青島ドイツ軍俘虜
通し番号) 姓(フリガナ) 名前等 (生没年):所属部隊・階級 〔日独戦争での任務・守備位置〕[前職] 事績・足跡等 出身地「出生地・帰還地」(俘虜番号・俘虜収容所)
(なお、収容所が閉鎖された後に別の収容所に収容された場合は、前掲「表4」において俘虜の移動日がほぼ明らかであるので、以下の概要には移送日を記していない。またゴチックの部分には注が施されている。)
1)
Abele(アーベレ),Karl(1892-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。解放されて帰国後の4月15日、郷里のアムベルクの両親の元へ戻ったが、6月25日ミュンヘン、7月6日にギーセン、1912年4月20日にレーゲンスブルクに移った。上部プファルツのアムベルク(Amberg)出身。(3833:大阪→似島)
2)
Abelein(アーベライン),Georg(1892-1966):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。松山時代、山越(やまごえ)の収容所講習会でフランス語の講師を務めた【冨田 弘『板東俘虜収容所 −日独戦争と在日ドイツ俘虜』235頁】。板東では劇場委員会に属した。ヴュルテンベルクのクライルスハイム(Crailsheim)出身。(2766:松山→板東)
3)
Ackenhausen(アッケンハウゼン),Wilhelm(1872-?):国民軍・軍曹。[巡査]。青島時代はテティス街(Thetisstraße;日本による占領統治時代の名称は瀬戸町)に住んでいた。妻ヘンリエッテ(Henriette)と二人の子供(内一人は12歳以上の娘)は大戦終結まで上海で暮らした【『日獨戦争ノ際俘虜情報局設置並獨國俘虜関係雑纂第十巻 在本邦俘虜ノ家族取締ニ関スル件』より。以下、妻子に関する事項はこの資料による】。ブラウンシュヴァイクのシェーニンゲン(Schönigen)出身。(4469:大阪→似島)
4)
Ackermann(アッカーマン),Eduard(?-?):国民軍・上等兵。[植字工]。青島時代はベルリン街(Berlinerstraße;日本による占領統治時代は麻布町)に住んでいた。妻クラーラ(Clara)は大戦終結まで上海で暮らした。解放後、上海の商業新聞の仕事に就いた。ハンブルク(Hamburg)出身。(2135:姫路→青野原)
5)
Adamczewski(アダムチェフスキー),Dr. Boleslau(1885-1962):第3海兵大隊第7中隊・予備陸軍少尉。[エーラース商会(Ehlers & Co.)上海支店]。父親はポーゼン出身の仕立て職マイスターで、9人兄弟で生まれた。化学を勉強し、1911年にハイデルベルク大学で学位を取得した。1914年の大戦勃発まで、上海のエーラース商会に勤めた。丸亀時代の1916年4月14日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツの俘虜将校7名と収容所員10名の計17名の集合写真である。アダムチェフスキー少尉は、中列向かって左から二人目である【〔写真1〕参照。撮影時期は、後列に写っている里見金二陸軍中尉が、歩兵第12連隊から丸亀俘虜収容所に着任した1916年(大正5年)3月9日から、石井所長の離任の日である同年4月14日の間と考えられる。『丸亀俘虜収容所日誌』には、4月14日の石井所長離任に際して俘虜将校等に告別の辞を述べ、また将校等俘虜の写真を撮った、との記述がある。それ以前には写真撮影の記述は見当たらない。なお、注4)を参照】。1916年10月4日、ランセル(Lancelle)大尉、ラミーン(Ramin)中尉、シュリーカー(Schliecker)中尉、フェッター(Vetter)中尉、シェーンベルク(Schönberg)少尉、キュールボルン(Kühlborn)少尉とともに丸亀から大分に移送された。解放後の1920年上海に戻り、エーラース商会の技術部主任を務めた。ゼルマ(Selma Szebrat)と結婚して息子二人をもうけた。1938年、家族はドイツに帰り、アダムチェフスキーも1941年にシベリア鉄道で本国に戻った【在ドイツの俘虜研究家ハンス=ヨアヒム・シュミット(Hans-Joachim Schmidt)氏のホームページ(www.tsingtau.info)より。以下、同ホームページからの情報は、「シュミット」とのみ記す】。マンハイム(Mannheim)出身。(1810:丸亀→大分→習志野)
6)
Adamzek(アダムツェク),Franz(?-?):オーストリア=ハンガリー帝国2等巡洋艦皇后エリーザベト(Kaiserin Elisabeth)乗員・2等水兵。久留米時代の1916年秋、アダムツェクがカルブルンナー(Kalbrunner)とともに写っているバーラウフ競技(陣取りゲーム)チームを写した写真が、『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 W―』(2007)100頁に掲載されている。また演劇活動では、ハウプトマン作の喜劇『同僚クランプトン』に出演した【津村正樹「久留米俘虜収容所における演劇活動(1)」37-43頁。以下、久留米の演劇活動に関する事項は、同論文に依拠するものである】。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。ハンガリーのサバトゥカ(Szabatka)出身。(3193:熊本→久留米→習志野)
7)
Adler(アードラー),August(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[建築家]。丸亀時代の1917年1月9日から3月27日まで、ノイマン(Max Neumann)とともに俘虜傭役で香川県立工芸学校に勤務した。労役賃金は一日30銭で、内2割の6銭は軍資金歳入に納付し、手取り24銭を得た。これは丸亀収容所における唯一の労役事例である。板東時代、1918年3月8日から19日にかけて公会堂で開催された工芸品展に、ジュレ(Syré)と共同で縮尺25分の1の橋を制作・出品した【『ディ・バラッケ』(以下、『バラッケ』と略記する)第1巻335頁】。また、グリル(Grill)によって製作・印刷された収容所紙幣の原型を作った。妻マリー(Marie)は大戦中を上海で暮らした。カールスルーエ(Karlsruhe)出身。(1818:丸亀→板東)
8)
Adler(アードラー),Nicolaus(1890-1969):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1920年郷里のゲルンスハイムに戻って結婚、子供二人をもうけた【シュミット(Hans-Joachim Schmidt)氏のホームページ(http://www.tsingtau.info/index.html?listen/datenbank.htm)に拠る】。ゲルンスハイム(Gernsheim)出身。(853:福岡→習志野)
9) Agethen(アゲーテン),Heinrich(?-1919):海軍東アジア分遣隊第1中隊・上等歩兵。1919年2月1日、スペイン風邪により習志野で死亡した。ライン河畔のエンガース(Engers)出身。(1:東京→習志野)
10) Ahé(アーエ),Eduard von der(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。解放後は蘭領印度(今日のインドネシア)に渡り、結婚して子ども三人をもうけた。1941年インドへ強制移送され、後に郷里のドルトムントへ帰還した。子孫がオランダのニーメゲン(Nijmegen)に住んでいる【シュミット】。ドルトムント(Dortmund)出身。(1703:静岡→習志野)
11) Ahl(アール),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。1914年9月23日、青島北方の流亭で捕虜となった【『欧受大日記』大正三年十一月上より。ドイツ兵捕虜の第1号として、日本軍の傷病兵と一緒に病院船博愛丸で9月30日に門司に送られ、鉄道で久留米に送られたものと思われる。負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された】。1915年10月2日、ルント(Lund)、ズィン(Sinn)、ツェルナー(Zoellner)の4名で脱走したが3名は同日捕まり、ズィンも5日に捕まった。1919年10月21日に開催された「1919年スポーツ週間」の「幅高跳び Bクラス」で、高さ1.50m、幅2.80m接触で第1位になった。ヴェストファーレンのヘルデ(Hoerde)出身。(323:久留米)
12) Ahlers(アーラース),Karl Heinrich(?-?):青島船渠・上等兵。[船大工マイスター]。妻アンナ(Anna,?-?)、及び娘のアンナ(1905-?)とオルガ(Olga,1908-?)は大戦中も青島に留まった。1919年3月4日から広島県物産陳列館で開催された、似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會のために発行された「似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會目録」【〔図1〕参照】の27頁には、アーラースの写真スタジオのスケッチが掲載された。解放後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より。以下、日本国内での解放を記述したものはこの書類による】。ヴィルヘルムスハーフェン(Wilhelmshaven)出身。(4468:大阪→似島)
13) Ahlers(アーラース),Karl Christian Leonhard(1869-1941):第3海兵大隊参謀本部先任参謀・退役陸軍大尉。[クルップ鉄鋼会社北京支店顧問]。父親は大商人レオンハルト・アーラース(Leonhard Ahlers)だった。1889年3月28日、ヴュルテンベルク公国徒歩砲兵第13大隊に入隊した。1890年9月同第2少尉、1897年5月同第1少尉、1897年9月25日アグネス・ヒンツェ(Agnes Hintze)と結婚、娘一人をもうけた。 1899年1月27日同中尉、1902年6月19日退役した。1902年7月第2後備中尉、1902年11月14日 エッセンのクルップに入った。1906年12月15日 退役陸軍大尉、1907年クルップ砲の売り込み等のために中国へ派遣された。1911年蘭領印度滞在、1914年1月1日 クルップ社北京支店顧問。ローマン(Lohmann)の遺品中には、アーラース、ローマン及びシュテーゲマン(Stegemann)の三人が屋外でトランプをする風景写真が遺されている【ローマンの項参照】。1914年(大正大三年)12月10日付けの新聞『新愛知』には、アーラース、ケーニヒ(Leo König)、ライマース(Otto Reimers)及び少年兵ビーン(Ludwig Bien)の四人の写真が掲載された。ビーンを除く三人は日本語通とされている。1915年1月15日の雪の日の朝、林田一郎名古屋俘虜収容所長、中村明人中尉他の総勢9名の日本人所員が写っている写真が現存している。写真の枠にはアーラース大尉のものと思われる署名が記されている。大戦終結してドイツに帰国後再びクルップ社に戻った。1920年12月陸軍少佐、1929年1月11日、クルップ社取締役就任、1934年に年金生活に入った。エルベ河畔のダンネンベルク(Dannenberg)出身。(2457:名古屋)
14) Ahrens(アーレンス),Heinrich(1893-?):砲艦ヤーグアル(Jaguar)乗員・2等機関兵曹。解放後の1920年、蘭領印度に渡った【シュミット;以下、蘭領印度に関する事項の多くは、シュミット氏からの情報による】。ブレーマーフェルデ(Bremervörde)郡のゼルジンゲン(Selsingen)出身。(5:東京→習志野)
15) Ahrens(アーレンス),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[建設業;H.アーレンス商会経営]。青島時代はダンチヒ街(Danzigerstraße;日本による占領統治時代は比治山町)に住んでいた。丸亀時代の1915年3月17日、大連の菅原工務所有賀定吉が面会に訪れ、アーレンスの妻からの託送品(夏服、夏肌着、靴下等)を差し入れた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。板東時代の1919年8月31日、収容所の北外れに落成した「ドイツ兵慰霊碑」の施工を担当した。妻エルゼ(Else)は息子二人と娘二人の四人の子供ともに、夫の解放まで青島で暮らした。大戦終結して解放後は青島に戻り建設会社を再興した。長女ヘレーネ(Helene)は、1914年にカール・ヴィルデ(Carl Wilde)と婚姻届を青島の役所に届けていたが、1920年5月21日にリヒャルト・ヴィルヘルムの司式で正式な結婚式を挙げた。それはヴィルヘルムが執り行った青島での最後の結婚式であった【ボン大学のマツァトゥ(Wilhelm Matzat)教授のインターネット情報から】。アルトナ(Altona)出身。(1815:丸亀→板東)
16) Ahrens(アーレンス),Carl Wilhelm Johannes(1875-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。青島時代はダンチヒ街に住んでいた。1913年3月、イーダ・マルタ(Ida Martha)と結婚した。大戦終結後は、青島における就職既定者として日本国内で解放され、青島のH.アーレンス商会に勤めた。1945年以降にドイツへ送還された。上記H.アーレンスの身内と思われる。アルトナ(Altona)出身。(1816:丸亀→板東)
17) Ahrens(アーレンス),Wilhelm(1891-1964):第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。ハールツ山麓のブランケンブルク(Blankenburg)(2463:名古屋)
18) Albers(アルバース),Carl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。上海から応召。ギムボルン(Gimborn)とは上海時代からの知己である。丸亀時代の1916年10月16日、クラウスニツァー(Claussnitzer)、デーゼブロック(Desebrock)及びヒンツ(Hinz)の四人で相互扶助を目的とする収容所保険組合を結成した。これが後に松山、徳島の俘虜達と合流した板東収容所での、大規模な健康保険組合のモデルとなった【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』(Ulrike Klein:Deutsche Kriegsgefangene in japanischem Gewahrsam 1914-1920 Ein Sonderfall)109頁】。板東時代も収容所保険組合の設立に幹事として加わり、後にデーゼブロックが第2中隊代表理事を務めたのに対して、アルバースは第7中隊代表理事を務めた。ハンブルク(Hamburg)出身。(1817:丸亀→板東)
19) Albrecht(アルブレヒト),Fritz(?-?):第3海兵大隊第7中隊・予備伍長。青島時代は市内中心、青島市内でも随一の住宅街であったフリードリヒ街(Friedrichstraße;日本による占領統治時代は静岡町)に住んでいた。丸亀時代の1914年12月16日、青島のティルピッツ街(Tirpitzstraße;日本による占領統治時代は忠海町)4番地に住むバッセ(Louis Basse;後に大阪俘虜収容所に送られた)に宛てて、クリスマスと新年の挨拶状を出した。文面は「親愛なるバッセ並びにご家族様。楽しいクリスマスと喜ばしき新年を迎えられますよう。フリッツ・アルブレヒト」である。収容所員福島格次大尉を示す福島印が押されている【高松市在住の郵趣家三木充氏の所蔵品より】。板東時代、収容所で通訳の任にも当っていた高木繁大尉事務室の書記を務め、面会人がある時は高木大尉とともに立ち会った。アイゼナハ(Eisenach)出身。(1814:丸亀→板東)
20) Albrecht(アルブレヒト), Fritz H. R.(1893-1966):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。[商人]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1954年11月6日に青島戦闘40周年を記してハンブルクで開かれた「チンタオ戦友会」に出席した。また1962年のブレーメン、1964年のニュルンベルクで開催された同会では、ベーダー(Beder)、ユング(Julius Jung;俘虜番号1171「同姓同名者がいるために番号を掲げた」)、ライポルト(Leipold)、シュトレーラー(Straeler)等とともに世話役の一人を務めた【シュミット;以下、「チンタオ戦友会」への出席に関する記述は、シュミット氏のホームページ中のから「俘虜略歴」(Kurzbiographie)に負う所が多い】。マグデブルク(Magdeburg)出身。(854:福岡→習志野)
21) Albrecht(アルブレヒト),Hans(?-?):第3海兵大隊第3中隊・後備上等歩兵。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。ロストック(Rostock)出身。(4466:大阪→似島)
22) Albus(アルブス),Karl Oskar(1892-1954):海軍野戦砲兵隊・2等砲兵。帰国後、鍛冶職人として働いたが、30年代に郷里の町の町長になった【シュミット】。ヘッセンのボーベンハウゼン(Bobenhausen)出身。(2465:名古屋)
23) Alester(アレスター),August(?-?):守備隊本部・軍曹。[守備隊兵営監守]。松山時代(大林寺収容)の1916年6月20日、妻から届いた書籍に秘密の通信があることが発覚した。その方法は、信書を頁の間に挟んで貼り合わせたものだった。妻エンマ(Emma)は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。東プロイセンのゴルダプ(Goldap)出身。(2776:松山→板東)
24) Alfes(アルフェス),Gottfried(1893-1980):第3海兵大隊第3中隊・予備伍長。[上海のエーロス(A.Elos)商会]。解放後は、蘭領印度に渡ってバタビアの商会(Erdmann & Sielcken)に勤務した。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメン(Bremen)出身。(318:久留米)
25) Alinge(アーリンゲ),Kurt de(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。久留米時代は演劇活動で、クライスト作の喜劇『壊れ甕』等8演目に出演した1919年12月に日本国内で解放され、横浜の商社「中国・アメリカ貿易」に勤務したが、その後天津に渡り、更にその後ハンブルクの商船船長になった【シュミット】。ツィッタウ(Zittau)出身。(3181:熊本→久留米)
26) Alsleben(アルスレーベン),Gustav(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[上海のスレフォークト商会(Slevogt & Co.)]【板東収容所俘虜に関する前職・前勤務先の記述並びに注は、『板東収容所俘虜故国住所録』(Heimatsadressen der Kriegsgefangenen im Lager Bando,Japan)、『青島経済事情』、『青島研究資料』及び『近代中国専名翻訳詞典』による】。ヴィルヘルム・メラー(Wilhelm Meller)の1919年12月24日のクリスマスイヴの日の日記には、「今夜は部屋の静かな片隅で、ハリー・メラー(Harry Möller)とアルスレーベンの三人で、メラー(Möller)のウサギを食べる」との記述がある【アードルフ・メラー『第一次大戦時の青島守備軍の運命』(Adolf Meller:Das Schicksal der Verteidiger von Tsingtau im Ersten Weltkrieg.Aus dem Nachlaß meines Vaters)67頁】。ウンシュトルート(Unstrut)河畔のフライブルク(Freyburg)出身。(2769:松山→板東)
27) Alt(アルト),Carl(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本で解放され、横浜の「Helms & Broth」商会に勤務した【シュミット】。ヴェーザー河畔のレーア(Lehr)出身。(4326:「熊本→」大分→習志野)
28) Alt(アルト),Karl Otto Kurt(1894-1975):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。1920年郷里に戻り、1926年に最初の結婚をし、1955年グライツ(Greiz)で二度目の結婚をし、1975年グライツで没した【シュミット】。2005年9月30日、曾孫に当るイェルク・ヒュースマン(Jörg Huesmann)氏がシュミット氏のホームページの「訪問者欄」に、曽祖父のチンタオでの足跡を調べていたところ、上述のホームページに辿りついた旨の書き込みをした。テューリンゲン地方のフレムシュテット(Frömmstedt)出身。(2464:名古屋)
29) Altenbach(アルテンバッハ),Theodor(?-?):第3海兵大隊第2中隊・後備上等歩兵。〔第4歩兵堡塁〕。[山東鉄道四方工場職工長]。結婚していて息子が二人いた。戦闘中の堡塁で負傷した。妻と息子二人は、1914年12月25日に蒸気船「コリア号」で帰国した。ケルンのドイツ(Deutz)出身。(4324:「熊本→」大分→習志野)
30) Altmann(アルトマン),Max(?-?):海軍野戦砲兵隊・副曹長。ローマン(Lohmann)の遺品中に、アルトマン、ローマン及びツィンク(Zinck)の三人が名古屋収容所の建物の窓辺で撮った写真が現存している【ローマンの項参照】。ゲルリッツ(Görlitz)出身。(2459:名古屋)
31) Ammann(アマン),Gustav(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等機関兵曹。解放後は蘭領印度に渡り、1938年には香港に移った。キール(Kiel)出身。(6:東京→習志野)
32) Aly(アリー),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[カルロヴィッツ(Carlowitz & Co.)商会天津支店]。ライプチヒ(Leipzig)出身。(1813:丸亀→板東)
33) Anders(アンデルス),Ernst(1869-?):第3海兵大隊参謀本部・陸軍歩兵少佐。〔外方陣地部隊右翼陣地指揮官〕。1888年4月陸軍に入隊し、1889年9月歩兵少尉、1897年4月中尉、1902年9月大尉に昇進した。海軍歩兵に移籍し、1913年2月18日少佐に昇進した。日独戦争では独軍の主力部隊であるアンデルス支隊を率いて、日本軍の前線部隊と激しい戦闘を繰り広げた。青島時代はキリスト小路(Christweg)に住んでいた。11月19日、久留米から青島の堀内文次郎少将に宛てて、青島での配慮に対する感謝の言葉とともに、久留米収容所での厳しい監視・管理に耐えなければならないことを記した書簡を送った。文面最後の発信地としては、久留米の「第3海兵大隊本部にて」と記されている【堀内『青島攻囲陣中記』155頁】。久留米俘虜収容所の先任将校だった。1915年11月15日に起こった真崎甚三郎所長によるベーゼ(Boese)、フローリアン(Florian)両中尉殴打事件では、俘虜の虐待を禁じたハーグ条約を根拠に真崎所長の行為に激しく抗議し、米国大使館員の派遣を要求した。会談にはスクリバ(Scriba)予備少尉とフォークト(Vogt)予備少尉が、日本の事情通として同席した。1917年2月3日、俘虜将校を代表して情報局へ信書の発送を願い出た。支給される俸給と自己貯蓄の取り崩しでは、特に中尉、少尉の生活に困窮を来たしてきたためであった。本国からの補填を申請するため、青島陥落前に上海に逃れたクルーゼン青島高等判事に信書を出したいと願い出たが却下された。1920年1月30日(1918年4月18日辞令)中佐に昇進し、1920年3月9日帝国陸軍へ移籍。ベルリンのグロース=リヒターフェルデ(Gross-Lichterfelde)出身。(316:久留米)
34) Andrae(アンドレ),Hans(?-?):第3海兵大隊第2中隊・伍長。[アーレンス継続社(H.Ahrens & Co.Nchf.)横浜支店]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。出身地不明(『俘虜名簿』では横浜)。(1811:丸亀→板東)
35) Andrea(アンドレーア),Willy(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。久留米時代の1917年1月28日、横領によりカロルチャク(Karolczak)等の18人から袋叩きにあって負傷した。2月9日横領罪で懲役4月に処せられて、福岡監獄に収監された。なお、18人の内5人が傷害罪で懲役2月、13人が重営倉1月の処罰を受けた【『久留米俘虜収容所』(久留米市教育委員会)28頁】。キール(Kiel)出身。(3191:熊本→久留米)
36) Andreas(アンドレーアス),Wilhelm(?-1942):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[アーレンス継続社横浜支店]。松山時代、大林寺の収容所講習会で日本語の講師を務めた。解放後は日本企業の染料工場に勤め、1941年にシベリア鉄道で帰国した。マイン河畔のフランクフルト(Frankfurt)出身。(2771:松山→板東)
37) Andrée(アンドレー),Johannes(1883-?):海軍砲兵中隊・海軍大尉。1901年4月海軍へ入隊し、1904年9月海軍少尉、1907年3月海軍中尉、1912年4月海軍大尉に昇進した。砲艦イルチスの1等将校。1914年9月海軍膠州砲兵隊へ移籍。1914年12月1日付け「九州日日新聞」の記事によると、ジーメンス=シュッケルト社のドレンクハーンからアンドレー大尉宛てに、将校下士用として毎日パンを送る、12月からは毎週各種バター、マーガリンを送るが、これは日本及び中国在住のドイツ人の寄贈である。将校には葉巻煙草、コーヒー、茶、ハム、ぶどう酒、ラム酒、火酒を送るが、これらは平和克復後に代金を返して貰う、書籍もお金も要求次第送るとの通知があった【『新聞集成 大正編年史』大正三年度版下、787頁】。1920年6月(1920年3月20日発令)海軍少佐となり、1920年9月10日退役した。ハノーファー(Hanover)出身。(3187:熊本→久留米)
38) Andresen(アンドレーゼン),Paul(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備上等歩兵。解放後は蘭領印度に渡り、セマラン(Semarang)の蒸気船会社に勤め、1925年にマカサル(Makassar)の会社に移った。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのホーエンヴェシュテット(Hohenwestedt)出身。(3186:熊本→久留米)
39) Andrezejewski(アンドレツェイエフスキー),Johann(?-?):第3海兵大隊・工兵中隊・2等工兵。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した【以下、「エンゲル・オーケストラ」に関する記述は、『エンゲル・オーケストラ その生成と発展1915−1919』に依拠する】。ベルゲ(Berge)山麓のノイドルフ(Neudorf)出身。(2774:松山→板東)
40) Anemüller(アネミュラー),Hugo(1892-1969):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡って、ジャワ島西部のバタビア新市街のヴェルテフレーデン(Weltevreden)に住んだ。ザクセン=マイニンゲン(Sachsen-Meiningen)のガルンスドルフ(Garnsdorf)出身。(320:久留米→板東)
41) Angerstein(アンゲルシュタイン),Max(?-?):国民軍・後備伍長。[数学教師]。青島時代はホーエンローエ通(Hohenloheweg;日本による占領・統治時代は治徳通)234番地に住んでいた。妻エミーリエ(Emilie)と二人の子どもは大戦終結まで上海で暮らした。ヘッセン=ナッサウのディレンブルク(Dillenburg)出身。(2775:松山→板東)
42) Ankersen(アンケルゼン),Klaus Peter(1887-1926):海軍砲兵中隊・2等機関兵曹。解放されて帰国後の1923年3月28日、カローラ(Karola Adele Henriette Jacobsen)と結婚した。ベルリンで没した。レンツブルク(Rendsburg)出身。(4:東京→習志野)
43) Anschütz(アンシュッツ),Max(1892-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等焚火兵。[機械工]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。テューリンゲンのゾンネンベルク(Sonnenberg)出身。(8:東京→習志野)
44) Antoschowitz(アントショヴィッツ),Theodor(?-?):所属部隊不明・伍長。[青島警察署巡査]。青島時代はダンチヒ街に住んでいた。『大阪朝日新聞』(大正4年5月19日付け)は、アントショヴィッツに関して次のように報じた【大阪収容所へ護送さるゝ青島の俘虜が又三名十八日正午臺北丸にて寄港午後四時半宇品に向かった。其の中のアントシュミツツと云ふ四十ばかりの壯漢は獨逸探偵長として重視せられ能く其の技を發揮し青島にあること既に十七年専ら其の職に努め日本及び支那語熟達し且日支の事情に詳しく支那の兇漢悪徒の仲間に於て其の面を利かし居たり。又寫眞術にも上達し居り日獨戰争前に青島の要塞や各部を悉く撮影して居たので之を取調べる爲に今迄青島に残されて居たのである(門司電話)】。大阪時代の1915年9月9日、真田山陸軍墓地で執り行われたヘルマン・ゴル(Hermann Goll)の葬儀では喪主役を務めた。また大阪時代にはヒンナイ(Hinney)と共に『大阪収容所新聞』(Die Osakaer Lager-Zeitung)の編集人を務めた。妻エンマ(Emma)と娘のマルタ(Martha,1907-?)は大戦開始時には天津で暮らしていたが、1920年始め頃に青島へ移った。【『俘虜名簿』では「Anteschwitz」となっているが、シュミット氏のHP中の「Kurzbiographien」での表記に従った】。上部シュレージエンのノイシュタット(Neustadt)出身。(4623:大阪→似島)
45) Apel(アーペル),Adolf Waldemar(?-?):第2船渠部隊・予備1等焚火兵。青島時代はイレーネ街(Irenestraße;日本による占領・統治時代は久留米町)に住んでいた。似島時代の1919年1月26日、似島収容所の俘虜を招いて広島高等師範学校の運動場において、高等師範学校、県師範学校、付属中、一中とのサッカー交歓試合が行われた。二試合おこなった結果は、5−0、6−0で、俘虜チームの圧勝であった。この試合に似島俘虜サッカーチームの一員としてアーペルが出場したと思われる。当時付属中の生徒でサッカーに出場した茂森薫の次の証言が残されている。「アッペルという常駐通訳官が居た。(中略)或る日彼の素性を聞いたところ、横浜で生まれ、三十年前(大正三年)の第一次欧州大戦のとき召集され、青島で日本軍と戦ったが俘虜となり、広島の似島に収容されたという。そして曰く、当時最も楽しかったことはコウシ[高師]のグランドでやる蹴球だったという。」【『広島大学付属中・高八十年史 上巻』281頁】。また3月には、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に当って、運営本部の一員として出納係りを務めた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、広島の広島電気機械会社に雇用された。アイゼナハ(Eisenach)出身。(4624:大阪→似島)
46) Apitz(アーピッツ),Emil(?-?):海軍第1水兵団第9中隊測量船第3号・1等測量手。1914年10月19日、東カロリン群島のトラック島で俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』(大正4年11月上)より】。ブランデンブルク(Brnadenburg)出身。(324:久留米)
47) Arnold(アルノルト),Alfred(1888-?):海軍膠州砲兵隊・予備1等砲兵。[商会雇員]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。解放後は蘭領印度に渡り、バンドンでアルノルト商会(Arnoldt & Co.)を営んだ。ザールフェルト(Saalfeld)出身。(857:福岡→大阪→似島)
48) Arnold(アルノルト),Wilhelm(1896(?)-1958):海軍東アジア分遣隊・2等歩兵。ザクセンのオシャッツ(Oschatz)出身。(1705:静岡→習志野)
49) Arnstadt(アルンシュタット),Otto Walther(1893-1974):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。エアフルト郡のダハヴィッヒ(Dachwig)出身。(3837:大阪→似島)
50) Arps(アルプス),Ernst(1881-1968):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。〔湛山堡塁(第1歩兵堡塁)〕。[天津ドイツ人学校教師]。松山時代、公会堂の日曜講演会で「ピン・シアン」と題して二度講演した。板東時代は、1918年春のテニス・トーナメントのダブルス(ハンディ付き)で、ティース(Thies)上等歩兵と組んでAクラスの第2位になった【『バラッケ』第2巻211頁】。板東テニス協会の記録係を務めた。また「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレースヴィヒのエケニス(Ekenis)出身。(2767:松山→板東)
51) Arps(アルプス),Wilhelm(1881-1968):第3海兵大隊第6中隊・後備伍長。[天津ドイツ人学校教師]。板東時代、板東ホッケー協会のコート係を務めた。【二人のアルプスを区別するために、前者はアルプスT、後者はアルプスUと通称された】。ハンブルク(Hamburg)出身。(2768:松山→板東)
52) Artelt(アルテルト),Max(1873-?):海軍膠州砲兵隊・海軍大主計(大尉相当)。〔総督府参謀本部〕。1891年10月海軍に入隊し、1902年4月少主計、1904年5月中主計、1913年4月に大主計に昇進した。青島時代はホーエンローエ通(Hohenloheweg)に住んでいた。青島からの俘虜輸送船大通丸乗っ取りを計画したが断念した。大阪所時代の1915年9月4日、調達した和服を纏って人力車で大阪駅に向かい、電車で神戸に行き旅館で一泊、翌5日下関から釜山行きの連絡船に乗船する際に逮捕され、禁錮4ヶ月の処罰を受けた。後に再び、エステラー(Esterer)、モーラヴェク(Morawek)及びシャウムブルク(Schaumburg)と共謀して脱走を企て頓挫し、彼を除く三人は1ヶ月の処罰を受けた。更に似島俘虜収容所に移ってからもこの4人は脱走を企てが、露見・逮捕され、アルテルトとエステラーは3年、モーラヴェクとシャウムブルクは2年半の刑を受けた。日独講和を受けての特赦で釈放された1920年1月15日まで、広島の吉島刑務所に服役した。妻と四人の子供は大戦中上海で暮らした。ドイツの資料では彼に「脱走王」の異名が付けられた。大戦終結して帰国後、引き続きドイツ海軍に属した。1940年から1942年まで海軍大尉として、北海ドイツ海軍基地中央資料室長を務めた。「チンタオ戦友会」に出席した。カーラウ(Kahlau)郡ゼンフテンベルク(Senftenberg)出身。(3832:大阪→似島)
53) Ascher(アシャー),Max S.(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。1917年1月28日、アンドレーア(Andrea)をカロルチャク(Karolczak)等18名で袋叩きにして負傷させ、2月7日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った【以下、蘭領印度に渡ったことを示す記述は、ジャカルタで発行された『ドイツの守り』(Deutsche Wacht)の1922年第5号記載の蘭領印度におけるかつてのチンタオ戦士、及び日本の収容所俘虜の名簿による】。ベルリン(Berlin)出身。(3190:熊本→久留米)
54)
Aspeck(アスペック),Rupert(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・伍長。熊本時代の1915年2月28日、それまで妙永寺に収容されていたが、同寺の水兵・古参下士との間で軋轢があり、フラヴィツァ(Hlavica)及びラーツェンベルガー(Razenberger)とともに、細工町阿弥陀寺に移された。久留米時代は収容所の音楽活動で、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、弦楽四重奏曲等でヴァイオリンを弾いた【『久留米俘虜収容所 1914〜1920』44頁等】。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。習志野時代の1919年3月30日と4月1日の収容所楽団第4回コンサートでは、モーツァルトの「魔笛」等を指揮し、また同年10月5日、マルフケ(Marufke)のために開催された「謝恩の夕べ」では、二部構成の第一部でドヴォルザークの「ユモレスク」等をピアノ演奏した。グラーツ(Graz)出身。(3192:熊本→久留米→習志野)
55)
Assing(アッシング),Max(1886-1949):国民軍・上等歩兵。1918年10月1日付けで、ライプチヒ在住のエンマ・アシング(Emma Assing)に宛てて出した葉書が現存している【シュミット】。ライプチヒ(Leipzig)出身。(2136:姫路→青野原)
56)
Auberle(アウベルレ),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会学校部門で、鉱物・岩石の標本収集を出品した。バーデンのフルトヴァンゲン(Furtwangen)出身。(3835:大阪→似島)
57)
Auer(アウアー),Alois A.(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。徳島時代の1915年11月中旬、スポーツ週間のリレー競争にバウアーファイント(Bauerfeind)、カウマンス(Kaumanns)、クロイツ(Kreutz)の4人で出場して優勝した【参照:『徳島新報』(Tokushima-Anzeiger)第2巻第10号11月28日付け】。また1915年12月5日付けの『徳島新報』第2巻第11号によれば、アウアーは同日の6種目総合の結果では66 1/2点の成績で6位になった。なお、徳島収容所で発行された『徳島新報』には、ピータック(Pietack)、ラングロック(Langrock)及びケラー(Keller;同姓が二名いて、特定不可)と筆耕係で協力した。1916年1月1日付けの『徳島新報』第2巻第15号によれば、アウアーはルートヴィヒ・トーマ作のクリスマス劇で、大尉役を演じた。ミュンヘン(München)出身。(4118:「大阪→」徳島→板東)
58)
Auer(アウアー),Johann(1887-1952):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[朝鮮ソウル・聖ベネディクト修道院(Abtei St.Benedikt O.S.B.,Soeul,Korea)]。大戦終結して解放後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放されたが、やがて朝鮮に再び渡った。1952年4月4日朝鮮で没した。ラウターホーフェン(Lauterhofen)出身。(2770:松山→板東)
59)
Auerswald(アウアースヴァルト),Kurt(1893-1973):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ケムニッツ(Chemnitz)出身。(855:福岡→青野原)
60)
August(アウグスト),Jacob(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。大阪時代の1915年2月15日、静岡俘虜収容所で俘虜による自炊を行うことになったことから、料理の心得のあるアウグストは、ブロベッカー(Brobecker)とともに静岡俘虜収容所へ移送された【『静岡民友新聞』記事より】。下部エルザスのザルムバハ(Salmbach)出身。(3836:大阪→静岡→習志野)
61)
Aust(アウスト),Karl(?-?):海軍野戦砲兵隊・軍曹。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡り、バタン(Batang)の州警察2等巡査になった。ヘルムスドルフ(Hermsdorf)出身。(2461:名古屋)
62)
Avemarg(アーヴェマルク),Ernst(1895-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付)によると、アーヴェマルクは1919年6月8日に開催されたサッカーの試合で活躍した。また、1919年10月21日に開催された「1919年スポーツ週間」の「幅高跳び Bクラス」で、高さ1.40m、幅2.60mをクリアして第2位になった。カッセル(Kassel)出身。(317:久留米)
63)
Ax(アックス),Bernhardt(1892-1943):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。ドイツへ帰国後結婚して、娘一人をもうけた。当初は帝国鉄道に勤務したが、後に鉱山従事者になった【シュミット】。ズィーゲン(Siegen)近郊のヴィルガースドルフ(Wilgersdorf)出身。(856:福岡→大阪→似島)