1) Cainennberg(カイネンベルク),Heinrich(1890-1968):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。解放されて帰国後、ヨハンナ(Johanna Buttenborg)と結婚して子ども二人をもうけた。ラインラントのレース郡イッセルブルク(Isserburg)出身。(2503:名古屋)
2) Carl(カール),Wilhelm(1880-1960):第3海兵大隊・2等歩兵。[山東鉄道]。1914年12月12日熊本から大分へ収容所換えになった。エアフルト(Erfurt)出身。(4342:「熊本→」大分→習志野)
3) Carstens(カルステンス),Ernst(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[香港のウルデルプ、シュリューター(Ulderup & Schlüter)商会]。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919年8月26日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ヤスペルセン(Jaspersen)、ブロイニンガー(Braeuninger)、フライエンハーゲン(Freyenhagen)、ハンゼン(Hansen)、イェプセン(Jepsen)、ニールセン(Nielsen)の6名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。ドイツ領からデンマーク領に編入されたアーベンラー(ドイツ語名アーペンラーデ:Apenrade)出身。(2822:松山→板東)
4) Casapiccola(カサピッコラ),Cyrill(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・4等機関下士。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。イストリアのゲリー(Goery)出身。(2165:姫路→青野原)
5) Caspari(カスパリ),Albert Friedrich Otto(1896-1976):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術部門の写真で、大阪収容所の写真50点を出品した。解放されてドイツに帰国後、新婚のエーアハルト(Ehrhardt)の元を度々訪れた【藤井『エアハルト・アルバムと大阪俘虜収容所』21頁;所載『『大阪俘虜収容所の研究 ―大正区にあった第一次大戦下のドイツ兵収容所―』】。ザクセンのシャッハヴィッツ(Schachwitz)出身。(3866:大阪→似島)
6) Castagne(カスタニュ),Rudolf(?-?):海軍砲兵中隊・1等信号兵。解放後は蘭領印度に渡った。ハンブルク(Hamburg)出身。(3254:熊本→久留米)
7) Christian(クリスティアン),Erich(1892-1983):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、全般の部の作業道具の部門に鉋台を出品した。ザクセンのグラウハウ(Glauchau)出身。(4488:大阪→似島)
8) Christensen(クリステンセン),Karl(?-?):海軍砲兵中隊・1等機関兵曹補。1919年8月、上海のデンマーク公使宛に送付請求の信書を出し、検閲の上18日に情報局へ転送された。1919年6月28日に締結されたヴェルサイユ講和条約により、宣誓解放された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。アーペンラーデ(Apenrade)出身。(3255:熊本→久留米)
9) Christiansen(クリスチアンセン),Christian(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。[船員]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。デンマーク人。クリューガー(K.Krüger)によると、習志野時代は人とはあまり付き合わず、一人閉じこもっていた。ドイツ人に対しては、良い感情を抱いていなかったとのことである。グラーフェンシュタイン(Gravestein)出身。(965:福岡→習志野)
10) Christiansen(クリスチアンセン),Friedrich(1880-1960):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[レストラン経営]。青島時代は即墨街(Tsimostraße;日本の占領統治時代は即墨町)に住んで、「レストラン・ドイツ亭(Restaurant zum Deutschen Haus)」を経営していた。大戦終結後は、青島における就職既定者として日本国内で解放された。シュレースヴィヒのトライア(Treia)出身。(1858:丸亀→板東)
11) Christl(クリストゥル),Karl(1893-1969):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。1919年11月14日、チェコスロヴァキア国民の認定を受けて、一足先に解放された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。当時はハンガリーのメーレン(Mähren)のブリュン(Brünn)出身。(3256:熊本→久留米→習志野)
12) Christophe(クリストーフェ),Friedrich Ludwig(1886-1942):海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備伍長。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ケルン(Köln)出身。(969:福岡→名古屋)
13) Chudzicki(チュジィッキ),Josef(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1918年9月付けの、F.パラヴィチーニ博士(在ジュネーヴ赤十字国際委員会駐日代表)の報告によれば、静岡時代、チュドゥチキは青島時代に二度の外科手術を受けた病歴があった。静岡では鼠径ヘルニアのために二度手術を受けたが再発しているとのことである【参照:大川四郎編訳『欧米人捕虜と赤十字活動 パラヴィチーニ博士の復権』216頁】。ポーゼンのルバン(Luban)出身。(1718:静岡→習志野)
14) Claasen(クラーゼン),Hermann(1887-1950):第3海兵大隊第7中隊・後備伍長。[メルヒャース(Melchers)商会香港支店]。丸亀時代の1915年7月8日、第1ヴァイオリンのエンゲル(Paul Engel)、第2ヴァイオリンのモルトレヒト(Moltrecht)、第3ヴァイオリンのライスト(Leist)、第1フルートのヘス(Hermann Hess)、第2フルートのヤーコプ(Hermann Jacob)及びオルガンのクラーゼンの6人によって「エンゲル・オーケストラ」【当初は「保養楽団」の名称で、1915年1月10日に第1回演奏会が開かれた「寺院楽団」の後継楽団】が成立した。また丸亀時代に、1916年11月3日付けの葉書がクラーゼンに届いた。葉書には、立太子礼の記念切手1銭5厘と3銭の二種が貼られている。差出人及び文面は不明【郵趣家三木充氏所蔵品より】。板東時代の1918年4月21日、フリッシュ(Frisch)及びヴェーゲナー(Wegener)と共同で「歌の夕べ」を開催して仲間達に感動を与えた。1918年9月、「板東健康保険組合」の第7中隊代表理事に選ばれた。また、板東俘虜収容所における丸亀蹴球クラブの役員も務めた。1919年3月26日、「室内楽の夕べ」が開かれてシューベルトの五重奏「鱒」が演奏された。その折りクラーゼンはピアノを担当した。編成はガルスター(Galster)海軍中尉のヴァイオリン、デュムラー(Duemmler)海軍大尉のチェロ、クラインシュミット(Kleinschmidt)予備少尉のヴィオラ、クラーゼン伍長のピアノ、ナスート(Nassuth)砲兵伍長のコントラバスであった。ブレーメン(Bremen)出身。(1857:丸亀→板東)
15) Classen(クラッセン),Johannes(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備伍長。[シュヴァルツコップ青島支店]。青島時代は皇太子街に住んでいた。キール(Kiel)出身。(384:久留米)
16) Claus(クラウス),Theodor(?-?):海軍膠州砲兵隊。2等砲兵。1915年12月福岡で宣誓解放された。上部エルザスのビュール(Bühl)出身。(967:福岡)
17) Clausing(クラウジング),W.E.Adolf(?-?):総督府・1等信号兵。解放後は蘭領印度に渡り、ヴェルテフレーデン(Weltevreden)に住んだ。プロイセンのシュトルコウ(Storkow)出身。(2163:姫路→青野原)
18) Clausnitzer(クラウスニツァー),Franz(1892-1955):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。[畜産職人]。1892年7月21日、ザクセンのブラント市に生まれた。立派なカイゼル髭をたくわえた大男であった。丸亀時代の1916年10月16日、アルバース(Albers)、デーゼブロック(Desebrock)及びヒンツ(Hinz)の四人で相互扶助を目的とする収容所保険組合を結成した。これが後に松山、徳島の俘虜達と合流した板東俘虜収容所での、大規模な健康保険組合のモデルとなった【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』109頁】。板東時代、俘虜と地元の大工30人で約5ヶ月を要して完成した牧舎の経営に参画した。日本人側の経営者は船本宇太郎と松本清一の二人であった。船本は毎日収容所までクラウスニツァーを迎えに来た。規則に反することではあるが、天候の悪い時は彼を牧舎に泊めることもあった。船本と一緒に写した写真が残っている。【『「第九の里」ドイツ村』145頁以下】。板東時代のクラウスニツァーに関しては、富田酪農場での勤務成績優良を証明する、高木大尉署名・捺印の1919年8月12日付けの証明書及び、富田久三郎、富田酪農場の獣医松本清一場長、獣医船本宇太郎飼育係の三名による1919年9月10日付けの感謝状が残されている。後者には12月25日付けの諏訪邦彦大尉の署名も記され、銀盃が感謝の印に贈られたことが明記されている。それらによると、クラウスニツァーは1917年7月から板東俘虜収容所近くの富田酪農場に牛・豚の飼育係として雇用され、搾乳に従事した。松本、船本の両名は、予備8A(3?)等獣医の肩書きが付されている。大戦終結してドイツに帰国後も、一貫して酪農・搾乳の仕事に従事した。1934年9月30日付けでベルリンの帝国農業経営組合から、クラウスニツァーのライプチヒ農業経営組合での指導的な働きに対する証明書が遺されている。それによると、1934年1月15日から9月30日まで、ライプチヒの同協会で指導等に当ったと思われる。また1938年3月18日付けで、ライプチヒの地区生産者協会と地区農業組合による、板東で発行された上記二通の証明書を一通に合わせた書類を追認する形での証明書も遺されている。1940年クラウスニツァーは、ベルリンの家畜情報誌『飼育と繁殖』の発行元に、青島及び俘虜時代の回想録を送ったことを証明する記録が現存している。第一部と第二部に分かれていて、合わせて45ページになる分量であった。しかしそれは印刷されることなく、手稿も散逸したと思われる【『富田製薬百年のあゆみ』87-91頁】。なお、『富田製薬百年のあゆみ』(90頁)には、富田久三郎、松本清一、船本宇太郎達ともに、女児を抱いているクラウスニツァー、その左で女児を見やるシュラーダー(Heinrich Schrader)等の集合写真が掲載されている【〔写真21〕参照】。2009年10月20日、クラウスニツァーの曾孫に当たるクラウスニツァー夫妻(Steffen & Stefanie Clausnitzer)が来日して、丸亀、鳴門市板東の各俘虜収容所跡等を11日間に亘って訪問した。その際に丸亀では小阪清行氏が中心になって本願寺塩屋別院等の案内をし、また丸亀の研究会メンバーである赤垣洋等が歓迎会に出席した。更に鳴門では川上三郎氏と富田実氏が板東俘虜収容所跡、鳴門市ドイツ館、旧「ドイツ牧舎」等のクラスニツァー関連施設等を案内した。大阪では井上純一氏が夫妻の大阪を案内した。なお松尾展成氏は全行程に亘って夫妻に同行した【「チンタオドイツ兵俘虜研究会」の会報387号に、松尾氏による詳細な報告記事が掲載されている】。ザクセンのブラント(Brand)出身。(1855:丸亀→板東)
19) Clauss(クラウス),Kurt(1889-1956):第3海兵大隊第5中隊・軍曹。板東時代、第7棟の6室でマッサージ屋を営んだ。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。エールツ山地のオルベルンハウ(Olbernhau)出身。(2819:松山→板東)
20) Clemens(クレーメンス),Emil(1891-1978):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ラインラントのデイーリングハウゼン(Dieringhausen)出身。(385:久留米)
21) Colbow(コルボウ),Otto(1891-?):海軍砲兵中隊・2等兵曹。東京及び習志野時代、ハインリヒ・ハム(H.Hamm)の日記によると、コルボフはハムとともに台所での仕事に従事した。習志野では、将校のための台所仕事を専門に行った【『習志野市史研究3』所載の「ハインリヒ・ハムの日記から」より】。シェーンベルク(Schönberg)出身。(44:東京→習志野)
22) Colles(コレス),Baptist(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1919年10月、将来の国籍を郷里で決定する希望から、一足先に解放された。1919年10月28日に横浜で乗船して、12月29日に郷里のマルメディー(Malmedy)に着いた。ラインラント州マルメディー郡ザンクト・フィート(Sankt Vith)近郊のガルハウゼン(Galhausen)出身。(970:福岡→久留米)
23) Conrad(コンラート),Max(1882-1925):第3海兵大隊第6中隊・補充予備2等歩兵。ザーレ(Saale)河畔のヴァイセンフェルスン(Weissenfelsn)出身。(2500:名古屋)
24) Coordes(コールデス),Hege(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。解放後は蘭領印度に渡った。ハノーファー近郊のフォルリッツ(Forlitz)出身。(386:久留米)
25) Cordes(コルデス),August(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメン(Bremen)出身。(3252:熊本→久留米)
26) Cordes(コルデス),Richard(1885-1968):海軍東アジア分遣隊・予備陸軍少尉。[上海・同済医療技術専門学校教師]。1914年9月26日から27日にかけての激戦前、シャウムブルク(Schaumburg)大尉とともに滄口高地で、日本軍が中国人クーリーを使って重砲を据えつける様子を偵察した。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、習志野劇場によるエルンスト作の喜劇『フラックスマン先生』(上演日不明)に教育長役で出演した。解放後は中国の呉淞、或は上海の同済専門学校に赴いた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(968:福岡→習志野)
27) Cordua(コルドゥア),Bruno(1884-?):第3海兵大隊・予備陸軍少尉。〔イルチス山下部砲台指揮官〕。1906年1月27日に徒歩砲兵連隊予備少尉となり、ベルリン郊外のシュテーグリッツ(Steglitz)で商人として従事した。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。ベルリン(Berlin)出身。(964:福岡→習志野)
28) Coerper(ケルパー),Otto(1891-?):砲艦ヤーグアル乗員・海軍少尉。1910年4月1日海軍入り、1913年9月27日少尉、1920年1月30日中尉となり、同年7月28日に大尉で退役した。蘭領印度に渡り、2等警部としての職に就いて、ヴェルテフレーデンに住んだ。その後スマトラのパレンバン(Parembang)に移り、1等警部となり、警視まで昇進して退職した。エンマ(Emma Honig)と結婚して、子ども二人をもうけた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのクレーヴェ(Cleve)出身。(45:東京→習志野)
29) Cortum(コルトゥム),Albert(1889-1970):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[ガレルス、ベルナー商会(Garrels,Börner & Co.)漢口支店]。板東時代、かつてホッケーの選手だったことから、シュルツ(Gerhard Schultz)とともにホッケーチームを組織し、コルトゥム・チームを率いた。チームにはシェーファー(Hermann Schäfer)がいた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(2820:松山→板東)
30) Costenoble(コステノーブレ),Hermann von(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[リヒター商会(Richter & Co.)マニラ支店]。解放後はマニラに渡った。イェーナ(Jena)出身。(2821:松山→板東)
31) Coupette(クーペッテ),Karl(1885-1964):総督府・海軍中尉。〔要塞通信兼信号将校〕。1905年4月1日士官候補生として海軍入り、1906年4月7日見習士官、1908年9月28日海軍少尉、1911年9月5日海軍中尉、1914年2月23日通信将校として青島へ赴いた。1906年1914年11月7日午前4時、総督の撤去命令を受けてそれまで防備していた信号所を破壊した。全戦闘員の日本送還直前に、日本軍人の略奪行為に関する情報書類を携えて、総督府から日本軍司令部に派遣された。その抗議は日本軍司令部を激怒させ、結局正規の抗議書とはしなという形で決着した。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1919年11月27日俘虜送還業務でスイス大使館連絡将校に就く。1920年1月30日に1916年4月24日付けの昇進辞令を受けて海軍大尉となった。1920年3月15日シベリアのドイツ兵俘虜送還の為のドイツ赤十字の派遣団員に就任。1920年9月30日にドイツに帰還した。1925年4月1日海軍少佐、1930年4月1日海軍中佐、1932年10月1日海軍大佐へ昇進した。1938年3月31日に海軍少将で退役となった。大戦終結してドイツに帰国後、「1914年戦争における青島信号所並びに海岸無線電信設備」の報告書を書いた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュパンダウ(Spandau)出身。(963:福岡→習志野)
32) Cravatzo(クラヴァッツォ),Peter(1893-1918):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、第3棟4室で洗濯屋を営んだ。1918年1月2日、腸チフスにより板東で死亡した。埋葬時の写真が遺されている【〔写真43〕参照】。ケルン(Köln)出身。(1856:丸亀→板東)
33) Czogalla(ツォガラ),Emil(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降し俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。ラティボア(Ratibor)近郊のヴェレンドルフ(Wellendorf)出身。(387:久留米)