丸亀出身の思想家・三木成夫 (1925〜1987)
 
小阪清行
 
 三木成夫(しげお)の思想が注目され始めて、もうどのくらいの時がたつだろうか。しかし、丸亀近辺でも三木の名前を知っている人はまだ極めて稀であるように思われる。僕自身、五・六年前に知人に勧められてその本を手にするまで、その存在すら知らなかった。西本町にあるその実家の前を、週に一度や二度は通っていたというのに……
 生前の三木が無名であったのは、あるいは当然と言ってよいかもしれない。東大医学部の助手を経て、東京医科歯科の助教授、東京芸大の教授という経歴は必ずしも地味ではなかろうが、その専門分野は解剖学・発生学で、本来一般の人の興味を引くような領域ではない。生前世に問うた著作は二冊のみ。『内臓のはたらきと子どものこころ』、『胎児の世界―人類の生命記憶』というタイトルも地味である。しかし、真の価値を持つものは、いつか必ず再発見され、評価されるに至るものであるようだ。
 三木の思想の普遍性はどこにあるのだろうか?
 三木は「生命記憶」という言葉をよく使う。その意味を説明するのに、彼は好んでサケの宇宙的な回帰運動を例にあげる。(僕は、三木の遺稿集『海・呼吸・古代形象』を読んで感銘を受け、詩(『神の魚(カムイ・チェップ)』)を書いたことがある。以下二段落は、その詩を要約したもの。)
 冴え渡る清流の底、滾々とわき出る湧水のそばに、卵床はある。時いたって稚魚たちは、太古の記憶の命じるままに、卵の薄い透明の膜を突き破って、冷たく広い世界に泳ぎ出る。やがて雪解けの渓流を下ったサケたちは、より深くより冷たくより暗い北の海へと引かれていく。アリューシャン列島の無辺の海原や、ベーリング海の流氷の下を幾年月漂うあいだに、オキアミを食らった彼らの体は、吻が突き出て精悍に曲がり、ますます逞しさを増していく。[ここまでが三木の言う「食の相」である。]
 そして雌の腹腔が子種ではち切れんばかりの季節を迎えると、不思議の力が銛のごとくサケたちの脳天を刺し貫く。[ここからが「性の相」。]今や、飢えたシャチも、アザラシの群れをも恐れず、幾百億光年の彼方の星の光に導かれるように、サケたちは、親潮に乗って母たちの川をめざす。一切の食を断った群れは、浅瀬や河原を腹ばっては鱗を剥がし、岩や滝に頭をぶっつけ、肉を裂き血を垂らしながら、激流を遡り、産卵場所へと突き進む。やせ細った雌鮭たちは、五日もかけて尾で掘った溝に、美しい数千個の卵を生みつける。そして雄たちは、三十億年前の原初の記憶のままに、生命(いのち)の最後の力を振り絞って乳白色の精液を振りかける。そして力尽きたサケたちはついに、命懸けで遡上してきた川を、ふやけ肉として流れのままに海へと流されていく……
 このような回帰運動を三木は「生のリズム」と呼ぶ。そこに彼は「最も雄大な生命記憶の回想」を読みとっている。この解剖・発生学者は、現代人のすべての問題は、この「宇宙のリズム」を忘れてしまったところに起因している、と言いたかったのではなかろうか。彼の説く自然は、一般の自然科学者が説く自然とは、大きくかけ離れている。「正統的」自然科学者の目から見れば、恐らく三木の考えは、アナクロニズム以外の何ものでもないに違いない。
 三木の思想を支えるものは、ゲーテであり、仏教である、と僕は理解している。そのゲーテが、偉大な自然科学者でもあったことを知っている人は少ない。僕はたまたま、ノーベル物理学賞を受賞したハイゼンベルクが来日した際の講演を読んだことがある。もう二十年も前のことで、その内容はよく憶えていないが、その主張するところは明白であった。すなわち、「今こそ、われわれはゲーテ的自然把握に帰るべきである」。
 「ゲーテにとって、決して離れることのできないものが、三つあった」――これは、ゲーテ賞を受賞したときのアルベルト・シュヴァイツァーの言葉である。「自然」と、「友情」と、もう一つは忘れてしまった。ゲーテのことだから、「女性」だったかもしれない。が、それはこの際どうでもいい。ともかく、シュヴァイツァーによれば、その三つの中でも、ゲーテにとっては、特に「自然」が重要であった。彼は文学の中でも、ただそればかりを追い求めているように、僕には思える。若き日に、汎神論者スピノザの強い影響下にあったゲーテにとって、自然とは、恐らく神のようなものだった。神と言って不都合であれば、「神性(ゴットハイト)」。エッカーマンに向かって彼はこう言う。「神性は、生き生きした(レベンディッヒ)ものの中では働くが、死んだものの中では働くことがない。それは、生成発展、生々流転するものの中には存在しうるが、完結してしまったものや硬直化したものの中では存在することがない」(拙訳)。
 自然科学者・三木にとって、彼を取り巻く研究環境は、恐ろしく機械論的・実証主義的なるもの、「人間」と有機的関係を持たないもの、と映ったに違いない。自然を機械的・無機的なものとして、つまり「死んだもの」として捉える、このような考え方こそ正(まさ)しく、ゲーテが彼の時代にすでにその萌芽を見て取り、必死にそれに抵抗しようとしたものだった。ゲーテにとって、自然は探求されるべきものではあったが、探求し能わざる領域に関しては、生の神秘として畏敬されるべきものであった。三木の自然観・宇宙観も、この畏敬の念で貫かれている。
 「蟷螂(とうろう)の尋常に死ぬ枯野かな」―これは三木が愛した元禄の俳人宝井其角の句だが、この句について三木は次のような注を加えている。「カマキリというのは交尾の最中に、雄と雌が抱き合ったまま、雌は、自分の前に雄の頭があるわけですが、交尾しながらその頭をバリバリ食べだすわけです。それで雄は首だけ残っているんですね。つまり雄の体の栄養がそのまま卵子の養分に早がわりしていくのです。その様子を其角が見たのでしょう。そして、いかにもその姿が『尋常』に映ったのでしょう」。かくのごとく、三木の見る自然は、ある意味で残酷さをも含む自然であった。サケの場合もそうであったように、「ふやけ肉として海へ流されていく」ところまで肯定しなければ、自然全体の把握にはならない。ここに、自然への「畏敬」がある。
 三木は、義姉・りつ子さん(すぐ上の兄・照也氏の妻)の話によれば、「この猥雑な世の中」という言葉を何度も口にしていたそうである。その三木が帰郷のおり、当時まだ残っていた飯山近辺の自然に触れては、「お地蔵さんのようにジーッと」小川や花や虫を半時間も一時間も見つめ続けていたという。「猥雑な世の中」は自然を排除し、人間の欲を実現せんとする。残酷さや恐ろしさや死を含んでいようとも、「自然」にこそ三木は純粋な世界を見ていたであろう。その姿はわれわれに、学者よりも、むしろ宗教家・芸術家を思い起こさせる。
 二八歳のとき鬱病を患って後、在野の思想家・冨永半次郎のもとで仏教やゲーテなどに沈潜していった時期から、彼の思想は深まっていったようである。われわれは、何が三木を鬱病に追いやったのかをハッキリとは知らない。また、何が彼を宗教や文学や哲学に向かわせたのかも。われわれが知っているのは、この時期を経た三木が、もはや単に、頭がよくて、芸術家的センスを持ち、人格が円満なだけの教養人ではなくなっている、という事実である。
 三木の思想において驚かされるのは、何十億年という時空(とき)の中で考えられた、そのスケールの大きさである。そして自然科学を説きながら、その文章が持つ人間臭さ(人間らしさ)である。そしてここにきてわれわれは、恐ろしく単純な事実に驚かされる。現代文明が、人間をその「本来的生」からいかに遠く引き離してしまい、人間が「心」を持った存在であることをいかに等閑視し続けてきたか、という事実に。
 ジワジワと押し寄せる三木ブームは、現代人が自然との別の繋がり方を渇望していることの証ではないのか。死後、遺稿集などの出版が続いた。死の七年後には、「現代思想」や「モルフォロギア」が『三木成夫』を特集した。今年の四月にも、「詩と思想」が『〈生命記憶〉詩と芸術―三木成夫の世界―』という特集を組んでいる。東京では、養老孟司氏などを世話人とする「三木成夫記念シンポジウム」が今年ですでに十回を数える。そして、地元丸亀でも、今年五月二六日に「三木成夫の会」(代表・八木洋一/四国学院短期大学教授)が発足したばかりである。
 
 この原稿は、ローカル季刊誌『さあかす』第8号(さあかす編集局発行)に発表したものです。