『ポー短編集』中の一短編「黒猫」から見るエドガー・アラン・ポー
英米文学科英米文学コース一年 小阪森人
僕は一時期哲学に傾倒したことがあったが、その頃は文学作品を読んでいても、そうすることの意義が感じられなかった。哲学という思想は、現今様々な種類(ジャンル)に分岐しているが、概してそれは理性の尊重によって成り立っているものである。そういった時期に出会い、文学の意義を僕に再認識させる役割を果たした作品が、ポーの短編、特にこの「黒猫」に代表される怪奇的性質を持った類の作品群であった。
この短編ほど痛烈に理性批判を打ち立てた文学作品を僕はそれまでに読んだことが無かった。この短編には全体的にその思想が漂っているが、それが最も顕著に表れた文章がある。次に引用するものがそれである。
だがそうした感情は、まもなく激しい焦立ちにかわり、ついにはあたかも取り返しのつかぬ、私の最後的破滅ででもあるかのように、いわゆる「天邪鬼」の精神が来た。この精神については、哲学もまだ何の説明も与えていない。だが、天邪鬼こそは、人の心の最も原始的な衝動の一つであり、──そしていわば、人の性格を決定する、分析を越えた根元的能力ないし感情の一つであることは、あたかも私のこの生ける魂のたしかさにもひとしい、もはや疑いを容れない事実である。
この一節には理性を超越した本能的感情(ここでは「心の最も原始的な衝動」と形容されているが)の存在を否応なく心内に認識させられているものの心の叫びが感じ取れる。こういったことを題材にした小説は数多くあるが、これ程までにその真理を読者に痛感させるものはそれ程多くはないと思う。この一短編のテーマは、一言で言ってしまうと、前述の「理性を超越した本能的感情」であろうが、文学というものはテーマ、若しくはその作品の秘めた思想を理解したのみでは、作品自体を理解したことには決してならない。若しそうであるとするならば、何も物語的形式をとって述べる必要は無いのである。その思想のみを、格言的に記せばそれで充分事足りる筈である。物語的形式をとって述べる事には、それ(テーマ及び作家自身の抱いている思想)をより印象的に読者に伝え、若しくは全て文学作品の構成単位である<文章>の美しさによって、読者をその作品の持つ独自の雰囲気に引き入れる効果があるのである。
天才と気狂いとは紙一重だと言うが、ポーなどはその典型的例であろう。そしてこの短編においては、彼の論理的文章使いと怪奇的内容が交錯しあって如実にその性質が表れている。彼は人並外れた理性を持っていると同時に、人並み外れた狂気も持っている。そしてそれら二つの性格が、彼の中では明確には分離されることなく、融合していたのではなかろうか。先に、「この短編ほど痛烈に理性批判を打ち立てた文学作品を僕はそれまでに読んだことが無い」と書いたが、「この短編ほど無意識的に理性批判に満たされた文学作品を僕はそれまでに読んだことが無い」と書いた方がより正しい表現であったかも知れない。というのは、この作品は確かにその思想を明確に、例えば先に引用したもの等により、示した箇所もあるが、概してその思想を感じさせるものは、彼自身の二つの性格の融合状態より自然に流れ出る<文章>そのものであるからである。
この短編は非常に短いが、一つ一つの文章が作家の性格(この作品においては、彼の<内なる狂気>)を実によく反映し、それを読者にまざまざと伝える効果を持っている。この短編を読んだことは数度にわたるが、読む度毎に変わらぬ、否、以前読んだ時にも優る暗澹とした恐怖感をもって迫ってくる。それはおそらく、この作品が単なる怪奇小説ではなく、この主人公若しくは、ポー自身が普遍的な人間の心理状態を、極端にではあるが具現化しているという理由によるものであろう。
引用作品
Edgar Allan Poe. 中野好夫訳 『黒猫・モルグ街の殺人事件 他五編』 岩波書店。