おかねのかたち
 
逢沢堅
 
 
第一章 世界はリズムのシンフォニーを奏でる
 
第一節 世界はリズムでできている
個人は社会とともに生きる
ある程度の長さを生きてきた人なら、また自分で自分を養うことを知っている人ならなお、自分の生活状態と家計に調子の良し悪しがあることを知っているはずである。生活手段ということにそれほど自覚的でない人でも、今年の春はいつもの春よりなんとなく寒々しいといった感覚印象で自分の生活状態が心に反映しているにちがいない。
個人の人生は、自分の力が及ぶ領域だけでできているわけでなく、それを超えた領域、自己の手の及ばない領域によってでもできている。むしろ後者のほうがより広大であるといえるかもしれない。だから、たとえ人を利用しようとか害をなそうとか全く思いもよらず、ただ真面目に、清く正しく美しく生きてきた人でも思わぬ不運が襲い掛かることはある。自己の努力ではどうすることもできない全体領域には一個の人間をただの砂粒のようにする力がある。
多くの人々は、自分が自分の子どもに彼らが満足するだけの玩具を与えることができないことや、自分の妻に新しい洋服を買って挙げられないことや、他の恋人のように豪華なデートでもてなすことができないことを、自分の甲斐性の欠如に求めるだろう。こうした自己限定のやり方、自分に対する態度は、普通の人々が長い年月をかけてつくりあげてきた偉大な知恵であるといえる。
同じ状況を個人の観点からでなく、社会という観点から、つまり社会を社会として見る観点からとらえればおのずから違ったことになってくる。生活状態の良し悪しということを、社会全体の文脈におきなおせば、経済活動には好況と不況があるといういいかたになる。好況のときは、個人消費は増え、したがって企業収益が増え、したがって個人所得が増え、したがってさらに個人消費は増える。不況のときは、個人消費が減り、したがって企業収益は減り、したがって個人所得は減り、したがって個人消費はさらに減る。
好況と不況のような経済状態の上昇と下降を景気(business conditions)と呼ぶ。そして景気は、水面の波紋のような、あるいは寄せては返す波のように山と谷の繰り返す曲線を描く。これを景気循環(business cycles)という。
この観点からすれば、ある人が生活状態に関して辛酸を舐めているのは、自己の自己に対する働きかけの不十分さが原因でなく、個々人をその部分としている社会なるものの体調不良に求められる。社会は個人より大きいのは明らかであり、個人はその手のひらから出ることはできない。だから自分の不遇は自分の力が及ばないこの社会のせいだということがこの見方によって可能になる。
ただ、個人が社会という荒波に翻弄される一個の飛沫に過ぎないというこの考えは、あらゆる個人に、自己を見つめ直し、叱咤したり鼓舞したりすることを忘れさせる。成果や功績は、本当はたまたま景気が良いために過ぎないからかもしれないのにもかかわらず、すべて自分のおかげであるが、自分の失敗の責任はすべて社会の不景気のせいであるという説明≠ノ根拠を与えてしまう。
景気が良いときには、投資の天才や経営の神様や打出の小槌のような利殖術が雨後の筍のように繁茂する。逆に景気が悪くなると、まるですべての責任は彼らにあるかのように、昨日まで天才だった人々が普通人に戻るどころか無能や悪人の呼ばわりされ、憎悪と侮蔑、場合によっては刑罰の対象になりさえする。こうしたことによって、経験を活かすという道は阻まれ、さらに社会状態は悪化し、結局社会とは自分たち自身のことなのだということをも人々は忘れてしまう。
 
ジェボンズは太陽活動周期によって景気変動を説明した
ともかく、経済活動は景気の良い時期と悪い時期を交互に繰り返す循環のリズムを持っていることは経験的にも疑うことはできないだろう。景気循環に関する理論は、景気循環論と言われ、一つの分野をなし、さまざまな理論が展開されている。その多くは普通経済変数といわれる、国民所得や投資、消費、政府支出、場合によって在庫量などの関係を定式化し、その方程式を解くことでこれら諸変数が時間系列に沿ってどのように変化するかを考察する。方程式体系に組み込まれるのは基本的にはいわゆる経済変数であり、これらは内生変数といわれ、それ以外の経済外%I要因は外生変数とみなされる。
ところで、ジェヴォンズといえば、メンガー、ワルラスとともに限界効用理論を確立した功績によって経済学説史上最もよく知られた人物の一人である。それはこの理論の出現が限界革命≠ニ呼ばれていることからすぐに知られる。この経済学説史上の革命家、ジェヴォンズの功績のうち、小耳に挟んだことはあるが挟んだきりで内容に立ち入って知っているとはいえない一つの理論がある。
太陽黒点説とよばれるこの説において、気象学者でもあったジェボンズは、商業恐慌の原因を太陽黒点の変化に求めたのである。太陽活動は約11年周期で増減する太陽黒点数とともに変動する周期をもつ(シュワーベ・サイクルと呼ばれる)。彼は、この太陽活動の周期的振幅が気象に影響し、それが農作物の生育に影響し、穀物価格を上下させ、それが工業部門などに波及し次第に増幅して経済全体に波及する。その結果、約11年周期で商業恐慌が起ると考えたのである。太陽活動の周期性が、農作物の収穫量の増減を通じて経済活動の状態に周期性を生み出すと考えたのである。
確かに、太陽活動が人間活動に影響を与えるということ自体はまちがいない。極端な例でいえば、異常気象が自然災害を引き起こし、多くの人々を不幸に陥れ、経済的な被害をも負わせるケースがあげられる。ただその影響の程度が活動領域によって異なるということだろう。ジェヴォンズの言うように植物の生育は大きく影響を受けそうであるが、工場で車を作る場合、ましてオフィスビルの中で事務作業をするという場合には影響はほとんどないように感じられる。
一般に人間の経済活動は、意欲や欲望に基づく活動、つまり、意志に基づいて行なう活動の最たるものである。この意志的な活動が、人間の意志とは全く関係がない―太陽が人間の要求に合わせて明るくなったりはしない―太陽活動によって一方的に影響を受けると考えること自体人間のプライド傷つけるように思われる。
また、上に述べたように、農林水産業の第一次産業より製造業・建設業などの第二次産業の影響はより少ないし、第二次産業より商業・運輸通信・金融・サービスなどの第三次産業になるともっと影響は少なくなるように思われる。つまり、産業が高度になるにつれて天然自然からの距離が拡大し、距離が拡大するにつれその影響は逆相関して減少してゆくように思われるのである。
しかし、巨視的な観点から見れば、そもそも地球がなかった宇宙から地球が生まれ、生命がいなかった地球から生命が生まれ、人間がいなかった生物界から人類が生まれたというごく単純な事実がすぐに思い当たる。今のような自然の威力を無視できる生活を営むようになったのは、生物史から見て決して長いとはいえないし、数千年の文明史上からみてもここ数十年しかないのであるからつい昨日のことといってもよいほどである。それまではやはり、ある程度の自然の影響下で、自然のリズムを生活のサイクルに組み込みながら生活してきたのである。
たいへん古い例を持ち出すが、一六九二年に出版された西鶴の『世間胸算用』では、大晦日に借金取りから何とかして逃げ延びようとする庶民の悲喜こもごもな姿が活写されている。この時代、日常の売買は掛売り掛買いの掛け商いであった。つまり商品先渡しの後払いである。この掛買いで生じた借金は年に何度かやってくる節季に勘定する。
節季とは、季節の終り、季節の境目という意味である。当時は、元旦・上巳・端午・盆・重陽を五度の祝儀≠ニ呼び、これら祝儀の前日が五節季=Aすなわち年に五度の支払期日であった。この節季ごとに勘定を済ますわけである。
つまり、二九日半周期で新月と満月を繰り返す月の満ち欠けによって生じる季節にあわせて勘定期が年に何度かやってくるのである。このうち元旦の前日である一二月晦日は大節季≠ニも称され、一年の総収支決算の日であった。この大晦日に借金取りと庶民との間に相譲らぬ攻防戦が繰り広げられるわけである。西鶴はこの攻防とそこに巻き起こるドラマを俯瞰する視線で巧妙に描いている。
一八七八年の『ネイチャー』誌に発表された「商業恐慌と太陽黒点」においてジェボンズはこういっている。
 
「太陽が沈むことの決してない、そしてまた、その商業が、太陽に恵まれた南の地方のありとあらゆる港と入江に及んでいる帝国であるならば、エネルギーの源泉に注視し続けていくことを、賢くも怠ってはならないのである。まさしく、『この偉大なる世界の眼にして魂である』太陽から、われわれは、自分たちの強さと弱さ、成功と失敗、商業熱に浮かれての絶頂感、そして商業の崩壊に際しての失意と没落を引き出しているのである。」(W.S.ジェボンズ「商業恐慌と太陽黒点」田中幸夫訳)
 
自然はリズムに満ちている
何も近世に遡らなくても、私たちのからだは自然が創りあげたものであることは誰もが知っている。つまり人間の本質は存在をふくまないのである。もっともこれは人間に限ったことではなくあらゆる生物に共通の公理である。この自然の公理がリズムという概念であらわされると考えてみる。たとえば、ほとんどの人は朝起床し、夜眠るという日リズムに従い、夏は薄着をし、冬は厚着をするという季節変動に従い、生活をしているにちがいない。最も本質的に見た場合、人間は自然の周期性に支配されていると仮定するのはそれほど無謀なことではないだろう。たしかに、身の回りを見回してみると、季節変動に限らず自然の中に反復するリズムが満ちていることはすぐにわかる。多少くどいかもしれないが、いくつかのケースに分けて、例をあげてみよう。
まず、ヒトの個体に関する周期性をあげると、心臓の搏動、呼吸の波、睡眠の九〇分周期、睡眠と覚醒の二五℃條ヤ周期の波、女性の月の周期、二三日・二八%・三三日の周期をもつバイオリズム、好調と不調の波、つむじ、縮れ毛、長く伸ばした爪、内臓管の捻れ、大動脈壁の螺旋模様、横紋筋繊維に渦巻きながら降りてくる無髄神経線維、DNAの二重螺旋、腸管の蠕動、胃袋・膀胱・子宮など内臓の波、血管の律動、平滑筋の収縮、神経細胞の集団がもつ脳波、個々の神経細胞がもつ細胞波などがある。
ヒトの生活に関りのあるものをあげると、昼と夜の波、朔望月の波、二四.八時間の周期をもつ潮の干満の波、四季の波、地震波、水波、光波、電波、音波、景気の波、初七日、二〇年周期をもつ伊勢神宮の式年遷宮など―大学の授業の九〇分周期はどうか―がある。まだある。ある新生児の出生後一一日目から一八二日目までの睡眠・覚醒・哺乳の時間をグラフ化したところ、睡眠リズムが二五時間周期からしだいに二四時間周期に落ち着くが、その前半には螺旋模様が現われた。これはSpiral Milky Wayと呼ばれている。
人間以外の生物にもさまざまなリズムが散見される。まず動物の例をあげよう。よく知られたクマの冬眠、毛流、巻貝の殻、象やマンモスの牙、牛やヒツジの角、動物の延髄がもつ一六秒・二五秒のリズム、七日周期の年輪構造を刻むウサギの歯。山猫とウサギの捕獲量は一〇年周期で増減するという。ゴキブリは、夕方六時に起き出し、夜中の一二時まで活動する。実験室のムツゴロウは、実験室にいるのにもかかわらず、故郷有明海の夜間満潮時にもっとも活動的である。イソギンチャクも、海から隔たった実験室にいながら潮の干満のリズムにしたがう。東京湾のゴカイは、ある季節の満月のある時刻にいっせいに海上に浮かび生殖をおこなう。
植物の場合はどうだろうか。三三年から六六年の開花周期をもつ竹は、ジャワからジャマイカに移植されても、母国ジャワの竹と同じ年に開花する。春情・夏草・秋の花・雪割草・月経・月見草・向日葵・朝顔・昼顔・夕顔など、これらの古くからある言葉は、季節の推移と生物が共鳴しあっていることに先人が気づいていたことを示している。そのほかアサガオの蔓、杉の古木の樹肌に刻まれた溝、螺旋状に茎をめぐるヤマユリの葉、集散花序のうちのかたつむり花序、シダ植物の若い芽の先端など。種の興亡の波というのもあるだろう。
このように、あらゆる生命現象はリズムを持つ。すなわち、ある周期性を持つ反復運動を行なったり、らせんのような周期性を持つ形態をかたちづくったりする。生命体は、自然のリズム、特に地球が自転しつつ太陽を公転することによって、また、月が地球のまわりを公転することによって生ずるリズムに呼応しているようにみえる。
生命に限らず、宇宙をも含むいわゆる天然自然にも時間的・空間的な周期性が見られる。火口から噴出すマグマの渦巻、南北で逆になる台風の目、地殻変動の波、氷河期の波、ジェット・ストリーム、濁流、太陽黒点の波、土星のリング、素粒子のスピン、星雲や銀河の巨大渦巻―これが最も巨大な周期性ではないか―など。
自然が生み出したあらゆる出来事はリズムを持っている。自然とは繰り返される反復運動の渦中にいるのである。自然とはリズムそのものである。自然には極大のレベルから極小のレベルまで、至るところ多様な周期と形態を持ったリズムに満ちている。
こうして世界において、自然において、もっと大胆な言い方をすれば、宇宙において、多様なリズムがあるいは調和しあるいは矛盾やずれを示しながら互いに響きあう様子は、あたかもリズムのシンフォニーのようである。リズムだけのシンフォニーというのは変なので、ポリフォニーを文字って、これを―冴えない言い方だが―〈ポリリズム〉と呼ぶことにすれば、自然や宇宙は〈ポリリズム〉として存在しているという言い方ができる。
 
 
第二節 クラーゲスはリズムをどう考えたか
精神は世界に拍子を刻む
このようにリズムが多種多様なものを包み込んでいる。悪く言えば曖昧模糊としているということである。この多義的であいまいなリズムという言葉に一定の輪郭を与えたのはクラーゲスであった。
いまリズムを周期的変化であるとする。音楽に耳を傾けると確かにリズムを持った音の流れが耳に入ってくる。わたしがリズムを感じ取るとき、音の物質的側面である空気の振動を聞いているのではない。リズムを感じることは、流れつづける音に、あるうねりを伴った変化≠直観することである。リズムとは、物質のような客観的$「界に属するものではなく、たえず変化しつつある現象≠ナある。ゆく川の流れ≠フように、たえず変化し、二度と同じものが現われない、見えや印象や知覚の世界に属する。
そして、現象としてのリズムが直観されるためには、互いに相並ぶ感覚像の系列が互いに類似性≠保ちつつしかも変化≠オていなければならない。アカペラの曲にリズムを直観するとき、今耳に入った音と次の瞬間の音は似ているはずである。そうでなくては聞く者は一つの音さえ聞き取ることができないだろう。しかもこれら二つの音要素は、微妙に変化しているはずである。そうでなくては放送終了後のテレビから流れる単調な音のようにしか聞こえないだろう。
ところで、周期的変化には、リズムとは区別されるべきもう一つの形態があるという。それは「拍子」(Takt)と呼ばれる。本来、単一音の系列であるはずの、時計の秒針の音がチクタクチクタク=\強弱強弱あるいは弱強弱強―と聞こえるのは、時計がそういう音を鳴らしているからでなく、聞く側の人間が勝手にそのように聞いているからである。つまり、人間は時計の音をチクタク≠ニいう塊に分節して聞いている。しかも誰かにそのように時計の音を聞くように教えられたのでなく、受動的あるいは無意識的にそうしているのである。
精神は、切れ目のない現象の流れを分割し分節することによって「境界設定」(Grenzensetzung)を行い、現象をつかみとる。この分節のはたらきによって生れるのが拍子である。つまり、拍子とは、精神のはたらきによって生まれるものであり、振子やピストンやメトロノームなどのような、規則的かつ機械的な周期的変化のことである。
 
拍子とは同一者の反復であり、リズムとは類似者の更新である
穏やかな水面に小石を投げ込むと、小石の落下点を中心にして同心円状の波紋が広がってゆく。この水波に木片を置くと、木片が上下に揺れるのが分かる。注意深く観察すると、この上下のリズムが、拍子と似て非なるものであることが分かるだろう。時計のチクタクは、前のチクタクと今のチクタクとを比べても全く同一≠ナある。しかも前のチクタクと今のチクタクとの間隔≠熨Sく同一である。水波もまた、波の山と波の谷の繰り返しである。だが、前の山と今の山は類似≠オているが同一ではないし、両者の間隔もまた同一ではない間≠ノなっている。
景気の波―山と谷―は、いつも過ぎ去ってしまってからしか知ることができない。景気が上昇過程にあるとき、わたしたちはこの好況がまだ続くと信じている。それが景気の頂上―山―であったことを知るのは、収入が減り、倒産が増え、ローンが重荷に思えてきたときである。
つまり拍子とは全く同じ単位の繰り返しであるから、切れ目がはっきり存在しているが、水波のようなリズムには切れ目がないのである。連続していて持続的なものであるため、見ている瞬間には切れ目は分からない。あたかも無限に続くかのように見える。上昇が下降に転じ、下降が上昇に転じてはじめて切れ目を理解するのである。だからリズムにとっての特徴とは、持続的=\連続的―であるということと、山と谷のような相互に反対方向を向いている分節£P位を持つことである。
時計と水波の比較から、拍子とは、「同一者」(das Gleiche)の「反復」(Wiederholung)であり、リズムとは、「類似者」(das Ähnliche)の「更新」(Erneuerung)であるといえる。水波において、今の山は過ぎ去った山の類似者である。類似者とは似ているだけで同一のものではないわけだから、今の山は過ぎ去った山が改められて現われたものと考えることができる。だから「更新」なのである。
 
生命は体験し、精神は経験する
ところで、初心者のピアノ演奏は、メトロノームの動きに完全に一致しているから、正確であり拍子がある。しかし喜びも感動もやってこない。リズムがないからである。拍子がリズムを押しつぶしてしまっているのである。優れた演奏家は、必ずしもメトロノームに従わないが、拍子に勝るリズムの豊富さがあるため、聴衆はリズムに乗り=A喜びと感動に我を忘れる≠セろう。
クラーゲスにとってリズムとは体験≠キるものであった。ここで体験とは、我を忘れた¥態で起こるものであり、つまり無意識的過程を意味している。一方経験≠ニは、目覚めている状態で生じる意識的過程である。だから覚醒状態にあるとき、いいかえれば精神≠はたらかせているとき、わたしたちは経験している。睡眠状態にあるとき、経験は途絶えてしまうが、体験はそのまま続いてゆく。
すると、無意識的過程としての体験は覚醒していると否とにかかわらず持続しているのだから、体験とは生きていること≠ニ同義であることになる。体験は、生きているもの≠キなわち生命体に共通の過程である。だから、意識の有無は問題にならず、最も原初的な生命体である単細胞生物でさえ体験しているということができる。生命体はつねにリズムを体験している。あるいはリズムを生きているといってもよい。ただ単細胞生物は体験するだけであるが、人間は自分の細胞の体験を具体的に知ることはないとしても、漠然とした感情≠ニして意識にのぼせることができる。
同一者の反復である拍子とは経験するものであり、精神がはたらく覚醒状態に関る。類似者の更新であるリズムとは体験するものであり、生命が活動する睡眠状態に関る。すると逆に、拍子の経験―精神のはたらき―は意識を目覚めさせ、覚醒状態を保つのに対し、リズムの体験―生命現象―は意識を弛緩させ、睡眠状態をもたらすといえるだろう。
 
「海辺の日没とか、恋人の姿とか、ベートーベンの交響曲とか、とくに自分の心を襲い、捉え、感動させた例を各自選んでみるがよい。そうすれば、われわれの心を襲い、捉え、感動させる度合が強ければ強いほど、日没や恋人や交響曲のイメージはいっそう心に充満し、そのイメージはわれわれの思考や意志の対象になりにくくなる、とわれわれが主張するとき、諸君はそれに賛成してくれるだろう。生命の担い手が体験内容のなかに「現われ」(aufgegangen)、完全にそのなかに「沈潜し」(vertieft)、完全にそれに「没頭し」(versunken)、そして生命の波が引いたあとではじめて、「ふたたび我に帰った」(wieder zu sich gekommen)と、こういう言葉でわれわれが判断したとするならば、その言葉はほかのなにものをも意味しない。」(クラーゲス『リズムの本質』杉浦実訳)
 
拍子はリズムを生み出したり強めたりする
規則的な拍子は人を覚醒させ、リズム体験は人を夢見心地にさせる。すると、意識と無意識が対立するように、拍子とリズムは対立関係にあることになる。対立関係とは、初心者のピアノ演奏から分かるように、リズムが精神作用の生み出す拍子に支配されると、それによってリズムは生命力を減衰させてしまうということである。この音楽は聴衆との境界を取り除くことはできず、彼らの心を引き込み、捉えることは難しくなる。彼らは我を忘れるどころか、ますます意識を鮮明にするかもしれない。だが果たしてリズムと拍子との関係は、そのような単純なものなのであろうか。
さて、水波からわかるように、リズムは、流動性を持ったなめらかで持続的な過程でありしかも山と谷の分節を持つものである。壁は持続的であるが分節がないのでリズムを持っていない。時計の音は、チクタクという分節を持っているが、はっきりした切れ目がありなめらかな持続性がないので拍子しか持っていない。
電車に揺られているとき、しばしば心がほぐれてうとうとしてしまうことがある。機械的な拍子音を聞いているのにもかかわらずである。クラーゲスによれば、この場合、それがなければただ持続しているだけである運ばれることの体験≠、電車の拍子が周期的に変化するリズムに変えているのである。ガタンゴトンという音と振動によってわたしたちは自分が今まさに運ばれているということを感じとることができる。運ばれるという直接体験が持っているリズムは車輪の拍子を通して感じられるのである。
赤ん坊の揺りかごを揺らすときに、一方の側から他方の側へ移行する転向点で一瞬止め、そのことによって切れ目をつけ拍子を強調したら赤ん坊はゆっくり寝てなどいられないだろう。揺りかごで重要なのはあたかも終りなく続いているかのような揺れている≠ニいう流動状態を作り出すことであり、そのための手段として互いに反対方向へ向かう分節をもった周期的変化が必要なのである。このように、なめらかに流動する持続運動は、拍子が導入されることによって周期的に変化するリズムに変貌することがある。
また、拍子にはリズムを強めるはたらきもある。「詩作することは鎖につながれたまま踊ることである」とニーチェが言うように、韻律という鎖があるからこそ詩は言葉が持っているリズムを強調し、引き出すことができる。それと比べれば、韻律を持たない不規則な散文が詩と同等のリズムの豊富さを表現することは非常に難しい。散文が豊富なリズムを表現することは不可能ではない。だがそのためには過剰なほど豊富なリズムを持たなければならないだろう。換言すれば、ほどほどのリズムでも、それに対抗する拍子を導入することでリズムが強められることがあるのである。
 
生命は精神を含み、リズムは拍子を含む
一方の端に純粋な拍子を、他方の端に純粋なリズムを置くとする。拍子は同一者の反復であり、リズムは類似者の更新である。そして、本源的な精神行為である境界設定は世界現象を分割する。この境界設定による分割のことを、直線に切れ目を入れることであるとするなら、純粋な拍子とは、極限まで分割されて点のようにバラバラにされたもはや直線とはいえない点列化した直線の状態を指すだろう。また純粋なリズムとは、全く境界づけされないのっぺりした状態である。この全く分節されていない直線上にわれわれが生活しているとするなら、地球が実は猛スピードで公転や自転をしていることに気がつかないように、直線がリズムを持っていることにわたしたちは気づかないだろう。
直線に切れ目を入れることで生れる、楽譜の小節のような、直線上≠フ分節を拍子とするなら、リズムとは直線に対し垂直≠ノ現われる、上昇と下降の波のような振幅である。だから上下に振幅するリズムと対立する方向へ作用する精神の境界づけによって、卻って上下のリズムは対照され、はっきり直観しうる場合があるのである。
拍子がなければリズムはわたしたちの前から姿を隠してしまうかもしれない。だが、拍子を強調して粉々に切断してしまっても同様に消え失せてしまうのである。だから境界づけが有効でありうるのは次の条件を満たすときである。一つは、切れ目による分節が、完全に同一でなく、互いにズレがある類似者であり、繰り返しの周期もまた同一ではなく、相互に差異を持つ類似した周期であること、もう一つは、同一直線がその持続性(連続性)を保ち、上下に振幅する分節を持っていることである。
湿地に暮らしているときには数センチした根を伸ばさない植物も、砂漠という逆境に置かれるとそれが抵抗になって数メートルもの根を張り巡らして水分を求める。逆に、重力という生命体にとって最も基本的な制約条件が存在しない宇宙空間に、ほんの短期間滞在しただけでも宇宙飛行士たちの筋肉は大幅に衰退してしまう。拍子とリズムの関係もこれらと同様である。つまり、拍子によってリズムが際立つのは、拍子とリズムが対立している、言い換えれば、拍子がリズムの抵抗になっているからである。そして、拍子がリズムの抵抗になっているのは、拍子が属している精神が、リズムが属している生命の抵抗になっているからである。精神は「生命への敵対者」だといえる。
このように考えると、完全な規則的機械的反復でない限り、時計の音のような拍子にもリズムが隠れていることがわかる。時計のチクタク/チクタク/……≠ェ、直線方向に分節された拍子であるとすると、一個のチクタクの持つ強弱あるいは弱強≠フ抑揚音は上下方向に振幅するリズムであるといえるだろう。
そしてこの背後には、精神をはたらかせ、境界づけしている間であっても、同時に人間は生命体でありつづけ生命活動を止めることはない、というごく単純な事実が控えている。生命は精神を含むのである。そして、リズムは生命現象であり、拍子は「人間のなすはたらき」である。だから、リズムは拍子がなくとも存在しうるが、拍子はリズムがなくては存在しえない。生命とリズムは、精神と拍子の必要条件になっている
 
拍子と精神は融合しうる
世界(あるいは宇宙)を、現象しようとする何ものかの現象、いいかえれば表出≠ニみなせば、リズム現象は生命の表出、拍子は精神の表出と呼ぶことができる。現象としての世界は、現われては消え、やってきては通り過ぎ、上昇しては下降し、膨張しては収縮し、たえず変化し逃げ惑うため、一体どうしたらこの世界現象というものに手を触れることができるのか途方にくれるほどである。世界現象には、揺れる水面に拡がる波紋のように脈動するリズムがあり、対極化した二極が、交替して明滅したり、対照されて配置されたりしている。
からだというわたしたちから隠された世界も、生命体である以上、ノイズと見まがうような極小から極大に至る多様なリズムを飽くことなく表出している。ヒト以外の生命体はこのリズムと同調し、あるいは共振することで自分自身を表出する。一方、威張って言うわけではないが他の種類の生命体と異なり、人間だけが精神を持つ。上で見たように、この精神は世界現象に拍子を刻むことによって、ある場合にはリズムを弱め、ある場合にはリズムを高める作用をする。ここに拍子によってリズムを感じ取る可能性、リズムと拍子が融合する可能性が生まれる。
混沌しているかに見える自然という現象世界は、もともとかたちをもっているのであり、それは時間という枠組に従って往来するリズムになって現われる。クラーゲスにとって精神機能とは境界を設定することであり、その分節のはたらきを足がかりにして人間は多様な感覚対象を統合することができる。他の生命体はリズムを体験するだけである、あるいはリズムを持つだけである。一方、人間だけが単にリズムをもち、体験するだけでなく、精神のはたらきかけによってリズムを経験に変換することができる。リズムという生命の価値を直観することができる。拍子は精神と生命の「結合点」なのである。
 
かたちは空間的リズムである
聴覚対象に代表させてリズムを考えると、うっかりリズムは時間的現象であると見なしてしまいがちである。だが、リズムを考察する際に決して見落とすべきでないのは、リズムとは時間性とともに空間性も持っていることである。そもそもリズムという言葉は、形あるいは形式を意味していたとされる、古代ギリシア語のリュトモス(rhythmos)に由来することから分かるように、リズムという言葉はかたち≠ニいう意味を含んでいる。
音楽のリズムを聞いているとき、人は単に時間的変化を体験しているばかりではない。音楽に限らずあらゆる音にはその音源があるからである。その音はどこか≠ゥら発生しているわけであるから、聴覚対象にも空間性があることは疑い得ない。また、舞踊の存在は、リズムを体験するということが単に聴覚をはたらかすことを意味するのみでなく、リズムに乗る≠アとであり、したがって必然的に空間を舞台とするからだの周期的動きを伴うことであることをはっきり示している。
A地点からB地点まで線路が通っている」あるいは「蔓が壁に絡みついている」などというとき、通る∞絡みつく≠ニいう動きを表す動詞によって空間的事実が表現されている。優れた写真を見るとき、観光写真のようなぎこちなく固まった静止画とはことなり、今にでも動き出しそうなダイナミズムがそこにあるのは、現象の時間性が空間像である写真に積分されているからである。
わたしたちが持つ共感覚は、「時間的前後関係」(das zeitliche Nacheinander)を「空間的前後関係」(das räumliche Hintereinander)と感じさせたり、逆に空間的前後関係を時間的前後関係と感じさせたりする。曲がりくねった模様≠ェ、人間の創作物であるにもかかわらず、単に空間的リズムに限らず時間的リズムを感じさせるのはこのためであり、また、波の運動が波線≠ノ置き換えられるのもこのためである。空間的表現とは、空間的前後関係に置き換えられた運動の表現なのである。
要するに、世界現象というのは、時間と空間という二つの形式に従って現われるということである。聴覚対象というのは時間形式に引き寄せられて現われた空間的対象であるといえるし、また、視覚対象というのは空間形式に引き寄せられて現われた時間的対象であるといえるだろう。どんなリズムにも、時間性と空間性はあり、ただそれぞれの分量や程度の違いによって違った印象や感覚が生じるのである。
クラーゲスは空間的リズムの例として、自然や生命体のシンメトリーをあげている。ただ彼のいうシンメトリーとは、直線軸で折るとピッタリ重なる線対称の図形ではない。これでは同一物の「重複」(Verdoppelung)になってしまう。シンメトリーをなす二つが互いに類似していさえいればよいのである。そして、線対称と同様に、その二つが接続していなければならない。人や動物のからだを正中線で左右に分けた場合、左右の両半分は全く同一であるわけではない。また、木の葉を中央軸で分けた左右の部分も重複はしない。類似した両半分の接続によって生れるシンメトリーは、同一物の機械的な反復でないかぎりで、それを受け取る人々に純粋なリズムを生み出すのである。
こうして生物のからだには、かたちという空間的リズムが刻まれる。一定のかたちを持つからだが自己を維持することによって、つまり、生活することによって、先に見たように、さまざまな種類の時間的リズムが波状に刻まれる。このように、生命の持つリズムには時間的なものだけでなく、空間的なものも存在するのである。
さらに付け加えれば、リズムに時間性と空間性があるように、かたちにも空間性と時間性があるのではないだろうか。海岸線の形や木の樹形やシダ類の葉形などの身近にありふれている自然の形は、通常の数学的曲線と異なり、どんなに拡大しても直線に近似できない、微分不可能な形である。すなわち、マンデルブロが見出したように、どんなに分解してもその断片が全体の縮小像になっている自己相似図形、すなわちフラクタルになっている。自然なフラクタルな自己相似形の繰り返しでできている。
フラクタルは空間的あるいは幾何的な形に関してばかりでなく、時間的な変化の持つ特質に対しても妥当するとマンデルブロは考えた。一八八〇年から一九五八年までの七九年間に及ぶ綿相場の変動と、一九四四年の一年間の変動、さらに一九四五年のある一ヶ月の変動が自己相似形になっていたからである。つまり、七九年間の変動を拡大して見ると一年間の変動と相似な形が現われ、さらに拡大すると一ヶ月の変動と相似な形が現われたのである。
このことは、リズムに時間性と空間性があったように、かたちにも空間性だけでなく、時間性があることを示している。すなわち、空間的リズムがあるように、時間的形態―時間的かたちでもよいが―もあることを示している。自然に横溢するかたちは、空間的形態という言葉だけでは表出しきれない。時間的形態という表現を用いることではじめてかたちというものを十全に捕えることができるといえるのではないか。
 
リズムの本質は振動にある
よく知られた構造主義などは空間的リズムの一例といえるだろう。レヴィ・ストロースの構造概念は、変換によってその現象形態は変わるものの、一定の規則性を保ちながら、深層に潜在する超歴史的な同一性だからである。そのストロースが構造主義の始祖と見なしている、ドイツ・ルネサンス期の天才画家デューラーは、渦巻曲線とも言われる対数螺線(logarithmic spiral)を「永遠の曲線」と呼び、愛好したという。
この渦巻あるいはらせんは生命現象や自然現象に頻繁に現われる。そこでクラーゲスは取り上げていないものの、自然のシンメトリーの例として渦巻を取り上げてみよう。というのも、渦巻も正中線で分ければ類似した二つの部分に分かれるからであるし、また、渦巻をよく観察して見ると、空間的リズムであるらせんも時間的リズムである波も根本的には同一であることがわかるからである。
これから渦巻を描くとする。どんな渦巻でもよいが中心から左上≠ヨ向かって描くことにしよう(細かいことだが、対数螺線は実際には中心から少し右にずれた位置から始まる)。すると左上に向けられた描線は、滑らかな曲線をつくりながら、左下、右下、次いで右上に向きを変えるのに気が付くだろう。左上→左下→右下→右上、という四つの局面からなる運動を繰り返すことによって、中心から外へ向かって渦巻が拡がってゆくわけである。
今度はこの運動を縦軸と横軸の運動に分けてみよう。横軸に沿った動きとしてこの四局面を見ると、左→左→右→右、すなわち、左→右、という運動を、次第に中心との距離を増大させながら、反復している。縦軸の場合は、上→上→下→下、すなわち、上→下、という運動を、中心との距離を広げながら、反復している。
渦巻運動を分解して出来たこの二つの運動は、ともに中心からの離脱と再接近から構成されている。ところで波もまた―実際に波線≠描いてみれば分かるように―中心軸からの離脱と再接近という上下運動の反復によって出来上がっている。渦巻や波の形を描く運動において、その事物が―上下・左右の運動と見る限りで―中心から離れながらなおかつ近づくということは、常に中心方向への向かう力が働いていることを意味する。
物理学では、このような常に原点≠ノ向かう力を復元力と呼び、直線上に行ったり来たりする反復運動を振動≠ニ呼んでいる。渦巻(という軌跡を描く運動)は、振動とは言えないかもしれないが、原点に向かう復元力に支配されつつ自分を拡大してゆく様子は振動である波と変わらない―対数螺線は波動と同様サイン・コサインで定式化できる―。
すると、時間的リズムである波と、運動≠ニしてのらせん、そして、らせんの空間的表現である渦巻模様≠ヘ、同一の本質を持っているといえるのではないであろうか。すなわち、原点へ向かう復元力の影響圏のなかで全過程が進むという点では波もらせんも同じ振動≠ニいう本質をもつリズムであるといえるだろう。
 
リズムとは脈動的な波立ちである
この振動という観点から見ると、リズムは類似者の更新であるというリズムの定義は、別の言い方に更新しうる。再び波の場合を考えてみる。波とは、山あるいは谷という類似者が類似した期間を置いて交互に現われるという現象である。ここで、今出現した山が、一定期間を置いて、再び現われるには一旦この山が消滅しなければならないことに注目しよう。この山が消滅した後にそこにあるのは当然谷である。そしてその後、さっきの山に類似した山が再帰するのである。山は谷によって消滅させられ、今度は谷が再帰した山によって消滅させられる。
つまり、もともとは切れ目のない運動状態のなかで、山と谷のように質的に対立する二つの「極」(Pol)が上昇と下降を繰り返すこと、言い換えれば、上下という互いに相対立する方向へ「往来」(Kommen und Gehen)すること、これによって交替現象はリズムとなるのである。
時間的な前後関係―時間的リズム―であれ、空間的な並列関係―空間的リズム―であれ、質的に対立する両極が、あるいは交替して現われたり、あるいはシンメトリック≠ノ配置されたりすること―いわば上下≠ノ振動すること―がリズムをリズムたらしめることは変わらない。こうして、リズム現象の最も根底にある土台とは、物理学的な直線的等質的時間とは九〇度ズレて交差する、「現実時間の脈動的進行 (pulsatorischer Gang der wirklichen Zeit)である。
昼と夜、明と暗、夏と冬、生長と衰弱、生誕と死亡、生産と消費、貯蔵と分配などの時間的対極性、天と地、太陽と月、火と水、男と女、上と下、前と後、右と左などの空間的対極性、あるいは、出発と帰来、出会いと別れ、好感と嫌悪、繁栄と衰退など人間生活における出来事の往来、これらの事象がもしリズムで満たされるとすれば、それは「脈動的波立ち」をもっているからである。
また、初心者の演奏よりプロの演奏が、工場製の寸分違わぬコンクリートブロックより中世の荒削りの石のほうが、機械式の印刷より書道家の文字が、ようするに、全く同じ製品が次々と現われる大量生産のラインに象徴されるような機械仕事より、各々の作品に製作者の微細に振動する鼓動が刻まれているかのような手仕事のほうが仮に優れているとすれば、それは手仕事に、脈動的波立ちのなかで類似者が更新するリズムが横溢しているからである。
はじめに見た景気循環というのも、時計の刻む機械的でジャストな繰り返しというのとは明らかに異なり、周期性はもちつつズレやゆらぎを持って再帰≠キる波の様子に近いのはもういわずもがなであろう。景気循環がリズムといえるならば、経済現象は、個々人のレベルでは精神のはたらきである拍子≠ニ言えるが、全体としては無意識的な生命現象に近いことが分かる。自然現象や生命現象のもつリズムの考察から、経済現象もまた生命のようなリズムをもつ「自然史的過程」であることを知るのは大変興味深いことである。
 
わたしは貨幣をどう論ずるか
普通、貨幣を論じる場合、経済学的に論じるか、それとも、非経済学的に論じるか、それとも、実践的に論じるか、―他にもあるであろうが―おおよそこの三つに分けられるのではないだろうか。
経済学的貨幣論では、経済学において市場における需要と供給が当然の前提とされているように、経済活動において貨幣が必要である≠ニいうことは、当然の前提とされている。だから、経済学における貨幣とは、現実の経済活動で実際に使われている貨幣≠フことである。貨幣とは何か≠ニいう問いは、ある意味では存在しない。なぜなら、貨幣は日々現に使われているからである。仮に今一銭も財布に入っていない人も貨幣が存在し使われつつあることは否定しないだろう。貨幣とは何か≠ニいう問いに答えたければ、自分が使っている貨幣のことを考えればよい。すなわち、貨幣とは、交換手段であり、支払手段であり、価値尺度であり、計算手段であり、価値蓄蔵手段である。ここには何の疑問もない、とされるし、確かに疑問の余地はない。
非経済学的貨幣論とは、学問的知識や思考を利用するのだが、経済学的なものを中心としないものである。こうした貨幣論で古くからあるのは哲学的なものであろう。万学の祖アリストテレスは『政治学』や『ニコマコス倫理学』などで貨幣について論じている。現在はあまり顧みられないがヘーゲルの「論理学」を利用したマルクスの「価値形態論」というのも、哲学的貨幣論に分類してもよいかもしれない。
この哲学的貨幣論の特徴は、いうまでもなく、難解≠ナあることである。ガルブレイスは、『マネー』という著書の中で、「貨幣にかんする多くの議論には坊主くさい呪文がたっぷりと塗りこめられている」(都留重人監訳)と言っている。ガルブレイスはおそらく経済学的貨幣論を念頭において言っていると思うのだが、この言葉は、哲学的貨幣論にもっともよく当てはまる。なぜなら、そこに現われる言葉も思考法もきわめて非日常的だからである。
同じ本のなかで彼は、こうした議論の仕方は「一つの定着した形の欺瞞行為」であると断じ、歴史的方法によって貨幣は最もよく理解できることを主張している。この歴史的方法あるいは人類学的方法も、貨幣を論ずるよく知られた方法である。歴史的方法―例えば、経済学における歴史学派―は、ようするに過去に存在した貨幣の歴史の叙述であるので、哲学的なもののように眉間にしわを寄せる必要がなく、歴史的関心のある人には比較的楽しく読める。人類学的なものも、文字をもつ以前の社会の貨幣―いわゆる原始貨幣―の記述であるので、歴史的方法と共通性があるが、無文字社会特有の思考法や文化の問題が入ってくるので、難しくなってしまう場合がある。
実践的貨幣論とは、いわゆるハウトゥーものである。それを知れば日常生活にすぐに役立つ類のものである。こうすれば一年で貯金を二倍にできる―今は誰もこんな言葉を信じないだろうが―とか、一年で百万円貯める方法とか、賢い金融機関の選び方とか、逆にこういう金融機関は危ないとか、わたしはこうして億万長者になったとか、お金はこういう人に寄ってくるとか、金持ちなお父さんがどうしたこうしたとか、といったものである。長期不況下の現在では、最も好まれる種類の本であるらしく、本屋さんに行けば必ずこういった類の本を見かけることができる。
実践的貨幣論を最後に持ってきたところから、こういった利殖法を期待する人もいるかもしれないが、残念ながらそうではない。これから論じられるはずのおかねのかたち≠知っても、財産を増やすのには役に立たないかもしれない。実践的貨幣論を必要とする人には、だから何なんだ≠ニいうことになるだろう。
それで思い出したが、ある動物学者が蝶々の生態を研究していたという。彼は国立の研究機関に属していたためか、同僚の研究者から税金を使ってそんな研究をして一体何の役に立つのだ≠ニいった批判を受けた。彼はその言葉に反論できなかった。多分誰も反論できないだろう。なぜなら蝶々の生態は人間の日常生活とは直接の♀ヨ係はありそうもないからである。
しかし、あるときこの研究者は、公共施設に花壇をつくるから協力してくれといわれた。たくさんの蝶々が寄ってくる花壇をつくりたいというのである。当然、そのためには蝶々がどのような状況でどのような行動とるかについての知識が必要になる。すなわち蝶々の生態に関する知識が必要になる。この研究者は自分も自覚がないままに人々の衣食住は満たせないが生活に役立つ′、究をしていたことになる。花壇にいくほどの人なら誰でも蝶々がいない花壇より、青空の下に蝶々が舞う花壇を望むだろう。今ごろ蝶たちはその花壇で華麗な舞踊を舞っているだろうか。
わたしのおかねのかたち≠ノ関する議論がいつか役に立つなどと言いたいわけではない。この研究者は、今すぐ持っているお金を増やしたい人が非℃タ践的貨幣論に対してだから何なんだ≠ニ思うように、蝶々に対してだから何なんだ≠ニ疑問を抱いたということを言いたいのである。
大げさに言えば、疑い得ることを疑い、分からないことを分かろうとするのが人間であると言いたいのである。わたしもまた、なぜ人間はお金を持っているのか、お金が今あるようにあるのはなぜなのか、といった疑問、まとめていえばおかねのかたち≠ヘ一体どういうものなのかということにだから何なのだ≠ニいう疑問を発したにすぎない。わたしはこのようにあらゆるものに対してだから何なのだ≠ニ問うことはとても自然≠ネことで、この権利を行使することで仮に難解≠ネ結果を引き出してしまったとしても、「坊主くさい呪文」と感じることは自由であるが、「欺瞞的行為」であるとは全く思わない。
これから、おかねのかたち≠ノついて論じていくわけであるが、読んでも読んでも貨幣という言葉もおかねという言葉もたまに出てはくるものの論じられる気配さえないではないかと感じるかもしれない。これも、私なりにおかねのかたち≠追求した結果である。つまり、お金を人間の身体能力の延長であるという考えを基本にして、おかねのかたち≠どんどん遡って見ていった結果である。上手くいったかどうか分からないが、ヒトしかお金を持たないにもかかわらず、ある生物史的な流れのなかでヒトはお金を持たざるを得なかったということを示せればよいと思った。
したがってこの貨幣論≠熹経済学的貨幣論に属するのかもしれない。しかし、結局既存のものと代わり映えしないとしても、自分としては、貨幣という言葉の非日常性を避けるため、また、これまでの貨幣論と一線を画すため、あえておかね≠ニいう言葉をタイトルに選んだ―貨幣の言語学的な起源は神主さんが振り回す御幣にあるという説があるが、貨幣という言葉に何かしらよそよそしさや堅苦しいニュアンスを感じてしまうのは、こうしたことと関連があるのかもしれない―。といっても、慣用上や表記上、貨幣やお金という言葉のほうがよい場合も多くあるので無理やりおかね≠ニいう言葉を使うことはしなかった。
さて、上述した生物史的な≠ニは次のようなことである。わたしたちはこれまでヒトとは何か≠ニいう問題を、動物との比較で考えてきた。ヒトとは、直立二足歩行をする動物である、言葉を使う動物である、道具を使う動物である、幻想する動物である、裸のサルである…。わたしは、動物との比較でヒトを特徴づけるやり方とは違ったやり方をすべきであると思う。つまり、この問題を、動物とヒトではなく、動物と植物との比較で考えるべきであると思う。
三十億年来の生命の流れを、系統樹という一本の大樹とみなすと、この大樹は、幹の根元のごく近くで二股に分かれているのに気づくだろう。二股の一方は、植物の世界をつくり、他方は動物の世界をつくる。動物を鏡とするヒトの考察は、動物行動学であれ、サル学であれ、分子生物学であれ、進展すればするほどヒトと動物の相違を消し去ろうとしているかのようである。このまま動物の世界に閉じこもっていてよいのだろうか。生命の樹のもう一方からヒトを見るべきなのではなかろうか。生態系とは、菌類を仲介役とする植物と動物の世界であるのだから。
 
 
 
第二章 生命はかたち≠造りつつ造りかえる
 
第一節 アリストテレスは心をどう考えたか
アリストテレスにとって心とは魂ではない
現象としての世界が〈ポリリズム〉としての世界であるとすれば、そこから生れた生命体もまたポリリズムである。リズムが時間的リズムと空間的リズムに分けられるとすれば、リズムとしての生命体も時間的リズムと空間的リズムに分けられる。そこで生命体における時間的リズムを心≠ノ、生命体における空間的リズムを身体≠ノ対応させれば、リズムとしての心と身体が俎上に載せられることとなる。
 心と身体を別のものとする考え方―心身二元論―は、遠くプラトンにさかのぼり、デカルトにおいて完成された考え方―思惟と延長―とされている。現在でも多くの人たちに信じられているのは周知の通りである。プラトンは人間の質料(材料である身体)と形相(機能である心)を分離した。心とその入れ物である身体を分離して考えたというわけである。この考えは時代と地域を超えた深甚な影響を人間の思考に与えた。現在、精神=身体とみなす潮流が存在しているものの、心身問題は人間にとってアポリアでありつづけているといえるだろう。
事物の物質的な側面を質料、物質によって出来ているその事物の機能や形式や本質は形相といわれる。プラトンにとって質料と形相は分離できるものだった。だから人間の質料である身体と形相である魂(プシューケー[psyche])は分離できる。彼にとってプシューケーとは、身体が消滅した後も存在しつづけ輪廻を繰り返す魂≠ナあった。
一方彼の弟子アリストテレスにとって、ちょうど「蜜蝋と印形」が一つであるように質料と形相は分離できないものだった。彼はこのことを、質料をデュナミス、形相をエネルゲイアあるいはエンテレケイアと考えることによって論じた。彼にとって、プシューケーとは身体を離れて浮遊できる魂≠ナはなく、心≠ナあった。そしてこの心は身体と不即不離なものだった。
心とは身体という容器に入っている魂ではない。アリストテレスにとって心とは身体の状態を指している。どんな身体の状態かといえば、身体がある能力をもっている状態である。彼によれば、心≠ニは、身体がある一定の能力をもっている状態≠さしている。だから、心とは身体に備わったある一定の能力≠フことであるといってもよい。
生きている状態にあるとき、その原因となっているもの、が心なのである。すると心とは、生きている状態をつくりあげている諸能力のことなのだから、生きていることと能力をもち、それを発揮していることはおなじことになる。わたしが呼吸をしたり栄養をとったり運動したり考えたりすることが生きていることだとすれば、生きていることとは呼吸能力や栄養能力、運動能力、思考能力をもち、それを発揮していることである。このさまざまな能力を産みだす基盤になっているのが身体であり、身体を手段として発揮されるさまざまな能力が心の本体であることになる。
たとえば、斧は、自分をつくりあげている材料(質料)と、それによって可能になる木を切るという能力(形相)からできている。だから斧にとって木を切るという能力が心に相当することとなる。だが、アリストテレスによれば、自分自身のなかに運動と静止の原理をもつものが「自然的物体」である。これを一般的にいえば身体≠ニいう意味になるだろう。そこで、斧をつくりあげている材料は身体でなく単なる「物体」であるといえる。斧は自分で自分を動かさない。だから斧は身体をもたない。一方、身体≠ノは生命をもつものと持たないものがあり、しかもアリストテレスは生物にしか心はないと考える。すると結局、身体をもたない斧には心がないことになる。
 
生命過程はデュナミスからエンテレケイアへの移行である
植物は手足がないから動くことができない。一方動物は手足を持っているので動くことができる。植物には動くということに関してそれを発揮する可能性や能力を持たず、動物はそうした可能性や能力を生れつき持っている。この可能性や能力のことをアリストテレスはデュナミス(dynamis)といっている。そこで「動物は動くということについてデュナミスにある」、という言い方ができる。したがって植物は動くということについてはデュナミスにはないわけである。人間は赤ん坊のときは自分で歩くことはできないが、歩くことに関してデュナミスにある。そしていつのまにか自分の足で歩いている自分を発見するだろう。このときデュナミスにあった、歩くという能力はすでに赤ん坊のものになり、それは発揮されている。
ここで歩くという能力がそなわることを「第一のエネルゲイア(energeia)」あるいは「第一のエンテレケイア(entelecheia)」といい、すでに備わった歩くという能力を実際に歩くことで発揮していることを「第二のエネルゲイア」あるいは「第二のエンテレケイア」とアリストテレスはいっている。すでに歩けるようになった赤ん坊が寝ているとき歩くという能力は「第一のエネルゲイア」(あるいはエンテレケイア)にあり、目を覚まして母親を探すために実際に歩いているとき、歩くという能力は「第二のエネルゲイア」(あるいはエンテレケイア)にある。
エネルゲイアとは、能力が発揮されていることを意味する。エンテレケイアとは、テロス(telos)という言葉が終り、目的≠ニいった意味をもつことから創られた言葉で、「テロスのなかにあること」を意味している。終りのなかにあること∞目的のなかにあること≠ニいう意味なのだから、エネルゲイアと意味はほぼ同じである。デュナミスは「可能性」「可能態」「能力」など、エンテレケイアは「完全実現態」「全くの現実態」「終局態」など、エネルゲイアは「現実性」「現実態」などと訳されるようである。
長年の厳しい修行によって建築術を習得した建築家にとって建築する能力は「第一のエネルゲイア」にある。眠っているこの建築家にとって建築する能力は「第一のエネルゲイア」にあるが「第二のエネルゲイア」にはない。仕事場で家を建てているときこの能力は発揮されつつあるわけだから「第二のエネルゲイア」にあるわけである。同じように、眠っている料理人にとって料理する能力は「第一のエネルゲイア」にあるが「第二のエネルゲイア」にはない。仕事場で料理をつくっているときこの能力は「第二のエネルゲイア」にある。
ところで台所に立ったこともないこの建築家にとって料理する能力≠ヘ自分のものではない。つまり「第一のエネルゲイア」にない。また鋸を握ったこともないこの料理人にとって建築する能力≠ヘ「第一のエネルゲイア」にない。身についていないのだからこれらの能力を「第二のエネルゲイア」にすること、すなわち発揮することもありえない。
だが、その気さえあればこの建築家が料理¥pを、この料理人が建築¥pを習い覚えることはできる。なぜなら植物はどんなに情熱を傾けてこれらの能力を教え込んでも身につける可能性ははじめから皆無だが、人間にとっては身につける可能性があるからである。このとき、建築家にとって料理する能力が、料理人にとって建築する能力がデュナミスにあるという。人間は建築術も料理術もデュナミスにあるのだから、それらを身につけることによってエネルゲイアにあるようにすることができる。
 
デュナミスとエンテレケイアはフィードバックする
ホルモンによる作用の結果は、間脳の視床下部により管理され、ホルモンの分泌を促したり、抑制したりする。つまり脳がからだにおけるホルモンの状態を判断し、分泌するか抑制するかを決定する。そして、今の決定に基づいてホルモンが分泌(抑制)された結果は再び脳に伝えられる。脳は再びホルモン状態を判断し、ホルモンを分泌あるいは抑制するわけである。
すなわち、ホルモンの分泌(抑制)の結果が、次の分泌(抑制)の判断材料、言いかえれば分泌(抑制)の原因となり、その結果が次の次≠フ結果を生む原因となり、というふうにこの過程は無限に続く。前の結果が原因になって次の結果を生むのである。この過程はフィードバックと呼ばれる。フィードバックによって、生体は体液という内部環境の恒常性を維持する。体温、血糖量、血圧、体液組成など、生物体内の多くの現象が、フィードバック作用により恒常性を維持していているという。
すでに赤ん坊が歩くことを覚えた状態から見れば、生まれたばかりの赤ん坊の状態は、歩くということに関してデュナミスにあり、一方、生まれたばかりの赤ん坊(の状態)から見れば、歩くことを覚えた赤ん坊(の状態)は歩行に関してエンテレケイアにある。また、寝ている赤ん坊から見て、実際に歩きつつある赤ん坊はエンテレケイアにあり、一方、実際に歩きつつある赤ん坊から見て、寝ている赤ん坊はデュナミスにある。
このように、実際に歩いている状態のデュナミスは歩くことを覚えた状態であり、歩くことを覚えた状態のデュナミスは生まれたての状態である。逆に生まれたての状態のエンテレケイアは歩くことを覚えた状態であり、歩くことを覚えた状態のエンテレケイアは実際に歩いている状態である。同様に、材木の可能性の実現が家であるとすれば、家のデュナミスは材木であり、材木のデュナミスは樹木であり、樹木のデュナミスは種子である。そして逆も同様である。
そのように考えれば、生きていること≠ニいうのは、まだ実現されていない状態≠ゥら実現された状態≠ヨの移行である。前者をエネルゲイア、後者をエンテレケイア(あるいはエネルゲイア)とすれば、生命体とは、前者が後者の原因となり後者が前者の結果となっている再帰的な運動過程である。このエネルゲイアからエンテレケイアの移行運動は、「第一」「第二」にとどまらず、フィードバックのように、理論上は永遠に回帰しうる。生命体は、デュナミスとエンテレケイアからなる無限のフィードバックなのである。この意味で、わざわざ「第一」「第二」と区別を設ける必要はないかもしれない。
 
アリストテレスは生物の原理を心と考える
アリストテレスにとって、「器官の能力が心」(アリストテレス『心とは何か』桑子敏雄訳)なのである。身体はさまざまな器官をもち、その器官の能力に関してデュナミスにある。身体はこれらの器官の能力をしだいに身につけ、いいかえれば「第一のエネルゲイア」に変え、そして実際に器官を使用することで「第二のエネルゲイア」にあるようにする。
たとえば見ること≠ヘ、身体の一部としての角膜やガラス体や網膜などの器官とこれらの器官の能力によって可能となる。生きていることは見たり聴いたり食べたり呼吸したりすることだとすれば、生きている状態とは、見ること聴くこと食べることに関してデュナミスにある身体を、見ること聴くこと食べることを覚えてエンテレケイアにある能力に変え、使われていないこれらの能力であるデュナミスを実際に使われている状態であるエンテレケイアに変えることである。
ここで生物の質料である身体は能力を潜在的に持っている状態であるデュナミスに、生物の形相である心は、能力を顕在化させ発揮している状態であるエンテレケイアに対応している。そこで、生物とは心と身体が一体になった生きている身体≠ナあるといえる。
こうして、アリストテレスによれば、心=iプシューケー)とは、身体と別々のものではなく、身体が生きている状態にあるとき、その原因となっているもの、いいかえれば身体のはたらき≠フことを指している。アリストテレスにとっては、生物が生きていることの原因となっているのが心であり、生きている状態にある身体がもっているさまざまな能力が心である。
斧ははたらきをもっているが心をもっているとはいえない。なぜなら斧は、それ自身のなかに運動と静止の原理をもっている身体ではなく単なる物体だからである。身体がそのはたらきによって生きている状態をつくりだしていることが重要なのである。「心はいわば生物の原理」(同上)なのである。
 
アリストテレスは心を四つに分類する
この身体のはたらきとしての心≠、アリストテレスは、栄養摂取能力、感覚能力、運動能力、思考能力の四つに分類している。彼にとって生命とは、「自己自身による栄養摂取と成長と衰退」(同上)である以上、栄養と生殖≠意味する栄養摂取能力が第一に挙げられる心の能力であるのは当然である。動物であろうと植物であろうと、生きている状態にあるもの―生命体―はすべてこの栄養摂取能力を共通の能力として持っており、これによって生≠ェ身体に備わるのである。
植物はこの栄養摂取能力のみをもつ。この能力を必要条件として、触覚を最も原初的な能力とする感覚能力を持つようになったのが動物である。感覚は欲求能力を必然的に伴い、欲求を持てばそれを目的とする運動能力が要請される。だから動物は栄養摂取能力に加えて感覚能力と運動能力を持つ。人間はこれら三つの能力に加えてさらに思考能力を備えるとされる。
 
 
第二節 モナドは宇宙を表出する
エントロピー法則はかたちを壊す
水の入ったコップにインクを一滴たらしてみる。球形を保ちながら落下したインクは、水面を通り過ぎ入水した後も少しの間は球状を維持するだろう。だが、それも束の間のことに過ぎず、いまや水中の住人になってしまったインクは自らの形態を崩してゆき、次第次第に周囲を取り囲む水に向かって浸潤してゆかざるをえない。この常日頃見られる当り前の現象は、一方向にしか進まないという特徴を持っている。VTRの逆回しのようにすでに青色に染まった水のインクが一点に向かって集まっていったら不気味だろう。
ではなぜ、溶けた砂糖は個体に戻らず、壊れたコップは元に戻らず、ヒトは若返らず、汲んだまま放っておいた風呂の水が汲んだときより熱くならず、川の流れが下流から上流に逆流することはないのだろうか。
この自然の不可逆さ≠見ると、自然の系≠ヘでたらめさや乱雑さや無秩序を増大する方向にしか進まないことがわかる。この系のでたらめさはエントロピーと呼ばれる。熱力学の第二法則によれば、宇宙はエントロピーを増大させる方向に進んでいる。
したがって、このエントロピーの増大に対抗するためには、無秩序の増大を埋め合わせるだけのエネルギーが必要である。山頂から自然の力を借りて滑降してくるスキーヤーを再び山頂に上げるリフトや、リンゴが落ちるように落下するはずの人間を任意の階まで持ち上げてくれるエレベーターがこのエネルギーに相当する。もし年齢より明らかに若くみえる人がいたとしたら、若返りのために相当高価なリフト≠ェ使われていると見るのが妥当な推論である。人間の世界に自然法則に反した双方向的で可逆的≠ネ現象があるように見えたとしても、本当に無秩序が秩序を取り戻しているのではない。この場合、リフトやエレベーターがエネルギーを消費することによって全体としてのエントロピーは増大しているのである。
だからヒトに限らずあらゆる生物は自己のかたち≠維持するために常に栄養を摂取しなければならないのである。生物のからだもエントロピーの増大傾向を免れないからである。栄養摂取しなければ、エントロピーを増大させようとする―ゲーテが怪物的≠ニ呼んだ―自然の破壊力は、身体のかたちを不可視の原子や分子に解体してしまうだろう。肉食動物が草食動物を栄養にし、草食動物は植物を栄養にし、植物は光と水と二酸化炭素を栄養とすることから、生物にとっての栄養とは究極的には太陽であることがわかる。輪郭の崩壊を食い止め、一定のかたちを保ち、場合によっては可逆的にさえ見える生命体を支えているのは、不眠不休でエネルギーを地球に贈り続けると同時に絶えずエントロピーを増大させている太陽である。地球上の生命が一定のかたち≠維持しているとしたら、その究極的リフト≠ノなっているものこそ太陽なのである。
 
モナドは自然にかたちを与える
アリストテレスは、生命体の素材を質料、本質や形態を形相とし、さらに能力が実現されているかいないかという観点から、質料をデュナミス、形相をエンテレケイアあるいはエネルゲイアと名づけた。エンテレケイアあるいはエネルゲイアの状態にあるとき、生命体は、エントロピーを増大させ、デュナミスのなかに引き入れようとするデモーニッシュな自然の猛威を、栄養摂取能力をはじめとするさまざまな能力によって乗り越え、自分自身のかたちを維持していることはいうまでもない。
このエンテレケイアの思想を受け継ぎ、広く知られている「モナド」概念にまで鍛え上げたのはライプニッツである。モナドの思想によって、彼は、いかにして物体が自らの形態を維持しつつけ、また変化するのかという問いへの一つの解答を与えている。この意味でライプニッツのモナドロジー≠ヘ、かたちの思想であるといえるだろう。
さて、物質は拡がりを持つから部分を持ち、部分を持つから分割することができる。ある物質はさらに小さな部分に分かれ、この小さな部分はさらに小さな部分に分けることができるだろう。ではその物質はなぜ一つのまとまりを持った物質であり続けているのであろうか。ライプニッツは言う。それはある部分を持たない単一の存在があるからである、と。
この単一の存在は物質ではない。物質ならば部分を持ち、部分を持てば分割されてしまう。一定の形態と特徴を持った物質は、ばらばらになってしまう。この単一の存在によって一定の形態と特徴を持った物質は自らを保ちつづけることができるのである。一定の形態と特徴≠フ源泉になっているものを、いいかえればABである≠ニいう場合の主語Aを、述語Bの基体としての実体≠ニ呼ぶなら、単一の存在≠ニは単一の実体≠ニ言い換えることができる。ライプニッツは、この「単一の実体」に、一なるもの≠意味するギリシア語のモナス(monas)に由来する「モナド」(monad)という名を与えた。
モナドは、物体にかたちを与え、生命体にする。モナドは、物質とは異なり部分を持たない実体であるのだから、自然法則が老化しないように、老化することはない。たしかにこの法則は古くなった≠ニいう言い方はある。だが、これは、その法則が別の法則によって乗り越えられたという意味であって、身体能力が年齢とともに低下するように、法則の効力が低下したのでないことはいうまでもない。宇宙が生きている限り地球を公転させる自然力は老化≠キることはない。この意味で、モナドは永遠なものである。
 
ヒトの知覚は限られている
ライプニッツは、宇宙のすべての事物はつながっており、お互いに影響を及ぼしあうと考えていた。お互いに影響しあうというのは、人と人、人と動物、人と植物、人と物、動物と動物、植物と動物、物と物など、まさしくすべて≠フ事物の間で作用したり作用を受けたりするということである。
だから彼の考えでは、巨大な湖水面の中心に落とした小石がつくる波紋が、全く知覚も観測もできないほどかすかであっても伝わるように、仮に宇宙の果てで起った小さな変動であっても、極小の波紋は物体を通じて伝わるはずである。そして、必ず人間を含むあらゆる地球上の被造物に何らかの作用を及ぼすに違いなかった。ただ私たち人間はそれに気がつかないだけであるに過ぎない。
死者が約二〇〇〇人にも達した一九六〇年のチリ地震は、マグニチュード九.五という途方もない規模を持つ今世紀最大の地震であった。だがこの地震の被害にあったのは、南米チリの人々だけではなかった。地震に起因する津波が太平洋全域に波及し、日本でも一〇〇名を越える死者が出た。太平洋の一方の端で起きた地殻の揺れがもう一方の端の日本に甚大といっていい影響をもたらしたのである(蛇足だが、この地震は、地球自由振動≠ェ観測された最初の事例でもあった。地球自由振動とは、巨大地震の後、数週間に渡って地球が特定の振動数で振動しつづけることである)
もう一つあげよう。「天に赤き気あり」と『日本書紀』にも記されているオーロラ現象とは、地球外から飛来する陽子や電子が、大気に衝突して大気中の分子や原子を発光させることによって生ずる。たとえば極冠地方のオーロラは、太陽表面の局地的爆発である太陽フレアに際して放出される陽子によって起る。太陽が、水星を超え、金星を超え、約一億五〇〇〇万Km離れた地球の原子や分子を遠隔操作して美しい色彩を放出させるわけである。
これらの例は目に見えるものだから分かりやすい。だがヒトは電磁波の一部である可視光しか見えないし、聴覚は二〇Hzから二万Hzの音しか捕えない。イルカの可聴範囲は一五万Hzだから、聴覚の世界についてだけいえば、ヒトの方がはるかに狭く貧困な世界に住んでいることになる。ヒトが意識的に知覚できるものはごく限られており、自然の出来事の多くの部分は知覚されないか、知覚されても気づいていないかという状態であろう。
 
生命は表象を持つ
ヒトにとっての知覚あるいは認識するという行為を、モナドロジー流にいえば、「表出」(exprimer)あるいは「表現」(représenter)するという言い方になる。表出あるいは表現することこそモナドの本性である。モナドは表出し、それによって「表象」(perception)を持つ(とはいってもライプニッツは表出・表現・表象を厳密に区別していないらしい。表象の原語だけが名詞なので言い方を変えてみたにすぎない)
perception≠ニはフランス語で、知覚≠竍意識≠意味する言葉であるが、モナドにとっての表象とは、意識されているか否か、明瞭であるか曖昧であるかを問題にしない広い概念である。モナドは、生命全体、場合によっては物体も含むものであって、単に精神を持つヒトだけを対象とするわけではないからである。この意味で表象とは自然的な作用であるといえるだろう。
すると、意識は表象の特別な場合になるため、ライプニッツは、特にaperception≠ニいう語をあてて、明瞭な意識と自己意識の両方を含んだ意味をもたせている。逆にいえば、表象という概念は、基本的に無意識的過程のなかにある。たとえば緑色を見ているとき、その元になっている黄色や青色は意識≠ウれないだろう。だが黄色も青色も表象≠ヘされているはずである。
屈光性を持つ植物が、光の方向に自分の身体を向けるとすれば、外界にある光の方向に対して反応しているわけである。このときの植物の内側からの作用が表象に相応する。植物は、おそらく自分の表象を意識することはないだろう。動物の場合、光に対して近づいたりからだを向けたりといった決まった行動をとる性質を走光性という。このときの動物の内的作用も表象といえるだろう。植物の屈光性は成長の様式を、動物の走光性は行動の様式を指し示す言葉であるわけだから、ライプニッツの表象とは、広い意味での行動様式をも含んでいるといってもよいかもしれない。
 
表象は意識をはみ出す
クラーゲスの言い方を借りれば、表象は、生命%I「体験」も精神%I「経験」も両方含んでいる。私たちが眠っているときでも生命体験は絶えることがないように、表象も途絶えることがない。体験することは生きていることと同義であるように、表出すること、そして表象を持つことは生命過程そのものである。特別な場合にのみ、表象は意識となり、私たちは自分が今何を表現しつつあるかを知るのである。
逆にもしすべての表象が意識化可能になったら、私たちはその騒々しさに耐えられないのではないか。補聴器をつけると聞きたくない音も耳に入ってくるので多少聞こえが悪くなってもスポーツをするときは補聴器をつけないと言っているのをテレビで見たことがあるが、ヒトは聞きたいものや見たいものだけを取り入れることによってあえて表象の一部のみを意識化しているということもできる。
 
「われわれの感覚の表象は、たとえそれが明晰な場合であっても、必ず何か雑然とした知覚(サンチマン)をふくんでいるはずである、ということがわかる。なぜならば、…われわれの感覚はすべてのものにかかわりをもってはいても、魂がそれを一つ一つ注意することはできないからである。われわれの雑然とした知覚が、まったく際限のないほど多様な表象の結果であるのもそのためである。それはいわば、海辺に近づく人の耳にする雑然としたざわめきの音が、無数の波の反響の集合から生じてくるのと似ている。」(ライプニッツ「形而上学叙説」清水富雄・飯塚勝久訳)
 
モナドは身体で全宇宙を表出する
物体はモナドを自分のエンテレケイアにすることで生命体たりうる。モナドは生物が生きていることの原因になっているわけであるから、生命力あるいは生命の原理であるといっていだろう。モナドは自己の内側から作用することで外的作用に応答することを、あるいは、一≠ナありながら多≠表現することを本来の目的としている。表象とは「一における多の表現」「内的なものにおける外的なものの表現」である。だから、モナドとは生命の原理であり、生命の原理とは表象の原理である。モナドが活動することはそのまま表象することなのである。
モナドは一≠ナありながら多≠表出する。では多≠ニはどれぐらい多≠ネのか。すべては連続しており、極小の事象もあらゆる空間へ波及する以上、答えはいうまでもなく宇宙全体≠ナある。それぞれのモナドはそれぞれのやり方で全宇宙を表出するのである。ではどうやって表出するのか。
生命体は身体を持つ「複合体」である。他の物体に刻々と生じる変化は、同じく物体である身体に必ず影響を与えるはずである。すべての物体がつながり合っている以上、身体も他のあらゆる物体とつながっているからである。物質ではないモナドにとって、身体もまた外界の事物と同様物体の一つである。ただ、いつもそして最も身近にある物体であるため、他の物体よりもはるかに鮮明に表出できる。実際には、他の物体と身体が持つ関係によってしか、外界を知る術を持たないのだから、結局、生命体は、身体を表現することによって全宇宙を表出することになる。モナドが「宇宙を映しだしている、永遠の生きた鏡」といわれるのはこの意味においてである。
 
モナドには段階がある
モナドは、表象能力を本質とする実体であり、投影図が実測図を表出するように、宇宙というマクロコスモスを表出するミクロコスモスである。生命をもつあらゆる物体、すなわち「物体的実体」は、当然表象能力を持つことで生命体としてのかたちを維持している。表象能力に加えて感覚能力―注意や記憶―を持つ場合、感覚的生命としてのモナドは「魂」と呼ばれる。魂を持つのは動物である。さらに、理性―反省の能力―を持つようになると、モナドは理性的魂という「精神」になる。精神を持つのはもちろん人間である。精神は理性的魂であり、魂は感覚的生命であり、そして生命は表出の原理なのである。
精神は物体的実体や魂とことなり、自分自身に対する反省の能力をもっている。反省によって、人間は有限な存在である自分自身を知り、したがって一つの実体であることを知る。同時に人間である自己とは対極にある無限な存在としての神を理解するようになる。つまり有限な自己に目を向けるということは、その否定としての無限なるものに目を向けることを結果としてもたらす。
精神に限らずあらゆるモナドは、程度の差はあれ、自らの創造者がもっている全能を模倣している。神によって生産される以上、それは当然のことだが、他よりはるかに全能性を有しているのが精神というモナドなのである。神も精神であり、人間も精神であるところから神と人間との間に通路が開けるわけである。精神を持っていることで、人間は同じく精神である神を理解する可能性を得た。神と人間はあたかも父と子のような関係をもつようになる。
モナドを、宇宙を飛び交っているあらゆる電磁波を受け取り、映像に変換する、きわめて高性能のテレビのようなものと考えてみる。物体的実体は、受信した宇宙が発信した暗号≠ナある電波を映像に変換する、すなわち宇宙の状態を表出する。魂は、さらにそれを感じ取り記録する。精神はさらに自分が作り出した映像を自分自身で見ることができる能力を持つ、すなわち反省≠キることによって自分で自分を見つめるのである。ここにわたし≠ェ生れることになる。
どんなモナドでも、ミドリムシのような原生動物でさえ、全宇宙を表出している。その意味ではすべてのモナドは同一である。違いが生じるのは、表出している全宇宙のうち判明≠ネ部分がどれだけあるかである。
ミドリムシや植物の場合、あたかも人間の睡眠状態のようにすべては無意識であって、表出の判明さは最大限に制限されてしまっているだろう。記憶や注意などの感覚能力をもつ動物になると、あいまいでぼやけた表出しか持たなかったまどろみから脱出し、意識的な行動が可能となる。表出の判明さは飛躍的に高まるだろう。
だが、動物の行動とは、いわば経験則だけに頼る「やぶ医者」の行動であって、なぜその方法で治るのか≠ニ問う能力は欠いている。反省する人間だけが、意識的な行動≠とっている自分をもう一人の自分によって観察し分析することができる。このとき表出の判明さは最大限に実現されているだろう。
 
モナドはアルファベット≠ナ宇宙を表出する
モナドが、全宇宙を表出できるのは、すべての外的なもの≠キなわち物体が連続していることが基礎になっていた。だが、これだけでは事の半面だけしか見ていない。なぜなら内的なもの≠キなわちモナドがどのように外的なもの≠ノ対応するかがまだ不明だからである。
モナドは、全宇宙を、固有の視点から、身体を通して表出する。この際、モナドは「観念」を材料にして表出をおこなう。それは、知性をもつ神が、自分が持っているのと同じ「観念」をモナドに与えたからである。観念を手段にして、各モナドは、人がアルファベットによって世界を表現するように、宇宙を表現するのである。
アルファベットといえば、五十音、九九ならぶ丸暗記ものの代表といっていいだろう。書いたり、唱えたり、歌ったり、あらゆる手を尽くして記憶したり、記憶させられたりしたことは、今ではZまで辿り着かない人が仮にいたとしても記憶はしているだろう。
五十音も同様だが、それよりはるかに少ない二六文字のアルファベットによって、すべての文章表現が可能であるというのは思うに驚異的なことである。もしアルファベットの文字数や形態などに未来永劫変化はないとすると、過去の文章だけでなく、これから生れるであろうすべての文章をこの二六文字によって表現するわけである。このことを、アルファベットは過去から未来永劫に渡るすべての文章表現を予め♀ワんでいる、と言ってもよいであろう。
ライプニッツの著作は、多方面に渡っており、それぞれの分野において優れた着想を示しているが、多岐に渡る分一つの分野についで十分な展開がなされているとはいえないようである。そのためかライプニッツの仕事は散発的な印象を与えることは否定できない。だが一見分散して中心を欠いているようでも、一個の人格が成した功績である以上、ある一貫性が認められると考えるほうが妥当であろう。すなわち、「アルファベットの思想」こそ、ライプニッツが初期から晩期に至るまで抱きつづけたライトモチーフであった。
どんな複雑で難解な観念や思想や真理も、数学において定理や系や補題が定義や公理に還元されるように、分析によって、より単純な観念や思想に分解できる。そして究極的には、それ以上分析を進めることが不可能ないくつかの「原初的概念」(notion primitive)に到達する。この形而上学的アトムともいうべき原初的概念こそ、観念・思想・真理のアルファベット≠ナある。思想のアルファベットであるこの原初的概念は、定義することができず、単純であり、証明することもできず、その必要もない明晰判明なものである。
これら原初的概念によって人間は思想を形成し、認識を構成する。アルファベットという記号を、文法という約束に従って操作≠キることによって、過去に存在したすべての思想だけでなく、未来に生まれるであろうすべての思想を生み出すことができるように、いくつかの原初的概念に記号を割り当て、それらを特定の方法に則って計算≠キることにより、過去の思想を表現するだけでなく、未来に現われるあらゆる思想をも発見≠ナきるはずである。これが果たせなかったライプニッツの構想であった。
モナドも当然、この原初的な観念あるいは概念を持つとされる。この原初的観念あるいは概念を材料として、表象や表出は構成される。魂は「観念」を用いて表出し、精神は「概念」を用いて表出するとすれば、人間は、精神を発揮しているとき概念で表出するわけである。すると、精神をはたらかせていようといまいと人間の生命活動は不断に続くように、観念による表出も不断に行なわれていることになる。体験≠ェ無意識的であるように、観念による表出も無意識的であるといえる。
 
「かういふ表出は至る所に起る。何故かといへば、あらゆる実体はあらゆる他の実体と同感し、宇宙全体に起る最も小さい変化にも応じて、何か比例的な変化を受けるからである。…さういふ訳で我々の身体も或る意味に於てはあらゆる他の物体の変化から作用を受けてゐるに違ひない。さて我々の身体のあらゆる運動に対しては、我々の精神の方でも、混雑と判明に拘らず、一定の表象もしくは意識が之に応じてゐる。であるから精神も宇宙のあらゆる運動に就いて或る意識を持つてゐることになり、私の考では他の凡ての精神即ち実体もそれに就いて或る表象もしくは表出を持つことになる。」(「ライプニツよりアルノーへ」一六八七年、河野与一訳)
 
なぜモナドは全宇宙を表出できるのか。それはモナドの持つ観念や概念が、アルファベットがあらゆる思想を含むように、あらゆるできごとを潜在的に含んでいるからである。神の知性と同じ道具である観念や概念は、神とモナドとを繋ぐ結び目であり、媒介である。神が全能で無限であるとすれば、観念や概念もまた同様であることになり、したがって、モナドの表出は本来的には全能で無限でありえるのである。だからモナドは宇宙全体を表出できるのだし、しているのである。ただどのモナドも身体を持つことによって制限を受けるため、自然というものに制限を加えられるわけである。種によって身体の持つ自然的な特質はことなるが、この自然としての身体の違いがいわゆる能力の違いを形作る。
 
モナドは宇宙を自分流に映し出す
映画にもなった芥川の「藪の中」は、事実≠フ多義性、つまり、事実というものは見る者によって全く違った見え方をするものだということを浮き彫りにした作品であるとされている。一個の事実はたくさんの人や物や事柄が関るものだから、関係者のすべてがそれに同じ見解を持つことが難しいというのは想像に難くない。
だが、事実でなく事物≠ナも状況は同じであることは、たとえば、机の上のサイコロが自分に六の目を見せているとき、向い側の人は一の目を見ているというようなごく単純な現象を考えてみれば分かることである。別の方向から見ている人が、自分が見ている側面と必ず異なる側面を見るという点では、どんなモノでも事情は変わらない。モノも見る方向に依存して、異なる見え方をするわけである。そして、人間にとって事物や事実が多面的に現われるように、あらゆるモナドにとっても世界は多面的な見え方をする。
ライプニッツによれば、神は、「力」と「知性」と「意志」をもつ。力は万物の源泉であり、知性はあらゆる観念をふくみ、意志は変化や生産を最善の方法で引き起こす。「原初的」モナド、言い換えればオリジナルのモナドである神は自己の思想を実現しようと、自分の身から絶えず放射されている「閃光」によって「派生的」モナドを生産した。モナドが持つ、「基礎」「表象能力」「欲求能力」の三つは、上記の力・知性・意志にそれぞれ対応している。原初的観念が神とモナドの結び目であるのも、そもそも神がモナドに観念を与えたからである。
モナドが生産されるとき、神は一つの宇宙をさまざまな視点から眺めるわけであるが、この眺めた結果生まれるのが派生的モナドであり、そのときとった視点≠ェそれぞれのモナドを特徴づける。つまり、それぞれのモナドはそれぞれ固有の視点≠もつ。たとえば、貨幣というモナドは、宇宙()≠、価値という視点から眺め、価格を持った商品からなる商品世界≠ニして表出する。
すべてのモナドは等しく宇宙全体を表出するが、表出の判明さの度合において段階づけられる。それだけではない。いくつかの段階に区別された多数のモナドは、それぞれ自分の視点から全宇宙を表象するのである。つまり、モナドの数だけ違った視点があるわけであるから、視点の数だけ違った宇宙の見え方があるはずである。
同じ町でも見る角度によって違った見晴らしを持った町になるように、たった一つの宇宙をそれぞれのモナドが違った角度から表出するわけである。モナドは無数にあることから、宇宙の眺望もまた無数にあることになる。モナドはよく鏡に例えられるが、固有の視点をもつモナドは、「宇宙を自分流に映しだしている鏡」だといえる。
 
ライプニッツの神は今あるような世界を選択した
世界が今目の前にあるようなすがたかたちをしており、別なすがたかたちをしていないのは、つまり、ヒトが直立歩行したり精神なるものを持ったりする今あるようなヒトであり、犬がワンワン吼えたり四本足で駆けたりする今あるような犬であり、庭に咲いている植物が今あるような花や根や茎をもっており、空は青色であり、海には波がさざめき、DNAはらせんを巻いており、分子や原子から物質ができているのはなぜだろうか。別のすがたかたちではいけなかったのであろうか、一体どうしてこういう≠キがたかたちでなくてはならなかったのだろうか。
ライプニッツにとって、物体の力(今で言うエネルギー)と方向が保存されるといったことなど、この世界がこういう仕組みになっている°極的理由は、世界の外になくてはならなかった。なぜなら世界を設計したのは神だからである。今ここにあるような世界を神が創造する以前には、「可能的世界」―もしかしたらあったかもしれない世界―と呼ばれる世界がたくさんあった。神の頭のなか♀キ言すれば、神のもつ観念のなかには、無数の「可能な宇宙」があるからである。だが、現実にはたった一つの宇宙しか存在できないため、神は無数の可能的宇宙のなかから一つを選択したわけである。
宇宙が現実に存在することができるためには、宇宙をつくっている要素のなかに矛盾があってはならない。いいかえれば調和≠オていなければならない。下向きに重力がかかっているのに上に向かって落ちたり、羽がないのに空を飛んだり、燃やしたのに凍ってしまったりするようなものが存在してはならないわけである。
可能な世界から現実の世界へ移行するために、神は、最も単純な仮定によって最も豊かな現象を生み出すような世界を選択した。元になる仮定が単純であればあるほど、世界がより豊かに現象する。そのような宇宙こそ、このうえなく完全で調和のとれた宇宙なのである。仮に一つの型から多種多様に変容させることで万物が創造されたとしたら、被造物が多様であればあるほどそれらの間の調和はより際立つであろう。もともと一つのものなのだから調和しないはずがないし、しかも相互の違いが相互の類似性を鮮明に現すだろうからである。
ライプニッツの神がこの世≠現実に存在する宇宙として選んだのは、この意味において、他の可能な宇宙よりももっとも完全であり、もっとも優れているからである。まるで経済学の教科書のようであるが、最小の費用で最大の効果があがるように神は世界を創造したといえる。彼の宇宙は、最も簡単な前提で最も豊富な結果をもたらす、最も合理的な宇宙であるといえるだろう。
 
ライプニッツの合理性はマクロな合理性である
ところで、わたしが経済学的思考に触れたときの第一印象は、これではあまりにも世知辛いんじゃないか≠ニいうものであった。経済学に登場するホモ・エコノミクス≠スちは、経済的な法則に則って合理的に″s動する、言い換えれば、最小の労力で最大の利益を得ようとする人間である。といえば聞こえがいいが、要するに、どんなときでも算盤尽で、打算的であり、何事にも抜け目がなく、渡る世間は鬼ばかり≠ニ考えている人である。もちろんわたし自身、人並み以上に世知辛く、きわめて小賢しい奴であることは自分自身でよく知っている。それでも、自分のことは棚にあげることになるが、一体それほど合理的なのか?≠ニいう疑念は禁じえなかった。
今将棋盤をこの世界に、将棋の駒をそこで生活する一般の人々に例えれば、完全情報≠持って合理的に行動する経済人とは、あたかも神がこの世をはるかな上方から鳥瞰するように、将棋盤という世界を上方から眺める棋士のようである。棋士は盤面のすべての情報を考慮して行動するからである。ここから、理性的に判断したり、行動したりするということが、神のように判断し、行動することであることがわかる。実際には、わたしたちは限定された場所から世界を眺める香車や飛車や歩や金将に過ぎない。
わたしはライプニッツの神観念に対して、世知辛い≠ニは感じない。おそらく同じ合理的思考でも、経済的領域に関るときには、個人の生活心情というか生活の理念が感情的反発を生み出すのではないだろうか。なぜなら経済活動とは、生活の別名だからである。生活とは経済的領域もまたその一部として含んでしまう無限な全体であり、したがって、生活人としての人間は不″理的思考や行動を含むあらゆる可能性を持って活動し、したがって、人間は経済活動を行なっているとき、必ずしも経済人≠ニして振舞っているとは限らないからである。ライプニッツの宇宙とは、生活が合理的な経済空間を含むように、不合理性を持つ生活空間をその一部とするような、マクロな合理性をもつものであるのかもしれない。
 
宇宙は予定調和している
神の合理的な選択に基づく現実の宇宙は、その中に含まれる要素ができるかぎり矛盾しないように、つまりそれぞれの要素が互いに対応し調和するように決定されている。つまり宇宙は予め£イ和しているといえる。ライプニッツは、この「予定調和」(harmonie préétablie)の思想を時計の比喩で説明している。
確実に目を覚ますために複数の目覚し時計を使う人は少なくないだろう。意図して時間をずらさない限り、複数の時計は同じ時間を刻むはずである。時計の指針は互いに一致した動きをするはずである。なぜこれらの時計は厳密に同じ動きをし、同じ時間を刻むのであろうか。時計同士が調節しあっているということは考えられないし、ずれるたびに時計屋さんが修理するようでは役目を果たさないだろう。最も妥当な答えは、複数の時計が完全に合致し、同じ時間を刻むように、予め¢Sく同じ仕組みや構造を持った時計を製造したと考えることである。
すべてのモナドは、それぞれ固有の視点から―くだいて言えば自分勝手に―、過去・現在・未来のすべてに渡る宇宙に生起するすべてを表出している。たとえば、メルカトル図法は、地球表面の位置関係や起伏の有り様などを一定の方式によって投影し、巨大な地球を任意の大きさの平面に変容させる。この投影図における東京とニューヨークとの距離や方向が、地球における実際の東京とニューヨークの距離や方向と、一定の規則的関係のもとに対応していれば、メルカトル図は地球全体を表出しているといえる。このときこの地図と実際の地球はある規則的関係をもって対応している。
また、メルカトル図法とモルワイデ図法のように異なる投影法―視点―によって表現された地図は、互いに対応し、一致するはずである。方法はことなるとはいえ、同じ地球の投影図であるからであり、予め人間がそうなるように投影法をデザインしたからである。二つの図法がどのような規則で対応しているかが分かれば、メルカトル図をモルワイデ図に、反対に後者から前者に変容させることができるだろう。
貨幣というモナド()は、宇宙を商品世界として表出する。ワルラスの一般均衡理論によれば、ある商品の需要が供給を£エ過し、その商品の価格上昇を引き起こせば、それに対応して別の商品の供給が需要を£エ過し、その商品の価格低下を引き起こす。一つの商品の需要の超過(プラスの超過需要)が、別の商品の需要の過小(マイナスの超過需要)と対応する以上、商品世界に無数にある諸商品の超過需要は合計すると必ずゼロになるはずである。商品世界の商品モナドたちは、超過需要や価格という観点から見ると必ず調和していることになる。
異なる投影法を用いた図法や商品世界の諸商品が対応するように、それぞれのモナドの表象が互いに対応したり、一致したりするとするなら、それは同一の宇宙を表象しているからであり、また、同じ原初的観念のアルファベットを与えられ、それを用いて表象するからでもある。そしてモナドが宇宙を表出できるのは、地球と投影図がそうであるように、モナドと宇宙にある対応関係が成り立っているからである。つまりモナドのなかの原初的観念が、あらかじめ全宇宙を潜在的に含んでいるからである。
 
「一つの物が他の物を表出するといふのは、一方に就いて云へることと他方に就いて云へることとの間に、恒久的法則的関係が存するといふことである。例へば遠近法的投影図はその実測図を表出してゐる。表出はあらゆる形相に共通であつて、自然的表象や動物的知覚や悟性的認識等を種として包括する一つの類である。」(「ライプニツよりアルノーへ」一六八七年、河野与一訳)
 
ある人が書いたものや喋ったことやったことや造った物の間に、それらすべてに共通するその人らしさ≠ェ垣間見られるとしたら、それらの言動や製作物は相互に何らかのつながり≠持っているはずである。そして、それはすべてが同一人物の心と身体によってなされた行為であるということに由来している。時計や投影図のような同じカテゴリー・系列に属するものの間に、対応や一致が成り立つように、書き言葉と話し言葉、身振りなどのような異なるカテゴリー・系列に属するものの間にも、対応や一致が成り立つ。
心と身体という相異なる二系列に関しても同様のことがいえる。リンゴが赤くみえるとき、網膜に映じた光としての赤と、精神によって認識された赤という現象が対応しているわけである。腕に針を刺したときに人間は痛みを表出する。このとき針が刺さったという身体の状態と痛みという表出は対応している。胃の調子が悪ければ吐き気を催し、疲労困憊すれば何もする気がなくなったりする。心と身体は、あたかも全単射のように、すべての要素が一対一に対応≠オている。そしてこの両者を橋渡ししているのは、ライプニッツによれば、心身の創造主である神である。
アリストテレスにとって身体と心は一心同体であり、質料としての身体が持っている形相としての能力が心であった。ライプニッツにおいても、身体と完全に切り離されたモナドは存在しえない。神を中間項として身体と心の間には「恒久的法則的関係」という調和が存在している。言いかえれば、身体とは物質という視点からみた宇宙の表出であり、心とは観念という視点からからみた同じ宇宙の表出である。
洗礼を受けたエンテレケイアであるモナドは、同一の神が生産したものであり、同一の法則≠ノしたがっている。だから、モナドの表象や表出は相互に調和≠キなわち対応≠キるのである。それは、複数の時計の指針が一致するのと同様であり、また、ある日ある場所で会う約束をしておけば、そのルール≠ノ従おうとする限り実際に会うことができるのと同じである。
 
モナドは神を通して互いに作用する
先に、宇宙のすべてはつながっており、互いに作用し合っていると記した。モナドとしてのわたしたち人間も、アルファベット≠フような共通の言語を手段にして、互いに意志疎通を行なっている。このときわたしたちは意志を伝達しようとする相手に直接≠ヘたらきかけ、あるいははたらきかけられている。そう見なしている。
だが、ライプニッツは、「モナドには窓がない」、すなわち、モナドには、外部から他のものが入ってくることはないといっている。するとモナドとモナドとの間は断絶しており、お互い作用することはないことになってしまう。だがそうではない。「窓がない」といってもモナド同士が直接″用することはないということを言っているにすぎず、モナド相互が全く没交渉であるということではない。ちょうど、あらゆる商品が直接′換されず、貨幣という単一の手段によってのみ交換されるように、モナド相互の関係は神によってのみ媒介される。神を仲立ちにしてのみ、モナドとモナドは作用し合う。
ある生命体のモナドがリンゴを赤く′ゥる能力を持っているとしたら、それは、あらゆるモナドを生みだす「神」が、リンゴの持つ性質である赤色≠ニ人間に見える赤という現象≠ェ対応するように按配したからである。するとその生命体は、互いに直接作用することはなくとも、同じ物を同じ様に見るように―リンゴが赤く見えるように―神に創造されることによって、互いに同一の世界を経験したり、世界に対して同じ様に反応したりできるわけである。
だから、それぞれのモナドの表象する世界が互いに調和したり一致したりするのだし、一致している部分や調和している部分を抽出することによって同種のモナドに対し一定のかたちをもった共通の世界=\これはしばしば実在≠ニよばれる―が開けるのである。この意味で、人間が自分の意志を相手に伝達するということは、言葉という神を媒介にして間接的にはたらきかけることであるといえるし、あるいは、言葉によってできた万人に共通の世界を創造し、そこに参加することであるともいえる。
 
ライプニッツは物質的原理だけで宇宙を説明しない
アリストテレスは運動の原因を、質料因・形相因・動力因・目的因の四つに求めた。家≠フ例えを用いれば、質料因とは建築材料であり、形相因とは家の形であり、動力因とは家を建てる大工さんの手や道具であり、目的因とは居住するという目的である。
この分類を、ライプニッツの考えに対応させれば、質料とは物体・物質であり、形相とはモナド(あるいはエンテレケイア)であり、動力因とは物理的・物質的原因のことであり、目的因とは神的≠るいは意志的′エ因ともいうべきものである。つまり、それが目指しているものであり、何のために?≠ニいう問いの答えになっているものである。
ライプニッツは、唯物的に、あるいは、物質的側面によってのみ現象を説明するのはまちがいであると考えていた。たとえば光の屈折現象に関して、フェルマーが正しかったのは、単に物質的な原因である動力因だけを考えるのではなく目的因をも考慮に入れたからであると考えたのである。光の場合、目的因とは光が、最短時間で到達できる経路を進もうとすることである。つまり光がある目的の実現を目指して進行すると仮定することである。この仮定によってフェルマーは、光学の基礎原理である有名なフェルマーの原理を導出した。
ライプニッツにとって、目的因とは、非唯物的な原因であり、物理法則に還元できない理由であった。目的因とは自然の意図のようなものであり、動物でいえば欲求、人間でいえば意志に相当する。光が目的地点に辿り着くのに時間の一番短い経路を無数の選択肢から選ぼうとする意志≠竍意図≠るいは欲求≠もっていると考えるわけである。
動力因と目的因のような質的に対極している二つのものの対比、物質的なもの≠ニ観念的なもの≠ニいう双極的概念は、さまざまな対語となって、ライプニッツの著述の至るところに現われている。
形相と質料、精神と物質、可能的世界と現実的世界、一般的秩序と下位の準則、普遍的法則と自然法則、一般的意志と特殊的意志、神の作用と被造物の作用、本質・観念と本性(自然)・能力、無限と有限、叡知的存在と事物(もの)的存在、能動的力と受動的力、思考の真理と事実の真理、必然的真理と偶然的真理、単一体と複合体、自然の物理的世界と恩寵の倫理的世界、幾何学と形而上学、モナドと物体…。
この世の原理が偶然的真理と呼ばれるのは、神が今あるような世界を選択したのは、たとえそれが最小の費用で最大の効果を上げるものだとしても、偶然¢Iばれたにすぎないからであろう。一方、必然的真理とは、この世界が存在すると否とに拘らず妥当する真理、神が今あるような世界を選択するときに働かせた悟性のことである。言い換えると、神に頭脳があるかどうかしらないが、必然的真理とは神の頭の働き≠フことであると考えられる。
しかし、動力因と目的因といい、形相と質料といい、精神と物質といい、お互いに断絶しているわけではないことは先に見たとおりである。一見対立しているこれらの双極的概念も実は調和を保っているのは、神を通して影響しあっているからである。
クラーゲスにおいて、生命的リズム現象は精神のはたらきかけに鼓舞されることで認識可能になったり、精神のリズム現象にたいするはたらきかけは精神と生命の融合可能性を与えたりというように、精神と生命は相互に密接に関連していた。プラスとマイナス、上と下、心と身体、内側と外側のような双極的概念とは、不即不離の密接なつながりを持っているものであり、コインの表と裏のような同一の存在の相反する性質を意味している。
 
宇宙は微分可能である
こうして、神の閃光によって生産された無数のモナドは、複数の物体を統合し、かたちを与えるエンテレケイアとしてはたらく。こうして物体は身体となり、モナドはエンテレケイアとなって、複合体としての生命体を構成する。モナドは、観念や概念というアルファベット≠表出の道具として与えられており、また、宇宙に偏在しているあらゆる物体は連続しているため、生命体は、あらゆる物体とつながっている身体をこの道具で表出することによって、過去・現在・未来に渡る宇宙のすべての出来事を表出することができる。
さて、顕微鏡を自作し、原生動物や細菌や藻類など微生物の世界や、ヒトの精子を発見したレーウェンフックは、ライプニッツと同時代を生きた人物であった。ライプニッツはレーウェンフックの発見によって肉眼では有限としか思えなかった自然の世界が無限の広がりを持っていることを知った。自然のどんな一部も無限小≠フミクロコスモスを持っており、生命に満ち溢れていることを知ったのである。宇宙とは微分♂ツ能なものであることを知ったのである。
 
「物質のどの部分も、草木のおい茂った庭園か、魚のいっぱい泳いでいる池のようなものではあるまいか。しかも、その植物の一本の枝、その動物の一個の肢体、そこに流れている液体の、一滴のしたたりが、これまたおなじような庭であり、池なのである。」(ライプニッツ「モナドロジー」清水富雄・竹田篤司訳)
 
「だから宇宙には、荒廃のたたずまいも、不毛のしるしも、死の影もまったくない。混沌も混乱もない。そう見えるのは、うわべだけである。いくらか離れて眺めると、池の魚を一匹一匹見わけることができなくて、魚のむれのうようよした動きだけ、要するにそのうようよだけが、目に映るようなものであろう。」(同上)
 
常識的には動物に限らず生命体が死ねば単なる物体になるのだが、身体のどんな微小な部分にもモナドあるいはエンテレケイアがあると考えるライプニッツにとって、多種多様なパーツが統一されてできていた一つの身体は、分解されると微生物のような極小の生命体群に変容するにちがいなかった。再び動物が発生するときは、微小な生命体が集合し、モナドがその集合体にかたちを与えるのである。
生命体を構成する材料である身体は、一定の期間を過ぎればミクロコスモスに還ってしまう。このとき起るのはその生命体にとっては死であるが、身体が微小な物体に還元されてしまっても、それらの微小な部分は生命体であり続けるわけである。
すると、ある生命体にとって、死とは非生命体になることではなく、無数の極小な生命体に変容するための契機である、という見方が可能になる。生命体とは、そのなかに含まれる無限のより小さな生命体の統合体である。より小さなモナド群をより大きなモナドが統合する、エッシャーの「魚とうろこ」のような、入れ子構造をもっているのである。
 
「そのようなところから、どの生物の体にも、おのおのそれを支配するエンテレケイアがあり、動物の場合、それは魂であることがわかる。しかし同時に、その体のどの部分にも、他の生物、植物、動物がみちていて、そのおのおのが、またそれを支配するエンテレケイア、ないしは魂をもっていることもわかる。」(ライプニッツ「モナドロジー」清水富雄・竹田篤司訳)
 
発生とは増大であり、死滅とは減少である
動物は、栄養をからだに取り入れ排泄したり、酸素を吸い込み二酸化炭素を吐き出したりしながら自分のからだを維持している。体内に入った栄養や吸気はからだをつくり、体内から出て行った廃物や呼気は自然へ還る。一個の個体はたえず物体を出し入れしながらからだを変化させている。
生命体は、身体のあらゆる部分に、無数の微小なフラグメントに分かれた生命群を宿しながら、たえず変貌している川の流れのようである。動物やヒトなどの、より上位のモナドは、流れの外から物体―実は微小な生命体―を取り入れて積分≠オ、持ち場と役割を与えることによって身体を創る。と同時に、自分の身体を微小な断片に微分≠オ、個体や気体として流れの外に取り出す。
一つの個体が一本の川の流れであるなら、流れがどこまでも細くなってしまったり、網の目のように無数の支流に分岐してしまったりすることが、死に相当するであろう。逆に、無数の細流がひとつにまとまってある規模とかたちをもった流れになるときが、生―発生―に相当するであろう。また、一つの種が一本の流れであるなら、この流れが、直線性の流路をもつ激流から、蛇行する激流にかたちを変容させたとき、新たな種に分化したことになるのだろう。
生命体とは、ロシアのマトリョーシカのように、次から次へともっと小さなものが中からでてくる自己相似形をもったフラクタルになっている。一本の生命体の流れが、太くなろうが、細くなろうが、蛇行しようが、干上がろうが、モナドはその規模や形態にかかわらず常に物体とともに生命体でありつづけている。魂≠竦ク神が肉体を離れて中有を彷徨った後、別の肉体に輪廻転生するなどということはライプニッツにとって不合理なことなのである。
生命はあくまでも連続の相の下にあり、したがって、発生―生―とは「外へひろがること」あるいは「増大」であり、死滅―死―とは「内へすぼまること」あるいは「減少」である。一個の生命体は、減少することによって微小の生命体に分散し、再び集合することによってより大きな生命体に増大する。
 
宇宙はモナドのアンサンブルである
新生がないということは、生命の流れに切れ目≠ェないということであるから、発生とは以前からあるものの更新≠ナある。外へ向かう生は、その対極にある内へ向かう死によって否定されながら、繰り返し現われる。一旦、内へ向かって減少した生命体は、今度は向きを反転させ、外へ増大し、以前の類似者≠ニして再生する。生と死とは、内外≠ノ増減を繰り返しながら脈動するリズムを意味するといえるだろう。
無限小に微分された生命体は、再び増大することで上位の生命体をつくりあげる。この生命体にかたちをあたえる上位のモナドは、上位生命体を構成する下位のモナドを指揮することによって、下位のモナドの表出をまとめあげ、一つの方向性をもった表出を行なう。この意味で、一個の生命体とは、身体を楽器とする一個のオーケストラであり、そのモナドは、自身を構成する複数のモナドを演奏者として、ひとつのアンサンブルを表出する指揮者である。
これらのモナドは、あつまって、一つの全体性をもつ宇宙をつくっている。あるモナドの能動的な動きがもう一つのモナドの受動的な動きに対応したり、複数のモナドが同一の客観的な事物を表出したり、モナドとモナドが相互に一致した表出をおこなえるのは、神という指揮者がいるからである。モナドを演奏者とする宇宙というオーケストラは、神を指揮者として、リズム現象というアンサンブルを奏でている。そして宇宙を構成するモナドも、それ自身、複数のモナドから構成される一個のオーケストラであり、さらに、構成要素である個々のモナドもまた、それ自身、複数のモナドから構成される一個のオーケストラであり、この過程は無限に繰り返すことができる。無数のモナドは重層的に折り重なって、一つの方向性をもつアンサンブルを表出しているといえるだろう。
 
 
第三節 原型はメタモルフォーゼする
かたちは変容せざるをえない
クラウジウスが物質変化の不可逆性をエントロピーと名づけたのは一八六五年であった。だから、世界や生物がなぜ今あるようなすがたかたちをしているのかをエンテレケイアやモナドという言葉でライプニッツが解析したとき、自然を無秩序に向かわせるとするこの概念を当然彼は知らなかった。
だが、およそかたち≠ノついて考えるということは、永遠普遍のかたちなどない以上、変化≠ノついて考えるということを含んでいる。変化するとは、あるかたちが、ある経過を経てそのかたちになり、そして別の経過を経てそのかたちを失うということである。すると、変化について考えるということは、かたちの生―発生―と、その死―崩壊―について考えるということになる。かたちの発生と死に理由があるとすれば、かたちは何らかの力によってそのかたちをとり、何らかの力によって死に至らしめられてしまう、ということになる。
ライプニッツは、生命は全く新たに生まれることも完全に消滅してしまうこともないと考えた。ただ増大と縮小≠繰り返しながら、そのかたちを変えるだけであると考えたのである。モナドという根源的力は、たえず物質を総合して一定のかたちを持った生命たらしめる。自らをとりまく外界に対し、モナドは内側からはたらきかけ、外界のはたらきかけに応答し、自己を表出する。表出することは、外側からの作用に内側からの作用で対応することであるから、物体的実体であれば、その形態を維持することであるし、動物であれば、さらに魂を維持することであるし、人間であれば、その上さらに精神を維持することである。
 
モナドの主従関係は根本現象に辿り着く
優れた自然研究者でもあった文豪ゲーテは、ライプニッツのモナドに階層的秩序があると考えた。たとえば彼は、手のモナドはそれを統括する「主モナド」に仕えており、手のモナドは手がからだから離れないようたえず働いている。手によるピアノ演奏は手にとってはただ疲労するだけであるが、それを動かして音楽を奏でる主モナドにとっては喜びであるだろうといっている。モナドに従属関係があるというわけである。
このモナドの従属関係を主人の側にたどって行くと、そこからあらゆる現象が流れ出す自然界の原点、自然現象の中心とでもいうべきものにたどりつく。ゲーテはこの自然界の原点を「根本現象」(Urphänomen)と名づけた。
モナドが、一≠ナありながら全宇宙を表出する多≠ナあるように、根本現象という一≠ヘ、外界の多様な状況に応じて変化し、多様な経験的現象として現われることによって多≠ナある。反対に、永遠の戯れである経験的現象は根本現象の反映であるといえる。自然とは、一と多、普遍と特殊のような重層性を持っているのである。
根本現象は、経験的現象の背後に隠されているようなものではない。根本現象とは、死んだ蝶の標本でなく、今ここにたゆたう蝶であって、経験とともにあるものである。すぐれた建築家が家を見るとき、眼に映っている家と同時に≠サの骨組みを見透かすように、またすぐれた音楽家が曲を聴くとき、耳に入る楽音だけでなくその音楽的構造を同時に聞くように、経験的現象はつねに根本現象を同時に顕にしている。複雑多様な自然現象から抽象された幾何学的な図形ではなく、決定論的であっても予測が不可能なカオスのように、絶えず多様に変容しながら自己を表現する、単純で普遍的な生き生きとしたかたちである。
経験的な自然は根本現象の表現である。根本現象は外界の条件によってさまざまな貌を見せる。現象としての自然にとっては、その現象の原因≠ナなく、どのような条件≠ノおいてそのような現象が生じるかが問題である。つまり、因果関係ではなく相互関係が問題である。ゲーテにとっての自然の学とは、因果関係の抽象化によって頭の中にうつされた静態的世界を考察する抽象の科学ではなく、自然のすがたをありのままに捉えようとする具体の科学でなくてはならない。根本現象は経験から分離することはできない。法則や理念は現象の背後にあるのでなく、現象そのものが知られるべき法則なのである。
 
ゲーテは直観によって自然の秘密を明かす
ゲーテには頭で考えること、いわゆる思考というものが頼りないものに思えた。理性的で真正な思考を、あらゆる感情や偏見から自由に、絶え間なく行使するには神がかり的な意志力が必要であることを知っていたからである。つまり、主観のもつ恣意性が自然の真実を捻じ曲げてしまうことをおそれていたのである。主観の捉えるものが身体が受け止めるものよりしばしば範囲が狭くなってしまうことを彼は知っていた。
そこで、自然の秘密を掴み取る方法として採用されたのは、党派的になりがちな主観や思考などではなく、感情も思考もすべて含まれるような身体的能力である「直観」(Anschauung)であった。頭による理性的な分析だけではなく、身体的なはたらきかけをも含む直観的な総合によって自然の秘密は開示される、そうゲーテは考えた。
わたしたちが動植物を判別するとき、花弁がいくつであるとか、茎の長さがどうとか、脊椎があるとか、手足をもつとか、肺で呼吸するとかということを一々考慮してこれは何々であるなどとはしないであろう。つまり、植物と動物、昆虫と人間、アメーバと岩石、などの区別は思考に依らなくとも直観的に分かってしまう。また、犬を見るとき、ポチやコロを見るのであって、犬そのものを見るのではない。しかしポチやコロの犬らしさ≠ヘ、ポチやコロを見ているとき同時に見えている。そうでなければそれが犬であると認識できないことになってしまう。あらゆる種類の犬のすがたかたちを包含するらしさ≠ニしての根本現象は、このように直接経験できないが、直観によってしか捉えられない。
直観とは見ることを、眼前にある対象に常に即しながら見ることを契機としている。ある対象が何であるかは見ることによって分かるのである。それでも分からなかったら、さらによく見ることによって分かるはずである。『色彩論』の序でいっているように、熟視は観察に、観察は思考に、思考は統合に移行するのである。現象自体が学説であり、世界を注意深く見ることはそれだけですでに理論化することなのである。
精神による自然理解が、分析すること、つまり自然に切れ目を入れることであるとすれば、直観による自然理解は、自然をありのままに受け取ることである。すると、人間と他の自然をも切り分けず、連続する一つの存在として受け取ることになるわけだから、直観による自然認識は人間自身の認識をも意味することになる。自然を知ることは、自分を知ることなのである。
こうして対象から離れずに注視しつづけるとき、最後に直観されるのは、主客の融合の境位にあるもの、見るものと見られるものとの垣根が取り払われるときにたち現われるもの、自然即人間、人間即自然であるようなデモーニッシュなものである。根本現象に浸ることは最上の幸福をもたらすが、同時に、不安や畏れ、慄きの真っ只中に陥れる。ゲーテによれば、この悍しくかつ聖なる体験は、言語による説明や解析の可能性を超越しており、したがって、根本現象を前にしたわたしたちに残されているのは、ただ沈黙して自然の神髄を享受することだけである。
 
あらゆる植物は原植物からつくられている
根本現象からあらゆる経験的現象が生産される、という方法論が、さまざまな有機体、特に動植物に適用されることによって、創造されたのが、「原型」(Urtypus,Urbild)という概念であった。原型とは、有機体の構造の同一性であり、あらゆる動物、あらゆる植物のなかに透かし見える典型的なすがたかたち、らしさ≠竍おもかげ≠フようなものである。
 「植物が私を追いかけてくる」とまで言わしめるほどに、かねてから植物研究に熱を入れていたゲーテは、有名な『イタリア紀行』の最中、はじめて接する南国の草木を微に入り細をうがって眺めているうちにある霊感に打たれた。かねてから胸に抱いていたある想念、「原植物」(Urpflanze)という想念に対する確信が決定的なものとなったのである。
むしろ、植物という無限の奥行きと間口を持つ世界が、ただ見入るばかりで全く頭など働かせていないゲーテの体内に入り込んで、一つのシンプルで不可思議でデモーニッシュな像を投影したというべきか。珍しいさまざまな植物たちがある一つの秘密を持っていることをついに打ち明けてくれたのである。この秘密は彼の魂のなかであるかたちをとって現われた。こうして彼はこれらの考えうる限りで最も多様な草木たちのなかに、考えうる限りで最も単純な一つのかたちを見て≠ニることができたのである。 
天然自然と触れ合うことの少ない現代人でも、花屋や植物園に行けばいかに草木がみずからの多彩ぶりを誇らしく見せつけているかはたやすく理解される。これほど多様な色や形、大きさ、諸器官の組合せ―いいかれば形態―があることをしりながら、なおゲーテは植物には、すべてに共通する、あるひとつの原型があるというのである。
たしかにそれは単純なものなのである。薔薇やチューリップなど溢れるほどの多様性を持つ植物たちを私たちは、昆虫や他の動物などと思わずに、目の前に佇むそれらについて何か考える前からまちがいなく植物であると直観する。どうしてであろうか。あらゆる植物は、ある一つの単純な「お手本」からつくりあげられているからにほかならない。
さまざまな植物と触れ合ううちに、個々の植物を超えた植物というもの≠ェ見えてくる。いつしかすべての植物に共通する一つの「普遍的形象」がわたしたちの身体に染み入ってくるのである。こうして、そこからあらゆる属もあらゆる種も導かれてくるような一つのお手本が直観されてくる。ゲーテにはそう思われた。
あらゆる植物種は、このお手本としての原植物から導出される。すなわち、地上に繚乱しているあらゆる植物は、「超感覚的な原植物の感覚的な形」(ゲーテ「著者は自らの植物研究の由来を伝える」野村一郎訳)であり、原植物がメタモルフォーゼすることで植物種の多様性が生まれると考えたのである。この意味で、植物の原型とは植物の一般的等価形態≠ナあるといえるだろう。一般的等価形態とは、自分以外のすべての商品が自分のヴァリエーションであるような価値のかたちをさしているからである。
 
原型とメタモルフォーゼは二重性をもっている
原型という内からの作用と、環境という外からの作用の相互作用によって、原型が多様にメタモルフォーゼし、あらゆるかたちが現われる。植物に限らず、あらゆる有機体は、さまざまな外的状況に適応することによって生まれた、原型のメタモルフォーゼであり、原型の具体的表現である。かたちは、内と外から、そして原型とメタモルフォーゼによってつくられるのである。生き物たちは、そうしてできた個々のかたち≠ノよって外界に溶け込み、自分らしいくらしを営むのである。いいかれば、原型概念およびそこから派生する形態概念には、生物の生き方である生態≠ニ、個体の構造≠フ双方が組み合わされている。
くだいていえば、誰某のあの表情はいつもとちがう≠ニいう場合のいつもの表情=Aあのふるまいは誰某らしくない≠ニいう場合のらしいふるまい=A根原のかたち≠ニしての原型とはこのようなものといえるだろう。考えてみればわかるようにどんな動物のいつもの表情≠焉Aらしいふるまい≠煖体的に記述したり説明したりすることは不可能である。生きているかぎり、表情もふるまいも変わりつづけているからである。ただ印象の積み重ねがつくりあげたイメージやおもかげ≠ニして知られるにすぎない。原型とはこのようなものである。
だが、原型は、単にあらゆる有機体を横に貫くだけでなく、個々の個体を縦に貫くという、二重の意味が込められている。つまり、原型には二種類ある。動物や植物のあらゆる種に共通する姿形という意味での原型、そして、個体のからだのあらゆる部分に共通する「同一器官」としての原型である。
すなわち、前者の原型とは、あらゆる植物種がそこから生み出される原植物のことであり、後者の原型とは、ある植物種の個体をつくりあげているすべての部分(器官)を貫く「根源的同一性」のことである。ドイツに帰ってから急いで書き上げた「植物変容論」では、同一器官が、自らのもつ収縮と拡張≠ニいう分極した力によって、植物のからだをつくりあげる様子を論じている。
すなわち、子葉という同一器官が拡張≠オて茎葉を出し、それが収縮≠キることによって萼へと変容―メタモルフォーゼ―し、ふたたび拡張≠オて花弁となり、雌蕊・雄蕊の生殖器官の結実によって収縮≠オ、最後に果実となって拡張≠キることでその一生を終える様を一年生草本においてつぶさに見て取った。これは植物全体においてだけでなく、植物個体においても、原型とメタモルフォーゼがその体制を築いていることを示している。
したがって、原型に二重性があるように、メタモルフォーゼにも二重性があることになる。子葉という同一器官が、茎葉、咢、花弁、花蕊、果実へと、時間の経過にしたがって変化するようなメタモルフォーゼを、「連続的(sukzessiv)メタモルフォーゼ」とよぶ。また、ゲーテは動物の骨格はすべて椎骨を原型としていると考えたが、骨格を構成するそれぞれの椎骨が、頭蓋になるか、頸椎になるか、尾骨になるかなどの役割は、生殖のときから決定されている。つまり、頭蓋になる予定の椎骨が尾骨になったりするということはない。
つまり、それぞれの椎骨の役割は維持したまま、鳥や魚や四足動物や人間などの種によって骨格の形態が変化するようなメタモルフォーゼを、「同時的(gleichzeitig)メタモルフォーゼ」とよぶ。四足動物の上肢と鳥の翼のような、見た目が異なる異種の器官が発生史的、個体体制的に類似していることを相同というが、同時的メタモルフォーゼというのは、この相同器官をつくるような作用を指している。
 
形態学は、すべては原型の変容であると考える
原型とは変幻自在にみずからをメタモルフォーゼすることのできるプロテウスなのである。ゲーテにとって、原型とメタモルフォーゼというかたちの思想≠ヘ森羅万象に当てはめることが可能なものだった。なぜなら、形態をつくろうとする意欲と権利はあらゆる物質がもっており、そして、自然はこの「本質的な形」と戯れながら自分自身を多様性の方へ向かって生産しているからである。
だから、動物においても、超感覚的な原型が、すべての動物のすがたかたち≠ェそのなかに包摂できるような形―「根原のかたち」―とされた。さらに、あらゆるものは形を持つのだから、有機物に限らず、岩石や光―色彩―のような無機物にもこの思想は拡張される。こうして、すべてが原型の変容であるとする学問を彼は「形態学」(Morphologie)と名付けた。
 
「全有機体制の根底には、根源的な内的共通性とでもいうべきものがある。これに対して形態の差異は、外界に対する必然的関係の差異に由来している。だから不変であるとともに、たがいに相違したものになってゆく現象を理解するために、根源的な同時的差異やたえまなく進展してゆく変形というものを仮定することは正しいことである。」(ゲーテ「齧歯類の骨格」高橋義人訳)。
 
動物学に関しては、すでにゲーテは顕著な功績を残していた。それまでヒトの上顎には顎間骨(切歯骨)がないことがサルとの違いであると信じられていた通念を、胎児にそれを発見することで打ち破ったのである(胎児期に上顎骨と顎間骨が完全に癒合してしまうためそれまで見分けがつかなかった)
原型概念は、彼の動物学研究をさらに押し進めた。二回目のイタリア旅行の最中、ヴェネツィアの砂浜で拾った、打ち砕かれた羊の頭蓋から、頭蓋が椎骨から変型して出来たものであるとする頭蓋椎骨説を唱えたこと(この説は後にT.H.ハクスリーによって否定された)。動物の外的構造は基本的に、頭部、中間部、後部の三つに区分され、この三つの部分が、それぞれ独自の機能を果たし、しかも相互に結びつきながら高度に統合された有機体を形成していること。頭蓋が六つの椎骨から成り立っていること。また、齧歯類の骨格について。さらには動物哲学にまで及んだ。原型とは普遍的な理念であり、しかも見える理念≠ナあった。
ニュートンは物質としての光がどのような性質をもち運動法則をもっているかを探求した。だがゲーテにとっては、現象としての色彩が、いいかえれば、人間の感覚に開示される光の現われとしての色彩が重要なのであった。彼にとって色彩とは「光の表情」であり、「色彩環」に表されるような一つの全体性を持っている。色彩の原型としての色彩環が現実の状況によって変化することであらゆる色彩が表現される。人間と無関係に振舞う物質としての光の因果律ではなく、人間と光との織り成す綾としての色彩がいかにして@ァち現われるかが問われているのである。だから「光学」でなく「色彩論」というのである。つまり、人間に対して光がどのように現象するのかを問う、色彩の現象学が重要であると彼はいいたいのである。
 
原型の変容はエレメントによって制約される
こういった原型は、他の条件から全く自由に自己をメタモルフォーゼさせるというわけではないのはもちろんである。骨格における椎骨の役割分担はあらかじめ決まっていたことから分かるように、まず原型そのものが一個の制約条件になっていることはいうまでもない。原植物が動物になることはない。生命体は、地球から生み出されたものであり、よく言われるように地球は生命の海の母である。どんなに生命体が原型に導かれながら限りないほどの多様性を生産しているように見えても、それは原型という枷と、外界という枷の範囲内でのことである。
 
「魚は水のために存在するというよりも、魚は水のなかで水によって存在するといったほうが、ずっと含蓄が深いように思われる。…魚と呼ばれる生物の存在は、水と呼ばれるエレメントの制約の下においてのみ考えられるのであって、そこでこそ単に存在(ザイン)するのみならず、成長(ヴェルデン)することも可能になるということを、もっとずっと明確に表現してくれるからである。つまり内から外へ、外から内へと考察してゆくこの見方こそ、最初にして最後のもっとも普遍的な見方なのである。いわば内的な中核をなす決定的な形態があって、これが決められた外的なエレメントによってさまざまな姿に形成されてゆくわけである。
「自然は水がなければ魚を、空気がなければ鳥を、土がなければその他の動物を生み出すことができず、要するにこれらのエレメントの制約がなければ生物の存在は考えられないのだ
「この見方からすれば、植物界全体は、大海や河川が魚の制約された存在様式にとって必要なのとまったく同じように、昆虫の制約された存在様式にとって必要な海なのである。無数の生物がこの植物の大海のなかで生まれ、育てられてゆくさまがわれわれの眼にとまる。こうして見てゆけば、最後には動物界全体もこれまた巨大なエレメントと映ずるのであって、そこではある種族が他の種族を基盤にして、また他の種族のおかげで――生れているとまではいわなくても――生存しているのである。こうしてわれわれはもはや関係やつながりを使命や目的と見なすこともなくなり、形成する自然があらゆる方面から、またあらゆる方面に向かって自らを表現してゆくさまを、次第に的確に見てとれるようになるであろう。」(ゲーテ「普遍的な比較理論の試み」高橋義人訳)
 
「内的な中核」としての原型は、前提条件としての「外的なエレメント」の海≠フなかで、自分自身という枷と、この海が加える制約が許してくれる範囲で、自由に℃ゥ己を形成する。植物界は土壌や大気や太陽など自然全体を海とし、魚は河川を海とし、草食動物や昆虫は植物界を海とし、肉食動物は他の動物たちを海として、それらの原型を多様にメタモルフォーゼさせ、地球を無数の種で彩るのである。
球体の中心から出る半径があらゆる方向へ向かって進むように、根源的な「形成衝動」(Bildungstrieb)―エンテレケイアやモナドといってもよい―をもつ自然はあらゆる方面へ自己を表現し、また同時にあらゆる方面から制約を加えられる。そして内外からの表現の境界に浮かび上がるかたちは、自然全体に偏在する原型とエレメントの絡み合いであり、闘争であり、調和である。ここでゲーテは、生命の形成に言及しながら、生物学でいう連鎖≠烽チと一般的な言い方になおせば、生命全体の相互関係の世界を同時に語ることになっている。
 
原型は生命形態のアルファベット≠ナある
この原型によって、現在存在するあらゆる植物や動物を比較できるし、また、これまで生物史上に現われたあらゆる植物や動物が、原型を基点として一定の順序で並べることができるであろう。原型は時間軸に沿った比較の規準でありうるし、同時に、空間軸に沿った比較の規準でもありうる。つまり原型は時間的であると同時に空間的である。すなわち普遍的な概念なのである。
ヘーゲル=マルクスの段階概念は、時間的であると同時に空間的であった。たとえばヘーゲルであれば、世界史を構成する四つの契機、すなわち、東洋世界、ギリシャ世界、ローマ世界、ゲルマン世界は、空間的であるとともに時間的概念である。つまり、現在でも地図を開けばこれらの四つの世界は同時に¢カ在しつづけているのだが、しかも、ヘーゲルはこれら四つの順に@史は発展してきた―西洋が一番発展しているかどうかは分からないが―と考えるのである。原型とは生物学における段階概念であり、段階とは社会経済学における原型概念であるといえるだろう。
ゲーテの構想では、原型によって既に存在している生物をその発生順に再構成しうるのみならず、「現実に存在していないかもしれないが、しかし存在しうるものである」(『イタリア紀行』第二次ローマ滞在 1787517日 ナポリ、高橋義人訳)様々な生物体までも考え出すことができるはずである。
化学を少しでも齧ったことがある者なら誰でも、教科書の表紙裏に元素の周期表があるのを見たことがあるだろう。あらゆる物質は原子や分子から出来ており、そのすべての原子や分子の名称や特徴が表形式で示されている。元素が物質のアルファベットであるように、また、原初的観念がモナドのアルファベットであるように、原型とは、生物の、もっといえばあらゆる生命形態のアルファベットなのである。
 
 
 
第三章 ヒトのかたちは生物史とともにできてきた
 
第一節 ヒトは心の目覚めた動物である
脊椎動物は二重の土管のかたちをしている
ゲーテは、原型とメタモルフォーゼによって形態が生み出されるとする形態学の考えによって、植物学をはじめとして、動物学、地質学、色彩論など広範な分野に関し、優れた業績を残した。このことは形態学的方法の、もっと言えばゲーテの自然観の普遍性を例証しているといえるだろう。
解剖学者の三木成夫は、宗族発生(系統発生)の先端に位置するヒトの原型を知るためには、ヒトの辿った生物史を遡り、その先祖である動物のかたちを知らなければならないと考えた。そこで三木は、ゲーテの原型概念を導きの糸として、古生物学・比較解剖学・比較発生学の知見を駆使し、脊椎動物の原型、言いかえれば「根原のかたち」を追い求めた。
こうして、脊椎動物のかたちが、動物器官と植物器官の二重の筒で模式化できることを明らかにしたのである。だが、この二重の筒は、単なる静態的な構造物ではなく、自然全体を飽くことなく貫流し続ける渦流に身を委ねて、上下に律動するメタモルフォーゼの舞いを踊る形態学的モナドなのであった。
ところで、植物や動物に限らずあらゆる生物は、栄養を取り入れることで個体のからだを造る、成長繁茂・成長期の「食の相」(個体保存の位相)と、種を未来につなげるために生殖を行なう、開花結実・生殖期の「性の相」(種族保存の位相)を、天体運行法則に呼応しながらそれぞれ種独自のリズムで繰り返す。この「食と性の位相交替」によって終わりなく続く生命の波≠アそ、無生物と生物を区別する目印であり、生命現象の根原に流れるものである。
そして、この生命のリズムは、ある固有のかたちをもった身体によって担われる。すなわち、食の相には、それにふさわしいからだの構造と機能をもち、性の相にもまた、それにふさわしいからだの構造と機能をもつ。この意味でリズムとかたちは対の関係をなし、互いに相手を不可欠の契機にしている。
では、食と性の位相交替というリズムを刻む動物のからだとはどんな形をもっているのか? 三木は、動物のからだを、腸管が「体壁の鞘」に収まったものと考えた。そこで、古生物学者ローマー卿にならって、脊椎動物の四つんばいになった様子を、二つの土管が内外二重に重なっているすがたかたち≠ニみなしたのである。
生命体は、外界から栄養を取り入れ、それらを同化することでからだをつくり、異化することで老廃物を排出するという代謝過程を、あたかも川の流れのように、天命が尽きるまで無限に繰り返さなければならない。この際、独力で栄養を作り出すことができない動物は、動くことで獲物探し、捕まえなくてはならない。このため、外界からさまざまな情報を入力し、それを神経によって脳に伝え、外界の状況を判断し、その判断を脳から筋肉に命令することによって行動しなければならない。
 
脊椎動物のからだは内臓系と体壁系からなる
そこで、脊椎動物の個体体制が次の三つの部位から構成されると考える。すなわち、外界からからだに向かって栄養や情報を取り入れる受容極、からだに入ってきたものを運搬・伝達する介在部、処理のすんだ栄養や情報をからだから外界に向かって取り出す排出極の三大部位からなる一個の完結した体系であるとする。
脊椎動物のからだをつくる二重の土管のうち、内側の土管(inner tube)は、栄養−生殖≠ニいう生命本来の営み―植物性過程≠ニいわれる―にたずさわる植物性器官≠ナある。植物性器官のなかで、上の三つの部位を相当する器官は、食と性の繰り返されるリズムにしたがってその様相を交替させる。
食の相において、植物性器官は、受容・介在・排出の三部位を、吸収(腸管系)・循環(血管系)・排出(腎管系)という三つの植物性機能≠ノ分担させることによって栄養を行なう。時は巡り、性の相になると性腺が体腔に充満し、食の相における受容・介在・排出の器官構成に革命が起る。すなわち、受精(卵巣)・仲介(精管系)・射精(精巣)という三つの過程と器官によって生殖が行なわれる。受容極では、食の相における腸管が性の相の卵巣に、介在部では血管が精管に、排出極では腎管が精巣に、革≠ワったことはいうまでもない。
植物性器官は、体内に蔵されているため内臓系≠ニ呼ばれる。吸収系と排出系を天秤の両腕とすると、循環系は支点にあたる。お互い対照的な関係である二系列を仲介し、交通させるのが循環系の血管系である。ハーヴェイのいう循環≠ノ相当するであろう。血管の一部が肥大化したものが心臓であるから、内臓系を代表する心臓が天秤の両腕を支えているといえる。
外側の土管(outer tube)は、感覚−運動≠ニいう動物固有の過程―動物性過程=\にたずさわる動物性器官≠ナある。動物性器官は、受容極・介在部・排出極の三大部位を、感覚(外皮系)・伝達(神経系)・運動(筋肉系)という三つの動物性機能≠ノ割り当てることよって、外界の刺激を外皮から感覚し、それを、神経を通じて筋肉へ伝達、そして運動によって全過程が終わる。動物性器官は、内臓系を囲い込むからだの壁をつくるため体壁系≠ニ呼ばれる。伝達系は、感覚系と運動系という天秤の両腕の支点に位置し、感覚を運動にもたらし、また運動を感覚にもたらす。そこで伝達系の中枢である脳が体壁系を代表するのである。
こうして、動物のすがたかたちは、栄養−生殖という生本来の機能を営む内臓系を、感覚−運動という動物固有の機能を営む体壁系≠ェ取り囲み、外界と隔てられることによって出来上がる。具体的には、腸や肝臓、膵臓、胃、脾臓、骨髄、血管、リンパ管、腎臓、心臓、子宮などが内臓系で、皮膚、舌、鼻、耳、目、脊髄、延髄、脳や筋肉などが体壁系である。魚をさばく場合でいえば、臓物が内臓系で、煮炊きする部分が体壁系であると考えればよいだろう。
 
植物は存在することがそのまま生存することである
こうした、動物のかたちに関する考察から逆に、植物のかたちが照射されてくる。三木の巧みな比喩を借りれば、植物とは、二重の筒状をしている動物から、内側の筒である腸管を引き抜いてそれを袖まくりするように引っくり返し、露出した腸に穿たれた無数のくぼみを残らず引っ張り出した形をしている。ここで引っ張り出したくぼみが葉や根に相当している。この葉や根を使って、無機物、水、光、炭酸ガスを外界から採り入れ、それらから栄養を合成し、不要な老廃物を排出するというサイクルを繰り返すことによって植物は生きている。
動物器官を欠き、感覚することも運動することも必要ない植物は、外界との間に何の隔てもない開放系、だから外界―すなわち宇宙―と一体であり、天体運行の法則―宇宙リズム―に共鳴しながら生きている。だから植物は、太陽を心臓とし、天空と大地をめぐる巨大な循環路に組み込まれた毛細管≠ノ譬えられる。植物と自然とは機能的な境界がない。植物は、天然自然というからだの「生物的器官」なのである。このことは天体運行法則のあらわれである、四季の移ろうのに従って春から夏に成長繁茂し、秋から冬にかけて開花結実する一年生草本のくらしぶりをみればすぐにわかる。
植物は、居ながらにして食と性という生物の二大使命を淡々と流れるようなリズムで果たすことができる。したがって、植物においては、〈存在〉することと〈生存〉することが等価なのである。いいかえればそこに〈ある〉こととそこで〈生きている〉ことが同じなのである。〈存在〉することが〈生存〉することであり〈生存〉することが〈存在〉することなのである。
 
動物は存在することが生存することと断絶している
植物は腸管を袖まくりしたかたちをしているのだが、一方動物は、植物を竹筒とすると、それを裏返し―腸管に戻ったことになる―、ついで筋肉・神経で編まれた弾性サポーター≠外側から被せる。これが内臓の筋肉になり内臓管が出来上がる。さらにこの管の外側からより強い筋肉と神経をもった体壁管を被せ、やっと動物の体制が完成する。
植物が外界と連続している開放系であるのに対し、動物は、自分にとっての植物である内臓系を体壁系の中に閉じ込めた閉鎖系である。植物(器官)というミクロコスモスは、動物においては体壁の殻に隔てられている。光合成という自力で生きる術を失った動物は、いきおい体壁系という手足を使って動≠ュことで内臓系を目標まで運ばざるをえない。そうしてはじめて食と性という生本来の使命を果たすことができる。その意味で体壁系は駆動系でもある。
だから動物は、植物同様地球公転のリズムに呼応するが、サケの回游や雁の渡りなどに見られるように、食の場と性の場を交互に往還することによって内臓のもつリズムを表現する。内臓系は、宇宙リズムに呼応して食の相と性の相を往還するのである。これを「内臓波動」という。内臓系はマクロコスモスと共振するミクロコスモスなのである。
動物とは胃袋と生殖器(植物器官)に目と手足(動物器官)がついたものなのである。合成能力を持ち、重力の描く力線に身をまかせ、植≠ったままで生きることができる植物と比べると、捕食をしなければ生きて行けないことこそ動物が背負わされた宿業であった。すなわち、動物においては、〈存在〉することと〈生存〉することに〈距離〉があるのである。この〈距離〉を埋めることをしなければ、動物は飢え、そして死を待つほかない。
だから動物は、みずからを獲物に駆り立てるために衝動あるいは欲求を持ち、これを推進力とし、体壁系という乗り物に乗って食と性≠フために重力に逆らって水中や大地や天空を駆けずり回らねばならない。こうして、〈存在〉と〈生存〉を隔てる〈距離〉の短縮は、動物では、いつでもどこでもたらふく食べるという食の恒常性≠目標に、ヒトでは暮しの恒常性≠目標におこなわれる。もっといえば、〈距離〉を縮める際の究極的理念とは、植物的な生命形態、居ながらにしてすべてが満たされる生のかたち≠ナあることは疑いない。
 
生命形態には生態が組み込まれている
こうして、あらゆる生の流れに共通する生の原型は、食と性の位相交替である。この生のリズムとは、目標も目的もなく終始する♂F宙リズムの束の間きらめく映像のようなものであり、個々の生とは、同じく目標も目的もなく終始する$カのリズムの一瞬きらめく残像のようなものにすぎない。
植物の場合、この原型が、太陽系の描く永遠回帰の周行運動に従って、成長繁茂の食の相と開花結実の性の相を交替させる一年生草本の中に終りなきリズムとなって典型的にあらわれる。動物の場合、サケの母川回帰や鳥の渡りに典型的にみられるように、故郷の性の場と、遠い食の場を、これも天体の運動に対応しつつ往来を繰り返すかたちとなる。
動物は合成能力を欠いているため、植物のように居ながらにして自分を養うことができない。動物とは生きていくために動≠ュことを余儀なくされた生き物なのである。こうして動植物の間で栄養態勢―生き方―に違いが生まれる。植物は天地にからだを伸ばし、自然に溶け込みながら栄養を合成して生きる。動物は刻々と進行する欠乏の声≠ノ促され、日々獲物を捜しまわることに労力を費やしつつ生をつなぐ。
動物と植物の比較からわかるように、生物の形態には、その栄養の取り方、生態、外界との適応の仕方が当然のごとく組み込まれている。動物は環境によって、環境に対してつくられる。二重の土管で図式化された動物の原型が動物の栄養獲得の方法を明白に示していたように、原型あるいはその変容である個々の形態には、類や種に特有な外界との関わり方―生態―がおのずと編み込まれているのである。
動≠ュことによって自己の欠乏を満たすのが動物の原型である。魚が鰓呼吸をしながら水中に棲息したり、鳥が羽をはばたかせながら空を舞ったり、肉食獣が獲物めがけて草原を猛進したりする、個々の動物を見れば運動の形態は多様であることは明瞭なことである。多様ではあるが、動物も植物のように太陽系の運行のリズム―四季―に乗って食と性を営むこと、そして、外界と自己との関わり方に、宗族に固有の形態があらかじめ設定されており、そのプログラムに則った運動を行なうこと、こうした共通性がある。
多くの動物は誰にも教えられなくとも自分がどうしたらこの大自然の中で生き長らえることができるかをあらかじめ知っているようにみえる。たとえば、ファーブルによれば、つちすがりというハチは、獲物であるぞうむしやたまむしを腐らせずに保存するために、腹側にある運動神経節を刺して相手を仮死状態にするという。なぜつちすがりは形も長さも色も異なる種のなかから、ぞうむし属、たまむし属だけを選び出せるのか、なぜ一瞬の一刺しで仮死状態にすることができるのか、この神経中枢のありかをハチは誰に教わったのか。子どもでも踏みつけにできるこの小さな虫に、賢人でも及ばない大きな知恵が隠されている。これをわたしたちは本能と呼んでいる。
 
心とは内臓のはたらきのことである
三木は、アリストテレスと同様、動物と植物とを問わない栄養摂取能力を生物に普遍的な能力と考え、栄養摂取能力を生の主役にすえた。栄養−生殖過程、いいかえれば食と性の位相交替こそあらゆる生物現象の根底を貫く流れである。したがって、天体と交響しながら栄養−生殖過程を営む内臓のはたらきこそ心の本体である。心は植物器官の中枢である心臓に象徴され、感応や共鳴など情念の世界をつくるものである。一方、頭とは動物器官の中枢である大脳のはたらきを指し、判断や行為など思考の世界をつくるものである。
植物は、栄養摂取能力を持ち、栄養−生殖過程を担うのだから、心があるといえるが、感覚も運動も原理的にできないため、大風が吹きつけようと、台風が通り過ぎようと、山火事が迫ろうと、ヒトに切り刻まれようと、痛くも痒くもない。つまり、植物の心は眠っているのである。自ら栄養をつくり出す植物は、ただそこで生き、ただそこで死ぬだけである。動物はどうか。動物は、動物器官という肉体を持つことで感覚−運動を行うようになった。植物ではなかった肉体が目覚めたのである。
動物分化が進むにつれて、肉体すなわち動物性器官が、はらわた≠キなわち植物性器官に介入してくる。五億年にのぼる脊椎動物の分化史は、内臓系の象徴である心臓が、体壁系の象徴である大脳に支配されていくという大きな流れによって方向づけられている。つまり、心臓をはじめとする内臓管の壁に筋肉が張りつき、神経が動物性器官からそこに領域を拡大してくる。このような植物性器官に発達した筋肉や神経を、それぞれ植物性筋肉、植物性神経(自律神経)という。体壁系と内臓系の間は、神経系が開通することで交流しはじめるのである。
一方で、外界で起きたことは感覚器官によって受け止められ、感覚神経によって内臓系へ伝達される。他方で、内臓系で起きたことが神経系によって伝達され肉体(動物性筋肉)を運動させる。感覚器官などの体壁系と内臓系は、どちらかがどちらかの原因になったり結果になったりするのではなく、相互に原因にも結果にもなる相互依存的、いいかえれば双極的な関係をもっている。
たとえば心臓は、驚いて胸がどきどきするときなど、神経を介して外界の変化を感じ取り、心臓の筋肉を運動させ搏動のテンポを変える。血管も同様で、外界の変化は自律神経を通して血管系に影響を与え、足が冷えたりほてったり、顔が赤くなったり青くなったり、気を失ったり、爪でかいたところにみみずばれができたりする。緊張・ショックという外界からの刺激は、消化管の筋肉をゆり動かし、便秘や下痢を生じさせる。もちろん逆もある。心臓や血管や消化管の変調や疾患は、症状として筋肉や感覚に伝達されるからである。
 
ヒトの心は目覚めている
神経系の一部である頭の極端な発達によって、ヒトは内臓のはたらきを心の動きとして感じ取るようになった。ヒトは肥大化した頭によって、微睡む内臓系の声なき声に耳を傾けるようになったのである。動物は肉体が目覚めた植物であり、ヒトは心が目覚めた動物なのである。
たとえば、膀胱に中身が詰まると収縮するが、感覚はこれを不快の心情としてとらえる。逆にこの収縮がとければ、これを快の心情としてとらえる。空腹・酸欠・膀胱や子宮の充満などの内臓系の切迫≠ヘ、神経系によって伝達され漠然とした不快感として表出される。だが漠然と≠ナある。
体壁系と内臓系が神経系によって交流するといっても、「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」の譬えにもあるように、神経というのは本来内臓管の入口と出口で密に分布するもので、両端の間にいったん入ってしまえば中は暗闇につつまれている。だから、内臓系の切迫は、いつも漠然とした無明の心情として、曖昧で靄につつまれた情感としてわたしたちに受け取られる。からだの内部で起っていることは頭によっては、いつも部分的にしか意識することができない。むしろ大部分はいわゆる無意識下に沈んだままである。ニーチェが言うように頭(精神、理性)より身体のほうがより大きい概念なのである。
こうして、内臓系のゆらぎが多様で精妙な筋肉運動で表現されることこそ心の眼目である。このような心の見方がわたしたちに疎遠なものでないことは、日本語には、内臓系―はらわた―のはたらきを心のあらわれとみる表現にことかかないことからわかる。胸が躍る、胸が一杯、胸が騒ぐ、心が暖まる、のどから手がでる、背筋がつめたい、はらわたがにえくりかえる、へそが茶をわかす、腹黒い、腹が立つ、腹を探る、度肝を抜かれる、肝に銘ずる、肝をつぶす、腹蔵がない…。
 
心の目覚めはヒトになって突然やってきたのでない
ところで、動物を比較の規準にしてヒトを論ずる場合、動物がヒトとなって突然∴テ黒につつまれていた心(理性、精神、言語など)に光が射して来たと考えられがちである。たしかにヒトだけが、壊れた本能≠持ち、自我を持ち、文化を持つのであるが、わたしは、ヒトにおける心の目覚めとは、漸進的かつ必然的♂゚程であると考えるべきだと思う。
周知の通り、大脳の巨大化は人類段階で急速に進んだ。しかし、神経系とは、そもそも合成能力の欠如を動≠ュことで補わざるを得なかった動物たちの、感覚−運動過程の要として宿命的に現われた器官であり、この一部が肥大化して脳となったのである。この脳の肥大化も、体壁系から内臓系への神経の侵入も、宗族発生ということを仮定すれば、連続的かつ段階的なものとみなすことができる。
交感神経が血管を支配し、内外の変化が血管運動に翻訳されるようになってきたのも、神経にとりまかれた心臓が外界の変化に応じて拍動のテンポを微妙に変えたりするのも、動物器官へ植物器官の血管が侵入し、植物器官全体が養われるようになってきたのも、このような二つの器官の交流は、ある生物の個体の一生に比較すれば、あるいは種そのものの盛衰に比較しても、悠久ともいえる時間をかけて進んできたのである。
たしかに、頭のはたらき(精神、理性)が、動物とヒトを断絶ともいっていい〈距離〉で分かつのであるが、頭もまた自然(史)の産物であることに思いをめぐらせば、ヒトも原型とその変容という分化の道筋に従うということを看過することはできない。古生代以来の脊椎動物の分化史とは、動物器官による植物器官の介入、支配の歴史なのである。
植物とはむきだしの胃袋と生殖器であり、動物とは胃袋と生殖器に目と手足がついた生き物であり、ヒトとは胃袋と生殖器に目と手足、さらにあたまがくっついた生き物である。ヒトとは、心臓から脳へ≠ニいう、生の中心の移行過程の頂点に位置するのである。
 
欲望は心の目覚めによって生まれた
光合成による独立栄養という栄養方法をとる植物は、〈存在〉と〈生存〉とが連続しており、欠乏という〈距離〉が生ずることはないから〈存在〉から〈生存〉へ向かおうとする衝動や欲求とは無縁である。捕食による従属栄養という栄養方法をとる動物は、〈存在〉と〈生存〉とが不連続であり、刻々と体内からわきあがる欠乏の声が、〈存在〉と〈生存〉との〈距離〉を縮めようとする衝動や欲求となって、個体を目標へと駆り立てる。動物は、否応なく身体の近≠ネる目標に絶えず振り回されて生きていかざるを得ない。身体の近傍で起る出来事、すなわち目先≠フもの、身近≠ネものごとに目と手足(体壁系)を翻弄されるのが動物の生態である。
ヒトは、動物でありながら、発達した頭によって、遠≠ネる宇宙とつながる内臓系の声なき声に耳をそばだてることができる。そこに〈あること〉がそこで〈生きていること〉にならないという矛盾は、欠乏の感情、いいかえれば人間的欲望として頭に浮かび上がる。欠乏とは、内臓が体壁の鞘につつまれ、自然から隔離されてしまったことから生ずる。欠乏あるいは欲求とは内臓系と外界との不均衡であり、〈生存〉と〈存在〉の分離が生んだ〈距離〉である。そして欲望≠ニは頭に浮かび上がった欠乏の感情である。肉体の目覚めが欠乏を生んだように、心の目覚めが欲望を生んだのである。
 
ヒトは植物的直立を手に入れた
ところで、地表に暮らす生物は大きく二つの軸に沿って配分されている。一つは、地表面に垂直に、地球の中心に向かって下ろされた軸―物体の落下軸と同じ―、もう一つは、地表面に水平に、地球の半径の延長線に対して垂直に引かれた軸である。植物は垂直軸に沿って、動物は水平軸に沿って暮らしを営む。そして、植物が垂直軸に沿って天空に幹を伸ばし地下に根を張ることからわかるように、生物の姿勢は、重力の方向に逆らわない直立≠ェすなおで自然な形であるといえる。
植物ははやくも古生代にこの体位を完成させた。海中の藻類が上陸して苔類となり、羊歯類が天地にからだを直立させたのである。動物は中生代・新生代の長すぎる年月を重力に逆らいながら横ばいで過ごしてきたが、ついに第四紀の二〇〇万年のあいだに、つまり人類の出現によって直立姿勢を実現させたのである。四足動物のからだを二重のチューブにたとえれば、一方の端には植物器官の入口である口≠ニ動物器官の入口である頭=\感覚器官が集まっている―があり、他方の端には植物器官の出口である肛門≠ニ動物器官の出口である尻尾=\運動器を代表する―がある。こうして動物の体制は、栄養−生殖を営む口―肛≠ニ、感覚−運動を営む頭―尾≠ノ分極される。
 
「こうした状況のなかで、肉体の内部から発する激しい育成力はどちらか一方の端へ無差別に押しやられ、現実に比較的もろい障壁にぶつかったときそこでぶちまけられる。
「しかし類人猿の大きな図体がもはや枝から枝へとゆれることなく、それ自体完全に真直な、樹木と平行したかたちになり、地面の上に立ったとき、それまで肛門の部分に自由な捌け口を見出していた諸衝動はすべてひとつの新しい抵抗にぶつかった。…こうして眼に見えぬ生命力は突如、顔と頸の部分へ押しやられる恰好になった。つまり人間の声と、次第に繊細化する知的構造のなかにぶちまけられた」
「人間的存在だけが、…動物の平穏な水平性から身をもぎ放すことによって、植物的直立を手に入れ、ある意味で、天空に引き寄せられることに成功したのである。
「しかし球体の表面での息苦しい境界不在に至り着くこの人間解放に、人間の本性が無抵抗に身を委ねたかといえば決してそうではない。なぜなら、…眼球が依然として強いきずなで人間を卑近な事物に縛りつけており、彼の足どりはそこから抜け出せない宿命にあるからである。
動物性を排斥する人間の分裂と脱出の過程においても、人間的構造がどうしてもそこからまぬがれえない視覚の水平軸は、見たところ静穏と混同されるが故に、ますます重荷な悲惨の表象と言えるのである。」(バタイユ「松毬の眼」生田耕作訳)。
 
脊椎動物は無脊椎動物の早熟型である
原初の無脊椎動物は、動物ではあるのだが、動物として過ごすのは幼生の時期だけで、変態してしまうと大地に定着し、そこで獲られる栄養を糧とする植物的生活を営む。たとえば半索動物であるホヤは、幼生の時代はオタマジャクシのようなかたちをしており、海中を游泳することで水平軸≠生きる動物的生活を営む。変態を終え成体になると、植物が垂直軸≠ノ沿って天地に体軸を伸ばすように、天を目指しつつ大地に定着し、植物としての生活をはじめるのである。
脊椎動物とは、ホヤような半索動物の幼生が幼生のまま性成熟し、定着生活の成体にならず動物のすがたのまま一生を終えるようになったいわば早熟型なのである。幼生の動物的生活から変態を経由して成体の植物的生活に還るのが無脊椎動物の本来の姿であるのだが、還り損ねてそのまま幼形進化してしまった結果生まれたのが脊椎動物なのである。ヒトを含む脊椎動物とは、植物のすがたに還り損ねた無脊椎動物であるといえる。
ヒトにおいて無意識に抑圧された願望が意識にのぼる機会を常にうかがっているように、植物としての生活に還り損ねた脊椎動物においても、細胞原形質に刻み込まれた植物時代のおもかげは、ことあるごとに自らを再現しようとするのではないだろうか。
たとえば、円口類のヤツメウナギは、無脊椎動物の幼形進化によって生まれた原初の脊椎動物の末裔である。これもまた、アンモシーテスと呼ばれる幼生時代には、下半身を砂に埋めて、植物的な生を営む。からだの構造そのものは動物のものだが、鰓の運動を除けば体壁系は機能していない。ちょうど、母胎内の胎児の動物器官が機能していないのに似ている。
 
ヒトは水平軸に沿って近≠生きながら、垂直軸に沿って遠≠求める
植物のすがたに還りきれなかった動物は、感覚−運動のために、近なるもの―獲物や目標―に振り回されなくてはならない。ヒトも動物であるから卑近な事物≠ゥら片時も逃れることはできない。しかし、頭の発達は、地べたを這い、卑近なものに縛られる自己を悲惨≠ニ感じさせ、ヒトが地上の重荷を背負わされた存在であることを気づかせた。
脳の巨大化と平行する遠♀マ得能力の発達が、植物段階のおもかげを思い起こさせ、重力からの開放としての直立を促したのである。「観得性能の異常な発達が、この開かれたサバンナの自然に対する視界拡大の強い衝動をよび、この内部の機能が、しだいしだいに人類を直立の姿勢に導いていった」(三木成夫『ヒトのからだ』)。このように、遠=\生命記憶―へのあこがれ、すなわち植物的生へのあこがれ、無重力感覚―万能感覚―へのあこがれは、はらわたの声が頭に共鳴するようになって生じてきた。
ヒトは「植物的直立」を実現したものの、〈生存〉のために視覚の水平軸≠ヘ捨て去るわけにはいかなかった。ヒトは近≠ニ遠≠、水平軸と垂直軸の両方を生きざるをえなくなったのである。バタイユは、ヒトには水平軸に沿って働く通常の眼(視覚器)のほかに、垂直軸の眼があると考え、それを頭蓋の頂にある松毬の眼=i松果体)によって象徴させた。
通常の視覚器が、水平軸に沿って近♀エ覚を受容するとすれば、松毬の眼≠ヘ、垂直軸を志向して、遠なる宇宙を観得する心眼であるといえるだろう。大地と平行な水平軸は、近≠扱う感覚−運動℃イであり、有用性、すなわち〈存在〉→〈生存〉を目指す。重力に沿った垂直軸は、遠≠ニ共振する栄養−生殖℃イであり、生のリズム、すなわち〈存在〉=〈生存〉を目指す。
したがって、水平軸は使用価値(モノの有用性)を象徴し、垂直軸は交換価値(本当の価値)を象徴する。ヒトは近≠生きながら遠≠指向するといえよう。ヒトにおいては、動物的欲求≠フ地平である水平軸から身をもぎ放すことによって、「眼に見えぬ生命力」は、人間的欲望≠ノ変容し消費の象徴≠ナある頭のなかに「ぶちまけられる」ことになる。
 
動物は食の恒常性≠フために栄養をたまり≠ノ溜め込む
動植物の別なく、最も単純な生物であるアメーバの時代から、生物は、外界から採り入れられた栄養を、細胞原形質で加工し、老廃物として排出してきた。この流れが小川のせせらぎ≠フように絶え間なく流れつづけることこそ細胞の生命にとって必須の条件である。細胞が生命を保ちつづけるためには栄養の連続的な供給、いいかえれば食の恒常性≠ェなければならないのである。
植物の栄養方法は、植≠ったままで地水火風(地中の無機物、水、太陽、炭酸ガス)の四大をとりいれ自ら栄養を合成する独立栄養であるから、〈存在〉しているかぎり〈生存〉することは保証されている。一方、動物の栄養方法は、動≠ュことによって他の生き物を手(口)に入れる従属栄養であるから、当然獲物の捕れるときと捕れないときがあり、食生活のなかに偶然性≠ェ入って食の恒常性≠ヘ崩れる。
個々の植物種が個々の運命によって消滅することはあっても、植物全体が消滅するのは、乱暴な言い方であるが、宇宙が消滅するときのみである。というのも、植物は、自分を取り巻く外界―宇宙―と連続している、つまり、宇宙と一心(身)同体である開放系という生のかたちをしているからである。ところが動物は、宇宙とつながる植物を体内に抱え込み、内臓系にしてしまった閉鎖系であるため、自然から隔絶せざるをえない。
植物はいつでも自分で栄養を合成できるので栄養を溜め込む必要はないが、動物は、栄養を外なる自然に頼っており、しかもその自然と〈距離〉があるため、いざというときのために栄養を溜め込む必要が出てきた。こうして、偶然性に支配されることになった栄養の獲得に、食の恒常性をあたえる機序を動物の宗族発生は求めるようになった。この機序は「たまり」(réservoir)と呼ばれる。このたまりの有無こそ動物と植物を分ける根本的な違いである。
 
たまり≠ヘ頭へ向かって分化する
たまりの萌芽はアメーバのような原生動物の食胞に求められるが、後生動物となってできた腸腔が原初のたまりといえる。原腸動物の腸腔は、脊椎動物の肝臓に移行する。無顎類のたまりは肝臓だけであり、魚類・両生類・爬虫類の有顎類では、胃袋のたまりが形成され、さらに哺乳類になると、口腔というたまりが顎の場に形成される。四足動物を横から見た図を考えれば、肝臓(円口類)→肝臓+胃(魚類・両生類・爬虫類)→肝臓+胃+口(哺乳類)とたまりが動物の分化するにしたがってしだいに頭の方へ向かって進んでいることがわかるだろう。これを「たまりの頭進」という。
そこに植わっていれば生活していける植物が飢えの恐怖を知ることはありえないのに対し、頭の分化によって体内の欠乏の声を観得するヒトは、つねに自己の生が偶然性≠ノ支配されていることを感じながら生きなければならない。ここから生と死というヒトを誕生以来悩ませてきた問題が生まれる。巨大化した頭によって、この偶然性は死の恐怖となった。
この契機が、手と頭の特殊な分化と相まって、たまりの頭進の速度を加速させることとなった。いまやたまりは口腔のさらに前方へ、つまり体外へ造られることとなる。捕獲・採集された食物は、手による料理≠ェ分解し、その料理は特別な倉庫に貯蔵≠ウれたり、より高度な加工を施されて、いつでもどこでも食べられる即席保存食料≠ニなったりする。
 
「最後に人類になりますと、大きくなった脳味噌と手を使いましてからだの外でため込むことをやるわけです。農耕・牧畜の始まりですが、これが結局は穀物の貯蔵と食肉の冷蔵保存になる。そしてこれが近代社会になりますともう物ではなく、紙幣で貯め込むようになる。このたまり≠フ最後に行きつくのがいってみれば、あの日本銀行の金庫ということになります。」(三木成夫「上腹部(みぞおち)の構造とその機能について」)
 
食の恒常性を失った動物は、偶然性に縛られた自己の生命を安定したものにするために、口腔までたまりを頭進させた。人類は、発達した頭が生み出す飢餓への恐怖と、同じく発達した手によってこの機序の形成を引き継いだ。口腔までのたまりの頭進は、生物史の上の出来事であるが、手と頭によるたまりの発達は文明史の上の出来事である。ここで生物史と文明史は、食の恒常性を介して連続する自然史となっている。
飢餓への恐怖は「欲しいものを、いつ、どこででも、たら腹、といった欲望」に変容し、この欲望に促された人類は、いつどこででも食べられる加工食品、そしていつ何にでも変えられる日本銀行券≠ノまでいたる色とりどりのたまりをからだの外に形成したのである。人類は、たまりの機能を体外に人工的な手段を用いて再現したのである。
肝臓や胃や口腔というたまりが担ってきた消化・吸収・咀嚼などの機能は、体外へ移される。加工食品とは、捕獲済み・咀嚼済み・分解済み・代謝済み、の食品のことであることがそれを明かしている。「ヒトのからだの表通りに新たに、捕食・消化・吸収を営む、1本の腸管の工場が操業を開始した」(三木成夫「生命の形態学」)。
 
文明史とは自己家畜化≠フ歴史である
人類の文明史とは、食の恒常性を目標とする「生の蓄え」という行為の蓄積である。体内の諸機能を体外で人工的に再現することによる、生の意識的管理の歴史である。人類は、いわば生命活動そのものをからだの外へ移したのである。こうして外界は、再現された「ヒトのからだ」になる。
三木は、このような人類の食の歴史を、家畜にとって飼料を恒常的に与えつづけることが最も大切であることから、「自己家畜化」(self-domestication)と理解している。自分を家畜のように養うこと、いつどんなときでもたらふく食べられるようにすることが、頭のはたらきによって飢餓の恐怖を過剰に補償しようとする人類の目標であるとするのである。そして彼にとって自己家畜化は、生態系のもつ循環の流れを、そして生のリズムを堰止めるものであると映っている。
確かに、人類の生活史は、生態系の流れを阻害し甚大な影響を与え、食と性のリズムを撹乱しているといえる。だが、食の恒常性が完全に実現した状態とは、居ながらにしてすべてがみたされることであるとすれば、自己家畜化とはヒトにとって〈植物的生〉―植物は居ながらにしてすべてを満たす―に回帰するための通り道であることとなる。つまり、自然≠ヨ還ってゆくための不可避な道のりであると考えることはできないだろうか。
クラーゲスは、リズム(自然的無意識的反復)と拍子(人為的意識的反復)とは、双極的なものである、つまりお互いが対等であり一方が他方を高めあうような組合せであるといっている。どちらかが原因でどちらかが結果ということはない。そこで、リズムを自然に、拍子を人為に対応させれば、自然と人為は双極的であるとはいえないだろうか。そもそも人類は自然の一部であったではないか。
 
 
第二節 人間は自然全体にはたらきかける
人間は自然を対象化する
ヒトも動物であるから、動物器官によって目標を感覚し、伝達し、最終的に運動によって目標をわがものとすることに何ら変わりはない。ヒトが動物であるかぎりは、動物の原型から逸脱することは不可能であろう。しかし、巨大な頭を持つ人間≠ニ外界との関わり方は、他の動物と比較するとき、まったく異なった様相を示す。
若きマルクスは、人間による自然の対象化という観点から、人間と自然との関わりという問題に、考察のメスを鋭くそして深く切り込ませている。
 
「類生活は、人間においても動物においても、物質的にはまずなにより、人間が(動物と同様に)非有機的自然によって生活するということを内容とする。…人間の普遍性は、実践的にはまさに、自然が(1)直接的な生活手段である限りにおいて、また自然が〈(2)〉人間の生命活動の素材と対象と道具であるその範囲において、全自然を彼の非有機的肉体とするという普遍性のなかに現れる。…すなわち、自然は、人間が死なないためには、それとの不断の〔交流〕過程のなかにとどまらねばならないところの、人間の身体であるということなのである。人間の肉体的および精神的生活が自然と連関しているということは、自然が自然自身と連関していること以外のなにごとをも意味しはしない。というのは、人間は自然の一部だからである。
「生産的生活は類生活である。それは生活をつくりだす生活である。生命活動の様式のうちには、一種族〔species〕の全性格が、その類的性格が横たわっている。そして自由な意識的活動が、人間の類的性格である。
「動物はその生命活動と直接的に一つである。動物はその生命活動から自分を区別しない。動物とは生命活動なのである。人間は自分の生命活動そのものを、自分の意欲や自分の意識の対象にする。彼は意識している生命活動をもっている。…意識している生命活動は、動物的な生命活動から直接に人間を区別する。まさにこのことによってのみ、人間は一つの類的存在なのである。…すなわち、彼自身の生活が彼にとって対象なのである。ただこのゆえにのみ、彼の活動は自由なる活動なのである。
「なるほど、動物もまた生産する。蜂や海狸や蟻などのように、動物は巣や住居をつくる。しかし動物は、ただ自分またはその仔のために直接必要とするものだけしか生産しない。すなわち、動物は一面的に生産する。ところが人間は普遍的に生産する。動物はただ自分自身を生産するだけであるが、他方、人間は全自然を再生産する。動物の生産物は直接その物質的身体に属するが、他方、人間は自分の生産物にたいし自由に立ち向かう。動物はただそれの属している種属の規準と欲求とにしたがって形づくるだけであるが、人間はそれぞれの種属の規準にしたがって生産することを知っており、そしてどの場合にも、対象にその〔対象〕固有の規準をあてがうことを知っている。だから人間は、美の諸法則にしたがってもまた形づくるのである。」(マルクス「疎外された労働」城塚登・田中吉六訳)
 
人間は自由な意識的活動をする
「生命活動の様式」あるいは「類生活」とは、わたしの考えでは動物生活の原型を意味している。あらゆる動物は内臓系の食と性のために体壁系を用い、「非有機的自然」を生活手段、生命の素材と対象と道具にする。そして、それぞれの動物種は、この原型を、自分たちの置かれたそれぞれの環境に合わせてメタモルフォーゼすることで個々のかたち≠つくり出す。個々のかたちのなかには、それぞれの種の全性格、くらしぶり≠ェ横たわっている。
ヒト以外の動物は、自らの生の原型に忠実であり、自然が課した根本的制約である生の波≠ノ従ってひたすら栄養−生殖過程を繰り返す。だからヒト以外の動物は原型≠サのもの―あるいは原型の近似値―であり、いいかえれば「生命活動」そのものであるといえる。
ヒトを含む動物にとっての「生命活動」とは、体壁系による自然へのはたらきかけ≠ネのだから、ヒトが「生命活動から自分を区別する」とは、体壁系による自然へのはたらきかけ≠ゥら自分を区別するという意味になる。区別するとは対象化することの別名であるから、区別されたはたらきかけ≠ヘヒトの対象となり、いきおいヒトは、手足(体壁系)によるはたらきかけ℃ゥ体に、はたらきかけ≠驍謔、になるのである。つまり、自分が外界にはたらきかける様子を別の自分が観察し、その観察を参考にして今までのはたらきかけを修正し、はたらきかけのやり方に変更を加えるわけである。
自然へのはたらきかけ≠ニは生産のことであるから、ヒトがはたらきかけにはたらきかける≠ニは、生産を生産する≠ニいう意味になる。動物の生産とは、からだを生産することだからそのまま〈生存〉を意味するが、ヒトの場合は〈生存〉と〈距離〉をおいたところで自己を生産する―生産するために生産する―ということである。〈生存〉が単に生き長らえることを意味するとすれば、〈生存〉と〈距離〉を置いて自分を生産するというのは、生きている自分を意識しながら生きることを、意志して生きることを意味する。これには、よりよく生きようとする≠ニいう意味も、よりわるく生きようとする≠ニいう意味も含まれる。
ヒトにとっては、本来、内臓系にとっての手段である体壁系を駆使すること―〈生存〉―自体が、自分の意識や意欲の対象(目標、目的)になるのである。動物は、〈存在〉と〈生存〉との間に〈距離〉がある点がその「類的性格」になっている。ヒトは、さらに〈生存〉と意識された〈生存〉としての〈生活〉との間に〈距離〉がある点で動物と区別される。
〈距離〉を置いて〈生存〉に向かうことは、〈生存〉に埋め込まれ、縛られている状態から脱け出すことである。脱け出した〈距離〉から、〈生存〉を意思や意欲の対象にすることである。だから、〈生存〉からの〈距離〉こそヒトの活動を、「自由な意識的活動」―〈生活〉―にするのである。
 
動物は自然の一部と関わるが、人間は全自然と関わる
動物は種によってその姿形は変容するが、根本的には原型以上でも以下でもないから、自然との関わり方も生の原型から逸脱することはない。だから、蜂や海狸や蟻などは自然と一面的、限定的にしか関わらない。前もって与えられた一定の自然の範囲内でくらしを営むのである。
それに対し、ヒトは全面的、無限定的に自然と関わる。動物は自分の属する種の規準―かたち=\と欲求にしたがって活動するだけだが、ヒトはすべての種の規準を対象にあてがうことができるからである。ヒトだけが、植物のように水や光を欲し、草食動物のように植物を欲し、肉食動物のように他の動物を欲する。
魚は海、鳥は空というように個々の動物種は自然の一部と関わる。だが、一個の動物種が自然の一部としか関わらなくとも、それを足し合わせれば自然全体と関わることになるだろう。そこで、仮に、ヒトを除いたすべての動物種を一つの動物種と見なせば、この仮想の種は自然全体を対象としていることになる。ところで、ヒトは、すべての動物の規準を使いこなせるのだから、ヒトは今仮想した種のように自然全体をみずからの対象にすることができるわけである。
動物はそれぞれ自分の属している種が決めた一つの方法でしか体壁系を使えないようにからだのかたちが決定されているが―鰓呼吸では大気中で生存できない―、ヒトはあらゆる方法でこれを用い、自然から栄養を摂るだけでなく、自然を第二のからだ≠ノしてしまう。つまり、ヒトは全自然と交流する。全自然が生活手段である。ヒトにとっては自然全体が「非有機的身体」なのである。
ヒト以外の動物は限定されたやり方で自然と交流するが、ヒトは無限定なやり方で自然と交流する。ある動物種の一面的なはたらきかけによっては自然は一面的にしか変化しない。動物は自然の一部を再生産するのみである。ヒトの全面的なはたらきかけによって自然は全面的に変化する。「人間は全自然を再生産する」。
 
人間は理性によって見えないものを観る
こうしてヒトははたらきかけ℃ゥ体を意識の対象とし、また、はたらきかけ≠フ方法を意識の対象とする。だからこそ「自由な意識的活動」が、ヒトの他の動物と比較したときのきわだった特質となるのである。わたしはこの人間の「類的性格」を、とりあえずはすばらしいともすばらしくないとも言わない。人間がさまざまな動物を一緒くたにして「動物は…」と言うとき思わず動物種のなかでのさまざまな違いを消し去っているように、ある見方を採用すれば、この動物と人間との違いも消し去られてしまうのを知っているからである。ただ、わたしは第一に人間であり人間を知りたいので、第二にここでは人間の〈おかね〉を知るために避けられないので、人間性について触れているのである。
「自由な意識的活動」という生のかたち≠ノは良い点も悪い点もあるだろう。たとえば、いわゆる天然自然を超えた、よりよい〈自然〉を造り出す潜在的可能性をもっているのはヒトだけであるが、これは、さまざまな種の規準を知り、それらを自己のものとして〈生活〉に応用できるのは人間だけだからである。自然全体を知り、はたらきかけることができるのは人間だけだからである。
どんなに美しい外観を持った宮殿に住んでいようと、宮殿の中にいるかぎりその外観≠ヘ観ることは出来ない。動物は、与えられた生命記憶を与えられたからだによって再現するだけで、自分がどんなかたち≠しているかを観る≠アとはない。滔滔たる生のリズムの上では、動物は、ただ生まれ、生き、子を残し、死ぬばかりである。
人間は違う。人間は地球の上に、つまり地べたにいながら、あたかも地球の外で見てきたかのように地球の形を言い当てる能力を持っている。自分で自分を観察する理性を持っている。頭によって見えないものを観る=Bわたしも実際に見たことはないが地球は丸いと信じている。裸の王様は、従順な臣下たちに指摘されなくとも自分で自分を観る≠アとができさえすれば自分が裸であることに気づくことなどすぐにできたのである。
一方で、人間は、ギリシャ時代以来、自分を生態系というピラミッドの頂点にいると思い込み、人間という鋳型を自然全体にはめこみ、人間のかたちに変容してきた。たくさんの悪業も造ってきた。近年、次第に反省と批判の機運が高まっているものの、現在のところ根本的な解決策は見つかっていない。
 
動物は生きるために食べる≠フでなく食べるために生きる
動物は自然があたえた生のかたち≠ノ寄り添って〈生存〉活動を行う。たとえば、人間にとって対象とはいつもかわらず対象でありつづけるが、動物にとっては、内臓系の声なき声が己の欠乏を知らせる時にはじめて獲物(目標、対象)が目の前に現われ、運動に駆り出される。内臓系の欠乏が満たされれば再び対象は消えてしまう。異性が生殖の対象であるのは、性の相にあるときだけであり、食の相のときは幼児の男女のようにお互いに他の個体であるにすぎない。
動物にとって、対象とは生の波≠フ一部であり、これは「種族の規準や欲求」がそうであるのと変わらない。欲求も目標(獲物)も、突然現れ突然消える束の間の夢幻のようである。すべては生のかたち≠フお膳立てであるといるだろう。
一方、人間は、巨大な頭脳と、直立によって自由になった手足によって自由かつ意識的な生を営んでいる。そして人間は、〈生存〉活動に向かってあるいは〈生存〉対象に向かって、意欲や情熱を持ったり、また失ったり絶望したりする。人間の〈生存〉とは、意識された、意思された、頭に支配された〈生存〉であり、したがって単なる〈生存〉とは〈距離〉が置かれた〈生活〉なのである。
人間だけが、頭によって自己の〈生存〉を推し進めたり、逆に自己の〈生存〉から身を引いたりすることができる。頭は自己の〈生存〉を〈距離〉を置いて見つめている。だから人間においては〈生存〉の象徴である内臓系は、〈生活〉の象徴である体壁系に支配されるのである。
合成能力を欠いた動物は、体壁系を手段として、食と性という生本来の目的を果たすのだから、動物にとっては、本来、内臓系が主人であり、体壁系はその奴隷のはずである。いつの間にか、本来生の手段にすぎないはずの体壁系が目的の座につくようになり、内臓系が体壁系に翻弄されることとなった。手段と目的が入れ替わり、主人が奴隷にとってかわった。
どのような「革命」が起ったのであろうか。取り入れた栄養の大半は脳や筋肉などの動物器官が消費するようになった。もともと腸や肝臓などの植物器官はそれほどエネルギーを消費しないからである。目的と手段が逆転し、動物は、生きる(植物性過程)ために食う(動物性過程)のでなく、食うために生きるようになった。ヒトでいえば、生きるために働くのではなく、働くために生きるようになったのである。マルクスが自己疎外≠ニ呼んだのはこの逆立のことであろう。
人間の場合、頭がつくる主観と自然という客観の対立への気づきが欲望≠生む。現在のわたしたちが、いまの自分≠ノ矛盾を感じ、どこかにあるはずのほんとうの自分≠探し求めるように、そしてその過程が全生涯をかけても終りに至らないように―実際、この過程こそが人生そのものである―、垂直軸に沿って立ち昇る欲望のはるか彼方にある客観という遠≠ヘ、一個の人間にとっては追っても追っても逃げていってしまうアキレスの亀のようである。
こうして従属栄養という動物の宿命は、外界へのはたらきかけを次第に手段から目的と化し、特に人間において、いつ、どこででも、あらゆる欲求を満たそうと無限に使用価値を求め続ける活動へと変容するのである。こうして、はじめは生きるために食べたり働いたりしていた人間は、いつの間にか、食べるため働くために生きるようになったのである。
現在の第三次産業主体の消費社会においては、収入の一定割合を単に生き長らえるのでなく、よりよく生きる≠アとに費やすことができる。人類の歴史を文明発祥以降に限ったとしてもごくごく最近出現した、このような社会に住む人間たちは、まさに、食べるため働くために生きている。他の生物から見れば主客が転倒しているはずであることから見ても、消費過剰の社会の出現は文明史上の「大転換」を画すであろう。
 
人間は全自然を〈産業〉化する
ヒト以外の動物は、一方で原型を保ちながら、他方でそれをメタモルフォーゼさせ、自分らしい生のかたち≠つくり、置かれた環境条件を活かした暮らしを立てる。普遍としての原型からメタモルフォーゼが進み、特殊化が進むほどその種の自然との関わり方は限定されてしまう。昨日まで水の中だった魚が今日突然陸にあがってくることはない。
ところがヒトは、頭と手足によって、すべての種の規準を使いこなす可能性をもって生まれてくる。「普遍的」に自然とかかわるというわけである。人間が「普遍的」であるとは、より原型に近いということではないか。普遍としての原型が特殊化によってあらかじめ限定されていないという、より原型にちかいかたち≠ヒトはしているのではないだろうか。
たとえば魚は、生の原型を水中という環境との交流のなかでメタモルフォーゼさせ、特殊化することで個々のかたち≠つくりあげた。このかたちは、水中という特殊な状況での生活にとっては都合がよいが、その一方で、個体の体制を固定してしまうことで外界に対する柔軟性を失い、それ以外の「規準」を使って生活を営めなくしている。
ヒトにおいては、からだのかたちが、外界に対していわば適応以前の状態であり、外界とからだの間に〈距離〉というかすきま∞あそび≠ェある。このあそび≠ヘ、手足による自由で意識的な自然へのはたらきかけによって臨機応変に埋め合わされる。らしさ≠もって生まれてこない代わりに、外部の全自然を、手足の延長としての「非有機的肉体」とする。ヒトはこのような生のかたち≠もっているのである。
動物が、一定の無機的環境に適応可能なように、メタモルフォーゼの完了した状態で生を受けるのに対し、ヒトは、生まれたときはまだ未変容の生の原型≠保存している。他の動物は、からだの形態に生きてゆくための方法が組み込まれているが、ヒトの場合は、厳密に決定された生存法はあらかじめもっていない。したがって、生まれ出た後で全自然を「非有機的肉体」にすることによって、ヒトは外界に適応する。これがヒトにとってのメタモルフォーゼではないだろうか。
すなわち、手と頭≠ノよる外界へのはたらきかけを〈労働〉と呼べば、たまり≠身体の外に再現するように、〈労働〉によって人間は自然を対象化し、「非有機的肉体」にすることでヒトは〈生存〉するのである。〈労働〉という人間の自然へのはたらきかけと、それに対する自然の応答の繰り返しによって「非有機的肉体」は作られながら作り変えられる。個体の労働による自然の対象化というメタモルフォーゼは、個体の枠を飛び出し、世代から世代へと無限の蓄積を続けながら人類の文明史を構成する。
マルクスによれば、〈産業〉とは、人間と自然の関わりそのものであり、〈労働〉の完成されたものであり、「人間の本質諸力の開かれた書物」である。「ヒトのからだの表通りにできた腸管の工場」としての人工的なたまり≠フ数々は、咀嚼や消化や吸収といった「人間の本質諸力」を科学技術の力を借りてからだの外に開いた≠烽フといえるだろう。だから、科学技術によって人間生活を刻々と変容させる〈産業〉とは、「非有機的肉体」の別名なのである。
ここから、〈労働〉によって外界にはたらきかけることは、たまりの頭進≠ノ限らず、あらゆる身体のはたらきを〈産業〉化して体外に移し、自然に組み込むことで「非有機的肉体」にすることであることがわかる。この結果として体外に再現された身体のはたらきは、フィードバックされ、道具や制度や科学技術として、さらなる〈産業〉化の手段になる。そしてこの過程は無限に続くだろう。
したがって、ここでいう〈産業〉は、いわゆる利益目的の産業≠ノかぎらない。自然としての人間がもつあらゆる諸能力の再現を〈産業〉は意味するわけだから、体外授精、臓器移植、人工臓器、遺伝子操作、生命工学なども、この意味での〈産業〉に含まれる。
こうして、自己意識としての人間は、自分自身を知るために自分を外化するのである。錯覚だと思うが、わたしは、三木成夫を経由してはじめてここにあげたマルクスの言葉が腑に落ちた気がした。
 
 
第三節 ヒトは、外界と自由にかかわる
神経系は外界を知らない
感覚−運動過程は、伝達系のはたらきを支柱とする感覚−伝達−運動♂゚程である。支柱の役割を担う中間項である伝達過程は、神経系によって、特にヒトの場合は神経系の一部が肥大化した脳を中心として行なわれる。すなわち、ヒトの頭は、単に神経パルスを伝達するばかりでなく、現実と仮想を、物質と精神を、時空と無を、自然と欲望を媒介する。わたしの〈存在〉を、頭の思念によって、〈生存〉へと架橋するのである。
ここでいう神経系とは、大きく中枢神経と末梢神経に分かれ、中枢神経はさらに脳と脊髄に、末梢神経は体性神経と自律神経に分かれる。そして、脳は大脳・間脳・中脳・小脳・延髄に、体性神経は感覚神経と運動神経に、自律神経は交感神経と副交感神経にそれぞれ分かれる。
ごくおおざっぱ言えば、外界から入力された刺激は、皮膚や目や耳などの受容器によって受け取られ、感覚神経を経て中枢(脊髄と脳)に伝えられる。伝えられた刺激は中枢で処理されて、適切な命令が運動神経を経て筋肉や骨などの効果器に伝えられる。こうして刺激に対する反応が出力される。
外界とかかわるのは表皮に分布する感覚系と、筋肉によって造られている運動系であるから、伝達系は、この過程の要ではあるものの表には出てこない縁の下の力持ちのような役回りであると考えられる。神経系は、一方の先端で原始的な感覚細胞にはじまる感覚器に手を伸ばし、他方の先端で運動を行なう筋肉に手を伸ばす。感覚と運動がこうして手を結ぶ。両者を取り結ぶ伝達系はからだの構造上もともと外界を知らないことがわかる。
感覚神経や運動神経のような末梢と同様、脊髄や脳のような中枢も、神経系である以上、外界の制約を知らない、つまり外界との関わり方を知らないと考えられる。ヒトの大脳などは高度な発達を遂げているが、中枢は基本的には伝令役であることにはかわりなく、あくまで感覚器から入ってきた内外の変化をとりまとめ筋肉に伝え、また筋肉の変化をとりまとめ感覚器に伝えるのが仕事である。
伝達系は直接外界と接することはなく、体内で生じた知覚であろうと体外から生じた知覚であろうと関係なく運動系へ向かってそれらの知覚を伝えるだけであり、また、体内からから生じた筋肉運動であろうと体外から生じた筋肉運動であろうと関係なく感覚系へ向かってそれらの運動を伝えるだけである。
 
神経系は感覚系と運動系を取り結ぶ〈文法〉を持つ
動物たちは、動物器官に駆動されることで食と性を営む。欠乏の声を原動力とする、感覚−運動の全過程は、からだの構造と生態―形態―にしたがって行なわれ、これを逸脱することはない。内臓が体壁の鞘に収まっている形態が脊椎動物の原型であるとすれば、この原型があらゆる動物種にとって外界と関わるときも最も基本的な制約条件となる。原型がメタモルフォーゼすることによって生まれる種に固有の形態が、さらに外界と関わる際の規準として加わるわけである。
それぞれの動物種は、自分たちに固有の規準と欲求にしたがって自己を生産する。別の言い方をすれば、各動物種には、動≠ュための特別なやり方、すなわち感覚−伝達−運動♂゚程の経路に〈文法〉とでも呼ぶべき一定の決まった方法があるということである。神経系が、感覚系と運動系を対応させる種に固有の関数となっている。
原生動物は、一個の細胞がからだであるから、受容器(感覚器官)と効果器(運動器官)が同じであり、したがって神経系をもっていない。ヒドラやイソギンチャクなどになると、皮下に中心を持たない神経網が散らばっている散在神経系を持つようになるが、指揮−命令系統を欠いているため、外界からの刺激に対し全身の筋細胞が、いっせいに同じように反応してしまう。
分化につれ神経細胞は集中化し、その結果すべてが同じ機能を果たす状態を離脱するようになる。つまり、神経節や脳脊髄という中枢とそれらに集中する末梢という役割分担を持つ集中神経系が出現する。集中神経系は、プラナリアなどの扁形動物のように頭に神経節をもつかご状神経系、ミミズ・ゴカイや昆虫、甲殻類などのように体節ごとに神経節をもつはしご状神経系、そして、ホヤ・ナメクジウオなどの原索動物や脊椎動物のように脳と脊髄に分かれた中枢をもつ管状神経系の順に複雑化してゆく。
つまり、動物の神経系の歴史は、散らばってまとまりを持たない神経網が集中化していく歴史である。散在神経系では一個の刺激に対しすべての細胞が同時に反応していたのに対し、集中神経系では、中枢を持ったおかげで、刺激によって生じる興奮の伝達に方向性が生れ、興奮の伝達に回路のような道筋ができるようになった。このようなさまざまな神経系を仲介役として、動物たちは外界と関わり、自己の欲求を現実化するわけである。
 
動物の行動様式は次第に自由度を増してゆく
外界との関わりとは要するに行動のことである。動物は分化の程度の異なるさまざまな神経系を仲介役にして行動する。動物の行動様式は、大きく先天的行動と後天的行動に分けられるだろう。先天的行動のうち、蛾が光に近づいたりサケが川の流れに逆らって泳いだりといった、刺激源―光や水流や重力など―に対して一定の方向に移動する行動を走性という。走性は方向性を持つ先天的行動であり、動物の最も単純で下等な行動様式になっている。
刺激源に対して方向性がない先天的行動としては、反射と本能行動がある。反射とは、刺激に対して大脳を経由せず無意識に一定の反応を示す運動である。本能行動とは、種や個体の維持という目的に叶う、反射が組み合わされて起る遺伝的行動である。
本能行動の特徴は内的条件と外的条件が満たされないと発現しないことである。すなわち、ホルモンや体液などの生理的条件が満たされているという内的条件に、外部環境から信号刺激(リリーサー)が与えられるという外的条件が加わって本能行動は生じる。たとえば、イトヨのオスの攻撃行動は、繁殖期で精巣ホルモンの血中濃度が高いという内的条件に、他のオスの腹にある赤い婚姻色という信号刺激が外的条件になって引き起こされる。
走性や反射は、大脳の未発達な動物にとって主要な行動様式になっていることから分かるように無意識的なものである。一方、大脳が発達すると経験の記憶が可能となって学習行動が生じてくる。後天的に獲得した行動、習得的行動には、慣れ・刷り込み(雛の親認識)・条件反射(パブロフの犬)などの単純なものや、鼠の迷路学習のような試行錯誤、そして洞察・推理を必要とする知能行動がある。
慣れ・条件反射・刷り込み・試行錯誤は、それまでの経験や蓄積された情報から合致するものを単純に選び出す行動であるため、未経験の状況に対応できない。それに対し、知能行動は、推理と洞察に基づいて過去の経験や蓄積された情報を組み合せ、新しい情報を作り出す行動である。だから全く新しい状況にも対応できるのである。
このように動物の分化につれて、あるいは大脳の発達につれて、先天的行動から後天的行動へ、単純な学習行動からより複雑な学習行動へと行動様式は高度化してきたことがわかる。行動様式の高度化によって、意識が行動に介在する余地が大きくなり、適応能力も行動範囲も拡大した。ようするに行動の自由度が拡大していった。
もともと自然の指示のなすがままに行なわれた、感覚−運動過程は、しだいに自由度を増加させ、ヒトにおいて頂点に達した。学習行動はすべて適応しうる環境を広げる効果をもつとすれば、最も大脳が発達しているヒトが最も多様な状況に適応可能であるのは当然であろう。すなわち、全自然とかかわるという人間の行動様式は、動物分化の経路を辿って行き着いた必然的結果である。
 
動物はからだから教わるが、ヒトはからだに教え知らせる
自分が直面している状況に対し正しい行動を取るため、頭という伝達系は自分の置かれた状況を考える*割を担うようになった。反射などの考えるという契機を全く含まない運動と比較すればすぐ理解されることだが、考えている間は、感覚−運動過程は中断される。つまり大脳という伝達系の発達は、感覚系と運動系の連関を分離するわけである。
大脳の思考とは、感覚系と運動系の間に頭が割って入って待った≠かけることである。頭のはたらきは、知覚による受容と運動組織による実施を分離し、その間にズレや延期を生み出す。ちょうどお金が売りと買いを分離し、その間にズレや延期―好不況、インフレ、過剰生産など―を生み出すのに似ている。感覚系と運動系との間に〈距離〉が生まれるのである。
大脳の発達に、「植物的直立」によって手が自由になったことが加わって、ヒトの行動は、飛躍的に自由で意識的で普遍的なものになった。このため、ヒトにあっては、他の動物と比較にならないほど習得的行動の分量が肥大化してしまった。ヒトに至って、感覚系と運動系の間を隔てる〈距離〉が極大化されたのである。
この〈距離〉が学習によって獲得した行動によって埋められる以上、ヒトとは生得的に行動する能力が極小化された生き物であるといえる。つまり、ヒトとは、行動の方法、感覚系と運動系の〈距離〉を埋める方法があらかじめ決定されていない存在なのである。神経系のはたらき方は生後学習・習得されなくてはならない。感覚系に入力される諸要素と運動系から出力される諸要素とを対応させる関数が未決定な状態で生を受ける存在なのである。
したがって、習得的行動に最大限に依存しているヒトにおいては、感覚−運動を連絡する、頭のはたらき(理性・精神)の〈文法〉は、生後の学習の状態によりあらゆるパターンをとりうる。個人の性格や思考法の違いや民族や文化による精神的習性の違いを考えればすぐに理解されることである。だから、感覚−運動過程の道筋は、下等な動物では走性や本能行動という形で先天的に決定されているが、この道筋を規定する〈文法〉をつくりあげることは、ヒトが生活してゆくための不可欠の条件である。
動物はからだから教わるが、ヒトはからだに教え知らせる。そして、からだに自然とかかわるための〈文法〉を教え知らせることは、外界との関わりを統制する頭のはたらき(理性、精神)の〈文法〉を造り上げることを意味している。ヒトの生活史とは、個体発生的な意味でも宗族発生的な意味でも、頭のはたらきの形成と変容の歴史といいかえてもよいほどである。
 
 
第四節 私≠ヘ世界を構成する
デカルトにとって意志こそ神の似姿である
このように、学習によって大脳のはたらきは確定することはヒトにとって決定的に重要である。この神経系を代表する大脳のはたらきを、身体を完全に度外視して論じたのは、言い換えれば、方法的懐疑≠ニいうメスで身体と精神を切り離すことによって、純粋な脳のはたらきを明晰判明≠ノ論じたのはデカルトであった。
デカルトは、丸腰とは言わないが、自分が学んできたどんな学問的知識や方法をも捨て去って、自分を含めたすべてに徹底的な批判を浴びせ掛けた。私が今、見たり聞いたりしていものは夢の中でも同様な本物らしさで体験することができる。だから疑わしい。数学的な真実もまた、数学的なものを真実と思い込むように精神が出来ているためかもしれない。だから疑わしい。こうして全てを疑っても、今自分が何かを疑っているという意識は疑い得ない。
こうして、かの有名な「われ思うゆえにわれあり」という命題が成立する。この命題によって考える私≠ヘその容れ物である身体から分離されてしまう。身体は確かに精神と強く結びついているが、身体から受け取る感覚もまた疑わしいからである。だから考える私≠ヘどこまでいっても頭の中を出ることはない。生粋の観念世界の住人である。デカルトは、純粋に論理をあるいは観念を展開させて自説をつくりあげる。したがって観念がよってきたるところもまた観念にもとめるほかなかった。
結果には必ず原因があるのだから、観念という結果にもまた、何らかの原因があるはずである。観念の領域の枠内で原因を求めるとすれば、観念がよってきたるところもまた観念にもとめるほかない。結果から原因へと、観念がやってきた道筋を逆にたどると、観念の原型のようなものにたどりつくであろう。デカルトはこれを神≠ニ考えた。
ある結果は無から生まれないし、完全で無限なものが完全でも無限でもないものから生まれることもない。ところで、人間は不完全で有限である。そのことが分かるのは、つまり自分に何かが欠けていることがわかるのは、既に精神の内にある、完全あるいは無限という観念と比べるからである。
だから人間は完全や無限という観念を知っている。これらの観念は不完全で有限な人間の中から生まれるわけがないから、私の外からやってきたものである。私の外にある完全で無限な存在が私の精神に刻み込んだものである。こうして、「永遠で、無限で、全知で、全能で、自己自身の除(ほか)なる事物(もの)[ども]全ての創造者たる、この上ない或る神」(デカルト「第三省察」所雄章訳)の存在が証明される。
そして、デカルトによれば、意志≠アそ考える私≠ノおける全能なる神の似姿である。イエスとノー、好きと嫌い、するとしないを決定する意志の力は、私≠フ外の力に全く左右されない自由な力だからである。意志は、私≠フ外からやってくる力に影響されないのである。
例えば現在の知識では超能力の存在を証明できなくとも、意志はその存在を、それが嘘であろうと本当であろうと、肯定も否定も自由にできてしまう。自分は万能だと考える意志という存在は、知性の謙虚さを逸脱してしまう性急なものである。人間の判断を掌る意志とは元来万能を求めるものだとわかる。
 
明証性は直観によって得られる
デカルトと同様、フッサールにとっても、意識の内側にあるもの、内在的なものだけが絶対である。意識の外にあるもの、外在的なものは、意識の内にない以上、その存在を疑わざるをえない。もし人間が、意識のなかにあるものしか知ることができないとすれば、意識の外にあるものはすべて、あるかないかも認識できるかできないかすらも判断できない「超越的」なものであることになる。
デカルトの考える私≠ェ明証であるのは、意識の中にあくまで踏みとどまり、そこから出ることをあえてしないという方法を貫いたからであった。意識に直接与えられるものしか絶対的に確実ではないと考えたからであった。もし、「デカルト的省察」が認識の正しいすがたに辿り着くための正しい方法であるとするなら、この考える私≠煖^われねばならないのは当然であろう。だがデカルトはそうしなかった。その意味でデカルトは自分自身に不誠実であった。フッサールはそう考えた。
絶対的な明証性に至るには、これ以上疑えないという地点まで疑いきることが必要である。これ以上疑うことが不可能な地点において現われるのが、「形相的直観」あるいは「本質直観」によって捉えられる純粋な現象の世界である。
不幸にして生まれたときから音を聞く機会を奪われてしまった人に、音とは何かを説明するのは難しい。だが聴覚が正常に機能しているものにとって、それが音であるか色であるかは、聞いてみれば直観%Iに分かるはずである。もちろん色であることも、それが見えるものであることによって有無を言わせず直観される。直観によって捉えられるものとはこのように直接的で疑い得ないものである。
 
現象学的還元は世界にゼロの見出しをつける
机の上にサイコロがあり、イスに腰掛けた私がいるとする。私が眼をサイコロに向け、わたしはサイコロを見ている≠ニ私≠ェ考えるとき、このサイコロがわたしの外に存在することは、当然のことながら前提されている。
厳密な認識を求めるにあたって、フッサールはこのような「自然的見方」を一切排除することを主張する。いいかえればサイコロが存在するのか存在しないのかについて「判断中止」すべきだというのである。なぜなら、夢の中でもまるで現実であるかのようにサイコロを見るという経験は可能であり、その意味でサイコロが意識の中に現象していることは確かであるがそれが意識の外にあるものの映像であるかどうかは疑いうるからである。
自分がその中にいると思っている世界を、見たり聞いたりする以前にすでに与えられている「生活世界」を、いったん「括弧に入れる」のである。つまり、自分が今見たり聞いたり嗅いだり触れたりしている世界というものについてのあらゆる判断を中止するのである。これは世界がない≠ニすることともある≠ニすることとも異なる。世界があるという極々自然な見方を判断中止し、それによって、世界はあるかもしれないけれどもないかもしれないという中間的な意識状態をつくりだすのである。
するとわたしはサイコロを見ている≠ニいう判断は、行き場所を失って宙吊りにされてしまう。今目の前にサイコロがあると判断してはならないとすれば、ある形態や色彩や、その他奥行き大きさなど様々な特徴の集合体が意識のスクリーンに写っているという状態だけが残ることになる。このとき、一緒に目に入っている自分の身体の存在も同時に括弧に括られることはいうまでもない。このように、日常的な見方を捨て、あらゆる偏見を排除して、純粋なありのままの意識対象に立ち返ることをフッサールは「現象学的還元」と呼んでいる。
意識とはつねに何ものかへの意識である。だから、意識は意識作用と意識対象の相関関係として現われるほかない。意識の持つ二つの相関項のうち、前者の作用面を「ノエシス」(noesis)、後者の対象面を「ノエマ」(noema)とフッサールは呼んでいる。
現象学的還元によって、ノエシスの側面には、純粋な意識としての私≠ェ、ノエマの側面には、「わたしの純粋な意識体験の流れ」が残ることになる。何かわからないが性質の異なる現象の塊が意識の上で流動している。何かが意識されており、意識している私≠ェいる。
こうしてたどりついた意識生命としての私≠ノおいて、ワタシ--サイコロ--ミテイル≠ニいう意識のスクリーンにおける純粋知覚―それが何であるかまだ私に開示されてない無言の知覚―だけが残る。そしてこの純粋知覚は直観的なものであって、疑いを差し挟むことは不可能である。
 
「現象学的還元とは、すべての超越的なもの(わたしに内在的にあたえられないもの)をゼロの見出しをつけて理解すること、すなわち、その実在、その妥当性をそのまま認めないで、たかだか妥当性現象として定立することを意味する。」(E・フッサール『現象学の理念』長谷川宏訳)。
 
モナド的自我は全宇宙を構成する
意識が私は考える≠ニいう状態にあるとき、あたまの中で一体どのようなことが起きているのか。意識はどのようなプロセスを経て私は考える≠ニいう状態を作り出しているのか。フッサールが問題にしたのは、意識による世界の構成というであった。そしてこの構成の問題は、日常の世界を、頭のはたらきの原型としての純粋意識の世界へ還元≠キることによって可能となるのである。
普段わたしたちは、サイコロが目に入ってからごくわずかな時間でこれはサイコロである≠ニいう判断を下している。フッサールは、外界の存在を括弧に括った上で、このプロセスを逆向きに遡る。そして、この遡行によって辿り着くまだ名前のない、あたかも胎児や乳児のような意識状態、言い換えれば無言の知覚≠ェ、どういう過程を経て再びわたしはサイコロを見ている≠ニいう判断に「構成」されるのかを調べるわけである。判断するということを歴史的≠ノ再構成するわけである。
現象学は、構成、いいかえれば対象を創造するという頭のはたらきを、自我を基盤とし、自我の中にどこまでも沈潜することによって探求するのである。意識対象を現象学的還元によって細分化=微分して、意識素のようなものに還元し、それらを今度は構成によって総合=積分することによって意識対象を改めて発見しようというのである。
意識は感覚器官を通して途絶えることを知らない無限に多様な体験の流れを受け取りつづける。この体験の流れの中に意識はある固有の不動点を、流れつづける体験のなかで変わらないある固有の存在を見出す。この不動点は「超越論的自我」―いわゆる私≠フこと―と呼ばれる。
だが、もし超越論的自我というものが、考える私≠ニしての自我にすぎないならば、Aさんの自我もBさんの自我も同じ単なる自我ということになってしまう。いかに認識が構成されるかを問題にするフッサールにとっては、個々人によって差のない抽象的な単なる自我が問題なのではない。構成を問題にするとは、多種多様の事物で埋め尽くされている自我の中身がいかにして#ュ生したかを問題にすることだからである。
そこで、それぞれの固有な境遇の下で構成された、個々人により千差万別な、体験や性質や能力などに関する具体的な内容をもった自我が問題になる。フッサールは、自分の立場を明らかにするために、この具体的な自我を、「モナド的自我」あるいは「モナドとしての私」などと呼んだ。もちろんこのモナド的自我は、ライプニッツのモナドがそれぞれの立場から全宇宙を表出するように、全宇宙をそれぞれの立場から構成≠キる。
 
一次世界のモナド的自我はすべてをふくむ
還元≠ノよって訪れる純粋な意識体験の流動状態とは、世界のあらゆる事物がまだ名前を持つ前の、別の言葉でいえば、世界が言葉によって切り取られる前の状態であり、同時に人間のあらゆる観念や表象がまだ言葉のかたちをもっていない状態である。そこでは、自我はまだ言葉をもっておらず、世界もまた言葉をもっていない。まだ言葉をもたない沈黙の世界が、純粋な意識体験として流動するのみである。逆にいえば、人間の世界とは、このような無言の意識体験≠ノ言葉を与えることによって構成されるわけである。
世界全体を括弧に入れた結果現れる無言の世界≠ヘ、世界を解明し構成しようとするモナドとしての私にとって、まだ何の手垢もついていない純粋な無である。還元$牛s後の一次世界にいる私≠ノとって、はじめ、すべては謎なのである。
世界が目の前に存在するという信念を意識的に破壊し、知らず知らずに実行している世界の構成という作業を意志の力で中止する。この、精神史を遡るような還元によって立ち現われる一次世界は、純粋に意識だけでしか経験できない領域である。個体の頭のなかに引き写された純粋な意識体験の領域である。この領域では世界も自己もまだ決まったかたちを持たず、お互いが未分化な状態である。世界はバラバラな断片にすぎず、自己もバラバラな習性からなる意識生命にすぎない。
還元によって出現する、まだ決まったかたちを持たない世界以前の世界である一次世界において、「構成する原初モナドとしてのわたし」とは、すべてである。つまり、お互いに切り離されていないのだから、この領域では自我はそのまま全宇宙なのである。構成する主体としての自我は、自らが構成した世界と自分自身との区別がつかない、というよりも一次世界のモナド的自我にとってその区別は存在しないのである。
 
受動的総合とは内臓系に対応し、総合的能作は体壁系に対応する
ところで、わたしたちのからだの中で行なわれている、酸素を取り入れ二酸化炭素を排出する呼吸や、栄養を取り入れ老廃物を排出する消化は、基本的に植物神経(自律神経)支配の無意識的過程であるから、意識して何かを考えたり、精神をはたらかせたり、頭を悩ませたりしていようといまいと、そんなことにはお構いなしに、黙々と自らに課せられた役割をこなす。
精神的なはたらきにおいても同様のことが成り立つ。サイコロをじっと注視しているとき自我は意識を能動的にはたらかせている。サイコロを漫然と見るともなしに見ているとき自我は受動的にしか意識していない。だがどちらの場合にも、たえず意識のスクリーンに作り出される映像の材料は供給されている。大きさや長さや色や形や幅や奥行きや匂いや感触等々は、仮に還元によってそれを純粋な意識体験に移行させたとしても、互いに結びつきを失った断片として意識内に残存するはずである。
消化や呼吸や血液循環のように、能動的な精神作用と関わりなく、あるいは精神のはたらきが対象を構成している間中、絶えずそのための材料を提供するのが「受動的総合」である。それに対して、能動的に対象を構成しようとする精神のはたらきは「総合的能作」とよばれる。
消化や呼吸とのアナロジーで考えると、受動的総合とは内臓系に対応し、反対に総合的能作は体壁系に対応するといえるかもしれない。内臓系とは無意識的なからだのはたらきであり、体壁系は感覚や筋肉などの意識的なからだのはたらきであった。また、受動的総合は、モナドにおける原初的観念に相当するともいえる。意識作用が対象を構成する際に必ず用いる根源的な道具・手段だからである。
 
受動的総合と総合的能作はお互いに支えあっている
だが、こうしたアナロジーは不十分なままで終わらなければならない。なぜなら、呼吸や消化などの内臓系のはたらきや、モナドの原初的観念は生得的なもので、それらが組み合わされて新しいものを創り出すことがあってもそれ自体成長・発展するものではないからである。つまり、受動的総合は、生まれたばかりの頃はデュナミスとしてあるだけで、顕在的には存在しない。発生後、精神の歴史と一緒に生成発展しエンテレケイアになるものなのである。
新しい経験に直面したとき、精神は能動的にはたらく。総合的能作は未知の対象を構成することで自己の中に取り込む。取り込まれた対象は、受動的総合に栄養を与え、その能力を向上させるのに貢献する。この意味で、受動的総合と総合的能作はきれいに分離できるものではなく、ノエシスとノエマが対になっているように、お互いにお互いを成長させる双極的な対関係を作っている。
 
「われわれは、直ちに、一部はあらゆる能動的はたらきに先行しながら、また一部はあらゆる能動的はたらきそのものを再び包括しながら、たえず新たな総合を行なう受動的形成の本質的法則に出会う。すなわち、自我の習性の中で持続している形成物としての多様な把握作用の行なう受動的発生に出会う。それらの把握作用は、中心的自我に対しては、あらかじめ形成されて与えられているものとして現われ、それらが実際にはたらくときには、中心的自我を触発し、はたらきへと動機づける。自我はいつも、そのような受動的総合〔これには能動的総合の能作も参加する〕のおかげで、対象の環境をもつわけである。
「受動的総合は、対象を認識させるものとしての解明、すなわち対象を恒常的所有物として、つまり何度でも近づくことのできるものとして構成する解明を可能にするあらかじめ知られている目標形式である…この目標形式があらかじめ知られているのは、それが発生によって生じたものであるからである。その目標形式はそれ自身、その形式を生み出した根源的創造作用を遡り示している。すべての知られているものは、根源的な習得作用を指し示している。われわれが未知なものと呼ぶものも、すでに知られている構造形式を、すなわち対象という形式、さらに詳しくは空間的事物文化的対象道具などの形式をもっているのである。」(フッサール「デカルト的省察」「第三十八節」船橋弘訳)
 
手足という体壁系によって口に運ばれた栄養が内臓系によって血肉化されるように、総合的能作という体壁系によって取り入れられたノエマ的材料は、受動的総合という内臓系によって血肉化されることではじめて解明され対象として構成される。「根源的創造作用」から発生した受動的総合は、あらゆる学習作用がそこから発生してくる最も根源的な学習の能力であり、もっと言えば、能動・受動を問わず、あらゆる意識作用の原型ともいえるかもしれない。
 
私≠ヘ身体を通じて自他を区別する
さて、還元によってもたらされた一次世界における主客未分化の状態は長くは続かない。自我が生得的にもっている「創造作用」は自ずから自我の成長を、精神の構成能力の向上を促すからである。すなわち、すべてが意識上に還元されているこの経験領域は、あたかも集合と補集合のように、「自我に固有な領域」と「自我にとって他なるものの領域」に分けられる。言い換えれば、私の領域=\対象を構成する主体としてのモナドの領域―と私でないものの領域≠ノ分けられる。
この分離の過程は、モナドとしての私が単なる純粋意識ではないことを知ることからはじまる。すなわち、自分が単なる意識生命なのではなく、いつも私と共にあり、自分の思いのままになる身体≠持った人間≠ナあることを、約めて言えば、心と身体を持った人間であることを知ることからはじまる。
それ以外のすべての対象と異なり、身体というのは、自我が直接支配できるものである。逆にいえば、身体以外の対象は自我の意志が届かないところにあり、思いのままにすることができない。初め、モナドとしての私は世界そのものであるのだが、やがて世界の中には思いのままになるものとならないものがあることを知るようになる。思いのままになる身体を知ることを通して、それ以外の思いのままにならないものとの区別は判明になる。思いのままになる身体とそうでない他のものとの比較によって、自他の間の距離≠測れるようになる。つまり、身体を発見することによって、自分と世界とが分離されていることを知るのである。
 
自我は連想によって他我を構成する
ところで、モナド的自我が「他なるもの」を認識するにあたって、「他我」認識がそのモデルになるとフッサールは言っている。ここで他我とは、他の自我、私でない自我≠フことである。構成する私だけが人間であるのでないとすれば他に無数の自我が存在するのは当然である。また、他なるものとは、モナド的自我と他我以外のあらゆる対象、動物、植物、物体など、自我によって構成され、互いに区別される特徴をもつあらゆる対象である。私というモナドは、この他なるものを構成する方法を他我認識から学ぶとフッサールはいうのである。
他我について考える場合、モナドとモナドが直接作用することはないように、自我というモナドも相互に分離されていて直接知ることはできないことに注意すべきである。サイコロの一の目を見ているとき六の目は見えていない。家を正面から見ているときその裏側は見えていない。だが一の目を見ているとき自我はその背後に六の目を確実にあるものとして想定している。家の正面しか見えないからといって、その家が書割のような平面であるとは考えず、奥行きのある家として構成するにちがいない。
ここで、いま実際に見ている一の目や家の正面を「根源的呈示」といい、いま実際に見ているものに付随してあるはずだと考えられる六の目や家の裏側を「間接的呈示」とよぶ。人間が何かを見るということが、全体を見ることを意味するのではなく、直接見ることができるのは一部だけで残りは推測しているに過ぎないということである。人間にとって世界とは、原理的に全体を知覚するのは不可能なものなのである。
この見方によれば、もし自我と異なる自我としての他我が存在するなら、自我は永遠に他我の全体と直接関わることはできない。すべてを同時に知覚できるのなら、根源的に呈示されるのなら、もはやそれは他我ではなく自我だからである。自我と他我は深淵によって隔てられているといえるだろう。
ではモナドはどのように他我を構成するのか。似ているものを思い浮かべ、似ているものに感情移入する作用である連想(連合)によってである。受動的総合の原理である連想によってである。モナドとしての私が行なう連想によって他我は生まれる。他我とは自我に由来するのである。他我が、精神と身体の複合体である人間としての私≠ノ外観が似ていることは見ればすぐに直観される。そこで私≠ヘ、最初は他我も自分と同じ存在である。つまり他我もまた自我であると考えるだろう。
だが私≠ヘすぐに自己と他我との違いに気づく。自分の身体は思いのままになるのに他我の身体はそうではないことである。自我の身体がここ≠ノあるのに、他我の身体はそこ≠ノある。私の身体はいつも最も身近なここ≠ノあるのに、他我の身体はいつもここ≠ナはないそこ≠ノある。ここに至って、その身体を思いのままにできない、自分とは異なる存在である他我なるものをモナド的自我は構成するのである。
他我もまた私と同様、心を持つことはその後で理解される。その際手がかりになるのは、他我の振舞いである。うれしいときにはうれしいように、怒ったときには怒っているように振舞うことは私とさほど代わり映えがしないからである。つまり、振舞いによって、他我の心の内容が類推されるのである。自我の経験を通して身につけた感情の原型を手がかりにして他我の心を類推するのである。
人間が他人に共感したり助けたりすることができるのは、他我とは自我の変様態であり、そのため他人に自己を見出すからである。他人に自己が移し入れられているからである。他我はまず外観が自我の身体に似ているものとして、次いで振舞いから心をもつ身体として構成される。
 
モナド的自我も調和を原則とする
モナド的自我は自己を無限に自由に変容することができるし、無限に自由に世界を構成することができる。自我は、日本列島に暮らす日本人でありながらアメリカ大陸に暮す米国人である自己を構成したり、西暦2001年の現在に生活しながら古代や未来の住人である自己を構成したりすることができる。モナドとしての私は、無限に開放的な時空性のなかで自分を表出するのである。
だが、他のモナドたち、モナドとしての他我たちは、自由に自己を変容させている私≠いままで通り、二〇〇一年現在の日本に住む日本人である他我≠ニして自我の意識世界のなかに構成するだろう。私≠ェ、他のモナド的自我がどのように対象を構成しているかを無視して、自分勝手に自己や世界を再構成しても他我の構成との調和がとれないかぎり、私≠フ世界は妥当性を持たないのである。
モナドは互いの調和を原則とするものであり、一方の能動的表出には必ず他方の受動的表出が対応する。この原則は、自我同士はもちろん、物体的実体と自我、物体的実体同士の間にも成り立つものである。物体が壁に衝突するとき、壁は物体に衝突されている自己を表出する。モナドとしての私が栄養を口に運ぶとき、栄養は口のなかへ運ばれている自己を表出する。一方が右なら他方は左、上なら下、高なら低というように、モナドの表出は互いに調和を保つように予め生産されている。これはモナドとしての私に関しても同様である。
フィリップス曲線によれば、失業率と物価上昇率(貨幣賃金上昇率)の間には、失業率を低下させようとすれば物価が上昇し、反対に物価を安定させようとすると失業率が上昇するという、互いに両立しない二律背反のトレードオフ関係がある。また、株式市場においては誰かが儲けると別の誰かが必ず損をするわけであるが、一方のプラスが他方のマイナスになるため各プレーヤーに配分される利得の和がゼロになるようなルールをもつモデルをゲーム理論ではゼロ-サムゲーム(zero-sum game)という。
モナドの調和とは、トレードオフ関係やゼロ-サムゲームに似てはいないだろうか。買い物をすればそれだけお金が減り、より長時間働けばそれだけ余暇が減少し、夏期に昼が長くなればそれだけ夜が長くなる。すべては一定の制約の下に動くのである。どんなモナドも自我も他のすべてから完全に独立に表象したり構成したりすることはできない。一つのものの変化が他のものの変化に影響を与えないことはない。
すべては従属的関係にあり、あるモナドの表出や構成は他のあらゆるモナドの表出や構成に影響を与える。この影響は全体に波及し、表出や構成がなされる環境を更新する。一方の決定とその結果は世界を更新し、他のすべてにとって新たな決定の制約条件となる。あらゆるモナドや自我は、それぞれ自分以外のすべてのモナドや自我の表現や決定を根本的な制約条件としなければならない。
 
モナド的自我は普遍的時空を構成する
そして、個々のモナドの一挙一動が自分以外のすべてのモナドに影響を与えてしまうのは、同じ時間と同じ空間を共有しているからにほかならない。モナド的自我は無限に自由に自己を変容させ、世界を構成することができるのにもかかわらず、私≠ェいつも変わらぬ同じ私≠ナあったり、駅や学校があらゆる自我にとっていつも変わらぬ場所として構成されたりするのは、あらゆる自我の活動にとって根源的形式となっている時間と空間の同一性のためである。
机上のサイコロを上から、横から、正面から、近くから、遠くから見るためには、それにふさわしい身体の位置を確保しなければならない。自我である私≠フ身体がここ≠ゥらサイコロを見るとき、他我はそこ≠ゥら見る。とすれば、自我がそこ≠ヨ移動するとき、いまや自我はここ≠ゥらサイコロを見るはずである。
何かを知覚するとき、身体はある位置を占め、この位置に応じて意識体験のあり様は変化する。身体の移動や位置の占有を保証している条件を空間というなら、知覚するとは、単に感覚器官の問題ではなく、身体的かつ空間的な問題であることがわかる。
すべてのモナドに共通な普遍的時空は、自我がいま∞ここ≠ノいるとき他我はそこ≠ノおり、移動した自我がそのとき∞そこ≠ノいるとき他我はここ≠ノいるといった他我経験を契機に構成される。他我を構成することによって、自我は自分もそのなかの一部であるような場≠ノ、自分とは別個の存在と共に≠「ることを発見するのである。
自我でない他なるものは、意識体験を重ねるにつれて、他我だけでなく人間以外の生物や無生物にまで拡張され、ついには一個の世界という共通の時空を構成してゆく。現象学的還元によって現われた言葉も形も持たない一次世界から、自我が分離し、他我が分離し、そして他なるものが次々と分節されることで世界が構成されてゆく。
次々≠ニいう言葉に表れているように、世界の意味が開示されていく過程は時間的なものである。超越論的自我は、自己の体験を時間的なものとして構成する。また、自我がここ≠ノいるとき他我はそこ≠ノおり、逆に自我がそこ≠ノいるとき他我はここ≠ノいるという、空間的関係・位置関係が常に成り立つことから、他我経験は、複数の自我が相互に同じ客観的$「界を共有していることも直観させるわけである。
無文字社会の人々や幼児が、無生物をあたかも生命があるかのように見なすのは、本来自然物は自我からの連想によって、つまり自分と似たものとしてその存在を認められたからである。人間はもともと自我しか知らず、というよりも自我しか知ることが出来ず、そのため、必然的にすべてに自我を当てはめることからあらゆる存在を発見してゆくのだといえる。
すべては自我なのであるが、天然自然に生命を―すなわち自分自身を―見ていた幼児たちが、意識体験の蓄積とともにやがて大人が見るような目で―いわゆる理性的・科学的な見方で―それらを見るようになる。つまり自我だと思っていた自然が、実はそうではないことを知ってゆくのである。
こうして、構成する主体としての自我は、宇宙全体と一心同体である段階から、根源的創造能力である連想によって、自我に似ているものと似ていないものに、言いかえれば内と外≠ノ分割し、分割された結果できた部分はさらに内外に分割される。あたかも無限に進行するかのようなこの過程によって、構成されつつある世界は、しだいに客観的かつ普遍的な様相を帯びてくるのである。
 
現象学的構成は世界を変えるか
フッサールの考えでは、明晰判明な絶対的に正しい認識を追及することは、同時に存在の意味を問うことと同じことである。なぜなら、現象学的にいえば、認識とは意識対象を構成することであり、存在とは意識の構成によって与えられた対象のもつ「意味」だからである。
サイコロという思念を認識するとは、知覚対象となり意識の流れの中にある、まだ何ものでもないサ・イ・コ・ロ≠ニいう現象を開示し、サイコロ≠ニいう意味を付与することである。思念対象の開示とは、その思念対象がどのような意味をもつか、つまり真か偽か、客観的なものか主観的空想にすぎないかを解明することなのである。
だから、フッサールにとって存在とは意味である。認識論がそのまま存在論になっている。ここで追求されるのは、あくまでも絶対的に正しい認識に至るための絶対的に厳密な学問の方法である。すでに知覚の対象になっているものをどうすれば正しく知覚できるかに関する厳密な方法の探究である。超越論的現象学によって、世界は解明≠ウれるのであって、変えられる≠フではない。
自分でもそれがどんなものかはっきり分からないが、漠然と存在して欲しいと思われるもの、頭の中にあるだけで現実に存在しないものを存在させたいという願望の領域、今現実にこのようであってそれ以外ではないこの世の中でそうでない世界を願望し、願望するだけでなくまだ存在しない世界を創り出そうとする生の領域、正確な言い方ではないかもしれないが、いわば意志の領域≠ヘ現象学では明示的に扱われているとはいえないのではないだろうか。
フッサールは、このような意志的な力をことさらとりあげては論じていないように見える。あえて言うとすれば、「偉大な意志」を見て取れると明晰判明にいえるのは、自己を確信し、「厳密な学」をひたすら追い求め、現象学の理念をどこまでも微細に築き上げようとするフッサール自身のなかにであるに過ぎない。
モナド的自我による、連想(連合)あるいは連想に基づく感情移入が、あらゆる事物―他なるもの―を構成される根源的作用であるとすれば、すべては自我の類似物であるということができる。連想能力が自我にとって最も原型的な能力だとすれば、自我とは本質的にすべてを自分自身にひきつけようとする性質を持っていることになる。自分にひきつけるとは、自分の中に取り込むことである。もちろん、取り込んだ後で自我との違いは吟味され、最終的にそれが自我と区別された対象として創造されるわけであるが、その背後には絶えず客観的な判断を裏切って他物を自我と同一化しようとする力≠フようなものが作用しているといえないだろうか。
モナドとしての私が持つ具体的内容がいかにして構成されたかを尋ねることは、意識のノエマ的側面を尋ねることである。意識はノエシスとノエマの相関関係として現われる以上、この探求はノエシス的側面においてもなされなければならない。根源的創造作用という生得的かつ原型的な能力から生成する受動的総合に関する考察は、ノエシス的側面の探求になっているといえる。だが、理性的で客観的な世界はいかにして構成されるかを問う方に重心を置いているフッサールにあっては、連合を原理とするこの創造作用そのものの特質が解明≠ウれているとはいいがたい。意識の原型的習性ともいうべきこの作用はさらに考察されなければならない。
 
 
 
第四章 心の中では、すべて原初のままである
 
第一節 神経症者は心の原型を教え知らせる
神経症者は神経症的通貨を用いる
フロイトは強迫神経症患者の臨床像から、彼らに固有な頭のはたらきを、すなわち「観念の万能」という思考特性を導き出した。強迫神経症者にとっては、「体験の現実」は何ら問題でなく、考えられたことだけが重要である。なぜなら彼らにとっては、自己から分離された外界というもの、あるいは外的現実の価値はすでに消失してしまっているからである。
彼らには「神経症的通貨」(フロイト「トーテムとタブー」西田越郎訳)しか通用しないのであって、頭のなかに流通する激しい思考、情念の込められた観念、それだけが「世界」にとって価値あるものである。円通貨≠ェ海外で通用するかどうかが日本にいるわたしたちにとって問題でないように、神経症的通貨が外界(現実)で通用するかどうかなどは彼らにとって問題ではないのである。神経症的国家≠ノいるかぎりは、観念という神経症的通貨は、あたかもマジックのように、何でも買える「万能」をもつ道具だからである。
神経症とは、今現在を生きることをあきらめて精神史の経路を退行することであると、すなわち、頭のはたらきのレベルで乳幼児期に還ってゆくことであるとフロイトは見なした。神経症とは、精神史における現在の段階に、本当ならとっくに過ぎ去っているはずの過去の段階である原初的な全能感が現われ、頭のはたらきを変容させてしまうことである。動物の個体は、体壁系に属する表皮を境界にして、その一方にある無限に外に開かれた外界と、他方にある内に閉じられた自然としてのからだに分かたれる。外界とからだの存在はわたしたち人間にとっても前提になる条件である。外界とからだは、人間が認識を構成するときの制約条件になっているのである。構成する主体である自我は、この制約の下で、もっとも妥当性のある解を導く。普遍妥当な正しい認識とは、外界とからだという制約条件の下で、いわば意識関数≠フ最大値を求める最大化問題を解くことによって最大妥当性に到達することである。
いわゆる正常≠ネ認知構造においては、からだと外界の課す制約条件は遵守されている。正常な認識がその正常さを失ってしまうとき、原初的全能性は何らかの形で認識の構成の過程に茶々を入れている。こうした全能性による認識構成への介入の可能性は誰にでもありうる。つまり異常あるいは病的な認識を構成する可能性は誰にでもある。そして可能性の大小は、個体の発生過程のあり方に依存するだろう。
 
はじめ、自己と外界は一つである
このように、神経症の病像が精神史の原型を顕にすると考えた彼は、個体の精神史の初期に、頭のはたらきに対する過大評価である観念万能を特徴とする「自己愛的段階」を設定したのである。自己愛的段階においては、「リビドー的刺激源」から生じた表象と、それ以外の源泉から生じた表象の区別がつかず、両者の境界ははっきりしないという。これが自己内から生じた表象と自己外から生じた表象との無差別を意味しているとすれば、次のようにいいかえることができる。乳幼児期の人間は、内臓系を刺激源とする表象と体壁系を刺激源とする表象の区別がつかないというふうに。自己の内側と外側の区別がつかないのである。自分と外界の境界が存在しない、自分=外界≠ニいう段階である。
自分が全世界であるのだから、すべてを自分の身体であると思い込んだとしてもしかたがない。自分が全世界であるのだから、必ずしも自分に関心を持ってくれたりかまってくれたりするわけではない世界というものの存在をいまだ知らないのだから、自分が世界の存在を知らないということにも気づいていない。自分が世界の存在を知っていないということを知らないのだから世界を知ろうという意思も生まれない。
自然なる母≠ニ一体である胎児においては、肌の延長である胎盤の絨毛で、植物性機能である栄養摂取・ガス交換・排泄のすべてが行なわれる。胃腸・肝・肺・腎などの内臓器官は、まだ働いていない。胎内にいる以上外界は存在しておらず、感覚器官も未発達な状態であるから、外的刺激も存在せずその受容による外的感覚もまだ成立していない。臍の緒によって母胎内に植≠っている胎児は、外形的にも自己と外界の区別はなく、また、欠乏というものも知らないであろう。
出生以後も胎児の口は乳房(あるいは乳房の代替物)とつながっているので、栄養の心配はいらない。しかし、胎内での暮らしに比べれば欠乏の声は意識にのぼらざるを得ない。どんなに子煩悩に育てたとしても、すでに母体から離れた別個の存在である乳児のあらゆる要求を満たすのは不可能であろうからである。したがって出生後、乳児の生のなめらかな連続性を断ち切ってしまう機会は増加するであろう。
にもかかわらず、母子一体の胎児も一般に絶えず愛情と世話の庇護のもとにある乳児も、基本的には内外の区別の存在しない世界の住人である。こうした存在様式は、自然という身体の器官であるため自己=外界という等式が成り立っている植物のそれに似ている。この意味で、人間の個体史は、とりわけ自己=外界である胎内に象徴される、植物的段階≠ゥらはじまるといえるかもしれない。
 
観念万能の母胎は内臓系である
体壁系も内臓系も十分に機能していなからといって、胎児が何も表象していないわけではないらしい。臍の緒という命綱を通して、母親の心理的身体的変化を感じ℃謔チているようである。母親の心身上の変化は、代謝の変化を引き起こし、その変化が臍の緒を通して母胎内の胎児に伝達されるからである。この点を考慮すれば、人間の表象というのはそもそも内的≠ネものであったと推測できる。外的な刺激源による表象は後から加わるのである。
一旦胎児が母胎の外へ出てしまうと、すなわち出生すると、からだの内側と外側の区別が必然的に生まれる。これに対応して刺激源にも内的と外的と二種類生じる。だが、自己愛的段階ではまだ両者の区別がつかず、こうした状況が観念万能を生むとされる。もし胎児が母体内で何らかの表象を持っていたとするなら、その表象は外的刺激なない以上内的≠ネもののはずである。すると、外的刺激と内的刺激の区別がつかないとは、出生後にはじめてやってくる外的℃h激を、出生前から活動している内臓系のはたらきに依存する内的℃h激と同一視していることになるだろう。したがって観念万能というのは、内的刺激の発生源である内臓系をその器官として発生しているといえるだろう。
人間は、自然のなすがままである植物とも動物ともちがい、頭で生きる生き存在である。赤ん坊は自然とやりあうにはあまりにもからだが未発達であるが、内臓系の生への衝迫はこの世に生み出された彼を突き動かすことをやめない。乳幼児期の人間が自然の中で〈生存〉してゆくために残された手段は、頭のはたらきだけであったろう。そこで、自己愛的段階にある人間は、頭を手足に代わる万能の道具とし、これによって世界が自分の思うままにできると信じることになる。内外の区別がつかないので、頭の中を思いのまま≠ノするように外界をも従わせようとするのである。頭に思い浮かべたことがそのまま現実になると思い込んだのである。
 
個体発生は宗族発生の再現である
フロイトの方法の特質として、もう一つ、個体発生と宗族発生の重ね合わせをあげることができる。個体発生と宗族発生は正確に反復することは、生物学の場合と同様、ないであろうが、個体発生のなかに宗族発生のおもかげ≠認めることはできるだろう。つまり、個体発生は宗族発生の、速やかに進行する再現であるということはできるだろう。
この方法によれば、はじまりの段階での頭のはたらき(精神)について、個体≠フ乳幼児の精神生活から人類¥炎の精神史を再構成することができる。すなわち、彼の段階設定によれば、個体史における自己愛的段階は人類史における「アニミズム的段階」に対応し、両親とのつながりが重要な「対象発見の段階」は「宗教的段階」に対応し、外界と適応しながら欲望を満足させる「成熟状態」は「科学的段階」に対応するという。
フロイトによれば、神経症者は、症状の形成過程で、自分のたどった精神史をさかのぼるだけでなく、同時に人類の精神史をさかのぼっていることとなる。神経症者はいってみれば精神の原型を思い起こしているのである。だから、神経症者が用いる神経症的通貨とは、原型的通貨≠フことであるということもできるかもしれない。
こうして、内臓から発する知覚(内臓感覚)と体壁から発する知覚(動物感覚)を区別できなかった初期の人類は、内臓系あるいは体壁系から頭へ向かって刻々と浮かんでくるすべてのものに過大な信頼を寄せてしまった。それがまさに彼らにとってすべて≠ナあったからである。
 
 
第二節 原初の心は世界を支配しようとする
観念万能は呪術を生む
ES細胞があらゆる方向へ発生しどんな組織や器官にでも変化しうるように、観念の力があらゆる方面へ及ぶとする、この観念万能への信仰は、思考によって外界を支配しようとする意図をもった技術、すなわち呪術≠生んだ。呪術とは、自然が霊化―アニミズム化―される以前から存在する自然支配のテクニックである。アニミズム的段階の前提をなすものであり、臨床的には確かめられないが、起源はアニミズムを遡るといわれる―おそらく胎児期がそれではないか―。
呪術の原理は、タイラーの「観念的関連を現実的関連ととりちがえること」という簡潔な言葉によっていいあらわされている。観念の世界と現実の世界とのとりちがえであり、頭で考えたことが現実そのものであるという思い込みである。観念の秩序と自然の秩序のとりちがえであり、思考の支配と自然の支配とのとりちがえである(フレイザー)。思ったことは必ず実現するという、また、思ったことはそのまま現実であるという信じ込みである。これこそ人間がこの世で生き抜くために使った最初の武器であった。
しかし、動物とは合成能力を欠いた生き物であるから、中枢神経系である脳でなにかを思うだけでなく、自らを仲介にして感覚−運動のプロセスを実行しなければ自らの欠乏は全く満たされない。動物は、地球の重力にさからいながら、泳ぎ(魚類)、のたうち(爬虫類)、飛び(鳥類)、歩く(哺乳類)ことでやっとのことで生きている。思うだけでは現実には何も起らないことは自明のことである。呪術のみに頼るだけで自然から糧を得ることをしなければ、頭の全能感を代償にからだの死を招き入れることになるのである。
 
内的知覚と外的知覚は区別されなけばならない
内臓のはたらきを心≠ニみなせば、ヒトの特長とは、肥大化した脳によって、宇宙と共振する心―内臓系―の声を、一個の映像として浮かび上がらせることである。ヒトとは心が目覚めた動物なのである。植物は欠乏を知らず〈存在〉することが〈生存〉することである。動物は欠乏を生命記憶の指示のままに〈生存〉に変える。ヒトは欠乏を心の声として受け取る。遠≠ネる内臓の声は、それ自体では現実との通路をもたないおぼろげな映像として頭にあらわれる。はらわたに秘められたヒトの心は、無明のイメージや表象として意識上に浮かび上がる。
だが、頭が受け取るのは、はらわたの声なき声だけでなく、五感へ差し込んでくる森羅万象の諸形象もある。受動的総合という根源的能力をもつ人間の頭には、内臓の声が欲望として現われるだけではない。森羅万象のすがたかたちが、おのおの固有の映像として頭のスクリーンに表象される。人間は内外から絶え間なくやってくるこれらの表象に心情を揺り動かされないわけには行かない。心の目覚めによって、人間にとっての森羅万象は、もののあはれ≠フ世界に変貌する。
不分明で複雑にからみあっているこれら頭のなかの映像から、内臓系を源泉とする内的知覚と体壁系を源泉とする外的知覚を区別し、外的知覚をどのように組み合わせれば、内的知覚を満足させることができるのか。外的知覚を頭の中で、どう結び付ければ生存を可能にする行動を生み出すことができるか。内臓の要望と体壁の要望をどう噛み合わせ、構成すれば人間が生存可能なのか、より快適に生きていけるのか。〈生存〉を表出できるのか。そのためには何よりもまず外界を見出すことが先決であった。
 
動物器官の使用が外界を生む
動物の心が眠っているのに対し、人間の心は目覚めている。人間は、動物のように手足に虐使されるがままでなく、頭のはたらきによって、意識へこだまする内臓波動を他のものから区別して切り取り、それを「対象」として構成できる。人間が意識された生命活動を行いうるのはこの目覚めのおかげである。
自我とは、はじめはすべてを含んでいるが、意識的な活動、すなわち頭による動物器官の使用によって、しだいに「外界」を自分の中から排除してゆく。動物器官の意識的な使用によってはじめて自我から外界が生まれるのである。
 
「われわれは、感覚活動の意識的な統制と適当な筋肉運動によって、自我に所属する内的なものと外界に由来する外的なものとを区別することを学び、それによって、今後の発展を支配することになる現実原則設定への第一歩を踏みだす。」(フロイト「文化への不満」浜川祥枝訳)。
 
外からの刺激が内なる表象に変わり、内なる表象が外への運動に変わる。外から内へ、内から外へ相互に浸透しながら、人間にとっての外界は造られてゆく。感覚器、神経(大脳)、筋肉によって「現実」は造られてゆく。
たとえば、「ノドの奥にはえた腕」とよばれる舌は内臓触覚であり、幼児期におけるなめまわし≠ヘ、内臓感覚のレベルで外界のすがたかたちを記憶させ、血肉化させる。舐めまわしの記憶は、受動的総合作用を経て認識の後見人となり、この内臓感覚を土台にして、手足による撫でまわし=Aそして目によって舐めまわす≠謔、に見ることが可能になってくる。舌・唇・顔・手のひらなど、からだの表面に張り巡らされたあらゆる感覚器とその運動による外界感受の記憶の裏打ちがあって、はじめて知覚や認識が成り立つのである。
このように、個体は、自分の手足の使用法を出生以後、多くの苦労と時間をかけながら身につける。手足の使い方とは外界の要求にからだを合わせる方法を意味しているのだから、外界がどんな形をしているかを知ることと同じである。人類のレベルでもまた、技術・道具の使い方を、あるいは、習慣、風俗、道徳などさまざまな制度のなかでの生き方を、すなわち第二の手足である非有機的肉体の使用法を、生物史への登場以降、大量の労力と歴史的単位での時間を費やして身につけてきた。
というのも、身体の未発達な乳幼児が外界を思うままにする手段を欠いているように、初期の人類は、自然を支配しようにもその手段を欠いていたからである。科学も技術もないどころか、自らを圧倒する自然の威力を感じるのみでそれに挑んでゆくための知識など全くない状態から人類史ははじまったのである。
 
ヒトは死から逃避する
「空の鳥は蒔くことも刈ることも倉に取り入れることもしない。野の草は働くことも紡ぐこともしない。けれど神は養って下さる。明日のことは明日自身が思い煩うのだから明日のことを思い煩ってはいけない。」マタイ伝はこうわたしたちに教える。たしかに神の創り給うた自然とは、比類なき偉大さを現し、無限の豊穣さを湛えている。空の鳥も野の草もそして人間も自然に養われていることは疑いない。にもかかわらず、自分というものを持ち、その自分が自分自身を思い煩うということが人間には可能になってしまった。人間はこの教えに対してどう振舞ったのだろうか。
ヒトが自ら栄養を造り出せるのならば、生のリズムに自分を重ね合わせて生きてゆくだけだったろう。だが、動物であるヒトは、自然に頼らなければ一刻も生きてゆけない宿命を負っている。そこに〈存在〉するだけではそこで〈生存〉できなくなったのである。自己の置かれたこの境遇を、心の目覚めたヒトは、頭のスクリーンにのぼせざるをえなくなった。ヒトとは、自分が宇宙リズムに組み込まれた存在であり、しかも、永遠回帰的に続くそのリズムに比べればほんの一瞬にも満たない吹けば飛ぶような存在であることに最初に気づいた生き物である。
刻々と迫ってくる欠乏の声を自ら聞き取ってやらなければ、母なる自然は暖かく包み込んでくれるどころか無慈悲にも死出の山へ追い込んでくる。植物にとって自然は、太陽を心臓とし、自分をその毛細管とする大いなる天空の循環体であるが、動物にとってはよそよそしさが伴うものであるだけでなく敵意をもっているかのごとく向かってくることもあることを、ヒトは眠りから覚めた心によって知るのである。つまり自分たちがまったく「寄辺なき存在」であるということを。
この気づきによってヒトは自分の寄辺なさを意識にのぼせ、この意識を前提として、自然と関わりを持つ必要を、さらに自然を支配する必要を認めるようになる。死への恐怖こそヒトに自然を敵視させ、自然支配の動機をあたえるものであった。同時に、動物性器官による、生の本体である植物性器官への介入および支配はここから加速しはじめる。
生の波からすれば、日々繰り替えされるまさに自然≠ネことがらである、この死というものの否定こそ人間に意識的活動を、意識された運動を行わせる契機となった。文化とは死からの逃避であり、生の恒常性に奉仕する有形無形のあらゆる手段である。これによって、死がやって来るのを―できることなら無限に―遅らせようとすることは、食と性の永遠回帰的な交代を断ち切ることを意味した。
 
「『生とは死に抗する諸機能のアンサンブルである』という先人の言は人間感情のある切実な一面を、端的に表現したものであろう。そこでは、『生』が『死』に立ち向かうひとりの“抗争者”として、いわば互いの力関係の中で捉えられているが、われわれはこれまでの考察から、こうした見方の根底に、永遠を祈念する『自我』の固必性が根強く横たわっていることを見ないでは済まされない。生の流れには、その果てしなく続く波に乗って色鮮やかに交替する『食』と『性』の二つの相貌が、ただはるかに望見されるのみである。それは『目標も目的もなく終始する』宇宙の波の、まさにきらめくひとつの映像といえるものであろう。」(三木成夫『生命形態の自然誌 第一巻 解剖学論集』)。
 
「永遠を祈念する」自我は、死の恐怖から逃れるために、あらゆる手段を講じて内外の自然である内臓系と外界とを手中に納めようと苦心に苦心を重ねてきた。そしてそれはある程度上手くいっているといえるだろう。それでも少なくとも現在の段階では、生が相変わらず「目標も目的もなく終始」することには何の変更も加えられていない。この生のリズムと自然史の新参者であるヒトの頭の間には、適切な均衡解はまだひとつも見出されていない。
 
自己意識によってヒトと動物の違いは際立つ
ヒト以外の動物も寄辺ない存在であり、必死に動≠ュことをしなければ、死をまつほかない。動≠ュことが〈生存〉のための大前提である。ヒトをも含む生物史的観点から見れば、動物は分化するにつれて学習行動の範囲を拡げ、ヒトにおいてその範囲を極大化したと見ることができる。この観点からは、ヒトと他の動物は、連続面において、あるいは生物という大枠の中で、区別なく把握されなければならない。
一方、人間の特質を際立たせたいという観点からすれば、心の目覚め、言い換えれば自己意識をもつか否かという規準が重要になる。この観点で見れば、ヒト意外の動物は、鳥の渡りや魚の母川回帰からわかるように、基本的には、内臓のはたらき、すなわち心の声なき声のなすがままに行動するといってよいだろう。
植物器官は、体壁系に隔てられながらも、DNAに刻印された生命記憶が宇宙と交響する結果、四季のリズムに正確に呼応する。そして動物たちは、精神によってリズムに介入することがないから、このリズムに呼応しつつ食と性を営むわけである。この生命記憶の産物こそ俗に言う本能≠ナある。動物たちは、学習による適応が自然のリズムを妨害することなく行動することができている。
一方、ヒトは、感覚−運動器官の「意識的な統制」によって、外界の森羅万象と自分の区別を知るようになるが、いまだ観念万能を実現しようとする欲望を捨ててしまったわけではない。寄辺なきヒトには、ほかに頼るべき武器など何もなく、徒手空拳で自然に立ち向かわなければならなかったからである。
 
人間は世界を霊で充満させる
だが、現実は思いのままにならないからこそ自分自身とは区別される現実なのであって、この欲望はあるいは葛藤に陥り、あるいは挫折せざるをえない。このとき人間は、断念を強いられた情動を、すがたかたちを宿した森羅万象に「投影」することによって人格をあたえたのである。意識のもつ根源的創造能力である連合能力によって、自己をとりまく「他なるもの」すべてに、意識生命としての自我を投影したのである。
霊や悪魔はこうしてこの世に住みつくようになった。鬼やもののけ≠竰チ守の神や七福神などをはじめとする八百万の神々がわたしたちとともに暮らすようになったのである。「他なるもの」すべては生命をもつと見なされ、霊的存在と化した。アニミズム的段階のはじまりである。
 
「世界を人間の霊で充満せしめることによって、また自己自身の心の内部の出来事を自己陶酔的に過大評価することによって、観念の万能およびその上に打ち立てられた呪術のテクニックによって、また念入りに段階づけられた魔法の諸力を他の人物や事物(マナ)に配分することによって、あるいはまたこの発展段階にある無制限の自己愛が、それをもって、現実からの間違えようのない抗議に抵抗するところの、あの創造物のすべてによって特徴づけられている、あのアニミズムである。そしてわれわれすべてはそれぞれの個人的発展のうちに、原始人のアニミズムに相当する一時期を通過しているのであって、またこの一時期は、いまだに何かの折に外に現われる力を持った残滓や痕跡などを残すことなくしては、われわれすべてから消えてなくなることのないようなものなのである。」(フロイト「無気味なもの」高橋義孝訳)。
 
この段階における自然現象は、メートル・キログラムなどの量的単位や仕事・エネルギーなどの力学的概念や運動方程式・状態方程式などの数式でなく、森羅万象に宿る霊の仕業であると考えられている。風が吹くのは、気圧が変化するからでなく、あるいは霊が喜びをあらわしているからであり、あるいは霊が怒りをあらわしているからということになる。人格をもった森羅万象は、そのあらゆる変化によって、人間の心に語りかけてくるように思われてくる。
太古の人間にとって、人間と動物、動物と植物、生物と無生物、これらの区別は一切存在せず、すべてはそれぞれの形態をもった生きものであった。風はささやき、大地は眠り、お日様はほほえみ、激浪は怒る。フロイトが言うように、こうした段階を、太古の人々だけでなく、われわれすべてが個人史の一時期に通過していることは、周囲にいる子どもを見れば、また、自分の記憶を遡ろうとしさえすればただちに理解されることである。
アニミズム段階において、観念万能の力は一部霊に譲り渡され、呪術は人の姿をした観念である霊に対する命令というかたちをとる。人間は、霊が生命を与えることで人格化された自然を、他の人間をわがものとするときと同様に支配しようとする。死の恐怖―〈存在〉と〈生存〉の分離を頭がとらえたもの―は、万物に霊が宿ることでひとまず回避されるだろう。肉体が死んでも霊魂は不滅であるからである。もはや役目を果たさなくなり、肉体を離れた霊魂は新たな肉体に宿ることによって、人間に―ヴァーチャルにではあるが―不死≠もたらす。霊魂の転生輪廻とは、個体の生存期間を仮想的に延期することなのである。
 
人間は、最初、自然を心理的に支配する
人間は確かに他の動物と同様、頭という体壁系を用いて自然にはたらきかけた。しかし、それは手足や牙や爪によって獲物に襲いかかるのでなく、外なる自然に人格を与えて自分の手の内に引き込むことであった。のちの物理的支配のために前もって心理的に支配しておこう、実際に手≠つける前に唾をつけておこうというわけである。これは「対象の発見」以前に人類が最初に行なった自然の対象化であるといえるだろう。
わたしは、これこそ労働の原型であるといいたいところだが、対象化し、支配したはずの自然はもとのままでまったく自分の姿を変えていない。〈生存〉の手段として、頭による自然支配ではいかにも役に立たないと思われた。どうして頭の中に食べ物を思い浮かべただけで、目の前に望みの食べ物が現われ、空腹を満たすことができるだろう。
いうまでもなく、お腹一杯になりたいと思っただけでは現実に満腹になることはできない。リンゴが欲しければリンゴの木に登り、枝にたわわに実ったりんごをもぎ取ってこなければいけない。これがスミスのいう「労働」であり、「労働価値」とは、こうしてリンゴに対象化された労働をいうのである。
しかし、自然にはたらきかけ、それによって自然が労働の投入された作品になるという考え、そして、この「非有機的肉体」としての作品は、はたらきかけの度合に比例してますます労働が投入され、価値が増加するという考え、この考えは―現代人も忘れつつあるが―どうやら近代人の偏見らしい。
なぜならヒトは、手足によるはたらきかけによって自然を支配する以前に、自然の霊化≠ニいう方法によって手っ取り早く頭によって自然を支配したからである。だから、アニミズム段階では、万物に労働ならぬ霊が投入≠ウれており、霊威≠ノよってモノの価値が決定される。この場合、モノとは、わたしたちが考えるような唯物でなく、質料としての素材と形相としての霊の組合せと見なすべきだろう。
この段階では、あらゆる自然の変容には霊がかかわる。当然、ヒトによる自然の変容(対象化)、あるいは自然物や財の移動も、同時に霊の変容、霊の移動を結果することになる。霊の力を媒介にするモノの移動、すなわち贈与≠ェヒト相互の交換をとりしきる。労働が財の価値をつくりあげるようになるのは、自然に対する手足の力―非有機的肉体の力―が一定の水準に達するまでまたなくてはならない。
頭によって自然が支配できたのなら、何も自然の霊化などせずともよかった。呪術のみで生きてゆけるのだから。現実には自然は呪術によるはたらきかけなど全く問題にしない圧倒的な優越を保っていた。自然という大きな波にとって、そのうねりでヒトを一飲みにすることなどたやすいことである。
自然という大波の一滴にすぎないというヒトの自覚―oh inch of nature!―は、自然への畏怖とともに死の恐怖をもたらした。が、寄辺なきヒトには呪術以外に自然を利用する術がない。しかも外界という自分と異なる巨大な力が存在するが、いまだそれを素直に認めるには至らないという精神の状態が、自然を人格化するという措置をヒトにとらせたのである。
観念の万能が、自然という巨大な力にぶつかり変容を迫られてできあがったのが、霊の観念なのである。霊とは、ヒトの置かれた状況―寄辺なき状況―に合わせてかたちを変えた観念万能である。死への恐怖を、世界支配への願望で乗り越えようとしたヒトは、頭のはたらき≠ナ、まだおぼつかないからだのはたらき≠代用したのである。
 
霊とは自然の時代≠フ、労働とは人間の時代≠フ観念万能である
ヒトが外界に関する知識を増加させるにつれて、からだのはたらき≠ヘ自然を利用するための技術を手に入れるようになり、自然に対する優越が増してくる。自然の威力に対する畏怖はヒトの非有機的身体の分化・発展とともに消えてくる。霊の力は次第にその威力を低下させ、からだによる外界へのはたらきかけ、つまり〈労働〉―人間≠ニいいかえてもよい―が自然とモノの世界を隙間なく覆いその権力を拡大させてくる。
わたしはどうやら労働も霊観念ももともと一つであり、意識そのもののメタモルフォーゼしたものだといいたいらしい。形態は環境によって、環境に対してつくられるとゲーテはいっている。自己と外界、ヒトと自然の境界が定まっていない時期の頭のはたらきを観念万能と呼べば、観念万能が、環境によって、環境に対してかたちをとったのが、労働と霊であるといえる。霊とは自然へ抵抗する術をもつ前に、労働とは自然へ抵抗する術を獲得したあとに、それぞれつくられた。両者の構成時の環境、制約条件の相違がそれぞれの形態の相違を決定づけている。
一方の端に霊概念をもう一方の端に労働概念を置けば、一方ともう一方は切れ目なく連続しており、現在に至るあらゆる時期の自然観はこの二要素の混合からできているといえるだろう。もちろん霊も労働も観念万能が環境とのやりとりを通して変容してきたものであって、自然観を造り上げる永遠不滅の要素とはいえないのはもちろんである。霊観念が労働観念へと変容したように、将来のいつか、周囲の環境や制約条件の変更を契機に働観念が別の形態に変容することは多いにありうることである。
だから霊とは自然の時代≠フ観念万能―呪術といってもよい―であり、労働とは人間の時代≠フ観念万能である。呪術とは自然の霊化をもとにする労働であり、労働とは科学をもとにする呪術である。
 
ヒトは〈生産〉しない
動物が動≠ュことによって捕食をしなければ生命を維持できないのに対し、植物は植≠ったまま合成を行なうことで生命を維持することができる。植物は四大―すなわち無機的環境としての自然―から栄養を合成することによって自己を生産し、草食動物は植物を消費(消化)することによって自己を生産し、肉食動物は草食動物を消費(消化)することによって自己を生産し、そして、ヒトはヒト以外の動植物を消費(消化)することによって自己を生産する。
こうして、植物は純粋な生産者≠ナ、動物は純粋な消費者≠ナある。植物(器官)とは、普遍的な生の営みである食と性から生み出される価値―交換価値あるいはシニフィエ(意味されるもの)―の源泉であり、動物(器官)とは、外界との関わりから生まれる価値―使用価値あるいはシニフィアン(意味するもの)―の源泉である。
商品がさまざまな使用価値によって自己を表出することで交換価値に形態≠与えるように、記号がシニフィエをさまざまなシニフィアンで表現するように、動物は食と性という交換価値を、さまざまな感覚−運動という使用価値―泳ぎ、のたうち、飛び、歩く―で表現する。感覚−運動という使用価値が実現しようとするのは、いつも栄養−生殖という交換価値なのである。
この考えに従うならば、スミスから始まるような価値概念、リンゴの価値はそれをもぎとってくるのに必要だった労力を源泉としている、という価値概念は誤りであることになる。リンゴの価値は明らかにリンゴ自身の〈生産〉活動の賜物だからである。ヒトはもいできただけで〈生産〉していない。自然から奪っただけである。自然の果実を利用する最も原初的な手段である採取活動は、労働の原型から搾取の原型とでもいうべき像に変貌してしまう。
スミスの価値概念を正当なものであるというためには、ヒトはヒト以外の自然物よりも優位であるという前提を認めなければならない。そう認めれば、優位にあるヒトが劣位にある天然自然に触れることによって自然はよりよくなると見なすことが可能になる。リンゴの価値はリンゴをもぎとるのに必要とする労力に比例するということができる。ヒトは生産≠キる、といってもよいことになる。
人間が価値の源泉であるとするような人間中心の自然観が生まれる前は、過剰に自然物を消費することは差し控えられたであろう。なぜならヒトは自然の生産物を贈与され、それを消費することによってしか延命できなかったのだからである。動物の消費能力は、植物の生産能力を超えることは原理的にありえなかった。近代以前、〈生産〉するのは植物を中心とする自然であり、ヒトを含む動物は〈生産〉しなかったのである。あるいは、ヒトがヒトであることによって価値の源泉であるという前提を採用しないとすると、この世に生まれてからヒトはただの一度も〈生産〉などしたことはなかったし、〈価値〉を創造したことなどなかったということもできる。
 
贈与とは自然の時代≠フ、等価交換とは人間の時代≠フ財の移動である
こうした人間の自然との関係に対応して、労働≠ェ後退し霊≠ェ前景に出てくる。木になったリンゴをもぎ取るための労働が価値の源泉である前に、リンゴにもそれがなっている木にも霊が潜んでいると原初の人間には思われた。霊観念はあらゆる自然物に等しく吹き込まれており、人間は他の動物と同様の権利しか持たなかった。人間という霊だけが特別に尊重されるということはありえなかった。
もともと自身で霊化した自然だが、一旦霊化が完成されてしまうと自分がそうしたことなど跡形もなく忘れしまうため、人間には霊という人格によって自然が支配されているように映ってくる。こうして、人間が自然に価値を与えるのではなく、自然が人間に威力を与えるようになる。いれずみを彫ったり、鳥の文様の服を身に付けたりすることは、その対象物の力を身につけることであり、動物や植物を崇拝することはその属性を身に付けることであった。
霊化された自然の世界では人間は〈生産〉しないから、木を切ったり、漁で魚を捕ったり、狩で動物を捕まえたりというようなあらゆる行為によって自然が人間化(価値化)されるのでなく、自然を包む霊の秩序に変動が起こる。万物は霊の乗り物だからである。したがって、すでに自分の所有物としたモノが、別の人間に渡ったり、奪われたり、なくなったりすれば、霊の世界には元の状態へ復帰しようとする傾向があるので、これを原動力とした霊的配置の再編が―たとえば返礼や賠償が―生じるだろう。
霊的変動を伴うモノの一方的移動である贈与は反対贈与を生み、この過程が共同体に根付くようになると「義務的贈与制」が生み出される。自然の威力に圧倒されていた時期の、財の手から手への移動を贈与といい、自然を圧倒する力を身につけた時期の、財の移動を等価交換という。すなわち、贈与とは自然の時代≠フ財の移動であり、等価交換とは人間の時代≠フ財の移動である。
 
マナはお金でもある
たとえば、太平洋の島々に見られるマナ≠ニは、相互に離れた存在の間にも作用し、重さはなく、伝達が可能で、呪術的・宗教的・霊的力を媒介し、自ら拡散してゆく「一種のエーテル」(モース)である。単なる呪術的・超自然的力でなく、あらゆる種類の価値の源泉、権威や富であり、そして金銭でもある。ようするにマナとはすべてなのである。
アニミズム段階の霊観念は、明滅するはかなさを持ち、肉体に限らず万物に宿ったりそこを離れたりし、世代を超えて伝達され、空間的な隔たりを問題とせず、つまり時空的制約を知らず、構成する超越論的自我のような、頭のはたらきそのものといっていい性質をもっている。マナがお金でもあるとすれば、これらの性質はお金に継承されているはずである。
お金もまた、空間的・時間的隔たりに関わりなく作用し、電子貨幣に典型的にあらわされているように本来重さも目に見える形もない(たしかに、コインや紙幣は重さも形もあるが、これは言葉が文字の形をとったり声の形をとったりするのと同様のことである。コインや紙はお金の仮の姿であり文字や声は言葉の仮の姿なのである)。貝・石・布・米・金属など何にでも宿り=A自ら拡大し―資本とは自己増殖する運動体だった―、エーテルのように価値を媒介し、それだけでなく価格を決定し、価値の目減りはあるが世代を超えて価値を伝達する。権威や富や財を形作るのはもちろんである。
自然の時代=\アニミズム段階―にはあらゆるものに霊が宿っている。霊は呪物を生み、呪物はお金を生む。呪物はお金の直接の祖先である。だが、どんなモノでも、それが呪物であるという条件だけでお金になるわけではない。カヌーで持ち帰るという、ヤップ島におけるいわくつきの石貨のように、あらゆる力の源泉であるマナの後ろ盾を獲得したものが、特別な地位をあたえられ守り神になったりするのである。
 
 
 
終章 おかねのかたち
 
第一節 〈おかね〉と〈産業〉は対立しつつ助け合う
〈おかね〉は観念万能の〈現形(げんぎょう)〉である
誰でも分かる最も本質的かつ明証なお金の規定は、何でも買えるということである。お金によってすべての商品が購入できるということである。お金の力は、場合によっては商品ではないものも商品にすることができる、つまり販売可能なものにすることができる。そして同時に購入可能なものにすることができる。
いわゆる資本制や市場経済システムが広く普及する以前は、売り買いできないものの方が多かったのかもしれない。市場で売買できるモノの範囲が拡がり、ついに人間が自分を労働≠ニいう形で売買するようになって、価格の上下を調節する市場システムにおいてあらゆるモノがお金で売買されることが許される≠謔、になった。もちろん、人間が人間自身に許可を与えたのである。
何でも買えるという日常的かつ具体的なお金の規定を、より原理的かつ抽象的にいえば、お金とは、無限の力あるいは万能を本質とするものだということである。そして個性の違い、民族の違い、人種の違いを問わず、人間はお金という道具あるいは制度を持っている。その石であるとか金属であるとか紙であるとかといった物質的な衣装の非*{質性を考慮すれば、お金の本質は観念的なものだということができる。また、おそらく人間だけがお金を持っているとすれば、人間だけがお金の観念を持っているといえる。このことは、お金は人間だけが持つ観念の無限の力に発していることを示している。
超自然的な力の現われであるマナは、またお金の力の源泉でもあった。そして、マナが精神の原型である観念万能の表象であるとすれば、今や次のことは明らかである。すなわち、石貨に限らずあらゆる時代のあらゆる〈おかね〉とは、観念万能が目にみえるすがたかたち≠持ったもの、精神の原型―もっと一般的に意識の本質といってもいい―がそのまま目に見えるようになったものである。いいかえれば、〈おかね〉とは原初的観念万能の〈現形(げんぎょう)〉である。これが、単なる人間的現象としてでなく、サルと人間との比較においてでもなく、生物史的に考えられた〈おかね〉のかたちである。
もし〈おかね〉によってあらゆるモノが売り買いできるとしたら、それはあらゆるものを支配しうるものが存在する≠ニいうことが人間に信じられているからである。観念万能という力だけが、あらゆるものを支配しうる〈おかね〉を生み出すことができたのである。〈おかね〉は、第一義的には〈力〉なのであって、〈おかね〉のもついくつかの機能―価値尺度、計算、交換、支払、価値蓄蔵などの諸機能―は、この定義が数の観念により分節・整序されるようになってから次第に演繹されてくる。わたしたちは自然数、整数、分数・小数、有理数、無理数などとより高度な数を学習し、ついには集合論にみられるように無限を数えるほどになるのだが、実際のところ順序は逆で、まず万能の数学的表現である無限があり次いで個々の数概念が生まれてくると思える。
〈おかね〉がなぜあらゆる地域と時代にあり、なぜ何でも買えるのか。〈おかね〉は人類が普遍的もっている万能感を起源としていると考えるのが妥当だと思う。だから〈おかね〉は永遠にアニミズムの世界に存在しているのである。「過ぎ去ったものや克服されたものも生きつづけさせる起源というものの影響は、根源的には万事が原初のままだという点に現われてくる。」(フロイト「文化への不満」浜川祥枝訳)。ヒトは、まるで永遠に解けることのない魔法にかかっているかのようである。
 
〈おかね〉は使われるが使われてはいけない
人間がモナドであるとすれば、人間の観念は全宇宙を表出しているはずである。だが観念が全宇宙を表出しているとしても、自我は、自分が身体的に表出しているすべてを、他我に理解できるようなかたちに意識化できているわけではないだろう。それは、自分の言っていることが本当に理解されているのか、という疑問がきざすことが日常にありふれていることからすぐわかる。
言葉の場合を考えれば分かるように、何かを自分の中から外へ表現(あるいは実現)することは必ず表現されないものを意識させる。表現することは表現されえないものがあることを知ることである。表現されなかったものがあることが次なる表現の動機になる。そして次なる表現の不完全性はさらなる表現の動機になるはずである。
だから人間は、たえず喋り、書き、考えうるあらゆる手段を使って表現し、表現し続ける。それは人間が完全なる表現、完全で十全な自己の開示を目的とせざるをえないように運命づけられているからである。この宿命の背後には、原初的精神の全能指向というべきものがある。
全能とはあらゆることが完全にできることなのだから、精神の原型である全能性は当然すべてを完全に表現(実現)しきることを要求する。が、それを許さない現実に直面する。そこで精神は、今のところは決して満足されそうにない全能性を、いつか表現(実現)されるべきであるがまだ表現(実現)されていないもの≠ニして、ある客観的対象に固定することにした。実現されていないあらゆる欲望、満足されてないあらゆる欲望は、この客体―これは貨幣とかお金といわれてきた―によって吸引され、未来のいつか実現され満足されることを待つことになる。
いま〈おかね〉を持っている私は、持っている〈おかね〉の額と等しい価格を持つすべてのものを購入することができる。しかし、一旦私がパソコンを買ってしまえば、他のものを買ったときにできたはずのあらゆる可能性を失う。金額を度外視すれば、購入以前、〈おかね〉はすべてを購入しうる手段であるが、何かを買った瞬間に、すべてが買えるという可能性は失われる。
使わずに手元にある〈おかね〉は全能性をもっている。つまり、あらゆる欲望を満たす可能性≠持つ。だが実際に使わなければ欲望は露ほども満たされない。そして使ってしまえば〈おかね〉は特定の商品に変身し、全能性は失われる。その商品はあらかじめ決められた機能しか持たないからである。〈おかね〉によってすべてを満たそうとする試みは振り出しに戻る。再び手にされた〈おかね〉は、全能性を実現しようとするがゆえに、消費され再び全能性を失う。資本の増殖過程に典型的に現われるように、この過程は無限に繰り返される。
〈おかね〉はすべてを買い取る力を持っている≠ニいうより、〈おかね〉とはすべてを支配しうる力をたえず人間精神自身から与えられている≠ニいったほうがよいかもしれない。それは人間がすべてを満足させたいと絶えず思いながら、同時にその野望は絶えず断念させられるからである。
人間が〈おかね〉を使うのは、実際的に言えば生きるためというのが第一義的に重要であるが、本質的には、脳の発達した動物として観念万能を持ち、これが〈存在〉することと〈生存〉することとの無限の〈距離〉を縮めようとするからである。〈おかね〉という客体は表出の手前に位置しており、その全能性は、表現(実現)以前に最大限保持されている。
 
人間は冷淡な〈世界〉を産業化する
感覚することも運動することもない植物には外界は存在しない。感覚−運動を営む肉体を持つ動物にはそれぞれの種に固有の意味をもった外界≠ェ存在する。そして、脳の分化によってあらゆる種の規準を用いるようになったヒトには、意味が造られながら造りかえられる〈世界〉というものが存在する。
自我は、食と性のため、自己から外界を排除し、外界にはたらきかけ、〈世界〉を造りつつ造り変えてきた。人間にとって唯物論的な自然―人間が誕生する前からあったであろう自然―は、〈世界〉を構成し、生活を営むための素材にすぎない。人間においては自分がはたらきかける外界さえもあらかじめ存在せず、〈世界〉として自ら意味を与え構成しなければならないのである。
〈世界〉という現実は、〈生活〉のための手段、願望実現のための手段である。人間は〈世界〉から、生活に必要なあらゆる手段を手に入れる。だが、〈世界〉は母親の胎内と異なって、丸くなって微睡んでいるだけでは、栄養を与えてくれることは決してない。〈世界〉は人間に冷淡なものであり、もし生き延びたければ、現実の仕組みと利用法を知り、こちらから能動的に働きかけ、願望を実現するのにふさわしい形に変えなければ、現実はわれわれの要求に応えてはくれない。
ただ頭のなかで動け≠ニ思うだけでは自然は何の返答もしてくれない。外界に支配力を及ぼしたければ、能動的に働きかけることで、あたかも自分の身体のように自由に利用できるようになっていなければならない。別の言い方をすれば、自然を解明することで得られる知識と技術を応用する〈産業〉が、人間の願望に合わせて自然を変形し、商品化できるようになっていなければならないのである。〈産業〉が「人間の本質諸力の開かれた書物」であるとすれば、この「書物」は、研究室や工場という書棚に眠っているのでなく、人々の手に渡り利用できるようになっていなければならない。ようするに〈おかね〉で売り買いできなければならない。
このように、人間の頭の外にあるもののうち、〈おかね〉以外のものは外界に関する知識を用い、そのことによって外界と調和がとれていなければ成り立たないのである。たとえば、銛はいくら呪術的な意味や力があろうと魚を突き刺す能力を持っていなければ成り立たず、その能力を持つためには魚を突き刺せる素材を選択しなければならないことはもちろんであるし、素材を加工するためには素材の性質を知らなければならない。
 
〈産業〉は時空に制約される
「植物的直立」に象徴されるヒトの垂直軸への指向は、脳を介して観念万能に変容する。この観念万能は、時空的制約を乗り越えるために外界にはたらきかけ、自分の手足を延長することで自らの要求を満たしてきた。たとえば弓は、遠くにある獲物を瞬時につかまえたいという願望によって創造された手の延長であるというふうに。
〈産業〉は自然を造りかえることで人間の際限ない要求を満たす手段を与えてくれる。だが、今あるような高度な〈産業〉は、当然だが、一朝一夕にできたのではない。〈産業〉は、自我と自然との区別がつかない状態から、自然なるものを構成し、複雑多様で謎に満ちた自然の要求をたえず聞き、その意味を理解し、飽くことなくはたらきかけ、そうしてはじめて成り立つものである。
〈産業〉とは、乳幼児が無知蒙昧な状態から言葉を覚えてついには難解な哲学書を読むまでになったり、寝転がっているだけの状態から高度な運動能力を発揮したり複雑な舞踊を舞ったりするまでになったりするように、根気と能力と弛まぬ努力をもって、一歩一歩進むほかやりようがないのである。
階段を上るのにいきなり一〇段目に足をかけることはできない。一段目の次は二段目であるし、二段目の次は三段目である。一段一段登ってゆくことが時間の経過を現すし、同時に空間的制約の克服を意味している。技術や知識とその応用である〈産業〉とは、ちょうど意識の本質とは真反対に、物理的な空間に制約され、時間系列に依存する、漸進的なものなのである。
 
〈おかね〉は〈世界〉に無関心である
ところが、〈おかね〉とは素材を選ばないのだから、必要な能力を果たすことさえできれば外界に関する知識は原理的には必要ない。それは外界に働きかける力であっても銛のような物理的なものではない。〈おかね〉というのはマナのように外界の時空性がもつ制約と無関係に成立する。〈おかね〉は自分の外にある外界をもともと知らないし、その必要もないのである。〈おかね〉は自分がその中にいる〈世界〉というものに無関心である。
確かに電子貨幣が存在するためには高度な電子工学的知識が必要だろう。だが、それをもって〈おかね〉の成立条件に外界の知識が必要であるということはできない。〈おかね〉は自然についての知識が貧弱(あるいは皆無)であった太古の昔からあったからである。
〈おかね〉も原初的な精神も外界を知らず、自己=外界という世界を生きている。すなわち、〈おかね〉には時空の制約は存在しない。外界の条件とは無関係に振舞うという、こうした〈おかね〉の性格は時代とともによりあらわになってきている。
確かに、一般的な次元での〈おかね〉、つまりおかねというもの≠ノは無限の力が潜在している。だが、具体的な個人、場面、状況における〈おかね〉には量的≠ネ制約があるため、有限の力しかない。これは矛盾である。
全能な〈おかね〉がすべてを交換可能な対象にするということは、あらゆる対象を商品にするということである。つまり、それぞれ異なる対象の種類や質を問題にしないということである。交換される対象が何であるかを問わないということは、交換する自分と交換される対象との関係のあり方だけが問題となるということである。これ≠ヘそれ≠ニ等しい、ということを言う際に、靴や食料などといったこれ≠ニそれ≠フ中身を問わないならば、A=BでもX=Yでも甲=丙でも相互の区別さえつけばよい等号関係だけが残る。
しかしここで問題にするのは、交換の対象を選ばないということからくるもう一つの点、すなわち、〈おかね〉が質の否定されたものだとすれば、量≠ニして現われる以外にないという点である。個々の〈おかね〉の断片は質的≠ノは万能であるが、その交換力は無限ではありえない。ひとつひとつの貨幣片は何にでも変わりうるという性能をもっているのだが、現実の場面では目的の商品が要求する量=額≠ェ集まらなければその性能は発揮されない。おかねというもの≠ェ本質上無限であっても、1万円では1万円分の商品しか買えないということである。
この本質的な無限性と現実的な有限性という困難に直面した〈おかね〉は、自らの置かれた現実を前者の本質に沿って展開しようとする。すなわち、無限でありながら有限にとどまるというジレンマを増殖≠ニいう手段によって打開しようとするのである。どこまで増殖するのか。もちろんどこまでも―無限に―である。この、核分裂の連鎖反応のように絶えずしかも急激に増殖しつつある集合数に転化した〈おかね〉は資本と呼ばれる。
〈おかね〉が集まり臨界質量を越えてしまった近代以降、資本はその本能の赴くままに増殖しつづけた。高度な情報通信技術によって一瞬にして世界が結ばれる現在においては、一年間≠フ貿易取引額が数兆ドルなのにもかかわらず、一日≠ノ外国為替市場で取引される金額も同じ桁の数兆ドルにのぼるという。貿易に必要な通貨がこの世で生きてゆくため、いいかえれば外界に適応するために必要な通貨量であるなら、外国為替市場における通貨は、外界と関わるためには必ずしも必要ではない通貨といえる。個人の生活実感からいえば、すでに現在の取引額は無限量といっていいのではないかと思えるが、〈おかね〉の方としてはまだ満足がいかないのだろうか。
情報通信技術によって、〈おかね〉が電子貨幣のような「見えざるもの」に先祖がえりしたら、より自由な振舞いを〈おかね〉に許すことになるのではないか、別な言い方をすれば、より無意識な欲望に振り回されやすくなるのではなかろうか。現在の金融資本の無謀な現実@」れした振舞いが、〈おかね〉がその誕生以来保存している観念万能の盲目性に発していると考えるかぎりそのように推測できる。
金に目が眩むと現実に盲目になるのは、〈おかね〉が太古的なヒトの心性を保存しているからである。現実に対する配慮が後退し、願望された世界が頭のなかに居座るようになる。外界という、昨日まで一ミリも動こうとしなかった岩塊が今日は小指の先で持ち上げることができるように思われてくる。飼い主をも噛む猛犬の「現実」は、死を恐れぬ従順な忠犬に変身する。いまや自分にできないことはない。
バブル期の経済認識が、景気に好不況の波があるのは端から承知のはずなのに、自分たちの願望に好都合なデータを集めてきた結果、今度の好景気は永遠に続くにちがいない≠ニいうようなものになりがちなのもその一例である。ガルブレイスは、バブル現象のような好景気の行過ぎた熱狂を「自己陶酔的熱病」(Euphoria、多幸症ともいう)といっている。〈おかね〉が精神の個体発生史における自己愛的段階に属していることを、また精神の宗族発生史におけるアニミズム段階に属していることを、したがって〈おかね〉が観念万能を原型としていることを、これほど的確に示す表現はないだろう。社会心理学者≠ニしてのガルブレイスの面目が躍然と現れている。
 
〈おかね〉と〈世界〉は双極的に相関する
こうして、観念万能の〈現形〉である〈おかね〉はすでにあるモノを手から手へ移動させたり、値段をつけたり、価値を蓄えたりすることができればよいのだから、現実の仕組みや性質を知らずとも本来成り立つものである。現実と自分との境界を忘れてしまった観念の王国に住む神経症者が、煩わしく儘ならない現実を神経症的通貨で買収してしまうように、アニミズム段階にある初期の人類が呪術で外界を支配しようとするように、人間は〈おかね〉によってあらゆる願望を満たそうとした。
だが、頭で考えるだけでは〈世界〉は微動だにせず、しかも母胎のようなシェルターに保護されていると思い込んでいた自分たちが、実は寄辺なき存在であることに気づくのにそれほど時間はかからなかった。こうして、〈生存〉のため、懸命に動≠ォ、現実にはたらきかけ、自分の一部として利用する方法を身につけはじめた。
現代人は、無文字社会の人々より自分たちは〈世界〉の仕組みに関する知識について、特に技術科学の面ではるかに先んじていると考え、大人たちは、乳幼児や子供より自分たちが〈世界〉の仕組みについて客観的で正しい知識を持っていると考えている。無文字社会の人が持つ〈世界〉も、乳幼児や子供の〈世界〉も、自分たちにとっては遠い昔に通り過ぎた通過点で、今ではかつてそこを通過したことすら覚えていないというありさまである。
わたしはこうした経験や判断について否定する気はない。ただ、三つ子の魂百まで≠ネどというように、人間にとって過去とは、それが古ければ古いほどその影響力は生涯のより広範囲に及ぶということに注意すべきであるといいたいのである。
すなわち、〈世界〉を対象化し、知識や技術を身につけ、労働によって外界を第二のからだにすることを企図し、実際にその成果を着々とあげ、〈世界〉のなかで自由に振舞うことが可能になってくると、一度は姿を消したかに見えたある思念が再び頭をもたげてきた。人間は、頭の奥底に、かつて抱いたあの尊大な願望を、〈世界〉を神経症的通貨によって買収してしまおうという願望を捨てきれずにいたのである。
自然や外界に対する物理的な支配力が増してくるにつれて、あきらめの悪いヒトは、心理的な支配力を持つ神経症的通貨を、〈世界〉と人間を支配する万能の力をもった現実的通貨≠ニして用い始めたのである。物理的現実の変容―非有機的肉体♂サ―が進展するにつれて、神経症的通貨が現実的通貨に移行しはじめたといってもよい。
あるいは、神経症的なものであった通貨が、現実の側の変容によって、通貨の方の誇大妄想的な性質はそのままなのに、現実的なものにいつの間にか変わっていたというべきだろうか。お金を造る術を錬金術というならば、この神経症的通貨の現実化こそあらゆる錬金術の原型であるにちがいない。
かつて、観念という神経症的通貨は、神経症的国家のみで通用する万能の手段であった。いまや神経症的通貨は、科学技術が現実に支配の手を伸ばすのにあわせて頭の中を飛び出し、何でも買える現実的通貨―〈おかね〉―となった。現実を変化させることによって、神経症的通貨が本当≠フ通貨になった。頭の中の万能が、現世の万能―地上の神―に変容したのである。
ノエシスとノエマの相関する二項が互いに互いを不可欠の要素としているように、またリズムと精神が互いに対立しながら同時に鼓舞し合っているように、受動的総合と総合的能作が互いを発展させる契機になっているように、〈おかね〉と〈世界〉とは、一方が観念的で他方が物理的であるゆえに対立するが、同時に一方が動機になって他方が変容してゆくことによって、互いに互いの生成発展の根拠を与えている、双極的関係を持っている。
観念万能は、呪術や魔術やその時々の〈おかね〉などに身を隠して、その原型を太古のすがたのままに保存してきた。思ったことがそのまま現実である、という願望が〈おかね〉といわれているもの≠フすがたを借りてきたのであり、この願望にとらわれつづけてきたからこそヒトは労働することを、そして〈産業〉を営むことをやめなかったのである。観念万能の世界に近づきたいからこそ、際限なく外界にはたらきかけ、知識と技術を習得し、〈世界〉を〈産業〉化して、そこから得られる果実を〈おかね〉によって享受してきたのだといえよう。
 
 
第二節 〈おかね〉の流れは新結合をもたらす
自然は生態系のなかで生きる
ゲーテは、一枚の葉のついた一個の茎節(der Stengel mit einer Blatt)が垂直につみ重ね≠轤黷ト植物体が出来上がると考えた。ここでつみ重ねられている茎節群は、挿し木、接ぎ木に示されるように、ひとつひとつ切り離せば独立した固体を形成できる。コケムシのような原始的な動物は、植物と同様、単純に水平に結合して土着性の群体≠造る。もちろん個々の個体は独立性を保っている。ホヤになると、水平に結合しているのは同じだが、群体に共通の消化管が開通し栄養が相互に流通しはじめる。体制の分化がさらに進行し、ミミズになるとさらに神経鎖が個々の個体を貫通し情報交換を担うようになる。脊椎動物になると、加えて体腔・腎管、脊索・筋肉の融合が進んで、ついに個々の個体は相互に切り離し不可能なほど依存し合い、高度の分業体制を持った一つの個体をまとめあげる。
こうしてはじめは独立性を保っていた個々の個体が分化の進行につれて、個体間の障壁を突き破り、各器官は手を握り合った共通器官となってゆく。相互に独立可能な地方分権的≠ネ群体が、個体運動が本格化するやいなや、栄養系(腸管・血管)、神経系(脊索・神経管)、排泄系(泌尿生殖器官)、運動系(運動諸器官)とつぎつぎに器官の統合は進み、各個体は全体の一部分に組み込まれ、中央集権的¢フ制が完成される。より効率的でスムースな個体運動の必要性が、自然から独立した一心同体の体制を要求したものと思われる。
統一的な個体体制が出来上がると、今度は同一の種に属する個体が集まって個体群≠つくるようになる。一つの種が単独で生活できない以上、一定地域にいろいろな生物種の個体群が集まって生物群集≠つくる。いろいろな植物の個体群は集まって植物群落を、いろいろな動物の個体群は集まって動物群集をつくる。生物群集は生物的環境を形成し、気候や土壌、重力などの無機的環境とあわさって生態系をつくるわけである。生態系のなかで無機的環境は生物的環境に作用し、生物的環境は無機的環境に反作用し、そして、生物的環境は相互作用する。
 
ヒトは社会的分業によって自然を〈産業〉化する
生態系のなかでは最もサイズの小さい生物である土壌中の亜硝酸菌や硝酸菌などの硝化細菌は、アンモニア塩を酸化して亜硝酸を、そして亜硝酸から硝酸塩を生む。硝化細菌にとって、この過程は自らの炭酸同化に必要な科学エネルギーを得るのが目的であって、それらは副産物にすぎない。硝化細菌には無用の長物である。しかし、植物はこのいわば硝化細菌の廃棄物である硝酸塩やアンモニア塩を利用して窒素同化を行なう。つまり、アンモニウムイオンと有機酸を合成してアミノ酸を作る。そしてここからあらゆるタンパク質がつくられるのである。
人間的な言い方をするなら、これらの過程はいわば無意識的過程である。硝化細菌は、植物を助けようとしてないし、植物も動物を助けようとはしていない。ただ、お互いがお互いを助け合っているだけである。
これに対し、人間が、というより人間社会が相互依存による生存方法を意識的に行なうようになったのは、ようやく18世紀後半、アダム・スミスが分業の効率性を論じてからである。人間はたんに意識するだけでなく何かを意識している自分を意識することができる。この点において人間は他の動物と異なっており、そしてこの点によって人間は自らの禍福を糾っているといえる。自然が何のはらかいもなく直線的に行なっていることを、人間は意識することによってなさなければならない。意識的な社会形成は、意図と実現、思念と行為、存在と生存の間の隔てを時間のゆるやかな流れに沿って乗り越え、再び自然の相互作用に還って来る。
いま、ヒトを自然との関わりあいの側面から見れば、ヒトは常に何らかの集団を単位として自らの〈生存〉あるいは〈生活〉を営んできたといえる。最も原初的な集団である家族にはじまって、部落、村落、集落、親族、部族、民族、国民、国家連合と経済的な単位を時代とともに大きくしながらヒトは食と性を営んできたのである。
原生動物の個々の個体が連結し、種々の器官を共有し、一個のまとまった個体を形成する。哺乳類のような高等動物の個体もあつまり、秩序やルールを共有し、一個のヒトに似た社会を作る。同じようにヒトもまた、集まり、集団をつくる。
もともと個々の細胞が、生過程に関わるすべての機能を果たしていたが、しだいに分業を行なうようになったように、個々の個人も、もともとごく小さなまとまりをつくって生活過程にかかわるすべての機能を自分たちで果たしていたが(アウタルキー)、しだいにより大きな集団に移行しながら、より高度な分業を営むようになり、結果として一つに統合された非有機的身体としての経済体を造り上げるようになった。
個々人は、結びつきの度合を深めていくことによってより規模の大きい共同体をつくりあげ、現在のような国家が基本的な経済の単位となる経済システムをつくりあげた。これら諸国民経済の結合度がより密接に、より有機的になるにつれて、各経済体は相互に切り離せないほど結びつき、国家間の障壁は緩和され、地球規模の経済体が造られつつあるというのが現状であろう。
生物レベルでいう生産とは、簡単に言って、生きるということであり、分業とは、生産工程を―生物個体でいえば生過程を―分担するということである。生物が次第に生命の諸機能を共有し、高度な分業を行なうように、ヒトも分業する。
たまり≠ヘもともとあらゆる細胞に備わっている食胞であった。分化が進むにつれてたまり≠フ役割は一部の細胞集団が、たとえば胃というかたちで担うようになる。胃というたまり≠ヘすべてのヒトにあたえられているが、ヒトが新たに発達させた固有のたまり≠ナある保存食品をつくる工程は一部のヒトたちによって分担されている。
分業によってヒトは、生産過程の一器官となる。各個体や各集団に、経済体という非有機的肉体が必要とする各機能を担わせ、これらを経済体の手や足や腕として用い、全自然を一個の生命体にしようとするのである。
海の生物を扱うもの(漁業)、植物を扱うもの(農業)、動物を扱うもの(狩猟・牧畜)、それらを加工するもの(食品)、それらを運ぶもの(運輸)、運送手段をつくるもの(製造)、不用物を片付けるもの(清掃・ごみ処理)、情報を扱うもの(科学・学問・芸術)、情報を伝えるもの(通信・マスコミ)…。これら〈産業〉は、植物性器官と動物性器官のもつさまざまな機能―吸収・循環・排出、感覚・伝達・運動―を、手とあたまの力で拡大再生産≠キることで出来上がったものである。
ヒトの持つ生命体としての諸機能―アリストテレス風にいえば、「生物の原理としての心」―は、たまりの頭進≠ナ明らかなように、次第に体外に再現されるようになる。体外で再現されるヒトの各機能は、企業という組織(事業体)を通じ、〈産業〉として外化される。このとき個々人は、意識的にはそうでなくとも、人類の一器官として働いている。
 
〈おかね〉は経済体の血液である
一人きりですべての生過程をまかなう場合、自然にはたらきかけるために必要なあらゆる工程は自分自身の手で行なわなければならない。そのとき、あらゆる作業は、頭が自分の身体を制御することで行なわれることはいうまでもない。生過程がさまざまな機能に分離し、経済主体としての個人や、複数のヒトが結合された企業や事業体や集団が、これら分離された諸機能を分担するようになってくると、一体誰が人類の身体としての経済体に命令を下すのであろうか。
一昔前ならば所有関係に注目し、資本家というかもしれない。また、保守的な考えをもつものならば、国家のような政治的中心によって営まれる経済制度―ポランニーの言う三つの統合形態の一つである再分配=\にその役割を担わせるかもしれない。だが、わたしの観点からは、市場経済ではヒトの大脳にあたるような中央集権的な指示機構は本来存在せず、経済体の最小単位である個人がもつ欲望が集まってできあがる〈おかね〉の流れが神経パルスや血流のように、器官や細胞としての各経済主体に行動を促し、生命を与えるのである。
たとえば、〈産業〉としての各器官は、〈おかね〉という血液が、川のせせらぎのように滞ることなく流れることで存続が可能となる。〈産業〉という経済体の機能を造り上げる細胞・器官としての事業体は、こうした流れのなかで、日々代謝を―いいかえれば繁栄と衰退を―繰り返す。事業体に、さまざまな理由で〈おかね〉あるいは資金が流れてこなくなることは、経済体を存続させるためのはたらきを果たせなくったことを意味している。〈おかね〉という紐帯によって、事業体という枠組のなかに、いままで結合されていたヒト(従業員)やモノ(材料、設備)や情報はすべて分離し離散し、あるいは他へ移転しあるいは処分されることとなる。そして、万人の一滴の欲望があつまってできる〈おかね〉の奔流は、あらたな事業体に必要な資源を引き寄せ「新結合」させる。
 
〈おかね〉は結合力と分離力を持っている
このように、人間のもつ結合力(エロス)と分離力(タナトス)は、観念万能の〈現形〉―あらわれ―である〈おかね〉にも当然分け与えられているのである。すでに出来上がった紐帯は、〈おかね〉によって分離され、あらたな結合をつくりあげる。血縁であろうが、地縁であろうが、あらゆる縁を断ち切り、「無縁」のヒトにしてあらたな集合をつくり上げる。モノも同様で、恋人からの贈物であろうと、先祖代々の土地であろうと、親からの形見であろうと、モノに付着したあらゆる念≠断ち切り、「無主」のモノにしてあらたな所有者のもとへ送り届ける。
ジンメルは、〈おかね〉のこの力を、たとえば世間体のような、社会的に拘束するものすべてを含む何かから≠フ自由を実現する力として評価した。彼にとって何かから≠フ自由とは、形式としての容れ物としての自由であり、この後の段階にくる、容れ物へ何か≠入れること、すなわち何かへ≠フ自由のための大事なステップであった。たとえ〈おかね〉が〜へ≠フ自由を満たすのに直接役に立たないからといって、〜から≠フ自由をわたしたちにもたらすという効用を軽視することはできない。
古来金銭にこだわるヒトはお金に汚い<qトであり、歴史を見てもシャイロックはいうまでもなく、日本でも山伏や非人のような恰好をし、商工業・金融業に携わる「悪党」など、西から東まで金貸しなど日常的に金銭を取り扱うものはつねに差別や弾圧の標的にされてきた。客観を標榜する経済学でも、〈おかね〉は経済の真実(実体経済)を覆い隠す「ヴェール」であると言われ続けて来た。そう言っている間にも、わたしたちは〈おかね〉によって生命と生活を維持しているのにもかかわらずである。
こうして、生物個体が新陳代謝するように、経済体の諸器官・諸細胞としてのヒトや事業体は、〈おかね〉によって結合したり分離したりして、人類の身体である非有機的肉体のかたちを造りつつ造りかえてゆく。ヒトとモノの新結合が出来るたびに新たな〈産業〉が生み出され、非有機的身体の諸器官は再編成される。
〈おかね〉は、古い結合を分離し、新しい結合を造る。むしろ、〈おかね〉は、分離しながら結合し、結合しながら分離するというべきである。人類としてのわたしたちはつねに自らの形態をあらゆる方面から、あらゆる方面へ向かってたえず形成し変容するのである。だからこそ人類は自然と普遍的にかかわるのである。からだを循環し続ける血液の栄養が、個体のすべてを造り上げるように、社会を循環し続ける〈おかね〉は経済体のすべてを造り上げる。
 
〈おかね〉の流れは社会のイメージに先導される
事故などでなくしたはずの手足があたかも存在するかのように痛くなったり痒くなったりするという幻肢′サ象が教えるように、ヒトが身体を駆使するためには身体イメージがなくてはいけない。身体のはたらきがイメージに裏打ちされて成り立つとすれば、人類の非有機的身体を形成するもろもろの〈産業〉も、ヒトが抱く何らかのイメージに裏打ちされてはたらいているはずである。
たとえば、無文字社会において、贈与によって共同体成員の所有物の構成に変化が生ずれば、霊的秩序の変更というかたちで、自分たちがいままで抱いてきた社会に対するイメージも更新されざるをえない。こうしてリアクションとしてのモノの移動が促され、乱れた霊的秩序は平衡を取り戻すのだろう。
最近、IT関連株やベンチャー関連株、ハイテク関連株が盛んに買われ、年商数億の新進企業数百億円もの莫大すぎる資金が集まったり、また額面50円のベンチャー企業株が数十万まで急上昇したと思うと、直後の業績不振のニュースによって数万円まで急降下したりといったことが起きている。
投資家たち―あるいは一般大衆―の持つ経済体に対する全体的なイメージが変更すると、その結果、新たにできつつある器官としての〈産業〉に資本という血液を循環させるべきではないか、という「期待」(expectation)が生まれる。そうした期待や予感が新たな〈おかね〉の流れを生み出している。先端産業を巡る資本移動はこうしたことを示している。もちろんこれらの期待が逐一正しいわけではなく、むしろ無数の誤りが累積されるなかから次第にある方向性が見出されるというべきだろう。
〈おかね〉で何でも#モヲるとすれば、この何でも≠フなかには、この世にまだ存在していない商品やサービスも含まれていなければならない。この意味で〈おかね〉とは、未来の商品≠ナあるともいえる。〈おかね〉は経済的な手段であるから、商品をつくったりはしないのはもちろんである。しかし、ある種の動物が微かな匂いにも反応を示すように、経済体の微かな兆候を察知して集まる〈おかね〉は、社会の願望がどこに向かっているかを表象してくれる。ここでいう表象は、願望を満たしてくれる商品がないため、行く道を見失った〈おかね〉が立ち往生してしまうような場合も含んでいる。
こうして人々は、観念万能に発する欲望とその綾である社会のイメージに先導されて、さまざまな〈産業〉や商品に〈おかね〉という栄養を注ぎ込む。そしてそれら〈おかね〉の流れによって、経済体は、土地や労働などの経済資源を結合あるいは分離し、絶えず自らのからだのかたち≠変えてゆく。国家という神経節程度の中枢はあっても、市場経済体は、本来一元的な命令系統を持たない。一見無秩序に見えるが、おそらく一定の方向性を持つ人々の願望によってつくられる〈おかね〉の流れ―資本といったほうがよいかもしれない―だけが、市場経済体を支配しうるのである。
 
 
第三節 人間は能力を与え合う
〈おかね〉は個性を転倒する
〈おかね〉によってわたしたちは考えられうるあらゆる願望を満たすことができる。料理ができなくても〈おかね〉がそれを与えてくれる、速く走れなくとも車を与えてくれる、楽器を演奏できなくてもCDMDを与えてくれる、優れた文章を書けなくても文学書を与えてくれる、自分の病気を治せなくても薬を与えてくれる、何も知らなくとも書物を与えてくれる。空を飛びたいを思えば飛行機で空を飛ばせてくれる、水の上を歩きたいと思えば船に乗せてくれる、あの人の声を聞きたい思えば電話で聞かせてくれる、寒さから逃れたいと思えばエアコンを与えてくれる、誰かを殴りたいと思えば格闘ゲームを与えてくれる。わたしが尊敬に値しない愚劣な人間であっても、悪人であっても、無能であっても、〈おかね〉を持っていれば、わたしは尊敬され、善人であり、有能な人物である。なぜなら、〈おかね〉は尊敬され、あらゆる能力を持っているからである。
 
「すなわち貨幣は私の諸々の願望を表象上の存在から[現実の存在へと]変化させる。貨幣は私の望みを、その考えられ表象され欲せられたあり方から、その感性的な現実的なあり方へ、表象から生活へ、表象された存在から現実的な存在へと翻訳するのである。このような媒介をするものとして、貨幣は真に創造的な力なのである。
「もし私が旅行するための貨幣をもっていないとすれば、私は旅行しようという欲求をまったくもっていないわけだ。すなわち、旅行しようという現実的でみずからを現実化してゆく欲求をまったくもっていないわけである。私が学問するという天分をもってはいるが、そのための貨幣をまったくもっていないとすれば、なんら学問するという天分を、すなわちなんらの効果ある天分なんらの真の天分をももたないことになる。それに反して、私が現実的には学問するという天分をなんらもってはいないが、その意志および貨幣をもっているとすれば、学問するための効果ある天分をもっていることになる。貨幣は、表象を現実にし、現実を一つのたんなる表象にするところの一般的手段および能力、人間としての人間からも社会としての人間的社会からも由来するのではない外的な一般的手段および能力として、一方では、現実的な人間的および自然的本質諸力をたんに抽象的な表象へ、それゆえ不完全なものへ、悩みにみちた妄想へと変じ、また他方では、現実的な不完全性や妄想を、つまり実際上では無力でただ個人の想像のなかでのみ実存するような本質諸力を、現実的な本質諸力能力へと変ずるのである。したがって、すでにこの規定からみても、貨幣は諸々の個性の全般的な転倒であって、個性をその反対のものに逆転させ、そしてそれらの属性に矛盾する属性を付与するのである。」(マルクス「貨幣」『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳)
)。
 
〈おかね〉は、人間の外に広がる「現実」と頭の中に思い浮かべられた「表象」を相互に交換することでこの二つのものの区別を消し去ってしまう。〈おかね〉があれば、どんな「個人の想像」にすぎないことでも「現実的」なものになるし、逆に〈おかね〉がなければ、他の人が容易く実現しているどんなにありきたりで「現実的」なことも「悩みにみちた妄想」となってしまう。
〈おかね〉とは全能な存在≠ネのである。だから、できることもできないこともある、また善でも悪でもある、人間というものの「個性」的な違いを「転倒」させてしまうのである。〈おかね〉によって、悪が善に、不正直が正直に、不誠実が誠実に、無知が全知に「転倒」してしまう。〈おかね〉さえあれば、「黒を白に、醜を美に、邪を正に、卑賤を高貴に、/老いを若きに、臆病を勇気に変えることもできよう。」(シェイクスピア『アテネのタイモン』小田島雄志訳)。〈おかね〉を所有し使用することは、万能を身につけることを意味するのである。善も悪もそこから生まれてきた母体である観念万能が〈現形〉したものなのだから、〈おかね〉が「善悪の彼岸」にあるのは当然のことである。
 
〈おかね〉は個人を人類にする
数学が全くできないし興味もないという人でも名前だけは聞いたことがあるであろう数少ない公式の一つに二次方程式の解の公式≠ニいうのがある。この公式を覚えていれば、仮に因数分解などを知らなくとも、高校までに出てくる非常に多くの計算問題が解けてしまうし、逆に覚えていなければ本来問題を解くための手段に過ぎない計算に手間取ることになり、問題を解くという最終目的に達する前に挫折する可能性が高くなる。
このように大変便利な公式であるのだが、この公式が発見される前は、もちろんこの公式を使わずに二次方程式を解いていたわけである。むしろ、どうすればこの公式のように、よりシンプルに解くことができるかを代数学者たちは研究していたといったほうがよいかもしれない。
現在の住人であるわたしたちは、既にあるものをただ教師や書物を通じていただく≠セけであるが、たった一行で現される公式も多くの先人が多くの労力を払ってやっと辿り着いたにちがいない。実際、アルゴリズム≠ニいう言葉にその名を残している九世紀のアラビアの数学者フワーリズミー(al-Khwrizm)は、今で言う一次方程式と二次方程式を六種類に分類してそれぞれ異なった解法で根を導いている。
それから時代を経て現在あるような二次方程式の公式が発見されてからは、この公式によってすべての一次・二次方程式を解くことができるようになった。つまりわれわれはこの公式さえしっていれば、二次までのすべての方程式を、ただそれに当てはめるだけで難なく解くことができる。当時の最高の数学的知性を持ったアル・フワーリズミーが苦労して解いた六種類の方程式を造作なく解けるわけである。
つまり、二次方程式の公式にはフワーリズミー以降の数学的知識の発展が凝縮されている。わたしたちは公式発見に至るまでの数学史上の紆余曲折など全く知らなくとも、あるいは全く気にかけさえしなくとも、これに、与えられた方程式上の所定の係数を当てはめるだけで彼以上の数学的能力を発揮できるのである。こうしてこの公式は、方程式という狭い分野に関してであるが、万能の力を限りなく少ない労力によって与えてくれるのである。
さて、人類社会を一つの有機体をみなすと、その身体とは非有機的身体を意味するだろう。この非有機的身体は長い時間をかけて、さまざまな能力―科学技術や学問的知識と呼ばれている―を身につけた。個々の人間ができることは今でもごくわずかであるが、人類の発展には目をみはるべきものがある。歩くことさえおぼつかない―寄辺ない―状態から宇宙をも我が物しようかという成長ぶりである。
たとえば自分の限界を超えたスピードで移動したければ、〈おかね〉を支払ってタクシーなりバスなり自家用車を買うなり飛行機に乗るなりすればよい。〈おかね〉さえ支払えば、車がどのような構造をしており、どのような経緯を経て現在のような車が出来たか、また、なぜ飛行機は空を飛ぶのか、どうしたら安全に飛行できるのか、現在の飛行機ができるまで何人の命が犠牲となったのか、こうしたあらゆる知識も経験も免除される。
〈おかね〉は、あらゆる短所を長所へ、あらゆる不可能を可能へ、頭のなかにあるあらゆる表象を頭の外にある現実へ転倒させる。しかも〈おかね〉を使えば、わざわざ自分が欲しているものを自分の手で作り上げる必要などない。そのなりたち≠ノついて知らなくてはならないことなどほとんどない。ただ支払い、ただ欲するものを消費すればよいのである。
〈おかね〉があれば、人類がこれまで自然を利用するための知識や技術を獲得するために支払ってきた労力、自然を利用可能な非有機的肉体にするために支払ってきたあらゆる労力、自然の肉体化のたどった歴史、非有機的肉体がその発展の道筋において歩んできた諸段階、これらすべてを省略して欲望を満たすことができるのである。ただその歴史の現在だけを、歴史の果実だけを享受できるのである。現実に利用可能になった知識や技術を、それが何であるのかを知らないまま商品として消費することができる。
〈おかね〉とは、非有機的身体の形成史の諸段階を経ることなしにあらゆる欲望を満たすことを可能にする万能公式である。欲望を満たすという解≠求めるためには、それさえ使えばよい。〈おかね〉は、個人の一生をはるかに凌駕する時間をかけて人類の非有機的肉体が身につけてきたさまざまな能力を、ただ〈おかね〉を持つという最も少ない労力で個人のからだに与えてくれる。〈おかね〉は個人を人類に結合する。個人と優れた意味における人類との間を隔てる〈距離〉を跳躍あるいは省略してくれる。
いまや人類は―飢えに苦しむ数億の人々がいるとしても―〈おかね〉と技術というマジックが万能の力を奮っているお伽の国の住人といってもよいであろう。有限な寄辺なき存在である個々の人間は、〈おかね〉によって命令することで、人類の全能ともいうべき非有機的身体を動かす。〈おかね〉とは個体の意志を非有機的身体に伝達する神経系の拡張なのである。〈おかね〉によって人間個体は人類が身につけてきたあらゆる能力を自分の能力として利用する。〈おかね〉とは個体を人類にする道具なのである。
〈おかね〉によって個体は人類に同化することができる。〈人類〉がいまできるすべてのことが〈おかね〉によってできるようになる。個体は〈おかね〉によって人類史のエッセンスを利用可能になるが、同時に人類史を造り上げる一個の構成要素となる。
 
〈おかね〉の能力はその量によって増減する
先述したように、おかねというもの≠ェ無限の力を持っているにもかかわらず、現実の具体的な場面における〈おかね〉の力は、その量によって絶対的に制限されている。この矛盾を個人のレベルで見れば、手元にある貨幣片はほんとうは万能なのに、目的の商品が購入できるかどうかはその買い手の貨幣保有量によって決まるという不条理な状況として現れる。
いうまでもなく、具体的な場面における個人の〈おかね〉は量的に制限されている。100万を持っているヒトは100万円分のものしか買うことが出来ない。〈おかね〉によってどんな商品でも購入できる、だが手持ちの金額が許す範囲内でである。
実際、それぞれの対象(商品)は、自らに固有な量の〈おかね〉を価格として要求する。固有な≠ニいっても、いわゆる需要と供給の鍔迫り合いによって、価格は変動しつつある。ともかく価格は社会的に決定され、ある瞬間をとれば一義的に決定されている。
そこで、ある商品が欲しくても持っている〈おかね〉の量が、商品につけられた社会的値段に足りなければ、その商品を購入する資格は得られない。そして欲望は満たされることなく宙吊りにされる。
〈おかね〉の量が少ないことは、それによって買えるものが少ないことである。購入できるモノやサービスが少ないことは、その商品によってできることが少ないことである。言い換えれば、その商品がなければ実現できなかったはずの移動能力(車や飛行機)や演奏能力(CDやコンサート)などの諸能力が少ししか得られないことである。
〈おかね〉が一個の個体を人類へと高めるとすれば、所有する〈おかね〉の量が相対的に少ないことは、他の個体より相対的に少ないことしかできないことである。人類の非有機的身体が発揮できる諸能力のうち、より少ない能力しか持ち得ないということである。そして、もしある個体に〈おかね〉が全くないとすれば、一個の個体ではあっても人類の一員ではないことを意味することになってしまう。
 
〈おかね〉の保有量は所得稼得力が決める
人間は働くことによって〈おかね〉を得る。だが、いまだかつてすべて個人の所得が完全に同じであったことはないし、よほど人為的な強制力を持った手段を講じない限り、完全な所得の平等など不可能である。なぜ不可能かといえば、単位時間あたりの所得稼得力にばらつきがあるからである。すなわち人によって稼ぐ力がちがうからである。なぜ所得稼得力が個人によって異なるかといえば、自然の采配の下にある身体能力―生物としての能力―が異なるからである。
所得稼得力、〈おかね〉を獲得する能力のばらつきのために、所得がばらつくとすれば、所得稼得力というのは、〈おかね〉を分配するためのルールともなっていることになる。こうして、物価を一定とすれば、相対的に所得稼得力を持つものが、相対的に多く〈おかね〉を持ち、結果として相対的に多くの能力=\モノやサービス―を手にする。
おかねというもの≠ヘ、人間の全能性がかたちをもった無限の力をもつものであるにもかかわらず、現実の場面では量として現われざるをえない、ということは〈おかね〉の何らかの限界を表していないだろうか。言葉は頭に浮かぶどんなことでも表現できるのに、一旦表現として定着されると一定の有限な範囲に収まった意味しか持たない。この言葉の制約と同じような、限界を現していないであろうか。
もし理性による完全な社会管理の可能性を認めないとすれば、すなわち、動物≠ニしてのヒトを否定せず、自然な℃ミ会の揺らぎを認めるとすれば、この分配の困難を超える方法は、〈産業〉の進展と、平均的な購買力の増大しかない。具体的には、すべてのヒトが、単に生きてゆくために必要な消費である必需消費以上の購買力を持つこと、この方法以外、とりあえずはないのではないか。
先進的な国々ではすでに〈生存〉に不可欠な必需消費の可処分所得に対する割合が半分前後までに低下≠オている。つまり残りの半分前後はより高度な〈生存〉、いいかえればより豊かな〈生活〉に使うことが出来るということである。一国の平均だけでなく、万国の平均がこの意味での〈生活〉を営める水準に近づけば、あらゆる個体が人類として生きることができる。
 
人間は原型を求めて〈世界〉を商品化する
ライプニッツにとって世界は予定調和しているから、神が気まぐれで人間というモナドを創造することなどないはずである。しかしたとえそうだとしても、人によってその能力にばらつきがあることは、場合によっては他への羨望や自己への嫌悪のような不£イ和や不均衡の感覚をもたらすかもしれない。
この不均衡の感覚は、人間の心が持っている原初的な同一性、成長とともに厚みを増してゆく経験の層によって外からは見えなくなっているが、系統樹が分岐するように互いに違いを増していった性格や習性の奥底に横たわる、あの心の原型から発している。すべてを支配したいという意志、すべてを自己の下に取り戻そうという意志、隔てられた〈距離〉を無にし、再び世界と融合したいという意志、こうした意志の根源にあり、観念万能として現れる心の原型こそこの感覚のよってきたる場所である。
〈存在〉がそのまま〈生存〉であった時代の記憶から発している観念万能は、あらゆる個人の心のなかにあり、あらゆる心はこの観念万能に駆り立てられて同じ原風景を追い求める。つまり、あらゆる心は同じ境位を指向している。もし、身体#\力の相違に基づく利益・権力の所有の差が正当なものなら、どうしてヒトはヒトを嫉妬≠オたりするだろうか。もちろん個人的にも一般的にも他人を嫉妬することは醜悪なことであると思うが、しかしそうした感情を抱いてしまうことは必ずしも不当≠ネことではないのではないか。なぜなら、嫉妬とは、次元は低いが、心の原型を希求する平等意識の前駆形態であるからである。
観念万能として現れる心の原型は、万人をしてある一つの状態へと駆り立てる力を生む。その力に押し出されて自我モナドはあらゆる心的現象を発生させ、それだけでなく、不可視の心的領域を突き破って外界へとからだを道具として表出していく。こうして心の要請に基づいて、〈世界〉を解明しつつ知識や技術を発達させることは、外界を人間にとって利用可能な第二の身体とし、その適用である〈産業〉化は〈世界〉を「商品世界」にする。心の原型は観念万能として表出され、観念万能は〈おかね〉という形をとった。外界へのはたらきかけの果実である商品は、〈おかね〉によって支配される。
 
ヒトは天賦のからだに満足できなかった
アリストテレスにとって、生命とは、「デュナミス」→「第一のエンテレケイア(エネルゲイア)」→「第二のエンテレケイア(エネルゲイア)」という三つの契機からなるプロセスであった。デュナミスとはある能力を潜在的に持っていることであり、第一のエンテレケイアとはその能力を身につけることであり、第二のエンテレケイアとは身につけた能力を現実に発揮することである。
ヒトは家を建てる能力を持つ。家を建てる能力を身につける可能性を自然から与えられている。だが、学習しなければその能力を身につけることはできない。学習しないとき、人間は家を建てる能力を可能性として℃揩ツのみである。いいかえれば、家を建てる能力は、からだに潜在したまま眠っているデュナミスにある。学習するとき、人間は家を建てる能力を身につける。家を建てる能力は、顕在化され第一のエンテレケイアにある。そして、頭と手足を使って身につけた技術で実際に家を建てるとき、家を建てる能力は現実化し第二のエンテレケイアにある。
植物の根は、光の射す方向と反対方向へ伸びる負の屈光性を持つ。正の走光性を持つ蛾は、光の射す方向に向かって進む。根が光源に向う≠アとをせず、また進む≠アともしないのは、もともとその可能性を与えられていないからである。川が下流から上流に流れたり、石が話したり、魚が地上を走ったり、鳥が水中に潜ったりすることは同じ理由でありそうにない。
種としての生物の能力はこのように限定されている。だが、生物は、さまざまな種を含む生物全体として見れば、空も飛べるし水中を自在に泳げるし俊足で移動することも可能である。生命体全体を一個の個体のように見なせば、生物はあらゆる能力を持っているといえる。つまり、液体が注がれる容れ物によってそのかたちを変えるように、生物種とは、生命体が持ちうるあらゆる能力から一つ以上の能力を一定のかたちに注ぎ込むことで成り立っている。言いかえれば、生命の原型という一般型を置かれた環境に合わせてメタモルフォーゼすることで特殊型とすることによって成り立っているのである。生命は、種というかたちで分業することで、その可能性を実現してきたわけである。
一般的に考えた場合、あらゆる生物種は、その種として生態系を生きるのに必要なあらゆる能力を持ち合わせているはずである。そして自然が与えた可能性とも不可能性ともいうべき、種に固有な諸能力の枠内で自己を表出し、その枠を出ようとは一切思わない。ある決定された構造や物理的諸性質を持つからだというのは、環境に対しはたらきかける道具であるわけであるから自己を実現する手段であるのだが、自然がからだに許した範囲以上のことは不可能であるという意味において自己を限定する枷でもある。
心の目覚めた人間は、そうした状態にある違和感を覚える。そして心の内奥の衝動はそれを修正すべきであると訴える。考える私≠ナある人間だけが、無機的自然や他の生物種が持っているのにもかかわらず、自分のからだがもともと持っていない能力を、外界を非有機的身体にして利用することによりエンテレケイアにする。また考える私≠ナある人間だけが、他者が持っているのに自分が持っていない能力や、他者より自分が相対的に劣る能力を第二の身体によってエンテレケイアにする。
 
人間は第二の生命過程を持つ
建築家は家を建て、音楽家は音楽を創り出すことができる。建築家でも音楽家でもない者は、〈おかね〉によって、家を建て、音楽を体験する。動物としてこの世に生み出されたという自己の宿命、そして人間としてこの世に生み出されたという自分の置かれた宿命に、自己を意識する人間は根源的な否をつきつけた。
無機的環境である自然の能力や、ヒト以外の生物種の能力や、自己以外のヒトが持つ能力を、〈世界〉を商品世界に再構成することによって、手から手へ移動できるようにしたのである。本来なら、物体の性質や生命体の能力は、それら持つ本体あるいは質料である物体やからだの外へ移転されるはずはない。
他の生命体ではありえない、能力の移転をヒトだけが商品の〈おかね〉による交換というかたちで可能にした。特定の能力の再現である商品は〈おかね〉によって媒介され、それを手にしたものに個性によって実現できない能力を、自然や生物や他者の能力を、たとえ擬似的にではあっても、与えるのである。
もし種々の商品を、特定の能力が〈産業〉的に再現されたものだとすると、これらの商品は、〈おかね〉によって購入者の手に渡り消費されなければ、その能力は眠ったままで発揮されないことになる。言いかえれば、交換される以前の商品は、特定の能力のデュナミスにある。すると、〈おかね〉を介してその商品が誰かの手に渡り消費されることは、この能力がエンテレケイアになることを意味する。
家は材木がその可能性を実現したものであるから、家のデュナミスは材木であるといえるし、同様に、材木のデュナミスは森の樹木である。逆に樹木のエンテレケイアは材木であり、材木のエンテレケイアは家である。生命はデュナミスをエンテレケイアにし、そのエンテレケイアを次のデュナミスにして次のエンテレケイアにするという再帰的な過程を営んでいる。
生物一般は、からだが持っている可能性を自分の置かれた生態系のなかで発揮するだけである。からだのなかでデュナミスにある、いまだ可能性に止まっている諸能力を、あるいは直接的にあるいは学習を通して、エンテレケイアにしてその可能性を実現するだけである。
人間だけが、こうした、からだの持つ天与の可能性の実現というプロセスに加えて、もう一つの生命過程を持つことを可能にした。すなわち、他の自然物や生物や人間など、他の存在の諸能力を、商品というデュナミスにして商品世界に流通させ、デュナミスである商品を消費によってエンテレケイアにすることであらたな能力、あらたな生命過程を実現するのである。そして、商品としてのデュナミスから消費としてのエンテレケイアへの運動過程の要にあるのが〈おかね〉である。〈おかね〉は、デュナミスとエンテレケイアの仲介役であり、この第二の生命過程へ人々が参入するための権利を与えるのである。
エンテレケイアは、質料としてのからだと本来分離できないものだった。人間は、自分のからだがもっていないデュナミスや、もっているがエンテレケイアにもたらすことができなかったデュナミスを、他者や自然物のデュナミスの〈産業〉的結晶である商品を〈おかね〉と代替に手にすることで、エンテレケイアに変えることができる。いわば〈おかね〉は、他者と自然全体を一つのからだにし、そのデュナミスをエンテレケイアに変換する。自然全体は、多様な能力をもった一つのからだとなり、さまざまな角度から商品化され、〈おかね〉を通路にして生身ではできなかった能力を運んでくる。
 
〈おかね〉は個人の才能≠打ち消す作用を持つ
人間は〈おかね〉によって商品を手に入れ、商品によってさまざまな効用を満足させる。言い換えれば商品は天賦の個性の範囲ではできないことを可能にする。あらゆる商品に交換できる〈おかね〉とは、あらゆる個性を転倒する手段である。個性が天から賦与された資質や性質や能力を意味しているとすれば、個性を転倒する手段である〈おかね〉は、資質や性質や能力の違いを無にする手段であることになる。
ABより多く持っている時、ABに対して、ABより多くの労力、労働を支出したこと、あるいはより多くの才能を持ち、それを発揮したことなどを根拠にして自己の利益の正当性を主張するだろう。自分は持つべき富や力を持っているのだ、自分がこのような権力を持つことは道理に叶うことなのだ、と。
もし、Aが根拠に用いた多様な能力がすべて偶然の、いいかれれば〈自然〉の産物であるとしたら、どうであろうか。自然のままのヒト、所与のヒトは、多様な個別的能力の総合体である。それらの諸能力には、それぞれ程度の相違があるし、諸能力の組み合わせも異なるだろう。しかし、自我に関しては、事情はまったく正反対であり、ヒトは自我として振舞う場合は、本来的には、あるいは原型的には、皆全能の存在として振舞っている。そこで、全能の自我同士の軋轢や揉め事を回避するために、さまざまな文化機能を生み出し、それによってそうした紛争を調停している。
現在、ごく限られた人たちを神秘化したり理想化したり、一般の水準から高みに引き揚げる働きをしている、才能≠ニいう言葉がある。かつて速く走ることは、才能≠持つものの特権であり、その条件を欠いたヒトにとって夢の行為であったろう。
だが、商品化とその消費によって、速く走るどころかどんな動物も全く及ばないほど速く、さらにいえば音よりも速く、しかも長時間に渡って移動可能となった現在、短距離であろうとマラソンであろうと単に速く走ることは趣味の範疇に属している。高く跳ぶこと、力が強いこと、記憶力が良いこと、計算が速いこと、これらの能力も、いまでは持っていて損はしないという程度の枝葉のような技能となってしまった。
才能≠ニは分からない≠ニいうことを約めた言葉なのである。その能力がどんなものかがわかれば、飛行機を造ったり、列車を造ったり、武器を造ったり、コンピューターを造ったり、眼に見えるかたちにすればよいからである。ヒトの持っているあらゆる可能性が分析し尽くされ、それが体外に再現できるようになれば―いつできるのかは分からないが―、ヒトのさまざまな能力が〈産業〉として個々人の外側にあることになり、一定の条件さえそろえばあらゆるヒトに利用可能なものとなる。したがって、ヒトのあらゆる能力が解明されるときとは、才能という言葉が無効になるときでもある。
このように、自然全体の諸能力を人為的に再現するというのはヒトの必然であって、植物の種子が子葉を出し、そこから茎葉、萼、花弁、生殖器官と自己を実現してゆくのが善でも悪でもないのと同じ意味で、善でも悪でもない。動物は環境変異であれ、突然変異であれ個体同士の間に生まれる違いを均等にしようとはしない。人間だけが個々人の変異を〈おかね〉によって均霑しようとする。
ただ、外界に対する身体感覚を身に付けないうちに〈おかね〉によってすべてを満足させることを覚えてしまうと、外界と自分との〈距離〉感覚、外界を利用して〈生存〉してゆくには〈距離〉を縮める努力が必要である、という感覚を体感できなくなってしまう。もしわたしたちが植物ならばそれでもよいだろう。しかしいまだ〈存在〉と〈生存〉とが等号で結ばれていないときに、現実が自分の一部であったり自分の意志の支配下にあったりするのでなく、自分こそ現実の一部であり現実原則の支配下にあることを知らないことは〈生活〉してゆく上で致命的な欠陥である。わたしたちは〈おかね〉に夢中になっているが、現実は思いのほか〈おかね〉に無関心だからである。