ドイツ兵俘虜研究の先覚者
(故人のみ)
 
 
○ 富田 弘(1926 - 1988)
○ 大和啓祐(1929 - 2001)
○ ディルク・ファン・デア・ラーン(1938 - 2009)
 
 
○ 富田 弘(1926 - 1988)
 愛知県に生まれる。1952年名古屋大学文学部卒業。その後、名古屋大学講師、愛知県立女子短期大学講師、愛知県立大学教授を歴任し、1978年豊橋技術科学大学工学部教授に就任した。永年、ドイツ語・ドイツ文学およびドイツ社会思想史の教育・研究に携わり、ハインリヒ・マン、レッシング、ジェルジ・ルカーチらの研究で知られる。『文芸思想史』U・V(三一書房、1957年、共著)、『現代思想としてのマルクス主義』(大月書店、1959年、共著)、フランツ・メーリング『レッシング伝説』(風媒社、1968年、共訳)などの著訳書を上梓した。
 また一方で、1975年以降、板東俘虜収容所の新聞『バラッケ』の紹介を愛知県立大学および豊橋技術科学大学の紀要に前後10回にわたって連載し、「日独戦争と在日ドイツ俘虜」に関する資料の発掘・翻訳・紹介に没頭してきた。徳島県鳴門市が日本で初めてベートーヴェンの「第九交響曲」が演奏された土地であることを発見したのも富田氏であり、その手堅い実証的な在日ドイツ兵俘虜の研究は、『板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜』(法政大学出版局、富田弘先生遺著刊行会編)をはじめ「鳴門市立ドイツ館収蔵印刷物解説目録」などの功績に結実している。1987年に、その功績に対して「鳴門市市長賞」が授与された。
 1988年8月癌性肋膜炎で死去。享年62歳。
 (『板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜』の「著者紹介」を編集)
 
 
○ 大和啓祐(1929 - 2001)
 徳島県に生まれる。1958年東京大学文学部旧制大学院を退学後、1961年高知大学文理学部文学科助手として着任、1971年文理学部(のち人文学部)教授となった。1992年に同学を停年退職したが、その間人文学部長などの要職を歴任。主としてドイツ詩の韻律の研究が専門領域だった(『ゲーテ<ファウスト>第1部の脚韻』、『ドイツ詩法の基礎概念』など。共に<高知大学学術研究報告 人文科学編>)。1993年より亡くなるまで徳島文理大学教授。
 高知大学退官前年の1992年より、鳴門市の委嘱で板東俘虜収容所の所内新聞『ディ・バラッケ』の現代文字化に取り組んだ。この新聞はいわゆる「ガリ版刷り」で作られており、当時ドイツで用いられていました古い筆記体で書かれているが、この字体は現在では、ドイツ人でも読み取ることが難しいとされている。翻訳を始めるためには、この作業が不可欠であった。この作業のお蔭で史料研究会による翻訳が可能となった。『ディ・バラッケ』第1巻と第2巻の共訳者でもある。
 俘虜関係の随筆として、「ふたりのボーナーさん」がある。所載:『鶏肋―大和啓祐教授退官記念随筆集』(高知大学人文学部独文研究室編)、1992年。なお「ふたりのボーナーさん」は、「ドイツ便り」、「アルフレート・ボーナーさんの四国遍路」、「ゴットロープ・ボーナー先生訳『自由の空に』」の三部で構成されている。
 2001年8月に心不全のため死去。享年72歳。
 (『高知大学学報』(459号)、『ルーエ』(創刊号)および瀬戸先生からの情報による)
 
 
○ Dirk van der Laan ディルク・ファン・デア・ラーン(1938 - 2009)
 元捕虜 Heinrich van der Laan (1894-1964 松山→板東)を父に、神戸で生まれた。父Heinrichが働いていた神戸・ラムゼーガー商会の経営者であり、また交響曲『忠臣蔵』の作曲者としても知られる Hans Ramseger は、大叔父だった。
 MBA(経営学修士、上智大学)。1960年ドイツ・バイエル社入社。1964年から1996年までバイエル株式会社に勤務。1992年から1999年までOAG(ドイツ東洋文化研究協会)理事。1998年OAG神戸センターに神戸市東灘区の土地を寄贈。
 俘虜研究者 Hans-Joachim Schmidt 氏、郵趣家 Walter Jäckisch 氏、同 Ludwig Seitz 氏などを介して、精力的にドイツから俘虜関係の資料を収集し、日本の研究者に提供した。
 2008年10月に岡山大学文学部において日本独文学会主催のシンポジウム「日独文化交流史上の在日ドイツ兵捕虜とその収容所」が開催されたが、その際「在日ドイツ兵捕虜と日独文化交流」と題して第1部の基調講演を行った。
 2009年1月に滞在先のチリ・サンチャゴの郊外にて死去。享年70歳。
 (「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」HPとOAGからの情報による)