植物においては、〈存在〉することと〈生存〉することが等価なのである。いいかえればそこに〈ある〉こととそこで〈生きている〉ことが同じなのである。〈存在〉することが〈生存〉することであり〈生存〉することが〈存在〉することなのである。
 
動物は存在することが生存することと断絶している
植物は腸管を袖まくりしたかたちをしているのだが、一方動物は、植物を竹筒とすると、それを裏返し―腸管に戻ったことになる―、ついで筋肉・神経で編まれた弾性サポーター≠外側から被せる。これが内臓の筋肉になり内臓管が出来上がる。さらにこの管の外側からより強い筋肉と神経をもった体壁管を被せ、やっと動物の体制が完成する。
植物が外界と連続している開放系であるのに対し、動物は、自分にとっての植物である内臓系を体壁系の中に閉じ込めた閉鎖系である。植物(器官)というミクロコスモスは、動物においては体壁の殻に隔てられている。光合成という自力で生きる術を失った動物は、いきおい体壁系という手足を使って動≠ュことで内臓系を目標まで運ばざるをえない。そうしてはじめて食と性という生本来の使命を果たすことができる。その意味で体壁系は駆動系でもある。
だから動物は、植物同様地球公転のリズムに呼応するが、サケの回游や雁の渡りなどに見られるように、食の場と性の場を交互に往還することによって内臓のもつリズムを表現する。内臓系は、宇宙リズムに呼応して食の相と性の相を往還するのである。これを「内臓波動」という。内臓系はマクロコスモスと共振するミクロコスモスなのである。
動物とは胃袋と生殖器(植物器官)に目と手足(動物器官)がついたものなのである。合成能力を持ち、重力の描く力線に身をまかせ、植≠ったままで生きることができる植物と比べると、捕食をしなければ生きて行けないことこそ動物が背負わされた宿業であった。すなわち、動物においては、〈存在〉することと〈生存〉することに〈距離〉があるのである。この〈距離〉を埋めることをしなければ、動物は飢え、そして死を待つほかない。
だから動物は、みずからを獲物に駆り立てるために衝動あるいは欲求を持ち、これを推進力とし、体壁系という乗り物に乗って食と性≠フために重力に逆らって水中や大地や天空を駆けずり回らねばならない。こうして、〈存在〉と〈生存〉を隔てる〈距離〉の短縮は、動物では、いつでもどこでもたらふく食べるという食の恒常性≠目標に、ヒトでは暮しの恒常性≠目標におこなわれる。もっといえば、〈距離〉を縮める際の究極的理念とは、植物的な生命形態、居ながらにしてすべてが満たされる生のかたち≠ナあることは疑いない。
 
生命形態には生態が組み込まれている
こうして、あらゆる生の流れに共通する生の原型は、食と性の位相交替である。この生のリズムとは、目標も目的もなく終始する♂F宙リズムの束の間きらめく映像のようなものであり、個々の生とは、同じく目標も目的もなく終始する$カのリズムの一瞬きらめく残像のようなものにすぎない。
植物の場合、この原型が、太陽系の描く永遠回帰の周行運動に従って、成長繁茂の食の相と開花結実の性の相を交替させる一年生草本の中に終りなきリズムとなって典型的にあらわれる。動物の場合、サケの母川回帰や鳥の渡りに典型的にみられるように、故郷の性の場と、遠い食の場を、これも天体の運動に対応しつつ往来を繰り返すかたちとなる。
動物は合成能力を欠いているため、植物のように居ながらにして自分を養うことができない。動物とは生きていくために動≠ュことを余儀なくされた生き物なのである。こうして動植物の間で栄養態勢―生き方―に違いが生まれる。植物は天地にからだを伸ばし、自然に溶け込みながら栄養を合成して生きる。動物は刻々と進行する欠乏の声≠ノ促され、日々獲物を捜しまわることに労力を費やしつつ生をつなぐ。
動物と植物の比較からわかるように、生物の形態には、その栄養の取り方、生態、外界との適応の仕方が当然のごとく組み込まれている。動物は環境によって、環境に対してつくられる。二重の土管で図式化された動物の原型が動物の栄養獲得の方法を明白に示していたように、原型あるいはその変容である個々の形態には、類や種に特有な外界との関わり方―生態―がおのずと編み込まれているのである。
動≠ュことによって自己の欠乏を満たすのが動物の原型である。魚が鰓呼吸をしながら水中に棲息したり、鳥が羽をはばたかせながら空を舞ったり、肉食獣が獲物めがけて草原を猛進したりする、個々の動物を見れば運動の形態は多様であることは明瞭なことである。多様ではあるが、動物も植物のように太陽系の運行のリズム―四季―に乗って食と性を営むこと、そして、外界と自己との関わり方に、宗族に固有の形態があらかじめ設定されており、そのプログラムに則った運動を行なうこと、こうした共通性がある。
多くの動物は誰にも教えられなくとも自分がどうしたらこの大自然の中で生き長らえることができるかをあらかじめ知っているようにみえる。たとえば、ファーブルによれば、つちすがりというハチは、獲物であるぞうむしやたまむしを腐らせずに保存するために、腹側にある運動神経節を刺して相手を仮死状態にするという。なぜつちすがりは形も長さも色も異なる種のなかから、ぞうむし属、たまむし属だけを選び出せるのか、なぜ一瞬の一刺しで仮死状態にすることができるのか、この神経中枢のありかをハチは誰に教わったのか。子どもでも踏みつけにできるこの小さな虫に、賢人でも及ばない大きな知恵が隠されている。これをわたしたちは本能と呼んでいる。
 
心とは内臓のはたらきのことである
三木は、アリストテレスと同様、動物と植物とを問わない栄養摂取能力を生物に普遍的な能力と考え、栄養摂取能力を生の主役にすえた。栄養−生殖過程、いいかえれば食と性の位相交替こそあらゆる生物現象の根底を貫く流れである。したがって、天体と交響しながら栄養−生殖過程を営む内臓のはたらきこそ心の本体である。心は植物器官の中枢である心臓に象徴され、感応や共鳴など情念の世界をつくるものである。一方、頭とは動物器官の中枢である大脳のはたらきを指し、判断や行為など思考の世界をつくるものである。
植物は、栄養摂取能力を持ち、栄養−生殖過程を担うのだから、心があるといえるが、感覚も運動も原理的にできないため、大風が吹きつけようと、台風が通り過ぎようと、山火事が迫ろうと、ヒトに切り刻まれようと、痛くも痒くもない。つまり、植物の心は眠っているのである。自ら栄養をつくり出す植物は、ただそこで生き、ただそこで死ぬだけである。動物はどうか。動物は、動物器官という肉体を持つことで感覚−運動を行うようになった。植物ではなかった肉体が目覚めたのである。
動物分化が進むにつれて、肉体すなわち動物性器官が、はらわた≠キなわち植物性器官に介入してくる。五億年にのぼる脊椎動物の分化史は、内臓系の象徴である心臓が、体壁系の象徴である大脳に支配されていくという大きな流れによって方向づけられている。つまり、心臓をはじめとする内臓管の壁に筋肉が張りつき、神経が動物性器官からそこに領域を拡大してくる。このような植物性器官に発達した筋肉や神経を、それぞれ植物性筋肉、植物性神経(自律神経)という。体壁系と内臓系の間は、神経系が開通することで交流しはじめるのである。
一方で、外界で起きたことは感覚器官によって受け止められ、感覚神経によって内臓系へ伝達される。他方で、内臓系で起きたことが神経系によって伝達され肉体(動物性筋肉)を運動させる。感覚器官などの体壁系と内臓系は、どちらかがどちらかの原因になったり結果になったりするのではなく、相互に原因にも結果にもなる相互依存的、いいかえれば双極的な関係をもっている。
たとえば心臓は、驚いて胸がどきどきするときなど、神経を介して外界の変化を感じ取り、心臓の筋肉を運動させ搏動のテンポを変える。血管も同様で、外界の変化は自律神経を通して血管系に影響を与え、足が冷えたりほてったり、顔が赤くなったり青くなったり、気を失ったり、爪でかいたところにみみずばれができたりする。緊張・ショックという外界からの刺激は、消化管の筋肉をゆり動かし、便秘や下痢を生じさせる。もちろん逆もある。心臓や血管や消化管の変調や疾患は、症状として筋肉や感覚に伝達されるからである。
 
ヒトの心は目覚めている
神経系の一部である頭の極端な発達によって、ヒトは内臓のはたらきを心の動きとして感じ取るようになった。ヒトは肥大化した頭によって、微睡む内臓系の声なき声に耳を傾けるようになったのである。動物は肉体が目覚めた植物であり、ヒトは心が目覚めた動物なのである。
たとえば、膀胱に中身が詰まると収縮するが、感覚はこれを不快の心情としてとらえる。逆にこの収縮がとければ、これを快の心情としてとらえる。空腹・酸欠・膀胱や子宮の充満などの内臓系の切迫≠ヘ、神経系によって伝達され漠然とした不快感として表出される。だが漠然と≠ナある。
体壁系と内臓系が神経系によって交流するといっても、「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」の譬えにもあるように、神経というのは本来内臓管の入口と出口で密に分布するもので、両端の間にいったん入ってしまえば中は暗闇につつまれている。だから、内臓系の切迫は、いつも漠然とした無明の心情として、曖昧で靄につつまれた情感としてわたしたちに受け取られる。からだの内部で起っていることは頭によっては、いつも部分的にしか意識することができない。むしろ大部分はいわゆる無意識下に沈んだままである。ニーチェが言うように頭(精神、理性)より身体のほうがより大きい概念なのである。
こうして、内臓系のゆらぎが多様で精妙な筋肉運動で表現されることこそ心の眼目である。このような心の見方がわたしたちに疎遠なものでないことは、日本語には、内臓系―はらわた―のはたらきを心のあらわれとみる表現にことかかないことからわかる。胸が躍る、胸が一杯、胸が騒ぐ、心が暖まる、のどから手がでる、背筋がつめたい、はらわたがにえくりかえる、へそが茶をわかす、腹黒い、腹が立つ、腹を探る、度肝を抜かれる、肝に銘ずる、肝をつぶす、腹蔵がない…。
 
心の目覚めはヒトになって突然やってきたのでない
ところで、動物を比較の規準にしてヒトを論ずる場合、動物がヒトとなって突然∴テ黒につつまれていた心(理性、精神、言語など)に光が射して来たと考えられがちである。たしかにヒトだけが、壊れた本能≠持ち、自我を持ち、文化を持つのであるが、わたしは、ヒトにおける心の目覚めとは、漸進的かつ必然的♂゚程であると考えるべきだと思う。
周知の通り、大脳の巨大化は人類段階で急速に進んだ。しかし、神経系とは、そもそも合成能力の欠如を動≠ュことで補わざるを得なかった動物たちの、感覚−運動過程の要として宿命的に現われた器官であり、この一部が肥大化して脳となったのである。この脳の肥大化も、体壁系から内臓系への神経の侵入も、宗族発生ということを仮定すれば、連続的かつ段階的なものとみなすことができる。
交感神経が血管を支配し、内外の変化が血管運動に翻訳されるようになってきたのも、神経にとりまかれた心臓が外界の変化に応じて拍動のテンポを微妙に変えたりするのも、動物器官へ植物器官の血管が侵入し、植物器官全体が養われるようになってきたのも、このような二つの器官の交流は、ある生物の個体の一生に比較すれば、あるいは種そのものの盛衰に比較しても、悠久ともいえる時間をかけて進んできたのである。
たしかに、頭のはたらき(精神、理性)が、動物とヒトを断絶ともいっていい〈距離〉で分かつのであるが、頭もまた自然(史)の産物であることに思いをめぐらせば、ヒトも原型とその変容という分化の道筋に従うということを看過することはできない。古生代以来の脊椎動物の分化史とは、動物器官による植物器官の介入、支配の歴史なのである。
植物とはむきだしの胃袋と生殖器であり、動物とは胃袋と生殖器に目と手足がついた生き物であり、ヒトとは胃袋と生殖器に目と手足、さらにあたまがくっついた生き物である。ヒトとは、心臓から脳へ≠ニいう、生の中心の移行過程の頂点に位置するのである。
 
欲望は心の目覚めによって生まれた
光合成による独立栄養という栄養方法をとる植物は、〈存在〉と〈生存〉とが連続しており、欠乏という〈距離〉が生ずることはないから〈存在〉から〈生存〉へ向かおうとする衝動や欲求とは無縁である。捕食による従属栄養という栄養方法をとる動物は、〈存在〉と〈生存〉とが不連続であり、刻々と体内からわきあがる欠乏の声が、〈存在〉と〈生存〉との〈距離〉を縮めようとする衝動や欲求となって、個体を目標へと駆り立てる。動物は、否応なく身体の近≠ネる目標に絶えず振り回されて生きていかざるを得ない。身体の近傍で起る出来事、すなわち目先≠フもの、身近≠ネものごとに目と手足(体壁系)を翻弄されるのが動物の生態である。
ヒトは、動物でありながら、発達した頭によって、遠≠ネる宇宙とつながる内臓系の声なき声に耳をそばだてることができる。そこに〈あること〉がそこで〈生きていること〉にならないという矛盾は、欠乏の感情、いいかえれば人間的欲望として頭に浮かび上がる。欠乏とは、内臓が体壁の鞘につつまれ、自然から隔離されてしまったことから生ずる。欠乏あるいは欲求とは内臓系と外界との不均衡であり、〈生存〉と〈存在〉の分離が生んだ〈距離〉である。そして欲望≠ニは頭に浮かび上がった欠乏の感情である。肉体の目覚めが欠乏を生んだように、心の目覚めが欲望を生んだのである。
 
ヒトは植物的直立を手に入れた
ところで、地表に暮らす生物は大きく二つの軸に沿って配分されている。一つは、地表面に垂直に、地球の中心に向かって下ろされた軸―物体の落下軸と同じ―、もう一つは、地表面に水平に、地球の半径の延長線に対して垂直に引かれた軸である。植物は垂直軸に沿って、動物は水平軸に沿って暮らしを営む。そして、植物が垂直軸に沿って天空に幹を伸ばし地下に根を張ることからわかるように、生物の姿勢は、重力の方向に逆らわない直立≠ェすなおで自然な形であるといえる。
植物ははやくも古生代にこの体位を完成させた。海中の藻類が上陸して苔類となり、羊歯類が天地にからだを直立させたのである。動物は中生代・新生代の長すぎる年月を重力に逆らいながら横ばいで過ごしてきたが、ついに第四紀の二〇〇万年のあいだに、つまり人類の出現によって直立姿勢を実現させたのである。四足動物のからだを二重のチューブにたとえれば、一方の端には植物器官の入口である口≠ニ動物器官の入口である頭=\感覚器官が集まっている―があり、他方の端には植物器官の出口である肛門≠ニ動物器官の出口である尻尾=\運動器を代表する―がある。こうして動物の体制は、栄養−生殖を営む口―肛≠ニ、感覚−運動を営む頭―尾≠ノ分極される。
 
「こうした状況のなかで、肉体の内部から発する激しい育成力はどちらか一方の端へ無差別に押しやられ、現実に比較的もろい障壁にぶつかったときそこでぶちまけられる。
「しかし類人猿の大きな図体がもはや枝から枝へとゆれることなく、それ自体完全に真直な、樹木と平行したかたちになり、地面の上に立ったとき、それまで肛門の部分に自由な捌け口を見出していた諸衝動はすべてひとつの新しい抵抗にぶつかった。…こうして眼に見えぬ生命力は突如、顔と頸の部分へ押しやられる恰好になった。つまり人間の声と、次第に繊細化する知的構造のなかにぶちまけられた」
「人間的存在だけが、…動物の平穏な水平性から身をもぎ放すことによって、植物的直立を手に入れ、ある意味で、天空に引き寄せられることに成功したのである。
「しかし球体の表面での息苦しい境界不在に至り着くこの人間解放に、人間の本性が無抵抗に身を委ねたかといえば決してそうではない。なぜなら、…眼球が依然として強いきずなで人間を卑近な事物に縛りつけており、彼の足どりはそこから抜け出せない宿命にあるからである。
動物性を排斥する人間の分裂と脱出の過程においても、人間的構造がどうしてもそこからまぬがれえない視覚の水平軸は、見たところ静穏と混同されるが故に、ますます重荷な悲惨の表象と言えるのである。」(バタイユ「松毬の眼」生田耕作訳)。
 
脊椎動物は無脊椎動物の早熟型である
原初の無脊椎動物は、動物ではあるのだが、動物として過ごすのは幼生の時期だけで、変態してしまうと大地に定着し、そこで獲られる栄養を糧とする植物的生活を営む。たとえば半索動物であるホヤは、幼生の時代はオタマジャクシのようなかたちをしており、海中を游泳することで水平軸≠生きる動物的生活を営む。変態を終え成体になると、植物が垂直軸≠ノ沿って天地に体軸を伸ばすように、天を目指しつつ大地に定着し、植物としての生活をはじめるのである。
脊椎動物とは、ホヤような半索動物の幼生が幼生のまま性成熟し、定着生活の成体にならず動物のすがたのまま一生を終えるようになったいわば早熟型なのである。幼生の動物的生活から変態を経由して成体の植物的生活に還るのが無脊椎動物の本来の姿であるのだが、還り損ねてそのまま幼形進化してしまった結果生まれたのが脊椎動物なのである。ヒトを含む脊椎動物とは、植物のすがたに還り損ねた無脊椎動物であるといえる。
ヒトにおいて無意識に抑圧された願望が意識にのぼる機会を常にうかがっているように、植物としての生活に還り損ねた脊椎動物においても、細胞原形質に刻み込まれた植物時代のおもかげは、ことあるごとに自らを再現しようとするのではないだろうか。
たとえば、円口類のヤツメウナギは、無脊椎動物の幼形進化によって生まれた原初の脊椎動物の末裔である。これもまた、アンモシーテスと呼ばれる幼生時代には、下半身を砂に埋めて、植物的な生を営む。からだの構造そのものは動物のものだが、鰓の運動を除けば体壁系は機能していない。ちょうど、母胎内の胎児の動物器官が機能していないのに似ている。
 
ヒトは水平軸に沿って近≠生きながら、垂直軸に沿って遠≠求める
植物のすがたに還りきれなかった動物は、感覚−運動のために、近なるもの―獲物や目標―に振り回されなくてはならない。ヒトも動物であるから卑近な事物≠ゥら片時も逃れることはできない。しかし、頭の発達は、地べたを這い、卑近なものに縛られる自己を悲惨≠ニ感じさせ、ヒトが地上の重荷を背負わされた存在であることを気づかせた。
脳の巨大化と平行する遠♀マ得能力の発達が、植物段階のおもかげを思い起こさせ、重力からの開放としての直立を促したのである。「観得性能の異常な発達が、この開かれたサバンナの自然に対する視界拡大の強い衝動をよび、この内部の機能が、しだいしだいに人類を直立の姿勢に導いていった」(三木成夫『ヒトのからだ』)。このように、遠=\生命記憶―へのあこがれ、すなわち植物的生へのあこがれ、無重力感覚―万能感覚―へのあこがれは、はらわたの声が頭に共鳴するようになって生じてきた。
ヒトは「植物的直立」を実現したものの、〈生存〉のために視覚の水平軸≠ヘ捨て去るわけにはいかなかった。ヒトは近≠ニ遠≠、水平軸と垂直軸の両方を生きざるをえなくなったのである。バタイユは、ヒトには水平軸に沿って働く通常の眼(視覚器)のほかに、垂直軸の眼があると考え、それを頭蓋の頂にある松毬の眼=i松果体)によって象徴させた。
通常の視覚器が、水平軸に沿って近♀エ覚を受容するとすれば、松毬の眼≠ヘ、垂直軸を志向して、遠なる宇宙を観得する心眼であるといえるだろう。大地と平行な水平軸は、近≠扱う感覚−運動℃イであり、有用性、すなわち〈存在〉→〈生存〉を目指す。重力に沿った垂直軸は、遠≠ニ共振する栄養−生殖℃イであり、生のリズム、すなわち〈存在〉=〈生存〉を目指す。
したがって、水平軸は使用価値(モノの有用性)を象徴し、垂直軸は交換価値(本当の価値)を象徴する。ヒトは近≠生きながら遠≠指向するといえよう。ヒトにおいては、動物的欲求≠フ地平である水平軸から身をもぎ放すことによって、「眼に見えぬ生命力」は、人間的欲望≠ノ変容し消費の象徴≠ナある頭のなかに「ぶちまけられる」ことになる。
 
動物は食の恒常性≠フために栄養をたまり≠ノ溜め込む
動植物の別なく、最も単純な生物であるアメーバの時代から、生物は、外界から採り入れられた栄養を、細胞原形質で加工し、老廃物として排出してきた。この流れが小川のせせらぎ≠フように絶え間なく流れつづけることこそ細胞の生命にとって必須の条件である。細胞が生命を保ちつづけるためには栄養の連続的な供給、いいかえれば食の恒常性≠ェなければならないのである。
植物の栄養方法は、植≠ったままで地水火風(地中の無機物、水、太陽、炭酸ガス)の四大をとりいれ自ら栄養を合成する独立栄養であるから、〈存在〉しているかぎり〈生存〉することは保証されている。一方、動物の栄養方法は、動≠ュことによって他の生き物を手(口)に入れる従属栄養であるから、当然獲物の捕れるときと捕れないときがあり、食生活のなかに偶然性≠ェ入って食の恒常性≠ヘ崩れる。
個々の植物種が個々の運命によって消滅することはあっても、植物全体が消滅するのは、乱暴な言い方であるが、宇宙が消滅するときのみである。というのも、植物は、自分を取り巻く外界―宇宙―と連続している、つまり、宇宙と一心(身)同体である開放系という生のかたちをしているからである。ところが動物は、宇宙とつながる植物を体内に抱え込み、内臓系にしてしまった閉鎖系であるため、自然から隔絶せざるをえない。
植物はいつでも自分で栄養を合成できるので栄養を溜め込む必要はないが、動物は、栄養を外なる自然に頼っており、しかもその自然と〈距離〉があるため、いざというときのために栄養を溜め込む必要が出てきた。こうして、偶然性に支配されることになった栄養の獲得に、食の恒常性をあたえる機序を動物の宗族発生は求めるようになった。この機序は「たまり」(réservoir)と呼ばれる。このたまりの有無こそ動物と植物を分ける根本的な違いである。
 
たまり≠ヘ頭へ向かって分化する
たまりの萌芽はアメーバのような原生動物の食胞に求められるが、後生動物となってできた腸腔が原初のたまりといえる。原腸動物の腸腔は、脊椎動物の肝臓に移行する。無顎類のたまりは肝臓だけであり、魚類・両生類・爬虫類の有顎類では、胃袋のたまりが形成され、さらに哺乳類になると、口腔というたまりが顎の場に形成される。四足動物を横から見た図を考えれば、肝臓(円口類)→肝臓+胃(魚類・両生類・爬虫類)→肝臓+胃+口(哺乳類)とたまりが動物の分化するにしたがってしだいに頭の方へ向かって進んでいることがわかるだろう。これを「たまりの頭進」という。
そこに植わっていれば生活していける植物が飢えの恐怖を知ることはありえないのに対し、頭の分化によって体内の欠乏の声を観得するヒトは、つねに自己の生が偶然性≠ノ支配されていることを感じながら生きなければならない。ここから生と死というヒトを誕生以来悩ませてきた問題が生まれる。巨大化した頭によって、この偶然性は死の恐怖となった。
この契機が、手と頭の特殊な分化と相まって、たまりの頭進の速度を加速させることとなった。いまやたまりは口腔のさらに前方へ、つまり体外へ造られることとなる。捕獲・採集された食物は、手による料理≠ェ分解し、その料理は特別な倉庫に貯蔵≠ウれたり、より高度な加工を施されて、いつでもどこでも食べられる即席保存食料≠ニなったりする。
 
「最後に人類になりますと、大きくなった脳味噌と手を使いましてからだの外でため込むことをやるわけです。農耕・牧畜の始まりですが、これが結局は穀物の貯蔵と食肉の冷蔵保存になる。そしてこれが近代社会になりますともう物ではなく、紙幣で貯め込むようになる。このたまり≠フ最後に行きつくのがいってみれば、あの日本銀行の金庫ということになります。」(三木成夫「上腹部(みぞおち)の構造とその機能について」)
 
食の恒常性を失った動物は、偶然性に縛られた自己の生命を安定したものにするために、口腔までたまりを頭進させた。人類は、発達した頭が生み出す飢餓への恐怖と、同じく発達した手によってこの機序の形成を引き継いだ。口腔までのたまりの頭進は、生物史の上の出来事であるが、手と頭によるたまりの発達は文明史の上の出来事である。ここで生物史と文明史は、食の恒常性を介して連続する自然史となっている。
飢餓への恐怖は「欲しいものを、いつ、どこででも、たら腹、といった欲望」に変容し、この欲望に促された人類は、いつどこででも食べられる加工食品、そしていつ何にでも変えられる日本銀行券≠ノまでいたる色とりどりのたまりをからだの外に形成したのである。人類は、たまりの機能を体外に人工的な手段を用いて再現したのである。
肝臓や胃や口腔というたまりが担ってきた消化・吸収・咀嚼などの機能は、体外へ移される。加工食品とは、捕獲済み・咀嚼済み・分解済み・代謝済み、の食品のことであることがそれを明かしている。「ヒトのからだの表通りに新たに、捕食・消化・吸収を営む、1本の腸管の工場が操業を開始した」(三木成夫「生命の形態学」)。
 
文明史とは自己家畜化≠フ歴史である
人類の文明史とは、食の恒常性を目標とする「生の蓄え」という行為の蓄積である。体内の諸機能を体外で人工的に再現することによる、生の意識的管理の歴史である。人類は、いわば生命活動そのものをからだの外へ移したのである。こうして外界は、再現された「ヒトのからだ」になる。
三木は、このような人類の食の歴史を、家畜にとって飼料を恒常的に与えつづけることが最も大切であることから、「自己家畜化」(self-domestication)と理解している。自分を家畜のように養うこと、いつどんなときでもたらふく食べられるようにすることが、頭のはたらきによって飢餓の恐怖を過剰に補償しようとする人類の目標であるとするのである。そして彼にとって自己家畜化は、生態系のもつ循環の流れを、そして生のリズムを堰止めるものであると映っている。
確かに、人類の生活史は、生態系の流れを阻害し甚大な影響を与え、食と性のリズムを撹乱しているといえる。だが、食の恒常性が完全に実現した状態とは、居ながらにしてすべてがみたされることであるとすれば、自己家畜化とはヒトにとって〈植物的生〉―植物は居ながらにしてすべてを満たす―に回帰するための通り道であることとなる。つまり、自然≠ヨ還ってゆくための不可避な道のりであると考えることはできないだろうか。
クラーゲスは、リズム(自然的無意識的反復)と拍子(人為的意識的反復)とは、双極的なものである、つまりお互いが対等であり一方が他方を高めあうような組合せであるといっている。どちらかが原因でどちらかが結果ということはない。そこで、リズムを自然に、拍子を人為に対応させれば、自然と人為は双極的であるとはいえないだろうか。そもそも人類は自然の一部であったではないか。

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