1) Ebeling(エーベリング),Bruno(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。日本の収容所に収容された当初について、エーべリングの次の感想が知られている。「最初の二週間の待遇は実際良かった言えるでしょう。しかし、皆が「元気にしています」との便りを故郷に出してから、実に愛想のよかった日本人たちは、徐々に陰の部分を見せ始めました」【カール・クリューガー『クッツホーフから中国、日本へ』(Karl Krüger:Von Kutzhof nach China und Japan)33頁】。ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)出身。(2519:名古屋)
2) Ebeling(エーベリング),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・砲兵伍長。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、エーベリングは写真関係の部門に写真帳及び写真「青島とその周辺」を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』82-83頁】。解放後、蘭領印度に渡って機械工場会社に勤めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)出身。(1004:福岡→青野原)
3) Eberhardt(エーベルハルト),Albert(?-?):第3海兵大隊・伍長。久留米時代の1917年12月、エームンツ(Emunds)及びクリンケ(Klinke)と収容所交付の発信用紙の売買仲介により、重営倉の処罰を受けた。兵卒1ヶ月分(封書用紙1、葉書1)が40銭で売買されていた【『ドイツ軍兵士と久留米』17頁】。解放後、蘭領印度に渡った。デュッセルドルフ(Düsseldorf)出身。(3277:熊本→久留米)
4) Eberhardt(エーバーハルト),Rudolf(1891-?):第3海兵大隊・伍長。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、楽器部門でピアノを出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』79頁】。テューリンゲンのシュレンジンゲン(Schlensingen)出身。(2177:姫路→青野原)
5) Eberlein(エーバーライン),Friedrich(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。マイン河畔のフランクフルト(Frankfurt)出身。(1015:福岡→久留米)
6) Eberlein(エーバーライン),Fritz(?-?):測量艦プラーネット乗員・1等機関兵曹。1914年10月7日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが11月1日宣誓解放された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。プロイセンのブンツァウ(Bunzlau)出身。(4668:なし)
7) Ebert(エーベルト),Julius F.Chr.(?-?):第3海兵大隊第6中隊・後備2等歩兵。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放され、メルヒャース商会青島支店、及び済南支店に勤め、1925年時点ではPootung(浦東?)の中国メルヒャース商会(Melchers China Co.)に勤務した。ナーエ河畔のキルン(Kirn)出身。(1720:静岡→習志野)
8) Ebert(エーベルト),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1917年3月2日、岡本自転車製作所にフーベン(Huben)及びレンツェン(Lenzen)とともにニッケル鍍金の労役に就いた【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、21頁】。グライツ・ロイス(Greiz Reuss)出身。(1000:福岡→名古屋)
9) Ebertz(エーベルツ),Rudolf(1886-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・予備砲兵伍長。[青島船渠]。1912年1月カタリーネ(Katharine Henriette Charlotte Petri)と結婚し、娘エリーザベト(Elisabeth)をもうけた。青島時代は皇帝街(Kaiserstraße)に住んでいた。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したエーベルツは4組(出場者総数21名)の内の第2組に割り振られ、2位で本戦のA級に進出した。同年7月上旬、徳島収容所を脱走して海岸まで行き、鳴門海峡を泳いでとある島にたどり着いた。服を干していたところ、その白い肌に気付いた漁民により通報、逮捕されて収容所に連れ戻された。8月に禁固3ヶ月に処せられた。板東時代、1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、背泳ぎに出場して44秒で第1位になった。大戦中、妻と娘は天津で過ごした。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェッツラー(Wetzlar)出身。(4144:「大阪→」徳島→板東)
10) Eckart(エカルト),Hans(1892-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ドレスデン(Dresden)出身。(405:久留米)
11) Eckerich(エッケリヒ),Philipp(1893-1960):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。解放後は郷里に戻り、1922年6月2日ヨゼフィーネ(Josefine Burg;1889-1950)と結婚した。ラインガウのエットヴィレ(Etville)出身。(59:東京→習志野)
12) Eckert(エッケルト),Carl Fritz Walter(1891-1975):第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。[カルロヴィッツ商会天津支店]。久留米時代、シュタイツ(Wilhelm Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとエッケルトは、第1ヴァイオリンを受け持った。解放後にドイツへ帰国するが、後に再び中国へ渡り、1949年時点で広東に住んでいた。ドイツへ強制送還され、最終的にはシュタイアーマルク(Steiermark)に住んだ。ハルバーシュタット(Halberstadt)出身。(3270:熊本→久留米)
13) Eckhardt(エックハルト),Reinhold(?-?):糧秣集荷部・後備副曹長。応召前は香港で働いていた。松山時代、大林寺の収容所講習会で英語の講師を務めた。板東時代は公会堂での工芸品展に食肉加工品を出品した。また桧地区の大森重蔵にトマトケチャップの製造法を伝授した。シュトゥットガルト(Stuttgart)出身。(2842:松山→板東)
14) Eckoldt(エコルト),Hermann(?-?):第3海兵大隊第7中隊・副曹長。[広東ヴェーデキント商会(W.Wedekind & Co.)]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。エアフルト(Erfurt)出身。(1877:丸亀→板東)
15) Edel(エーデル),Joseph(1892-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。コンスタンツ郡のジンゲン(Singen)出身。(1009:福岡→青野原)
16) Edelmann(エーデルマン),Emil(?-?):国民軍・卒。[青島水道局機械管理主任]。1914年8月20日、第2国民軍卒として召集された。1915年1月14日に逮捕され、27日大阪収容所に収容された。同月29日、リッテルスト(Litterst)と協同で、非戦闘員であったことから解放を願い出たが不許可になった。妻ヨハンナ(Johanna)と娘マルガレーテ(Margarethe)は大戦中を天津で過ごした。解放後は中国へ渡り、天津ハルピン街のエードアルト・マイアー商会(Eduard Meyer & Co.)に勤務した。1938年には奉天に住んだ。ブレーメン(Bremen)出身。(4499:大阪→似島)
17) Eder(エーダー),Paul(1893-1969):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。解放されて帰国後、1921年4月9日に結婚した。ヴリュテンベルクのエーリンゲン(Oehringen)出身。(408:久留米)
18) Ederer(エーデラー),Alois(1886-1963):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[神戸・ジルバー・ヘークナー商会(Silber Hegner & Co.)]。1913年日本へ赴き、神戸の上記商会に勤めた。神戸から応召した。松山時代、公会堂の講習会で電気工学を講じた。解放後郷里に戻り、やがてベルリンに移った。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。レーゲンスブルク(Regensburg)出身。(2836:松山→板東)
19) Edler(エドラー),Hans Emil Peter(1889-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジーバー・ヘークナー社漢口支店]。1914年12月20日付けで、ハンブルクの親から東京の海軍省に、息子の安否を問い合わせる手紙が寄せられた【『戦時書類 巻58』より】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(2839:松山→板東)
20) Eggebrecht(エッゲブレヒト),Hans(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[イリス商会(C.Illies & Co.)神戸支店]。松山時代は公会堂に収容され、ベーアヴァルト(Bärwald)、シェーファー(Hermann Schäfer)及びシュタインフェルト(Steinfeld)の四人で通訳業務に当たった。ベルリン郊外のシュテークリッツ(Steglitz)出身。(2835:松山→板東)
21) Eggerss(エッガース),Hans-Herbert(1888-1974):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備伍長。準少尉ヴァルデマール・エッガース(Waldemar Eggerss)を父に生まれた。アビトゥーア試験合格後、1906年5月1日からハンブルクの商社で修業した。1908年10月1日、1年志願兵として野砲兵第1連隊乗馬部隊に入隊した。1909 年7月伍長、1909年11月4日イェプセン商会香港支店入社、1914年8月2日青島へ応召した。久留米時代は演劇活動で、シェーンタンとガーデルベルク作の喜劇『評議員殿』で女役を演じるなど8演目に出演した。また1919年10月24日に開催された「スポーツ週間」のBクラス80mハードルに出場し、12.9秒のタイムで第3位になった。【解放後の1920年、横浜のエストマン(Oestmann)商会に勤めた(?)】。解放後、広東の1920年イェプセン商会広東支店で勤務した。1921年6月ダルムシュタットの家族の元へ帰還、1922年2月1日からブレーメンの紡錘関係商社で勤務、1922年10月24日ベルリンの銀行家アルトゥール・シュレーダー(Arthur Schröder)の娘ルート(Ruth) と結婚して子供二人をもうけた。1922年から1930年にかけて、日本と中国へそれぞれ半年に及ぶ旅行をした。1933年からは紡錘業界の指導的な地位に就いた。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルクで没した。ブロンベルク(Bromberg)出身。(3279:熊本→久留米)
22) Eggert(エッゲルト),Alexander(?-?):第3海兵大隊第3中隊・副曹長。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ケーニヒスベルク(Königsberg)出身。(2834:松山→板東)
23) Eggert(エッゲルト), Franz(1883-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。馬具職人の父ヴィルヘルム(Wilhelm)と母ヴィルヘルミーネ(Wilhelmine)との間に1883年に生れた。短期間、漁業に従事した。1914年7月、日本の蒸気船の船乗りとなったが、8月に応召して青島に赴いた。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。解放後は、ヒマラヤ丸で帰国した。1920年3月20日海軍を除隊し、12月5日、ザスニッツ(Saßnitz)港湾鉄道に、その後シュトラールズント港湾鉄道に従事した。1912年、未亡人のアンナと結婚した。ポンメルンのミルチョウ(Miltzhow)出身。(1005:福岡→久留米)
24) Egyptien(エギュプティエン),Josef(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1914年1月10日、パトリツィア号で膠州に着き、そこから天津の衛兵所に赴いた。1919年10月、将来の国籍決定のために一足先に解放され、10月28日横浜から帰国の途につき、12月29日にマルメディー(Malmedy;今日はベルギー領)に着いた。オイペン(Eupen)近郊のヘルベスタール(Herbesthal)出身。(4495:大阪→似島)
25) Ehegötz(エーエゲッツ),Karl Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。1919年1月21日、流行性感冒のため広島衛戍病院に入院し、1月26日に同病院で解放された【『戦役俘虜ニ関スル書類』附表第六号の「俘虜患者解放者一覧表」より】。ザクセンのランゲンザルツァ(Langensalza)出身。(3884:大阪→似島)
26) Ehlers(エーラース),Karl(?-?):第3海兵大隊第2中隊・軍曹。板東時代は収容所で、ハイスター(Heister)と共同で風呂屋(シャワー室)を営んだ。1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、エーラースは126点を獲得して古参選手の部の第2位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。1917年3月24日、及び1919年12月26日(神戸から)付けで妻に宛てた葉書が現存している。メクレンブルク=シュヴェーリンのマルロウ(Marlow)出身。(1872:丸亀→板東)
27) Ehlert(エーラート),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。[植木職人]。丸亀時代の1916年11月6日、ヨーゼフ・ボート(Josef Both)とともに自殺を企てたが未遂に終わった。収容所内の夾竹桃の葉を煎じて服用する方法だった【『機密日誌 丸亀俘虜収容所』より】。また23日にはボートと逃亡を企て、懲役1年6ヶ月の刑を下されて高松監獄に収監された。1917年10月19日、高松監獄から郷里の姉妹に宛てて手紙を書き、スイス人のフンツィカー牧師にそれを託した。その手紙は逃亡の事実を語るものであるが、ドイツ語に英語、日本語、ローマ字を交えた判読しがたいものである【『自大正三年至大正九年 俘虜ニ関スル書類』より】。ダンチヒ(Danzig)出身。(1876:丸亀→板東)
28) Ehmann(エーマン),Heinrich(1892-1962):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。1916年10月18日福岡から大分へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハイルブロン(Heilbronn)出身。(1002:福岡→大分→習志野)
29) Ehrenreich(エーレンライヒ),Wilhelm(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。解放後は蘭領印度に渡って、商会に勤めた。ハーフェル河畔のブランデンブルク(Brandenburg)出身。(3283:熊本→久留米)
30) Ehrhardt(エーアハルト),John Theodor(1894-1950):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。【1981年当時ハンブルクに在住していた写真家藤井寛氏は、エーアハルトの妻エリーゼ(Eliese)から、エーアハルトの遺品である「写真帖」を入手し、その貴重な写真を「新発掘 70年前の俘虜収容所」の記事の中で発表した(『毎日グラフ』昭和59年11月11日号)。以下はその記事及び『大阪俘虜収容所の研究』からの情報である。写真はごく一部が似島の写真であるが、他の30枚の写真は全て大阪俘虜収容所で写されたものである。ヴァイオリンを手にするエーアハルトを始め、似島収容所の俘虜等37名が広島高等師範学校の校舎の前で写っている集合写真がある【藤井『エアハルト・アルバムと大阪俘虜収容所』28頁;所載『大阪俘虜収容所の研究 ―大正区にあった第一次大戦下のドイツ兵収容所―』。撮影日は、シュルツェ(Helmut Schulze)の証言から、広島県物産陳列館で「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」が開催された1919年3月4日から12日の期間と思われる。前列の中央の椅子に掛けていて、右足に×印があるのがエーアハルト。他には、メツガー(Metzger:前列左のチターを膝に置いている)及びシュルツェ(Helmut Schulze;中列左から6人目の白服でネクタイ姿)が判明している】。他には、本国から届いたクリスマス・プレンゼントの受領、日本人理髪師による散髪、ドイツ風の雪だるま、大阪及び似島での芝居風景、収容所内の売店、似島のポンプ場風景等33枚である。写真には、大阪収容所で結成された「第2フットボール・チーム」のイレブン11名が写っている写真(裏面には、「郵便はがき」の文字がある)もある。なお、この中には、ヴァルツァー(Walzer)の遺品中の写真と同じ写真が8枚見られる。「『写真帖』と私」と題された藤井氏の文章によれば、エリーゼはドイツから収容所にいるエーアハルトに手紙を書き送り、1916年7月22日にエーアハルトに宛てて送った、エリーゼと料理学校での女友達と並んで撮ったスナップ写真の葉書が遺されている。1924年に二人は結婚し、一男五女に恵まれた。エーアハルトはハンブルクで運送業を営んでいたが、1950年12月8日に路面電車に轢かれて死亡した】。ブレーメン(Bremen)出身。(3885:大阪→似島)
31) Ehrich(エーリヒ),Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。[パン職人]。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。エッケルンフェルデ近郊のハルフェ(Harfe)出身。(1006:福岡→久留米)
32) Eich(アイヒ),Philipp(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・砲兵伍長。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で額縁2点を出品した。オーストリアのビュルモース(Bürmoos)出身。(3882:大阪→似島)
33) Eichele(アイヒェレ),Fritz(?-?):第3海兵大隊第4中隊・上等歩兵。熊本時代、1915年1月20日から5月27日まで、縫靴工として従事し労賃を得た。シュトラースブルク(Strassburg)出身。(3271:熊本→久留米)
34) Eichmann(アイヒマン),Peter(?-?):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ギロート(Girod)出身。(1007:福岡→習志野)
35) Eidmann(アイトマン),Heinrich(1883-1956):第3海兵大隊工兵中隊・後備上等工兵。[山東鉄道鉱山部採鉱夫]。妻と息子は1914年12月25日に「コリア号」でドイツに帰国した。上部ヘッセンのメッツロース(Metzlos)出身。(4348:「熊本→」大分→習志野)
36) Eilers(アイラース),Heinrich(?-?):国民軍・階級不明。[職工長]。青島時代は小港通(Kleiner Hafenweg;日本の占領統治時代も小港通)に住んでいた。妻メータ(Meta)は二人の子どもとともに大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。オルデンブルクのブランケ(Blanke)出身。(4498:大阪→似島)
37) Eise(アイゼ),Theodor(1891-1974):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。解放されて帰国後の1920年に、最初の結婚をした。1940年5月5日、二度目の妻マリー(Marie Freymann;1895-1972)と結婚したが子どもはいなかった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。上部ヘッセンのショッテン(Schotten)出身。(4497:大阪→似島)
38)
Eisenbeiss(アイゼンバイス),Lothar(1889-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備伍長。久留米時代、1919年2月2日の「音楽の夕べ」に出演した。ニュルンベルク(Nürnberg)出身。(3280:熊本→久留米)
39)
Elle(エレ),Erich(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。1916年4月11日、フォーゲルフェンガー(Vogelfänger)の誕生祝に招かれた。その折に食べたウサギの肉が、愛犬シュトロルヒ(Strolch)の肉であったかのようにフォーゲルフェンガーの日記に記述されている【『ドイツ兵士の見たニッポン』154頁】。デュッセルドルフ(Düsseldorf)出身。(62:東京→習志野)
40)
Emmerling(エッマーリング),Peter(?-?):第3海兵大隊第2中隊・伍長。板東時代、工芸品展に真鍮製のシャンデリアを出品して、俘虜仲間に往時の生活を懐かしく偲ばせた。大戦終結して解放後、蘭領印度のパレンバンに渡った。ラインプファルツのカイザースラウテルン(Kaiserslautern)出身。(1873:丸亀→板東)
41) Emoan(エーモアン),Dr.Max(1887-1915):第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。熊本時代(西光寺に収容)の1914年12月14日、西光寺を脱柵して阿弥陀寺に至ったた科で、憲兵留置所で重謹慎2日の処罰を受けた。1915年7月21日の晩に久留米で死亡、23日に久留米山川陸軍墓地に埋葬された。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所W―』(2007)18頁には、エモアンの墓標を写した写真が掲載されている。なお、大戦終結後の1920年1月16日、遺骨はドイツ側委員に引き渡された【『欧受大日記』大正十三年三冊之内其一、附表第一「埋葬者階級氏名表」より】。上部バイエルンのトロスベルク(Trossberg)出身。(3268:熊本→久留米)
42) Emunds(エームンツ),Hermann(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1917年12月、エーベルハルト(Eberhardt)及びクリンケ(Klinke)と収容所交付の発信用紙の売買仲介により、重営倉の処罰を受けた。兵卒1ヶ月分(封書用紙1、葉書1)が40銭で売買されていた【『ドイツ軍兵士と久留米』17頁】。また、シュタイツ(Wilhelm Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとエームンツは、楽団事務係りの役割を担った。演劇活動では、ハウプトマン作の喜劇『同僚クランプトン』等2演目に出演した。ケルン(Köln)出身。(406:久留米)
43) Endrey(エントライ),Josef(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、模型部門で「軍艦皇后エリーザベト」及び「三本マストの帆船」を、楽器部門では2800本のマッチを使用したヴァイオリン3点とチェロ、ティンバル(ハンガリー楽器)、さらに木工部門としてビリヤードを出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』78-79及び81頁】。ハンガリーのニュイルバトル(Nyirbator)出身。(2178:姫路→青野原)
44) Engel(エンゲル),Emil(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[商人]。青島時代はヴィルヘルム皇帝海岸通(Kaiser-Wilhelm-Ufer)に住んでいた。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時32歳)、2時間33分30秒5分の2で41位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。また1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、抜き手に出場し44.1秒で第3位になった。ベルリン(Berlin)出身。(2838:松山→板東)
45) Engel(エンゲル),Heinrich Mathias(1887-1957):第3海兵大隊第3中隊・後備曹長。1887年1月17日、鉱夫ハインリヒとその妻エリーザベトとの息子として生まれた。大阪時代の1915年4月、福岡のマイレンダー(Mailänder)に宛てて葉書を出した。葉書は大阪城を写した絵葉書で、裏面には「上田○」の印鑑が押されている【マイレンダーの項参照】。また1915年9月9日、真田山陸軍墓地で執り行われたヘルマン・ゴル(Hermann Goll)の葬儀に参列した。。1957年7月9日、ザールブリュッケンで死去。ザールブリュッケン(Saarbrücken)出身。(4493:大阪→似島)
46) Engel(エンゲル),Paul(1881-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[上海居留地工部局音楽隊員・ヴァイオリン奏者]。1912年10月2日、前記音楽隊に加入した【榎本泰子氏の探索による「1912年版上海工部局年次報告書(英文;上海市档案館所蔵)」より。隊長はハンス・ミリエス(Millies)であった】。1914年12月15日、在上海総領事から外務大臣宛に、上海租界の代表から、指揮者ミリエスとその楽団員であるエンゲル、ガーライス(Gareis)及びプレフェナー(Pröfener)は非戦闘員なので解放せよ、との申し入れがあるとの信書が出されたが、軍籍があることから不許可になった。丸亀時代の1915年7月8日、第1ヴァイオリンのエンゲル、第2ヴァイオリンのモルトレヒト(Moltrecht)、第3ヴァイオリンのライスト(Leist)、第1フルートのヘス(Hermann Hess)、第2フルートのヤーコプ(Jacob)及びオルガンのクラーゼン(Claasen)の6人によって「エンゲル・オーケストラ」【当初は「丸亀保養楽団」の名称で、1915年1月10日に第1回演奏会が開かれた「寺院楽団」の後継楽団】が成立した。その折エンゲルはベートーヴェンの「ニ長調ヴァイオリン協奏曲」を独奏した。10月22日の「保養楽団」の第5回演奏会では、サラサーテ「ツィゴイネルヴァイゼン」を独奏した。1916年10月21日、高松師範学校他県立の四つの学校の音楽教師の希望により、シュタインメッツ(Steinmetz)と丸亀高等女学校で模範演奏を行った【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。1917年板東に移された後、松山からの俘虜を加え団員は45人になった【〔写真16〕参照】。1番札所の霊山寺等で練習し、やがて遍路宿で地元の青年達に楽器のてほどきをした。板東では17回の演奏会、3回のシンフォニー、2回の「ベートーヴェンの夕べ」で指揮を執った。松江豊寿所長の理解もあって徳島市内で出張指導をするようになり、「エンゲル音楽教室」と言えるものを開設した。当初場所は公会堂であったが、やがてメンバーの一人であった立木真一の自宅、立木写真館の2階に練習場を移した。エンゲルの帰国に際しては、徳島の一流料亭「越後亭」で何度も送別の宴が開かれた。『青島戦士行進曲』(Tsingtaukämpfer-Marsch)や『シュテッヒャー大尉行進曲』を作曲し、またラムゼーガー(Ramseger)【ラーン(Laan)の項を参照】作曲の『忠臣蔵』の指揮・演奏もするなど、ハンゼン軍楽曹長とともに、板東俘虜収容所での音楽活動では多大の功績を果たした。妻ベルタ(Bertha)は大戦終結まで上海で暮らした。防衛研究所図書館所蔵の史料によると、パウル・エンゲルは1920年1月23日に加答児性肺炎のために入院し、1月26日に徳島市古川(こかわ)病院で解放された、と記されている【参照:『戦役俘虜ニ関スル書類』(俘虜取扱顛末)】の付表6「俘虜患者解放者一覧表」】。また、前掲史料の付表36の「獨墺洪國俘虜引渡区分表」の備考欄に、「板東収容所蘭領印度渡航者(27日)中兵卒1名ハ病気ノタメ前日(1月26日)徳島市古川病院ニ於テ引渡シ且ツ付添として[1月26日家族船ニヨルモノニシテ日本内地ニ用弁者]中ノ兵卒1名ト同時ニ引渡セリ」との記述がある。【ジャカルタで発行された『ドイツの守り』(Deutsche Wacht)の1922年第5号には、蘭領印度におけるかつてのチンタオ戦士、及び日本の収容所俘虜の名が掲載されているが、ジャワ島中部のジョクジャカルタ在住として「P.Engel」の名が見られる【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏によれば、エンゲルはジョクジャカルタに在住し、北メルデカ(Merdeka)のデカパルク(Decapark)楽団で演奏に従事した。「蘭領印度に関する年鑑」の1925年版では、住所としてジョクジャカルタの「Gevabgenislaan129」と記載さているとのことである。 なお、星昌幸氏の調査によれば、デカパルクは遊園地の名前である】。香川県丸亀市においては2001年9月8日に、赤垣洋氏を中心とした「エンゲル祭実行委員会」による「エンゲル祭」が開催され、ドイツ総領事館からの出席者も迎えて、講演会・音楽会等多彩な行事が行われた。翌2002年9月7日にも第2回「エンゲル祭」が開かれ、2003年12月14日には第3回エンゲル祭として、ドイツから贈られた菩提樹の苗木の植樹祭が執り行われた。2004年夏、ファン・デア・ラーン氏の探索によって、エンゲルの「自伝」が発見された。板東俘虜収容所内で発行された、1919年6月19日付けの「ビール新聞」(Bier-Zeitung)に掲載されたエンゲルの短文は、独特のユーモアに満ちた文章である。小阪清行氏とファン・デア・ラーン氏による共訳(協力:シュテファン・フーク及び瀬戸)が「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページ中のメール会報78号に掲載されている。以下がその「自伝」である。「私は1881年6月5日に生まれ、そのすぐ後にこの世の光を仰いだ。6歳のとき、木のつっかけを履いて学校へ通い始めた。私の苦手は算数で、宿題は母にやってもらっていた。ある日のこと、私は宿題でちゃんと解いて行った問題を、もう一度黒板に書かされることになった。早い話が、私はそれが出来なかった。先生は私に一発喰らわした。その時私は音楽家になりたいなどと言った。だから算数はいらないんだ。 学校を終える前に、父が将来何になりたいのか、と訊いた。そして、鍛冶屋か音楽家かのどちらかを選べ、と言った。それで私は音楽家になった。18歳で私は軍楽隊に入った。私は第101連隊で軍隊勤務をした。我々の軍楽隊長は卑劣な男だったが、しかし、これは大事なことだったのだが、演奏・指揮はきちんとしていた。私は彼の従卒だったが、ある日女中と一緒にいるところを彼のかみさんに見つかってしまった。そして、早い話が、私はお払い箱になった。そこで私の良き時代は終わりを告げ、今や下士官たちは卑劣になった。兵役を終えた後、私はヴァイオリンの勉強を続けた。それからいろんなオーケストラや楽団、例えば「いわゆるオーケストラ」、「劇場楽団」、「湯治場楽団」、「インディアン楽団」やその他の楽団などで演奏活動を行った。しかしピリットしたところがあまりに少なかったので、私は自分で店を開いて、自分がカフェのヴァイオリン弾きになった。私はいろんな国に行ったことがある。フィンランド、ロシア、オーストリア、そしてバルカン諸国。言葉を学んだりはしなかった。私はいつも思っている、「音楽家というのは、耳さえあれば、どんな馬鹿だって・・・」と。1912年に私は中国に向かい、上海楽団で音楽に携わった。戦争が勃発して、私はわが国王の要請に応じてチンタオに行った。チンタオ占領後、日本の収容所に入れられた。私はまず丸亀のオーケストラを1917年まで指揮し、そして今は私の名前のついた板東のオーケストラの指揮者である。私は彼らをすなわち、「硬いBが前についたエンゲル・オーケストラ」と名づけている」。上記「自伝」に加えて、松尾名誉教授によるドレスデン市への問い合わせから、エンゲル出生の公的資料が入手され、長いこと疑問にして不明であったエンゲルの実像の一部がようやく明らかになった。2006年9月、東京の郵趣家大沼幸雄氏所蔵のパウル・エンゲル書簡が、「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」を通じて陽の目を見た。小阪清行氏の訳・注が上記研究会ホームページで公開された。書簡は1919年10月1日に板東俘虜収容所から、ティッセン・クルップ社東京支配人ヴィルヘルム・ラントグラーフに宛てたものである。その手紙によればエンゲルは、ラントグラーフを通じて大連の南満州鉄道会社に職を得ようとしたが失敗し、新たに東京での職の斡旋を依頼する内容である。手紙の末尾には、お雇い外国人教師として当時東京音楽学校で教えていたグスタフ・クローン教授にも斡旋の依頼をしていたと思われる。ドレスデン(Dresden)出身。(1880:丸亀→板東)
47) Engel(エンゲル),Reinhold(1894-1942):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。解放後の1920年、蘭領印度に渡った。オランダ人農園主の娘と結婚して子ども数人をもうけた。1940年5月収容所に収容された。1942年1月、他の477名の市民捕虜とともにオランダ船「ヴァン・イムホフ(van Imhoff)」で英領印度へ移送されたが、1942年1月19日スマトラ島沿岸で、日本軍戦闘機の爆撃を受けて沈没した。オランダはドイツ人捕虜たちの救助を拒んだために400人以上の死者が出て。その中にラインホルト・エンゲルも含まれていた。ボルステルの両親の家は、エンゲル未亡人によって戦後売却された。ハノーファー近郊のボルステル(Borstel)出身。(3275:熊本→久留米→板東)
48) Engelhardt(エンゲルハルト),Paul(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、ヴォッタース作の笑劇『燕尾服のレアンダー』の演出をするとともに女役で出演し、その他含めて37演目に出演する大活躍をした。1919年10月24日に開催された「スポーツ週間」のBクラス80mハードルに出場し、12.7秒のタイムで第1位になった。マイン河畔のフランクフルト(Frankfurt)出身。(410:久留米)
49) Engelhorn(エンゲルホルン),Dr.Friedrich(1886-1956):第3海兵大隊第5中隊・後備副曹長。父(Friedrich August Engelhorn;1855-1911)は、ルードヴィヒスハーフェンでバーデン・アニリン及びソーダー製造会社を興した大実業家にして商業顧問の称号を有し、母の名はマリー(Marie Friderike;1886-1953)であった。ミュンヘン及びシュトラースブルクで化学を学び、1913年に学位を取得した。ローマン(Lohmann)の遺品中には、エンゲルホルン、ローマン、カルクブレンナー(Kalkbrenner)、ヤンゼン(Jansen)、シュテフェンス(Walter Steffens)、シュテーゲマン(Stegemann)の六人が、冬の陽だまりの中、収容所の建物内の縁側と思われるところに、思い思い居並んでいる写真【〔写真7〕を参照】、及びまた、自分の阿屋とも思われる家の窓辺から外を眺めている写真が遺されている【ローマンの項参照】。1919年(大正8年)頃、落合化学で通訳として働いていたゼンクバイル(Senkbeil)の要請を受けて、化学技術の専門家であったエンゲルホルンは、金液事業で落合兵之助と共同研究を始めた。落合兵之助とエンゲルホルン及びゼンクバイル等の俘虜6名が一緒に写った写真が、落合化学の後身日本金液所蔵で残されている【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、54頁】。大戦終結後も日本内地契約成立者として日本内地で解放され、落合化学に就職した。その後も金液の製作に励んだがやがて帰国を考えて、後任として久留米収容所にいたメルク(Merck)を推薦した。メルクはエンゲルホルンの大学時代からの友人で、ドイツのダルムシュタットにある医薬・工業薬品会社メルク(E.Merck)社の社長の息子であった。メルクも3ヶ月ほど落合と共同研究をした後、エンゲルホルンと一緒に帰国して、メルク社の専門技術者であるペテルセンを派遣した【校條「名古屋俘虜収容所 覚書U」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号65-68頁】。帰国後の1925年、アンネマリー(Annemarie Clemm;1899-1981)と結婚して、二男一女をもうけた。マンハイム(Mannheim)出身。(2513:名古屋)
50) Engels(エンゲルス),Franz(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[ジーメンス=シュッケルト社上海支店]。アーヘン(Aachen)出身。(1878:丸亀→板東)
51) Engler(エングラー),Georg(1886-?):第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。[上海・同済医療技術専門学校体育及びドイツ語教師]。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。久留米時代の1915年10月4日、「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)」が設立されたが、その後まもなくエングラーの指導の下で、下士官と予備役兵からなる「下士官体操クラブ(Unteroffizier-Turnverein)」設立に尽力し、1918年8月5日久留米から名古屋に収容所換えになるまで指導者を務めた。『ドイツ・トゥルネン新聞(Deutsche Turn-Zeitung)』の1916年11月9日付け45号に、「日本におけるドイツ・トゥルネン」と題された記事の中で、本国の友人に宛てた手紙が紹介された【山田理恵『俘虜生活とスポーツ』145頁】。1917年8月、ドレスデン市の弁護士から情報局へ、エングラーの祖母死亡による遺産処分の件で、在京スイス公使館から転送方の依頼があり、検閲の上8日に本人へ転送された。エングラーが名古屋へ移ってから、名古屋収容所のトゥルネン活動が活発になったことが、ハルトゥング(Hartung)の「名古屋(日本)収容所俘虜のドイツ人トゥルネンに関する報告」に記されているとのことである。また、ベッカー(Becker)、デーネケ(Deneke)及びキューン(Wilhelm Kühn)とともに、トゥルネンの指導者の一人であったことが、「名古屋俘虜製作品展覧会」のカタログに記されている。『ドイツ兵捕虜と収容生活―久留米俘虜収容所W―』(2007)151頁には、エングラーがドイツの父親に宛てた葉書が紹介されている。ドレスデン(Dresden)出身。(3276:熊本→久留米→名古屋)
52) Ensslin(エンスリン),Carl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等機関兵曹。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1919年5月24日、習志野合唱協会の「歌曲の夕べ」ではハイメンダール(Heimendahl)少尉、ベヒトルスハイム(Bechtolsheim)大尉及びヴィーダー(Wieder)2等歩兵でシュヴァーベン民謡の「選ばれし者」を四重唱し、メンデルスゾーンの「夕べの歌」をベヒトルスハイム大尉と二重唱した。ゲッピンゲン(Göppingen)出身。(1003:福岡→習志野)
53) Epe(エーペ),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第4中隊・伍長。久留米時代、シュタイツ(Wilhelm Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとエーペは、第2ヴァイオリンを受け持った。ヴェストファーレンのグレーフェンブリュック(Grevenbrück)出身。(3269:熊本→久留米)
54) Erb(エルプ),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュヴァルンゲン(Schwallungen)出身。(407:久留米)
55) Erbe(エルベ),Karl(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等砲兵。ローマン(Lohmann)ないしはシュテーゲマン(Stegemann)の遺品の中に、エルベがねずみの尻尾を掴んでぶら下げている写真、及び囲いの中で腰を屈めて鶏に餌を与えている写真が現存している【シュテーゲマンの項参照】。マイン河畔のフランクフルト(Frankfurt)出身。(2518:名古屋)
56) Erdmann(エルトマン),Gustav(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1915年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。解放後は蘭領印度に渡って、ジャワ島中部スマランのバルマー(Barmer)輸出協会に勤めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(1008:福岡→青野原)
57) Erdniss(エルトニス),Heinrich(1882-?):総督府・上級書記官(中尉相当)。1906年5月陸軍経理部に就職した。青島時代は皇帝街(Kaiserstraße)に住んでいた。1915年12月12日付けの『徳島新報』(Tokushima-Anzeiger)第2巻第12号に、フランスのアルゴネン山脈で負傷した弟の予備少尉が衛戍病院で記した、エルトニス宛の野戦郵便による長文の手紙が掲載された。徳島時代の1916年6月、「単独逃走ノ企図セシ科」で重謹慎30日に処せられた。板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのダブルスで、ヴェストファール(Westphal)2等歩兵と組んでBクラス2位になった【『バラッケ』第2巻211頁】。リンブルク郊外のハーダマー(Hadamar)出身。(4143:「大阪→」徳島→板東)
58) Erkens(エルケンス), Peter(1892-1959): 第3海兵大隊機関銃隊・2等兵。ケルン地区のブルッフハウス(Bruchhaus)出身。(2516:名古屋)
59) Erlebach(エルレバッハ),Bernhard(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[北ドイツ・ロイド汽船(Norddeutscher Lloyd Dampfer)アイテル・フリードリヒ皇子号(Prinz Eitel Friedrich)乗員]。「チンタオ戦友会」に出席した。ゲーステミュンデ(Geestemünde)出身。(2837:松山→板東)
60) Ernst(エルンスト),Adolf(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ビーレフェルト(Bielefeld)出身。(3278:熊本→久留米)
61) Esser(エッサー),Franz(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1918年12月4日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、上級・中級の審判を務めた。M.グラートバッハ(Gladbach)出身。(3282:熊本→久留米)
62) Esswein(エスヴァイン),August(?-?):第3海兵大隊第2中隊・予備2等歩兵。[赤十字薬局]。青島時代はハンブルク街に住み、勤務していたハインリヒ皇子街(Prinz-Heinrich-Straße)130番地の赤十字薬局に通っていた。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。また1960年頃にも、「チンタオ戦友会」に出席した。シュトラースブルク(Strassburg)出身。(2517:名古屋)
63) Esterer(エステラー),Maximilian(1880-1956頃):海軍膠州砲兵隊第3中隊・予備掌砲副曹長。[技術者]。1900年過ぎ、青島のジーメンス商会に勤務した。休暇で帰国中の1904年頃、ヨハンナ(Johanna Meißner)と結婚して息子5人、娘2人をもうけた。1914年11月7日未明、銃火を潜り抜けてビスマルク山頂砲台の自爆を成功させた。大阪時代の1916年、「12月28日他俘虜ニ託シ又翌年ノ1月6日他俘虜ノ名ヲ以テ秘密通信ヲ企図シタル科」で重謹慎30日に処せられた。アルテルト(Artelt)、モーラヴェク(Morawek)、シャウムブルク(Schaumburg)の4人で大阪と似島の両収容所から脱走を企て、似島からの脱走では、アルテルトとエステラーの二人は3年、モーラヴェクとシャウムブルクは2年半の刑を受け、日独講和を受けての特赦で釈放された1920年1月15日まで、広島の吉島刑務所に服役した。エステラーは大阪時代、脱走を企てないとの誓約書への署名を拒否して、手紙の送信・受領、所内の散歩及び所外への遠足等禁止の制約を受けていた。妻ヨハンナと6人の子(うち三人は12歳以下、三人は12歳以上の息子)は大戦終結まで上海で暮らした。解放されて帰国後に予備少尉に任じられた。1927年以降はポツダムに住み、やがて再びジーメンスに勤めた。1935年、ポツダムで二度目の結婚をした。息子のライナー(Rainer)は元俘虜のカール・シュタイガー(Karl Staiger)の孫娘と結婚した。バイエルンのアルテッティング(Altötting)出身。(3886:大阪→似島)
64) Ettinger(エッティンガー),Carl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1914年12月25日、妻マルタ(Martha)と子ども達はコリア号で帰国した。1938年時点で、妻と北京に住んだ。シュレージエンのヴァルデンブルク(Waldenburg)出身。(4350:大分→習志野)
65) Ettingshaus(エッティングハウス),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊・予備1等砲兵。[青島膠海関]。青島税関の膠海関に勤め、ドイツ街に住んでいた。大戦終結して解放後、蘭領印度に渡って商会に勤めた。ヴィースバーデン(Wiesbaden)出身。(3284:熊本→久留米)
66) Euchler(オイヒラー),Otto(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。[東京ドイツ大使館]。板東時代の1917年12月、懸賞作文募集に「晩秋」で二等賞を受賞し、賞金3円を獲得した。1918年6月21日には、「農地改革 社会的困窮からの解放のための考え方」と題して講演し、板東収容所印刷所から『社会問題についての三つの講演』を出版した。1919年2月7日には、「柔道、日本の格闘技」の写真展を開いた。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時31歳)、2時間30分14秒5分の4で85人中の第26位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。ゴータ(Gotha)出身。(2841:松山→板東)
67) Euler(オイラー),Ludwig(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。応召前は上海に住んでいた。解放後は蘭領印度に渡って商会に勤めた。ヘッセンのブツバッハ(Butzbach)出身。(1881:丸亀→板東)
68) Euler(オイラー),Otto(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・予備副曹長。[帆製造工]。青島時代は小港通(Kleiner Hafenweg)に住んでいた。ヴェストファーレンのアルンスブルク(Arnsburg)出身。(3887:大阪→似島)
69) Eulitz(オイリッツ),Robert(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・1等歩兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1917年9月5日、岡善鋳物工場から9月1日付けでオイリッツ及びミヒャエリス(Michaelis)の労役中止の報告が収容所に提出された【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、27頁。『俘虜名簿』では「Otto Eulitz」と記載されている】。ザクセンのグリンマ(Grimma)出身。(1013:福岡→名古屋)
70) Eulner(オイルナー),Ludwig(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東では「ドイツ兵墓碑」の建設にあたって石積み工事を担当した。また工芸品展ではオルロープ(Orlob)及びルートヴィヒ(Ludwig)と共同で、ドイツ軍が西部戦線で捕獲した戦車の模造品を製作・出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインプロヴィンツのヴルフラート(Wülfrath)出身。(1875:丸亀→板東)
71) Evers(エーファース),Hans(?-?):国民軍・卒。[シュミット(F.H.Schmidt)建築事務所設計技師]。1915年9月20日、青島から大阪収容所に移送された。解放後は満州の大連に赴き、南満州鉄道会社に勤めた。1925年には大連薩摩町に居住した。メクレンブルクのボイツェンブルク(Boizenburg)出身。(4676:大阪→似島)
72) Evers(エーファース),Richard(?-?):第3海兵大隊第2中隊・予備上等歩兵。[カルロヴィッツ漢口支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、神戸のカルロヴィッツ神戸支店に勤めた。オイティン(Eutin)出身。(2515:名古屋)
73) Ewald(エーヴァルト),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊・後備副曹長。[徳華高等学堂]。青島時代はベルリン街に住んでいた。ハノーファーのニーンシュタット(Nienstadt)出身。(2843:松山→板東)
74) Ewald(エーヴァルト),Josef(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ゾーリンゲン(Solingen)出身。(1014:福岡→名古屋)
75) Ewert(エーヴェルト),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[ドイツ・アジア銀行(Deutsch- Asiatische Bank)上海本店]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヒルデスハイム(Hildesheim)出身。(1879:丸亀→板東)