第三節 ヒトは、外界と自由にかかわる
 
神経系は外界を知らない
感覚−運動過程は、伝達系のはたらきを支柱とする感覚−伝達−運動♂゚程である。支柱の役割を担う中間項である伝達過程は、神経系によって、特にヒトの場合は神経系の一部が肥大化した脳を中心として行なわれる。すなわち、ヒトの頭は、単に神経パルスを伝達するばかりでなく、現実と仮想を、物質と精神を、時空と無を、自然と欲望を媒介する。わたしの〈存在〉を、頭の思念によって、〈生存〉へと架橋するのである。
ここでいう神経系とは、大きく中枢神経と末梢神経に分かれ、中枢神経はさらに脳と脊髄に、末梢神経は体性神経と自律神経に分かれる。そして、脳は大脳・間脳・中脳・小脳・延髄に、体性神経は感覚神経と運動神経に、自律神経は交感神経と副交感神経にそれぞれ分かれる。
ごくおおざっぱ言えば、外界から入力された刺激は、皮膚や目や耳などの受容器によって受け取られ、感覚神経を経て中枢(脊髄と脳)に伝えられる。伝えられた刺激は中枢で処理されて、適切な命令が運動神経を経て筋肉や骨などの効果器に伝えられる。こうして刺激に対する反応が出力される。
外界とかかわるのは表皮に分布する感覚系と、筋肉によって造られている運動系であるから、伝達系は、この過程の要ではあるものの表には出てこない縁の下の力持ちのような役回りであると考えられる。神経系は、一方の先端で原始的な感覚細胞にはじまる感覚器に手を伸ばし、他方の先端で運動を行なう筋肉に手を伸ばす。感覚と運動がこうして手を結ぶ。両者を取り結ぶ伝達系はからだの構造上もともと外界を知らないことがわかる。
感覚神経や運動神経のような末梢と同様、脊髄や脳のような中枢も、神経系である以上、外界の制約を知らない、つまり外界との関わり方を知らないと考えられる。ヒトの大脳などは高度な発達を遂げているが、中枢は基本的には伝令役であることにはかわりなく、あくまで感覚器から入ってきた内外の変化をとりまとめ筋肉に伝え、また筋肉の変化をとりまとめ感覚器に伝えるのが仕事である。
伝達系は直接外界と接することはなく、体内で生じた知覚であろうと体外から生じた知覚であろうと関係なく運動系へ向かってそれらの知覚を伝えるだけであり、また、体内からから生じた筋肉運動であろうと体外から生じた筋肉運動であろうと関係なく感覚系へ向かってそれらの運動を伝えるだけである。
 
神経系は感覚系と運動系を取り結ぶ〈文法〉を持つ
動物たちは、動物器官に駆動されることで食と性を営む。欠乏の声を原動力とする、感覚−運動の全過程は、からだの構造と生態―形態―にしたがって行なわれ、これを逸脱することはない。内臓が体壁の鞘に収まっている形態が脊椎動物の原型であるとすれば、この原型があらゆる動物種にとって外界と関わるときも最も基本的な制約条件となる。原型がメタモルフォーゼすることによって生まれる種に固有の形態が、さらに外界と関わる際の規準として加わるわけである。
それぞれの動物種は、自分たちに固有の規準と欲求にしたがって自己を生産する。別の言い方をすれば、各動物種には、動≠ュための特別なやり方、すなわち感覚−伝達−運動♂゚程の経路に〈文法〉とでも呼ぶべき一定の決まった方法があるということである。神経系が、感覚系と運動系を対応させる種に固有の関数となっている。
原生動物は、一個の細胞がからだであるから、受容器(感覚器官)と効果器(運動器官)が同じであり、したがって神経系をもっていない。ヒドラやイソギンチャクなどになると、皮下に中心を持たない神経網が散らばっている散在神経系を持つようになるが、指揮−命令系統を欠いているため、外界からの刺激に対し全身の筋細胞が、いっせいに同じように反応してしまう。
分化につれ神経細胞は集中化し、その結果すべてが同じ機能を果たす状態を離脱するようになる。つまり、神経節や脳脊髄という中枢とそれらに集中する末梢という役割分担を持つ集中神経系が出現する。集中神経系は、プラナリアなどの扁形動物のように頭に神経節をもつかご状神経系、ミミズ・ゴカイや昆虫、甲殻類などのように体節ごとに神経節をもつはしご状神経系、そして、ホヤ・ナメクジウオなどの原索動物や脊椎動物のように脳と脊髄に分かれた中枢をもつ管状神経系の順に複雑化してゆく。
つまり、動物の神経系の歴史は、散らばってまとまりを持たない神経網が集中化していく歴史である。散在神経系では一個の刺激に対しすべての細胞が同時に反応していたのに対し、集中神経系では、中枢を持ったおかげで、刺激によって生じる興奮の伝達に方向性が生れ、興奮の伝達に回路のような道筋ができるようになった。このようなさまざまな神経系を仲介役として、動物たちは外界と関わり、自己の欲求を現実化するわけである。
 
動物の行動様式は次第に自由度を増してゆく
外界との関わりとは要するに行動のことである。動物は分化の程度の異なるさまざまな神経系を仲介役にして行動する。動物の行動様式は、大きく先天的行動と後天的行動に分けられるだろう。先天的行動のうち、蛾が光に近づいたりサケが川の流れに逆らって泳いだりといった、刺激源―光や水流や重力など―に対して一定の方向に移動する行動を走性という。走性は方向性を持つ先天的行動であり、動物の最も単純で下等な行動様式になっている。
刺激源に対して方向性がない先天的行動としては、反射と本能行動がある。反射とは、刺激に対して大脳を経由せず無意識に一定の反応を示す運動である。本能行動とは、種や個体の維持という目的に叶う、反射が組み合わされて起る遺伝的行動である。
本能行動の特徴は内的条件と外的条件が満たされないと発現しないことである。すなわち、ホルモンや体液などの生理的条件が満たされているという内的条件に、外部環境から信号刺激(リリーサー)が与えられるという外的条件が加わって本能行動は生じる。たとえば、イトヨのオスの攻撃行動は、繁殖期で精巣ホルモンの血中濃度が高いという内的条件に、他のオスの腹にある赤い婚姻色という信号刺激が外的条件になって引き起こされる。
走性や反射は、大脳の未発達な動物にとって主要な行動様式になっていることから分かるように無意識的なものである。一方、大脳が発達すると経験の記憶が可能となって学習行動が生じてくる。後天的に獲得した行動、習得的行動には、慣れ・刷り込み(雛の親認識)・条件反射(パブロフの犬)などの単純なものや、鼠の迷路学習のような試行錯誤、そして洞察・推理を必要とする知能行動がある。
慣れ・条件反射・刷り込み・試行錯誤は、それまでの経験や蓄積された情報から合致するものを単純に選び出す行動であるため、未経験の状況に対応できない。それに対し、知能行動は、推理と洞察に基づいて過去の経験や蓄積された情報を組み合せ、新しい情報を作り出す行動である。だから全く新しい状況にも対応できるのである。
このように動物の分化につれて、あるいは大脳の発達につれて、先天的行動から後天的行動へ、単純な学習行動からより複雑な学習行動へと行動様式は高度化してきたことがわかる。行動様式の高度化によって、意識が行動に介在する余地が大きくなり、適応能力も行動範囲も拡大した。ようするに行動の自由度が拡大していった。
もともと自然の指示のなすがままに行なわれた、感覚−運動過程は、しだいに自由度を増加させ、ヒトにおいて頂点に達した。学習行動はすべて適応しうる環境を広げる効果をもつとすれば、最も大脳が発達しているヒトが最も多様な状況に適応可能であるのは当然であろう。すなわち、全自然とかかわるという人間の行動様式は、動物分化の経路を辿って行き着いた必然的結果である。
 
動物はからだから教わるが、ヒトはからだに教え知らせる
自分が直面している状況に対し正しい行動を取るため、頭という伝達系は自分の置かれた状況を考える*割を担うようになった。反射などの考えるという契機を全く含まない運動と比較すればすぐ理解されることだが、考えている間は、感覚−運動過程は中断される。つまり大脳という伝達系の発達は、感覚系と運動系の連関を分離するわけである。
大脳の思考とは、感覚系と運動系の間に頭が割って入って待った≠かけることである。頭のはたらきは、知覚による受容と運動組織による実施を分離し、その間にズレや延期を生み出す。ちょうどお金が売りと買いを分離し、その間にズレや延期―好不況、インフレ、過剰生産など―を生み出すのに似ている。感覚系と運動系との間に〈距離〉が生まれるのである。
大脳の発達に、「植物的直立」によって手が自由になったことが加わって、ヒトの行動は、飛躍的に自由で意識的で普遍的なものになった。このため、ヒトにあっては、他の動物と比較にならないほど習得的行動の分量が肥大化してしまった。ヒトに至って、感覚系と運動系の間を隔てる〈距離〉が極大化されたのである。
この〈距離〉が学習によって獲得した行動によって埋められる以上、ヒトとは生得的に行動する能力が極小化された生き物であるといえる。つまり、ヒトとは、行動の方法、感覚系と運動系の〈距離〉を埋める方法があらかじめ決定されていない存在なのである。神経系のはたらき方は生後学習・習得されなくてはならない。感覚系に入力される諸要素と運動系から出力される諸要素とを対応させる関数が未決定な状態で生を受ける存在なのである。
したがって、習得的行動に最大限に依存しているヒトにおいては、感覚−運動を連絡する、頭のはたらき(理性・精神)の〈文法〉は、生後の学習の状態によりあらゆるパターンをとりうる。個人の性格や思考法の違いや民族や文化による精神的習性の違いを考えればすぐに理解されることである。だから、感覚−運動過程の道筋は、下等な動物では走性や本能行動という形で先天的に決定されているが、この道筋を規定する〈文法〉をつくりあげることは、ヒトが生活してゆくための不可欠の条件である。
動物はからだから教わるが、ヒトはからだに教え知らせる。そして、からだに自然とかかわるための〈文法〉を教え知らせることは、外界との関わりを統制する頭のはたらき(理性、精神)の〈文法〉を造り上げることを意味している。ヒトの生活史とは、個体発生的な意味でも宗族発生的な意味でも、頭のはたらきの形成と変容の歴史といいかえてもよいほどである。


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