自分にとっての哲学
英米文学科英米文学コース一年 小阪森人
(一行四十字、十行=原稿用紙一枚、全五十一行)
僕は、一時期真剣に哲学について考えたことがある。というか、僕の場合、哲学とは真理を意味する。若し、哲学の探究するものが真理でないとすれば、そんなものに僕は全く興味は無い。ただ、僕の求める真理が哲学という学問に重なる部分が多いため、僕は哲学というものに非常に興味を持つ。
よく、哲学は現実と関係があるか、という問いかけを耳にするが、その問いかけは根本から間違っている。というのは、哲学というものは、現実と関係があるということではなく、現実そのものなのである。若しもそれが現実と食い違うとすれば、それは最早哲学ではない、真理探究の学問ではないと言わざるを得ない。哲学にも、いろんなジャンルがある。その中で、中途半端に「生き方」などを説くものがあるが、そんなものは、僕にとって哲学とは呼びがたい。「生き方」などというものは、絶対的な答えは存在するわけがない。だとすれば、そんなものは単なる虚構だ。僕の求めるものは、どんな疑問も許さない絶対的真理だ。こういうと、絶対的なものは存在しないというのが絶対的真理だという者がある。然し、それも一種絶対化しているのである。ひどく内容が抽象化してきたので、もっと具体的な話に移ろう。なぜなら、真理は具体性そのものだと言っても過言ではないと、僕は信じているから。(哲学の欠点は、具体性を抜きに抽象的な事を語りすぎるということにあると思う。抽象というものは、文字通り、象を抜き出したものである。ということは、その抜き出すという過程で本来の形が歪められているのである。それなら、その根本的実体はというと、象、つまり具体なのである。)
真理というものは、実際的なものではないと僕は信じる。真理というもの、それは、然し、抽象的なものでもない。ではそれは一体何か。
僕は一時期、絶対的なものを追求する余り、科学的思想にのめり込んだことがある。科学的思想というものは、実際ひどく現実味を帯びている。例を取ってみると分かり易いが、例えばここに、「人間の思考は脳によって支配されている」という命題を提示してみよう。この命題に疑問を投げかけられるということが果たしてあり得ようか。この命題は、脳科学が発達した今日、絶対的な真理として燦然と輝く存在に思える。しかし、この思想にも疑問の余地があるのを、僕はある有名な思想家の有名な格言によって気づかされた。それがかの有名なデカルトの言葉、「我思う、故に我あり」である。それまでにもこの言葉は幾度も耳にしたことがあった。しかし、この言葉の本当の意味が分かったのは随分月日が流れて後のことだった。この言葉の本当の意味が分かっている人間がこの現代世界にそれ程多くいるとは思えない。つまり、この言葉は、人間の思考が、脳に優先するということを言っているのだ。確かに人間の思考が脳によって左右されるということは否定出来ないかも知れない。しかし、そのことと、人間の思考の存在は全く関係ない。脳が存在することよりも、それを思っている自分がいることの方がより真実なのである。脳が存在すると、考えた時点で、その考えている自分はそれに優先しているのである。そこを出発点にしなければ、真理というものに接近する事は不可能である。先に、「思っている自分がいる」と書いたが、「思っているそのこと自体が自分である」といった方がより正しいかも知れない。また、考えること、思うことに限らず、五官全てで感じることにも同様の事が言える。これは持論だが、自己というものはそれらの絡み合ったものでしかないと思う。人間生活の普段の状態、つまり、映像、感触、音、臭い、味、思考、それらの絶妙に絡み合った状態、それこそが、存在であると僕は考えている。しかし、こうやって、文章にあらわすと、どうしても客観的になってしまい、それは真実みを失ってしまう。自己を顧みた時点で、それはもう客観的なものであり、真理ではない。真理は、それらの絡み合いを体感しているその主観的な時点においてのみ成り立つ、これが今僕の言うことの出来る、唯一の真理である。