第一詩集『月に吠える』から見る詩人 萩原朔太郎
英米文学科英米文学コース一年 小阪森人
全五十四行(十行=原稿用紙一枚)
先ず、『月に吠える』を読んでみて最初に感じたことは、非常に月並みな言い方ではあるけれど、文章の美しさであった。どの文章をとってみても、その一つ一つが陰鬱で繊細な美を秘めている。しかも、その一つ一つが、彼の非凡な才能と何度も重ねられた推敲によって、まさに完璧といった感を与える。しかし、それら五十以上にも及ぶ詩群の中でも、最もそれらの特徴を如実に表していると僕に感じさせたのは、「酒精中毒者の死」という殊更不気味な雰囲気を持った詩であった。
その詩はこういった言葉で始まる。
あふむきに死んでいる酒精中毒者(よっぱらい)の、
まつしろい腹のへんから、
えたいのわからぬものが流れている、
透明な青い血漿と、
ゆがんだ多角形の心臓と、
腐ったはらわたと、
ぐにやぐにやした贓物と、
そこらいちめん、
地べたはぴかぴかひかっている、‥‥
この一節には、読者に身震いするほどの寂寥感と恐怖感を与えるものがある。
朔太郎自身も言っているが、詩というものは真理や道徳を述べるためのものではない。詩というものは、心の奥底に漂う、どうにも収拾のつかない感情の美的流出であり、読むものの心にそれを最もよく伝えるための道具である。先に挙げた詩も、筆者はこの詩によってどういうことが言いたいのかということは問題ではない、そういう姿勢では詩の良さは理解出来ないのではないか。ただその詩の持つ美しさ、情、雰囲気に感動する。この事実にこそ詩の真意義があるのだと思う。よって、風刺的要素を持ったもの、何か自分の主義を押し付ける様なものは、詩としては価値の低いものであろう。そういった類のものであれば、何も詩を使って述べる必要は無いのだから。
詩は全く感性のみによって理解するものである。その点で、詩は小説等よりも寧ろ音楽や絵画に似ているかも知れない。ただ、音楽や絵画と違って、詩の伝えるものは言葉による(・・・・・)内的感情の抑揚、また彼の言葉を借りれば、<韻律の誘惑する陶酔的魅惑>である。朔太郎自身も、詩集『黒猫』末尾の付録「自由詩のリズムについて」において、そういったことを詳しく述べている。(ここに書かれている文章には得るところが多かった。それを読む前に詩を鑑賞した時と、後で鑑賞した時とでは受ける印象がまるで違った。実際、詩人としての彼よりも、僕は詩論者としての彼に一層魅力を感じる。それはおそらく、感性によってよりも、理論的思考によって生きるという僕の性格的傾向に拠るものであろう。しかし、詩の魅力はそういった客観的な吟味によってではなく、あくまで主観的な吟味によってのみ感じられるものである。もし客観的に詩が本当に理解出来るのであれば、詩を書いたり読んだりする必要は無くなってしまう。詩論は、あくまで詩をよりよく理解するためのものでしかあり得ない。ましてや彼の詩においては、そんな客観的な態度など全く通用しない。)
僕は、この度この詩集を読んで、萩原朔太郎の『月に吠える』における詩観というものの全てを認識出来たなどとは、とても口幅ったくていうことは出来ない。また、その一部分でさえも正しく認識出来たかというと不安を隠せない。しかし、彼の詩に見られる暗澹とした詩情に、曲がりなりとも触れることが出来たことは確かな事実である。そしてその事実によって、詩という感性的世界に僕も浸れる可能性を秘めているのだということを知ることができた。このことだけでも、この詩集を読んだ意義は大いにあったであろうと思う。