哲学と芸術の比較
英米文学科英米文学コース一年 小阪森人
(十行=原稿用紙一枚、全百二行)
僕は以前、哲学に非常に興味を持ったことがある。そのころ僕は科学的思想、つまり唯物論的思想に傾倒しており、その思想によって世の中の森羅万象全てが説明できると思っていた。その思想は、今現在想念されている哲学という学問よりも寧ろ、科学、その中でもとりわけ脳科学という思想に近かった。つまり、世の中の森羅万象は勿論、人間の精神も全て物質の運動をもって説明出来るというわけである。これは、ニュートン時代の古典力学を発展させたものである。こういう考え方は、先入観の強い現代人にはひどく滑稽に聞こえるに違いない、しかし、実際その現代人も彼らの考えを発展させていくと、唯物論的思想にたどり着く筈なのである。
確かにこれだけ科学の万能な時代においては、一度は唯物論的思想に傾倒せざるを得ないのではなかろうか。しかし、最近になってやはり、物質の運動のみによっては人間精神は説明し尽くせないのではないかと考え始めた。つまり、物質よりも人間精神の方が先行するのではないか、人間精神あっての物質なのではないか、物質の存在なんていうものは、人間のでっち上げではないのかということである。これは非常に抽象的且つ滑稽に聞こえるが、こう考えないと、芸術という学問は決して理解できない。
しかし、物質の存在を否定するのは容易な事ではない。人間は視覚と触覚の両方に刺激を与えるものに存在という抽象概念を付与する習性を持っている。またそれだけでなく、そのことから延長して、感覚を通して刺激を感じてみることなく物質に存在という概念を付与する習性を持っている。そのいい例が原子等の微細物質である。それらは通常の人間の感覚には全く刺激を与えない。与えるものは顕微鏡等を通した歪められた映像でしかない。それにも関わらず、人間は何の抵抗もなくそれらに存在という抽象概念を付与する。人間は感覚をあるときは信じ、あるときは信じなかったりする。そういった考え方が絶対普遍真理を生み出すことは不可能だ。
先ず、科学的思想を信奉する者は、何事にも優先して感覚の信頼性を追求しなければならない。なぜなら、科学的思想は全て感覚の絶対性を根本としているからである。もしもそこが揺らぐようであれば、科学的思想は自然崩れざるを得ない。このことを徹底的に追及したのが、かの有名な哲学者デカルトである。彼は偉大な数学者でもあり、彼の著作「方法序説」「省察」「哲学原理」等を読めばその膨大な数学の教養に唖然とさせられる。
古代ローマ時代、学問というものは、今のように細分化されていなかった。おそらく数学と哲学も当時は一つの学問と考えられていたのではなかろうか。それが、だんだんと分岐して今日のように膨大な学問数となった。
哲学は、数学、科学等と非常に似通った学問だと僕は認識している。よって、哲学を本当に極めるならば、それらの学問の知識を得ることも必要であろう。
デカルトは感覚の信頼性について深く考えているが、結局辿り着いた結論は、その信頼性について考えている自分の絶対存在であった。また、彼は考えている自分を絶対存在としたが、そのことは同様に全ての感覚を通じてくる刺激にもいえると思う。つまり、考えていること、感覚を通じてくる刺激によって作り出したものの存在は絶対とは言えないが、その作り出されたものに絶えず先行する、考えていること自体や感覚を通じてくる刺激自体は絶対的に存在するということである。
全て、真理を探究する学問はこの思想を出発点にしなければならない。なぜなら、真理は絶対真理の上に成り立つものでなければならず、前述の命題が真理でない事を証明することは不可能だからである。
芸術という学問は必ずしもこの思想を持って書かれてはいない。しかし、芸術という学問は疑うべからざるものを持っている、ではそれはなぜなのだろうか。
芸術という学問は人間の精神を描いた学問である。ポーやカフカやダリのように現実からは全く無縁に思えるものも、それは疑うべからざる人間精神を描いたものだからこそ芸術なのである。彼らによって生み出された芸術作品に触れて起こる感動は疑うことはできない。確かハイネの詩に天の星を、黒幕の上に刺された鋲に喩えた詩があったと思うが、それがもしハイネにとって本当にそう見えたのであれば、実際それはその瞬間黒幕の上に刺された鋲である。なぜなら精神は物質存在よりも先行するから。
哲学には現実をそのまま叙述するものと、人間の生き方を述べる教訓的なものとがある。同様に、芸術にもそういうものはあると思う。例えば、文学をその例にしてみると、文学というものは単に文章の美しさというもので読むものに感動を与えるという効果も持っているが、それとは別に、文章によって作者の思想、例えば人間はこう生きるべきであるとかいったものを伝える効果も持っている。
文章の美しさのみによって読むものに感動を与えるもの(特にこの種のものは詩に置いて多く見られるが)は、現実をそのまま叙述するという哲学と繋がる部分があると思う。その種の文学はその文章自体に内容などというものは無く、ただ意味もなく読むものに感動を与えるというものである。こういうものは文章から何かを読み出そうとしている者には理解できない。なぜなら、その文章は何が言いたいというものを持っていないからである。
しかし、逆に文章に内容を持たせた文学等というものは、僕は非常に嘘臭いと思う。というのは、もしもそういったものを書きたいのであれば、そういったものは随筆なりで内容のみを書けばいいのであって、文章に美質を付与する必要は無いからである。芸術というものは全てそうあるべきだと思う。文学なり、絵画なり、音楽なりにしても、文学は文字による感動、絵画は視覚による感動、音楽は聴覚による感動を持ってしか、そのもの独自の良さは見いだせない。
そういった感動というものは有無を言わせないものを持っている。感動を疑うといった時点で、それに先行して感動は既に存在してしまっているのである。しかし、その感動はその瞬間にして真理であり、その後にその感動の存在を意識するとき、既にそれは偽りである。過去の感動を意識することは、その感動を意識している事自体は真理であっても、その感動自体は偽りの感動である。
そういった一瞬間の真理という面で、その種の文学、広く言うと芸術は、現実をそのまま叙述するという哲学に繋がる部分がある。その種の哲学は、瞬間、瞬間を真理と見る。デカルトの格言「我思う、故に我あり」も、それを過去の心象として扱うとそれは偽りになる。「我思う、故に我あり」の我も、その思っている瞬間の我のみが真理であって、その後に思考され、文章にされた我は偽りの我である。
では、教訓的な芸術や哲学には全く意味がないかというと、確かに上述の芸術や哲学に比しては次元は低いと言わざるを得ないが、多少なりとも意味はあると思う。では、その意味、つまりその存在価値はというと、それは、それがそれを読むものに劇的に伝える効果を持っているということにあると僕は思う。
たとえばそれは、ただ単に随筆という形を取って述べるよりも、物語形式を取ったり、文章に美質を付与させたりして述べた方が、同じ教訓でも読むものに与える感動の効果が異なる、とかいうことである。確かにそうやって与えられた感動も真の感動である事には違いないが、肝心の伝えられたものが価値の低いものである場合、それは何物をも生み出さない。
また逆に、その効果は実際は価値の低いものを劇的にすることで実際の価値を歪めて伝えているとも言われうる。真の教訓ならば、その教訓自体に価値があるはずであり、別に文章美という装飾を施さなくともよい筈なのである。そういった意味で、教訓を込めた芸術は僕は価値の低いものと考える。
これまで「哲学と芸術の比較」というテーマで書いてきたが、最後にまとめとして書くと、哲学は芸術の説明である、ということがいえると思う。哲学と芸術は確かに繋がってはいるが、それは決してそれらが似通っているということではない。あくまで、哲学は、芸術に限らず、森羅万象並びに人間精神の説明でしかない。確かハイデッガーが、「哲学は芸術には勝てない」と何かの書物で書いていたように思うが、それは、つまり、「人間精神は、説明をされた瞬間人間精神ではなくなる」という意味なのではなかろうか。
しかし、人間は生きていく上で、全て物事に説明をつけようという欲求を持っている。そしてそれは、最終的には哲学によってのみしか成し遂げられないものであろう。そういった意味で、たとえ哲学はそれ自体感動を与えることはなくとも、少なからぬ存在価値を持っていると考えざるを得ない。そしてまた、哲学の少なからぬ存在価値のあることを証明するには、そのことのみで充分余りあるのではなかろうか。