モーム「雨」を読んで  ──作者の表現したかったこと──
 
英米文学英米文学コース一年 小阪森人 
 
 この小説の中では中心となる人物が二人登場する。一人は娼婦ミス・トンプソン、もう一人は伝道師デビッドソンである。僕は俗世界の象徴的存在として描かれているトンプソンよりも、この厳格な伝道師の方により心を惹かれた。そして、僕はここでは、主に彼のこの小説における役割について述べようと思う。というのは、クライマックスの彼の自殺のシーンからも窺えるが、モームはやはりこの伝道師を小説の主人公にしたように思われるし、また、本能に敗北した聖職者の俗物性というアイロニカルなものに僕が個人的に興味を持ったからである。
 この小説の中で、モームが最も表現したかったことは理性と本能の葛藤だったのだと思う。そして、それをデビッドソンという一人の伝道師に体現することによって、読者にリアリティーを感じさせる効果をねらったのであろう。
 では、モームは一体その二つ(理性と本能)のどちらが、人間にとってより本質的なものであると見なしているか。それは、一言では言えないところがあるが、おそらく、それは本能の方なのであろうと僕は考える。
 先ず彼の本能に関しては、彼がトンプソンと肉体関係を持ったことによって描かれている。また理性の方はというと、それは彼の劇的な自殺によって描かれている。この自殺の場面を最初に読んだときには、僕はモームがこの彼の自殺を、姦淫の罪を贖うための行為として描いているのかと思ったが、何度もその箇所をも読み返してみた結果、やはりそれは、本能に敗北した者の無惨な最後としてしか描かれていないのだということに気づいた。この小説が、彼の自殺によってではなく、トンプソンの嘲罵によって締めくくられていることにも、そのことはよく窺える。
 人間というものは、特に聖職者などというと理性的動物の代表として見られがちだが、実際はそうではない。人間は理性的動物であると同時に、狂気的本能も備わった生き物である。デビッドソンもトンプソンも、外面的なものこそ違え、人間的性質といった点では、それほど変わる所は無い。モームはこの小説の中で、聖職者と娼婦という極端な例を取りながら、おそらくこういった事を読者に訴えかけたかったのであろう。