1) Baacke(バーケ),Wilhelm(1881-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・陸軍歩兵中尉。1914年10月2日夜から3日未明にかけての台東鎮北方海泊河橋附近での戦闘では、戦死した第1中隊長ヘルツベルク大尉に代わり先任小隊長として中隊の指揮を執った。一時期、チェンチャー(Tschentscher)中尉がその指揮官を務めた。エルベ河畔のシェーンハウゼン(Schönhausen)出身。(9:東京→習志野)
2) Bachstein(バッハシュタイン),Albert(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備1等砲兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米の演劇活動では、カーン作の1幕物『ダイナミック』等11演目に出演した。ザーレ河畔のハレ(Halle)出身。(887:福岡→久留米)
3) Backeshof(バッケスホーフ),Otto(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。熊本時代、1914年12月19日から翌年の5月15日まで、靴工として従事した。1915年6月、熊本から久留米へ収容所換えになった。1918年12月4日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、121 ⅓点を獲得して初級の部の第1位になった。エルバーフェルト(Elberfeld)出身。(3226:熊本→久留米)
4) Bade(バーデ),Otto(?-?):海軍砲兵中隊・1等機関兵曹。妻アンナ(Anna)は大戦終結まで、子ども二人(いずれも12歳以下)と上海で暮らした【『日獨戦争ノ際俘虜情報局設置竝獨國俘虜関係雑纂』第十巻(大正8年1月)「在本邦俘虜ノ家族取扱ニ関スル件」による。以下、こうした記述は同年月での時点】。キール(Kiel)出身。(29:東京→習志野)
5) Baden(バーデン),Hermann Wilhelm Christian(1890-1985):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ハノーファーのシュネフェアディンゲン(Schneverdingen)出身。(353:久留米)
6) Bader(バーダー),Johannes(1893-1926):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。ガラス細工師の父セバスチアン・バーダー(Sebastian Bader)と母ローザ・レギーナ(旧姓Walz)との間に1890年7月26日に生れた。バーダーは長じてから馬具職人になった。大戦終結して帰国後の1921年1月15日、アンナ・レオポルディーネ・レオポルト(Anna Leopoldine Leopold)と結婚して子ども四人をもうけたが、1926年8月20日、敗血症で没した【シュミット】。バーデンのクッペンハイム(Kuppenheim)出身。(3206:熊本→久留米)
7) Bahlke(バールケ),Hans(?-?):国民軍・上等歩兵。妻子は大戦中も北京で暮らしていたので、解放後は北京に赴いた。出身地不明(『俘虜名簿』では北京)。(2145:姫路→青野原)
8) Bahr(バール),Alwin(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等機械砲兵補。徳島時代の1916年10月、ベーマー(Boehmer)、フィッシャー(P.Fischer)、グレックナー(Glöckner)、ヘフト(Hoeft)、ライポルト(Leipold)、マイエ(Maye)の7名で、徳島市の円藤鉄工所に鋳造等の労役で派遣された。1日8時間、賃金・期間は不明。キール(Kiel)出身。(4123:「大阪→」徳島→板東)
9) Bahr(バール),August(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等水兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代は演劇活動で、ハウプトマン作の『御者ヘンシェル』等5演目に出演した。ダンチヒ郡のボーデンヴィンケル(Bodenwinkel)出身。(896:福岡→久留米)
10) Bahr(バール),Hermann(1872-?):海軍守備隊・経理監督官。青島時代はフリードリヒ街に住んでいた。1918年8月4日久留米から青野原へ収容所換えになった。妻アンナ(Anna)と娘のルイーゼ(Luise)は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。オーデル河畔のシュヴェート(Schwedt)出身。(382:久留米→青野原)
11) Baehr(ベーア),Karl(1889-1961):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[クンスト・ウント・アルバース(Kunst & Albers)商会ブラゴヴェシチェンスク(Blagowjestschensk)支店]。ウラジオストックの上記商社に勤めていた時に、ブラゴヴェシチェンスクから応召して青島に来た。板東時代の1917年12月、『バラッケ』募集の懸賞作文に「グスタフ叔父」で一等賞を受賞して、賞金5円を獲得した。また1918年5月の第2回懸賞作文に「チビのリヒターの降臨祭遠足」で二等賞を受賞した。なお「チビのリヒターの降臨祭遠足」は『バラッケ』第2巻第8号(1918年5月19日号)に掲載された。さらに板東俘虜収容所詩画集『鉄条網の中の四年半』(4½Jahre hinter’m Stacheldraht)の短詩を書き、『第6中隊の過去の影絵もしくは不滅なる鉄条網病患者のひらめき』という演劇シナリオも書いた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ピルナ近郊のコーピッツ(Copitz)出身。(2793:松山→板東)
12) Bahre(バーレ),Ralf(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備上等兵。バーレは、「買淫ノ目的ヲ以テ脱柵シ漫リニ民家ニ立到リ且其取調ニ際シ事実ヲ詐リタル科」によって、営倉に入れられた【俘虜情報局『俘虜処罰表』より】。ハンブルク(Hamburg)出身。(2487:名古屋)
13) Baehring(ベーリング),Bernhard Ludwig(1884-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・海軍少尉。1909年10月1日海軍に入隊し、1911年10月14日予備海軍少尉になる。大戦終結して帰国後の1920年1月30日、予備海軍中尉になる(1915年1月27日付け発令)。大阪時代は収容所内の演劇活動で舞台監督を務めた。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。プファルツのカンテル(Kantel)出身。(3840:大阪→似島)
14) Baierle(バイエルレ),Ivo Maria(1893-1964):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・海軍中尉。〔第15砲台指揮官〕。第15砲台は巡洋艦皇后エリーザベトの陸揚砲によるもので、偽装充分と思われた。しかし1914年10月31日、陸正面から日本軍の猛烈な砲撃を受け、砲員5名が死亡し、バイエルレも重傷を負った。大阪時代、秘密通信を企画し、また日本官憲に対して不敵なる態度・言動を弄した科で重謹慎20日の処罰を受けた。似島時代の1917年2月24日、「所長ノ命令ニ反抗シタル科」で禁錮4月に処せられた。ボヘミアのゲールハン(Görhan)出身。(4481:大阪→似島)
15) Baist(バイスト),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ香港支店]。板東時代、1918年3月8日から19日にかけて公会堂で開催された絵画・工芸品展の水彩画風景部門に、「冬」(二等賞)、「老木」、「森の神社」、「コスモス」(三等賞)等を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。マイン河畔のフランクフルト(Frankfurt)出身。(2792:松山→板東)
16) Bakemeier(バーケマイアー),Ernst(?-?):総督府・副曹長。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのミンデン郡レルベック(Lerbeck)出身。(2139:姫路→青野原)
17) Ballschmiede(バルシュミーデ),Karl(?-?):海軍砲兵中隊2等水兵。2003年6月、ブラウンシュヴァイクで開催された「第2回ベートーヴェン『第九』里帰り公演」に際して、息子のゲルハルトおよびロルフ・バルシュミーデから、1914年12月7日に浅草本願寺での日独戦没者法要の際に撒かれた、「散華」のコピー写真が鳴門市ドイツ館に寄贈された。ヒルデスハイム(Hildesheim)出身。(32:東京→習志野)
18) Banke(バンケ),Arthur(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。[指物師]。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。ブレスラウ(Breslau)出身。(958:福岡→久留米)
19) Banthien(バンティーン),Friedrich Christian(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等砲兵。板東時代の1918年4月4日から6日の三日間、ブランダウ(Brandau)演劇グループによるクライスト作『壊れ甕』の上演に際して、主人公の村長アーダム役をほとんど欠陥がないほど上手に演じた【『バラッケ』第2巻33頁】。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時25歳)、2時間30分59秒で85人中の29位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。大戦終結して解放後は日本に留まり、大阪の「T.Ysido」に勤めるつもりであったが、1920年蘭領印度に渡った。1922年、ヴェルテフレーデン(Weltevreden)、1925年にモエアラ・アマン(Moeara Aman)に移り、やがて結婚した。1940年にはスマトラに赴き、その年の5月に強制収容所に容れられた。1942年1月18日、蒸気船「van Imhoff」号でドイツに強制帰国させられたが、翌日船は沈没した。しかしバンティーンは生き延びた。1956年、ジャカルタに赴き、後に妻とスラバヤに住んだ。ライト(Rheydt)出身。(4133:「大阪→」徳島→板東)
20) Bär(ベーア),Hermann(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。大戦終結して解放後、蘭領印度に渡って巡査になった。ジーアスレーベン(Siersleben)出身。(1826:丸亀→板東)
21) Bargatzki(バルガツキ),Peter(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。福岡時代の1916年(月日不明)、「買淫ノ目的ヲ以テ脱柵シ民家ニ立入ル科」で重営倉30日に処せられた。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。ミュールハイム(Mühlheim)出身。(913:福岡→青野原)
22) Barghoorn(バルクホールン),Adolf(1886-1920):第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。材木商の父シッコ(Sikko Barghoorn,1837-1929)と母アリーデ(Alide、旧姓Swart,1848-1909)の次男として1886年3月31日にデュッセルドルフに生れた。1913年10月4日、女教師ヨハンナ・レンシュ(Johanna Rönsch)と結婚、子供はいなかった。板東時代、徳島演劇グループを結成し、1917年7月10日シラー作の戯曲『群盗』を上演した。1919年には、カイスナー(Keyssner)、ラーン(Laan)、ルードルフ(Rudolf)及びジーモンス(Simons)と共に、日本語文献からの翻訳『国民年中行事』(Das Jahr im Erleben des Volkes)の出版に関わった。1918年5月26日、収容所体操協会による創立記念体操会が行われた。鉄棒2、平行棒2、鞍馬1、跳び箱1を使用しての体操会であった。バルクホールンは第2組の指導を受け持った【『バラッケ』第2巻183頁】。また、1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、バルクホールンは122½点を挙げて古参選手の部3位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。1920年10月20日小樽で没した。デュッセルドルフ(Düsseldorf)出身。(2790:松山→板東)
23) Barm(バルム),Kurt(1892-1971):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においてバルムは、2時間45分18秒で85人中の75位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ベルリン(Berlin)出身。(1833:丸亀→板東)
24) Barth(バールト),Johannes(1891-1981):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。〔湛山堡塁〕。[アルンホルト、カルベルク商会(Arnhold,Kalberg und Co.)広東支店]。1912年6月、ベルリンに本社を置く上記貿易商社の広東支店に応募して採用され、8月13日広東に着任した。英仏共同租界の珠川中州の沙面島は好ましく思えなかったので、中国人街をオスカール・マイ(Oskar May)と好んで散策した。2年間の広東暮らしの後、大戦の勃発により1914年8月初め青島に向かい、7日到着した。板東時代、収容所病院の一室でA.ヴェルナー(Werner)と同室で過ごした。大戦終結して解放後の1920年1月、歯科医師前田氏の紹介で神戸の内外貿易に勤めた。ブレーメンに一時帰郷の後東京で貿易商となり、日本女性と結婚した。1941年、商用のためシベリア鉄道でドイツへ向かう途中独ソ戦が勃発して一時捕虜となるが、釈放されてドイツに帰還した。しかし日本には戻れず4年間千代夫人や子ども達と離れ離れとなり、ドイツでは映画会社に勤務した。1945年特殊任務を帯びて、日独間を往復していた潜水艦イ29号でシンガポールに到着、軍用機で日本に戻った。終戦後アメリカ進駐軍により財産没収、ドイツへ強制帰国させられた。5年後再び日本に戻り、以後終生鎌倉に住んだ。『鎌倉時代の歴史と文化』、『日本演劇の歴史』等及び『青島日記』(Tsingtau Tagebuch)、『極東のドイツ人商人』(Als deutscher Kaufmann in Fernost.OAG Tokyo)の著書がある。ドイツ東洋文化研究協会(OAG)の会長代理を務めた。ブレーメン(Bremen)出身。(1851:丸亀→板東)
25) Bartels(バルテルス),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。解放後はマカオに渡った。ククスハーフェン(Cuxhaven)出身。(3241:熊本→久留米)
26) Barthke(バルトケ),Max Otto(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[腸詰製造職人]。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。マンスフェルト(Mansfeld)出身。(943:福岡→久留米)
27) Baerwald(ベーアヴァルト),Ernst(1877-1967):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カッセラ商会(Cassella & Co.)横浜支店]。父へルマン(1828-1907)はフランクフルトの汎愛主義的ユダヤ人学校の校長だった。1904年から1912年までミラノのカッセラ商会に勤務し、1912年日本に来て、主に神戸と横浜に住んだ。1914年8月、横浜から応召して青島に赴いた。祖国からの送金や義捐金等による200円でピアノを購入して、神戸からドイツに送らせた。板東時代の1917年5月、松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の第1ヴァイオリンを担当した。大戦終結後は、日本内地契約成立者として、日本国内で解放され、大阪の松浦商会に勤めた。1920年にドイツに戻ったが、1921年初頭に結婚して再び日本に来て東京に住んだ。子どもが二人いた。1940年11月、カリフォルニアのバークレーに移住し、サンフランシスコで没した。マイン河畔のフランクフルト(Frankfurt)出身。(2802:松山→板東)
28) Bass(バス),Fritz(1886-?):海軍砲兵中隊・予備1等機関兵曹。1912年11月からメルヒャース商会(Melchers & Co.)漢口支店に勤務していた。1914年8月青島に応召し、当初は機雷敷設艦ラウチング(Lauting)の予備1等機関兵曹だったが、後に砲兵中隊に移った。1915年6月熊本から久留米に移送され、更に、1918年8月5日久留米から名古屋へ収容所換えになった。1918年10月7日、甲斐洗濯店からバス、ボルン(Carl Born)、デューベルト(Dübert)及びメスター(Mester)の4人に対して、鞣皮製造並びに皮製品洗濯での就労申請が出された【校條善夫「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、33頁】。大戦終結して解放後は豊福丸でドイツに帰還した。1920年から1922年まで郷里キールで働いた後、1922年にカルロヴィッツ商会南昌支店、その後奉天に赴き、1936年クンスト・ウント・アルバース商会奉天支店の技術部主任となった【シュミット】。キール(Kiel)出身。(3230:熊本→久留米→名古屋)
29) Basse(バッセ),Louis(?-1952):所属部隊不明・2等水兵。1914年12月16日、当時はまだ俘虜とはならずに、青島のティルピッツ街4番地でレストランを経営していた。日本送還前のバッセ宛てて、丸亀俘虜収容所のアルブレヒト(Albrecht)からクリスマスと新年の挨拶状が出された。文面は「親愛なるバッセ並びにご家族様。楽しいクリスマスと喜ばしき新年を迎えられますよう。フリッツ・アルブレヒト」である。【アルブレヒトの項参照】。大戦終結後は、青島就職既定者として日本国内で解放された。ドイツに帰国後、北海のヘルゴラント島でホテルを経営した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ゴスラール(Goslar)出身。(4485:大阪→似島)
30) Bastel(バステル),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、神戸の「Selles Harmano」に勤めた。ハンブルク(Hamburg)出身。(873:福岡→青野原)
31) Bätz(ベッツ),Oskar(1892-1970):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[製陶職人]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。帰国後、テクラ・ムンシェ(Thekla Munsche)と結婚し、子どもが二人いた。ウンターヴァイスバハ(Unterweissbach)出身。(944:福岡→名古屋)
32) Bauch(バオホ),Johann(?-1919):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1919年2月11日、スペイン風邪により習志野で死亡。中部フランケンのアイヒャ(Aicha)出身。(914:福岡→習志野)
33) Bauer(バウアー),Alfred(?-?):第2工機団・1等麺麭工。[河用砲艦チンタオ(Tsingtau)乗員]。ナウムブルク(Naumburg)出身。(1854:丸亀→板東)
34) Bauer(バウアー),Ernst August(1887-1945):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1907年海軍に入り、青島へ配属になった。大戦終結して帰国後予備少尉になった。1916年10月18日福岡から大分へ収容所換えになった。1922年結婚し、子供二人をもうけた。籠編み職人となったが、後に郵便局に勤務した。コーブルクのヴァイトハウゼン(Weidhausen)出身。(906:福岡→大分→習志野)
35) Bauer(バウアー),Hugo(?-?):河用砲艦チンタオ乗員・2等水兵。1919年4月20日に行われた「久留米体操クラブ(Turnenverein Kurume)」の5種競技(投擲用ボール投げ、石投げ(15kg)、幅跳び、棒高跳び、100m競争)では、74点を獲得して初級の部の第6位になった。ケーニヒスベルク(Königsberg)出身。(377:久留米)
36) Bauer(バウアー),Josef(?-1919):第3海兵大隊第6中隊・補充後備兵。1919年11月7日久留米で死亡し、久留米の山川陸軍墓地に埋葬された。なお、大戦終結後の1920年1月16日、遺骨はドイツ側委員に引き渡された【『欧受大日記』大正十三年三冊之内其一、附表第一「埋葬者階級氏名表」より】。ドナウ河畔のヴェルト(Wörth)出身。(3212:熊本→久留米)
37) Bauer(バウアー),Wilhelm(?-?):海軍第2工機団・後備2等焚火兵。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ハールツ山麓のゲルンローデ(Gernrode)出身。(4628:大阪→似島)
38) Bauer(バウアー),Wilhelm Otto(?-1915):第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。1915年1月23日青島で死亡し、青島欧人墓地内のドイツ人戦没者墓地に埋葬された。ヴュルテンベルクのエルズィンゲン(Ersingen)出身。(4663:なし)
39) Bauerfeind(バウアーファイント),Bernhard(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。徳島時代の1915年11月中旬、スポーツ週間のリレー競争にアウアー(Alois Auer)、カウマンス(Kaumanns)、クロイツ(Kreutz)の4人で出場して優勝した【参照:『徳島新報』(Tokushima-Anzeiger)第2巻第10号11月28日付け】。ケムニッツ(Chemnitz)のホーンドルフ(Hohndorf)出身。(4120:「大阪→」徳島→板東)
40) Baum(バウム),Leo(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代、1918年6月25、27、28日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』にホルテンシオ役で出演した。デュッセルドルフ(Düsseldorf)出身。(1852:丸亀→板東)
41) Baum(バウム),Wilhelm(1893-1960):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山山中で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。【浮山は四つの峰からなる連山で、その最高峰(標高330m)が浮山であるが、連山の総称でもあった。巫山とも、また福山とも称された。なお、ドイツ名はプリンツ・ハインリヒ(Prinz Heinrich)山である】。ラインラントのエシュヴァイラー(Eschweiler)出身。(357:久留米)
42) Baumann(バウマン),Albert Robert(1883-1974):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[雑貨店Arnold(?)Baumann経営]。青島時代はフリードリヒ街に面した二階建ての店舗で、雑貨店を営むとともに、ホテル・メトロポーレ(Metropole)を経営していた。妻シャルロッテ(Charlotte)は大戦終結まで、息子ハンス(Hans Gerhardt;1915年生れか?)と青島に留まった。大戦終結後は、青島就職既定者として日本国内で解放された。ヴェストファーレンのレーダ(Rheda)出身。(1849:丸亀→板東)
43) Baumann(バウマン),Georg Karl(1887-1985):第3海兵大隊第1中隊・軍曹。1907年10月2日ククスハーフェンの第3海兵大隊本部の第1中隊に入隊した。1908年3月3日青島へ赴いた。1909年3月1日上等歩兵、1910年2月26日パトリツィア号で帰国し、同年10月3日伍長、1911年1月4日再び青島へ向った。1913年2月24日またドイツへ帰国し、1914年1月12日三度青島へパトリツィア号で向った。1914年8月軍曹に昇進した。解放されて帰国後の1921年11月5日マルタ(Marta Rauh)と結婚して息子一人をもうけた。「チンタオ戦友会」に出席した。上部フランケンのティールスハイム(Thiersheim)出身。(328:久留米)
44) Baumanns(バウマンス), Hubert Heinrich(1893-1951):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。大戦終結して帰国後の1922年、イーダ・エスラー(Ida Essler)と結婚した。アーヘンのバルデンベルク(Bardenberg)出身。(370:久留米)
45) Baumgarten(バウムガルテン),Franz Kurt(1894-1972):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。板東時代、収容所内の商店街区タパタオで魚料理の店を営んだ。近くの市場から魚を仕入れ、新鮮な鯉料理等を出した。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で、2時間34分27秒5分の1で85人中の43位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザクセン=アンハルトのケーテン(Koethen)出身。(4131:「大阪→」徳島→板東)
46) Baumgärtner(バウムゲルトナー),Nikolaus(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、技術部門で、寄木細工の図案を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのニーダーオルム(Niederolm)出身。(3845:大阪→似島)
47) Bäumle(ボイムレ),Eugen(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代は演劇活動で、ハウプトマン作の『御者ヘンシェル』他1演目に出演した。ゼッキンゲン(Säckingen)出身。(945:福岡→久留米)
48) Bautz(バウツ),Karl(?-?):第3海兵大隊第2中隊・曹長。丸亀収容所では収容所当局から、先任准士官として第2中隊の班長に指名された。板東時代、第4棟の先任准士官だった。ポーゼン(Posen)出身。(1819:丸亀→板東)
49) Becher(ベッヒャー),Albert(1883-1963):所属部隊不明・2等歩兵。[巡査]。青島時代は警察署近くのリューベック街(Lübeckerstraße;日本による占領統治時代は大阪町)436番地の警察官舎に住んでいた。板東時代、公会堂での絵画と工芸品展覧会に「男達の顔」を出品して好評を得た。妻リーナ(Lina)と二人の子(いずれも12歳以下)は大戦終結まで上海で暮らした。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのペーテルスハーゲン(Petershagen)出身。(2816:松山→板東)
50) Bechtolsheim(ベヒトルスハイム),Wilhelm Freiherr von(1881-1967):総督府参謀・海軍大尉(男爵)。通称マウヘンハイム(Mauchenheim)。父モーリッツ・フォン・ベヒトルスハイム男爵とその二度目の妻マティルデ・フライイン・フォン・シュテルネックとの間に生れた。1899年4月10日海軍に入った。1902年9月27日海軍少尉、1904年4月1日中尉、1908年9月12日大尉となった。1909年9月26日、ベルリンでマルガレーテ・パッシェン(Margarete Paschen,1887-1967)と結婚し、ハンス・ヴィルヘルム(Hans Wilhelm,1910-1989)とエーバーハルト(Eberhard,1911-1943)の息子二人がいた。戦死者埋葬、負傷者救出のための一時休戦を取り決める会談が1914年10月13日に東呉家村で行われた。その折り、ドイツ人婦女子等の避難も合意された。15日に避難船が用意され、その指揮官を勤めた。胸には日本の旭日章を付けていた。それはかつて伊集院五郎海軍大将がキール軍港を視察した際に、案内役を果たしたことから授与されたものであった【『青島戰記』94頁】。日本側では山田耕三大尉が避難船に乗りこんで塔埠頭まで行き、さらに膠州からは山東鉄道で済南まで同行した。「10月27日の李村ポンプ所附近での戦闘時に、山田大尉はかつての僚友シュテッヒャー(Stecher)大尉に宛てて、絵葉書を折ってドイツ側前線に投げた。深夜、ベヒトルスハイム大尉がその葉書をビスマルク兵営の参謀本部に持ち帰る。…『我々が思いもよらなかった戦闘の中より、心からの挨拶を送る。わが友に神のご加護があらんことを! 山田大尉』と記されてあり、総督のテーブルの周囲でどっと笑いが生じた」【ゴットベルク『チンタオの英雄たち』(Gottberg,Otto von :Die Helden von Tsingtau)140頁】。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代の1919年3月5日に開催された「朗読の夕べ」では、ハイメンダール(Heimendahl)少尉とメンデルスゾーンの歌曲を二重唱した。また5月24日の習志野合唱協会による「歌曲の夕べ」では、ゲーテの詩になるレーヴェ作曲の「魔王」を独唱し、またエンスリン(Ensslin)、ハイメンダール及びヴィーダー(Wieder)の四人でシュヴァーベン民謡の「選ばれし者」を四重唱し、メンデルスゾーンの「夕べの歌」をエンスリンと二重唱した。その他演劇にも出演した。大戦終結して帰国後の1920年1月30日海軍少佐となった。1921年3月29日 海軍中佐で退役した。後更に二人の息子が生れた。1920年代に商人として活動。20年代の終わりには映画制作会社ウーファー(UFA)で仕事をした。やがてアメリカへ派遣され、ニューヨークのブロードウエイに居を定めた。1932年8月に離婚して数学者ルル・ホフマン(Lulu Hoffmann,1902-1989)と再婚した。今日、ベヒトルスハイム男爵家には「習志野にて ホルツベルガーより」と刻まれた銀のマッチ入れ、豪華な日本の織物、習志野俘虜収容所で製作された男爵家の居城の木製模型が遺されている【参照:『『習志野市史研究3』所載の「ドイツ捕虜調査のその後」(社会教育課星昌幸)】。カリフォルニアのレッドランヅ(Redlands)で没した。バート・テルツ(Bad Töltz)のホーエンブルク(Hohenburg)城出身。(859:福岡→習志野)
51) Beck(ベック),Friedrich Carl Hermann(1894-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。ザクセンのクヴェードリングブルク(Quedlingburg)出身。(3856:大阪→似島)
52) Beck(ベック),Hugo(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。大戦終結後の1919年12月26日、帰国船豊福丸で下記オスカール(Oskar)と同船でドイツに帰国した【『戦役俘虜ニ関スル書類』中の附表第三「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。ライン河畔のゼッキンゲン(Säckingen)出身。(2488:名古屋)
53) Beck(ベック),Oskar Eduard(1881-?):所属部隊不明・後備1等砲兵。青島時代はテティス街に住んでいた。妻フリーダ(Frieda)は娘フリーダ(2歳)と息子オスカル(1歳)とともに、1915年1月22日に「マンチュリア号」で故国に帰った。大戦終結後の1919年12月26日、帰国船豊福丸で上記フーゴー(Hugo)と同船でドイツに帰国した【前記「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。バーデン州のノルトハルテン(Nordhalten)出身。(4487:大阪→似島)
54) Beck(ベック),Walter(?-?):第3海兵大隊第6中隊・補充予備2等歩兵。ウラジオストックから応召か?解放後は日本国内就職内定者として名古屋で解放され、東京の松方正義家系統の松方五郎方で書記として働いた【校條「青島戦ドイツ兵俘虜と名古屋の産業発展 ―技術移転の様相を探る―」33頁より】。デュッセルドルフ(Düsseldorf)出身。(2470:名古屋)
55) Beckendorf(ベッケンドルフ),Willy(1892-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。1916年4月23日に行われた「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)」の12種競技(鉄棒、平行棒、鞍馬の演習3種目、陸上競技2種目、徒手体操)では、107点を獲得して初級の部の第7位になった。1918年6月、「久留米体操クラブ」から分派した「久留米体操会(Turnschaft-Kurume)」の会長を務めた。ザクセンのヒンダーブルク(Hinderburg)出身。(332:久留米)
56) Becker(ベッカー),Anicet(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。1915年12月10日、ドイツ生まれの俘虜16名から袋叩きに合い、16名は10日間から19日間の重営倉に処せられた。20日には重営倉を喰らった仕返しに再び暴行を受けた。20日に神戸で宣誓解放された。ロートリンゲンのニルヴィンゲン(Nilvingen)出身。(3851:大阪)
57) Becker(ベッカー),Ernst(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。熊本時代の1915年、3月27日に脱柵して民家に入ろうとした科で重営倉5日の処罰を受けた。また許可なく市街に外出して、酒楼に登った科で重営倉10日の処罰を受けた。東プロイセンのシューステン(Schusten)出身。(3236:熊本→久留米)
58) Becker(ベッカー),Fritz(1890-1949):海軍東アジア分遣隊・予備2等歩兵。解放後は蘭領印度に渡った。1924年12月18日、蘭領印度のパダン(Padang)から郷里に戻りリナ・ザールホルツ(Lina Sahrholz;-1948)と結婚した。子どもはいなかった。リューデスハイム(Rüdesheim)出身。(1712:静岡→習志野)
59) Becker(ベッカー),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1917年3月2日、岡本自転車製作所からベッカー及びリングナー(Lingner)に、自動自転車修繕の労役申請が出された【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、21頁】。シュヴェルム(Schwelm)出身。(915:福岡→名古屋)
60) Becker(ベッカー),Hermann(?-1919):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。1919年1月26日、スペイン風邪により習志野で死亡した。ズィーデンボレンティン(Siedenbollentin)出身。(34:東京→習志野)
61) Becker(ベッカー),Josef(?-?):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・2等砲手。[指物師]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ヴッパー河畔のヴィッパーフュルト(Wipperfürth)出身。(953:福岡→名古屋)
62) Becker(ベッカー),Otto(1885-1955):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備兵曹。1912年、岡山の第六高等学校講師として招聘されて来日した。大戦勃発で応召して青島に赴いた。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。ドイツに帰国後、1924年にベルリン大学で教授資格を得て、1927年から1931年までハレ大学、1931年から1953年まではキール大学近代史の正教授を務めた。久留米時代の遺品として、収容所のミニチュアが遺されている。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した【息子のディールク=エックハルト・ベッカー氏(Dr.Dierk-Eckhard Becker)が、シュミット氏のホームページの読者書き込み欄に2003年2月24日に寄せた記述より】。ノイブランデンブルク県のマルヒョウ(Malchow)出身。(3240:熊本→久留米)
63) Becker(ベッカー),Paul(1893-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の団員で、小太鼓を担当した。ホーエンツォレルンのヘヒンゲン(Hechingen)出身。(378:久留米→板東)
64) Becker(ベッカー),Robert(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1919年6月22日に開催された「名古屋俘虜製作品展覧会」で配布されたと思われるカタログに拠れば、ベッカーはデーネケ(Deneke)、キューン(Wilhelm Kühn)及びエングラー(Engler)とともに、名古屋収容所におけるトゥルネンの指導者の一人であった。ゾーリンゲン近郊のメルシャイト(Merscheid)出身。(863:福岡→名古屋)
65) Becker(ベッカー),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・2等砲兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。名古屋時代の1917年3月2日、岡本自転車製作所から、バッカー、ヘプフナー(Höpfner)、ユング(Josef Jung)及びラウフェンベルク(Laufenberg)の4名に旋盤の就労申請がだされた【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、21頁】。マインツ近郊のビショフースハイム(Bischofsheim)出身。(952:福岡→名古屋)
66) Beckers(ベッカース),Leonhard(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。松山時代の1915年8月30日、オットー・ヴェルナー(Otto Wener)と柵外から物品を購入した科で重営倉3日に処せられた。板東時代、スポーツクラブのレスリング部に属した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ケルン(Köln)出身。(2786:松山→板東)
67) Beckmann(ベックマン),Christian Heinrich(1893-1936):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1936年、ミュンスターで没した。ヴァーレンドルフ(Warendorf)出身。(947:福岡→久留米)
68) Beckmann(ベックマン),Paul(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1918年12月4日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、108⅓を獲得して初級の部の第4位になった。シュレージエンのオーラウ(Ohlau)出身。(3227:熊本→久留米)
69) Beder(ベーダー),Karl(1893-1971):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。商人としての修業をしたが、1911年10月4日にククスハーフェンの海軍に4年自由志願兵として入隊し、電信兵としての教育を受けた。1913年1月6日に青島へ赴き、信号所勤務の通信兵となった。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。解放されて帰国後、機械工場を経営し、1927年にエリーザベト(Elisabeth Schmidt)と結婚して息子一人をもうけた。1962年にブレーメンで開催された「チンタオ戦友会」では、アルブレヒト(Albrecht)、ユング(Julius Jung;俘虜番号1171「同姓同名者がいるために番号を掲げた」)、ライポルト(Leipold)、シュトレーラー(Straeler)等とともに世話役の一人を務めた。また1962年(ブレーメン)、1964年(ニュルンベルク)、1966年(フランクフルト)でも実行委員を務めた。ククスハーフェンで没した。ヴァイクセル川(今日はポーランドのヴィスラ川)河畔のメーヴェ(Mewe)出身。(884:福岡→習志野)
70) Bednarik(ベトナリク),Emmerich(1895-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、ベトナリクは絵画部門に水彩画、ペン画、木炭画、鉛筆画等8点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』70頁】。ハンガリーのイラヴァ(Illava)出身。(2152:姫路→青野原)
71) Beer(ベーア),Johann(1892-1941):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。低地バイエルンのライテンシュタイン(Reitenstein)出身。(3846:大阪→似島)
72) Beerhorst(ベーアホルスト),Bernhard(1893-1969):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。解放されて帰国後の1923年12月11日、ヘレーネ(Helene Friederike Richter)と結婚して子ども5人をもうけた。後に郵便局に勤めた。第二次大戦では空襲により負傷した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オスナブリュック近郊のシンケルン(Schinkeln)出身。(352:久留米)
73) Beermann(ベールマン),Laurentius(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。静岡時代、年号は不明であるが5月24日付けで、天津在住のキルン氏(E.Kirn)に宛てたメツォルト(Mätzold)の葉書にベールマンが最後に寄せ書きしている。寄せ書きの内容は聖霊降臨祭を祝うという一行の文章である【メツォルトの項参照】。習志野時代の1919年8月12日、習志野演劇協会によるベネディクス作の喜劇『親戚の情愛』及び同年10月5日、「マルフケ(Marufke)のための謝恩の夕べ」で、二部構成の第二部の演劇でハラーシュタイン作の1幕物茶番劇『射撃手と空クジ』の舞台背景を制作した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。エッセン郡のクライ(Kray)出身。(1710:静岡→習志野)
74) Beger(ベーガー),Max(?-?):第3海兵大隊第4中隊・上等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ドレスデン近郊のゴリス(Golis)出身。(3202:熊本→久留米)
75) Behaghel(ベハーゲル),Fritz(1891-1973):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。父親は鉱山技師で地質学者のゲオルク・ベハーゲル(Georg Behaghel;1870-1942)教授だった。父親は1903年来北京で活動していた。1906年、ベハーゲルは両親の住む青島(ハインリヒ皇子街)に赴いた。1910年、天津及び上海での貿易業務の教育・実務を修了した。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代の1919年10月5日、「マルフケ(Marufke)のための謝恩の夕べ」では、二部構成の第二部の演劇でハラーシュタイン作の1幕物茶番劇『射撃手と空クジ』の助手を務めた。解放されて帰国後はベルリンで通訳の仕事をし、更に地方行政所で経歴を積んだ。やがてベルリン市長の1等補佐官に就いた。1943年3月、バイエルンのランツフート(Landshut)に移ったが、第二次大戦後の「非ナチ化政策」で不遇となった。2007年1月29日、ベハーゲルの姪ヘルガ・ベハーゲル(Helga Behaghel)氏が、シュミット氏のホームページの「ゲストブック」に書き込みをした。ベハーゲルの兄弟であるヘルガさんの父親ハンス(Hans)は、1906年から1923年まで両親とともに中国にいたとのことである。【『俘虜名簿』では「Behagel」となっているが、シュミット氏の情報に従った】。ランツフートで没した。ベルクハイム(Bergheim)出身。(889:福岡→習志野)
76) Behr(ベーア),Adolf(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。テューリンゲンのコーブルク(Koburg)出身。(1829:丸亀→板東)
77) Behren(ベーレン),Johann(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。大分時代の1916年6月7日、福岡のマイレンダー(Mailänder)に宛てて葉書を出した。葉書は大分の名勝吉野臥龍梅を写した絵葉書である。文面は次の通り簡単なもの。「聖霊降臨祭の挨拶を送ります。」なお、この葉書からマイレンダーが兵営の第6棟に居住していたことが判明した【マイレンダーの項参照】。ライト(Rheydt)出身。(4340:「熊本→」大分→習志野)
78) Behrendt(ベーレント),Karl(?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備上等歩兵。[山東鉄道技師]。青島時代は山東省の省都済南に住んでいた。大戦終結して解放後は、特別事情を有することから日本国内での居住を希望した。1920年、済南に赴いた。オーデル河畔のフランクフルト(Frankfurt)出身。(4328:「熊本→」大分→習志野)
79) Behrens(ベーレンス),Alfred(?-?):海軍砲兵中隊・1等機関兵曹。下記ハインリヒ・ベーレンス(Heinirich Behrens)の父。大戦終結後の1919年12月26日、帰国船豊福丸で下記ハインリヒ(Heinrich)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのグリュックシュタット(Glückstadt)出身。(30:東京→習志野)
80) Behrens(ベーレンス),August(?-1915):海軍膠州砲兵隊・1等水雷砲兵。1915年1月7日青島で死亡、青島欧人墓地内のドイツ人戦没者墓地に埋葬された。ブレーメン(Bremen)出身。(4662:なし)
81) Behrens(ベーレンス),Eduard(?-?):測量艦プラーネット(Planet;660トン)乗員・1等機関兵曹。1914年10月19日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが11月1日、ブライトハルト(Breithard)、エーバーライン(Eberlein)、ガウエルケ(Gauerke)、ハルトヴィヒ(Hartwig)、ハッセ(Hasse)、リールシュ(Liersch)、ライエケ(Reieke)及びショルツ(Schortz)の8名とともに宣誓解放された【大正4年10月調『俘虜名簿』より】。ヴィルヘルムスハーフェン(Wilhelmshaven)出身。(4666:なし)
82) Behrens(ベーレンス),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。上記アルフレート・ベーレンス(Alfred Behrens)の息子。 妻マリー(Marie)との間に娘マルタ(Martha;1914年生まれ)がいた。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所替えになった。なお、福岡時代は第8棟に居住していた。1914年12月4日付けの妻宛の葉書き(青島の皇太子街(Kronprinzenstraße;日本による占領統治時代は浜松町)3番地)、及び1915年4月4日付けの青島から出した葉書きが残存している。その後二人はアメリカ経由でドイツへ帰国した。大戦終結後の1919年12月26日、帰国船豊福丸で上記アルフレート(Alfred)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。ドイツに帰国して後に郷里グリュックシュタットの税務署長になった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。グリュックシュタット(Glückstadt)出身。(880:福岡→名古屋)
83) Behrens(ベーレンス),Wilhelm(1892-1974):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。シュネヴェルディンゲン(Schneverdingen)出身。(885:福岡→青野原)
84) Belling(ベリング),Carl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代は演劇活動で、ラウフス作の茶番劇『ペンション・シェラー』に女役で出演した。ハンブルク(Hamburg)出身。(890:福岡→久留米)
85) Below(ベーロウ),Hans(1887-1965):海軍東アジア分遣隊第1中隊・予備陸軍少尉。1914年9月19日、柳樹台で日本軍と激戦を交わした際のドイツ軍指揮官。ドイツ軍の陣容は、上記1中隊下士卒14名、第3海兵大隊第5中隊のフリース少尉以下19名、同大隊第4中隊の下士卒5名の計39名であった。1915年12月25日の習志野収容所でのクリスマスコンサートでは、シューベルトの「ロザムンデ間奏曲」をクーロ(Kuhlo)中佐のピアノに合わせてチェロ演奏し、またメンデルスゾーンの「ピアノ三重奏曲第一番」からのアレグロとアンダンテをクーロ中佐のピアノとヴォストマン(Wostmann)軍楽兵曹のヴァイオリンと一緒にチェロ演奏した。グライフスヴァルト(Greifswald)出身。(10:東京→習志野)
86) Benck(ベンク),Cäsar(?-?):第2国民軍・階級不明。[ベンク・ウント・クレッチュマー商会(Benck & Kretschmar)社長]。青島時代はヴィルヘルム皇帝海岸通(Kaiser-Wilhelm-Ufer;日本の占領統治時代は舞鶴浜)に住んでいた。大阪時代の1915年3月25日、ジームセン商会社長のヘフト(Hoeft)とともに陸軍省に宛てて請願書を提出した。それはディーデリヒセン商会社長等青島の大商人6名が、俘虜として送還される前、2ヶ月以上用務整理の期間を与えられたことから、自分たちにもその機会を与えるべく2、3ヶ月の青島帰還の許可を願うものであった【『欧受大日記』大正十一年一月より】。大戦終結後は、青島における就職既定者として日本国内で解放された。ハンブルク(Hamburg)出身。(4478:大阪→似島)
87) Bendisch(ベンディッシュ),Friedrich(1893-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。東プロイセンのイェトゥヴァブノ(Jedwabno)出身。(22:東京→習志野)
88) Benedix(ベネディクス),Max(?-?):国民軍・階級不明。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、神戸のトーマス・トーマス商会(Thomas Thomas & Co.)に勤めた。ハンブルク(Hamburg)出身。(4479:大阪→似島)
89) Benz(ベンツ),Bernhard(1893-1969):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1917年10月18日に開催された三種競技(高飛び踏み切り台なし、砲丸投げ、100m競争)で、E.ヴェーバー(Weber)と共に17点を獲得して第1位になった。大戦終結後は蘭領印度に渡りバガンシ(Bagansi)で巡査となり、後にジャワのヴェルテフレーデン(Weltevreden)に移った。ヘッセンのヴィクスハウゼン(Wichshausen)出身。(340:久留米)
90)
Berg(ベルク), Christian von(?-1964):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。アーヘン近郊のアルスドルフ(Alsdorf)出身。(379:久留米→板東)
91) Bergau(ベルガウ),Albert(?-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。解放後は蘭領印度に渡った。ポーゼンのナーケル(Nakel)出身。(2779:松山→板東)
92) Bergemann(ベルゲマン),Richard(1869-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・海軍中尉。[膠州高等裁判所1等書記官]。1892年10月1日海軍砲兵隊に入隊、1909年8月6日後備役海軍中尉で現役を退いた。青島時代はイレーネ街201番地に住んでいた。1934年、ハンブルクの東アジア協会発行の『東アジア展望』(Ostasiatische Rundschau)に、大阪、似島の両収容所で一緒だったオトマー(Othmer)について、「日本で俘虜となったオトマー博士とともに」(Mit Dr.Othmer in japanischer Kriegsgefangenschaft)と題して寄稿した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブランデンブルクのキュストリン(Cüstrin)出身。(3839:大阪→似島)
93) Berger(ベルガー),Alfons(1892-1969):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。ヴァルツフート(Waldshut)近郊のヴィクスハウゼン(Wichshausen)で没した。ヴァルツフート(Waldshut)近郊のアムリヒシュヴォント(Amrigschwond)出身。(16:東京→習志野)
94) Berger(ベルガー),Robert(1870-?):国民軍・階級不明。[徳華高等学堂(Deutsch-Chinesiche Hochschule)教師]。青島時代は労山街(Lauschenstraße)に住んでいた。妻アンア(Anna)と息子のクルト(Kurt)は1915年1月22日に蒸気船「マンチュリア号」で帰国した。解放後、当初は中国の呉淞(Wusung)に赴いたが、その後南海丸で帰国した。ベルリン(Berlin)出身。(4477:大阪→似島)
95) Berger(ベルガー),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。似島時代の1918年、聖霊降臨祭の記念絵葉書を作画した【高橋スタンプ商会(高橋健次郎)のHP「第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 98」を参照:http://www.takahashistamp.com/2note98.htm】。トリーア(Trier)出身。(3844:大阪→似島)
96) Bergmann(ベルクマン),Ernst(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の団員で、トランペットを担当した。解放後は蘭領印度に渡ったが、1922年以前に帰国した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ライン州のバルメン(Barmen)出身。(1837:丸亀→板東)
97) Bergmann(ベルクマン),Hermann(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。解放後、蘭領印度に渡って巡査になった。プロイセンのクラインモンタウ(Kleinmontau)出身。(2783:松山→板東)
98) Bergner(ベルクナー),Hermann(1893-1956):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ゲーラ近郊のルーザン(Lusan)出身。(338:久留米)
99) Bergner(ベルクナー),Hermann(?-?):第3海兵大隊第2中隊・伍長。[シュナーベル、ガウマー商会(Schnabel,Gaumer & Co.)漢口支店]。大戦終結して解放後は、蘭領印度のスラバヤに渡った。ハンブルク(Hamburg)出身。(1820:丸亀→板東)
100) Bergwein(ベルクヴァイン),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊・上等掌砲兵曹。〔イルチス(Iltis)山上部砲台指揮官〕。1898年6月1日海軍に入隊した。青島時代は皇太子街に住んでいた。1915年1月22日妻マリー(Marie)と息子ヴィルヘルム(Wilhelm)は「マンチュリア号」でドイツへ帰国した。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。マグデブルク管区のレッツリンゲン(Rätzlingen)出身。(902:福岡→習志野)
101) Berker(ベルカー),Adolf(?-?):海軍膠州砲兵隊・後備掌砲兵曹長。『熊本俘虜収容所記事』中の附表第21「負傷證明書附與者一覧表」には、ベルカーについて「左下腿脛骨擶上端外方ノ部ヨリ腓骨頭部ニ貫通スル軟部銃創」と記述されている。アルトナ(Altona)出身。(3243:熊本→久留米)
102) Berker(ベルカー), Wilhelm(1893-1950):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後の1920年3月15日、郷里に戻り、1921年3月31日マルガレーテ・シュタットラー(Margarete Stadtler)と結婚して息子一人をもうけた。ヴェストファーレンのゲフェルスベルク(Gevelsberg)出身。(361:久留米)
103) Berkling(ベルクリング),Otto(1895-?):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。[腸詰製造職人]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。オシャースレーベン郡のオットレーベン(Ottleben)出身。(908:福岡→習志野)
104) Berliner(ベルリーナー),Dr. Siegfried(1884-1961):第3海兵大隊第7中隊・予備副曹長。[東京帝国大学法科大学教師]。1884年2月15日ハノーファーに生まれた。1902年ハノーファーの実科学校を卒業し、同年から1906年までライプチヒ大学およびゲッチンゲン大学で数学、経済学、物理学を学んだ。1905年ゲッチンゲン大学から経済学博士の学位を授与された。1906年にプロシア高等教員試験に合格した後、翌年まで兵役に就き、除隊後アメリカを旅行した。帰国後ライプチヒの公立商業学校で教務事務の仕事に就いた。1908年ライプチヒ大学講師、1909年ライプチヒ高等商業学校で保険数学、統計学および商業経営学の講義を担当した。1913年4月に東京帝国大学法科大学教師として来日したが、第1次大戦勃発により1914年8月応召して青島に赴いた。1914年10月8日、山川健次郎東京帝国大学総長から俘虜情報局に、ベルリーナー安否の問い合わせが文書で寄せられた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。丸亀俘虜収容所時代の1915年1月25日、ベルリーナー夫人アンナ(Anna)より東京俘虜収容所への収容所替えの申請が俘虜情報局に出されたが不許可となった【『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独國俘虜関係雑纂』21冊の内の2の1より】。ベルリーナー夫人は1915年2月中旬から半年間、六郷村塩屋新浜(現丸亀市新浜町)の借家に居住して20回面会に訪れた。6月14日、夫人は雇った車夫に信書と食料品を差し入れさせ、ベルリーナーが所有の子犬を受け取らせた。このことにより翌15日、ベルリーナーは石井収容所長から、重謹慎10日の処罰を申し渡された。8月22日、ベルリーナー夫人はアメリカに赴くために丸亀を引き揚げた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。なお、監視の目を盗んで、丸亀に収容されていた俘虜の妻の手を経て、告発文書をアメリカ経由でドイツ本国に送るという事件が発生したことが、高橋輝和岡山大教授の研究で明らかになった。この俘虜の妻はベルリーナー夫人と推定される【上記の出来事について及びベルリーナーとその夫人については、高橋輝和「丸亀俘虜収容所からの告発文書」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』創刊号に詳述されている。それによれば、夫妻はナチスが政権を掌握した後アメリカに亡命した。夫人もベルリーナー同様にアメリカの大学で教授となって心理学の講座を担当し、さらに日本に関する著作も出版している。夫妻ともにユダヤ系ドイツ人であった】。また、夫人が女中と住まいした借家は、2003年3月上旬まで存在した【「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページ(http://homepage3.nifty.com/akagaki/)中のメール会報第1号を参照】。板東時代、郡役所で郡長以下の職員及び小・中学校長に講演、徳島商工会議所では「大戦と世界経済の展望」と題して講演を行った。1917年5月23日、「株式会社の資金調達」という題目で講演を開始する。またこの1917年5月、松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の第1ヴァイオリンを担当した【〔写真15〕参照】。1923年2月1日から3ヶ年契約で東京帝国大学に再雇用された。1925年帰国して、38年までライプチヒのドイツ=ロイド生命保険会社に重役として勤めた。また1927年からはライプチヒ商業大学教授を兼任した。1938年アメリカに亡命し、翌1939年にはワシントン特別区のハワード大学教授になった。シカゴなどの保険会社の重役も兼務し、1952年に同大名誉教授となった。1959年5月30日〜31日にかけてククスハーフェンで開催された「チンタオ戦友会」にアメリカから出かけて参加した。1961年にオレゴン州で没した。著書に『日本の輸入貿易の組織と経営』(Organisation und Betrieb des japanischen Importhandels,Hannover,1920)等がある【『欧受大日記』、『来日西洋人名事典』、松尾展成『来日したザクセン関係者』等より】。ハノーファー(Hanover)出身。(1841:丸亀→板東)
105) Berndes(ベルンデス),Ferdinand(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備伍長。[ジームセン(Siemssen & Co.)上海支店]。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。ハンブルク(Hamburg)出身。(3217:熊本→久留米→板東)
106) Berndt(ベルント),Alfons(?-1919):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1916年10月18日、グラースマッハー(Glasmacher)等68名とともに、福岡から大分へ収容所換えになった。1919年1月31日、スペイン風邪により習志野で死亡した。ブレスラウ(Breslau)出身。(876:福岡→大分→習志野)
107) Berndt(ベルント),Emil(1870-?):第3海兵大隊工兵中隊・陸軍工兵大尉。〔参謀本部幕僚・工兵将校〕。1889年4月13日陸軍(技術部隊)に入隊し、1890年11月18日陸軍少尉、1899年5月22日陸軍中尉、1906年9月13日陸軍大尉、1914年11月8日陸軍少佐に昇進した【青島ドイツ軍降伏の翌日の日付】。青島時代はホーエンローエ通(Hohenloheweg)に住んでいた。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。大戦終結して帰国後の1920年3月9日、陸軍に入った。デュッセルドルフ(Düsseldorf)出身。(956:福岡→習志野)
108) Bernhardi(ベルンハルディ),Friedrich von(1886-1948):海軍東アジア分遣隊・陸軍少尉。[商人]。ベルンハルディはヴォルフガング・アードルフ・ベルンハルディ(Wolfgang Adolf Bernhardi)の息子として1886年10月17日ベルリンに生れた。1900年2月14日、伯父(Friedrich von Bernhardi,1849-1930)の養子に迎えられ、貴族となった。伯父であり義父のベルンハルディは1849年9月22日、ロシアのサンクトペテルブルクに生まれ、生家はプロイセンの貴族であった。1898年から1901年まで参謀本部戦史部長を務めた。1912年に発表した『ドイツと来るべき戦争』(Deutschland und der nächste Krieg)は、欧州戦争を不可避として、それどころか必然としたことこから物議を醸し、外国では戦争を煽り立てる書物と見做された。1900年、甥になる弟の息子を養子にした。ベルンハルディ少尉は1907年から1909年にかけて、南西アフリカのドイツ植民地で起きたヘレロ族の反乱に、歩兵第26連隊付きとして参加。しかしベルンハルディは1910年に中国で商人となる。1914年、青島総督府参謀本部に加わり青島防御に参加した。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1919年10月5日、マルフケ(Marufke)のために開催された「謝恩の夕べ」では、二部構成の第二部の演劇でハラーシュタイン作の1幕物茶番劇『射撃手と空クジ』の舞台監督を務めた。大戦終結して解放後、南米チリで商人となり、1925年5月にベニヤ(Benigna Emilia Elisa Schwob)と結婚した。その妻との間に4人の息子をもうけたが、58歳でサンチャゴに没した。一番下の息子のベルンハルディ=シュボープ(Diedrich von Bernhardi-Schwob)氏によれば、日本時代の資料等は全て洪水で失われたとのことである。サンクトペテルブルク(Sankt Petersburg)出身。(932:福岡→習志野)
109) Bernick(ベルニック),Gustav(1883-1933):第3海兵大隊第4中隊・後備伍長。[ベルニック・ウント・ミュンスター(Bernick & Münster Co.)商会共同経営者]。1902年から1904/5年には青島にいたと思われる。青島に着た1902年当初は、兄ヘルマンとペッター(Karl Pötter)の共同経営の「H.ベルニック・ウント・ペッター(H.Bernick & Pötter Co.)商会」にアシスタントとして働いた。1907年に再び青島に戻り、1909年に青島を離れ、天津や満州に赴いたが、大戦勃発で青島に馳せ参じた【ボン大学のマツァトゥ(Wilhelm Matzat)教授のインターネット情報から】。青島時代はハンブルク街(Hamburgerstraße;日本による占領統治時代は深山町)に住んでいた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、神戸のドブロヴォルスキー(Fr.Dobrovolsky)商会に勤めたその後満州の哈爾濱(ハルピン)に赴き、ベルニック・ウント・ミュンスター商会の共同経営者となった。1933年6月11日、腸チフスでハルピンに没した。妻と息子一人が残された。マグデブルク近郊のダーレンヴァルスレーベン(Dahlenwarsleben)出身。(3200:熊本→久留米)
110) Berthold(ベルトルト), Karl Arthur(1892-1965):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後の1922年結婚したが1928年に先立たれ、1933年に再婚した。ザクセンのゲリングスヴァルデ(Geringswalde)出身。(350:久留米)
111) Bertrand(ベルトラント),Ernst(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等野戦砲兵。宣誓解放された。エルザス=ロートリンゲンのレーベラウ(Leberau)出身。(2494:名古屋)
112) Bethge(ベトゲ), Heinrich(1893-1963):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後の1920年10月25日、鉄十字1等勲章を授与された。ザクセンのウンゼブルク(Unseburg)出身。(11:東京→習志野)
113) Bettaque(ベタク),Carl(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備2等砲兵。解放後、蘭領印度に渡って気船会社に勤めた。シュテッティン(Stettin)出身。(2498:名古屋)
114) Betz(ベッツ),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。2006年10月25日、シュミット氏のホームページの「ゲストブック」に息子のヴァルター・ベッツ氏が書き込みをした。それによれば、収容所は厳格であったが多くの活動が出来た、とベッツは語っていたとのことである。ヘッセン=ナッサウのシュテルベルク(Stellberg)出身。(916:福岡→名古屋)
115) Beushausen(ボイスハウゼン),Paul(1893-1950):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ヴェント商会(Wendt & Co.)香港支店]。板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのシングル(ハンディ付き)Bクラスで第1位になり、ダブルスでもシュタインフェルト(Steinfeld)と組んでBクラスの第1位になった。香港から青島への応召、更に日独戦争時の体験を記した日記2冊が遺されている。その内の前半部、1914年8月1日から10月半ばまでの部分が、シュミット氏のホームページに掲載されている。ハノーファーのロックム(Loccum)出身。(2797:松山→板東)
116) Beutner(ボイトナー),Erwin(1889-?):海軍膠州砲兵隊・海軍少尉。〔第3砲台指揮官〕。1909年4月1日海軍に入隊した。1912年9月19日少尉。ドイツに帰国後の1920年1月30日海軍中尉(1915年5月2日付け)1920年7月7日海軍大尉に昇進し、同年9月9日退役した。プファルツのランダウ(Landau)出身。(4119:「大阪」→徳島→板東)
117) Beyer(バイアー),Friedrich August(1891-1970):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。ヘルムスドルフ(Hermsdorf)出身。(962:福岡→久留米)
118) Beyer(バイアー),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊・砲兵伍長。カール・クリューガー(Karl Krüger)によれば、絶えず本を読んでいる読書家だった。もちろん娯楽本などではなかったとのことである。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。バント(Bant)出身。(907:福岡→習志野)
119) Beyer(バイアー),Otto(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2上等歩兵。1919年10月4日、名古屋市内の明倫中学校校庭で行われた「日独混合蹴球戦」で、白軍のRH守備の選手として出場した。試合の結果は白軍が2対1で黒軍を破った。この試合の模様は、10月6日付けの新聞『新愛知』で詳細に報じられた。なお、バイアー、クドラ(Kudla)、クルーク(Krug)及びシュテーゲマン(Stegemann)以外に7名の名古屋の俘虜が出場したが、ビーン(Ludwig Bien)の他は同姓が二名以上いる等から特定することが不可能である。ザーレ河畔のハレ(Halle)出身。(2478:名古屋)
120) Beykirch(バイキルヒ),Emil(?-?):第3海兵大隊第1中隊・後備伍長。[商人]。青島時代はホーエンローエ通に住んでいた。妻マリー(Marie)は大戦終結まで、息子と娘(ともに12歳以下)の三人で青島に留まった。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。大戦終結後、青島で「バイキルヒ商会」を経営して、輸入業を営んだ。ザクセンのアーデルシュテット(Aderstedt)出身。(331:久留米→板東)
121) Bialucha(ビアルハ),Arthur(1880-1947):海軍膠州砲兵隊第4中隊・後備1等砲兵。『青島住民名簿(Tsingtauer Adressbücher)』によれば、1907年にはその氏名が記載されている。1907年から1908年にかけて、煙突掃除職マイスターのO.マイヤー(O.Meyer)とともに、ハンブルク街とベルリン街の角で運送業を営んだ。1910年から1911年にかけて、ハインリヒ・アーレンス(Heinrich Ahrens)の商会で左官頭として働いた。その後中国の他の都市に赴いたと思われるが、大戦勃発で青島に戻った。1916年10月18日、マイレンダー(Mailänder)等68名とともに、福岡から大分へ収容所換えになった。解放後は、青島での就職既定者として日本国内で解放されたがドイツに帰国し、やがて1926年に青島に再び戻って没するまで青島に住んだ。建築家としての仕事をした。スタイル派の伝道会のための印刷所、陰島や台東鎮の教会を2軒建築した。その後もスタイル派のために台西鎮に教会の建築に従事した。結婚はせず、晩年は太平路13に住んだ。上部シュレージエンの出であるが、『俘虜名簿』ではザクセンのファルケンドルフ(Falkendorf)郡アルンスドルフ(Arnsdorf)出身。(875:福岡→大分→習志野)
122) Bianchi(ビアンキ),Leone de(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・4等軍楽下士。1916年10月9日、リッチ(Rizzi)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸?)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。イストリアのチッタノーヴァ(Cittanova)出身。(2147:姫路→青野原→丸亀→板東)
123) Biber(ビーバー),Fritz(1875-1969):所属部隊不明・副曹長。石工マイスターの父の元、カールスルーエに生まれた。1886年にランダウに移り、1900年1月1日中国に渡った。1902年10月9日、青島で第三代膠州総督オスカル・トゥルッペル(Oskar Truppel)家の養育係りヘレーネ(Helene Margarethe Jänigen)と結婚した。青島時代当初は病院通、やがて市内中心のフリードリヒ街やブレーメン街に住んだが、1911年には河南街と大沽街の角、1912年には再びフリードリヒ街の269番地に住んだ。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催で、展覧会カタログの補遺によれば、額縁を出品した。1920年、アメリカのシカゴを経由して帰国した。93歳でランダウ(Landau)に没した。カールスルー(Karlsruhe)出身。(4486:大阪→似島)
124) Bickel(ビッケル),Georg(1891-1975):海軍東アジア分遣隊第2中隊・上等歩兵。ドイツで庭師の修業を積んだ。1912年1月2日1年志願兵として第3海兵大隊第1中隊に入隊した。1914年8月海軍東アジア分遣隊第2中隊の上等歩兵になった。中部フランケンのハイデンハイム(Heidenheim)出身。(935:福岡→名古屋)
125) Bieber(ビーバー),Dr.Julius Robert Arthur(1880-1966):海軍野戦砲兵隊・予備陸軍少尉。〔第2中間地掃射砲台指揮官〕。青島時代はハンブルク街に住んでいた。1914年12月1日付け「九州日日新聞」の記事によると、ビーバー予備少尉はハンブルクのコーヒー一手販売店主で、家には巨万の富があるとのことだった。新婚旅行先は日本だった。横浜、東京、日光から箱根を巡って温泉に浸かり、京都、奈良、広島と周遊したとのことである【『新聞集成 大正編年史』大正三年度版下、787頁】。1916年3月7日、久留米俘虜収容所の「謝肉祭コンサート」では指揮者を務めた。1917年3月、米国シンシナチー市の「ファースト・ナショナルバンク」からジーメンス社の東京支社代表ドレンクハーンを通じて小切手1110ドルが送金され、日本貨幣に換算されて、2176円47銭が渡された【『久留米俘虜収容所』29頁】。演劇活動としては、ハウプトマン作の喜劇『ビーバーの毛皮』等19演目の演出を担当し、また21演目に出演するなど、久留米の演劇活動では最も活躍した一人である。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(3215:熊本→久留米)
126) Biedermann(ビーダーマン),Paul(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備2等歩兵。[インド・カルカッタのグランドホテル]。久留米時代は演劇活動で、レスラー及びレラー作の喜劇『クラブチェアーに座って』に出演した。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時33歳)、2時間54 分49 秒で85人中の83位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。ツヴィッカウ(Zwickau)出身。(355:久留米→板東)
127) Bieger(ビーガー),Albert(1888-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。久留米時代は演劇活動で、1幕物『インディアン達』の演出をするとともに、6演目に女役で出演した。1916年9月16日、ゾイフェルト(Seufert)等5人とともに久留米から青野原へ収容所換えになった。ドイツに帰国後の1920年5月6日マリー・ホフマン(Marie Hoffmann)と結婚した。デッサウ(Dessau)出身。(333:久留米→青野原)
128) Bien(ビーン),Georg(1875-1964):総督府・2等機関兵曹。1898年頃妻カタリーナ・ツォルン(Katharina Zorn)と結婚し、ルートヴィヒ(Ludwig;1900-?)、ハンス(Hans;1905-?)の二人の息子をもうけた。下記ルートヴィヒ・ビーン(Ludwig Bien)の父。1907年頃家族を伴って青島へき、当初は青島醸造所で働いた。後に青島屠畜場の機械工になった。青島で三男のフリッツ(Fritz,1909-2001)が生れた。14歳の長男ルートヴィヒが俘虜として日本に送られ、妻は大戦終結まで、息子二人と上海で暮らした。三人の息子を伴って1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。マイン河畔のフランクフルト(Frankfurt)出身。(4483:大阪→似島)
129) Bien(ビーン),Ludwig(1899-1970頃):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。上記ゲオルク・ビーン(Georg Bien)の息子。俘虜となった当初は14歳の少年だった【「Bien(ビーン)Georg」の項、及び〔写真9〕参照】。大正3年12月4日付けの新聞記事(『朝日新聞〈復刻版〉』)によると、両親と弟二人の家族で久しく前から青島に居住し、ビーンは自動車の運転手として軍の部隊に弾薬運搬に携わったとのことである。前線への任務では日本軍とピストルで銃撃戦も体験、最後はドイツ・アジア銀行の建物に隠れていたところを捕まった。上記ゲーオルク・ビーン(Georg Bien)は父親である。愛嬌があって可愛らしいビーン少年は、将校達が開け閉ての際につい破ってしまう障子の繕い役に専ら従事した。時に将校から煙草を貰って喫うという噂が立ち、林田一郎収容所長から叱られた【『新聞集成 大正編年史』大正三年度版下、788頁】。1914年(大正大三年)12月10日付けの新聞『新愛知』には、アーラース(Leonhard Ahlers)、ケーニヒ(Leo König)、ライマース(Otto Reimers)及びビーンの四人の写真が掲載された。ビーンを除く三人は日本語通とされている。1919年10月4日、名古屋市内の明倫中学校校庭で行われた「日独混合蹴球戦」で、白軍のRF守備の選手として出場した。試合の結果は白軍が2対1で黒軍を破った。他の出場選手は、バイアー(Beyer)、クルーク(Krug)、クドラ(Kudla)、シュテーゲマン(Stegemann)である。父親、及び二人の弟とともに1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。マイン河畔のフランクフルト(Frankfurt)出身。(2468:名古屋)
130) Bienengräber(ビーネングレーバー),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。マグデブルク近郊のグロース=ローデンスレーベン(Gross-Rodensleben)出身。(886:福岡→習志野)
131) Bientz(ビーンツ),Emil(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術部門の絵画で掛け布等のための図案1点を出品した。エルザスのミュールハウゼン(Mühlhausen)出身。(3863:大阪→似島)
132) Bier(ビーア),Eduard(1886-?):第3海兵大隊第3中隊・陸軍歩兵少尉。1904年プロイセン陸軍に入隊し、1906年7月少尉、1914年8月第3海兵大隊に移籍した。1914年9月26日から27日にかけての日独両軍による一大戦闘では、小隊を率いて李村高地に陣を敷いた。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、1919年6月10日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、61⅔点を獲得して第8位になった。1914年11月28日付けで陸軍中尉、大戦終結して帰国後の1920年1月30日陸軍大尉に昇進した【1916年1月27日付け発令】。1920年3月9日陸軍に再入隊した。ザールラントのザールルゥイ(Saarlouis)出身。(326:久留米)
133) Biermann(ビーアマン),Johannes(?-?):青島船渠・軽歩兵。青島時代はベルリン街に住んでいた。妻へレーネ(Helene)は息子ヘルベルト(Herbert)と大戦終結まで青島に留まった。特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。オルデンブルクのイェーファ(Jever)出身。(4480:大阪→似島)
134) Biester(ビースター),Wilhelm(1878-?):海軍東アジア分遣隊・後備陸軍少尉。[膠海関上席秘書官]。1915年1月2日、歩兵第56連隊付歩兵中尉東矢率由が訪れて、故陸軍歩兵大尉玉崎某戦死の情況に就いて調査すべし、との連隊長の命令でビースターに面会し、約20分当時の状況に関して聴取した【『熊本俘虜収容所日誌』より】。『ドイツ兵捕虜と収容生活―久留米俘虜収容所W―』(2007)157及び158頁には、ツェレに住む妻からビースターに宛てた手紙二通の封筒が掲載されている。ツェレ(Celle)出身。(3224:熊本→久留米)
135) Bilber(ビルバー),Albert(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代の1918年5月4日、シラーの『ヴァレンシュタインの陣営』上演に際して、純粋で誠実な曹長役を感動的に演じた。また「エンゲル・オーケストラ」の応援で、バステューバを担当した。後に宣誓解放された。エルザス地方のロール(Lohr)出身。(2782:松山→板東)
136) Billau(ビラウ),Heinrich(1892-1974):第3海兵兵大隊第3中隊・上等歩兵。ヘッセンのノルトハイム(Nordheim)出身。(360:久留米)
137) Billmeyer(ビルマイアー),Otto Kurt(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備2等機関兵曹。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本で解放された。イェーナ(Jena)出身。(1707:静岡→習志野)
138) Bindemann(ビンデマン),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。解放後は蘭領印度に渡って、サマラン(Samarang)の郵便局に勤めた。ミルデ河畔のカルベ(Kalbe)出身。(3854:大阪→似島)
139) Birnbaum(ビルンバウム),Otto(1893-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ゴータ(Gotha)出身。(344:久留米)
140) Birras(ビラス),Gustav(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。徳島時代の1916年1月30日、ルフ(Ruff)指導による寄席「ミモザ」(Mimosa)の第2回上演会が開催された。その折りビラスは美しくかつ力強いテノールを聴かせた【『徳島新報』(Tokushima-Anzeiger)第19号(1916年1月30日発行)より】。ヴェストファーレンのハーゲン(Hagen)出身。(4127:「大阪→」徳島→板東)
141) Bischoff(ビショフ),Karl(1892-1949):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。ゾンダースハウゼン(Sonderahausen)出身。(1853:丸亀→板東)
142) Bischofs(ビショフス),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・砲兵伍長。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で額縁10点を出品した。ラインラントのミュンヒェン=グラートバッハ(München-Gladbach)出身。(3849:大阪→似島)
143) Biston(ビストン),Adolf(1893-1955):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。『ドイツ・トゥルネン新聞(Deutsche Turn-Zeitung)』の1916年12月7日付け49号に、「日本の久留米収容所のドイツ・トゥルネンクラブ」と題された記事の中で、ビストンからの写真掲載についての報告が載った【山田理恵『俘虜生活とスポーツ』145頁】。解放後は「ヒマラヤ丸」で帰還した。デュッセルドルフ(Düsseldorf)出身。(375:久留米)
144) Blanke(ブランケ),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊・砲兵軍曹長。1916年10月18日福岡から大分へ収容所換えになった。ブランケの「日記」がフライブルクの連邦文書館軍事資料室に所蔵されている【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』308頁】。ラウエンシュタイン(Lauenstein)出身。(903:福岡→大分→習志野)
145) Blaschke(ブラシュケ),Friedrich(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・伍長。板東時代、無料水泳教室の教官を務めた。また「我らがチンタオ」(Unser Tsingtau)の詩を書いた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。リューゲン(Ruegen)島出身。(2804:松山→板東)
146) Blass(ブラス),Ernst(1892-?):海軍砲兵中隊・2等測量兵。ヴュルツブルク(Würzburg)出身。(3231:熊本→久留米)
147) Bleistein(ブライシュタイン),Georg(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備上等歩兵。熊本時代、酩酊して脱柵を企てた科で重営倉15日の処罰を受けた。久留米時代は演劇活動で、トランディース作の笑劇『彼は夢遊病』他1演目に出演した。宣誓解放された。ベルリン(Berlin)出身。(3204:熊本→久留米)
148) Blessing(ブレシング),Wilhelm(1894-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。解放されてドイツに帰国後、クリスティーネ(Christine Pauline Schöllkpf)と結婚し、1926年5月9日アメリカへ移住した。アルバースハウゼン(Albershausen)出身。(861:福岡→習志野)
149) Blettgen(ブレットゲン),Hermann(1894-1945):総督府・2等電信兵。マインツ近郊のゴンゼンハイム(Gonsenheim)出身。(2142:姫路→青野原)
150) Bley(ブライ),Johann(1892-?):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・2等砲兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメ(Brehme)出身。(955:福岡→名古屋)
151) Bleyhoeffer(ブライヘッファー),Bruno(?-?):第3海兵大隊参謀本部・退役陸軍大尉。〔幕僚砲兵部長〕。[北京中国学堂教官]。日独戦争前、中国軍部隊で教官を勤めていた。グムビンネン郡のフロールケーメン(Florkehmen)出身。(2466:名古屋)
152) Blochberger(ブロッホベルガー),Max(1893-1953):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、「ドイツ牧舎」【クラウスニッツァー(Claussnitzer)の項を参照】で屠畜の技術指導を行った。なお、このブロッホベルガーは『俘虜名簿』では「Blocksberg」と綴られている。従来、日本の文献では「ブロフツ・ベーアゲーア」や「ヘーアゲーア」(『板東ドイツ人捕虜物語』140頁)等の表記で紹介されていたため、『俘虜名簿』では推定・特定が困難な人物名であったが、ディルク・ファン・デア・ラーン氏の推定によってほぼ確定することが出来た。板東俘虜収容所で1919年に印刷・発行された『故国住所録』《Heimatsadressen der Kriegsgefangenen im Lager Bando》では、「Blochberger」の綴りである。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会では、2時間33 分16 秒5分の3で85人中の40位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。【以下は、「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」の会報318号掲載の松尾展成論文による。氏はブロッホベルガーの次女ベアーテ・ケマー(Beate Kaemmer)氏から文通で種々の情報を得た。それによれば、ブロッホベルガーは兵役前に生地近くのザールフェルト市で屠畜職人としての修業を積んだ。解放されて帰国後の1921年に結婚し、北京に赴いた。北京でブロッホベルガーは、かつて日本の収容所で一緒だった富裕な人物と共同で精肉業を始めるが失敗した。そこで北京のアメリカ系の病院(北京協和医学院と思われる)で出納・計量係として勤めた。1922年に北京で長女ヨハンナ(Johanna)が生まれ、1931年に次女のベアーテが生まれた。1934年、一家は郷里ゴルンドルフに帰国した。帰国後ブロッホベルガーは国鉄に没するまで勤めた。テューリンゲンのゴルンドルフ(Gorndorf)出身。(1834:丸亀→板東)
153) Block(ブロック),Anton(1893-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1919年10月の第2回スポーツ週間開催に当たって、ブロックは陸上競技の試合規則制定や、審判を選ぶための技術委員会の一員にマーニッツ(Manitz)、オルトレップ(Hermann Ortlepp)、ペッヒ(Pech)、ヴェーバー(Ehrenfried Weber)、プロイ(Preu)とともに選ばれた。解放後の1920年、蘭領印度に渡って巡査になった。ケルン(Köln)出身。(345:久留米)
154) Blomberg(ブロムベルク),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[鷲屋薬局(Adler-Drogerie & Co.)ウラジオストック支店]。ロシア系ドイツ人。松山時代、展覧会での最初の受賞者だった。また演劇上演に際しては、面や衣装の制作・手配に貢献した。グリューフィウス作のバロック喜劇『ペーター・スクヴェンツ』に出演した役者たちを写した写真が、ケーバライン(Köberlein)の遺品中にあるのが知られている【アンドレーアス・メッテンライター『極東で俘虜となる』(Mettenleiter,Andreas:Gefangen in Fernost)58頁】。板東時代には公会堂での絵画と工芸品の展覧会でも、水彩画部門に「雪」を出品して一等賞を受賞した。ブロムベルクが描いた「10枚の収容所スケッチ」の内8枚が現存して、鳴門市ドイツ館に展示されている。ケーバラインの友人であった。出身地不明(『俘虜名簿』ではモスクワ)。(2795:松山→板東)
155) Blösse(ブレッセ),Johannes(?-?):河用砲艦チンタオ乗員・2等焚火兵。久留米時代、1919年6月から日本製粉株式会社久留米支店に、蒸気機関火夫の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。ホルシュタインのレリンゲン(Rellingen)出身。(3245:熊本→久留米)
156) Blume(ブルーメ),Heinrich(?-?):港湾局・上等機関兵曹。[機関士]。1899年4月1日海軍に入隊、1907年10月1日上等機関兵曹になった。松山時代、大林寺の収容所講習会で英語の講師を務めた。板東時代の1918年9月、「板東健康保険組合」代表理事に選ばれた。ハノーファー(Hannover)出身。(2811:松山→板東)
157) Blumenfurth(ブルーメンフルト),Johann(1889-1956):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。2等巡洋艦エムデン(Emden;3650トン)乗員だった。デュッセルドルフ郡のブーフホルツ(Buchholz)出身。(35:東京→習志野)
158) Blunck(ブルンク),Walter(?-?):国民軍・後備副曹長。青島時代はイレーネ街(Irenestraße)に住んでいた。ダンチヒ(Danzig)出身。(2812:松山→板東)
159) Bobacher(ボーバッハー),Robert(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。解放後の1920年、蘭領印度に渡って巡査になった。エルザスのミュールハウゼン(Mühlhausen)出身。(3210:熊本→久留米)
160) Boberg(ボーベルク),Kurt(?-?):第3海兵大隊第3中隊・予備2等歩兵。青島時代はハインリヒ皇子街(Prinz-Heinrich-Straße;日本による占領統治時代は佐賀町)に住んでいた。久留米の演劇活動では、リンダウ作『もう一人の男』の演出を担当するとともに、23演目に出演した。ベルリン(Berlin)出身。(368:久留米)
161)
Bobers(ボーバース),Wilhelm von(1886-1952):第3海兵大隊第3中隊・予備陸軍少尉。[通訳官・ザクセン王国予備少尉]。久留米収容所の音楽活動では、ワーグナーの「ローエングリーン」等に出演し、特に1917年8月7日の「リヒャルト・ワーグナーの夕べ」では、「ニーベルングの指輪」の中の歌曲独唱で活躍した。演劇活動では、ガイベル作の喜劇『アンドレーア親方』等3演目に出演した。ドイツ帰国後の1938年にツェレに移り住み、その地で没した。ユルツェン(Uelzen)近郊のオルデンシュタット(Oldenstadt)出身。(327:久留米)
162)
Bobrik(ボブリク),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第6中隊・補充予備2等歩兵。[ドイツアジア銀行香港支店]。ボイスハウゼン(Beushausen)の日記には、1914年8月10日に済南から青島へ向かう列車のなかで、ボブリクに会ったことが記されている。ケーニヒスベルク(Königsberg)出身。(1713:静岡→習志野)
163) Böcher(ベッヒャー),Karl(?-1919):第3海兵大隊第4中隊・上等歩兵。熊本時代(長国寺に収容)の1915年3月15日、少し以前から高熱で入院していたが、この日グラーゼル(Glaser)及びシュトラウス(Paul Strauss)とともに腸チフスと診断された。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。1919年2月7日、スペイン風邪により習志野で死亡した。ギーゼン郡のフィリンゲン(Fillingen)出身。(3201:熊本→久留米→習志野)
164) Bochnig(ボホニヒ),Gustav(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・砲兵伍長。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したボホニヒは4組(出場者総数21名)の内の第2組に割り振られたが4位に終わり、本戦のB級進出に留まった【『徳島新報』1915年4月25日第4号より】。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時37歳)、2時間34 分41 秒5分の3で「シニアの部」16人中の第2位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。また、1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、ボホニヒは110点を獲得して古参選手の部の第6位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレージエンのカッテルン(Kattern)出身。(4128:「大阪→」徳島→板東)
165) Bock(ボック),E.L.Alfred(1885-?):第3海兵大隊機関銃隊・副曹長。解放後の1920年、蘭領印度に渡って巡査になった。ライプチヒのモッカウ(Mockau)出身。(3220:熊本→久留米)
166) Bock(ボック),Friedrich Wilhelm(1891-1932):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。労働者の父フリードリヒ・ヴィルヘルム・ボック(Friedrich Wilhelm Bock)と母ヴィルヘルミーネ・ミンナ・ドロテー・フンツェ(Wilhelmine Minna Dorothee Hunze)との間に、14人兄弟の長子として生れた。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。ドイツに帰国後、未亡人のヘンリエッテ・フリーデリーケ・エリーザベト・グロースマン(Henriette Friederike Elisabeth Großmann)と結婚した。ハールツ山麓のオスターヴィック(Osterwick)出身。(918:福岡→大阪→似島)
167) Bock(ボック),Peter(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時23歳)、3時間30 分31 秒で最下位の85位だった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。1984年2月の手紙によると(当時92歳)、板東では陸上競技とフェンシングの協会に加入し、金属加工の講座で勉強したとのことである【『「第九」の里―ドイツ村』159頁】。ケルン(Köln)出身。(1839:丸亀→板東)
168) Bock(ボック),Richard(1884-?):海軍砲兵中隊・後備2等兵曹。[山東鉄道事務助手]。1914年12月12日熊本から大分へ収容所換えになった。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した。妻エンマ(Emma)と二人の息子ヴァルター(Walter)及びルードルフ(Rudolf)は、1914年12月25日の「コリア号」で故国に戻った。1938年時点で妻と青島に住んでいた。1947年ドイツへ強制送還された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレスラウ(Breslau)出身。(4336:「熊本→」大分→習志野)
169) Bockhorn(ボックホルン),Fritz(1894-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ゲーステミュンデ(Geestemünde)のウトレーデ(Uthlede)出身。(348:久留米)
170) Böckmann(ベックマン),Georg Bernhardt August(1893-1944):海軍膠州砲兵隊・2等水兵。1914年12月12日熊本から大分へ収容所換えになった。解放されてドイツに帰国後に船大工の見習いとなり、1924年12月30日、メヒティルデ(Mechitilde Janßen,1901-1974)と結婚し、娘一人をもうけた。晩年、時に練習船の水兵を務めることがあった。オルデンブルクのアルテネシュ(Altenesch)出身。(4341:「熊本→」大分→習志野)
171) Boda(ボーダ),Karl(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放されて「高砂商会」に勤務したが、やがて蘭領印度に渡った。ハンガリーのバロート(Baroth)出身。(3247:熊本→久留米→習志野)
172) Bodarwe(ボダルヴェ),Joseph(1892-?):海軍東アジア分遣隊・第1中隊・2等砲兵。1919年10月、将来の国籍を郷里で決定する希望から、一足先に解放された。1919年10月28日に横浜で乗船して、12月29日に郷里のマルメディー(Malmedy)に着いた。ラインラントのマルメディ(Malmedy)郡のシュタインバッハ(Steinbach)出身。(19:東京→習志野)
173) Bode(ボーデ),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1919年1月17日、日東護謨製造(株)からボーデに護謨原料の配合と護謨製品の技工作業としての就労申請が出された。ボーデは日給60銭、通訳のゼンクバイル(Senkbeil)は日給80銭だった【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、37頁】。ハノーファー(Hannover)出身。(865:福岡→名古屋)
174) Bodecker(ボーデカー),Karl Friedrich Georg von(1875-1957):砲艦ティーガー(Tiger)艦長・海軍少佐。後に砲艦ヤーグアルがマティアース(Matthias)大尉の指揮の下青島に到着すると、その艦長になった。父フリードリヒ(Friedrich Bernhard von Bodecker)と母マリー (Marie)との間の六人兄弟で生れた。1895年5月海軍に入って実務と理論を学び、 1897年10月25日海軍下級少尉、1899年1月1日海軍少尉、1900年6月18日海軍中尉、1905年3月21日海軍大尉、1911年11月11日海軍少佐 、1914年4月10日東アジアへ赴き、同年6月4日に砲艦ティガーの艦長となった。1914年8月4日から11月7日まで砲艦ヤーグアル艦長。日独戦争時の海戦で危うく難を逃れたが衛戍病院へ搬送された。青島陥落後も衛戍病院に留まり、1915年1月21日重傷者用輸送船で大阪衛戍病院へ運ばれた、快復後の3月15日大阪俘虜収容所へ収容された。大戦終結後の1920年1月27日、ボーデカー少佐を輸送指揮官とする帰還船「ハドソン丸」は、最後の俘虜600名近くが乗船して神戸を出発し、2月初め上海で駆逐艦S90乗組員を収容して、4月2日ブレーメンに到着した。1920年1月30日海軍中佐(1917年10月14日付け)、1920年2月5日海軍大佐となった。1923年10月31日海軍少将で退役した。1921年7月28日ゲルトルート・ホッペンシュテート(Gertrud Hoppenstedt)と結婚し、子供三人をもうけた。第2次大戦に再び応召してニコラーイェフ(現ウクライナ)等へ赴いたが、1943年に退役した。キール(Kiel)出身。(4484:大阪→似島)
175) Bodenstedt(ボーデンシュテット),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備砲兵伍長。習志野時代、一時期クリューガー(Karl Krüger)と同じ建物で部屋も一緒だった。アルコールにお金をつぎ込むことが多かった。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。解放後はアルゼンチンに渡った。ブレーメン(Bremen)出身。(882:福岡→習志野)
176) Böhm(ベーム),Carl(1893-1983):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等麺麭工。[パン職人]。1915年7月10日福岡から久留米へ収容所換えになった。ヴュルテンベルクのボプフィンゲン(Bopfingen)出身。(900:福岡→久留米)
177) Böhm(ベーム),Karl(?-?):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。板東時代、タパタオの30号小屋でグヌシュケ(Gnuschke)と配管及び機械工の仕事を営んだ。また、1918年5月2日、東久邇稔彦王が四国旅行で徳島に立ち寄った際、急遽撫養(むや)で俘虜による作品展示会が特別に開催された。その折ベームはグヌシュケとともにパイプを制作出品し、それが買い上げられた。他にヘフト(Hoeft)、クヴィンテン(Quinten)の作品も買い上げられた。大戦終結後はポーランド国籍となり宣誓解放された。エッセン(Essen)出身。(1840:丸亀→板東)
178) Böhm(ベーム),Max(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等水兵。熊本時代、1915年1月20日から5月26日まで、靴工として従事した。1918年8月4日久留米から青野原へ収容所換えになった。東プロイセンのザルカン(Sarkan)出身。(3242:熊本→久留米→青野原)
179) Böhm(ベーム),Karl Paul(1887-1968):第3海兵大隊第4中隊・後備伍長。父カール・クレーメンス(Karl Clemens Böhm)と母アンナ(Anna August)との間に10人兄弟でフライベルクに生まれた。同地の由緒ある鉱山大学に学び、1907年軍隊に入った【松尾展成『ザクセン王国出身の青島捕虜』152頁】。ドレスデンに没した。ザクセンのフライベルク(Freiberg)出身。(3199:熊本→久留米)
180) Böhme(ベーメ),Karl(1882-?):総督府・海軍中主計(中尉相当)。妻マリー(Marie)は大戦終結まで息子ディートリヒ・ハンス(Dietrich Hans)と青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として、日本国内で解放された。ベルリン(Berlin)出身。(381:久留米)
181) Böhme(ベーメ),Kurt(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。[ザンダー、ヴィーラー青島支店]。青島時代は皇帝街に住んでいた。解放後は青島に戻った。テューリンゲンのミュールハウゼン(Mühlhausen)出身。(3853:大阪→似島)
182) Böhme(ベーメ),Bruno Walter(1889-1936):砲艦ヤーグアル乗員・2等帆縫工。ザクセンのカーメンツ(Kamenz)出身。(40:東京→習志野)
183) Böhmer(ベーマー),Adam(1893-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ラインラントのヴィントベルク(Windberg)出身。(342:久留米)
184) Boehmer(ベーマー),Alwin(1887-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備1等機関兵補。[リックマース(Rickmers)汽船]。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したベーマーは4組(出場者総数21名)の内の第1組に割り振られたが4位に終わり、本戦のB級進出に留まった【『徳島新報』1915年4月25日第4号より】。また徳島時代の1916年10月、バール(Alwin Bahr)、フィッシャー(Paul Fischer)、グレックナー(Glöckner)、ヘフト(Max Hoeft)、ライポルト(Leipold)、マイエ(Maye)の7名で徳島市の円藤鉄工所に鋳造等の労役で派遣された。1日8時間、賃金・期間は不明。解放後は蘭領印度に渡った。エルベ河畔のハルブルク(Harburg)出身。(4130:「大阪→」徳島→板東)
185) Böhmer(ベーマー),Heinrich(1885-1957):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[上海医療技術学校(Medizin-Ingenieur-Schule)]。ドイツに帰国後結婚して娘一人をもうけた。メレ近郊のノイキルヒェン(Neuenkirchen)出身。(1847:丸亀→板東)
186) Böhmer(ベーマー),Hermann(1893-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。デュッセルドルフ(Düsseldorf)出身。(341:久留米)
187) Böhmer(ベーマー),Johaness(1887-?):第3海兵大隊第6中隊・戦時志願兵。プファルツのラムシュタイン(Ramstein)出身。(2471:名古屋)
188) Böhmer(ベーマー),Wilhelm(?-1919):海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備2等歩兵。クラウス(Kraus)と喧嘩騒動を起こした。1919年2月2日、スペイン風邪により習志野で死亡。ヴェストファーレンのアンネン(Annen)出身。(28:東京→習志野)
189) Bohn(ボーン),Friedrich(1882-1971):所属部隊・階級不明。[巡査]。1912年2月19日、青島でアンナ・ホフマン(Anna Hoffmann)と結婚し、1913年3月31日、娘(1913-1971)が生まれた。青島時代は虎街(Tigerstraße)に住んでいた。妻と娘は大戦終結まで上海で暮らした。ハイデルベルク近郊のグロームバハ(Grombach)出身。(2815:松山→板東)
190) Bohner(ボーナー),Dr.Hermann(1884-1963):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[宣教師]。アフリカ黄金海岸アボコビ(現ガーナ)に生まれた。父親は当地の福音教会牧師を勤めていた。シュパイエルのギムナジウム時代、〈ワンダーフォーゲル〉の指導者カール・フィッシャー(Karl Fischer)の後についてシュヴァルツヴァルト、エールツゲビルゲ等の山歩きをした。ハレ、エルランゲン、テュービンゲンの各大学で神学と哲学(1903-07)、シュトラースブルク大学でヘブライ学を学び(1911)、1914年にエルランゲン大学で哲学博士の学位取得後の4月、「統合福音派海外伝道教会」(AEPM)の派遣教師として青島に赴き、長年密かに尊敬していたリヒャルト・ヴィルヘルムの下で布教・教育活動に入った。大戦勃発とともに応召し、上記第6中隊に配属された。戦闘中、「青島最初の砲撃」や「歩哨」と題する詩を作った。やがて先輩牧師W. ゾイフェルト(Seufert)と共に俘虜として日本に送られた。板東時代、収容所印刷所から『絵画についての対話』を出した。1918年6月1日、板東俘虜収容所においてベートーヴェンの「第九交響曲」が日本国内で初演された際に、「ベートーヴェン、シラー、ゲーテ 第九交響曲に添えて」の講演を行った。また「ドイツの歴史と芸術」の連続講義を33回に亘って行うなど多種多彩な数多くの講演を行った。大戦終結して解放後青島に戻り、ヴィルヘルムの精神を継承して2年間活動した。1922年、この年の4月1日に設立された大阪外国語学校講師に就任した(1922-1937)。1923年夏、ヴィルヘルムの元で知り合った夫人の妹ハンナ・ブルームハルト(Hanna Blumhardt;1883-1971)をドイツから迎えて結婚した。1937年に契約満期で帰国したが、再び大阪外国語学校講師に就き、勅任官ドイツ政府「教授」の称号を与えられて(1951-1963.6.24)教授として勤務、1963年6月24日(没日)付けで勲四等瑞宝章を授与された。『神皇正統記』、『聖徳太子』、『能作書』等数多くの著作を残した。終生日本に住んだ。弟二人も来日し、ゴットロープ(Gottlob)は高知高等学校(1925年から1928年まで)、アルフレート(Alfred)は松山高等学校で(1922年から1928年まで)ドイツ語教師を勤めた。1963年6月24日永眠した。神戸再度山の墓地には教え子達が建てた墓碑がある。ハンナ夫人は1971年、故郷バート・ボルで没した。【参照:井上純一「牧師館の子Hermann Bohner」所載:『青島戦ドイツ兵俘虜収容所研究』第6号】。マンハイム(Mannheim)出身。(2794:松山→板東)
191) Bolay(ボライ),Hermann(1892-1971):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後結婚して子供四人をもうけた。コンスタンツ(Konstanz)出身。(2489:名古屋)
192) Bolland(ボラント),Heinrich(1889-1976):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備伍長。[メルヒャース商会青島支店]。青島時代はアーダルベルト皇子街(Prinz-Adalbert-Straße)に住んでいた。大戦終結して解放後は、青島における就職既定者(メルヒャース商会)として日本国内で解放された。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメン(Bremen)出身。(2477:名古屋)
193) Bollmann(ボルマン),Heinrich(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・後備伍長。妻と息子のフリッツ(1914年生まれ)は、1914年12月25日と蒸気船朝鮮号で帰国した。[山東鉄道鉱山部採鉱夫]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ボッフム(Bochum)出身。(4331:「熊本→」大分→習志野)
194) Boemer(ベーマー),Friedirch Wilhelm(1882-1932):海軍野戦砲兵隊・後備上等兵。旅館主ヨーゼフ(Joseph)と母マティルデ(Mathilde)の間に1882年5月5日にアルフ(Alf)で生まれた。大阪俘虜収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点で大阪衛戍病院に入院していた【参照:『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜関係雑纂 第四巻』在本邦俘虜名簿配付及俘虜ノ安否其他情報問合ニ関スル件】。ハレ(Halle an der Saale)で没した。モーゼル河畔のアルフ(Alf)出身。(4471:大阪→似島)
195) Bomsdorf(ボムスドルフ),Johann(1890-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。[龍海鉄道(Lung Hai Eisenbahn)南京支店]。板東時代、収容所義勇消防団の第1小隊長を務めた。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会の「シニアの部」(当時39歳)で、2時間52分03秒5分の3で第7位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。ローザ(Lohsa)出身。(2799:松山→板東)
196) Boncour(ボンクール),Peter(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。松山収容所時代、フランス大使館から健康状態についての問い合わせがあった。ロートリンゲン出身でフランス名はピエール。ヴェルサイユ講和条約後、宣誓解放された。ロートリンゲンのローデンマッヘルン(Rodenmachern)出身。(2784:松山→板東→習志野)
197) Bonifacio(ボニファキオ),Georg(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸金工部門で錨2点、蹄鉄2点、火鉢3点を出品した。イストリアのピラノ(Pirano)出身。(4482:大阪→似島→習志野)
198) Bonin(ボーニン),Gustav(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。習志野時代の1916年7月、ハインリヒ・ハム(Hamm)とギターの製作を行った。ハムの日記によれば二人は、7月29日にギターの指板のフレット間隔を計算している【『習志野市史研究3』所載の「ハインリヒ・ハムの日記から」(カール・ハム編/生熊文訳)より】。ポーゼンのシュナイデミュール(Schneidenmühl)出身。(27:東京→習志野)
199) Bonk(ボンク),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等水兵。[パン職人]。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1918年10月から久留米市通町の本村治兵衛工場で、麺麭及び洋菓子製造の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。大戦終結して解放後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、東京の日清製粉に勤めた。ハレ地区のアイスレーベン(Eisleben)出身。(897:福岡→久留米)
200) Bönsch(ベンシュ),Oskar(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。1915年12月5日付けの『徳島新報』第2巻第11号によれば、ベンシュは11月28日に開催されたスポーツ大会の6種目総合で49点の成績で14位になった。コブレンツ(Koblenz)出身。(4121:「大阪→」徳島→板東)
201) Borcherding(ボルヒャーディング),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。[メルヒャース上海支店]。ブレーメン(Bremen)出身。(2798:松山→板東)
202) Borcke(ボルケ),Otto von(1883-1941):第3海兵大隊第3中隊・陸軍歩兵中尉。陸軍大尉の父エーミール(Emil,1841-1900)と母イェニー(Jeny,1855-1946)の五男としてメーヴェ(Meve)に生まれた。妻イサベル(Ysabel,1886-1974、アメリカのフィラデルフィア出身)は一時期東京の帝国ホテルに居住した。子どもが三人いたが、一番年上の長女は1915年4月8日東京で生まれた。1914年11月28日付けで大尉に昇進した。コーブレンツ近郊のヴァイセントゥルム(Weissenthurm)出身。(325:久留米)
203) Borggräfer(ボルクグレーファー),Wilhelm(1893-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。オーバーヘーマー(Ober Hemer)出身。(349:久留米)
204) Boris(ボリス),Paul(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、ボリスは布製品、革製品の部でハンガリー模様の女性スリッパ8点、男性スリッパ7点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』81頁、大津留厚編・監訳/福島幸宏編『小野市史第三巻 本編V』別冊】。ハンガリーのセゲディン(Szegedin)出身。(2151:姫路→青野原)
205) Bormacher(ボルマッハー),Josef(1894-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会学校部門では、シュルテ(Schulte)と共同で昆虫標本3箱(蛾、甲虫、蝶)を出品した。解放されてドイツに帰国後、新婚のエーアハルト(Ehrhardt)の元を度々訪れた【藤井寛『エアハルト・アルバムと大阪俘虜収容所』21頁;所載『『大阪俘虜収容所の研究 ―大正区にあった第一次大戦下のドイツ兵収容所―』】。ラインラントのモンハイム(Monheim)出身。(3855:大阪→似島)
206) Bormann(ボルマン),Karl(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備伍長。大戦終結して解放後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、横浜に住んだ。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。また1960年頃にも、「チンタオ戦友会」に出席した。シュヴェーリン(Schwerin)出身。(329:久留米)
207) Born(ボルン),Carl Christian(1884-1929):海軍野戦砲兵隊・予備1等砲兵。[皮革業]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1918年10月7日、甲斐洗濯店からボルン、バス(Bass)、デューベルト(Dübert)及びメスター(Mester)の4人に対して、鞣皮製造並びに皮製品洗濯での就労申請が出された【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、33頁】。大戦終結して解放後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、神戸のカルロヴィッツ商会に勤めた。後に中国に渡りその地で死去した。ラーン河畔のナッサウ(Nassau)出身。(961:福岡→名古屋)
208) Born(ボルン),Luis(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。解放後は蘭領印度に渡った。グムビンネン(Gumbinnen)出身。(376:久留米)
209) Bornemann(ボルネマン),Erich(1888-?):海軍膠州砲兵隊・1年志願兵。1916年10月21日福岡から大阪へ収容所換えになった。ロスラウ(Rosslau)出身。(930:福岡→大阪→似島)
210) Bornmann(ボルンマン),Bernhard(?-?):海軍砲兵中隊・1等焚火兵。大戦終結後、第4次送還船で下記エーミール(Emil)と同船でドイツに帰国した。ハンブルク(Hamburg)出身。(3234:熊本→久留米→板東)
211) Bornmann(ボルンマン),Emil(?-?):国民軍・上等歩兵。[商人]。青島時代は太子街(Kronprinzenstraße)に住んでいた。大戦終結して解放後、第4次送還船で上記ベルンハルト(Bernhard)と同船でドイツに帰国した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(2144:姫路→青野原)
212) Bornmann(ボルンマン),Peter(?-?):国民軍・階級不明。[大工棟梁]。青島時代は太子街に住んでいた。ハンブルク出身。(4476:大阪→似島)
213) Borries(ボリース),Theodor von(1889-1939):第3海兵大隊第3中隊・予備上等歩兵。[カルロヴィッツ商会天津、上海、済南支店]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1939年4月24日、チリのコンケプキオン(Concepcion)で没した。ハンブルク(Hamburg)出身。(957:福岡→名古屋)
214) Borstel(ボルステル),Emil(1893-1966):第3海兵大隊機関銃隊・2等兵。キールで没した。マグデブルク管区シュテンダール(Stendal)郡のタンガーヒュッテ(Tangerhütte)出身。(2493:名古屋)
215) Boerstling(ベルストリング),Richard(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備伍長。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、ベルストリングは1919年6月1日に開催されたホッケーの試合に出場したが、ビューラー(Buehrer)と同じような失策をした。大戦終結して解放後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、神戸のコスモス貿易(Kosmos Trading Coep.)に勤めた。出身地不明(『俘虜名簿』では満州のハルピン)(330:久留米)
216) Bosch(ボッシュ),Otto(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・伍長。1915年(月日不明)、「暑熱ノ故ヲ以ッテ上衣ヲ脱シ且ツ団扇ヲ所持シテ点呼ニ整列セシハ日本日直士官ニ対シテ礼ヲ失スル」の科で重営倉2日の処罰を受けた。ペテルスドルフ(Petersdorf)出身。(2476:名古屋)
217) Boese(ベーゼ),August(?-?):第3海兵大隊第6中隊・補充予備2等歩兵。小樽から応召か?大戦終結して解放後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、大阪で商会を経営し、1930年頃は宝塚に住んだ。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのヴァンネ(Wanne)出身。(2469:名古屋)
218) Boese(ベーゼ),Robert(1885-?):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊長・陸軍中尉。1905年3月14日陸軍の徒歩砲兵部隊に入隊、同年6月14日陸軍少尉、1914年1月1日海軍歩兵部隊に移り、同年6月19日中尉に昇進した。1914年9月27日午前6時、ヴァルダーゼー高地北西の口子で、モッデ(Modde)予備少尉とともに日本軍への砲撃を開始する。久留米時代、1915年11月15日の大正天皇即位大典の祝いに、俘虜一人につきビール一本とりんご2個が配布された。しかしベーゼはフローリアン(Florian)中尉とともに日独両国が交戦中であることを理由に拒否すると、激怒した真崎甚三郎所長から殴打された。このことは後に大問題となった。息子のエルンスト(Ernst;1919年時点で11歳)は一人青島に留まった。ブレスラウ管区のヴェルフェルスドルフ(Wölfelsdorf)出身。(3218:熊本→久留米)
219) Boesler(ベスラー),Ernst(1880-1916):第3海兵大隊第2中隊・後備陸軍歩兵少尉。[上海・医療技術専門学校]。1914年9月28日、浮山で日本軍に包囲され、退却を求めて協議を申し出るが武装解除され俘虜となる。グラボウ(Grabow)中尉等の一隊を含めてこの日下士以下60名が俘虜となった。パウリー(Pauly)軍曹は11人の兵とともに逃れた。その折り俘虜を尋問したのは山田耕三大尉であった。10月9日、日本への護送可能なグラボウ中尉等55名とともに俘虜第一陣として門司に到着し、久留米俘虜収容所に送られた。【『日獨戰史』402頁等より】1916年4月18日、肺結核兼肋膜炎により久留米で死亡、久留米の山川陸軍墓地に埋葬された。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所W―』(2007)116頁には、ベスラー少尉を送る葬列、弔辞を読む収容所長真崎甚三郎中佐、火葬の様子、及び墓標等6点の写真が掲載されている。なお、大戦終結して解放後の1920年1月16日、遺骨はドイツ側委員に引き渡された。ドイッチュアイラウ(Deutscheylau)出身。(356:久留米)
220) Bost(ボスト),Friedrich(?-?):海軍野戦砲兵隊・軍曹。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シフヴァイラー(Schiffweiler)出身。(2475:名古屋)
221) Both(ボート),Henry(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カール・ローデ商会(Carl Rohde & Co.,Kobe)神戸支店]。アルトナ(Altona)出身。(2796:松山→板東)
222) Both(ボート),Josef(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。[石工職人]。丸亀時代の1916年11月6日、エーラート(Ehlert)とともに自殺を企てたが未遂に終わった。収容所内の夾竹桃の葉を煎じて服用する方法だった【『機密日誌 丸亀俘虜収容所』より】。また23日にはエーラートと逃亡を企てて、懲役1年6ヶ月の刑を受けて高松監獄に収監された。【なお、『俘虜名簿』ではボートの所属部隊として、海軍野戦砲兵隊第2中隊となっているが誤記である。海軍野戦砲兵隊は1中隊のみの構成であり、丸亀収容所は第3海兵大隊の第2中隊と第7中隊のみの構成だった】。マイエン(Mayen)出身。(1832:丸亀→板東)
223) Bothe(ボーテ),Carl(?-?):総督府・1等木工。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。リューベック(Lübeck)出身。(3862:大阪→似島)
224)
Boethke(ベトケ),Paul(1872-1964):総督府参謀本部幕僚・海軍中佐。〔要塞砲兵部長・砲銃庫兼水雷庫長〕。青島時代はハインリヒ皇子街に住んでいた。1914年11月9日以後の青島開城交渉におけるドイツ側の実務委員として、地雷等の危険物除去に関わった。11月20日、すでに日本に渡っていたベトケ夫人から堀内文次郎少将宛てに手紙が届いた。それ以前にもすでに数度の通信があった【『青島攻囲陣中記』144頁等】。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。大戦終結して解放後の1920年1月5日、ベトケを輸送指揮官とする帰還船「ヒマラヤ丸」は、板東7名、習志野9名、名古屋90名、似島40名、久留米812名の計958名が乗船して神戸を出発し、3月3日に本国に到着した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴァイクセル川(今日はポーランドのヴィスラ川)右岸のトルン(Thorn)出身。(858:福岡→習志野)
225) Bötjer(ベートイェ),Otto(1890-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・砲兵伍長。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。大戦終結して解放後、蘭領印度のバタヴィアに赴いて、その地の警察官になった。ザクサー(Saxer)大佐の署名入り証明書が遺されている。シュトルマルン郡のレムザール(Lemsahl)出身。(871:福岡→習志野)
226) Böttger(ベットガー),Fritz Felix Alfred(1893-?):海軍砲兵中隊・2等信号兵。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。【『俘虜名簿』では「Böttcher」となっているが、シュミット氏の調査による表記に従った】。ザクセンのアナベルク(Annaberg)出身。(3232:熊本→久留米→習志野)
227) Boettger(ベットガー),Friedrich(1895-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ハノーファー州のリンデン(Linden)出身。(351:久留米)
228) Botz(ボッツ),Jordan(1893-1961):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。ラインラントのボルンハイム(Bornheim)出身。(1828:丸亀→板東)
229) Boeving(ベーフィング),Richard(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[クンスト・ウント・アルバース商会ウラジオストック支店]。板東時代、新板東テニス協会のコート係を務めた。1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時29歳)、2時間43 分12 秒で85人中の72位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。また1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、ベーフィングは100と7分の2点を獲得して上級の部の第6位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメン(Bremen)出身。(2791:松山→板東)
230) Bourguinon(ブルニュヨン),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊。2等砲兵。1915年12月、宣誓解放された。ロートリンゲンのロゼリエレ(Rozeriäulles)出身。(922:福岡)
231) Boysen(ボアゼン),Alfred(?-?):第3海兵大隊第5中隊・戦時志願兵。ローマン(Lohmann)もしくはシュテーゲマン(Steegemann)の遺品と思われる写真中に、青島から日本への俘虜輸送船「ヨーロッパ丸」船上で、ボアゼンが座り込んで手元の何かを眺めている写真、及びボアゼン、シュテーゲマン、エンゲルホルン(Engelhorn)、ヤンゼン(Jansen)の四人が写った写真が現存している【シュテーゲマンの項参照】。ハンブルク郊外のオットマルシェン(Ottmarschen)出身。(2499:名古屋)
232) Bradl(ブラードゥル),David(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。1917年8月16日、フランケ(August Franke)及びレンツェン(Lenzen)とともに、名古屋電気鉄道での電車用電動機及び機械器具修繕の労役に就いた【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、26頁】。ディーデンホーゲン(Diedenhofen)近郊のアルグリンゲン(Algringen)出身。(2483:名古屋)
233) Brakemeier(ブラーケマイアー),Wilhelm(1876-1958):第3海兵大隊工兵中隊・後備伍長。[山東鉄道保線マイスター]。父親は農場経営者で、母親は2歳の時に亡くなった。伯母の元で育って、指物師としての教育を受けたが、1896年から2年間ベルリン・シェーネベルクの第1鉄道連隊での兵役に就いた。1900年、中国での軍務を志願した。1904年10月19日、アンナ(Anna Helene Wichmann)と結婚して娘一人(青島生まれ)をもうけた。1913年にドイツで半年の帰郷休暇を家族と共に過ごした。1914年12月12日熊本から大分へ収容所換えになった。1915年9月1日に妻と娘は「マンチュリア号」でアメリカ経由で帰国した。解放後の1920年から1925年まで、ファーレル(Varel)の製鉄所で働き、後に皮革工場の守衛を務めた。デトモルトのブラーケンベルク(Brakenberg)出身。(4333:「熊本→」大分→習志野)
234) Brandau(ブランダウ),Alfred(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・海軍少主計補。板東時代にブランダウ演劇グループを組織した。1918年4月4日から6日の三日間クライストの喜劇『壊れ甕』を上演し、その際に上演の監督を務めた。ワイマール(Weimar)出身。(4135:「大阪→」徳島→板東)
235) Brandes(ブランデス),Ernst Erich Hugo(1883-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・曹長。ブラウンシュヴァイクのジールセ(Siersse)出身。(21:東京→習志野)
236) Brandes(ブランデス),Otto(1890-1978):海軍膠州砲兵隊第4中隊・予備1等砲兵。[シュヴァルツコップ(F.Schwarzkopf & Co.)青島支店]。青島時代は皇太子街に住んでいた。1916年10月18日福岡から大分へ、1918年8月8日大分から習志野へ収容所替えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヒルデスハイム管区のメレンゼン(Möllensen)出身。(874:福岡→大分→習志野)
237) Braendlein(ブレントライン),Richard(1891-?):第3海兵大隊・予備上等歩兵。[商人]。解放後は蘭領印度に渡った。『ドイツ兵捕虜と収容生活―久留米俘虜収容所W―』(2007)156頁には、ブレントラインがカール・ブレントライン博士(家族?)へ宛てたクリスマスと新年の挨拶を述べた絵葉書(高良山玉垂宮の写真)が紹介されている。ライン河畔のシュヴァインフルト(Schweinfurt)出身。(3213:熊本→久留米)
238) Brandt(ブラント),Albert(?-1956):国民軍・卒。[酪農場経営]。青島近郊の四方(Syfang)で酪農場を経営していた。1915年9月下旬に青島俘虜収容所に収容され、1916年1月31日青島から大阪に移送された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのラウエンブルク(Lauenburg)出身。(4674:青島→大阪→似島)
239) Brandt(ブラント),Friedrich(?-?):第3海兵大隊参謀本部・1等水兵。板東時代の1917年5月、松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、チェロを担当した。また1918年春のテニス・トーナメントのダブルスで、デーゼブロック伍長と組んでAクラス1位になった【『バラッケ』第2巻211頁】。また工芸品展に自動珈琲沸かし機を、またシュルツ(Schulz)と共同で楽器のチェロを制作・出品した。板東ホッケー協会の、コルトゥム(Cortum)が率いるホッケーチームの一員で、ゴールキーパーを務めた。ヘルゴラント(Helgoland)島出身。(2817:松山→板東)
240) Brandt(ブラント),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。1915年6月久留米へ、1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。レルベック(Lerbeck)出身。(3223:熊本→久留米→板東)
241) Brass(ブラス),Josef(1892-):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。『ドイツ軍兵士と久留米』(205頁)には、1919年1月の日付での久留米ホッケーチームの集合写真が掲載されているが、その右から四人目にブラスが写っている。大戦終結して解放後は蘭領印度に渡り、ケリボン(Cheribon)でライン=エルベ同盟(Rhein-Elbe Union)のために活動した。クレーフェルト(Crefeld)出身。(339:久留米)
242) Brauer(ブラウアー),Friedrich(1891-1956):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。学校教育を終了した後の1911年10月に海軍に入った。解放されて帰国後の1922年(乃至は23年)頃、戦友ミース(Johann Mies)の妹マリア・ミース(Maria Mies)と結婚した。息子のラインホルト(Reinhold)も海軍に入った。1939年以降はインゲルハイム(Ingelheim)のメレ=ケーガー(Maelle & Kaeger)商会に勤めた。ライン=ヘッセンのフラインヴァインハイム(Freiweinheim)出身。(3852:大阪→似島)
243) Bräuer(ブロイアー),Karl Urban(1878-1959):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・後備伍長。[山東鉄道四方工場]。1878年5月25日、鉄道局助手の父ルードルフ(Rudolph)と母ルーツィエ(Luzie)の元にザールブリュッケンに生れた。中国に赴いて、山東鉄道の四方工場で主任として勤め、1914年8月上記部隊に入隊した【シュミット】。大阪時代の1915年6月9日、ザールブリュッケンのルードルフ・ブロイアー(父親と思われる)に宛てて出した手紙の封筒が郵趣家大西二郎氏の元に所蔵され、『大阪俘虜収容所の研究 ―大正区にあった第一次大戦下のドイツ兵収容所―』319頁に掲載されている。ザールブリュッケン(Saarbrücken)出身。(4472:大阪→似島)
244) Braun(ブラウン),Fritz(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代の1918年5月5日、「航海生活25年」と題して講演した。ベルリン(Berlin)出身。(1844:丸亀→板東)
245) Braun(ブラウン), Heinrich(1892-1953):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。ドイツへ帰国後結婚して子供一人をもうけ、塗装店を経営した。ヘッセンのクレーバ(Kleba)出身。(862:福岡→習志野)
246) Brauner(ブラウナー),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメンのフェーゲザック(Fegesack)出身。(910:福岡→青野原)
247) Braeuninger(ブロイニンガー),Waldemar(1887-?):総督府経理局・1等給与掛筆記。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919年8月26日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ヤスペルセン(Jaspersen)、フライエンハーゲン(Freyenhagen)、ハンゼン(Hansen)、イェプセン(Jepsen)、カルステンス(Carstens)、ニールセン(Nielsen)の6名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。フレンスブルク(Flensburg)出身。(2814:松山→板東)
248) Bredebusch(ブレーデブッシュ),Karl August(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。[カッセラ商会済南支店]。板東時代、『日刊電報通信』(Täglicher Telegrammdienst Bando、略称TTD.)に掲載するニュースの整理に当たり、やがて1918年8月以降はブレーデブッシュの編集の下で、様々なニュースが追加されて日々の電報を補足するという通信サービスが始まった【『バラッケ』第2巻82頁】。大戦終結して解放後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク(Hamburg)出身。(2801:松山→板東)
249) Breidenassel(ブライデナッセル),Joseph(1893-1966):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、第2棟3室でビールを販売した。また「エンゲル・オーケストラ」の団員で、クラリネットを担当した。大戦終結して解放後は、蘭領印度のメダン(Medan)に渡った。ケルン(Köln)出身。(1823:丸亀→板東)
250) Breitbach(ブライトバッハ),Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年12月5日付けの『徳島新報』第2巻第11号によれば、ブライトバッハは11月28日に開催されたスポーツ大会の6種目総合で43点の成績で17位になった。ケルン(Köln)出身。(4132:「大阪→」徳島→板東)
251) Breithardt(ブライトハルト),Karl(1891-1948):測量艦プラーネット乗員・2等水兵。研磨師の父カール・ヴィルヘルムと母ユーリエとの間に7番目の子として生れた。商人として修業の後1912年12月13日海軍に入り、河用砲艦チンタオの水兵となった。1914年10月10日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となり、日本へ移送されたが11月1日宣誓解放された。その後中国に赴き、1917年4月3日北京で日本軍により中国管轄の海淀俘虜収容所へ送られた。1920年1月ハドソン丸でドイツに帰還した。1921年6月4日エンネ・アウグスト・クリューガー(Aenne August Krüger)と結婚して息子一人をもうけ、ライン=ヴェストファーレンの電気会社で簿記係として勤務した。ラインラントのオーリクス(Ohligs)出身。(4667:なし)
252) Bremser(ブレムザー),Willy Konrad(1885-?):海軍砲兵中隊・後備兵曹。[山東鉄道四方工場事務員]。父は鉄道車両マイスターで、母はアウグステという名であった。出納業務修業のために国営鉄道(管理・会計係り)入りしたが、後に海軍に入り、ヴィルヘルムスハーフェンの海軍北海司令本部記録係りとなった。その後いく度か巡洋艦に乗り組み、最終的に青島の山東鉄道四方工場の事務部に入った。1913年エリーゼ(Elise)と結婚した。1914年12月12日熊本から大分へ収容所換えになった。妻は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結して解放後は、特別事情を有することから青島居住を希望した。ヴィースバーデン(Wiesbaden)出身。(4337:「熊本→」大分→習志野)
253) Breternitz(ブレーターニッツ),Robert(1875-1951):第3海兵大隊工兵中隊・予備陸軍工兵少尉。1905年10月19日第1鉄道連隊少尉、後にゲロルシュタイン(Gerolstein) の鉄道建設・運営監督官になった。1914年11月9日の青島開城交渉ではドイツ側の実務委員として、地雷等の危険物除去に関わった。テューリンゲンのルードルスシュタット(Rudolstadt)出身。(3222:熊本→久留米)
254) Bretz(ブレッツ),Gustav(1892-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。ラインプファルツのディールキルヒェン(Dielkirchen)出身。(1821:丸亀→板東)
255) Breuer(ブロイアー), Johann
Hubert(1890-1943):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。アーヘン近郊のオイヒェン(Euchen)出身。(925:福岡→大阪→似島)
256) Breuer(ブロイアー),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1917年3月2日、岡本自転車製作所から仕上げの労役申請が出された【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、21頁】。ケルン(Köln)出身。(926:福岡→名古屋)
257) Brilmayer(ブリルマイアー),Joseph(1886-1920):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備海軍少尉。〔第13砲台指揮官〕。1920年1月16日、似島で死亡。ビンゲン(Bingen)出身。(3841:大阪→似島)
258) Bringmann(ブリングマン),Wilhelm(1883-1939):第3海兵大隊副官・陸軍中尉。[高等山林局長]。1902年7月19日陸軍入り、同年10月18日歩兵少尉、1908年10月1日海軍歩兵隊に移り、1911年10月18日海軍歩兵中尉、1914年11月8日付で海軍歩兵大尉に昇進した。青島時代は皇太子街(Kronprinzenstraße)に住んでいた。1914年11月18日、局長官舎は日本の青島守備軍旅団司令部に充てられた。大戦終結して解放後の1920年3月9日陸軍に入り、同年5月29日ケルンで結婚した。ラインプファルツのクリークスフェルト(Kriegsfeld)出身。(2467:名古屋)
259) Brinker(ブリンカー),Franz(?-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。板東時代、第7室の6室でビールとタバコを販売した。ヴァルトロプ(Waltrop)出身。(2778:松山→板東)
260) Brinkhaus(ブリンクハウス),Fritz(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ミュンスター(Münster)出身。(2806:松山→板東)
261) Brinkmann(ブリンクマン),Heinrich(?-?):第3海兵中隊機関銃隊・上等兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ボッフム県のヴァイデマール(Weidemar)出身。(2486:名古屋)
262) Brobecker(ブロベッカー),Huber(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。大阪時代の1915年2月15日、静岡俘虜収容所で俘虜による自炊を行うことになったことから、料理の心得のあるブロベッカーは、アウグスト(August)とともに静岡俘虜収容所へ移送された【『静岡民友新聞』記事より】。静岡時代、札の辻八木麺麭店に指導に出かけた【「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページ中の、「16の収容所」中の静岡俘虜収容所の項より】。アーヘン(Aachen)出身。(3850:大阪→静岡→習志野)
263) Brockdorff(ブロックドルフ),Cay-Maria Graf von(1890-?):第3海兵大隊第1中隊・後備伍長(伯爵)。中国税関長の伯爵フーゴー・フォン・ブロックドルフ(Hugo Graf von B.)を父に北京で生れた。1915年6月久留米に収容所換えになり、1919年12月習志野へ移送された。大戦終結して解放後は蘭領印度に渡り、1929年8月28日インタ(Inta Martini)と結婚した。北京出身。(3194:熊本→久留米→習志野)
264) Brodbeck(ブロートベック),Hermann(1890-1963):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等焚火兵。1915年7月11日福岡から久留米に収容所換えになった。クレーフェルト(Krefeld)出身。(899:福岡→久留米)
265) Brodnitzki(ブロートニツキ),Paul(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、第4棟7室でハーベレヒト(Haberecht)及びヘッカー(Höcker)とゴミ処理会社を営んだ。ドルトムント(Dortmund)出身。(1836:丸亀→板東)
266) Bröhl(ブレール),Josef(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備上等歩兵。1915年9月20日久留米から名古屋へ収容所換えになった。1919年4月1日、敷島製粉工場からリヒター(Paul Richter)とトーマ(Thoma)には煉瓦職工として、ブレールは麺麭焼窯設計者として、ケーニヒ(Leo König)は通訳としての就労申請が出された。麺麭焼窯設計者と通訳は日給1円、煉瓦職工は日給80銭だった【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、38頁】。解放後はロシアのウラジオストックに赴いた。ボン(Bonn)出身。(939:久留米→名古屋)
267) Brohm(ブローム),Karl(1896-1963):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。[錠前工]。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。後に職工マイスターになった。ザクセンのヴァルダースハウゼン(Waldershausen)出身。(923:福岡→青野原)
268) Broihan(ブロイハン),Andreas August(1893-1971):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後エルフリーデ(Elfriede)と結婚したが子どもはいなかった。ウーペン(Upen)出身。(346:久留米)
269) Brondke(ブロントケ),Willy(1894-1958):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。工場主にして商人のパウル(Paul Brondke,1869-1945)を父に生れた。解放後は商人となり、アンネリース(Annelies Lehmann)と結婚し、息子が三人いた。ニーダーライジッツのフィンスターヴァルデ(Finsterwalde)出身。(373:久留米)
270) Bronner(ブロンナー),Johann(1893-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。1915年12月5日付けの『徳島新報』第2巻第11号によれば、ブロンナーは11月28日に開催されたスポーツ大会の6種目総合で40点の成績で18位になった。徳島時代の1916年1月30日、ルフ(Ruff)指導による寄席「ミモザ」の第2回上演会が開催された。その折りブロンナーはケラー(Keller)、シルト(Schild)及びローレンツ(Lorentz)とともにチロルのダンスと歌を披露した。彼らの即興歌と靴底を叩くダンスは喝采を博した【『徳島新報』第19号(1916年1月30日発行)より】。板東時代、第3棟1室でビール販売を営んだ。バーデンのブルフザール(Bruchsal)出身。(4122:「大阪→」徳島→板東)
271) Bronzovic(ブロンソヴィッチ), Josef (クロアチア語名は Josip;1891-1934): 巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。解放されて帰国後フランカ(Franka)と結婚して子供二人をもうけた。アルゼンチンに移住したが、1930年に郷里ダルマチアに戻った。ダルマチアのセルカ(Selca)出身。(2157:姫路→青野原)
272) Brosseit(ブロサイト),Otto(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・砲兵伍長。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代のクリューガー(Karl Krüger)によれば、実にちゃっかりした若者で、郷里の大勢の娘達と文通し、それを活かして収容所内でも、贈り物の小包を一番沢山貰っていた。習志野収容所での映画上映を軌道に乗せた人物でもある【『ポツダムから青島へ』210頁】。東プロイセンのラーギング(Raging)出身。(881:福岡→習志野)
273) Brück(ブリュック),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。板東時代の1918年5月4日、シラーの『ヴァレンシュタインの陣営』上演に際して、クレーマー(Kremer)とともに狩人を軽快に演じた。ラインラントのフェルベルト(Velberlt)出身。(2780:松山→板東)
274) Bruck(ブルック),Hugo vom(1869-1951):第3海兵大隊工兵中隊・後備伍長。[山東鉄道鉱山部]。1891年11月4日徒歩砲兵連隊に入隊した。後に中国に赴き、山東鉄道会社に入った。済南から応召した。クララ・ラース(Klara Laas)と結婚し、子供6人をもうけた。1914年12月12日熊本から大分へ収容所換えになった。大戦終結して解放後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、満州に渡って南満州鉄道会社に入ったが、1921年10月18日故郷のフェルベルトに戻った。ラインラントのフェルベルト(Velbert)出身。(4332:「熊本」→大分→習志野)
275) Brückel(ブリュッケル), Friedrich Wilhelm(1894-1966):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月20日、福岡から大阪へ収容所換えになった。大戦終結して郷里の戻った後、アメリカに渡って結婚し娘一人をもうけた。カリフォルニアのフレスノでいちぢく農園を経営した。フレスノで没した。バイエルンのポルジンゲン(Polsingen)出身。(924:福岡→大阪→似島)
276) Brügge(ブリュッゲ), Josef(1888-1968):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。[青島膠海関]。戦争勃発時、青島のドイツ街(Deutschlandstraße;日本による占領・統治時代は大和町)に住んでいた。郷里に帰国後結婚して、娘二人をもうけた。園丁師として働いた。ヴェストファーレンのマリーエンフェルト(Marienfeld)出身。(3239:熊本→久留米)
277) Brüggen(ブリュッゲン), Max(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。リューベック(Lübeck)出身。(893:福岡→習志野)
278) Brügner(ブリュークナー),Arthur(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備2等歩兵。静岡時代は収容所内で牛の骨を利用してマンドリン製作し、また他の俘虜の依頼を受けて本箱を製作した【参照:内野健一「静岡俘虜収容所について」;公開国際シンポジュウム(平成20年10月13日、於岡山大学)「日独文化交流史上の在日ドイツ兵捕虜とその収容所」第2部の発表要旨】。1917年2月17日から、静岡工業試験場に出向き、指物・玩具の製作指導をし、19日(月曜)から「方七寸位の箱の製作に着手した」【『静岡新報』(大正6年2月20日付記事及び「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページの、「16の収容所」中の静岡俘虜収容所の項より】。ライプチヒ(Leipzig)出身。(1711:静岡→習志野)
279) Brundig(ブルンディヒ),Otto(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。板東時代、1917年7月17日に発足した「収容所保険組合」に工兵中隊代表となって組合の運営に従事した。マグデブルク(Magdeburg)出身。(2805:松山→板東)
280) Brunni(ブルンニ),Angello(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等水兵。1916年10月9日、ツリアーニ(Zulliani)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸?)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。イストリアのロヴィンゴ(Rovingo)出身。(2159:姫路→青野原→丸亀→板東)
281) Bruns(ブルンス),Johann Heinrich Friedrich(1877-?):海軍膠州砲兵隊・上等掌砲兵曹。1896年11月3日海軍に入り、1909年4月1日上等掌砲兵曹になった。1913年2月、ヨハンネ(Johanne Marie Lange)と結婚し、青島時代はアウグステ・ヴィクトリア浜(Auguste-Victoria-Ufer;日本による占領統治時代は旅順町)に住んでいた。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オステ(Oste)河畔のノイハウス(Neuhaus)出身。(901:福岡→習志野)
282) Brüsehof(ブリュゼホーフ),Adolf(1884-?):海軍膠州砲兵隊・海軍少主計(少尉相当)。1902年10月1日海軍入り、1912年3月30日海軍少主計になった。1914年8月、総督府被服・糧食部任務となった。大戦終結後、パッツィヒ(Patzig)中尉指揮の俘虜帰還船ハドソン丸の主計を務めた。ドイツに帰国後、エリーゼ(Elise X)と結婚した。エムス(Ems)河畔のリンゲン(Lingen)出身。(3842:大阪→似島)
283) Büch(ビューヒ),Ludwig(1890-1960):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。青島時代の青島周辺の林の中で、右手に持った銃を下ろして立つ写真、並びに戦友と二人が写った(場所・日付不明)が遺されている【シュミット氏のホームページより】。板東時代の1919年4月6日、習志野のマイレンダーに宛てて葉書を出した。葉書は徳島市東新町の光景写した絵葉書である。【マイレンダー(Mailänder)の項参照】。1960年1月10日、ホルツ(Holz)で死去した。ラインラントのホスターホーフ(Hosterhof)出身。(2808:松山→板東)
284) Büchel(ビュッヒェル),Christoph Johann(1894-1932):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。1914年12月12日熊本から大分へ収容所換えになった。ドイツ帰国後の1921年4月30日、ラウラ・プラズーン(Laura Prasuhn)と結婚した。子どもはいなかった。オルデンブルクのデルメンホルスト(Delmenhorst)出身。(4339:「熊本→」大分→習志野)
285) Buchenau(ブヘナウ),Paul(?-?):国民軍・階級不明。[アルンホルト、カルベルク青島支店]。青島時代はブレーメン街(Bremerstraße;日本の占領統治時代は馬関通)に住んでいた。大阪時代手紙を出す際に、カタカナで「ブヘナウ」と彫った楕円の判子を使用した。大阪俘虜収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点で大阪衛戍病院に入院していた【参照:『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜関係雑纂 第四巻』在本邦俘虜名簿配付及俘虜ノ安否其他情報問合ニ関スル件】。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ラインラントのレネップ(Lenepp)出身。(4474:大阪→似島)
286) Buchenthaler(ブーヘンターラー),Heinz(1876-?):第3海兵大隊参謀本部・陸軍大尉。〔給養及び通信将校〕。[北京大使館附武官兼通訳]。1895年3月22日歩兵少尉、1904年11月15日歩兵中尉、1911年5月30日歩兵大尉(歩兵第112連隊)。1914年8月第3海兵大隊参謀本部に入った。1916年11月2日、秘密通信を行ったことで処罰を受けた。1919年11月、ドイツの利益代表を務めるスイス公使に宛てて、蘭領バタヴィアでの就職に関して斡旋依頼方の信書を出した。1920年1月20日、インゲ(Inge Marie Anna Bruun de Neergaard,1882-1950)と結婚した。後に蘭領印度のバンドンで財務部に勤めた。フライブルク軍事文書館には、ブーヘンターラーが5年余に亘って収容された久留米俘虜収容所に関する報告書が保存されている。その報告書「五年の間日本に囚われて」(Fünf Jahre kriegsgefangen in Japan)は、井戸慶治氏によって「久留米俘虜収容所に関するブーヘンターラーの報告(翻訳と注解)」として翻訳紹介されている【参照:参考文献一覧】。コンスタンツ(Konstanz)出身【(『俘虜名簿』では北京大使館)】。(380:久留米)
287) Bucher(ブーハー),Franz(1892-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。レーゲンスブルク(Regensburg)出身。(1846:丸亀→板東)
288) Buchmann(ブーフマン),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・予備1等砲兵。[塗装職マイスター]。青島時代は台西鎮街通(Taihsitschenstraße)に住んでいた。徳島時代、収容所で発行された『徳島新報』には、シュミット(Schmidt;特定不可)とデザインの面で協力した。1918年3月8日から19日かけて開かれた板東公会堂での絵画と工芸品展覧会で、出品した油絵「海の光景」は最も好評を博し、写真部門の「青島」では一等賞を受賞した。『バラッケ』1919年6月号に、ブーフマンによる大麻神社の狛犬のスケッチが掲載されている。解放後は天津に赴いた。ザクセンのヒラースレーベン(Hillersleben)出身。(4124:「大阪→」徳島→板東)
289) Buchner(ブーフナー),Emil(1891-1977):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。帰国後の1920年5月22日、マルタ(Martha Schäfer)と結婚して息子二人をもうけた。靴製造工場をもつ靴店を経営した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴィースバーデンのニーダーロスバッハ(Niederrossbach)出身。(950:福岡→久留米)
290) Buck(ブック),Karl Hans Heinrich(1891-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。フレンスブルク(Flensburg)出身。(894:福岡→習志野)
291) Buecker(ビュッカー),Heinrich(1893-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ヴェストファーレンのゲルゼンキルヒェン(Gelsenkirchen)出身。(343:久留米)
292) Budde(ブッデ),Frantz(1893-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。解放後は蘭領印度に渡って巡査になった。ヴェストファーレンのホルン(Horn)出身。(1822:丸亀→板東)
293) Budde(ブッデ),Karl(1891-1960):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後ヨゼフィーネ・ヴェルナー(Josefine Werner)と結婚して子ども三人をもうけた。製紙工場のボイラーマンとして働いた。ヴレクセン(Wrexen)出身。(374:久留米)
294) Budich(ブーディヒ),Georg(?-?):第3海兵大隊第3中隊・伍長。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、1919年5月10日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、61⅓点を獲得して第9位になった。ラウズィッツ(Lausitz)のゾーラウ(Sorau)出身。(358:久留米)
295) Buhr(ブーア),Kurt(1892-?):第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。ザクセンのツァイツ(Zeitz)出身。(334:久留米)
296)
Buehrer(ビューラー),Alfred(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。[銀細工職人]。1917年5月、横浜万国宝通銀行から情報局へ、ビューラー宛60円(郵便為替)と信書1通交付の問い合わせがあった。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、ビューラーは1919年6月1日に開催されたホッケーの試合に出場したが、ベルストリング(Börstling)と同じような失策をした。1919年3月に発行された『久留米詩文集』(Dichtungen von Kriegsgefangenen des Lagers
Kurume-Japan)の図案・装丁を担当した。解放後は蘭領印度に渡って商会に勤めた。プフォルツハイム(Pfolzheim)出身。(336:久留米)
297)
Buhrmester(ブーアメスター),Heinrich(1894-1972):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ドイツに帰国後エリーザベト(Elisabeth Boenke)と結婚し、煙草工場で働いた。ミンデンに没した。ミンデン(Minden)出身。(951:福岡→名古屋)
298)
Bungarts(ブンガルツ),Hubert(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。2007年11月7日、孫のブンガルツ氏がハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページの「ゲストブック」に書き込みをした。祖父についての情報を尋ねる内容である。ラインラントのギア(Gier)出身。(4470:大阪→似島)
299) Bunge(ブンゲ),Karl(?-?):国民軍・2等歩兵。板東時代、兄マックス(Max)・ブンゲとともに展覧会で活躍した。解放後は蘭領印度に渡った。ホルシュタインのハイリゲンハーフェン(Heiligenhafen)出身。(2813:松山→板東)
300) Bunge(ブンゲ),Max(1881-1964):第3海兵大隊第7中隊・曹長。〔第2歩兵堡塁〕。[徳華高等学堂(Deutsch-Chinesiche Hochschule)管理官]。大胆な行動で日本軍の前線を突破して、日本軍陣地を詳細に偵察して報告した。青島陥落前夜部下達に、「我ら進まん祈りに応えて…」の歌を歌うよう励ました【ゴットベルク『チンタオの英雄たち』(Gottberg:Die Helden von Tsingtau)108頁】。ブンゲ曹長は一兵卒の時代に起こった義和団事件の折りの活躍で、青島のドイツ人社会では知らぬ人のいない人物であった。除隊後も東アジアに留まった。青島のベルリン福音教会教区監督フォスカンプの日記を基にした体験記『包囲された青島から』(Aus dem belagerten Tsingatu)にも、しばしばその名が登場する。1914年、『膠州の1898年から1901年。一兵卒の回想録―第3海兵大隊の平時と戦時』(Kiautschou 1899/1901. Erinnerungen eines ehemaligen Seesoldaten.In Kriegs- und Friedenzeiten beim V.Seebataillon)を著し、青島のアードルフ・ハウプト(Adolf Haupt)印刷所から出版した。膠州総督府に寄贈されたヴィルヘルム・コーン叢書中には、この本が30冊まとめて収蔵されていた。他の蔵書にも複数単位で見受けられることから、青島ドイツ人社会で広く読まれたものと推測される【参照:『鹵獲(ろかく)書籍及図面目録』、へ−19頁等】。この回想録によるとブンゲは、1898年11月にキールで海軍歩兵第3大隊に2年勤務の志願兵として応募した。新聞各紙に新設の上記大隊への募集が行われていたのであった。ヴィルヘルムスハーフェンで数ヶ月の訓練を受けた後、1899年3月2日に輸送船ダルムシュタットで青島に向かい、4月11日到着した。青島では4中隊編成の第4中隊に属した。1900年5月末、義和団により騒乱状態の天津へ派遣された。天津に着く前に大沽要塞攻防に従事、後に天津での戦闘に参加し、6月9日青島へ帰還した。やがて膠州租借地周辺、特に高密で山東鉄道建設を阻止しようとする義和団や農民等が荒れ狂うと、青島の海軍歩兵大隊に、4中隊の各中隊から人員が出されて、第5中隊として騎兵中隊が編成された。ブンゲはその騎兵中隊所属となる。ブンゲはドイツとの話し合いを拒む高密管轄の官人が居住する高密城の城壁をよじ登って、城門を開ける功績を挙げた。高密管轄の官人との話し合いには、総督府の通訳官シュラマイアーが当った。鉄道の建設工事を護るために、ドイツ守備隊の高密駐屯を認めさせる交渉であった。2年の兵役義務を果たしたブンゲはいったん帰国するがやがて青島に戻り、1908年上海でグレーテ(Grete)と結婚した。丸亀俘虜収容所では収容所当局から、古参の准士官として第7中隊の班長に指名された。収容されてまもない1914年11月18日、ランセル(Lancelle)大尉とともに収容所当局に4項目の要求を申し入れた。それは、1)食事ノ量ヲ増スコト 2)麦酒(ビール)ヲ飲マシムルコト 3)酒保ヲ開クコト 4)将校ニハ散歩ノ自由ヲ許スコト、の4項目であった【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。板東時代の1918年3月8日から19日かけて開催された板東公会堂での絵画と工芸品展覧会において、弟カール(Karl)・ブンゲとともに公会堂を美術ホール風に飾りつけた。自身は油絵「私の両親の家」という、丁寧な作品を出品して三等賞を受賞した。妻グレーテは大戦終結まで上海で暮らした。大戦終結してドイツに帰国後、1922年に再び中国の上海へ赴き、1926年にその地で娘のエルゼ(Else)が生まれた。1928年ドイツに戻り、1932年から45年まで、郷里ハイリゲンハーフェンの町長を務めた。1945年以後は、ハンブルクの会社に勤め、1964年3月6日郷里に没した。「チンタオ戦友会」に出席した。2007年2月8日、孫のフランツ・クロンキ(Franz Klonki)氏がシュミット氏のホームページ中の「ゲストブック」にコメントを寄せた。それによれば、クロンキ氏はマックス・ブンゲの一人娘エルゼ(Else)の息子である。ホルシュタインのハイリゲンハーフェン(Heiligenhafen)出身。(1842:丸亀→板東)
301) Bunsen(ブンゼン),Karl(?-1923):第3海兵大隊第1中隊・予備2等歩兵。解放後は蘭領印度に渡って商会に勤めた。ハンブルク(Hamburg)出身。(354:久留米)
302) Bünting(ビュンティング),August(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[中国輸出入会社青島支店代表]。青島時代はドイツ街(Deutschlandstraße)に住んでいた。解放後は日本に留まり、カテリーネ(Katherine)と結婚、神戸市山本通4丁目97-7で「K. H. A. ビュンティング商会」を経営した。ブレーメン(Bremen)出身。(1845:丸亀→板東)
303) Burberg(ブルベルク),Max(1892?-1948?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・予備砲兵伍長。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ローマン(Lohmann)の遺品と思われる写真中に、ブルベルク、ローマン(Lohmann)及びヤコービ(Jacobi)の三人が、寺の山門を通り抜けて手歩いて来る様子を写した写真が現存している【ローマンの項参照】。1944年2月17日、ウィーンで結婚した。デュッセルドルフ近郊のメットマン(Mettmann)出身。(869:福岡→名古屋)
304) Bürckmann(ビュルクマン),Karl Stefan(1894-1982):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後は郷里の煉瓦工場で働いた。プファルツのラインツァーベルン(Rheinzabern)出身。(362:久留米)
305) Burggraf(ブルクグラーフ),Lubens(1891-1957):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年9月20日名古屋へ収容所替えになった。1921年12月5日カタリーナ(Katharina Meis)と結婚し、子ども二人をもうけた。リンベルク近郊のデーレン(Dehren)出身。(941:福岡→名古屋)
306) Burhop(ブルホープ),August(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1918年9月、「板東健康保険組合」の第4中隊代表理事に選ばれた。解放後は蘭領印度に渡って、浚渫船「スマトラ」の仕事に従事した。ブレーメン(Bremen)出身。(4126:「大阪→」徳島→板東)
307) Burkhardt(ブルクハルト),Martin(1879-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。ザクセンのグロースレールスドルフ(Grossröhrsdorf)出身。(23:東京→習志野)
308) Burmeister(ブルマイスター),Albert(1886-?):第3海兵大隊第5中隊・軍曹。1919年8月23日付けでカルクブレンナー(Kalkbrenner)を代表者として、名古屋俘虜収容所を通じて北海道帝国大学に提出された下記「趣意書」には、次の経歴が記されている。「14歳ニシテロイツノ小学校ヲ卒業ス 幼少ヨリ1905年10月兵役迄農業ニ関スル全テノ実際的方法ノ研究ヲ終エタリ 入隊後ハ乗馬隊於テ養馬ノ方法ヲ実際ト学理トニ就テ修得シ二ヶ年糧秣下士タリキ 耕作、馬畜、家禽飼養ヲ特技トス、乗馬ノ練育ニ就キ特殊ノ技能ヲ有ス」【「獨逸人北海道移住ニ関スル趣意書」より。以下「北海道移住」とのみ記す】。解放後は蘭領印度に渡って巡査になった。ポンメルンのロイツ(Loitz)出身。(2473:名古屋)
309) Burmeister(ブルマイスター),Wilhelm(1895-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。『ドイツ軍兵士と久留米』205頁には、1919年1月の日付での久留米ホッケーチームの集合写真が掲載されているが、その中央にブルマイスターが写っている。脚にガードを付けていることからキーパーをしていたと思われる。ロストック(Rostock)出身。(347:久留米)
310) Buroh(ブロー),Christian(?-?):海軍膠州砲兵隊・後備砲兵軍曹長。[商会店員]。青島時代はティルピッツ街に住んでいた。1916年10月18日、ノイマイアー(Neumaier)等68名とともに、福岡から大分に移送された。妻アルヴィーネ(Alwine)は大戦終結まで青島に留まった。キール(Kiel)出身。(904:福岡→大分→習志野)
311) Busam(ブーザム),Karl(?-?):所属部隊・階級不明。[築港倉庫監督官]。青島時代はハインリヒ皇子街に住んでいた。1915年1月2日に青島で俘虜となったが、ブーザムは5月22日、青島俘虜収容所を逃亡して上海に逃れ、日本への移送を免れた【なお1915年1月4日、非戦闘員と称した者で予備後備等の軍籍にあった者の一斉大検挙が行われ、92名が新たに俘虜とされた。また、軍に提供した家屋の接収も行われた】。出身地不明。(4627:青島)
312) Busch(ブッシュ),Alfred(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(1843:丸亀→板東)
313) Busch(ブッシュ),Henry(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備上等兵。[山東鉄道管理部簿記係]。青島時代は停車場街(Bahnhofstraße;日本による占領統治時代は横須賀町)に住んでいた。1914年12月12日熊本から大分へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)出身。(4330:「熊本→」大分→習志野)
314) Busch(ブッシュ),Johannes(1883-1971):第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。[カルロヴィッツ青島支店]。熊本時代の1915年1月24日、阿弥陀寺に収容されていたブッシュは、ラッペンエッカー(Rappenecker)、ツァイス(Zeiss)及びフリッケ(Fricke)の四人で収容所から脱走した。夜の内に海岸へ20キロの地点まで進んだ。翌朝早くに同罪となることを恐れたシューマン(Paul Schumann)の報告で脱走が分かり、四人はボートで海に漕ぎ出す寸前で警察官に逮捕された。荒縄で繋がって縛られて収容所に連れ戻され、やがて軍法会議で一年の禁固に処せられた。拘禁中は赤茶色の囚人服を着せられた。1915年11月、大正天皇の即位による恩赦でクリスマスに釈放されて久留米俘虜収容所に送られた【メラー『日本の収容所から脱走を企てる』(Meller,Adolf:Fluchtversuche von Tsingtau-Verteidigern aus japanischem Gewahrsam im Ersten Weltkrieg)より】。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては、2時間19 分48 秒で85人中の第4位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。シュヴェーリン(Schwerin)出身。(3197:熊本→久留米→板東)
315) Busch(ブッシュ),Walter(?-?):海軍兵站部・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュテーゲマン(Steegemann)の依頼で、青野原収容所についての私記を寄せた、それはシュテーゲマンの報告書に反映されている。バルメン(Barmen)出身。(2143:姫路→青野原)
316) Buschow(ブショーウ),Erwin(?-?):第3海兵大隊第3中隊・伍長。久留米の演劇活動では、レッシング作の喜劇『ミンナ・フォン・バルンヘルム』等の24演目全てに女役で出演した。ベルリン(Berlin)出身。(359:久留米)
317) Busse(ブッセ),Wilhelm(1893-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。松山時代(山越・弘願寺収容)の1915年6月30日、酒保においてビールを騙し取ろうとして7月3日に重営倉10日に処せられた。また1916年7月22日には、命令に反抗したことで重営倉20日に処せられた。解放後は後アメリカに渡り、ニューヨーク等に住んでアメリカの官吏になった。1965年ブッパータール(Wupperthal)に赴き、1967年9月、再びアメリカに渡った。ハノーファーのヒラーゼー(Hillersee)出身。(2788:松山→板東)
318) Bussick(ブシック),Gottlieb(1888-1968):第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。久留米俘虜収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、1919年5月10日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、63⅔点を獲得して第6位になった。西プロイセンのリュベッケ(Luebbecke)郡ベルニングハウゼン(Boerninghausen)出身。(335:久留米)
319) Bussmann(ブスマン),Johann(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。松山時代(大林寺収容)の1915年11月1日、日本官憲が命じた取締准士官の命令に従わず、放歌喧騒した咎で、11月3日に重営倉5日に処せられた。また1916年10月15日には、侮辱、違令、暴行未遂に問われていたところ、違令、暴行未遂は証拠不十分とされたが、侮辱罪により拘留20日に処せられて広島監獄に入れられた。ブレーメン(Bremen)出身。(2785:松山→板東)
320) Buttersack(ブッターザック),Conrad(1881-1961):第3海兵大隊第6中隊長・陸軍歩兵中尉。〔歩兵堡塁中間防禦右翼隊指揮官〕。1901年3月22日陸軍入り、同年6月22日歩兵少尉、1906年8月18日海軍歩兵に移り、1910年6月16日海軍歩兵中尉、1914年8月第3海兵大隊へ移籍し、1914年8月大尉になった。青島時代はビスマルク街(Bismarckstraße;日本による占領統治時代は万年通)に住んでいた。松山時代には、『陣営の火』に都合3回に亘って計50頁に及ぶ、第3海兵大隊の歴史と活動を紹介した文章を寄稿した。1917年6月15日、板東では「カンネーの戦いについて」の第1回講演を行う。同年9月21日、「旅順と青島について」の第1回講演を行う。1920年3月10日陸軍へ復帰し、アニー(Anny)と結婚した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴィースバーデン(Wiesbaden)出身。(2777:松山→板東)
321) Büttinghaus(ビュッティングハウス),Karl(?-1944):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。[食肉加工職人]。1916年10月18日福岡から大分へ収容所換えになった。大戦終結後、千葉出身の日本女性と結婚した。1925年頃、目黒に東京で最初のソーセージ工場を作り店舗も構えたが、後に神戸に進出した。1944年暮れに死去。1945年の神戸空襲で店舗は焼失し、戦後再建には至らなかった。なお、1924年に横浜の本牧で精肉業を営んでいた矢島八郎は、上記目黒の工場に豚肉を納めていたが、やがてビュッティングハウスの指導を受けてハム・ソーセージ造りを手がけることになり、今日は三代目の矢島八郎が神奈川県茅ヶ崎市で、手造りハムの店「ハム工房ジロー」を営んでいる。ヴェストファーレンのバート・ザッセンドルフ(Bad Sassendorf)出身。(878:福岡→大分→習志野)
322) Büttner(ビュットナー),Hermann(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・後備上等工兵。板東時代、公会堂での手工芸品展に蝶の標本採集を出品した。トリーア(Trier)出身。(2807:松山→板東)
323) Büttner(ビュットナー),Karl(?-?):海軍東アジア分遣隊・予備副曹長。1915年7月11日久留米へ収容所換えになった。久留米時代の1919年、カール・フォークト(Karl Vogt)作曲『四つの歌』の内の「到着」を歌った。トリーア(Trier)出身。(933:福岡→久留米)
324) Buzan(ブツァン),Stephan(1893-1968):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。帰国後結婚して息子三人をもうけた。ダンチヒ地区のブレトシン(Bretoshin)出身。(17:東京→習志野)
325) Buzmann(ブーツマン),Franz(1892-1967):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。板東時代、収容所正門を入って左脇にある衛兵所横の小屋に詰めた。富田久三郎経営の「ドイツ牧舎」で生産された牛乳を収容所で一手に販売した【松尾「板東「ドイツ牧舎」食肉加工技術指導者ブロッホベルガー略歴」;所載:「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページ】。なお「ドイツ牧舎」については、クラウスニッツァー(Claussnitzer)の項を参照されたい。解放後は指物師として働き、1923年結婚して二人の子供をもうけた。妻と死別後の1933年再婚して7人の子どもをもうけた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザクセン=アンハルトのアーメスドルフ(Amesdorf)出身。(4129:「大阪→」徳島→板東)